++ 謙信を嘆かせた戦国一の謀将 ++

真田幸隆
真田 弾正 幸隆
sanada danjyo yukitaka
(1513〜1574)


武士18(253バイト)
おおっ、おなつかしや、幸隆公。むぅ、幸隆公を知っている人はかなりの真田まにあな方でござろう。 しかし、真田家の楚を作ったのは、まぎれも無く幸隆公でござる。 それでは、幸隆公について語るとしよう。 某は、幸隆公に長く仕えていたわけではござらんので、詳しくは分からぬが、 まず、世に聞こえる幸隆公の風評は、「謀将のイメージ」であろう。 う〜ん、確かにあまりいいイメージではござらん。 が、一つ聞いて欲しい。

幸隆公は「義」を重んじた、御仁でもあったことは確かである。
わしはな、1度だけ幸隆公と話したことがあるのじゃが、 この時代、この立場(弱小領主)に生まれならんだら、 恐るべき能力をもった素晴らしい殿様になっておったと思う。 それは、世に聞こえた「昌幸様」や「幸村様」もをしのいだかも知れん。

ま、そのことはおいおい述べるとして、 ともかくも、「幸隆公」「真田の庄」に移り住んで、「真田」を名乗られた。
ここに真田が、誕生したのである。 う〜ん、感慨深いのぉ。




敗走から一転・・・

さて、真田に根をおろしてからの幸隆公であるが、けして順風満帆ではなかった。

実は、一度真田の庄を追われておる。 1541年、武田信虎村上義清諏訪頼重の連合軍に攻められたのじゃ。 この時は、滋野氏一族が狙われたわけじゃが、 後ろ盾を頼んでいた「関東管領/上杉憲政」の援軍が遅れた為、 無論、抵抗できるはずも無く、上州へ落ちのびたのじゃ。

幸隆公は、吾妻郡にある妻の父である羽尾入道殿のもとで庇護を受けた。 そう、まさに武田は真田にとっては仇敵なのでござる。 しかしな、ここで幸隆公に一つの思いが芽生えたのじゃ。 それは、
「上杉、頼むに足りん」

まさに、このことであった。
そう思った幸隆公は、様々な情報の中から、 頼むに足る大名を模索しておったのじゃ。

そして・・・
我らが探りとった情報の中から、幸隆公のだした結論は、

武田信玄公 のもとへ・・・
ということでござった。
(当時武田家は、信虎に変わって若き晴信(信玄)が当主となる)


お父上の棟綱殿はさぞ驚かれたじゃろうな。 なんせ、仇敵のもとへ走ったわけじゃからな。 しかし、この時すでに信玄公の将来性を見抜いておられたのでござる。 この決断力はさすが幸隆公じゃ。 このつぼやも感慨深いでござる。
はっはっは。

無論これによる悲劇的な状況がいくつも生まれておる。 後年になって、一時は世話になった妻の父、羽尾入道を攻め滅ぼしてもおる。 それらが、佐久侵略における知略・謀略と重なって悪評をよんだが、 幸隆公のその時の立場をもっと推して知るべしじゃ。 弱小勢力が生き残っていくことが、いかに厳しいか。 なまぬるい世の中からなぞは、想像もできない・・・・
そういう世の中であったのでござる。

まさに、「血のにじむような」思いで駆抜けてきたのじゃ。 よいか、ここのところをよく覚えておいて欲しい。 確かにいろんな悪評はとんだが、そんなことは だれよりも幸隆公が一番わきまえられていたことじゃ。 それを「ぐっ」と飲み込んで、まさに「血のにじむような・・・」 よいかもう一度言うぞ「血のにじむような・・・」 思いをしてこられたのでござる。

幸隆公はまさに不屈の精神の持主である。
これは、のちに武田の臣から聞いたことじゃが、 信玄公は(外様である)幸隆公をかなり厚く用いていた様じゃ。 つぼやに言わせてもらえば、「当然」じゃろうよ。 これだけのご覚悟をもって事にあたられる家臣は、そうはおるまい。
(つぼやも、尊敬するでござる)
それにしても・・・

昌幸様も幸村様も偉大なお父上を持たれたものじゃよ。


ま、いずれにせよ信玄の配下に入ったことで幸隆公の一生は、
ほぼ決まったといって過言ではないでござる。







真田昌幸(533バイト)
『無念じゃが仕方の無いことじゃ。 それにしても上杉・・・おそい、おそすぎる』



真田昌幸(533バイト)
『今後、いたずらに形式にこだわり、対応の鈍い 上杉氏に頼っていてもいかんのじゃないか』






武田信玄



真田昌幸(533バイト)
『父は旧領の回復を夢見ていた。 なるほどそれ程の事ならば上杉氏の力を持って可能かも知れん。 しかし、この幸隆にとって、乱世こそ千載一遇のチャンス。 己の謀略、知略を試す絶好の時と舞台はまさに・・・』

真田昌幸(533バイト)
『羽尾殿・・・か。戦国の世の習いとはいえ申し訳ないことした』

佐久小県への侵攻と所領回復

さて、信玄配下に入った幸隆公であるが・・・
みなさんは「信州先方衆」という言葉を知ってござるか? 当時、信玄公は信州攻略を中心に掲げておった。 そこで、地の利のある幸隆公がその先鋒に選ばれたのじゃ。

「 佐久・小県の平定 」

これが、幸隆公に課せられた最初の役割でござる。


この幸隆公の言う「我が意を得たり」とは・・・
先にも述べたが、滋野一族として古くからこの地にあった幸隆公は、 裏を返せば地縁、地の利を最大限にいかせる下地がすでにあった。 ただでさえ頭の冴える幸隆公に、この活躍の場を与えては、 以下に記す大活躍も簡単に頷けるでござる。

(1945〜1960年)
幸隆公は武田方の先鋒として佐久小県の諸城を、 片っ端から落としていったでござる。

■1546年 内山城攻略(大井貞清)
この時、貞清は父貞隆に続いての謀反であったが、 信玄は死罪を申し渡したのに対し、幸隆公は、 「貞清は殺すに惜しい剛直な若者」と助命嘆願して許された。

■1547年 志賀城攻略(笠原新三郎)
■1547年 小田井原城攻略
この笠原新三郎にしても、関東官領上杉氏の庇護を受けており、 その意味において幸隆公と旧知の間柄だった。 激戦が繰り広げられた中、幸隆公は、 謀略においてもその力を発揮して、この城を落とした。

■1549年 佐久春日原城攻略
■1549年 佐久平原城攻略

この年幸隆公は、晴信殿よりの密書で、 「のこる佐久郡の反武田勢力の掃討」を依頼される。 さっそく幸隆公は望月一族に懐柔の手を差し向け、 望月源三郎と望月新六の二人を武田方に帰属させた。 すると伴野・芦田ら他の勢力も次々に幸隆公に説得され、 武田の勢力下に下った。 さらに、海野一族の石井棟喜、真田綱吉ら個人の中にも 確実に懐柔の手を伸ばしていった。

もはや佐久・小県は、ほぼ武田の勢力になったといってよかった。
そして、これらの功績により、1550年ついに・・・
旧領回復の約束を晴信殿から頂くことになる。

「その方の年来の忠信、大変嬉しく思う。 本意の上は諏訪方300貫および横田遺跡 合わせて都合1000貫を与える」

ま、一種の約束手形ではござるが・・・
ひとまずは、祝着至極の次第、めでたきことじゃ。
さすが、真田の御先祖様じゃ!


それにしても・・・

皆さんもご存知の「武田二十四将」。 なるほど弓を取って戦えばまさに一騎当千の兵がそろう。 しかしその中でも謀略に長けた参謀型の諸将としては、 幸隆公を越える人物は存在しない。

敵対する勢力にとって本当に厄介な存在・・・ それが幸隆公でござった。

















真田昌幸(533バイト)
『もはや後戻りは許されない。 どこまでも突き進むのみのことよ。 しかし、この役目・・・まさに我が意を得たりじゃよ。 信玄公もどこまで考えてこの戦略を立てたのか・・』





城(272バイト)
 1546年 内山城攻略(大井貞清)
城(272バイト)
 1547年 志賀城攻略(笠原新三郎)
城(272バイト)
 1547年 小田井原城攻略
城(272バイト)
 1549年 佐久春日原城攻略
城(272バイト)
 1549年 佐久平原城攻略



真田昌幸(533バイト)
『海野や望月は元々は親戚関係。 話は分かる上に、彼らとて滅亡は望んではおらん。 この幸隆を信じてついてきて欲しいものじゃ』

砥石城を1日で落とす

さて、信玄公のもとで信濃を攻略するにあたって、 どうしても避けられない厄介な敵が1人おった。それが、

奥信濃の国人 「村上義清」

でござる。

「村上義清」・・・皆さんは知っておられるかの? ”信長の野望”をやった人なら知っておるかも知れんが、 こやつ、なかなか戦上手剛の者でござった。 (結構好きな人もいるかも知れん) 奥信濃を押さえるにあたって「村上」との決戦は、 もはや避けられぬものになっておったのじゃ。

決起した信玄公は、村上を討つべく2度にわたる兵を起こした。 そして・・・なんと2度とも敗れたのでござる! 驚くべき事といわねばなるまい。 なんせ、信玄公が負けたのは長い人生でこの対村上戦だけだったからでござる。 これはもう、予想をはるかに越えて村上勢が強かったというしかあるまい。
この<上田原の戦い><砥石崩れ>には、幸隆公も参戦しておったが、 長くなるので、ここでは詳しくは申すまい。

ただ、2戦目の砥石城の攻防戦では、 この山城がいかに強固だったかが思い知れるでござる。


この状況を見た幸隆公は、この城に対する力攻めの無謀を悟り、調略に乗り出す。

まず御殿は、反武田勢力の高梨政頼を村上勢から切り離した。
そうして相手勢力を分断しておいて、好機を見て城攻めにかかった。

まもなく、村上陣内に「佐久勢の謀叛」という不思議な噂が「パッ」と広まった。 武田方に内通しているという。佐久勢といえば武田に追われ、武田に対しては恨みが執念となって、 砥石崩れの際も猛烈に働いた部隊である。
まさに誤報であったが、疑心暗鬼にかかった村上義清は、 とうとう佐久勢を切り離しにかかった。 述べるまでもなく幸隆公のしくんだ謀略であった。

おりしも、信玄を退けた村上勢にも、奢りと気の緩みがあったのでござろう。
これをうまく利用した幸隆公は、城内に内応者につくり、なんと、



たった一日
(a one day)

で、砥石城を落としてしまったのでござる!
この難攻不落の砥石城を・・・。

この電光石火の出来事に、村上義清は当然驚いたが、 信玄公をはじめとする武田方の諸将も驚いた。 信玄公はびっくりして、おもわず 「約束の1000貫あげる・・」 と口走ってしまった。
ここについに念願の旧領回復(上田周辺)を成し遂げるのでござる!
そして、以後しばらくはこの砥石城を本拠とした。


この決定的出来事を境として、武田二十四将の一人としての幸隆公の待遇は、 非常に厚くなっていくのでござる。
敵味方関係なく、誰もがこう思った。


「 恐るべきは、真田幸隆・・・ 」





村上義清
真田昌幸(533バイト)
『村上殿か・・。信玄殿にいささかの油断があったにせよ、あの強さは本物じゃ。 正面から渡り合えば、こちらも相当に疲弊するはず、さて・・・』


砥石城 1:桝形城
2:本城
3:砥石城
4:米山城
砥石城(山城)






















城(272バイト)
 1551年 砥石城落城す!









真田昌幸(533バイト)
『旧領を回復した時はさすがに感慨深かった。 これで少しは父上の供養になったであろう』

信玄公とともに天下へ・・・

村上勢の勢力は、これを契機に衰えていった。

さらに・・・
■1556年 埴科郡雨飾城攻略
(そのまま雨飾城代となる)

■1560年 海野一族の帰属
(幸隆を通して行われる)


もはや、信濃は信玄の手に収められたといってよい。

一方、幸隆公は、所領も安堵され、 武田の臣としても確固たる地位に上がっていた。 したがって、後年の幸隆公の目標は、 「 ここまで取りたててくださった信玄公への恩に報いること 」 この一念だったに違いござらん。

この間・・・武田家としては、上杉謙信と川中島で実に5回にわたり、戦っていた。 1661年には、史実に名高いあの第4回川中島の戦いも起こっている。 幸隆は真田家として川中島の合戦に参戦しながらも、 次の目標に向かって狙いを定めていた。

その次の目標とは・・・
関東攻略への足がかりであり、上杉謙信への牽制の為の、

「上州への侵略」
でござった。


まず、西上野へ進出した幸隆公は、「岩櫃城」攻略へ手をつけた。

城主は斎藤憲広で上杉謙信に従属していた。
しかし、実はこの時この岩櫃城を守っていた中に、 以前真田を追われた時に、親身になってかくまってくれた 「羽尾入道」殿もあったのでござる。 前にも述べた通り、幸隆公の妻の父が他ならぬ羽尾入道殿あり、 以前領地を追われた時、親身になって励ましてくれた。「むむっ、これはなんとしたものか・・」


しかし、それでも幸隆公の心は緩まなかった。
戦国の世に習い(苦い思いはあったろうが)、敢然と岩櫃城に攻めかけたのでござる。

戦は激戦となった。
もともと天険の山城でござる。


簡単には落ちないと悟った幸隆公は、一旦和睦に持ち込み、 斎藤弥三郎(憲広の弟)、海野長門守・能登守(斎藤家重臣) などの内応者を得てから再度戦に持ち込んだ。 ここでも調略が見事的中し、ようやく岩櫃城は落ちた。 羽尾入道殿は戦死したでござる。

■1561年 岩櫃城攻略(斎藤憲広)
■1565年 岳山城攻略(池田佐渡守)
(これも池田の内応に成功)


そして・・・
いよいよ、上州最大の拠点「箕輪城」を攻めるにいたったでござる。
箕輪城には、これも逃亡時世話になった長野業政の息子、 長野業盛が守っていたが、これを包囲した。 そして数ヶ月後ついに・・・

■1566年 箕輪城攻略(長野業盛)
■1569年 白井城攻略


この上州への侵略についても、幸隆公は破竹の勢いでござった。
地の利、地縁を活かした調略がここでも存分に発揮されたのでござる。








城(272バイト)
 1556年 埴科郡雨飾城攻略








< 川中島の戦い >

この頃の10年間あまり・・・
信玄公は上杉謙信と5回も戦闘を繰り広げるのだが、
こちらの方は決着がつかないまま、終息することになる。

信玄vs謙信
真田昌幸(533バイト)
『今考えると、この十年が痛い。 上杉殿との共同作戦が成っていれば天下統一も夢ではなかった・・・』












真田昌幸(533バイト)
『この戦いが一番辛かった。戦国の世の定めとはいえ・・・ 小国の興亡とは、かくも非情であるか・・・』

岩櫃城 1:本丸
2:二の丸
3:三の丸
4:天狗丸
 岩櫃城(山城)



城(272バイト)
 1561年 岩櫃城攻略(斎藤憲広)
城(272バイト)
 1565年 岳山城攻略(池田佐渡守)






城(272バイト)
 1566年 箕輪城攻略(長野業盛)
城(272バイト)
 1569年 白井城攻略

砥石城に眠る

この信州、上州への戦功をみるにあたって、 『幸隆公の生涯において、いかにその謀略が凄まじかったか』 を思い知ることができよう。

あの、謙信公が、

謙信
「弓矢をとって戦えば真田なぞ、問題ではござらん」
「しかし、権謀術数では7日の遅れがある」
「真田あるうちは、信濃を落とすのは難しいであろう」
「忌々しきは、真田め」

と、嘆いたという。



ところが・・・
幸隆公にとって、あっけない転機を迎えることになる。
いよいよ、天下に向けて進軍するはずだった信玄公が、 三方が原で病死してしまうのでござる。

「ああっ、なんということでござろう・・・」
信玄公がせめてあと数年長生きしてござったら、 天下は・・・そして真田家の命運は・・・ もう少し違ったものになっていたでござろう。 (このつぼやも、至極残念でござった)

この後の武田家の興亡は、ご存知の通りでござる。
幸隆公はの悲嘆は深く大きかったでござる。


そして、1574年
砥石城にて信玄公の後を追うように病死されるでござる。
享年62歳でござった。















真田昌幸(533バイト)
『謙信公にそう言われると、いささか照れる。 大した事ではござらん、力無き者の悲哀と思って下され』
         (この物腰が、また曲者・・・。byつぼや)






















真田昌幸(533バイト)
『無念じゃが仕方もあるまい・・・これも運命の定めるところじゃ』

つぼやから見た幸隆公

幸隆公について、まとめると
敵の心理を読み、巧みに心の隙を突いた、謀将でござった・・・。
その才は、ずば抜けていたでござる。
(おそらく昌之公も幸村公もかなうまい)
(秀吉や家康など鼻たれ小僧よ)
権謀術については古今比類無き才能の持主でござる。
戦国一は間違いなく幸隆殿でござる。

その反面、信義についても厚かった。
人目憚ることも行なってきたが、
そうしなければ、信玄公もあそこまではなれなんだでござろう。
真田家の為に、信玄公のために、身銭をきって事にあたられたのでござる。
ゆえに、武田二十四将の一人としての幸隆公の立場は、
非常に重いものであったでござる。

ともかくも、「血のにじむ」思いで真田家の礎を築いてきた
それが、幸隆公でござる。

最後は、無念ではあったでござろうが、なんの、なんの、
その血は子孫達へ脈々と受け継がれていったでござる。

幸隆公もあの世で我が子孫達の活躍を喜ばれておるでござろう・・・。




短歌1
(byつぼや 99/3/10)
− 幸隆公経歴 −
1513 ( 1) 幸隆公誕生!!!!!!
1537 (25) 長男、信綱誕生!
1541 (29) 信玄・村上などにより小県を追われる
         (上杉憲政−長野業政をたよる)
1543 (31) 信玄に出仕(信玄の配下となる)
同年 (31) 次男、信輝誕生!
1545 (33) 旧領に帰る(松尾城)
1546 (34) 信玄と佐久内山城を落とす(佐久平定)
1547 (35) 信玄と佐久志賀城、小田井原城を落とす(佐久平定)
同年 (35) 三男、昌幸誕生!
1548 (36) 上田原の戦いに参戦(信玄 武田信玄 vs 村上 村上義清)敗走
1549 (37) 信玄と佐久春日城、平原城を落とす(佐久攻略)
1550 (38) 信玄と再び砥石城/村上を攻める(砥石崩れ)敗走
1551 (39) 砥石城を単独で落とす(!)
1556 (44) 雨飾城を落とす
1560 (49) 海野一族が信玄に随順(幸隆公のおかげ)
1561 (48) 西上野に進出、岩櫃城を落とす(上州攻略)
同年 (48) 川中島の戦に参戦(信玄 武田信玄 vs 謙信 上杉謙信
1565 (53) 岳山城攻略、幸隆、吾妻郡代となる(上州攻略)
1566 (54) 箕輪城攻略(上州攻略)
同年 (54) 孫、信之誕生!
1567 (55) 孫、幸村誕生!
1572 (60) 上州白井城を計略で落とす(上州攻略)
1673 (61) 上杉軍に白井城を奪われる
1574 (62) 砥石城で病死
■ 比較的、有名な出来事
■ 子息、孫の誕生
■ 佐久の平定、上州への侵略(幸隆の半生は信玄と共にあった)
活動拠点
抜いた城



同盟
敵対






小県・佐久・北信濃・上州
佐久/内山城・志賀城・小田井城・春日城
小県/砥石城
更科/雨飾城
上州/岩櫃城・岳山城・箕輪城・白井城
武田信玄
村上義清・上杉謙信・上杉憲政

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Last up 2004/01/10
++ 真田弾正幸隆公  の語りでした(^^ ++