松山日記。

現在の時刻はです。


1999年10月30日(土)

 sex MACHINEGUNS,「みかんのうた」の次は「ONIGUNSOW」(鬼軍曹?)である。


 休日はぼぉーっとして何もせず過ごすことが多くなった。あっという間に4,5時間過ぎてゆく。
 疲れているんだろうか。朝から夜中まで疲れている。楽しいとか悲しいとか、気持ちいいとか苦しいとかいうことを感じなくなった。ただ、疲れているという感覚しか存在しない。


1999年10月28日(木)

 エプソン・カラープリンタのCMが、いつのまにかSPEEDから優香に変わっている。

 うーむ、大げさなようだがひとつの時代が終わったように感じた。
 僕が今使っているカラープリンタはエプソン製(PM-700C)であるが、とくにその製品が気に入ったからとかという理由もなく、そもそもプリンタについてあまり知識がなかったので、当時頻繁にやっていたSPEEDのCMにつられて買ったのだ。

 買った当初は年賀状とか絵葉書とかをつくって頻繁にプリンタを使っていたが、最近はあまり印刷することがなくなった。


 昨日のスキューバの話の続き。

 ダイビングをやっていると、次から次へとものを買うというか買わされるような気がする。
 ドライスーツの中に着るもの。完全断水だから普段着ているもので構わない。今までは、それこそラクダのシャツやモモヒキを着ていたのだが(というのは嘘だけど…)、よくよく聞くと、万一水漏れしても体が冷えないように、吸湿性のないポリプロピレン製がいいという。それで、専用のインナーを買った。
 さらに、インナーだけでは外を出歩けないので、上から履くズボン(防水仕様)も買った。確かに、下半身のインナーはタイツみたいなもので、そのままではダンサーみたいというか、急所がモッコリして変である。
 またさらに、ドライスーツ自体も、今までは他の器材と一緒にメッシュバッグに入れていたが、そうすると破れることがある、取り扱いは慎重にせねばならぬというので、専用のバッグも買った。

 実は、みんな持っているが、僕がまだ持っていないものがある。
 マスクのくもり止め。専用のくもり止め液があるのだが、僕は「つば」で代用している。実際、そうしているダイバーも多い。
 これは、金をケチっているというよりも(くもり止め液は高価なものではない)、ただでさえ器材の多いダイビング、細かいものまで保管に気を配る余裕がないというのが、本当の理由である。


 ジャニーズに「カミセン」「トニセン」というグループがいる。それぞれComing Century, Twentieth Centuryの略だそうだが、僕はどうしてもチャンバラトリオでパシーン!と人を引っぱたく小道具を思い出してしまう。
 みんなそう思いませんか?

 ジャニーズからは最近「嵐」というグループがデビューしたが、メンバーみんな柔和な顔をして、嵐のイメージにほど遠い。「嵐」というからには、どおくまんの漫画のキャラみたいな顔がふさわしいのではないのか。
 ジャニーズファンの方、勝手なこと言ってすみませんです。


1999年10月27日(水)

 スキューバダイビングのドライスーツ学科講習を受ける。
 ドライスーツとは、何度も言っているが、寒い季節でも潜れるようにつくられたダイビングスーツである。海水を完全に遮断するので暖かいのだが、体の回りに空気をまとって泳ぐようなものなので、浮力が余計についたりする。それで、ドライスーツを着用して泳ぐにはちょっとしたテクニックがいるのである。
 海洋実習は11月7日(日)、高知県柏島で行う予定である。

 ところでダイビングの学科で何を習うのかというと、器材の使用法はもちろんであるが、水圧の影響のことをことさら強調している。
 例えば、水中に潜ると耳の中の空間が外の水圧に押しつけられて耳が痛くなるので、耳抜きという作業が必要である。
 水中では、100〜200気圧程度のタンクの空気をレギュレーターで外圧(=水圧)と同じ気圧に下げて呼吸する。とすると、深い水中では大気より圧力の高い空気を吸うことになるので、空気中の窒素が血液中に溶け込む。それで「窒素酔い」になることもあるし、急に浮上して大気中に出ると、血液中に溶けていた窒素が気泡になって湧き出して「減圧症」になる(ダイビングをした日は飛行機に乗っていけないことになっている)。
 窒素の影響を最小限にし安全なダイビングをするため、ちょっとした計算もやる。体内にある過剰窒素の量を測定し、安全な潜水時間・深度の限界をダイブテーブルというものを使って判断する。

 そんなこんだで、スキューバダイビングはスポーツの中では割と頭を使う方である。
 一方で実戦に移れば、重いタンクを運んで器材を慌しくセットし、重い器材を背負ってフィンを付けた歩きにくい足でよろよろと浜辺から海中へ進んでいく。それは体育会系のノリ、スキューバも立派なスポーツなのである。

 とか言って、スキューバは選ばれた特別な人間しかできないスポーツというわけではない。
 僕自身、実は小学校から高校まで体育はクラスでビリ、救いがたい運動音痴であった。大学の前期課程の体育実習を終えてからは、自分でスポーツをしようということはほとんどなく10年余り過ぎた。
 そんな僕も、気まぐれでスキューバをやろうと思い立ち(沖縄へ行って美しい海に感動したのがきっかけだが)、気がついたら東京のあるダイブショップで講習を申し込んでいて、人よりは多少プール実習に時間がかかったが、立派にCカードをとることができ、海に潜っている。


1999年10月25日(月)

 いやーな疲労感。

 いつもより早く帰宅してベッドに横になるが、疲労感が体にまとわりついて、却って眠れない。
 スポーツをし終えた後のような爽やかな疲れじゃなくて、あーまだ仕事が山ほどある、早く開放して欲しい…というぐったり感。

 こんな時は酒を飲む。1本の缶ビールが驚くほど疲労感を拭い去ってくれることもあるのだ。
 もう、食欲が湧かんのよ。昼間食べたのは小さいパン1個だけ。夜になってやっとコンビニ弁当を平らげた。拒食症になってまうんじゃないかと思うわ。

 こんなことしていいんだろか?


 少し前からトップページに「水彩画ネットワーク参加サイト」というバナーを掲げている。
 田中千尋さんという方が、水彩画のWebサイトは現状では少ないので相互リンクを張り合い水彩画HPの輪を広げていこう、といったことを提唱していて、それに賛同してこのネットワークに参加しているわけである。
 ちなみに田中さんは、「水筆ペン」という軸を押すだけで中から水がにじみ出るという水彩絵筆を考案されており、これを使うと

とのこと。
 田中さんのサイトには水彩画の入門講座があるので、絵を描いてみたいという方は覗いてみては如何だろうか。

 ところで、水彩画のサイトを見ると、「安曇野スケッチ紀行」といったページがあることが多い。安曇野はスケッチのメッカといっていいのだろうか。
 東京にいる間行っとけばよかった、とちょっと後悔している。松山からだと行きにくいからね。


1999年10月24日(日)

 「情報科学」の教材、とりあえず作り終えた。ひどく疲れた。

 他の科目だと本を1冊用意して教科書にすることができるけど、パソコンの実践教育の場合そうはいかないんだよね。市販のパソコン解説書は、Windows、インターネット、ワープロ、表計算、それぞれが1冊の本になっているから。
 全部を1冊にまとめた初心者向けの本、どうしてないのだろう。例えばワープロにしても、全部の機能を載せる必要はないと思うし、知っている人は稀だろうに。


 WOWOW「山崎まさよし'99秋の新作発表会!」を見た。
 ギター1本とブルースハープだけの弾き語りライブだが、まさやんはギターがうまいなぁ!面白いというか不思議なコードを使っているみたいだし、右手もカッティングを巧みに効かせてリズミカルな演奏をしている。
 ギタリストとしても一流だと思うが、彼はあくまでも歌ものにこだわるとインタビューで言っている。歌詞を含めて歌のアレンジ全体が完成するとのこと。例えば、「Fat Mama」という歌では、歌詞に破裂音が多く含まれ、歌っている時にパーカッションのような効果を出す。
 要するに、歌詞も音楽の一部ということ。音楽のプロには当たり前の話かもしれないが、ああそうかと感心した。


1999年10月23日(土)

 「情報科学」の教材を作っている。すでにセンター端末の手引きがあるのだが、最小限の操作法(パソコンの起動・終了、メールの書き方など)しか書いてないので、これだけでは教えられないのだ。
 僕自身どうやってパソコンを覚えたのか、よく覚えていない。やりたいこと(自分の絵を年賀状に印刷したりホームページをつくったり)、やらねばならぬ仕事が目の前にあって、ひたすらパソコンを動かして、必要な知識は後から覚えていった。その繰り返し、蓄積である。
 だから、そうして得た知識をいざ文章にしようとすると、言葉にするのがひどく難しいのだ。
 それに、例えばWWWって文章でどうやって説明する?言葉でくどくど説明するより、ブラウザを起動してネットサーフィンした方が早いって。


 TBS「ブロードキャスター」で、中央アジアの国々は「加藤タキ」で覚えよう、と言っていた。同番組に加藤タキさんがよくコメンテーターで出ているでしょ。

 をを。旧ソ連の国って何があったっけと思うけど、これならスッと覚えられる。感動だ。覚えられたから何の役に立つ?と言われても困るけど。


1999年10月20日(水)

 疲れた。

 大学で「情報科学」という科目を担当している。早い話がパソコン入門である。
 今日、情報処理センターの端末室で早速実習を行った。ところが、トラブル続きで対応にてんやわんやである。ユーザID・パスワードをちゃんと入れたのにログインできない、フロッピーディスクのフォーマットが出来ない、etc.
 しまいには、僕自身教官用のPCでメーラーが使えなくなった。もう、なんで???でパニックに陥る。教官の僕がハングアップしてしまった。


 ゴダイゴが再結成したそうである。3ヶ月限定ということであるが。
 この前「夜もヒッパレ」に出て、「銀河鉄道999」を歌っていた時、サビのところ一緒になって歌ったよ。新司会の中村江里子と同様ウルウルしてしまった(彼女、パリから通勤しているって本当か!?)。

 ところで、ゴダイゴが活躍したのは、僕が小学校高学年から中学生であった頃であった。あの頃、歴史のテストで「後醍醐天皇」だけはクラスみんな覚えていた(ゴダイゴも後醍醐天皇から名前をとったと覚えている)。

 あの頃の思い出には、メディアを賑わせたヒットメドレーがいつも付きまとっている。

 部活はブラスバンド部に所属していた。僕はユーフォニウムという中低音楽器の担当だった。
 普段は教則本の曲やコンクールの課題曲ばかり練習していたが、時々「ルビーの指環」など当時のヒット曲を練習していた。それが僕らの楽しみでもあった。
 女の子の部員の間では、オフコースがスターであった。彼女らは音楽室にこっそりラジカセを持ち込んで彼らの曲を聴いていた。ちょうど武道館コンサートがあって、鈴木康博が脱退した頃であった。
 また、練習の合間に先輩が2人で、「愛はかげろう」(雅夢)のサビの部分をハモってみせてくれた。

 人生の思い出になれるような曲が名曲だと思う。


1999年10月18日(月)

 近所のカレー屋で夕飯を食っていたら、店のテレビで高さ30センチの厚底ブーツなんてのをやっていた。
 おいおい、お前ら田植えでもする気か!?見たところ、地雷を踏んでも大丈夫そうな靴だった。

 そのテレビ番組では、ティーンの女の子達が厚底サンダルをはいて歩道橋やスペイン坂をよたよた歩いていた。もうほんとによたよた歩きで、歩道橋では手すりにつかまらないと歩けない状態であった。


 書かねばならぬ原稿があるので夜遅くまで研究室に居残るつもりだったが、トイレに入ったとき、水洗が故障だったのか、便器に○んこが山盛りになっているの目にしてしまった。その瞬間、僕はやる気をなくしてしまった。だから、帰る。
 俺って、神経が華奢だなー。
 しかし、こういうシチュエーションでは必ず○んこが太かったり、てんこ盛りだったりするんだよな。なぜだろ?

 尾篭な話ですみませんでした。


1999年10月17日(日)

 WOWOWでドイツ、オーストリア、…の鉄道の番組をやっている。

 鉄道ファンにとっては、ドイツは面白い国だと思う。
 日本のJRと同じ感覚で列車に乗れる。ICE(=Inter City Express)…新幹線、IC(=Inter City)…エル特急といった感覚かな。これに、EC(=Euro City)という国際特急などが加わる。日本ではほとんど姿を消した食堂車もあるぞ。
 駅を下りれば大抵の町には路面電車が走っている。旧東独地域へ行けば、蒸気機関車が現役で活躍している軽便鉄道がある。


 北海道では初雪を観測したらしい。
 こちらはまだ半袖姿の人もいる。日本も広い国だね。

 さて、松山も昨日から急に涼しくなったようである。さすがにTシャツでは肌寒い。
 昨夜冷房をつけっぱなしで寝たら、鼻づまり喉ガラガラで目が覚めた。こんなことして、季節の変わり目に風邪をひくのか。気をつけねば。


1999年10月14日(木)

 鉄道の日。

 以前は「鉄道記念日」であったが最近は「鉄道の日」と呼ぶようになっている。1872年(明治5年)のこの日に、新橋・横浜間に日本最初の鉄道が開業したのである。

 しかし、鉄道らしい事(?)は何もせず。
 一度北海道あたりに行って、一日中列車に乗ってみたい。


 ダイビングショップへ行って、次回のツアーの申し込みをした。11月6日(土)、再び高知県柏島である。2ダイブしてくる。
 今度はドライスーツの講習も兼ねる。ドライスーツは体が水にぬれないスーツで、寒い季節でも潜れるのだが、浮き袋を全身にまとっているようなもので、ウェットスーツに比べるといささか動きにくい。それで、ドライスーツの使い方を詳しく習うのである。

 今日はツアーの申し込みの他に、


1999年10月13日(水)

 テレビCMでコクヨがノートパソコンを入れる箱を売っているのを知った。パソコンをこの箱に入れ、机の引出しなどにしまっておくのである。
 ノートパソコンというともともとは持ち歩いて使うために作られたのだが〜そういえばラップトップという言葉があったなぁ〜実際はほとんど自分の机の上で使って、使わない時は机の上に立てかけておくといった使い方が多いのではなかろうか。つまり、携帯するというより場所を節約したいという理由でノートパソコンを使っているのである。
 この商品は欲しい。


 久し振りに、「Marine Diving」というスキューバダイビング雑誌を眺めている。
 広告が多い。全ページの1/4〜1/3はあろうか。それらはみな器材、ダイビングショップ・スクール、ツアーの広告である。広告が多い点では、コンピュータ雑誌と似通っている。

 ところで「アクアラング」とはスキューバ器材メーカーのブランド名であることを初めて知った。てっきり空気タンクを指す普通名詞とばかり思いこんでいたので、実は固有名詞であるということを知って驚いている。
 「セロテープ」や「レーザーディスク」と同じようなものだ。


1999年10月12日(火)

 7月に夏学期が終わって以来、久し振りの授業である。
 冬学期第1回目の授業、机に居並ぶ学生達を目の前にすると、どうしても緊張し、言葉がどもりがちになる。10分20分と授業を進めるうちペースを取り戻し、説明も滑らかな喋り方になってきた。

 林真理子さんは「週刊文春」で15年近くエッセイを連載しつづけている。
 今週は何もネタがない、何処にも行ってない、ということもあるが、そんな時でも、とにかく落書きでもいいから2〜3行書いてみる。そうして、自分を「書きモード」にするというそうである。
 授業も毎週続けて授業モード、スキューバダイビングも月1回ツアーに参加してスキューバモード。


1999年10月11日(月・振替休日)

 久し振りのスキューバダイビングで、全身の筋肉が痛い。
 食事をするとあごが痛い。空気の吸い口を必死に加えていたせいか。

 2日間僕らの世話をしてくれたインストラクター、今日は西海へビーチクリーンナップに出かけているという。片道3時間の道のりを運転し、海岸を清掃し1回ダイブし、また松山に帰る。
 スキューバのインストラクターやスタッフは、大変な重労働だと思う。
 ツアーでは長距離運転してダイバーをビーチへ送り届け、現地ではダイバー達をガイドし、危険がないか絶えず気を配る。初心者には適切にアドバイスし、僕のようなドジなダイバーが失敗しても決して怒らず、落胆しないよう励ます。
 僕は仕事場では学生を指導する立場にあるが、スキューバで生徒の立場になって、つくづく我が身を反省させられる。
 なんだか拝みたくなるような人達である。


 週刊誌を開いても、SPEEDの解散記事ばかり目が行く。僕はちょっとファンであったのではなく真正のファンだったのか。別に、東海村の事故や盛田昭夫氏の死去に全然関心がないわけではないが。

 4人のメンバーの中では島袋寛子さんの事がいちばんよくメディアに書かれているような気がするが、彼女はいちばん歌唱力があるから、解散後も歌い続けて欲しいと思っている。このままステージから消えてしまうのは惜しい。
 しかし、たかが15歳の歳で私生活の事あれやこれや書かれては、神経が持たないことだと思う。


1999年10月9日(土)・10日(日)

 高知県大月町柏島へスキューバダイビングに出かけた。

 3月にCカード(=ライセンス)取得、4月に愛媛県西海町で2ダイブしたきりダイビングから遠ざかってしまった。ビギナーはブランクを開けずに定期的にダイビングすべきなのだが…前回の西海では、まず車で片道3時間の移動に疲れ、天気は小雨で寒く、初心者でうまく潜れず、それでダイビングが少し憂鬱になってしまったのだ。
 それではいかんと意を決して、Cカード取得後2度目のダイビングツアーに参加。
 なお、今回はPPB(=Peak Performance Buoyancy)講習の海洋実習も兼ねている。

 8日(金)夜9時、ショップの車で松山を出発。参加者は僕の他には8名、みんな女性である。
 柏島までは約4時間と聞いていた。ところが、伊予市を抜けた辺りから道が混んできて、さらに所々工事で一方通行になっており、車がなかなか進まない。松山・内子間で1時間もかかってしまった。JRの特急なら20分余りだが、という考えが頭をよぎる。
 結局、目的地の民宿に夜中2時頃に到着した。車から降りると、夜空が驚くほどの満天の星であった。


 翌9日、8時に起床・朝食。
 前夜は3時頃まで酒を飲み交わしていたので、眠くて仕方ない。ダイビングは睡眠を十分に取り体調を万全に整えてすべし、と教わった気がするが、ツアーはハードスケジュールじゃ。
 睡眠不足で食欲が全然ない。食べた朝食を全部吐いてしまった。これで本当に潜れるんだろうか?

 ビーチに来ると、陽射しが眩しい。四国の南端近くはまだ夏の名残を引きずっているようだ。
 午前中はPPB講習の海洋実習。これは水中で中性浮力、つまり浮かず沈まずの状態を保つための特別コースである。これはダイビングでは重要なスキルのひとつである。
 水深10メートルまでもぐり、輪をくぐったりするといったトレーニングを45分ほど行った。

 現地のダイビングショップで昼食。しかし、緊張で食事にほとんど手が付かない。僕は、緊張や不安といった精神的動揺がすぐ食欲に出てしまう質なのだ。それに、午後も潜るので、満腹になりたくないという気持ちもある。

 午後のダイブでハプニング。潜水地への船上で、「自分のウェイト(おもり)がない!」と気付いた。船の備品を借りて、自分のウェイトを急ごしらえする。それでかなり動揺してしまった。
 船から水面に落ちれば、海水の流れが強いせいもあるのか、潜降がうまくいかない。BCD(=空気を入れるジャケット)の空気を抜いているが、潜ろうとする時恐怖心からつい空気を深呼吸してしまい、折角沈みかけたのに、すぐ海面へ浮かび上がってしまう。結局インストラクターに海底まで引っ張られる。
 すっかりパニック状態になり、タンクの空気を早く消費してしまう。エア切れ寸前になり、40分の潜水の予定のところを20分余りで水面に戻ってしまった。
 みんなより早くリタイアしてしまった屈辱感。それに、何故潜降がうまくできないんだろうという悔しさ。

 僕「潜降がどうしてもうまくできないんですよ」
 インスト「まずBCDの空気を全部抜いて、それから肺の空気をフゥーッと吐き切る。そうすれば潜降できる」
 僕「息を吸いたくても、ずっと我慢するんですか?」
 インスト「苦しくなったらハッと息を吸ってもいいけど、その後すぐに息を吐き始める。息を吐き続けて肺の体積を小さくすれば、浮力が小さくなって、自然に体が沈む」

 潜降しようとする時、つい空気を深く吸うのがまずいようだ。水に入るという恐怖心があるのかもしれない。恐怖を知識や情報で克服するのが大事だ。


 10月10日、体育の日。ダイビングする前はほとんどスポーツをしてなかった僕だが、今年は本当に体育の日になってしまった。2日目のダイビング。

 1本目のダイブ。スーツを着て、器材の準備、船への積みこみ。スキューバは慌しくかつ重労働である。
 潜降の仕方、昨夜何度もイメージトレーニングした。今度はうまくいきますように。
 船べりから後ろ向きに海面へ落ち、潜降ポイントまで泳いで移動する。
 BCDの空気を抜き切る。息を吐き続ける。苦しくなったらちょっとだけ吸って、ひたすら吐き続ける。
 すると…面白いように体が海底へ向かって沈んでゆくではないか。やった!これで僕も潜降ができるぞ。
 海中では、みんなで水中カメラで記念撮影したり、インストラクターに魚の名前を教えてもらったりした。ただ、僕はどうも空気を浪費してしまう質らしく、今度も45分の予定のところを30分でエア切れでリタイアしてしまった。
 また早く上がってしまった、くやしいな。でも、潜降がうまくできたからいいじゃないかと、自分で自分を誉める。

 「ゆっくり動いて中性浮力をしっかりとるようにすれば、無駄な動きがなくなり、エアを節約できます」(インスト)

 2本目、ツアー最後のダイブ。
 僕は海中ではせっかちになるのか、他のダイバー達の群れからいつも先に出てインストラクターの後について行こうとする。今度は、他のダイバーの動きにも注意しよう。中性浮力については、インストラクターとずっと同じ高度を保つようにして、とることにしよう。

 余裕が生まれると、周りの景色や海中生物が目に入る。
 ツノダシ。いかにも熱帯魚!という外見の菱形の魚で、背びれが角のように長く突起している。ハダカハオコゼ。茶色いボロキレのような魚だが、眼はガラスのようにきれい。「ペーパーフィッシュ」と呼ばれることも。
 こうしてゆるゆると海中散歩を満喫し、結果として、みんなと同じ40分の予定時間エアを持たせることができた。2日間の最後、4本目にしてやっと本来のダイビングの楽しさを垣間見たような気がした。


 帰りの車。往きは夜闇で見えなかった景色が見える。海辺に僅かばかりの家々が肩を寄せる小さな漁村。他のダイバー達は空気枕を首に巻いてスヤスヤ眠っている。
 長かったようで短かった2日間が終わり、海は夕焼けに染まりまさに暮れようとしていた。


1999年10月8日(金)

 来週の授業のノートを作っている。
 しかし、ほとんど教科書を写す作業なので、次第に飽きてきた。少しは自分のオリジナリティも加えねば。

 大学の授業は高校までと違って、教科書は授業によってあったりなかったりである。
 学生にとっては、教科書をひとつ指定したほうが、勉強のよりどころが出来てよい。教える側にとっても、精神的なよりどころになる。
 しかし、ともすると板書が教科書丸写しになって、授業がだれてしまう、そして学生が出席しなくなるおそれもある。それだけは避けたいと思っているが。


 今学期は「情報科学」という授業も担当することになっている。内容は要するにパソコン入門らしい。
 初めての担当なので、はて何をどう教えようか迷っている。何しろ、自分自身パソコンをどうやって覚えたのか、はっきりと覚えていないからである。
 でも、ひとつ確信しているのは、「ブラインドタッチ」を覚えればパソコンのマスターが格段に速くなること。ブラインドタッチはパソコン学習の大きな関門であると思っている。


1999年10月7日(木)

 やっとスキューバダイビングに行けることになった。
 8日夜に出発し、大月で9日10日と4ダイブする予定である。webで週間予報を見たら当日は晴れまたは曇りなので、よかった。
 大月は高知県の有名なマリンスポットなのだが、東京暮らしが長い僕は、一瞬山梨県の市かと思ってしまう。

 ところで、ダイバー達の魚に関する知識の豊富さには舌を巻く。記憶力のピークなぞとっくに過ぎてしまった僕は、とても覚えきれない。
 僕は個々の魚を見つけるというより、青い海や珊瑚礁といった景色を漠然と見て満足している。あるいは、泳ぐ行為自体を楽しんでいる。


 職場の方は、学会が昨日で終わった。
 ぐったりしてしまった。年配の諸先生と何度も言葉を交わすのは、それだけでも神経を使うものである。
 エレベーターに乗ったら、業界では名を知らぬものはいない某大先生と二人っきりになってしまった。
 僕はそれだけで大緊張してしまい、手足が硬直してしまった。おどおどしていると、その大先生にエレベーターの「閉」ボタンを押してもらい、大いに恐縮する。


 テレビは番組改変期で特番ばっかりやっている。
 正直言うと、見たいとは思わない。2時間近くもテレビに拘束されたくないだけである。


1999年10月5日(火)

 SPEED解散ですか…
 ビデオ持ってたし、ちょっとファンだったからさみしいな。デビューから解散まであっという間という気がするので、それが釈然としないが。
 深夜に帰ってきたのでニュースを見損ねた。新聞社のサイトを片っ端から見る。


1999年10月4日(月)

 今週は、僕の職場の大学で学会がある。それで、職場は当分雑用やらなんやらでばたばたする。
 そうでなくても、何かしらの会議や打ち合わせが意外と多い。その他雑用があったりして、研究に没頭する時間は少ないものである。
 来週から授業があるのに、準備が出来てない。やばいな。

 学会なので全国から先生方が集まる。
 東京時代の上司・同僚と飲んだ。学会参加者には松山の食べ処マップといったパンフも配られるが、これを眺めて「こんな店もあるのか」と、地元民の僕が感心している。普段、食事は職場や自宅近所の大衆料理屋でとったりあるいは自炊したりするので、全然知らないのである。
 グルメ関係はさっぱり弱いので、店のセッティングはO君にやってもらった。ご苦労様。


 風呂から上がった後ベッドに寝転がって本を読む時間が、一日の中で一番楽しい。この時間は僕の聖域である。

 最近は旅の本ばかり読んでいる。
 勤めているので夏休みに10日間海外に出かけるのが精一杯だが(それでも恵まれている方かもしれない)、アジアなどを長旅した紀行を読んだりしている。こんな旅が僕にも出来る日が来るのだろうか?と思いながら。

 今一番気に入っている旅行作家は、素樹文生(もとぎ ふみお)氏である。
 処女作「上海の西 デリーの東」(新潮文庫)、最近出た「クミコハウス」(求龍堂)を立て続けに読んだ。どこが気に入ったのかうまく言うのは難しいけど、切れ味の鋭い文章を書く人である。目の前の風景と心の中の思索とを巧みに交叉させている。
 今は、「旅々オートバイ」(新潮社)を読んでいる。
 (ホームページもあるよ。)


1999年10月2日(土)

 昨日、NHK-BSで矢沢永吉のライブをやっていた。一番感動したのは、客がみんなタオルを持っていたことだ。


 「客引き」をかわす事は、海外旅行で乗り越えなければならない事のひとつである。

 しかし、僕は普段の生活からして客引きから逃げなければならないのである。
 僕の家の近くには道後温泉があり、その近所には風俗店が何軒かある(らしい)。それで、近所を通るとその店の客引きによく声をかけられるのである。
 観光客に声をかけるのなら分かるが、いかにも地元民といった格好をした僕にも声をかけるのは理解に苦しむ。

 今日会った客引きのごときは、「お兄さん、ソープどうですか?」ひたすら無視すると、背後から「なんだよ、ざけんなよ…(ぶつぶつ)」と悪態をついてきた。
 こんなたちの悪い客引きは、外国でも見たことがない。


 「旅に持ってゆくもの」のページを大幅改訂した。改訂は意外と大作業で、一日かかった。
 今年の中国旅行の持ち物をリストアップしたものである。よかったら参考にしてください。

 いや、ホントに参考程度でいいんです。
 旅の必需品というものは、僕はないと思っている。ま、海外旅行にパスポートは必需品であるけど、それはおいといて。
 いろんな旅人が、あれは必要だ、これは欠かせないと言うが、それを全部まじめに受け止めて、あれもこれも揃えようとすると、旅の準備の段階でへとへとに疲れてしまう。情報に押し潰されているのである。
 旅の必需品はない。あると便利なものがある、という程度に考えればいいのである。


1999年9月30日(木)

 IZAMとひなの、とうとう離婚してしまったらしい。


 asahi.com(朝日新聞ホームページ)に上海新空港のことが載っていた。

 21世紀の東アジアのハブ空港を目指し、中国が約1700億円をかけて建設した新空港で、明日10月1日の国慶節に正式開港するとのこと。
 従来の上海虹橋空港は市の西端にあったが、新空港は近年開発が進む浦東新区につくられ、市の東端に位置する。

 正直言うと、自分が上海に行った直後のことなので、ちと悔しい気がする。


 今、中国旅行記の続きの構想中だが、紀行文を書くのは実は難しいのだ。

 旅の最中に起こったことをそのまま書けばいいように思われがちだが、そうすると、朝何時に起きて朝食を食って、ホテルを出て電車に乗って…、といった感じに文章が「流れて」しまうのである。
 旅で面白かった事、苦労した事、ポイントを絞ってうまく読者にアピールするように書き、その他の事は思いきって「省略」する。しかも、旅程の流れは崩さないように、つまり、自分がどのような工程で旅したかをおおまかに把握できるようにせねばならぬ。
 実に難しい。自分でも、上に述べた事どれだけ実現できているのか、覚束ない。

 僕は鉄道が好きなので、鉄道紀行で著名な宮脇俊三さんの作品を愛読している。例えば、氏の処女作「時刻表2万キロ」を読んでみると、省略の効果が小気味よく効いているのが分かる。


1999年9月29日(水)

 今日9月29日は「肉の日」らしい。残った豚肉でシチューを作った。
 牛乳を入れて仕上げるのを忘れてしまったのを、食後3時間経った今頃になって気付いた。しかし、十分おいしかったので、よしとしよう。

 いつまで続くか分からないが、自炊は全てが自己責任なので、精神衛生上よい。
 自宅や職場の近所には食べる所が少ないので、選べる食事が限られてしまう。それに、

 自宅で食事を作ってしまえば、これらの問題は全て解決する。


1999年9月27日(月)

 NHKの淡谷のり子さんの追悼番組を見る。
 戦争中ステージでもんぺをはく事を拒否したじょっぱりさに、敬意を表したい。それにしても、晩年行われた渋谷・ジァンジァンでのライブ、見たかったな。


 中国旅行記の第2篇をようやくアップした。ホームページの更新はなかなか骨が折れるのである。
 「中国についてふたことみこと」は、半分中国に対する愚痴である。しかし、文化や習慣の違いを体験するのも旅の目的である、と考えて納得することにする。


1999年9月25日(土)

 札幌から友人が来たので、1日一緒に内子を散策した。

 台風一過の青空、汗ばむほどの陽射しだったが、同時に秋の風も吹いて爽やかであった。
 お互い旅や鉄道、町歩きが好きなので、楽しい一日だった。友人は大いに満足してくれたようで、僕も内子は数え切れないほど訪れたが、ひとりでなく連れと一緒にいることで新しい発見もあった。

 夕刻松山に戻ってからは一緒に道後温泉に入り、外で夕御飯を食べた。
 旅のことを中心に、話は尽きなかった。
「これから何歳まで、今までのように旅が続けられるだろうか…」
 と、僕がふと不安をもらした。
「…うーん、でも、例えば普段の通勤路からひとつ違う道を行ってみるだけでも旅といえるわけで、年を経るにつれ制約は多くなるだろうけど、旅をしたいという意思があれば何らかの意味で旅を続けることは可能なのでは」
 と友人は答えたように記憶している。


1999年9月23日(木)

 祝日。ええっと、秋分の日だっけ今日は。


 久し振りに自炊してみた。松山に来てからは初めての自炊。東京にいた頃は、ステーキ、とんかつ、天ぷら、ハンバーグ…といろんな物を自分で作ったものだが。

 初めてなので、いろんな物を用意せねばならなかった。アパートにはコンロが備え付けてないので、ガスコンロを買うところから始めた。

 メニューは、誰もが自炊の最初に挑戦するカレーライス(昨日も食ったのに…)。近所のスーパーに行って、じゃがいも、玉ねぎ、にんじん、牛ブロック肉を買い物かごにつっこむ。そして、カレーのルーを探す。
 じゃがいもの皮をむいたり、肉を炒めたり、ひとつひとつの作業が楽しい。

 さて、無事カレーが出来あがり、盛り付けようとするのだが、深めの皿が見当たらない。しばし考えた末、信越本線横川駅・おぎのや「峠の釜飯」の容器に御飯とカレーを盛った。それで、ちょっとぐちゃぐちゃとかき混ぜる形でカレーを食べることとなった。


1999年9月22日(水)

 台風18号のせいで、23日のスキューバダイビング、peak performance buoyancy講習も中止になってしまった。なんで僕が潜ろうとすると天気が悪くなるのじゃ!不愉快だ!

 不安なのは、あまり時期が遅くなると、寒くなってウェットスーツで潜れなくなること。
 スキューバのスーツにはウェットスーツ・ドライスーツの2種類ある。ウェットスーツは体が海水に濡れるタイプ。それに対し、ドライスーツは体が濡れないタイプ(これが不思議といえば不思議なのである)。
 ドライスーツは体が空気に包まれて保温されるので、冬でも潜る事が出来る。しかし、体に浮き袋をしょっているようなものなので、ウェットスーツに比べるといささか泳ぎにくいのである。ドライスーツの講習も用意されているのである。
 僕としては、身軽なウェットスーツが使えるうちに潜ってしまいたいのだが。


 しかし、台湾の大地震の事を思うと、スキューバが出来ないと不平を言っている場合ではない。

 根本からボッキリ折れたビルディング。ニュースを聞くたびに死者の数が増えていく。阪神淡路大震災と同じ悲劇が彼地でも展開されているのか。
 こういう時僕に出来るのは何だろうか?専門的技術もないので、現地に駆けつけるわけにはいかない。義援金を送ることだろうか?せめて、無関心でいる事だけは止めようと思う。

 僕のアパートの一室は書庫にしてあり、本棚がずらりと壁に並んでいる。ところが、その本棚は壁に固定してない。というより、壁に穴が開けられないので、固定しようがないのである。
 大地震がくればお手上げだ。


1999年9月20日(月)

 真夜中に論文を書いている。
 毎年のことながら、夏は夜型の生活になる。昼間の暑い時間はどうしても駄目なのだ。涼しい夜のほうが仕事がはかどる。


 ところで、僕の部屋はモノが多過ぎる。モノに埋もれて部屋が散らかっている。
 戦中戦後の物資不足の時代を経験した人が聞けば怒りそうだが、モノが多過ぎてウンザリしている。散らかった部屋を整理するだけでぐったりしている。

 何故モノが多過ぎるのか、部屋が散らかるのか、僕の整理整頓の能力のなさが第一の原因だが、原因を他に探してみれば、例えばコンビニの袋。歯ブラシ1本だけなのに、自分は鞄を持っているのに、いちいち袋に入れて欲しくない。袋は即、部屋のゴミと化す。

 モノを与えれば客に喜んでもらえる、それがサービスになると考えているのなら、少し考え直して欲しいと思うのだが。


1999年9月19日(日)

 Kiroroのライブが終わった。夏が終わったという感じがした。

 志度町野外音楽広場テアトロンは、広くて、気持ち良くて、いい会場だった。背後に瀬戸内海そして小豆島が見え、時折汽船が通り過ぎる、景色のいい所であった。
 最初陽射しが容赦なく照り付けて、これは暑さとの闘いかなと思ったが、ライブが進行するにつれて日が傾き、すり鉢状に掘り込んだ客席が陰に覆われ、涼しい海風が吹き付けた。青空いっぱいに玉城千春さんの透き通る歌声が響いた。

 今年の夏はいろんな事をした。細坪基佳さんのコンサートを見に東京まで行った。中国。がたぴし揺れるバスやタクシーに乗って、広い町を歩き回った。そして、Kiroro。よくぞここまで遊び呆けたものよと思う。
 しかし、旅を重ねていくと、人は想い出をつくるために生きているのかと、少し空しく思うことがある。終わりのない夏はないものかと思う。

 夜が空ければ月曜日。夏の楽しみが終わってしまった後の残暑はけだるいものがあるが、日常は容赦なくやって来る。
 論文を書かねば、学生の指導をせねば、10月になれば大学院の授業もやらねば。いろいろとやらねばならぬことがある、頑張らねば。


1999年9月17日(金)

 日曜日は、Kiroroの野外ライブを見に行く。
 会場は香川県志度町野外音楽広場テアトロンという所である。「四国まるごと自慢」(愛媛新聞社)によると、瀬戸内海に面する野外劇場であり、固定客席のある野外音楽施設では日本最大とのこと(固定客席数5000)。

 何時の電車で行こうかな、と考えているうちに、また旅の虫がうずいてきた。ついでに一泊二日で岡山県を旅してこようかな、という考えが念頭に浮かんだ。
 伯備線清音(岡山県)と福塩線神辺(広島県)の間に、今年第3セクター・井原鉄道が開業した。平成11年1月11日午前11時11分11秒に一番列車発車という、1並びの開業である。僕は鉄道ファンでかつ未乗であるから、是非乗りたい。
 新線乗車ついでに沿線の観光もしたい。

 土曜日にこれらのプランをこなして、日曜日にライブという魂胆である。
 時刻表をめくってプランニングするだけでも楽しい。


1999年9月15日(水)

 台風一過の松山は薄日が射している。

 さて、中国旅行記を帰国2週間目にしてようやく掲載しました。2部構成(予定)の前半だけですが、お暇な時に御覧下さい。暇でない方、せめて上海・外灘のスケッチだけでも御覧頂けたら幸いです。


1999年9月14日(火)

 敬老の日はスキューバダイビングに行ってpeak performance buoyancy(buoyancyはボイヤンシーと発音)という講習を受ける予定だったが、台風で中止になった。
 重い器材かついでショップまで行ったのに、タクシー代が無駄になった。まあ、無理して潜って流されてはたまったもんではないし、水に潜ってしまえば同じといっても、天気が悪ければダイビングする意欲が萎えてしまう。
 9月23日(木・祝)にリベンジ・ダイビングする予定。

 ひとりぼっちで雨音を聞く。外を車が通過する度に、ざぁーっと水をはねる音が室内に届く。雨は嫌いだ。憂鬱な気持ちがさらに憂鬱になる。


1999年9月13日(月)

 カリスマ美容師の事を話題にするや否や、その一人が無免許であった事がニュースで報じられた。あらま゛ぁ。


 深夜のNHKで新幹線の特集をやっていた。僕は鉄道が好きなので、つい見た。

 深夜の保線作業、保線用の車両「ドクターイエロー」(新幹線で黄色い車両を御覧になった方もいるだろう)のことなどをやった後、「0系」に話題が移った。0系とは新幹線の初期の車両で、1986年に2階建ての100系車両が現れるまで新幹線の顔だった。その0系も、東海道新幹線では9月18日を最後に姿を消す。
 富士市内の公園に0系新幹線が保存されている様子が映っていた。まるで蒸気機関車みたいに。
 新幹線は新しい幹線、「新しい」という意識があるので、こうして歴史的遺産のように扱われると妙な気分である。でも、新幹線も1964年の開業以来35年経っているのである。

 そういえば、東京から松山に引っ越して以来、新幹線から縁遠くなった。四国に新幹線が走っていないからであるが、松山に来て以来飛行機に乗る機会がぐんと増えて、鉄道自体から縁が遠くなった事もあるだろう。
 鉄道ファンとしては、由々しき事態である。


1999年9月12日(日)

 So-netのホームページのスペースをほとんど使いきってしまった。画像をたくさん置いたので、5MBなんてすぐになくなってしまうのだろうか。それで、新たにプロバイダ契約をした。(お金払っても容量追加できるならそうするのだが、So-net U-pageでは出来ないのである。)
 InterQといって、ホームページ容量50MBというのが魅力で契約した。これならほぼ無尽蔵だ。
 とりあえず「松山日記。」をInterQに引っ越した。これからアップする旅日記もInterQに置く予定である。
 「松山日記。」では、自分のホームページの他のページへのリンクは相対パスで行っていたので、画像など表示されないものがかなりある。申し訳ない。これから少しずつ直していく。


1999年9月11日(土)

 カリスマ美容師というのが最近人気らしいが、いったいどういう美容師なんだろう?
 洗髪の時かゆいところを一発で当ててしまうとか、最後のマッサージが異様に気持ちいいとか。

 それはともかく、美容院の質問は答えようがないものが多い。
 「かゆいところはありませんか?」はよく言われるが、その他にも、最初に聞かれる「どういう髪型にいたしましょうか?」も答えにくい。僕はヘアスタイルの雑誌は読んだことがないし、どういう髪型が流行っているかさっぱり分からないので、「短めにカットしてください」とか言ってごまかす。


1999年9月10日(金)

 槇原敬之の事件で気が付いたが、テレビのニュースなどでは覚醒剤を「覚せい剤」と記すようである。つまり「醒」をひらがなで書くのだ。
 辞書で調べたら「醒」は常用漢字でなかったが、そのせいかな?そんなに難しい漢字でないのに、と思うのだが。


 今日路面電車に乗ったら、腕をさすっている人が多かった。冷房が寒いのである。
 そろそろ冷房が体にこたえる季節かもしれない。自宅でも少し冷房を控えようかと思う。
 ところで、中国でバスに乗ったら、冷房ありとなしとで運賃が違っていた。蘇州の場合、冷房ありが2元、冷房なしが1元(市内均一)。1元はだいたい15円くらい。


 ZAKZAKを見ると、1999年9月9日9時9分9秒に、チューリップのメンバーが金閣寺に再集結、京都市内の会場でコンサートも開いたという。
 あらまー。そんなイベントがあったんすか。ファンの僕が知らなかったとは迂闊だった。
 何でも、20年前「9並びの瞬間に金閣寺で会おう」とファンと約束を交わしたそうである。20年前=1979年というと、「虹とスニーカーの頃」がヒットした頃ですか。

 この日はメンバーのうちリードギターの安部俊幸さんだけ欠席。彼はインドに在住しているという。なんでまた?


 中国旅行記、やっと書き上げたと思ったら、So-netのホームページ用スペースが使い切ってしまい、ファイルをアップロードできない。
 あれまあ、新しいプロバイダと契約せねばならぬ。


1999年9月8日(水)

 池袋で通り魔事件があり、一人亡くなったという。
 現場は東急ハンズの前。東京にいた頃、毎週末のようにここに来ていたので、他人事でない気がする。

 通り魔事件の犠牲者が2名になった。


 関朝之「たとえば旅の文学はこんなふうにして書く」(同文書院)を買う。
 これは、蔵前仁一さん、下川裕治さんetc.といった旅行文学の第一人者達へのインタビュー集で、旅の文学のノウハウが伝授されている。
 これを読むと、自分がホームページにアップしようとしている旅日記、まだどこか至らないような気がして、ますます中国旅行記の公開が遅れてしまう。旅行記といっても、人に読ませるものを書くのはなかなか難しいのだ。
 旅行記であっても、ただ事実を連綿と書き連ねるのでなく、読者に訴えたい真実を記すことが大事とのこと。


1999年9月7日(火)

 中国の旅日記をアップしようとして、なかなか出来ない。
 ホームページ更新を滞らせる原因のひとつは、地図がなかなかうまく描けないことである。一度グラフィックスツールで地図を描いてみたのだが、いまいち出来に満足できない。手描きで描きなおそうかと思っている。
 コンピュータによる描画は通常の絵画とはまったく別の能力を要するらしい。


1999年9月5日(日)

 激しい(僕にとっては)中国の旅から帰って、日本のJR列車にのんびり乗ってみたい気持ちに時折駆られる。特急のリクライニングシートに落ち着き、駅弁とプラスチック容器に入ったお茶を買って。旅の疲れを旅で癒すわけだ。
 僕は子供の頃福井県に住んでいたが、北陸本線は大阪と北陸を結ぶ特急「雷鳥」、名古屋と北陸を結ぶ特急「しらさぎ」など、実にいろんな列車が走っている所である。列車に乗って暇を潰すにはもってこいの路線である。
 今住んでいる松山を通る予讃線は、北陸本線に比べると列車のバラエティは少ないので、少しつまらない。
 それはともかく、特急列車の居住性に関しては、日本は世界でもトップクラスでないかと思う。車内が清潔で空調が入って、シートがリクライニングしてフットレスト(足乗せ)も付いて…。それらが全部揃っている列車は、日本を飛び出すとなかなかないのである。

 ようやく、中国旅行記を書き始めた。何事につけて怠け者の僕であるが、中国の旅日記を書かないうちに次の旅に出るのは避けたいので。


1999年9月4日(土)

 久し振りに「THE夜もヒッパレ」を見る。
 のっこが司会をやっているが、レベッカの頃の面影が少しも感じられないな。


 スキューバダイビングの「中性浮力」講習を申し込む(正確にはPPB講習というらしい)。学科講習1回に海での実習が2ダイブ。
 前回のダイビングが4月だから、かなりブランクが空いてしまった。ビギナーだというのに。もう1回プール実習を受けたいのが、正直な気分だ。

 ところで、僕が行っているショップでは、2ダイブの料金は西海(愛媛県)ビーチダイブ日帰りで13000円から大月(高知県)ボートダイブ前泊+1日で28000円となっている。ビーチダイブは海岸からじゃぶじゃぶ海に潜っていくダイブ、ボートダイブは船で沖合いに出てドボンと海中に入るダイブである。
 今回はコースフィー(受講料)20000円にPPB申請料6000円etc.というのもかかる。
 やれやれ。


1999年9月3日(金)

 下痢が完治しない。

 いくら食べることが苦手とはいえ、食は生活の基本である。おなか壊していると、なんか体がだるくて力が入らないし、一日が憂鬱である。
 とくに、いつ便意を催すか分からない、おなかに爆弾を抱えているような気分で、外出するのが怖くなった。


 先日、なま物でない食べ物はどれだけ日持ちするだろう?と書いたところ、蔵前仁一さんの「各駅停車で行こう」(旅行人)にこんな話が載っていた。
 著者ケニアを旅行中、日本食をおすそ分けしてもらった。ところが、これらの製造年月日が10年以上前の日付になっていた。
 僕ならためらいなく捨ててしまうところだが、それを敢えて食べてみたのが蔵前さんのすごいところ。結果は以下の通り。

焼肉のたれ
乾燥キンピラゴボウ
インスタント豆腐×


1999年9月2日(木)

 なま物はすぐ食べなければならない。では、なま物で無い物はいったいどれだけ日持ちするんだろう?するめとか梅干とか。

 今ポテトチップスを食っている。最近は「ポテチ」と呼ぶそうだが、鳳啓助みたい。
 それはともかく、このポテトチップスは中国旅行の前に買ったものである。少なくとも封を開けてから2週間は経っている。
 ポテトチップスならその程度では腐らないだろうけど(腐ったポテトチップスって???)、間に挟んだ中国旅行が随分長い事のように思えたので、ちょっと不安だった。しかし、週刊文春を読むと、人間は猛毒で知られるフグの卵巣も糠漬けにして食ってしまうそうだから(9月2日号「阿川佐和子のこの人に会いたい」)、2週間のポテトチップスなど屁でもないだろう。ちょっと理屈に無理があるが。
 ちょっと湿気てパリパリ感が落ちているところが味である。あと、ちょっと湿気た源氏パイも。

 おなかこわしているのに、こんなことしていいだろうか…


1999年9月1日(水)

 下痢が一向に治まらないので医者に行った。点滴を打たれた。


 つくづく僕は食べる事に才能がない。グルメ関係は弱いのである。

 第1に、味に関心が薄い。機内食程度の食事でも十分満足してしまうほどの味覚しか持ち合わせていない。
 食べ物の知識も乏しい。鮨屋に行っても個々の鮨を注文する事が出来ず、適当な盛り合わせセットを頼んでごまかす。焼き鳥屋に行けば焼き鳥の種類を知らない。海鮮料理屋に行けば、旬の魚が分からない。

 第2に、胃が弱い。小食である。
 緊張していたり、不安があったり、心の動揺があるとすぐ食欲に影響してしまう。食事がひとくちも喉を通らず、オエッと吐きそうになる。例えば、学会で昼休みの後すぐ自分の発表があったりすると、もう昼御飯を食べられない。
 グルメ番組を見ると、カツ丼を食べた後店を移ってラーメンをすすったりしている。テレビの収録だと全部平らげないかもしれないが、レストランの批評などグルメを仕事にしている人は、1日何食も食べる事があるだろう。僕にはとても出来ない。
 食は舌だけでなく胃でも味わうものかもしれない。


1999年8月31日(火)

 中国から帰ってきました。

 中国は何処かせわしくて、埃っぽい所だった。歩道は絶えず大勢の人が行き交い、車道はクルマが「ぷー」とクラクションを鳴らし〜ほんとに「ぷー」という音だった〜自転車や、後ろに荷台を連結して人を乗せるバイクが行き交う。
 「どかんがしゃんぴしゃん」という音が頭に残っている。舗装が悪いせいか、タクシーやバスに乗っていると、絶えずどかんがしゃんぴしゃんと振動するのだ。そして、町のどこかしらで工事をやっていた。

 最後までちゃんと食事をすることが出来なかった。中国の料理は一人で食べることを想定しておらず、いつも量が多すぎてしまい、それが精神的負担になった。今まで何処の国に行っても、一人用の食事というものがあったが。仕方なく韓国料理店やセルフサービスの店で食事をしたが、しまいには「食べる」ことが苦痛になって、ひどい下痢になってしまった。
 子供の頃は学校給食を食べるのが遅くて、現在も胃が弱く、僕は食べることには才能がないらしい。一人旅でも中国でちゃんと食事することが出来るのか、それが最後まで分からずじまいで、残念である。

 いろいろ書きたいことがあるが、それは後で旅日記にまとめるつもり。
 印象に残ったことをひとつ。日本の観光地に行くとよく「世界人類が平和でありますように」と書いた角柱が立っているが、それが蘇州の寒山寺というお寺にもあった。


 真夜中。旅の疲れですぐ眠れると思ったが、急に想い出が次々と頭の中に浮かんできて、目が冴えている。旅のラストでは、早く日本に帰りたいなぁと思っていたのに、何故だろう?
 ひと仕事終えたパスポートをめくってみる。ビザ→関西出国→上海入境(入国)→…→上海出境(出国)→関西帰国、と押されたハンコの間間が、中国で何があったか無言で語っているような気がする。

 自宅で荷袋をといて、上海の国際飯店にタオルを忘れていたことに気付いた。鼻炎で何度も鼻をかんでいたので(汚くてすみません)、少し愛着が移っている。今頃上海でどうしているんだろう、ゴミとして捨てられたかな、とも思う。
 旅立つ前、荷物を全部チェックリストにまとめておいた。ただし、荷物があまりに多すぎて、チェックアウトの度にいちいち全荷物をチェックすることは不可能だ。
 忘れ物の多い僕のこと、忘れ癖を嘆くよりは、忘れると大変困るものだけチェックして、いつも旅立った。パスポート、帰りの航空券、クレジットカード、トラベラーズチェック、そして好きなスケッチの道具。それさえあれば旅が続行できた。

 僕の両親は「無事で帰ってきてくれさえすれば、それが一番の土産だよ」というに決まっている。でも僕は、手描き絵柄のシルクのハンカチを土産におくることにする。


1999年8月22日(日)

 昨日の持ち物リストに忘れたものがあった。


 海外旅行というと、大きいスーツケースを持って来たりする人もいるが、僕はスリーウェイバッグ1つだけである。また、僕は日本食に郷愁を感じない体質なので、梅干やお湯で戻して食べるおにぎりなどは持参しない。海外旅行へ行く人の中では、荷物は少ないほうだと思う。

 それなのに、何故こんなに持っていくものが多いのだろう。何か忘れているものはないかひとつひとつ揃えるだけで、神経をすり減らしてしまった。
 生活の全てを日本から持って行こうとしているからかもしれない。ないものは現地調達すればいい、そういうのを買うのも旅の思い出になるのだが、なかなか思い切れないのが僕の弱点なのか。

 初めての海外旅行、下関から釜山へのフェリーの中、カメラバッグにタオルを1本だけ入れた旅人に会った。これくらい荷物を少なく出来たら楽なんだが。


 準備に苦労したりするが、僕は旅に出る。

 旅することは、心の窓を開けることかと思う。
 日々の暮しが幸せだろうと不幸せだろうと、同じような日常が2、3ヶ月続くと、それを破ってみたくなる。違う国や地方の暮しに触れてみて、新鮮な気持ちで心を満たしたくなる。
 それに、人間は1回しかこの世に生きることはできないから、自分の暮している文化圏以外に、この世にどのような日常があり、どのような文化が息づいているか、一生の間にできるだけ沢山見てみたいというのは、当然の感情ではないか。

 というわけで、しばらく心にそよ風を吹かせてきます。


1999年8月21日(土)

 福岡のホテルに垢すりタオルを忘れてしまった。無念。


 夜中に日テレの24時間テレビを見たら、ナインティナイン、笑福亭笑瓶、優香とかが出ていて、珍映像集とやらをやっている。へえこういうのもやっているのか。

 その映像集のひとつ。マラソンで某選手が苦痛に顔を歪めていた。やがて彼はコースアウトし、おもむろに草むらにしゃがみ込み、のぐ●をしていた。レースに復帰した彼は爽やかな表情で、見事準優勝した。

 ああ僕だけでない、と同情するひととき(僕も中学校のマラソンで、スタート時点から腹具合がおかしくなり、便意を我慢しながら走り続け、ゴールするや否やトイレに書けこんだことがある。ただし僕はビリ近くの成績)。


 中国旅行の荷造りをしている。

 旅に持って行くもののリストをTeXで書いてみた。PDFに出力したのでアップしておいた。
 さいとう夫婦「バックパッカーパラダイス」(旅行人)、オーシロ カズミ「娘ひとりのアジア大陸シルクロードの歩き方」(立風書房)にそれぞれ作者の旅の持ち物のリストがイラストで紹介してある。これは結構便利である。これらを参考にしながら、これは持っていく、あれは置いてゆくと、試行錯誤した。
 荷物は出来るだけ少なくする。
 肌着兼用のTシャツは4枚だけ持って行き、現地で洗濯する。ノートパソコンを持っていこうか迷ったが、結局置いて行く。
 迷ったら持って行かないのが原則。

 とはいえ、こんなに荷物があるのかと、ウンザリした。


1999年8月19日(木)

 中洲で飲んで、少し吐きそう。

 「春吉橋」という所に行ってみたかった。
 またチューリップの話で恐縮だが、チューリップの歌に「博多っ子純情」というのがあって、その歌詞に春吉橋が出てくるのである。夜の女が春吉橋で愛が欲しいと涙流す、と歌われている。
 それだけで、行きたいと思った。

 ミーハーと思うなら思ってくれ。
 僕は大学に受かって東京に来て、すぐ「無縁坂」に行った。グレープ(さだまさしがかつて所属したフォークデュオ)の「無縁坂」という歌が好きで、その歌に憧れて来たのである。
 実際来てみたら、東京の閑静な住宅街のひとつであった。確か、たんぽぽ幼稚園というのが近くにあったように覚えている。春の穏やかな陽射しを受けて、いい所であった。

 春吉橋に行ってみた。
 地下鉄祇園駅から、山笠で有名な櫛田神社へ行く道の、さらにその先に春吉橋がある。クルマがやかましく行き過ぎる、大都市の一角である。ストリートミュージシャンがギターをかき鳴らしていた。夜の女に少しなりきって、物思いに耽ってみた。

 橋の近くには、有名な「屋台」が軒を連ねている。その一軒で飲んだ。
 ラジオは福岡ドームのダイエー・オリックス戦を中継している。延長戦に入ったが、オリックスに3対4と逆転された。もう駄目かな、ホームランが出てくればな、と女将と話していた。
 ダイエーの攻撃、2アウト、1・2塁と走者が出たところで、なんと柴原が逆転ホームランを打った。
 僕はダイエーのファンではなかったが、何となく情が移って、その夜は祝杯をあげた。


1999年8月18日(水)

 朝5時55分。

 こんなに朝早く起きているのは、FBS(福岡放送)「朝ドキッ!九州555」を見ているからである。元チューリップ→現(?)The Alwaysの姫野達也さんがキャスターをしているのである。
 冒頭のテロップには、チューリップ姫野達也と紹介されているし、CMに入るたびに「ぼくがつくった愛のうた」が流されるではないか。チューリップ・ファンにはひとつひとつが嬉しい番組だ。

 The Alwaysのコンサートでは安部俊幸さん(元チューリップのギタリスト)がずっと喋っていて、姫野さんは無口だった。ところがこの番組では、キャスターだから当たり前だろうが、よう喋る喋る。人は変わるものだ。
 姫野さんも、月曜から金曜まで朝5時55分の番組のレギュラーを持っていては、夜の楽しみが全部犠牲になるだろうに。


 学会発表終わってホッ。


 「クイズ赤恥青恥」を見た。いまの小学生は生きてる石原裕次郎を知らないのか、ショック。

 借金を重ねて自己破産しようと弁護士に相談している人(もちろん顔モザイク)に、問題を出すことはないだろう。案の定「知らない!」とキレてる人がいた。
 いっそのこと、死刑囚に問題を出したらどうだ。刑執行直前の目隠しをされている状態で、「ところで、おちょこの底の青い2重の輪っかは、何のためにあるでしょう?」と聞くのだ。
 もし分からないと、「何故輪っかはあるのだろう?」とこの世に大きな疑問を残したまま、あの世へいってしまうのだ。

 (ちなみに、おちょこの輪っかはお酒の透明度を見るためにあるそうだ。へえ、初めて知った。)


1999年8月17日(火)

 福岡へ学会出張。

 日本エアコミューターYS-11機に乗ってきた。戦後初の国産旅客機、プロペラ機である。
 途中、結構ガクンガクンと揺れた。天気が悪く気流が乱れたのである。揺れるだけなら我慢できるが、空中である。下に何もないのが怖い。
 50分の間ずっとシートベルトのサインが消えないまま、福岡空港によたよたと着陸。

 帰りのJAS機はキャンセルした。電車と船でのんびり帰ることにする。


 ホテルサンルート博多に宿泊。博多駅のすぐ横である。

 ここは寝室の電話機にモジュラージャックのコンセントがついているので、インターネット出来るのがありがたい。こういうのは、ホテルの重要なサービスと考えて欲しいものである。
 ホテルによっては、どういうのか分からないが、昔の黒電話と同じ感じで電話線をがんじがらめにつないでいる所もあり、インターネットしようにも線が繋げないことがある。


1999年8月16日(月)

 8月13日で言っていた使い残しのトラベラーズチェック(T/C)、結局控えが見つからなかったので(というより、探す気力がなかったので)、銀行で一旦現金化し、新しいT/Cを発行してもらった。大変時間がかかった。
 控えなんてT/Cと一緒にクリップにとめて自宅に保管すればいいのに、何故ないんだろう?自分の粗忽さに腹が立つし、苛立つ。

 大学では、打ち合わせがひとつあったのを忘れてしまった。大変恐縮する。
 どうしたら忘れないで済むのだろう。覚えたそばからぽろぽろとこぼれ落ちるようにものを忘れる。
 家に帰り、財布を部屋のどこかに置く。1秒後にはもうその「どこか」を忘れてしまっているくらい重症なのだ。「財布どこ?」と部屋中探し回る。
 とにかく、どうすれば忘れないですむか、教えてほしい。


 大学からの帰途、カレー屋で夕食(ビーフカレー、生ビール)。

 店のテレビでは、離婚しかけた夫婦を芸能人が仲裁するという番組をやっていた。夕餉時にこういう番組を見るのは不愉快なので、マスターにチャンネルを変えてもらった。NHKのニュースのほうが、無色無臭でよい。
 わがままな客と思われるかもしれない。クレーマーと呼ばれても仕方ないかもしれない。しかし、顔にモザイクのかかった男女が罵り合っているのを飯食いながら見るのが好きだという人がいるのだろうか。

 いずれにせよ、飯を食いながらのテレビはよくないかもしれない。いきなり、便器をブラシでこすっているCMが飛び込んでくることもある。


1999年8月15日(日)

 黙祷の時間、僕は眠っていました。ごめんなさい。

 代わりにというわけではないが、「知ってるつもり!?」のひめゆり少女学徒隊を見た。
 去年僕は沖縄へ行って、その土地柄が大いに気に入った。しかし、ひめゆり部隊や沖縄戦の話を聞くと、そう気楽に「気に入って」いいものかどうか不安になる。
 エメラルドグリーンの海が眩しい沖縄、戦争の悲劇が重くのしかかる沖縄。二つの沖縄が僕の胸の中にある。


1999年8月14日(土)

 麻布のサルがついに捕まったという。
 僕は、みんな「もういいや」とほったらかしていたとばかり思っていたので(思うな!)、驚いた。捕まったサルは爺さんみたいな顔をしていた。


 webの掲示板で、飛行機のチケットはどこで買うのでしょうか?という質問があった。
 確かに、飛行機に乗ったことがないと、どこで買えばいいか分からないかもしれない。鉄道の駅と違って、空港は市中から離れた所にあるという事情もある。
 僕の初めての海外旅行は韓国、「日韓共同きっぷ」という新幹線・下関釜山間フェリー・韓国国鉄セマウル号がセットになったチケットを使った。というのも、僕は鉄道が好きで、当時飛行機のチケットをどこで買うのか分からなかったので、鉄道旅行の感覚で海外旅行できるこのきっぷを買ったのだ。


 買い方が分からないといえば、若者相手のブティックもそうである。

 今日僕はTシャツを何枚かまとめて買おうと、ラフォーレ原宿松山に入った。館内にはブティックが軒を並べている。
 ところが、どこで何を買えばいいのか分からないのである。つるしてある服が紳士用なのか婦人用なのかさえ分からない。普段ファッションにほとんど関心がないから、どういう服を買いたいかと焦点が定まらないこともある。

 とりあえず1軒の店に入る。男が一人にじり寄って「何をお求めですか?…Tシャツですか。ストリート系の感じをお求めですか?」
 ストリート系って、最近テレビなどで見かける、LPレコードをキュキュキュキュとこすっているのに合わせて踊っているような人のことかしら?
 容姿は問わないので適当に受け答えし、何も買わないわけにもいかなくなったので、5千円位、Tシャツとしては高めのものを1枚買って辞去。

 その後結局「無印良品」に入り、1枚750円のを3枚買い求めた。


1999年8月13日(金)

 勤労意欲を減退させる暑さよ。

 トラベラーズチェック(T/C)を買った。
 T/Cで厄介なのは、控えである。紛失・盗難の際再発行に必要だから、T/C本体とは別に保管しなければならない。貴重品といっても、海外旅行ではパスポートから航空券と数が多いから、控えを別に保管するのは結構頭を悩ますのである。
 ところで、自宅には今まで使い残したT/Cもある。控えが見当たらないので、よく探して見つからなかったら、一旦換金してT/Cを作り直すとするか。


 さて、ここで下痢や腸弱のことばかり書いていたら、実家から薬が送られてきた。あかぶくろ胃腸薬本舗「弘真胃腸薬」という顆粒である。心配をかけたようで、心苦しい。
 下痢薬というと、正露丸、ワカ末やこのあかぶくろのように、十年一日昔のままのものが安心感があるのは、どうしてだろう?


 あかふくろ、1服飲んでから効能書きを読んでみたら「胃痛、胃酸過多、胃重、胃部・腹部膨満感、…」とある。
 あれ、下痢止めではないのか。僕が勘違いしていたようだ。

 家に帰ってから、「驚きももの木20世紀」で加藤登紀子を見る。


 ウルトラセブンのサイトを見ていた。
 全部の回のストーリーを紹介しているのが凄い。怪獣・宇宙人のイラストも凄い。ストーリーで腑に落ちないところは突っ込みをいれているのが面白い。
 セブンのある回で、地球防衛軍と宇宙人が宇宙空間で戦闘をしていたのを記憶している。ロケットが爆撃され、墜落した。無重力の宇宙空間なのに、何処へ墜落するのだろう?
 でも、ウルトラセブンは好きだった。ついでに怪獣では、円盤に変身できる竜型の怪獣「ナース」が好きだ(名前は「ナース井出」を連想させる)。

 特撮物の話が出たついでに。
 昔、僕は人前でギターを弾く度に、「キカイダーみたいだ」と言われた。あまり面白くない。

#上記のウルトラセブンのサイトは、「イレソリアン」という所からリンクできます。


1999年8月12日(木)

 今日は日航機墜落事故の日である。
 あの頃僕は福井県内に住む高校3年生であった。その日は福井市内へ映画を見に行って(「ビルマの竪琴」であった)、家に帰ってテレビをつけたら、羽田発大阪行きの日航機が行方不明になったと大騒ぎになっていた。その夜は、もしや自分の親戚は乗っていないかと搭乗者名簿を逐一テレビで確かめていた。
 たまたま映画を見に行くという特別なことをしていたので、その日付を鮮明に覚えていた。

 松山に住むようになって、飛行機に乗る機会が多くなった。


 大街道に出てみたら、松山まつりの最中であった。
 「野球拳踊り」というのをやっていた。会社や学校などのグループが「連」を組んで、例の♪アウト・セーフ・よよいのよい、の音楽に合わせて、街を練り歩き踊るのである。間違ってもコント55号みたいなことはやらない。当たり前か。
 東京にいた頃は夏祭りに振り向きもしなかったが、しばらく立ち止まって見物した。


1999年8月11日(水)

 ああ、来週の学会のOHP作らねばならないというのに…(発表は1週間後、しかも英語)

 昨日「腸弱会」のホームページを見ていて、高校生の時見た「パンツの穴」という映画を思い出した(エロ映画ではありません)。覚えているかな?菊池桃子のデビュー作である。
 「Bomb!」か「Momoco」のどっちか忘れたが、要するにその雑誌に腸の弱い人たちの投稿コーナーが載っていて、それを映画化したものだと記憶している。

 この中で忘れられないシーンがある。
 下痢をして体育を見学している男子高校生が、そっと抜け出して女子更衣室に忍び込む。脱いだ服の匂いをかいで喜んでいたら、突然女子達が戻ってきたので、慌ててロッカーの中に隠れる。
 ところが、こんな時に便意が下腹部を襲うのだ!女子の一人が「あれ?このロッカー開かないよ」と、自分の隠れているロッカーを開けようとする。お尻の穴をぎゅっと締めながら扉を引いて開けさせない。力を入れるから余計便意が激しくなる。そして、ついにもらしてしまう。更衣室に悪臭が立ちこめる…

 ああ、腸弱人(私を含む)はこれを読んだだけでもうだめだ。しかし、下痢をしているときに覗きをするかなぁ。


 持田真樹・持田香織。Every Little Thingのボーカルはどっちでしょう?
 アントニオ古賀・アントニオ猪木と同じ位、区別を付けにくい。


1999年8月10日(火)

 ちょっとショックなニュース。

 日本テレビの山王丸和恵アナウンサーが結婚されるそうだ。「ジパングあさ6」のメインキャスターをされている方である。
 おっさんの読む週刊誌に女子アナ記事がよく出るが、そういうものにはほとんど出てこなかった。でもファンだった。「ズームイン!朝」で天気予報をしている時からファンだったので、お祝いするにやぶさかでないが、少しさみしい気持ちは否めない。

 例えばアイドル歌手のファンになったとしても、自分と彼女とでは住んでいる世界が違うから結婚することなんかない、とみんな思っている。でも、本当に結婚されちゃうと、やっぱりさみしいんだ。


 来週福岡へ行く。
 往きの飛行機は、日本エアーコミューター(JAC)130便だ。機種はあのYS‐11。
 YS−11に乗るのなんて初めて、楽しみだ。

 空港の展望ロビーに立つと、ジャンボジェット機に混じって、ローカル便用の小さい飛行機が止まっているのに目を引かれる。JR駅で幹線特急が忙しく発着する片隅で、寂しく発車を待つローカル線鈍行列車を見るような思いだ。
 一声かけて励ましたくなる。


 「腸弱会」というホームページを見ていた(湘南から元気倶楽部からリンクできます)。
 見ての通り、腸が弱くすぐにトイレに駆け込む人達のサイトである。電車の中・仕事中・デートの最中もよおしてしまったさあどうする?あるいは最後の一線を越えてしまった人達の体験談が面白く、かつ同情を覚える。

 それにしても、この前東京へ行ってへとへとに疲れたことの一つが、トイレがいつも混んでいることである。
 日曜の夜11時、JR品川駅のトイレ、個室が全部使用中だった!いったいどこからこんなに人が湧いてくるんだ?東京は人が多すぎる。

 もっとも、松山とて問題がないわけではない。
 市内の交通手段は路面電車であるが、停留所にもちろんトイレはない。ビールを飲んで、帰ろうと電車を待っていると、小用に行きたくなる。尿意が強くとなると便意のほうももよおされるらしく、困ったことだ。
 この前大街道で飲んだとき、電車を待っている間のトイレが怖くて、タクシーに乗るという贅沢をしてしまった。


1999年8月9日(月)

 中国旅行の航空券引換券、ホテルのバウチャーなどを受け取る。航空券は関西空港で引き換えることになっている。

 受け取った書類には、帰りの飛行機の予約を10日前から72時間前までにリコンファームしてください、と書いてある。
 海外旅行のとき、帰りの飛行機の予約を72時間前にリコンファームせねばならないことは、よく知られている(最近はリコンファーム不要の航空会社もある)。しかし、何日前からリコンファームできるのだろう、とある本に書いてあった。例えば2週間前に予約を取ったとすると、そのとき同時にリコンファームもすませることはできるのか、とあったが、これで疑問が解決した。

 僕の場合は9日間だから、上海に着いてからすぐリコンファームすればいいわけだ。ひょっとしたら、出発前日に中国国際航空のオフィスに電話してリコンファームすることも出来るのだろうか?


1999年8月8日(日)

 東京に行ってきた。

 6時半に起きてタクシーで空港に行って、9時発のJALに乗った。
 眠ったのが明け方4時半。ほんとうはもっと早く床に就いたのだが、早起きせねばという緊張で眠れなかったのだ。この不眠症どうにかならないものか。ああ体がだるい。

 羽田空港近くのホテルに荷物を預ける。
 ほんとうなら寝室で一眠りしたいのだが、チェックインは午後3時からということで、炎天下に放り出される。日本のホテルはチェックインが遅すぎると思う。外国なら遅くとも正午までには部屋に入れる。

 「ちひろ美術館」という所へ出掛けた。童画家いわさきちひろの美術館である。西武新宿線・上井草駅から徒歩7分。山手線、西武線の居眠りで睡眠を補う。
 小さな美術館には大勢の人がいた。同好会か何かの集まりのような雰囲気である。今日はたまたまいわさきちひろの命日であるが、それもあるかもしれない。
 やさしいタッチの子供の絵や写真家吉田ルイ子さんのドキュメンタリー写真を眺めてから、「あかちゃんライブラリー」という部屋へ行ってみた。ここは小さい子供に本を読んで聞かせたり遊ばせたりする所であるが、絨毯の上でごろ寝できないかと、お行儀悪いことを考えていた。しかし、次から次へと人がやってきて落ち着かないし、バツが悪い。

 再び都心に戻り、六本木プリンスホテルへ。細坪基佳ワインライブの会場である。少々心配していた服装のことだが、男性は一人ネクタイの人がいた他はみんな柄物のシャツで、安心した。
 客はいわゆるオバさんの年頃の女性がほとんどである。ふきのとう(細坪さんが属していたフォークデュオ)と一緒に青春を過ごした人達であろう。なお、ふきのとうのデビュー曲「白い冬」の時、僕は小学1年生であった。
 ライブの詳しい模様はホームページのふきのとうのコーナーで書くと思うが、久し振りに細坪さんの美声を堪能した。「ティンクナ」というアンデス音楽のグループとも共演したりして、大いに盛り上がった。

 夜11時過ぎに宿に到着。寝室に入るや否や、バスタブに湯を溜めて入浴。一日中ヒートアイランドを歩き回って、体中汗でドロドロだった。


1999年8月7日(土)

 最近ランキング流行りなのかなという気がする。
 音楽のランキングは古くからあるが、音楽以外にも本、漫画、スナック菓子、ゲームソフトなどのランキングをテレビでやっている。

 僕が知りたいのは、下痢止め薬のランキングだ。
 正露丸なんか、くさいくさいと言われながらも、ベスト3以内に入っているんじゃないかと思う。しかし、正露丸、ワカ末、ビオフェルミン以外に下痢止め薬があったかなぁ、僕は思い出せない。

 他に鼻炎薬のランキングも知りたい。要するに僕の持病じゃないか。


 明日一日だけ東京に行ってきます。
 細坪基佳さんのライブを見に行くのである。松山は東京に比べるとコンサートの類が少ないので、好きなミュージシャンを生で聴きたいとなると、遠出をせざるを得ない。

 インターネットの情報では明日のライブは「ワインライブ」ということになっていた。ファンクラブに電話してチケットを取り寄せると、「細坪基佳ディナーショー」と券面に印刷されている。ワインだけでなく飯も出るらしい。
 チケット代は18000円。ライブと考えると高いが、ディナーショーでは安い部類に入るであろう。
 僕はディナーショーには行ったことがないので、どんな服装をして行けばいいかちょっと気になる。背広を羽織るのは嫌いだし(年に2,3回しか着ない)、この暑さでネクタイを締めるのは億劫である。
 まぁ、クラシックのコンサートではないし、チケットを隅から隅まで見ても正装して来いとは書いてない。襟付きのシャツを着てくれば十分だろう、と判断しておく。

 さて、明日は朝9時の日航機で松山を発つ。
 少しでも安いチケットはないかと探したら、こんな早い時間になってしまった。東京に着いてからも、ライブまで時間を持て余してしまう。どうやって暇を潰そうか?


1999年8月6日(金)

 「落書きノオト」を更新した。
 Kiroroのボーカリスト玉城千春さんの絵は、簡単化と思いきや意外と苦戦した。油断すると顔面が五木ひろしになってしまうのである。ビデオやファンクラブの会報を見ながら、苦戦した。
 Kiroroといえば、ツムラのクールバスクリンのCM。健康的過ぎて、あれだけ欲情をもよおさない入浴シーンも珍しい…といえば失礼かな。


 大街道へ行き、居酒屋に入って、辛いものばかりこれでもかと注文した。
 暑さで疲れてストレスも溜まっていたので、刺激のある味覚が欲しかったのだ。この世にキムチが存在して良かったと思う。
 日本では暑いときソーメンでしのぐ人がいるが、東南アジアは1年中夏だ、ソーメンみたいなのばかり食べていてはばててしまうから、辛い味付けをして食べ易くしてスタミナを取る、と聞いたことがある。
 海老チリソースに豚肉のキムチ炒め、ぴり辛スープ…腹が膨れた。

 夏の食べ物といえば、去年の夏沖縄に行った時、ゴーヤチャンプルーが気に入った。オリオンビールと一緒に食べるとうまい。
 ゴーヤの苦味が暑さで疲れた体に心地よい刺激となる。適度にボリュームがあり、適度にさっぱりしている。
 ゴーヤチャンプルーと沖縄そばだけで、一生に一度は沖縄に住みたいと思うくらいである。


1999年8月5日(木)

 今日は雨だった。このところ、毎日のように「九州・四国、大雨のおそれ」というニュースを聞いているような気がする。
 雨が嫌なのは濡れるからではなく、傘を差すのが面倒くさい、あるいは旅先では体力を激しく消耗してしまうからである。


 「旅行鞄にスケッチブック」おかげさまで3000アクセス超えました。日頃の御愛顧、ありがとうございます。


1999年8月4日(水)

 「養命酒」を買った。1瓶1998円(税抜)である。
 「酒」であり、実際アルコール分を含んでいるが、仕事中に飲んでいいかな?それに、「1回20ml、1日3回、食前または就寝前に服用する」とあるのに、昼食後に飲んでしまった。


 桜庭あつ子、羽賀健二絡みの件ですっかり有名になってしまいましたね。


 訂正。羽賀健二は「羽賀研二」が正しい。ついでに、桜庭あつ子は「あつこ」が正しい。


1999年8月3日(火)

 最近、午後は毎日会議や打ち合わせで毎日潰れる。
 その他にも公私ともども予定が入っているから、今月の学会の準備、少しペースを上げないと間に合わない。それにしても、会議というもの、ただ座っているだけでも、なんでこんなにへとへとに疲れてしまうのか。

 …というわけで、早く学会発表の準備をせねばならぬので、今夜遅くまで仕事部屋に残って、発表用の数値計算データを揃えた。
 あとは、発表用のOHPを作るだけだ。


 日本海側はフェーン現象で殺人的な暑さという。上越市(新潟県)で37.8度かぁ…
 僕も、確か1994年だったか、東京で36〜7度の気温を体験した覚えがあるが、あんときゃ、冷房の効いている家から一歩外に出たら、あまりの暑さに体がそり返ってしまった。熱が圧力を持ってるんよ。家の中に押し返されそうだった。


 早くも夏バテか?体がぐったりしている。
 マオタイ酒を口にする。少し元気が回復したみたいだ。そうか、そういう酒の用途もあったか。養命酒のノリだ。
 しかし、マオタイ酒は余程糖分が多いのか、瓶の口に砂糖みたいなのが付着している。

 韓国料理・タイ料理みたいな辛いものが食べたい。
 東京にいた頃は、家の近所にロイヤルホストがあって、そこで年に1回タイ料理フェアをやっていた。ガイパッバイカパオとかいう舌を噛みそうな名前の混ぜ御飯をよく食べたが、今となっては懐かしい。
 今住んでいる所は、食堂があまりない。ファミリーレストランなんか、郊外へ行かないとなさそう(僕は車を持ってない)。うどんは好きだが、うどんだけでは精が出ない。


 Yahoo!Taiwanで調べた。

披頭四ビートルズ
木匠特區カーペンターズ
恰克與飛鳥Chage & Aska
美夢成真Dreams Come True

 雑学ばかりで少しも進歩しない、僕の中国語。


1999年8月2日(月)

 仕事部屋の窓から向かいの建物を眺めると、鳩が何羽も止まって羽根を休めている。鳩も飛び続けると疲れる。人間が歩き続けると疲れるのと同じと考えてよい。
 鳩は、疲れてもうこれ以上飛べないという時どこにも止まり木が見つからなかったら、どうするのだろう?疲れて羽根の動きが止まりひゅううと空から落ちる鳩を見たことがないから、鳩はこれだけ飛んだらどれだけ疲労するかを計算に入れて飛んでいるに違いない。

 地べたで首をかしげているさまは間が抜けているが、鳩は意外に用意周到な動物である。僕には真似が出来ない。



昔の「松山日記。」を読む。

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