二つの空、二つの心

<1>

 * * * * * * * * * * * * * *

「少佐、無理です! この嵐では湖は渡り切れません。コロネへ渡るのはおあきらめください!」
「馬鹿ものっ。泣き言を言っている暇があったら、腕と度胸のある船乗りを早く探して来い! 報酬金額を倍にしろ!」
 ジャンヌは、部下の悲鳴のような直訴を退けると、司令室の窓ごしに荒れ狂うデュナン湖を睨み付けた。狂った大蛸の手足のような凶暴な波が防波堤をひっぱたいている。風のせいで空は砲弾にも似た雨粒をあらゆる方向へ乱射していた。
 ラダトの城塞で足止めを食らった。コロネの港では、ハイランド共和国の軍隊と我がトラン共和国の軍隊が睨み合っている。ジャンヌが出向けば戦況が変る。自分の背後には十万の兵有りといわれる今、ハイランドはまさか身ひとつで来たとは思わないだろう。嵐の湖を越えて来たなどとは。
 これは賭けだった。血を流さずに、ハイランドと調停を結ぶチャンスだ。
 ジャンヌは窓から離れると、黒い髪に律儀そうにのせた帽子を正し、せかせかとした足取りで司令室の床を行きつ戻りつし始めた。軍服の背をおおうマントがなびくほどの早さだ。
 嵐だからこそ、好機なのに。
『我が国には、気骨のある兵士はいないのかっ!』
 顔をしかめると、右の頬の古い傷も一緒にひきつって歪んだ。歴戦の戦士という趣のあるその傷が、ジャンヌの若さを都合よく隠してくれた。
「少佐! 一般の者が志願して参りましたが、いかがいたしましょう。お会いになられますか?」
「一般の者?」
 闇のように黒い瞳を、うさん臭そうに細めて聞き返す。その視線の鋭さに、部下は後ずさりした。
「一般の者というか、怪しすぎる者というか、あからさまに湖賊海賊のたぐいというか・・・」
「構わん、通せ」
 
 志願してきた海賊というのは、『スター・ドラゴン』と名乗る一味の首領だと言う。部屋に一人会見を許された首領は、国籍はハイランドだそうだ。
 ジャンヌは、やっと落ち着いて指令室の執務机に腰を降ろすと、机を白手袋の指で叩きながら扉が開くのを待った。
 部下が招き入れたのは、大きな男だった。
 三十を少し過ぎたくらいだろうか、波打つ黒いつば広の帽子を目深に被り、腰の細い長い上着を着ていた。何かの冗談かと思うほど、むかし絵本で見た海賊の船長そのままの格好だった。アイパッチと鍵爪がないのが不思議なほどだ。
 ただし上っ面だけなのはその扮装だけで、上着の外からでも、肩や腕の発達した筋肉が見て取れた。立ち姿には隙もない。拳法家でもあるジャンヌには、この男がかなりの使い手であることは一目でわかった。
「敵国人のおまえが、何故力を貸してくれるのだ?」
 男は帽子の下のザンバラな前髪の間から、ジャンヌを見て笑ったようだった。
「司令官が美人だって聞いたんでね」
「・・・。」
 ジャンヌは眉根を上げた。
 自分を女だと知っている人間は少ない。隠しているわけではないのだが、長身で短髪、軍服に身を包み、顔に大きな傷のある自分を、女だと見破る者はいない。知っているのは上官と少数の直属の部下だけだろう。
「少佐、やめましょうよ。あやし過ぎます。敵のスパイだったらどうするんですぅ」
 部下が袖を引っ張ったが、ジャンヌは構わず男に正面切って尋ねた。
「船を操るのに何人必要だ?」
「オレだけで十分だ。そのかわりお上品な船じゃねえぜ」
 乱暴な口調だが、粗野ではない声だった。人柄に暖かみがある声だ。
「何人乗りだ」
「二人」
「つまり運べるのは私一人ってことか」
「しょーうーさー! 罠ですってば! やめましょう!」
「うるさいな、おまえに乗れとは言っていないだろう。もし罠だとしても、海賊ごときに、この熊殺しのジャンヌが簡単にやられると思っているのか」
 ジャンヌにすごまれて、エリート士官の部下はすごすごと引き下がった。
「成功報酬で、十万ポッチ。いいか?」
「アイアイサー」
 首領は白い歯をみせて敬礼した。
 口許の笑みに見覚えがあった。
 かっちりとゴツい顎の線と、高い頬骨。大きな口を縁どる薄い唇。
「・・・ビクトール?」
 ジャンヌは無意識に懐かしい名前を口にしていた。
 そうだ、この声。この髪のバサバサ具合。そして何よりも、人恋しい気分にさせる暖かな雰囲気。
 ジャンヌの握った拳が震えた。
「ビクトールだろう?『熊オトコ』のビクトール。おまえじゃないのか?」
「ちぇっ、遅いんだよ、気づくのが」
 ビクトールはゆっくりと帽子を取った。笑うと人懐っこくなる瞳、通った鼻筋。口が、大きな半月形に微笑みを作った。
「おまえの役に立つ為に参上したぜ」
 三年前に別れた時そのままの、人なつっこい笑顔だった。
 
 * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 ジャンヌの顔面を塩からい波が叩いた。
「ゴホッ、ゴホッ」
 飲み込んでしまった。波は続けてジャンヌを襲い、苦しい呼吸が続いた。
「司令官どの大丈夫か? ちゃんとつかまってろよ!」
 嵐の中、二人乗りの小型艇を操る大きな背中は懐かしい男のものだったが、そうだった、甘い感傷にひたっている余裕などあるわけがなかった。
 船は、港町コロネへ向かう。
「港の灯は見えてる。あと少しだ」
 舵を取るビクトールの方が、ジャンヌを励ましていた。
「そうだ、あの美人の妹はどうした」などと、世間話までする余裕だ。
「ロザリーは元気だよ。式はまだ先だが、大佐の息子と婚約して、花嫁修行中だ」
 口を開くと横なぐりの雨が襲う。気管に入ると厄介だ。
「…ジャンヌ、泳ぎは達者か」
 嫌な予感がした。
 ジャンヌは両手で船の縁にをきつく握り、「達者というほどではないが。普通には泳げる」
 雨としぶきを飲み込まないよう気をつけて答えた。舌をかみそうになる。
「そりゃあよかった。舵がいかれたよ。このまま乗っているより、泳いだ方が港に早く着く」
「生きて辿りつければの話だろう」
「まあな」
 ビクトールの帽子はとうに突風に吹き飛ばされ、濡れてほとんど黒に見える灰色の髪がばさばさと揺れた。ジャンヌのマントもどこかへ行ってしまった。軍服はしっかりした布地だったが、泳いだのとほとんど変わらないくらいに濡れてくたくたになっていた。雨を含んで鎧のように重かった。泳ぐなら、軽い方がマシだ。ジャンヌは軍服を脱いで下着になった。ビクトールはヒューと口笛吹いたが、怒濤の波音でかき消される。
「なんだ。色気のない下着だな」
「当たり前だ。軍服の下に着るやつだ」
 半袖の首無しシャツという代物だった。
「水に飛び込んだら、オレから離れるなよ。しっかり掴まっていろ」
 ぐらりと船が傾いだ。

☆ ☆ ☆

 砂浜に足が着いた時は、鉛を背負っているように体が重かった。息なんかもうしていないような気がした。
 ほとんどビクトールに引きずられるようにして、ジャンヌは波の来ない砂の上に倒れこんだ。
「司令官どの、生きてるか?」
 息が苦しくて声が出せないので、何度もしっかりと首を振ってみせた。正直言って、途中で何度も諦めかけた。ビクトールが水中を抱きかかえるように運んでくれた。
「無事みたいだな。気絶でもしてたら、口うつしで息を吹き込んでやろうと思ったのに」
「ばかもの!」
 ジャンヌは寝ころがったままでビクトールを殴る真似をした。まったくこいつは、今でもこんなことばかり言う。
 やっとのことで起き上がると、首も胸も腹も、全部が砂まみれだった。この格好で軍の宿舎まで行くのか。あまり偉い人物がいないといいが。
「おう。復活したか」
 ビクトールが体の砂を払いながら言った。
 風の向きが変わった。雨が、陸からデュナン湖へと吹き込んだ。
「歩けるか? せっかく命がけで湖を渡ったんだ。早く行かないと甲斐が無いぞ」
「わかってる」
 ジャンヌは苦しい息の下から答えた。
「だが、私が軍の宿舎に行ってる間に、またどこかへ消えてしまうのじゃないのか?」
 ビクトールの濡れたシャツを握りしめる。彼はかすかに笑ってみせた。
「・・・。早く行けよ」
「ビクトール!」
「今回、少しでもジャンヌ司令の役に立てたのかな」
「すべて、おまえのおかげだ」
「また、いつか会えるさ。オレだって、海賊で終わるつもりはない。だが、今夜会えてよかったと思ってる」
 照れ屋のビクトールが、珍しく真面目な口調で言った。彼の気持ちは動かない。ビクトールは、また、去って行くのだ。
 闇の中で、粉砂糖のような細かい雨が舞っていた。小さな粒だが、冷たさが心地よかった。
 ビクトールは掌を広げて、落ちて来る雨粒を計っていた。
 ・・・また終わってしまった。
『わたしも、おまえの回りにまとわりつく、一粒の雨にすぎない』
「ほら、もう行けよ」
 ビクトールは、大きな掌で、ジャンヌの背中を押した。
「またどこかで、道が重なるよな?」
 振り返らずにジャンヌが尋ねる。冷えたカラダに、手のぬくもりが滲みた。
 また、いつかどこかで。
 それまでは、前へ進んで行こう。前へ進むことが、きっと奴につながる道なのだと信じて。
 ビクトールの手が離れ、ジャンヌは砂の中に足を踏み出した。闇夜の砂浜が、雨に濡れて銀に輝いていた。



< 1 >

 雨上がりの港町は潮の匂いがした。男は浅い時間に宿に戻り、入り口の扉を軋ませた。
 商談と、さらに裏の仕事をも終え、張りつめた緊張を酒で軽くほぐして、コロネの繁華街から戻ったところだった。とは言ってもこの宿も、まだ飲み屋街の一角にあり、一階の食堂もこの時間は居酒屋と化していた。
 コロネは漁師町で、気さくな感じの飲み屋が多い。しかし、ここ数日はトラン共和国の軍隊が駐留し、牽制するハイランドの陸軍の人数も徐々に増え、緊張した空気が漂っている。ここの食堂でも、茶色っぽいトランの軍服を着た若いやつらがまだ軽く飲んでいて、ほぼ7割の兵士が今入って来た自分を一瞬振り返った。
 ――怖い、怖い。――
 そして、お決まりの、客を引く娼婦たちも退屈そうにたむろっていた。
「おにいさん〜。羽振りがよさそうだねえ。商談はまとまったかい?」
 木のテーブルに頬杖ついた娼婦の一人が、ショールを振りながら男に声をかけた。この町で背広にネクタイは目立つのだろう。とは言え、髭を剃るのは最近さぼっていたし、床屋もしばらく行っていない。どう見ても、上流の商人なんぞには見えはしない。
「女を買えるほどの稼ぎは無いっすよ」
 二階の部屋に上がる階段を昇りながら、視線を合わせずに丁重にお断りする。
「あれ? あんた、どこかで会わなかったかい? あたいは生まれも育ちもミューズなんだけど」
 男は一瞬ギクリとしたが、女を振り返って笑ってみせる。
「いえ。こんな美しい女性、逢ったことがあったら、忘れるもんですかい。ミューズは、仕事で行って泊まったことがあるだけです」
 男の癖で、娼婦相手にもつい丁寧な言葉になる。
 ――この娼婦さん。前市長の顔を知っているなんて。なかなかインテリですねえ。――
 今度は、彼女の隣で手酌で呑んでいた娼婦が声をかけた。
「おや、あんた、いいオトコだねえ。あたいのタイプだよ。半額でいいよ」
「はは、お気持ちだけありがたく」
 男はお世辞を軽く受け流した。美男子とは言えない。細い眉と三白眼が人相を悪く見せるらしいので、表情には気をつけている。常に、笑みを作る形に唇を曲げて、愛想よく見せるようにしていた。人に警戒させてはいけないのだ、この仕事は。
「じゃあ、おやすみなさい」
 娼婦達に挨拶をすると、一気に階段を昇りきり、自分の部屋の鍵をあけた。

『・・・?・・・』
 闇の中。人の気配がする。血のにおい。息をひそめている。
 ――勘弁してくださいよ〜。――
 長年の諜報活動によるアンテナは敏感だが、自慢じゃないが腕っぷしはからきしだった。
 ――ただの物取りでありますように。シュウの旦那の仕事がバレたわけではなくて。――
 男は祈りを込めて、ランプに灯をつけた。扉横に一つ。テーブルと棚のランプにも一つずつ。
 あらわになった部屋に、人影は無い。
 ――どこだ?――
 男は意を決し、ネクタイを緩め深く息を吸い込むと、はっきりとした口調で家具に向かって話しかけた。
「わたしは、商人なので身なりこそ整えてはいますが、決して金持ちではありません。
 刃物などで傷つけあうことは、好きではありません。差し上げられる範囲で、お金は差し上げますので、どうか乱暴はしないでください」
「物取りではない。・・・すまない」
 くぐもった声が聞こえ、ハイランドの下級兵士がソファの下からはいずり出て来た。右の太股に怪我をしているらしく、淡いグレイのズボンに血がベッタリと滲みていた。
 黒髪の青年だった。涼やかな鋭い黒い瞳ときれいな頬の線を持つ美青年だが、端正な顔に不似合いの刀傷が頬に刻まれていた。そちらの方は昨日今日ついた傷ではなく、青年の年齢から察すると、子供時代のもののようだった。
「バスルームの窓から勝手に入った。すまなかった」
 軍服はヒラ兵士のものだし、襟章の階級も下っぱだ。しかし彼の口調はまるで将校のようだった。家柄のいい青年なのかもしれない。
「どうしました? 女をめぐる決闘でもしましたか?」
 男のジョークに、青年はふっと顔をほころばせた。
 男は彼の軍服の血を見る。様子から見ると太股に剣の傷でもありそうだが。ズボンの生地に切れた跡は無い。裸で斬りつけられてからズボンを履いたか、他の服・・・たとえばトラン共和国の軍服でも最初に着ていたのか。
 ヤバイ匂いがいっぱいだ。
 こいつに関わっていいものかどうか。
 自分も、任務で来ていることを考える。だが、ズボンを血で染めた若者をほったらかしにすることはできなかった。
「わたしは、医療品を扱う商人です。仕事がら、少しは医療の心得もあし、ジュラルミンケースは薬でいっぱいです。
 運がいいですね。さ、ズボンを脱ぎなさい」
「・・・・・・。」
 青年は、黙ったまま動かなかった。
「かなり出血しているようですよ。早く治療しないと」
 男が腿に触れようとすると、「さわるな!」と厳しい声が飛んだ。
「すまない・・・。治療は自分でできる。頼みがある。人を・・・探して・・・連れて来てほしい」
「その人が来れば、君をすべて任せられるんですね?」
 青年は頷く。
「私が一番信頼している男だ。
 たぶん今ごろ、この街の・・・一番さわがしくて、一番荒っぽい飲み屋で、ジョッキを傾けているはずだ。
 ハイランドの海賊で『スター・ドラゴン』という一味がいるらしい。そこの首領だ。
 ザンバラな黒髪の、大きな男だ。まるでクマみたいな。
 これを・・・。これを見せて。そしたら、何も聞かず『案内しろ』って言うだろう」
 青年が男に握らせたのは、トラン共和国の衿章・・・それも少佐階級のものだった。
「わかりました。わたしが戻るまで、またソファの下にでも隠れていた方がいいですね」
 男は、襟章を握りしめると、部屋を飛び出した。


< 2 >

 男は、繁華街に飛び出すと、さっきまで酒を飲んでいた、気のおけない飲み屋に再び足を踏み入れた。
 コロネは港町だ。酒場も多い。一人で探すより、助けを借りた方が早い。
『おや。急に客が減りましたね。兵士宿舎の門限か、それとも急な招集でもあったのか』
 ここは、いかにも漁師向けというざっくばらんな店だった。壁にゴツゴツと岩が出た洞窟のような作りで、網や錨が飾りに使われ、酒焼けした声の漁師たちが大声でがなりたてていた。騒がしい店だ。
「おう、フィッチャー。忘れものか?」
 この街で偶然会った、古い仲間。こいつといっとき前まで一緒に飲んでいた。今はやはり自分と同じように、シュウ大統領の裏の仕事をしている。剣の学校とは名ばかりの、傭兵養成所の所長に収まっていた。
「しっ。おいらは今、商人のフィリップ・プレシですってば。
 ちょっと頼みがあるんです。人探しを手伝ってほしいのですが」
「またシュウの野郎の仕事かい? 気がすすまねえなあ」
「そうじゃありません。今、おいらの部屋に、ハイランドの軍服を着た青年がいる。ひどい怪我をしていて、歩くのもままならんようです。そいつが、海賊の首領を探している」
「海賊?」
「『湖賊』と呼ばないところを見ると、よそ者かもしれません。地元の漁師たちに、手分けして聞けばどうにかなるかと思って」
「どうやって探すんだ。そんな怪しい兵士じゃ、自分の名も探す相手の名も、教えやしなかっただろう」
「これを見せれば、何も聞かずに『案内しろ』と言うと・・・」
 フィッチャーが握った指を開いた。その途端、連れの顔色が変わった。
「・・・。宿に案内してくれ」
「え?」
 フィッチャーは、まじまじと、目の前の馴染みの顔をみつめた。
『ザンバラな黒髪の、大きな男だ。まるでクマみたいな』
『一番さわがしくて、一番荒っぽい飲み屋で、ジョッキを傾けているはずだ』
 そうか。どうして気づかなかった! 
 海賊「スター・ドラゴン」。『星』、『辰』・・・星辰剣!
『一番信頼している男だ』
 ビクトール。そうだ、確かに、この男だろう。 

 フィッチャー達が部屋に戻ると、青年は自分で治療を終え、太股に包帯を巻いている最中だった。
「久しぶりだな」
 ビクトールが声をかける。青年の険しかった表情が、みるみる柔らかく変わる。迷子だった子供が、やっと母親に会えたような目でビクトールを見上げていた。
「すまない、大仕事を終えてくつろいでいただろうに。6時間前に別れたばかりだな」
 青年はズリズリと腰だけで座る位置を変え、二人に背を向け、包帯を巻き続けた。まるで、フィッチャー達に裸の足を見せたくないみたいだった。
「そちらのかたも。ありがとう。勝手に部屋に入りこんで、しかも頼み事までして。すまなかった。警察官を連れて来られても、文句は言えないところだ」
「警察沙汰は、こいつも困るんだよ。なあ、フィッチャー?」
「フィッチャー?」
 青年は顔を起こし、部屋のあるじの顔をまじまじと見て、そして苦笑した。
「薬売りの商人ねえ。・・・すっかり騙されたよ、ミューズ市長どの。戻って来るのがあまりに早いので驚いた。ビクトールの朋友だったのか」
「元・市長ですよ。今はキャロという小さな町の役人です。あなたがお探しの人物と、実はさっきまで一緒に呑んでいたんですよ」
 青年の態度が威風堂々としているので、フィッチャーはつい敬語で受け答えしてしまう。
 ビクトールが寝室から勝手に上掛けを持って来て、青年に手渡した。彼はあらわになっていた足を覆い隠した。
「何をやらかしたんだ? 街は不穏な感じだぜ。兵士は店からさっと引き上げた。道にはいつもの倍の警官だ」
「わたしは・・・何もしていないよ。誰かにハメられたようだ」
「ビクトールさん。彼はいったい誰なんです? おいらにもわかるように説明してくださいよ」
 ビクトールとはかなり親しい知り合いのようだが。
「誰って・・・おまえが握っているじゃないか、襟章。それ、返しておけよ。
 トラン共和国陸軍第三師団・少佐どの、だよ」
「少佐って。この若さで?」
 フィッチャーは、襟章を青年に手渡し、彼とビクトールの表情をかわるがわる見ていた。青年は、どう見ても24、5歳。顔の輪郭が華奢なので、下手をするともっと若くも見える。
「名乗るのが遅れて、すまない。わたしは、シルバーバーク少佐。
 コロネで起こった、ハイランド軍とのいざこざを処理する任務で、ここへ来た。今は海賊の首領だと言うビクトールに、嵐の中、船を出してもらったのだ。
 その任務は無事に遂行できたのだが、今夜ちょっと、我が軍の中でトラブルがあってな」
「シルバーバーグ。噂に聞いていた、レオン・シルバーバーグ侯のジュニアどのか」
 弱冠21歳で司令官に任命された、エリート軍人。レオン侯の庶子だという。
「トラブルとは?」
「宿舎の貴賓室で、陸軍の元帥が殺害された」
「げ、元帥? トランの元帥って、六将軍の一人だろ? それって大事件じゃ・・・」
「もちろん、大事件だ」
 シルバーバーク少佐は、肩をすくめてみせた。
「しかも、犯人はわたしらしい」
 少佐は、順を追って話し始めた。

 コロネのトロン軍常駐施設に着いたわたしは、すぐに正装して首脳会議に追加出席した。ハイランド側は慌てたよ。まさかわたしが身ひとつで嵐の湖を渡って来たとは思わない。わたしの軍が近くに到着していると考えるからな。
 元帥同士が条約に合意し、サインした。条約が締結されれば、こっちのものだ。サギだとハイランドが騒いでもあとのまつり。それに、わたしは軍と一緒に来たなどと一言も言っていないしな。
 ご存じだとは思うが、簡単に説明しておく。ハルモニア国境警備に、ハイランドはトラン軍も協力するよう依頼してきた。道理だ。ハイランドが攻めこまれれば、トランも同じ運命なのだから。ハイランドは我々の軍をバラして兵士を単なる駒の一つとして使いたかったようだが、うちは兵士を使い捨てされることから守りたかった。一つの師団単位で動くことを要求した。だが、ハイランドは、他国の軍隊が大きな規模で動くことを嫌がった。ここ、コロネにはうちの駐屯地があり、険悪で一触即発な空気になっていた。まあ、もともと仲の悪い国同志。講和協定から五年しかたっていない。
 でまあ、とりあえず今夜、条約によりトランは師団単位で行動できることになった、と言うわけだ。

 わたしが一人で来たのを知っているのは、施設内の一部の人間だけだった。
 元帥・大佐たちと、祝いを兼ねた晩餐に出席したあと、用意された部屋に戻ってくつろいでいると、メッセンジャーが元帥からの伝言を運んで来た。会って話がしたいと言う。
 シェフチェンコ元帥のことは、大統領のパーティーなどで顔を見たことはあったが、きちんと挨拶したのは今日が初めてだった。元帥にしてみれば、少佐なんぞまだまだ下っぱだ。戦略の話ではないだろう、たぶん父・・・シルバーバーク侯についての話なのだろうと思った。わたしも、甘かったな。何の疑いもなく、貴賓室をノックした。
「ドアを開けたら、元帥が死んでいたってわけか?」
 いや。それの方がまだ、ここまでわたしが疑われずにすんだだろう。
 元帥は元気で、ピンピンしていたよ。ったく、元気なじじいだ。わたしをリビングに案内し、酒を勧めたあとは、結局話なんぞは何も無く、地位を利用して卑猥な行為を行おうとした。軍隊ではよくある話だ。
 わたしはうんざりして、電光(肋骨下)に猿臂を軽く入れた。元帥はソファにうずくまっていたよ。軽く入れたが、しばらくは痛みで呼吸も苦しいし、立ち上がってわたしを追うこともできないだろう。
 わたしは酒とご招待の礼を慇懃に述べて、とっとと部屋を出た。
 階下への階段の途中で、護身用の短剣を落としたことに気づいた。まだ一分もたっていなかった。軍服は借り物だったし、短剣も借り物だ。借り物を無くすとまずいかと思い、部屋に戻ったんだ。
 そうしたら、わたしが落とした短剣で、元帥が胸を刺されて死んでいた。


< 3 >

「10秒もしないうちに兵士やら将校やらがわたしを取り押さえた。わたしは、元帥殺害の『現行犯』だそうだ。まあ、タイミング的には現行犯に近いが、目撃者がいたわけではないから、変な話だ。『その場で処刑されなかっただけマシです』と妹の婚約者の少尉に耳打ちされた。裁判は翌日行い、目撃者数名の証言とわたしの証言で、副元帥が判決をくだすそうだ。やるまえから死刑が決まっているようなものだった。独房に監禁されたらもう逃げられないので、連行される途中に、逃亡した。わたしの戦闘に剣は不要なのでね。まあ、多勢に無勢で、何カ所か斬られたんだが。
 途中の道で、ハイランド軍の兵士に当て身をくらわせて制服を頂戴して、ここの部屋に逃げ込んだ。主が親切な人で助かった」
 話を聞き終えて、フィッチャーは後ずさりした。
「隣国の元帥殺害の容疑者、ですか。はあ。おいらは厄介な人物を助けてしまったようですね」
 この青年の話に、嘘は無いと思う。内容も繕った跡が無いし、話す態度にも虚構は感じられなかった。何より、彼がビクトールを信じているのが伝わってくる。フィッチャーは、自分が嘘をついたり騙したりする仕事をしているので、そういう空気には敏感だった。
 ただ、厄介事に巻き込まれたものだと、心の中では苦笑した。
 フィッチャーは、自分の旅行鞄を引っ張りだした。
「おいらが助けたなんてシュウのだんなに知れたら、エラいことです。絶対に無事に逃げていただかないと。そのためなら、協力は惜しみません」
 明日に着る予定だった替ワイシャツを少佐に差し出し、自分が着ている背広とズボンを脱ぎ始めた。少佐は視線をそらしながら、「逃亡用に服を貸してくれるというのか」とかすれた声で尋ねた。
「あなたの背格好なら、おいらの服が着れるでしょう。これが通行許可証です。普段は国境以外は必要ないが、こんなことがあると街を出る時にも提示を求められますから」
「これは偽造品だろう、フィッチャー殿? 大丈夫なのか?」
「偽造って言ったって、シュウの旦那が正規のルートで作らせたものですからね、本物と同じです。さ、着替えてください。もしきつかったり大きかったりしたら、手直ししますから」
「・・・。すまないが・・・」
 少佐は、すがるような目でビクトールを上目使いで見た。ビクトールはくすりと笑った。
「あいよ、オレたちは席をはずすよ。さ、フィッチャー、うら若きレディのお召し替えだ。隣の部屋で待っていようぜ」
「レ・・・え。・・・ええっ???」
「少佐のファーストネームはジャンヌ。女性だよ。オレはドレス姿も見せてもらったことがあるぜ」
「余計なことは言わんでいい」
「ドレス・・・えーっ?」
 目が点になったフィッチャーの腕を引き、ビクトールが寝室に消えた。

「失礼しました。いやあ、おいらはそのへんは鈍いんです。過去にも折り紙付きの事件があります」
「わたしを見て、女だとわかる方が変だよ。・・・どうだ、おかしくないか?」
 長身で体つきがごついジャンヌに、戦士でない体躯のフィッチャーのスーツはそう無理なく着こなせた。
「いやあ、いい男だよん。娼婦が寄って来そうな」
 余計なことを言ってビクトールはジャンヌに殴る真似をされた。
 そうか、女性。
『なるほど』と納得が行った。二人の、どこか親密な雰囲気。
 酒場で久々に会い、ビクトールもまだ独り身であることを知り、お互いのふがい無さを笑いあったが。
『遠く見守っていたい存在はいるが・・・あまりに遠すぎて、な』と苦笑して大ジョッキを飲み干した横顔。
 シルバーバーグの娘か。確かに遠い。
「年齢が・・・ちょっと若過ぎますかね。ちょっと待ってください」
 フィリップ・プレシの通行証は33歳になっていた。フィッチャーの年齢は37なのだが、若く見られることが多いので、通行証も見た目に合わせていた。
 フィッチャーは、自分の鞄からコスメ用品を取り出した。
「フ、フィッチャー、おまえ、化粧をするのか〜」
 おののくビクトールに、「変装用ですよ」と敬語で答える。
 白いペンキのようなジェルを櫛にからませると、ジャンヌの耳のちょっと上あたりに、軽く塗りつけていった。
「若白髪に見えるでしょう。これで少しは老けた感じになるかな。汗くらいなら取れません」
「へええ」
「あと・・・問題は、頬の刀傷ですね。わるいけれど、それは目立ちますからね。人相書きで特定されてしまう。
 このシールを貼っちまいましょう」
 ケロイドを模したシールを、ジャンヌの傷にぺたりと貼り付け、接合部分に肌色の化粧品を塗ってなじませた。
「少なくても、外見は火傷の古傷に見えます。医者が見ない限りは気づかれないと思います」
「すまない、何から何まで」
「仕上げに・・・おいらを後ろ手に縛って、足枷もしといてください。強盗に入られ、身ぐるみはがされたってことにします。これなら、ジャンヌ殿を助けたこともシュウのだんなにバレない」
「そうかなあ。シュウの野郎はカンがいいぜ」
「とにかく証拠はありません。厭味を言うくらいでしょう。厭味は痛くも痒くもありませんよ」
「あいかわらず、食えない男だよなあ、おまえは。
 ジャンヌ、フィッチャーを軽く殴って、青タンくらい作っておいた方がいいかもな。唇も切れて血が固まってたりすると、本物っぽいぞ」
「勘弁してくださいよ〜」
「さほど痛まないようにして唇を出血させるぐらいなら、簡単にできるぞ」と、真顔でジャンヌ。
「ひぇ〜、ご冗談を」
 フィッチャーの抵抗も虚しく、ジャンヌの手刀が唇の端をかすった。
「・・・?」失敗したのだろうか? 痛みは全くなかった。
 ポタリと血が一滴二滴、フィッチャーのアンダーシャツに垂れた。
「あ、ちょっと切りすぎた、すまん」
「ジャンヌどの〜!」
 二つの後ろ姿を見送る。無事に逃げおおせますように、と祈りを込めて。

 フィッチャーに感謝しつつ、ジャンヌ達はバスルームの窓からこっそり外に出た。腿の傷は深く、思うように歩けなかった。右足にあまり力が入れられない。自然、足を引きずった。
 こんな状態で逃げ切ることができるのだろうか。
「大丈夫か? ゆっくり行こう。何なら抱いて走ってやるぞ」
「馬鹿を言うな。大丈夫だ」
 往来で、男が男を抱き抱えて走っていたら、みんな何事かと思う。
 不安が顔に出ていたのだろう。こんな時、ビクトールはすぐにジャンヌをからかうのだ。
 街を抜ける最後の門のところで、ハイランドの軍と警察が検問を行っていた。トランの軍人はいない。
「ありがとう、ビクトール。あとは何とかなる」
「ばか、その足で、この先どうするんだ。明日の朝には、ここを抜けたフィリップ・プレシは偽物だったとバレるんだぞ。追手が来ないとでも思ってるのか?」
「・・・。」
「オレも行くぞ。味方がいるところまでな。オレが安全を確保してやれるテリトリーがある」
「しかし・・・。海賊のおまえに通行証は?」
 ビクトールはひらひらとカードを振ってみせた。
「オレのも、フィッチャーの偽カードと同じ、シュウの野郎が発行した正規のものだ」
「『ハイランド共和国・国立武道研究所所長』?なんだ、これ? 剣の学校? 海賊というのはウソだったのか」
「武道研究所というのは名前だけだ。卑怯な逃げかたとか卑怯な勝ちかたばかり伝授する、『傭兵が生き残る為の』ハウツーの学校だ。傭兵養成所と呼ばれている」
「なぜ、初めから言わなかった?」
「・・・居場所を教えたら、訪ねてくるだろう? オレはまだ、おまえと同等に会えるようなことは、何もできていない。恥ずかしいじゃないか」
「わたしだって・・・何も・・・。偉いじじいの跡継ぎで出世ばかり早くても、ひがみしか買わん。誰かにハメられて、このザマだ」
 門のところは、街の外に出ようとする者たちが、20人ほど列をなしていた。かなり丁寧に審査しているようで、列の進みが遅い。
「さ、オレらも並ぶか。・・・大丈夫か? うまく芝居しろよ」
 ジャンヌの神経は一瞬で緊張した。
『わたしは軍人だ。どうせおまえらみたいに流暢にウソはつけん』
 バレたら、ここまで逃げたのも無駄になる。フィッチャーにも助けてもらい、ビクトールにも会えたのに。
 ぎゅっと拳を握る。絶対、うまく嘘をつき通さなければ。
「もし、ジャンヌと生きてここを出られたら・・・」
 ビクトールが肩を引き寄せた。小声で呟く。唇が耳に触れた。
「今宵一晩だけおまえを妻に、うっ」
 丹田に正拳が入った。「ふざけるな」
「いってぇ」
 ビクトールは海老のように体を丸めた。
「・・・気絶するかと思った。ま、これでリラックスできただろ」
「ふんっ」
 人が惚れているのを知っていて、まったく悪趣味な冗談を! 緊張をほぐすのにも、もっと別の方法があるだろうっ!
「はい、次の人。医療品の商人ですか」
「そうだ、見ればわかるだろ」
『だいたい、海賊だなんてウソの経歴でわたしを騙そうとするなんて! この事件が無かったら、わたしはきっと、翌日から海賊の一味達を探しまわっただろう。有りもしない根城を探して・・・』
「フィリップ・プレシさんですか」
「そうだ。書いてある。読めないのか」
 検問の警官に罪は無いが、腹がたっているのでつい横柄な口のききかたになった。
 となりの列で、ビクトールが、「何があったんだ?」としつこく警官にくらいついて嫌がられていた。
 いつもよりさらにでかい声で、「こんな不具合かけて、市民に内緒って、どーゆーことさ」とからんでいる。
 ジャンヌは眉根を寄せて「うるさい奴だな」と吐きすてるように言った。三分の一くらいは本気だったかも。
「隣に面倒な奴が来たらしい。商人、行っていいぞ」
 ジャンヌの取り調べは、えっ?と思うほど簡単だった。足の怪我を悟られないよう、ゆっくりした歩調で、門の外に続く道路へと歩きだした。
 ビクトールがわざと自分に注意を引きつけて、ジャンヌを早く終わらせてくれたが。奴は無事に通れただろうか。


 

<2>へ続く ★