その8 〜宴の夜と、雨の朝・・・



初日の出陣は無事終了しました。関ヶ原中学校に戻って鎧をとる。素晴らしい開放感・・・。
陣笠ずっとかぶってたので、頭には天使の輪が(笑)。

「それでは又明日も宜しくお願いします」
戸田隊の方々と分かれて、体育館の前の石段に腰掛けていると、携帯の呼出音が鳴りました。「あ、これからそちらに向かいます」あき殿の声だった。今日お会いしたNETの方何人かが、宴のために残ってくれているとの事。やったー!これからゆっくり宴会だ!


--------注:ここからしばしNETモード(^^
宴は大垣駅の駅前という事で決まりました(というより、関ヶ原駅前は夜、かなり早くから闇に包まれるので(^^;)。車3台に乗車して、大垣まで出陣し、そこで居酒屋を探しました。入った店は、『 道三 』。おおっ、さすが美濃。今回参加されたのは、あき殿、甚八殿、町殿、きしきし殿、ひら殿、水際殿、私の7人。(しまった!ここで写真とるの忘れた・・・)

『 お疲れさまでした〜〜! 』
さっそくビールで乾杯!喉を通っていくビールも、今日一日の出陣の後だけに格別です!
早速、甚八殿撮影したビデオを回しながら今日の行列の話に花が咲きます。ビデオには再生しているにもかかわらず静止画のようにいっこうに動かない討死役の又五郎が写っていました(笑)。「動かないのではなくて、動けないのであります」「疲れ果てて、実は眠たかったのであります(笑)」一応解説を入れる又五郎。初対面の人がほとんどだったので、恥ずかしがりやで口下手な私は、なかなかうまく話せません(笑)。今回の関ヶ原に至るまでを熱っぽく語るなんて・・できません。しかし隣にいたきしきし殿相手に、しっかり真田太平記布教活動だけはしていたような気がします・・・(笑)。


町殿は、想像していたよりもとても若くてびっくりしました。HPでの渋い感じから想像してたので、てっきり年上かと・・(失礼^^;)。今回は急遽関ヶ原行きを決められたようで、私としてはお会いできて嬉しかったです。水際殿は、あき殿のページで日本酒だ!ってイメージあったのですが、今晩夜行で帰られるからか控えめでおられましたね?きしきし殿、ひら殿は・・・(笑)。うわさの方とお会いできて光栄です(^^

私は後の予定が無かったのでゆっくり楽しめたのですが、甚八殿も明日仕事、他の方も今日で帰られるとか・・ 忙しい中お付き合いいただきまいて、ありがとうございました。



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外へ出ると、雨がいっそうきつくなっていました。
町殿とは大垣で別れ、私とあき殿は再び関ヶ原町へ・・・。

実はあき殿、私の野営にお付き合いしてくれるというのです!これはありがたい。雨がそうとうきつくなってきて、「どこで寝ようかなぁー」「まだ早いし暇だなぁ」と思っていたのですが、あき殿も付き合ってくれるというので、寂しくなくなりました。私的には誰かと何かをとりとめもなく喋っている夜というのは大好きなので、あき殿とは車の中で戦国の話や、DNAの話(笑)など・・・コンビニによって買い物をし、再びあの首塚の横の駐車場まで戻ってきて一夜を明かしたのです。

「 雨止みませんなぁ・・・ 」
「 そうですねぇ 」
「 明日雨やったら、大垣の行列大変やな・・ 」
関ヶ原の漆黒の闇に、いっそう激しさを増して降りつける雨。おまけに風も大分出てきている。
そういえば、400年前の関ヶ原も、決戦終わった後雨だったな・・・。

意を決して、外に出てテントを張った。
簡易ベッドが1つしかなかったのであき殿はテント、私は車内で寝る事になった。

明日の朝には、この風雨は止んでくれるといいのだが・・・






「こつん」車を叩く音がした。

「あ、あき殿、おはようございます」
半分寝ている顔をおこすと、テントからあき殿がでてきていた。暴風雨に晒されたテントだったが、どうやら無事だったようだ(笑)。しかしそのテントの傾き加減・・・昨日の風雨の凄さをよくあらわしている。
「寝れました?」「途中、飛ばされるかと思ったけどなんとか大丈夫でした」「しかし、そこそこ寝れましたよ」

時計を見ると、まだ6時過ぎ。 雨は ・・・まだ降りつづけていた。
なんか止みそうにない雨。「せっかくの市街地行進が・・・ま、しゃーないわな」気を取り直してテントを片付け、コンビニへ行って朝飯を買う。朝食はパンとカップヌードル。「さて、これからどうしましょう?できたら8時の着替え集合までに史跡などを見たいのでございますが・・・」「いきますか!」麺をすすりながら、話がまとまった。あき殿は関ヶ原何回も来ている関ヶ原マスターなので、案内していただけるととてもありがたい。快くOKしてくれたあき殿に感謝(^^



■まず向かったのが、島津義弘の陣跡


もはや有名すぎて?訪れた事のある人なら説明は不要かと思いますが、島津公の陣所跡です。神社の脇の道を抜けていって、ちょうど神社の後ろ側にあたる所にありました。そこは小さな林の中で、早朝の雨にぬれていたせいかよりいっそうひっそりとしていました。○に十の紋のついた陣幕がはってあり、石碑が立ててあります。昔も今と同じ感じであるなら、最後の突撃までじっと我慢の守備をするのには良い場所に思える・・。

「おっ!向こうに見えるのは、小西行長の陣所だ・・」
林の切れ目から白い陣幕が見えた。陣所から陣所を見ると距離感が把握できて勉強になりますね。


------ それでは、この背景を見ながら、絵巻での島津敵中突破の一文を紹介。
(維新) 『 もはやなす術はない。この上は、かしこに見える家康の陣に一気に突入し、いさぎよく死のうぞ 』
(豊久) 『 お待ちくだされ、伯父上。これまで戦わずして命を全うしたのはなんの為でごわす。伯父上が死んでは薩摩はどうなるのでごわすか。今からでも遅くはない。戦線を離脱しましょう 』
(維新) 『 だが逃れる道がどこにあろう。北も西も・・・。いや、あったぞ。敵中を突破して伊勢街道に逃れよう 』
(豊久) 『 よし。・・・いくぞ!遅れるな!目指すは伊勢街道! 』
(ナレ) 一団となって突撃を開始した島津隊。あまりの気迫に東軍の思わず道をよける中を、火の玉のような島津の一団が疾駆し去りました。我に返った東軍諸隊がすかさず後を追って、激しい追激戦が繰り広げられました。この追激戦で島津豊久は戦死。維新ももはやこれまでと覚悟を決め、敵中へ斬り込もうとしますが、重臣・阿多盛淳がおしとどめます。
(盛淳) 『 一軍の将たる人が、討ち死にを急ぐとは沙汰のかぎりでござる。千騎が一騎になるまで、立退かせ給え。恐れ多いことながら、それがしが名代をつかまつりましょうぞ 』
(ナレ) 言い放ってとって返した阿多盛淳は、敵中に駆け込んで・・・
(盛淳) 『 われこそは島津兵庫入道維新なるぞ! 』
(ナレ) 維新の身代わりとなって、討ち死にいたしました。
(ナレ) ようやく島津隊が脱出に成功したとき、1500名の島津隊は80余名になっていたと申します 。
( 合戦絵巻2000、原文より )



■次に、小西行長の陣跡

こちらは、先に島津義弘の陣跡から確認できた小西行長の陣所跡です。島津の陣所からはそう遠くなく畦道らしき道を抜けて10分もかからない?先ほどの島津の陣跡とは違って、開けた山裾にありました。

同じ場所に、『 史跡 関ヶ原古戦場 開戦地 』の石碑が立っていました。
開戦の地というからには、ここで戦端が開かれたのだな・・。ん?まてよ。確か本では福島・井伊vs宇喜多の鉄砲のやりとりが最初じゃなかったっけ?
と、それはこれを書きながら気づいた事。でも当日は霧にけむっていて、どこでどう戦いが始まったか分からなかったんでしょうね。小西は場所的には真っ先に敵とぶつかってもよさそうな位置にいる事だけは確かです。


 「それでは宇喜多の陣跡も行ってみます?多分車でいけたような・・・」「うん。いきましょう」

■最後に、宇喜多秀家の陣跡
小西の陣跡からさらに南に下った小山の中に、宇喜多秀家の陣所跡がありました。

「うわーなんか凄い森の中・・・」
そうなんです。小西とはうって変わって、宇喜多の陣跡はうっそうと茂った森の中にありました。宇喜多といえば兵17000の西軍一の大部隊。こんな所に布陣していて、うまく兵の統率ができたんでしょうか?
・・・と思いきや、今と違って当時はもう少しひらけていたそうです、このあたり。本陣はこの辺でも、兵站は天満山の山裾全体までのびていたんでしょうね、きっと。

------ ちなみに絵巻での小西行長・宇喜多秀家隊の奮戦の模様は、以下の通りです。
(ナレ) 『 午後十時、合戦が始まってから二時間がたちますが、戦いの行方は依然として見えてきません 』
(ナレ) 『 小西行長隊は、織田隊、古田隊、寺沢隊を相手に一歩も引かぬ激闘を展開しています 』
(ナレ) 『 宇喜多隊は明石全登ひきいる前衛隊が槍ぶすまを作って激しく前進、一時は福島隊を五百メートルも後退させました。血相を変えた福島正則が、「退くな、退くな!敵に後続の兵なし!恐れずに返せ!」と叱咤激励してようやく反撃にでて、今度は宇喜多隊がじりじりと後退します。 』
(ナレ) 『 こうしたはげしい一進一退のありさまを、関原軍大成は、「秀家卿の太鼓の丸の旗と、正則の山道の旗を退く事、二、三度に及びたりや」と記しています。まさに壮絶な攻防戦です 』
( 合戦絵巻2000、原文より )

霧ではないけれど、じとっとしたこの雰囲気。林の隙間からは鈍い光が差し込んでいる。
先ほどは雨で愚痴ったけど、多分400年前の当日の朝と一番近い光景だ。

「ちょうど朝の7時過ぎ・・・」
秀家公はいったいどういう心境で、9月15日の朝を向かえたのだろうか・・・・。


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「色々と案内していただきまして、本当ありがとうございました」
「次の機会には、どっかの隊の一員としてお会いしましょう!」

あき殿とは関ヶ原駅で別れて、私は関ヶ原中学へと向かいました。




 2000年10月7日 〜 10月9日
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