矢沢薩摩守頼綱・但馬守頼康
矢沢薩摩守頼綱
武士13 真田幸隆の弟であり、昌幸の叔父にあたる。
「新武内伝」には、矢沢家は代々信州先方衆で諏訪家の別れとしている。
頼綱は幼い頃出家して僧になるが、生来の武辺者である性格は治らず、寺を追放される。 里に帰った頼綱は、矢沢の郷に住み、後に矢沢家を継いだ。 腕っ節は強く、争い事になると真っ先に駆け込んで、長刀を振り回し、荒武者どもを蹴散らした。 最初は「武田氏」に従属していたが、滅亡後は「真田昌幸」に従い、旗本に取り立てられた。
天正8年(1580)真田昌幸が沼田城を攻撃した時の総大将に抜擢された。 そしてその活躍が認められ、落城後の沼田城の城代に任命されている。 第一次上田合戦の折りも沼田城代として守りを固め、その後北条方に沼田城を明け渡すまで、沼田城を守り通している。
慶長2年(1597)5月、真田家一門の名将として惜しまれながら80歳で没した。

矢沢但馬守頼康
武士26 頼綱の子で幼名を三十郎という。
父親ゆずりの武勇で上田合戦の時もその活躍はめざましかった。 「新武内伝」では、次のような話が残っている。
『後世になって真田信之と大久保公が話をした際、話が神川の戦いの話になった。 大久保はその時の敗走の中で、痛烈に追撃してくる敵方武将を覚えていて、それは信之殿だったのかと振り返った。 すると信之は、いやそれは私ではなく家臣の矢沢但馬守であるという。 怪訝な顔をしている大久保公にさらに信之はこう言った。 元来私は追撃戦は下手なのです。そんな見事な追撃を見せたのは、但馬守に間違い無いと』
大久保忠世はその時、散々に追いまくられたという。頼康の武者振りがうかがえる逸話である。 矢沢頼綱−頼康親子はまさに真田家の支柱となった重臣だった。最後は信之に仕え、大阪夏の陣では東軍の将として働いた。


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  真田太平記によると・・・
 
矢沢薩摩守の槍は名槍「小焼松」といい、槍の穂先が松明のように光った事でこの名がついた。 信長没後、頼綱は沼田城に攻めてきた北条氏邦らを、寡兵をもって自らこの槍をふるって撃退する。 昌幸はこの時は少しも慌てず「薩摩守がすることは、おれと同じことだ。 あの叔父ごが負くるなら、おれが沼田にいたとて負くることになるわ」と平然としていた。   (2004/01/10)





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