【Jyuons宇宙を語る】




 私は哲学家でもないし、物理学者でもないので、詳しい知識など無いのであるが、その両方ともお遊び程度に触ったことがあるので、時々その両側面から時間や空間について考えたりする。  私がそういう事を考えるきっかけとなったのは、一冊の本を読んだからである。「ホーキング宇宙を語る」その本は当時の私には難解で容易には理解しづらいモノではあったが、私の興味を引きつけるのには十分であった。そこには物理学の見地から“宇宙の始まり”や“物質の成り立ち”“空間の概念”等を解読不可能な公式や意味不明な図表などを交えながら筆者曰く「簡単に」解説してあった。しかし、全てを読み終わった後私が感じていた感覚はもやもやとした何とも煮え切らないものであった。確かに、その本には現代物理学の粋を結集させた見事な論理が繰り広げられていたのであるが、どの議題においても、はっきり言って中途半端なのである。途中までは理解でき、そして、納得させられた。しかし肝心なところは何も分からなかった。時間とは何なのか? 空間とは何なのか? 物質の最小は何なのか? ビッグバン以前はどういう状態だったのか? 無とは何なのか? そして無限とは? これ等の疑問は、読んだ後も何一つ解決してはいなかった。と言うよりむしろ謎は深まる一方であった。その謎を解くために私は、その後何冊かの本を読んでみるのであるが、知識は増えど、どの本も私の中の深い霧を晴らしてはくれなかった。残念ながら、現代物理学はその深い謎を解く明確な方法をまだ解明してはいないらしいのである。そこで私は、理論で解明できないのであればと、哲学にも手を出すのであるが、そこにも私の疑問を晴らしてくれる決定的な答えは存在しなかった。こうなるともう残る道は唯一つしか残っていない。自分で考えるしかないのである。まったく世の物理学者、哲学者は何とふがいの無い連中なのであろうか。もう君たちには任せられん!自分でやるわい!
 という訳で私の思考はスタートする訳なのであるが、いざ考えてみると・・・いや、考える前から分かってはいたのであるが、さっっっっぱり分からないのである。そこで私は、取り合えず一番の謎であるビックバン以前の世界に焦点を当てることにした。物質が何もない世界。時間も空間もない世界。そんなものが果たして存在するのであろうか? そして、もしそんな世界が存在したならば、どうやって何もないところから何かが生まれたのであろうか? その答えとして物理学では“宇宙は一つではない”という物がある。どういう事かと言えば、簡単に言うとこういう事である(実は忘れてしまって簡単にしか説明できない)つまり、ビッグバン直後の宇宙は非常に高温の世界であったのだが、それが急激に冷めていく過程で空間が歪み、そこから新たな宇宙(子宇宙)が出来、そして、同じ様に子宇宙から孫宇宙、そして檜孫宇宙と宇宙は無限に生成された。というものである。しかし、当然この理論は次の疑問が生じてくる。つまり、それでは最初の宇宙はどのように生まれたのか?である。物理学者はしかしその疑問の答えもちゃんと用意していた。彼等は言う。物質は非常に少ない確率で壁をすり抜けることがあるのだ、と。つまり、壁にボールを投げるとこちらに跳ね返ってこないで壁をすり抜ける事があるのだそうだ。まぁ、ボールほどの物がすり抜ける確率はほとんどゼロだが、素粒子レベルではかなり頻繁に起こっている事らしい。これを“トンネル効果”と呼ぶそうであるが、彼等に言わせると、そのトンネル効果で最初の宇宙が出来たという事らしいのだ。うむ、トンネル効果というのはわれわれには縁遠い話なので完全に理解するのは容易ではないが、実証されているのであれば信じよう。しかし、この理論も残念ながら新たな問題を引き起こす。つまり、トンネル効果で出てきた物質は一体どこから出てきたのか? という物である。物理学者はこの私の疑問に、少し顔をしかめた様である。しかし、彼等は言った。「物質も、時間も、空間も無いまったくの無の中でも物理量はゼロではなく絶えず揺らいでいて、仮想的な宇宙がついたり消えたりしている。そして、ある時トンネル効果でポンと飛び出し、我々の住む様な宇宙になるのだ。実際、何もない空間に大きなエネルギーを集中させると色々な素粒子が飛び出してくるのだ。この事は実験で証明されている」と。しかしながらこの理論も私を納得させるのには、到底不十分である。彼等は実際に“無”の中で物質が揺らいでいるのを確認した訳ではないのに、この世界で物質が揺らいでいるからといって、一足飛びに“無”の世界でも同じことが起こっているというのは少々荒っぽく感じるし、真空にエネルギーを当てて素粒子が飛び出してきたとしても、そこにはまだ我々の知らない小さな物質が充満していて、それが反応を起こしたのかもしれない。それに“無”の世界はやはり“無”なのだからエネルギーが集中するという現象など起こりようがないではないか。私は詳しい事実を知らないのでこの反論は誤っているのかもしれないが、実証されていないのは事実なので、実証されていないお話なのであれば、その説得力は哲学者のそれのほうが数段上である。少なくとも私にはそう思える。しかしながら、物理学者の気持ちも分からなくもない。そうやって半ば強引に理論づけないと手におえないのである。あるいは3次元の人間が4次元を理解できないのと同様に我々には一生“無”は理解できないのかもしれない。デザインにしてもどんな突飛なアイデアをする人の作品でもやはりある一線は超えられないのではないだろうか?それほど劇的な“違い”を感じるアイデアは出せないのではないだろうか? 少なくとも私は今までにそんな作品に巡り会ったことはない。どんな突飛な作品でも結局は今まで見たものの複合であったり、応用であったりするだけで、完全な新しい物等人間には想像出来ないのではないだろうか? 今まで観てきた物や聴いた事を思うと、残念ではあるが人間の想像力には限界があると思うより仕方がない。しかし、だからと言って想像を止めてしまうのはあまりに寂しい話であるので、続けることにしよう。
 しかし、ここで改めて目をつむって“無”を想像してみるのであるが私の閉じられた瞼の中に見えるのは一面グレーの世界である。しかし「そうだ、空間もないのだ」と気付きプツンという音と共に画面を真っ黒にするのであるが、それは唯単にテレビのスイッチを切った時の感覚にすぎない。いつもの映像である。ここで私は思った。今我々がいる世界が“有る”と思うから“無”が必要になる訳で元々我々も存在しないのなら、と考えてはどうだろうか。私は前にこんな事を考えたことがある。もし宇宙の始まりがビッグバンであったと仮定するならば、既に未来は決まっているのではないだろうか?と。つまりこういう事である。確かに世の中の現象は「中国で蝶がはばたけば、アメリカでハリケーンが起こる」という様にほんの些細な事で大きく変わってしまうのであるが、今、一番大きな宇宙を単位に考えれば、外部からのきっかけが一切ないのであるから、ビッグバンに内包されていた物質がある一定の方向に飛び出したのであれば、それは何万回やっても同じ結果になるはずなので、我々の運命は、既に決まっているのではないだろうか?という事である。私がこう思うのも既に決まっていて、今私がコーヒーを飲もうとしたが裏をかいて飲まなかったのも既に決まっていた事なのだとしたら。そう考えると奇妙な感覚に襲われる。既に決まっているレールの上を生きている我々は果たして生きていると言えるのだろうか?私が今まで自分で考えて行動してきたと思っていた事が、実は既に決まっていた行動なのだとすれば・・・・一体我々の思考は何なのであろうか?我々の感情は何なのであろうか?それらは唯単に現象にすぎなかったのであろうか?だとするとデカルトの言った「我思う、故に我あり」という根本原理もいよいよあやふやな物になってくる。思うことの出来ない我しかないのであれば、我がいるかどうか確認する手だてはもう残されていない。これで、我々が存在しないという可能性も捨てることが出来なくなってきた。しかし、我々が存在しないのであれば、話は簡単になってくる。我々自身が“無”なのだとすれば、もはや“無”を想像する必要もないし、“有”がないのであれば“無”から“有”が生まれたプロセスを考える必要もなくなってくる。そして更にこの思考は時間軸さえもあやふやなモノに変えていく。もしビッグバンが爆発した瞬間に未来が決定してしまっているのであれば、そこに前や後ろの意味合いは果たしてあるのだろうか? 我々は、過ぎ去った過去はもう変えられないものであり、これから来る未来は未知なるものとして認識しているので、時間が「流れている」様に感じているが、過去も未来も等しく不変であるのであれば果たして時間は流れていると言えるだろうか? こう考えていくと今我々が実感している根本概念も実に不安定なモノに見えてくる。しかしながら我々は本当に“無”なのであろうか?その可能性があるだけで、そうだという証拠はどこにもない。しかし、もし我々が“無”なのであれば収まりは良い。ここで、その収まりを崩したくはないので、私は考えた。しかし、ここから先は(も)何の根拠もないし、半ば強引なので前に物理学者を非難したのに対して先に謝罪をしてから書く事にしよう。「先程は失礼な事を言って大変申し分けない。どうかお許しを。」
 さて、それでは続ける事にしよう。。。と、その前にそういう考えになったプロセスを簡単に述べるとこういう事である。つまり、私には“無”の概念の他に“無限”の概念にも深い疑問を持っていたのであるが、例えば、宇宙空間が無限に広いというのにはものすごい抵抗を感じていた。しかし、これは物理学者たちが既に解決していたのでそれを知り、納得した。つまり、宇宙は果てまで行くとまたもとの場所に戻るというものである。解説するとこういう事である。地球はある地点から例えば北に進めば当然元の場所に戻って来る訳であって、ここからは地球ではないというラインはない。これは2次元の世界の例であるが、そういう感覚であるらしい。3次元でそれを想像するのは容易な事ではないが、何となく感覚的には分かるし、気持ち悪さも感じない。次に私が疑問をもったのは物質はどこまで分割することが出来るか?という事である。現代物理学は残念ながら私のこの疑問を解いてはくれない。物理学の世界では現在(私の知る限り)、原子の中の陽子、電子、中性子そしてそのなかのクォークまでは見つけているが、昔から、これで最後、これで最後と言いつつ何度もその次が出て来ているので、クォークで最後と考えるのも懸命ではないであろう。それでは一体どこまで続くのか?“無限”に分割できる、と考えるのが一番自然であろう。と言う事はどう言う事であろうか?宇宙空間は果てまで行くとまた元の場所に戻って来てしまった。と言う事は物質は百億の百億乗の百億乗の百億乗回ほど細かく割って行くと、そのなかには・・・・また宇宙があるのであろうか?おかしな話ではあるが限界があると考えるよりは何となく納得できる様な気がする。少なくとも私には。  こうして考えていくと“無限”には元に立ち戻る性質がある様に思われる。“無限の白”は“無限の黒”であり、“無限の善”は“無限の悪”であるのかもしれない。そして、話は先ほどの“子宇宙”“孫宇宙”の事になるのだが、物理学者によればそうして宇宙は“無限”に増え続けるというのであるが、一体どういう事であろうか?宇宙が“無限”にあるという事はつまり“無限”の可能性がある、という事になる。その“無限”の宇宙の中には我々の宇宙とはまったくかけ離れた宇宙から、私の机の上の埃の一粒がない、といった宇宙まで全てがある、という事であろうか?この世の中(ものすごく広い意味での)には“全て”があるのだろうか?だとすると、ここで私はまた奇妙な感覚に襲われる。“無限に有る”、という事はどういう事であろうか、先程私が考えた“無限”の性質を当てはめてみると“無限の白”が“無限の黒”であり、“無限の善”が“無限の悪”であるのならば“無限に有る”という事は・・・・

 もうお分かりの事と思うが、私の出した結論はこういう事である、つまり「世の中には全てのものが無限に無い」と言う事である。“全て有る”と言う事は“何も無い”と言う事とイコールなのである。“無限”と“無”は表裏一体であり、我々が感じているこの今という一瞬は、その無限に有る可能性の内のただの一つのコマに過ぎず、それらが“無”を形成しているのである。そこにはたった一つのモノも欠ける事なく全てが存在し、そして、その完全なる状態が“無”なのである。その完全なる状態の中では「時間の流れ」というモノの意味合いは消し飛び、全てのモノが全く同時に存在しているのである。ビッグバンが起きたその時、全く一瞬の時間差もなく、この“今”平成11年9月6日のPM10:08という場面も、またその1秒前も、あるいは1秒後も同時に存在しているのである。すなわち、今、あなたがこの文章を読んでいるこの瞬間、私はこの文章を書き始め、あなたはこの文章を読み終えている。更に同時にあなたはこの世に生まれ、同時に生を終え、同時にこの地球も生まれ、同時にこの宇宙も誕生しているのである。全ての出来事は全く同時に起きていて、そして、あるいはまた同時に何一つ起きていないのである。つまり、この世界は、無限のウチの一つである我々には、ビッグバン以降気の遠くなる様な時間をかけて今という時、そして空間が有るように感じられるが、実際は、時間も空間もない完全なる無の状態から前にも後ろにも、ただの一歩も動いていなかった。という事である。。。




 …と、私はこのような宇宙モデルを考え出したわけであるが、決してこれが正しいは思っていない。現代の物理学と哲学が私の疑問を解いてくれないので、仕方無く、無い知恵を絞って自分なりに答えを探し出しただけである。こんな論拠も証拠もあやふやな原理ではなく、科学でハッキリと証明されたゆるぎのないモデルを見たい物だ。しかし、現在のあのぜい弱な物理学界を見れば到底不可能か。。。あるいは神でなければ知る事は出来ないのか? とりあえず当面は私のこのJyuonsモデルで我慢するより仕方ない様である。



<Jyuonsモデルであったと仮定して。。。>
 しかし、私は考える。我々が例え“無”だからとはいえ、何ら生き方を変える必要はない、と。 我々は今自分を感じている様に感じているのであるし、どう転んでも無を感じる事など出来ないのである。そして、今の我々の能力では、明日の天気さえ満足に予測できない我々の能力では、未来の姿を確実に算出する事など到底不可能なので、どうあがいても「時間の流れ」を感じざるを得ないのである。そしてまた例え未来が決まっているとはいえ、もし、今私がやる気を失えば未来の私がつまらない人生を送るのが最初から決まっていたのであり、もし、今やる気を出せば、私の未来は明るい事が始めから決まっていたのである。と考えれば、未来は決まっていない、というのと同義である。そして、過ぎてしまった事は(それがどんな些細な事であれ)何万回やり直しても結局そうなるのは免れないのであるから、後悔してもまさしくしょうがないのである。


決まった人生を明るいモノにするために、人は前だけ見て生きれば良いのである。。。


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