1999年春、中国(その1・上海篇)

 8月23日(月)

 15時35分関西国際空港を飛び立った中国国際航空922便は2時間の旅を終え、機首を傾けた。
 窓外を見れば、白い靄の中に上海の町の様子が徐々に姿を現していた。煉瓦造りの家屋。田圃を刻むように走る運河。
 ドスンと衝撃が走り、上海虹橋空港に着陸。

 ウンザリするほど長時間待って入国審査。税関の外には、出迎え客が蝟集している。タクシー乗り場に待つ間、客引きがしつこく声をかける。

 街へ向かうタクシーから外を眺めると。高層ビルが建ち並ぶ大都会の景色が、どこまでもどこまでも続く。上海は大きい町だと思う。
 運転手が何か話しかける。しかし、僕は中国語を解さないので、何を言っているのか分からない。辛うじて「…トンチン(東京)?」と言っているのが聞き取れた。沈黙を埋めるかのように、カーラジオが鳴る。
 車は上海の市街地を西から東へ横断し、おおよそ30分かけて「和平飯店」に到着した。


 8月24日(火)

 豫園(よえん)へ行った。上海の有名な庭園である。

 ホテルの前でタクシーを拾う。
 上海に限らず中国の都市は相当広く、どの観光スポットに行くにも2、3キロ離れている。とくに上海は東京都と同じくらいの人口を抱える大都会なのに、地下鉄は1路線しかない。大都市でバスを乗りこなすのは困難なので(日本でもよその土地のバスは乗りこなせない)、タクシーに頼らざるを得ない。
 タクシーの運転手にメモ帳に「豫園」と書いて見せ、「ユーユアン」と言ってみる。ガイドブックにそのようにカナがふってあったのである。
 ところが運転手は僕の発音を修正した。「ユーユアン」よりはむしろ「イーユアン」と聞こえた。中国語の発音は「四声」と呼ばれるイントネーションの区別があったりして、僕には難しすぎる。

 雑然とした街角で車を下ろされた。ここから左だ、と運転手はゼスチャーしていたような気がするが、どこが入り口なのか分からない。
 ふと男が一人、時間を尋ねてくる。腕時計を見せると、男は僕が日本人であることを知って、英語であれこれ話をしながら、僕を案内し始めた。彼は船乗りをしており、日本へは4回行ったことがあると言う。
 上海に来たならばここへ行くがいい。豫園、博物館、テレビ塔、○○寺、雑技団、…。上海には何日いるんだ?2日と答えると、男は笑った。
 下町のような所をどんどん南へ進んで、ある寺の前に出た。豫園の入り口はここから左の奥だ、私はこの辺を散歩してくる、と言って男は去った。

 ガイドブックを見るとここは「上海老城隍廟」という所だった。
 「香花料」5元を払い、線香の束を受け取って柵の中に入る。中国人は仏前では、合掌した手を前後に振ってお祈りする。

上海老城隍廟



豫園
 ようやく豫園の門をくぐった。

 小雨が降ったり止んだりしている。天気が悪いので気温は高くないが、湿度が高いので蒸し暑い。雨と汗で上半身ぐっしょり濡れながら、屋根の端が反り返った屋敷や池なぞを見物した。
 日本の場合、こういった庭園では「順路」と書いた道標を掲げて道案内をしているものである。ところが、中国の場合こういった道標はない。さらに途中道はあちこちで分岐しているので、経路の取り方は無限に近く取れそうに思える。


 夜は上海雑技団を見に行った。

 「上海商城」という所に劇場がある。
 ところが、タクシーで駆けつけてみるとここは、オフィス、デパート、ホテル、レストランなどが軒を並べる一大ビジネスセンターで、やたらとでかいビルなのである。でかすぎて、何処に劇場やチケット売り場があるのやら、さっぱり分からなかった。
 だいたい中国というところ、町はどこも広くて歩くのに疲れるし、高級ホテルや役所、デパートといったビルは「ええっ!」と見上げるような大きさなのである。「大きいことはいいことだ」というコマーシャルの価値観をそのまま具現したような国だと思う。
 ともかく、守衛の人にチケット売り場を教えてもらい、無事チケットを入手した。最後尾右端の席(30元)しか残っていなかったが。

 日本人や欧米人の団体客に混じって、雑技を堪能した。
 一輪車に乗った少年の上に少女が肩車になり、少女は膝の上にアルミ椀を乗せ、それを蹴り上げて頭の上に乗せる。1個の次は2個、その次は3個、4個…と、カポカポと頭の上に椀を積み上げる。やっぱり凄い人達だ。
 実はこのペアはひとつの技を失敗し、何度もやり直したが、どうしても決めることが出来なかった。こういうところ、雑技団も人の子だなと思う。


 8月25日(水)

 午前中は上海のランドマークタワー「東方明珠電視塔」へ。展望台から町を見下ろしながら、どこでスケッチしようか考えていた。

 そして、午後は外灘(ワイタン)でスケッチ。
 外灘はかつての上海租界、20世紀初頭には欧米諸国が競って美しい建築群を建てた。建物はきれいだが、それはまた、アヘン戦争以来中国が背負ってきた暗い歴史の名残でもある。



 中央の時計台は、上海海関(税関)。ロンドンの「ビッグベン」をもじって「ビッグ・清」と呼ばれた。その左のドームの建物は、上海浦東発展銀行。

 後で気付いたのだが、僕から少し離れた所にもスケッチをしている青年が3人いた。欧風建築をペンで緻密に写生していた。
 絵を描く時、通常は荒く輪郭をとって構図を決めてから細部を描くものだが(少なくとも僕はそうしている)、その若者は画用紙の隅っこから徐々に画面全体を埋めてゆくように、細かい絵を描いていた。頭の中で同時に構図も考えているのだろうか、凄い技である。

東方明珠電視塔。
地階にはプリクラがあった。

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