< 4 > 月は満月に近く、足元を明るく照らしてくれた。 道のまま北へ進めば三日でミューズ市、湖に沿って何週間か歩けばラダトだ。引きずって歩く右脚が重い。 月はジャンヌに付いて来るが、ビクトールはまだ追いつかない。腿の傷が開いたらしく、フィッチャーから借りたズボンに血が滲み出していた。このあたりで彼が追いつくのを待つ方がいいかもしれない。 ジャンヌは祈りを込めて、南の方角の闇を見つめる。ビクトールの影が無いかと目を凝らして。 『遅い・・・。何かあったのだろうか?』 自分の独白を聞きながら、苦い笑いがこみ上げてきた。 ビクトールは捕まるはずがない。彼が容疑者であるわけではないし、容疑者に似ているわけでもない。ビクトールの通行証は本物だ。全く問題は無い。ジャンヌが心配する必要は無かった。 この心細さは、ビクトールを案じてのことではない。早く来てほしいから。早くビクトールに頼りきって、楽になってしまいたいからだった。 『宮殿のような屋敷の、天蓋付きのベッド。従者が着替えを持って待っている生活に慣れて、すっかり腰抜けになってしまったようだ』 あの逃亡の時は、傷の痛みなんて感じなかった。治療する時間などなく、頬から血が垂れたそのまま、ロザリーをかばいながら、足の爪を割りながら夜道を走り続けた。追っ手も、野犬も、まだ少女だったジャンヌが倒さなければならなかった。自分がやられたら、ロザリーも捕まる。自分は倒れるわけにはいかなかった。 あの時は月さえ無かった。 母から疎まれたと思った心の痛みも、憎しみに変えて走った。あの強さは、年月を経て、どこへ置いてきてしまったのだろう。 道端の岩に腰掛けて、月が動いていくのを見ていた。別にジャンヌが前へ進まなくても、月は先へ進んでいく。 南から、蹄と轍の軋む音が聞こえた。馬車が来る。ジャンヌは身構えた。 黒塗りの三頭立ての馬車だった。前にランプが取り付けられ、夜でも走れるようにしてあった。ジャンヌの前を走り去ったが、馬が嘶いて止まった。懐かしい男が降りてきて、「待たせてすまなかったな」と笑った。 「痛んだ足で、こんなところまで来ているとは思わなかった。馬車を確保するのに時間がかかったんだ、遅くなって悪かった」 ビクトールはそう言いながら、手を差し出してジャンヌを立ち上がらせた。 「馬車なんてよく手に入ったな」 「無理矢理借りたというか、力づくで買ったというか」 「・・・盗んだのか」 馬車に乗り込みながら、ジャンヌはあきれながら尋ねた。 「人聞きの悪い。相応の料金は握らせて来たよ。縛った両手に、な」 ビクトールも乗り込み、前を見たまま馬を出した。 「おまえって奴は・・・」 「きれいごとを言ってられるか、ジャンヌはそんなに歩けんだろう。馬が潰れるところまで、突っ走るぞ」 「すまん・・・手を汚させてしまったな」 「ばぁか。だいたい、もともと、そんなにおきれいな経歴じゃあねえよ。 足、また出血してきたようだな。下に降ろさず、オレの膝に上げていていいぞ」 「すまんな。遠慮できるような状態じゃないらしい」 ジャンヌは靴を脱いで、おそるおそる左足をビクトールの腿に乗せた。変な座りかたなので、馬車が揺れる度にバランスを失い、座席のヘリや扉を慌てて掴んだ。 「何ならオレに抱きついていていいぞう。首かなんかに色っぽくな」 「ふん。すぐそうやって人をからかう。悪いクセだ。わたしが抱きついたら、圧死するぞ」 馬車は、湖の沿岸の道を、東へとひた走った。一番近いトトの村まで、馬車で二日ほどだろう。ただし、馬が潰れなければだが。 「ミューズもトトも通らずに行こう。村に入るのはトラブルの素だ。一気に、オレの砦まで行く」 「無理だ、一気にトト村の先までなど。休息しないと馬がもたんし、我々ももたない」 「馬は、潰れたら、また盗む。おまえはずっと寝ていていいぞ。オレも・・・まあ、疲れたら時々休むから心配するな」 「・・・。」 「顔色が悪いな。出血がひどかったから、貧血を起こしてるかもな。寒くないか」 「少し」 「途中で、食料と衣料は調達せんとなあ。 寝てろよ。落ちないように支えておいてやるから」 ビクトールが片手で肩を抱いた。 「すまん・・・」 寝入るというより、ジャンヌはそのまま気を失った。 日の出が目に入って目覚めた。馬車は東に走り続けているようだ。 「おう、起きたか」 耳元で声がしたので、慌てて顔を上げた。額とビクトールの頬が触れた。自分はビクトールの膝の上にいて、抱きかかえられるようにして眠っていたらしい。 「椅子から落ちそうだったんで、オレが馬車を扱いやすいように膝に抱かせてもらったんだよ。別に悪さはしてないぞ」 「そんなこと、微塵も思っていない。すまなかった」 赤くなりながらジャンヌは慌てて膝から降りて、強がった。 「ほんの少し遠回りになるが、必要なものを調達していこう」 ビクトールは馬車を少し北に向けた。 ミューズ市よりは少しトト村寄りの場所だろうか。森が切れたところに、小さな宿があった。ビクトールはその前で馬車を止めた。 「ジャンヌはちょっと待っててくれ」とビクトール一人で宿に入って行った。『白鹿亭』と可愛い看板の出た小造りな宿で、庭には家畜がのどかに蝶と戯れていた。 扉が開いて、ビクトールが顔を出す。指で『入って来い』と誘う。「幸い誰も宿泊客がいない。入っても大丈夫だぞ」 下は、5、6人で満席になる小さな食堂になっていた。入り口で、清楚なおかみが「いらっしゃい。たくさん召し上がっていってね」と笑顔で迎えた。ジャンヌの母の旅館のような豪華なものではないが、家庭的で温かみのある宿だった。 「こいつに肉をたんと食わせてやってくれ。貧血気味なんでね。あと、悪いんだが、日持ちのする食料を分けてくれんか?」 「お安いご用よ、ビクトールさんの頼みだったら。 本当に久しぶりね。忙しいのはわかるけれど、たまには顔を出してよね。できればアレックスのいる時に。私だけがあなたに会ったと言ったら、夫は悔しがるでしょうね」 まかないの食材を運びながら、おかみは明るくそう言った。 「アレックスはまた冒険か?」 「いえ、休暇が終わったピートを、グリンヒルの学園まで送って行ったの。でもまたグリンヒルの森辺りで何かやっているかもね」 「ピートはもう、学園に入るような歳になったか。オレが年取るハズだなあ」 「よく言うわ。あなたはあの頃と全然変わらないわ。相変わらず『風来坊のビクトール』」 「ちぇっ」 ハイランド戦争の同志なのだろう。おかみの口調から、ビクトールへの信頼が感じ取れる。 料理は簡単なものだったが、温かく、うまかった。ジャンヌは体の中に、力が満ちてくるのを感じた。フワフワのオムレツは優しい味で、まるでこのおかみの笑顔のようだった。 「酒はいいよ、ヒルダ。いくら何でも、朝だし」 「まあ、珍しいこと。じゃあ、食材の荷物の中に、酒瓶を入れておくわね」 「あともう一つ、頼みたいことがあるんだ。ヒルダは、妊娠中に着る服・・・なんていったっけ?」 「マタニティ・ドレス?」 「それそれ。そのマタなんとかを、取ってないかい?」 「ええ、残してあるわよ。それ、どうするの?」 「差し支えなければ、一着いただきたいのだが」 「えーっ。ビクトールさんに、そんな女性がーっ? いつの間にーっ?」 これにはジャンヌも顔色を変えた。そんな・・・。でも・・・。ビクトールの年齢なら、妻がいて当たり前だ。だが、そんなこと、今まで一言も! 「ち、違うってば〜! マタなんとかドレスなら、大柄な女でも着れるかと思って」 ジャンヌはさらに顔色を変えた。今度は真っ赤になって立ち上がった。 「おまえ、わたしに女装をさせる気かっ?!」 「だって、いつまでもフィッチャーの服を着ているとヤバイだろ。だいたい、女なのに、女の服を着るのに『女装』って言うなよ」 それはそうなのだが・・・。 < 5 > ネルの布をたっぷり使ったその服は、袖が膨らんでいたおかげで、ジャンヌの腕まわりと肩幅でも何とか入った(皺は寄った)。丈は少し短かくてふくらはぎが出たが、ヒルダが綿レースのペチコートを合わせてくれてバランスがよくなった。照れくさい、レンガ色に黄と紺のチェックの柄。古い布なのだろう、ちょっとけばだった風合いが、暖かみを感じさせた。 さらに麻のレースとウールと二種類のショールも用意してくれて、「気温やシーンによって使い分けるといいわ」とウールショールを頭からかぶせた。 「これで髪が隠れる。街へ行ったらカツラを買った方がいいかもね」 化粧までしてもらったのだが、ジャンヌはこういう格好の方がいつもの倍落ち着かない。 「何から何までありがとうございます。でも・・・変じゃないですか? あからさまに、女に変装しているように見えませんか?」 ヒルダはくすっと笑い、「大丈夫。綺麗よ。慣れてないから落ち着かないだけよ」となだめた。 「でも、こんなごつくてでかい女なんて・・・」 「あら。ビクトールさんが大きい人だから、並ぶとお似合いよ。迫力のカップルね。結婚式は映えるでしょうねえ。 女に縁が無いと思ってたビクトールさんに、こんなすてきな恋人がいたなんて」 「ははは」ビクトールは否定も肯定もせず力なく笑った。 「そうだ、ヒルダ。彼女が着ていたスーツ。荷造りして、送っておいてくれないかな? 実はフィッチャーに借りたものなんだ」 「いいわよ。彼の住所はご存じ?」 「いや。だがキャロの町役場にいると言ってた。役場宛でいいよ」 「わかったわ。 で、ぜひ、お式を挙げることになったら、私とアレックスに仲人を・・・」 「あ、オレたち、急ぐんで。ここに代金を置くよ。アレックスによろしくな!」 ヒルダの『仲人させて攻撃』をあわてて回避し、ビクトールはジャンヌの手を取って白鹿亭を出た。 「あらあ、待って、お釣りが・・・。せっかちな人ねぇ」 馬車に乗り込むビクトールは、 「そりゃあ、せっかちにもなるよな。軍隊と警察が、オレたち追っているかもしれないんだから」 と言い訳した。確かに、悠長に結婚式の話などしている場合ではない。でも、ビクトールが逃げ出したのは、そのせいばかりでは無いだろうけれど。 道は、決してつながらない。 だが、行けるところまで、東へ。 ジャンヌの心が聞こえたかのように、ビクトールが馬車を出発させた。風でドレスの裾がなびいて、ビクトールのブーツにまとわりついた。 湖を右に見ながら、ぐるりと曲線を描いて走った。馬車はいつしか南へ走っていた。傭兵養成所はトト村をまっすぐ南下したところにあるらしかった。 「死体を発見した時のこと、まだ詳しくは聞いていなかったが。犯人の目星はついているのか?」 「いや。わたしは、妬みを買いすぎているのでね」 ジャンヌはポツンと言った。そして、唇を噛んだビクトールの表情を見て、軽く笑った。 「そんな顔をするな。そりゃあ、楽じゃない方の人生を選んだと思っているよ。 だが、楽な方を選んだとしたら、戦争の死傷者の人数を知る度に、おまえの声が耳に響き、苦しみ続けただろう。戦争は、自軍が勝利することが最良ではない。被害が最小であることだ。わたしの考えは、ビクトールの気持ちと、変わらない」 「ジャンヌ・・・」 ビクトールの手綱を握る手がゆるんだ。馬は速度を落とす。 「こんな風にドレスを着たりすると、確かにふとつらくなることもあるよ。もう一つの人生のことを思って。たとえば、あのまま砦に・・・ビクトールのそばにいて。ずっとそばにいて。ただの、武術の達者なオテンバな娘として、寄り添っていたかもしれない、人生。 でも。これは自分に言い聞かせているだけかもしれないが・・・。わたしがシルバーバーグの屋敷に戻るような娘だったからこそ、おまえはわたしに想いを寄せてくれた、と」 ピリピリと痛む腿の傷。汚名を着せられ、殺されかけ、逃げまどって。そういえばもう二日も湯浴みしていない。髪は臭いかもしれない。 不相応な出世の為に、どれほど憎まれているのだろう、わたしは。こんな小娘が、少佐で、司令官だとは。ラダトに戻ったとしても、味方はいるのか? 否、母国のグレッグミンスターの屋敷に戻ったとしても、わたしに味方はいるのか? ビクトールはジャンヌの手を握った。馬はのろのろと歩いている。手綱がビクトールの手から離れていた。 「厳しい道を無責任に勧めた。すまない。謝って済むことじゃあないが」 「バカにするなよ。わたしが選んだ道だぞ。おまえに言われたからではない」 「わかっているよ。・・・助ける。何としても、おまえを助ける。 今わかったよ。オレには、おまえにふさわしい有意義な仕事ができるような才覚は無い。オレは所詮、傭兵家業の染みついた風来坊だ。だが、おまえを助ける為に、命を掛けることができる。これがきっと、オレの仕事だ」 ビクトールは、ジャンヌの肩に手をかけると、きつく抱きしめた。ショールのフリンジが頬に触れた。負い目なのか愛なのか? ジャンヌには測ることはできない。でも、信じることはできる。 生きて戻ろう。何があっても。汚名を晴らそう。 ジャンヌは、母国から遠い明るい空の下で、そう誓った。 < 6 > ジャンヌが元帥の部屋を出て、短剣を取りに戻るのに、脈拍50回分だってかかってはいまい。ジャンヌは誰ともすれ違っていない。ジャンヌの目をかすめて部屋に入り、元帥を殺して逃げることは不可能だ。 「初めから部屋にいたと考えるのが、自然だな」 馬車を転がし、前の景色から視線を微動だにせずにビクトールが言った。 「元帥を殺害する目的で忍び込み、おまえが部屋に来たから隠れたか・・・。 元帥がそいつを呼ぶかそいつが自分から訪問するかしているところにおまえが来て、元帥が『隣の部屋で待っていろ』とでも指示したのか」 「後者は、あり得ない。元帥は、邪な考えでわたしを呼んだのだから」 「見られているとさらに興奮するってヤツもいるから、わからんぞ」 「・・・。」 「すまん〜(笑)。続けてくれ」 馬車は、リューベの村を西に見て南へと下り続けた。数年前はこのあたりは戦禍による被害で焼け野原だったと聞くが。森こそはまだ若い低い木ばかりだが、芝も草もみずみずしい緑に輝いていた。 「なぜ元帥を暗殺したのだろう? 彼がいると出世できないから。または、自分が目指す政策と意見が違うから。または、憎んでいるから。 わからん。戦争でもないのに、人が人を殺す理由とは何だ? 今まで言ったどの理由も、人をあやめるほどの価値があるものなのか?」 「・・・人をあやめるほどの価値がある理由なんて、ねえよ。たとえ戦争でも、な。でも、ネジが壊れた奴はいるからなあ。壊れた奴の心情を理解しないといけないのかもしれん」 ネジの壊れた奴。 現地の人間が軍宿舎の敷地内に侵入することは難しい。まして元帥がいる建物に。トラン軍の人間と考えるのが自然だろう。軍の中に壊れた奴がいるのだと思うと、ぞっとしない。 「軍人なんぞ、人殺しを生業にしている者たちだからな。全員、おかしいと言えばおかしいのだろうが」 考え込み、違う迷宮に迷い混むジャンヌだった。考えれば考えるほど、気分が落ち込んでいく。 「それはオレのような傭兵も同じことさ。 他の選択肢。・・・元帥が何か秘密を握っている。元帥に揺すられていた。元帥と恋仲で、おまえをくどこうとしたので嫉妬して殺した」 「おい!」 「ははは。反対もあり得るぞ。おまえに懸想していて、元帥がおまえにいやらしいことをしようとしたので激怒して殺した、とか」 「いい加減にしろ、怒るぞ」 「元帥はもう死んでしまったから仕方ないが。オレだって二、三発殴りたいくらいだ」 「・・・。」 ジャンヌは苦笑してビクトールの横顔を見た。 「わたしが殴れば十分だ。わたしがされたことに対して、報復していいのはわたしだけだろう」 「それはその通りだが・・・」 「気にすることはない。あのおやじは、どんな女でも一応くどいてみるらしい。軍で遠征する町に村に妾がいると聞いている。元気なじじいだ。女学校が開けるほど庶子がいると聞いているぞ」 「女学校? なんだ、子供は女ばかりなのか。元帥に血を分けた男子がいないのなら、御家騒動って線もあるな」 「別に娘に継がせれてもいいだろう。わたしだってそうしたんだから。本妻との娘だって5人もいるんだぞ。鼠並の繁殖力だよな」 「鼠・・・。」ジャンヌの言葉に吹き出したビクトールだった。 * * * * * * * コロネでは、事情聴取で2日拘束された。 フィッチャー、否『フィリップ・プレシ』氏は被害者なので、扱いは丁寧だが。 早くシュウに報告しなければいけない。シュウは、今回の仕事の依頼をする為にわざわざキャロまで来て、直接資料などを手渡した。今も、まだ、キャロで待っている。たぶん、かなりイライラして、待っている。シュウは、権力者の類に洩れず、気が短い。 だいたい、何度聞かれても、「部屋に戻ったら、いきなり殴られ、気絶した。気づいたら身ぐるみはがされて縛られていた」としか言いようがない。「もっとよく思い出してみろ」とか「気づいたことは他にないのか」と言われても、無駄なことだ。それしか打ち合わせしていないんだから。 警官は、フィリップ・プレシの通行証でその夜何者かが街を出たことを教えてくれた。ただ、同じ日にもっと大きな事件が起きたので、強盗程度の事件は後回しになっているとも言っていた。 『後回しでも中止でもいいから、早く帰してくれよ〜』 被害届けを出し、通行証の再発行を依頼した。 今は、通行証が無ければ、街の出入りはできないと言う。拘束を解かれても、通行証が再発行されるまで、キャロには帰れないってことだ。 シュウも待っているが、ジルだって心配しているに違いない。本当なら昨日には帰宅していたはずなのだ。 昔なじみと名乗る男が突然訪ねて来たかと思ったら、急に「仕事で」コロネまで出張することになって。妙にコソコソ打ち合わせしていたので、変だと思っていることだろう。ジルの前では、天下の諜報部員・フィッチャーは、全部が顔に出てしまうらしかった。 ジルは、妻でもなければ、恋人でさえない。自分は、ただの、アパートの隣人にすぎない。もしくは、ジルの4歳になる娘・ベルの「お守り役」。又は11歳のピリカの「家庭教師」。 ビクトールは言った、『遠く見守っていたい存在はいるが、あまりに遠すぎる』と。それに真似て言えば、ジルは『こんなに近くにいるのに、あまりに遠すぎる』存在だった。なにせ相手は元王妃だ。キャロの町役場の苦情処理係(又は時々スパイ)ごときに似合う女性ではない。 それに、彼女の生い立ちや、モノのように扱われ翻弄された今までの人生。彼女は、男性を嫌悪しているフシがあった。彼女は、夫だった王のジョウイも、兄だったルカも、父だった前国王アガレスも、みんな憎んでいた。 ジルは、政略結婚させられる前に、家出した。フィッチャーは、ジルを小さな少年だと思って助けたことがあった。そのことがあったせいか、ジルは、フィッチャーが男性であっても心を許して信頼してくれているように見えた。それとも、それは自分の都合のいい解釈で、単に『男』と思っていないからなのかもしれない。 キャロで役人として仕事をしている身だ。お役所仕事は承知している。 警察が紹介してくれた安い宿で、フィッチャーは何日か待たねばならない腹をくくった。 金は一銭も無い。かえって金が残っていては変なので、ビクトール達に全部持たせた。 『強盗を、盗まれた通行証で街から出した、警察の責任だ』と激怒したフリをして、警察官から少し金を借りた。服もめぐんでもらった。借りた金を数日、チマチマともたせなければならない。 宿屋は、毛布だけをあてがわれ、大部屋に十人もがゴロ寝するような部屋だった。酒を買う金はないので、なかなか寝入れなくて、苦労していた。だいたい、窓から差し込む月が、明る過ぎた。だが、逃避行する二人には、月夜は都合がいいかもしれない。 『無事だといいが・・・』 ビクトールは自分と同い歳である。かつて自分が密かに好きだった女性、元ミューズ市長のアナベルが愛した男。しかも自分と同じようにあんまり女性には縁が無いようで、浮いた噂は聞かなかった。 ビクトールに恋人、か。アナベルが死んで、もう5年だ。 ああ、アナベルの赤茶っぽい髪は、どんな赤さだったろう。もう、思い出せない。豊かで長い髪は、どのへんまであったのだっけ? 肌の色は白かっただろうか? 瞳は? 声は? 「フィッチャー?」 懐かしい、甘い声。 「フィッチャーったら」 アナベルの声は、大柄な外見のわりに女っぽいきれいな声だった。 「フィッチャー! いい加減に起きてっ!」 聞き慣れた女性の声で慌てて飛び起きた。なんでここに?! 「ジル殿・・・」 「強盗に遭ったと聞いて、びっくりしてキャロから飛んで来ました。でも、元気そうね」 むさい大部屋、まだ野郎どもがそのへんでゴロゴロ寝ころがり、ケツなど掻いているその中で。漆黒の瞳の娘が、フィッチャーを覗きこんでいた。 「ちょっ・・・ちょっと待ってください。なぜ、あなたがそんなことを知っているんです?」 警察には、本名など当然告げていない。 「キャロに滞在していたあなたのお友達のキムさんのところに、連絡が入ったのだそうです。それで、彼が、親切に私にも教えてくれて。一緒にこの街に連れて来てくれたんです」 「キム?・・・誰です?」 寝ぼけた頭で、必死に頭の中の名簿をめくる。 「外交官時代のお友達と言ってませんでした? 長い髪の、頭の切れそうな」 シュウ大統領か。そういえば、キャロに依頼に来た時、ジルにそんな偽名を名乗っていたような気がする。 あれ?・・・ジルを『この街に連れて来てくれた』??? 「シュ・・・キム殿が来てるんですかーっ?!」 フィッチャーは毛布を飛ばして起き上がった。 「ええ。向かいの飲茶の店で待っているわ」 「・・・。」 そうか。強盗に遭ったことはバレているんだっけ。コロネの警官の中にも、シュウの放ったスパイがいるに違いない。それで『フィリップ・プレシ』が強盗に遭ったことがシュウにすぐに伝わったのだ。 しかし、何と言い訳しよう。まだ何も考えていなかった。 「これ、着てください。身ぐるみはがされたと言うので、服も持って来ました」 ジルは、スーツとワイシャツ、替えの靴下まで準備してくれていた。 「す、すみません。ありがとうございます」 「乱暴されたそうですけど、怪我は無いのですか?」 「唇が少し切れただけです。刺されたなどの怪我はありません」 「・・・。無事なのが、一番です。・・・キムさんに何を言われても。もし役人の仕事をクビになったとしても、私もピリカも旅館で今までの倍働きますから、あなたを食べさせてあげるくらいはできます。今までさんざんお世話になったのですもの。だから、心配しないで」 「ジ・・・ル殿」 「さ、キムさんが待っていますよ。早く着替えて来てね。私は先に行っていますから」 「あ、はい」 ジルは、強い。ベルが産まれる前から強い女だったが、最近はとにかく強い。フィッチャーは、自分も彼女の子供の一人として扱われているような錯覚さえ覚える。 のろくさと着替えをしながら、あの時の選択肢を思う。 ジルベールと名乗る乞食少年を。あのまま、ノース・ウィンドゥに一緒に連れて帰っていたら。 知っていたなら、ジル皇女だと。アナベルを殺した男との政略結婚を強いられた娘だと、知っていたなら。 『何度、同じことを考えるんでしょうねえ、おいらは』 だが、彼女を不幸から救うことができたあの機会を、自分がフイにしたことを、フィッチャーは許すことができなかった。その負い目は消えることが無いと思えた。 チェストの二番目の引出しに入っているワイシャツ。一番下の靴下。クロゼットのスーツ。まるで妻のようにきちんと一揃い整えて来てくれた。時々掃除をする為に、ジルはフィッチャーの部屋の鍵を持っている。 妻でもない。恋人でもない。でも、家族に似た意識がある。夕食は四人で一緒に食べ、外出する用があるとひと声かけて行く。ベルが立って歩いた時は一緒に喜んだし、熱を出した時はフィッチャーが抱いて医者に走った。 一応、シュウからの仕事で『皇国の関係者の接触を見張る』という名目はあったが、そんなことはもう関係無くなっていた。 『おいらは・・・兄? 父親? 保護者、にしては役に立たないか』 自虐的に口の端で笑うと、上着をはおって立ち上がった。 < 7 > シュウは、一つ用件を伝えるのに、必ず三つは厭味を言うよう決めているんじゃないかと思う。フィッチャーにだけでなく、秘書のアップルなどにもそうなのだから、『性格』なのだろう。 「すばらしく早い着替えだな」 「すみません、お待たせしました」 タイをしめながら、急いで店に入って来たフィッチャーを一瞥する。それまで、ジルとは穏やかな雰囲気でお茶を飲んでいたくせに。 「お仕事の話でしょ? 私は席をはずしているわね」 ジルが気を効かせて別のテーブルに移動した。 「いいザマだな」 「すみませんでした。でも、強盗に遭ったのは、ブツを手渡して仕事も終えた後ですので」 「強盗ねえ。・・・そう言えば、その夜はビクトールと飲んでいたらしいな」 「飲んだと言っても、おいら・・・わたしは、付き合いでジョッキ一杯程度ですけどね。酩酊するほど飲んでいないし、そのせいで強盗につけいられたとも思ってませんよ」 ずいぶん色々なところに密偵を置いているようだ。 「大きな事件があって、強盗事件程度の走査は後回しだったそうだな」 「はあ。事情聴取も書類の作成も諸手続きも、すべてその調子でした」 「わたしが警察署長のケツを叩いておいたので、今日の夕方には通行証は手に入るだろう。 大きな事件って、何だか知っているか?」 「いいえ。何ですか?」 フィッチャーはとぼけるのはお手の物だ。 「トラン共和国の陸軍元帥が殺されたそうだよ」 シュウはため息をついて、鉄観音を飲み干した。 「おまえの事件の為に来たわけじゃないんだ。厄介な事件だ。今回も、トランはうちの警察と軍に介入してきて、うるさいったらない。そのくせ、自分ところの宿舎で殺されたくせに、うちの警察の捜索は入れさせない。 調停も友好的に済んだし、トラン軍には一刻も早くお引き取り願いたいんだが」 調停。以前から、ハルモニア国境の警備のことでは、同盟国のトランともめていた。 結局、うちが折れて、トランの一個中隊単位の行動を認めた。ジャンヌの手柄ということになるのだろう。だが、そのジャンヌも国に裏切られた形で追われている。皮肉なものだ。 「うちの国で、他国の軍隊が独自で動くのは、あんまり気持ちのいいもんじゃないな。わたしがキャロにいたせいで情報が遅れた。レオンの御曹司にしてやられたようだ」 最後の『レオンの御曹司』という言葉は、吐き捨てるように言った。レオンの甥・マッシュに破門された身としては、シルバーバークの家紋は大好きというわけにはいかないのだろう。 御曹司、か。シュウでさえ、少佐が女性だとは知らないようだ。 「しかも、トラン軍がうちの警察に報告した『逃亡中の犯人』の容姿。『中肉中背の黒髪の短髪の青年。頬に古い刀傷アリ』、奴にそっくりだ。 元帥を片付けるなんて、まだひよっこの分際で、何か恐ろしいことを企んでいるのかもしれん。トラン共和国を手中に納めよう、というような」 絶対、それは無いと思うのだけど・・・。 シュウは、自分が野心家なものだから、世界中の人間が野心家なのだと思い込んでいる。 『頼みがある。人を・・・探して・・・連れて来てほしい』 憔悴し、切迫したあの表情。子供が、今にも泣き出しそうなのを必死にがまんしているような瞳だった。あの時のジルベールのように。 平凡に平和に暮らしたい。普通に好きな人と恋をして、結婚して。そうできたら、どんなに幸せなことか。娘達の、そんな些細な望みを飲み込んで行くモノ。戦争。運命。憎悪。策略。 「で、今回のおまえの任務なのだが」 「えーっ?!」 考え事をしながら漫然と聞いていたフィッチャーは飛び上がった。 「に、任務ですかい? もう?」 奥のテーブルに座るジルを振り返る。彼女はそれには気づかず、下を向いて本でも読んでいるようだった。 「レオンの御曹司には、妹がいる。なかなかの美人で、奴は妹を溺愛しているそうだ。おめおめ屋敷に戻るバカではないだろうが、妹には何らかの接触があるだろう。少なくても『無事でいる』などの連絡は入れるに違いない。 おまえはトランのグレグミンスターに行って、宝石商としてシルバーバーグの屋敷に出入りしろ。妹に貴金属を売り込むフリをしながら、兄から連絡が無かったかどうか、さぐれ」 「ひーっ、ほ、宝石商ですか? そんな、命がいくつあっても足りませんよ〜。くすり商人で襲われたばかりだって言うのに〜」 「一人で行けとは言っとらん。ほら、これをビクトールの学校に持っていけ。わたしからの依頼状だ。講師の中から適当な奴を用心棒として一人付けていいぞ」 「ビクトールさんの学校、ですか?」 ハイランド王国とジョウストン都市同盟の戦争の頃、リューベ村とラダト市の中間あたりに『ビクトールの砦』と呼ばれる傭兵基地があった。主にミューズ市からの依頼で・・・アナベルからの依頼で仕事をしていた。ビクトールの砦は、ルカ王子の奇襲で焼き落ちたが、今、その跡地には今度は国が建てた『戦闘を学ぶための』傭兵養成所ができていた。ビクトールは、今、そこの所長をやっていると言っていたっけ。 「そういえば、戦争のあとに、うちの国の資金でトラン共和国に作った傭兵の砦はどうなっているんですか? 最初はあれをビクトールさんが管理していましたよね」 「フリックに押しつけて、突然消えたんだよ、あいつは! まったく、『風来坊のビクトール』なんて。ろくでもない男だ」 「でも結局また、傭兵養成所の所長に就任ですか。腕は立つし人望は厚いし、適任でしょうけど。本人は、軍人を育てることにはあまり乗り気では・・・」 シュウはジロリとフィッチャーを睨んだ。 「酒の席では随分邂逅を深めたみたいだな、フィリップ・プレシ君」 「・・・。」 フィッチャーは下を向いて茶器を握り直した。シュウの前ではよけいなことは言わないようにしないと。 「わたしがこのままグレッグミンスターに向かうのはいいのですが、ジル殿はどうするんです。シュウ殿はこのまま仕事でここに残るのでしょう?」 「いや、どうせ馬車での往復だ。わたしが送っていくよ」 「え・・・?」 忙しい大統領が、不自然なほど親切なことだ。どうせまた裏があるのだ。だが、シュウには必ず護衛が付く。ジルは安全に送ってもらえる。 この時代に、剣が奮えないというのは、不便なことだ。愛するひとも守れないし、自分さえも守れない。 「ジルは・・・おまえの恋人ではないそうだな」 フィッチャーが不在の間に、ジルに接近して色々聞き出したらしい。 「めっそうもありませんよ。シュウ殿の命令で隣に住んでるだけです」 元ハイランド王国皇女。そして元王妃。ジルは、シュウが欲しくてたまらない、『家柄』を持った女性だ。 シュウには、地位も名誉もあり、元は豪商だったので財産も充分にある。明晰な頭脳・洗練された容姿・若さ・演説で心に響く朗々とした声。この地上で、最も神に近いほどたくさんを『所有している』男かもしれない。だが、フィッチャーは彼の唯一の劣等感を知っていた。シュウは、平民なのだ。 「ジル殿にプロポーズでもなさるつもりですか? 言っておきますが、家柄目当てだって知られたら、その場で殴られると思いますよ。自分を利用しようとする者を、彼女は絶対に許さないでしょう」 「許して貰えなくても殴られても、そんなのは全然かまわんが。本人の同意が無いのに無理矢理は結婚はできん」 「やっぱりプロポーズするつもりだったんですかっ!」 「大統領が31にもなって独りというのも、見栄えが悪いだろ」 「国のことちゃんとやっててくれれば、誰も見栄えなんて気にしません。だいたい、あなたにはアップルさんがいるじゃないですか。アップルさんと結婚したらどうです」 「あいつは妹みたいなものだし・・・それに平民だ。 まあ、フィッチャーがジルと結婚したとしても、それはそれで利用できる。別に私はどちらでもいいんだ。どうせ、何でも利用するのだから」 シュウは顔色ひとつ変えずに言い放つ。 フィッチャーは、熱過ぎる茶器をそのまま握りしめた。指先の痛みを心の痛みと重ねながら。店はたくさんの客で賑わい、それぞれの席で騒がしく会話がくりひろげされていた。フィッチャーは苦笑する。シュウの背後は闇。本来窓から見えるはずの街の景色も、行き交う人々の表情も、何も見えない。 「・・・しませんよ、結婚なんて。相手は、お姫さまっすよ」 「人は不思議なものだな。私は彼女が『お姫さま』だから結婚したかったのだが、おまえは、だから結婚したくないという。どちらにも、彼女の意志は無い、な」 「・・・。家柄を入手したら。完璧になって無敵になったあなたは。何をするつもりなんです? 世界征服ですか?」 たまには。100回に1回くらいは。軽い厭味を返してみたってバチはあたらないだろうとフィッチャーは思った。だが、シュウにとっては厭味でも何でもなかったようだ。 「世界を掌握するか、世界が破滅するのを黙って見ているか。私のような者が『世界』と関わるとしたら、二つにひとつだ。私は後者でいるつもりだったが、五年前、おまえらが嫌がる私を無理に引っ張り込んだんだ。この前の戦争で軍師を引き受けた時から、ハラは決まっていた。 私以外の者が世界を収めて、私以上にうまくいくはずがない。破滅に向かうだけだ。私だけが、正しい方向に導く力量がある」 神になるつもりなのか、このシュウという男は。そして、その力が無いわけではないことを、フィッチャーは感じていた。戦慄した。フィッチャーは、息をするのも忘れ、真顔で語るこの青年の顔を見ていた。 シュウはにやりと笑う。 「で、おまえの任務の話の続きだ。路銀を渡しておこう。この中から警官への借金を返しておけよ。商品の貴金属は、夕方、通行証が出来上がるまでに揃えておく。金や商品が足りなくなったら、グレッグミンスターの交易商のゴードンを訪ねていけ。調達してくれることになっている。 妹に何らかの接触があった時にも、すぐにゴードンに知らせろ。おまえの仕事はそこまででいい。あとはゴードンに指示してあるから」 「あ・・・はあ」 「夕方まで、自由にしていてくれ。あとでジル殿を迎えに来る」 シュウは伝票を握ると、店を出て行った。残されたフィッチャーは、ジルを盗み見る。仕事の話が終わったのに気づき、笑顔でこちらのテーブルに近づいて来る。 神にこき使われる男に、幸あらんことを、アーメン。 < 8 > 馬車は、傭兵養成所に陽が暮れる前に着いた。 ここには50人ほどの生徒いるそうだが、生徒達の宿舎や道場と、6人の講師達の宿舎は別棟になっていて、ジャンヌの姿がたくさんの人間にさらされることはなさそうだった。前の戦争で『砦』だった建物と聞いていたが、高い塀や砲台などがあるわけでもなく、広い庭と大きな建物の、普通の学校という感じだった。 ジャンヌの足の怪我も、施設に常駐する医師にきちんと見せた方がいいというビクトールの判断もあった。ジャンヌが診療、再手術してもらっている間、ビクトールはラダトでの情報を収集しているようだった。 再手術。ジャンヌがした応急処置は、フィッチャーの販売用携帯医療具のホチキスで三カ所ほど止めたにすぎない。だからたくさん歩くとすぐに出血した。医師がきちんと縫ったら16針にもなった。 「よくこんな状態でいましたね」と叱られた。 「しかも、麻酔なしでホチキスしたのですって?」 医師はあきれていた。 「痛みでは死にません」 「ビクトールさんと同じことをおっしゃるのですね。でも、ここは安全ですから、今日は麻酔させてもらいましたよ。 彼も治療で麻酔を使うのも嫌がります。麻痺していると、急な危険に対応できなくて怖いのだそうです。そういえば、傭兵稼業が長いと熟睡もできないそうですね。夜も、廊下を誰かが通るだけで目が覚めるそうです」 まだ若い医師だった。ジャンヌより少し上くらいだろうか。いい家の産まれらしい、ものごしの柔らかい青年だった。 「医師になられて何年ですか?」 「2年になります。まだ死亡証明を書いたことがないのが誇りです」 ジャンヌ同様、戦争を体験していない世代だ。ジャンヌも軍人になって3年。まだ、部下の死には直面していない。傭兵時代に同室の少女の死に出会ったが、実際に目の前で死なれたわけではなかった。 ビクトール。ジャンヌに彼の痛みを理解することはできない。でも、彼の前では絶対に死なない。彼より先には死なない。一秒でも長く生きよう。それがジャンヌの誓いだった。 自分もどんな瀕死の傷を受けていても。ビクが息を引き取る瞬間まで、「大丈夫か?」と笑顔で励まし、自分は無傷のフリをしよう。ジャンヌはそう決めていた。 ビクトールが抱えて客室のベッドまで運んでくれた。ジャンヌがジョークで「花嫁みたいだな」と言うと、抱えたビクトールの耳が真っ赤になった。 「そうやってオレをからかう元気があれば大丈夫だな」と、ジャンヌをにらんだ。 ベッドに降ろされると、ビクがまだ赤い顔をして、「ラダトでの情報だが」と咳払いしてから話し始めた。 「結論から言う。厳しい話ではあるが、心して聞いてくれ。 ラダトへは戻らない方が無難だ。おまえの扱いは、今はもう『殺人事件の容疑者』ではない」 「・・・『反逆者』、か」 ビクトールは返事は返さなかったが、苦虫をかみつぶしたような渋い表情をしていた。 裁判無しでその場で処刑してよい。ジャンヌをジャンヌと知って助けた者の罪も、ずっと重くなる。家族への扱いも心配だ。 「ただ、おまえの配下の者達は、鵜呑みにしていない様子だったそうだ。心情的な『そんな人ではない』という信奉者の意見から、『司令が殺人を犯すのに、わざわざ短剣を使ったのは不自然だ、素手で殺せるのに』という冷静な意見まであったそうだ。ま、反逆者をかばう意見だ、大きな声では言えんことだろうがな。おおむね、おまえは部下に好かれているようだな」 おかげさまで、とジャンヌは愛想なく言った。それより妹のことが気がかりだった。 「グレッグミンスターの、ロザリーはどうなっているかわからんか?」 ビクは首を振った。 「ラダトからは遠過ぎる。うちにはスタリオンっていう韋駄天がいる。ここに着いた時に、彼にグレッグミンスターの様子を探って来てくれるように頼んだ。彼が戻れば少しは情報が入る。それまではしっかり療養するといい」 「いつの間に・・・。相変わらず、ソツが無いな。・・・ロザリーが投獄などされていないとよいのだが」 「最初は、おまえが接触してくるのを待つために、泳がせると思う。しかし、暫くすれば、ロザリーを人質にしておまえをおびき出すくらいはするだろうな」 「厄介なことだ」 ジャンヌは人ごとのように言うと、寝返りを打った。微かに足の痛みが戻ってきた。 「・・・。麻酔が切れて来たらしい」 「鎮痛剤はここに置いておくが。今夜は、隣のベッドで寝ているから、何かあったら遠慮なく起こせよ。 足が回復したら。グレッグミンスターまでは長くなる。止めても、もちろん、行くつもりなのだろう? 養生しておけ」 「アイアイサー、キャプテン」 「随分な話ね。強盗に遭ったばかりの人を、すぐにまた出張に出すなんて」 蓮の実入り月餅を切り分けながら、ジルが憤慨していた。 「宮仕えの身ですからね。上には逆らえませんよ」 「また暫くは帰れないのでしょう? ベルが寂しがるわ」 ジルも寂しそうにそう言う。フィッチャーには測れない。ベルが寂しがるからジルも寂しいのか、それとも・・・。 「今、ベルちゃんは、ピリカちゃんが見ているんですか?」 「ええ。もう、十分任せられる。ピリカは、しっかりしてるし」 八つに切りわけた月餅の一切れを頬張りながら、ジルはほほえんだ。せっかく切りわけてくれたので、フィッチャーも一切れ口に入れる。もうさっきの宿には帰りたくないし、この飲茶の店で時間を潰すつもりだった。 ベル。帰ったら公園で鬼ごっこをする約束をした。果たして自分は無事に帰れるのだろうか。 だいたい、自分は、どうするつもりなのだ? シュウの依頼を全うするつもりなのか? もしジャンヌを助けたことがバレたら、もうシュウのところには帰れないかもしれない。職も失うことになるし、罪人として追われることにもなる。 「もし、仕事が長引いて長く帰れなかったら。お金が入り用な時は、おいらの貯金を使ってください。通帳がネクタイの入った引出しに一緒に入っているの、知っていますよね」 フィッチャーは、ベル達と一緒に食事をするので毎月食費としてポッチを渡していた。それは一人分の食費と言うより「生活を援助している」と言っていいほどの金額だった。それが無くなると、ジルは困るだろう。 もし、二度と帰らなかったら。 「隣人に借金するほど、困ってません」 「・・・。」 4切れ目の月餅を口に放り込むジルを、フィッチャーは苦笑まじりに見つめた。 「ピリカちゃんの卒業に間に合わないかもしれません。もし間に合わなかったら、卒業祝いを、その中から買って贈ってくれませんか? わたしからだと言って」 「そんなに長くなるの?」 「いや、ちょっと期間がわからないので」 ジルは、フィッチャーの通帳と一緒に、ピリカとベル名義の通帳も見つけるに違いない。 「大変ねえ、お仕事」 小首を傾げる幼いしぐさには、まだ少女の面影があった。豊かな長い髪。黒い絹糸のような髪が、色白の頬に影を作る。 口八丁の嘘つきフィッチャー。最後まで、本当のことは言わないのが、自分らしいだろう。 |