真田隠岐守信尹
真田隠岐守信尹 ・・・家康側で真田家の行末を按じた昌幸の弟
武士9 真田幸隆の四男で生没年は不祥。
元服して甲斐武田家の家臣となる。 この時、名門加津野氏の名跡を継ぎ、「加津野信昌」と名乗る。 武田勝頼に仕え、鑓奉行(騎馬15騎、足軽10人を持つ)となり、 数々の合戦で武功を挙げた。永禄12年(1569)には、北条綱成の深沢城を攻め、綱成の指物「黄八幡旗」を奪っている。

天正10年(1582)3月、仕えていた武田氏が滅亡した。 それを機に加津野信昌は本姓に戻り「真田隠岐守信尹」と名乗った。 主家滅亡後の武田家の旧臣は、かなりの人数が徳川家に仕えたが、信尹も同様に徳川家の家臣となる。 以降、小田原の役、大阪の陣では徳川家の使番を勤めた。 加えて大阪の陣他で事ある毎に、たびたび昌幸・幸村を訪れては徳川方への帰順を訴えた。 が、その思いはついに最後まで通らなかった。 信尹の努力空しく、昌幸・幸村は最後まで徳川方と争ってその生涯を終えた。


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Last up 2000/04/26
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