< 9 > 「うなされていたぞ。無理せず、痛み止めを飲め」 ビクトールの冷たい掌が頬に触れて目が覚めた。背にも額にもいやというほど汗をかいていた。痛みで熱が出ているようだった。 まだ寝ぼけてぼうっとしている状態なのに、口に無理矢理錠剤をつめこまれた。ジャンヌはおもむろに上体を起こした。 「ほれ、水だ」 瓶を口許に押しつけられる。仕方なく、ごくごくと水を飲んで、薬を飲み下した。 「着替えた方がいい。オレがここで使っている寝間着だ。洗濯してあるから、安心しろ。着替え終わったら声をかけてくれ、廊下に出ているから」 無骨で、ぶっきらぼうな言葉の数々。でも、ビクトールのそれらは、優しさに満ちていた。 通行証は夕方まで待たずとも、昼下がりには手にすることになった。シュウの『とっとと行け』という視線に、フィッチャーはジルとの挨拶も早々に馬車を出発させた。シュウが準備した宝石入りのジェラルミン・ケースを押しつけられて。 まずは、ビクトールのところへ。彼が無事に学校へ戻っているとすれば、ジャンヌも一緒だろう。 「これだけ眠っても、まだ眠気があるなんて」 手渡された濡れた布が、ヒヤリと気持ちいい。額に当てて、また横になる。 「体が消耗しているのだろう。ゆっくり休め」 「痛みは、それほどではないんだ。うなされたのは、たぶん、子供の頃の・・・逃げている時の夢を見ていたからだ。ロザリーが心配でね。 ビクトール、おまえも疲れているはずだ。休んでくれ」 「あれしき、何でもないさ」 「枕元にいられると、落ち着いて眠れないよ、そんな近くで見るなよ。恥ずかしい」 ジャンヌは照れる様子も無くそう言ったが、ビクトールは少し赤くなって「ああ、わかったよ」と折れた。 ビクトールがむこう側のベッドに横たわったのを確認し、目を閉じた。彼も戦士なので熟睡はしないだろうが、だいぶ疲れていることだろう。 自分がもし反逆者として手配されているとしたら。ロザリーもひどい目に遭ってはいないだろうか。 それに、自分を助けたビクトールやこの施設の人間や。フィッチャー。白鹿亭のヒルダ。みんなに迷惑がかかるのだろうか。 たとえば。レイプされそうになって(これは嘘ではないし)、もみ合って刺してしまった。こんな風に偽証すれば、反逆罪までは問われまい。 『バカなことを。疲れのせいかな。弱気になるなんて・・・』 自分がすべきことは、そんなことじゃない。助けてくれた人の為には、逃げずに真実を探すことだ。大変でも、臆病にならずに、前を向いて。 隣のベッドで声がする。誰かが慌ててビクトールを揺り起こしている。 「フィッチャーさんのご来訪です!起きてください」 飛び起きるビクトールの気配を感じた。ジャンヌもゆっくりと体を起こす。 「フィッチャーさんがおいでです。シュウ様の司令だそうです。門を開けていいですか」 シュウ大統領の? 緊張が走る。 ビクトールはすくっと立ち上がった。 「ジャンヌ。いつでも脱出できるよう、裏口で待機していてくれ。すぐに馬車で出れるように」 「ずいぶん早い時間のご訪問だな」 ビクトールは所長室に入って来ると、フィッチャーの顔色を測りながらそう言った。戸惑いを隠せていない。無理は無いだろう。この前助けたとは言え、自分はシュウの裏の仕事をする人間なのだ。 「すみません、こんな時間に。夜中じゅう馬車を飛ばして来ました」 「あいつも人使いが荒いな」 「こういう事情です」フィッチャーは苦笑すると、シュウからの依頼状を差し出した。 「お手数かけて申し訳ないです。おいらが剣を使えないために」 「・・・もうすぐ、ここにハイランドの警察がどっと押し寄せてくるのか?」 ビクトールは、依頼状に目を通しながら言った。彼とすれば、自分が敵か味方かわからない、というところだろう。ろくに眠ってもいないらしく、顔にできた不自然な影たちが疲労を語っていた。自分の砦、とりあえずの安全地帯まで、必死で戻って来たのだろう。 フィッチャーは長年の経験で知っていた。信じてもらいたい時に、繕ってはいけない。 「コロネで少佐殿を助けたことは、シュウの旦那には言ってません。そんなヤバイこと、言えるわけないでしょう。おいらだって、バレたら大変です。 旦那の方で情報を掴んでいれば別ですが、ここに警察は踏み込んでなど来ないと思いますよ。容疑者の少佐殿とビクトールさんのつながりは、旦那はご存じありませんから」 ビクトールは手紙から目を上げた。 「すまん。ずいぶん危ない橋を渡らせてしまったようだな」 「頭で考えて助けたわけじゃないんでね。 後悔はしてませんが、巻き込まれたからには、少佐殿の無実を証明しないと」 「協力してくれるというのか?」 「協力というより、もうすでにおいらは共犯者っすよ。 グレッグミンスターには、少佐殿は戻らない方がいいと思いますよ。どんなに変装しても、しょせん素人。なにせグレッグミンスターは少佐殿の地元ですし、顔を知っている者も多いことでしょう。街中に指名手配の似顔絵がベタベタって状態でしょうしね。おいらに任せてもらえると助かります。 妹さんは、誘拐しましょう。もちろん任意で付いて来ていただいて、ここで保護してもらうわけですが。早く身柄を確保しないと少佐殿はご心配でしょう。そう、思想団体が少佐殿を糾弾して誘拐したような形にするといいかも」 「おまえは・・・」 ビクトールはあきれた顔でフィッチャーを見ていた。 「敵にしたくない男だな」 「普段、あんまり、本気にならないだけです」 フィッチャーは微笑んでみせた。 <To Be Continued> 『二つの空、二つのこころ』 ★ 4 ★ < 10 > 『さすがにデカイ屋敷ですねえ』 宝石商という肩書なのでスーツも靴も上級品を選んで来たが、中身はいつもと同じフィッチャーに過ぎない。大理石の高い塀を前に、気後れするなというのが無理な話だ。 しかも、ここはまだ、目的の屋敷でさえない。今は主人もなく『さびれている』と噂されているマクドール家の門前だった。門から庭をのぞくと、きれいに刈られた芝や整えられた樹木が見える。どこがさびれているのだか、とため息が出た。 「金っていうのは、あるところにはあるよねえ」 隣で、用心棒役のスタリオンが、フィッチャーの思いを代弁し、肩をすくめた。 「さ、いつまでもぼーっと屋敷を見上げててもしょうがない。だいじょうぶ、今この屋敷を守っているパーンもクレオも古い仲間だよ。奴らは格式ばったことは言わないし。客人としてビッキーもいるし。ビッキーは覚えているよね?」 「ええ、まあ」 「じゃあ、入りましょう」 養成所では、あまりに早いスタリオンの帰還に驚いた。だが、グレッグミンスターにビッキーがいると知って納得。瞬きの呪文で飛ばしてもらったのだ。 スタリオンの話では、ロザリーは捉えられることもなく、屋敷で自由に暮らしているという。何度かレパント大統領が城に呼んだのは、ロザリーを事情聴取するというより、彼女に姉の容疑や立場を説明するためらしい。 ただ、市民達はそう御行儀がいいわけではない。『反逆者』の文字をペンキで門に描いたり卵やゴミを門に投げつけたり。『街から出ていけ』などのビラを屋敷の前の道でばらまいたり。犬の死骸が庭に放りこまれたこともあったそうだ。今は、軍警察の兵隊が数人、シルバーバーグ家の人々を保護する目的で屋敷付近を警備しているという。警備と言っても、ジャンヌの接触を察知する任務も負っているはずだ。警備兵以外にも、張り込みしている者達もいるだろう。それは、トラン共和国の軍警察とは限らない。ハイランドの者もいるかもしれない。屋敷のまわりは、張りつめた空気が漂っていることだろう。 そんな状態では、いくら身なりを整えても、面識のないフィッチャーが商人として屋敷に上がるのは無理に違いなかった。幸い、マクドール家のクレオとパーンがロザリーと親しくしていたそうなので、仲介を頼むことにした。 ビクトールは『あっち』で別の仕事があるので、用心棒にはスタリオンがついて来た。彼も解放戦争の戦士だった。クレオ達とは旧知の仲だ。ただ、ビクトールが来るのと違い、クレオに、そしてロザリーにこちらの話を信用してもらえるかはわからない。フィッチャーの力量次第だった。 「フィリップさんは、ビクトールのご友人だそうですね。彼が傭兵養成所の所長に収まっていたなんて、知らなかったわ」 高価らしい石が埋め込まれた時計だとか派手な塗りの大きな壺だとかが飾られた居間に通され、白くて薄いカップで茶をすすめられた。テーブルもソファも上物だ。こんないいソファはかえって座り心地が悪かった。 クレオは、年齢こそフィッチャーと同世代だが、『戦士』と呼ぶにはあまりに可愛らしい女性だった。頬にできるエクボ。柔らかいものごし。元軍人にはとても見えない。 「パーンとビッキーは?」 スタリオンがカップからずずっと茶をすすってから尋ねた。彼はどこに居てもあまり変わらない。長く細い足を大きく組んで座り、リラックスしていた。 「ビッキーはショッピング。この街は、服も小物も品ぞろえが違うって興奮してたわ。若いコは着飾る楽しみがあっていいわねえ」 「そんなぁ。姐さんだって、まだまだ若いでしょう」とスタリオンがからかった。「おっと、そんな睨まないでよ〜」 「グレッグミンスターは、すごい街ですよね。おいらも商用で時々来ますが、その度に圧倒されますよ」 フィッチャーは近隣の国の色々な街にも行ったが、トラン共和国首都・グレッグミンスターほど『豪勢な』街は他になかった。前にこの国を治めていた赤国帝国の歴史と重みもあるだろう。歴代の帝王の派手ごのみのせいもあるかもしれない。 広い道路と整えられた敷石。どの道も馬車がすれ違える。大きな屋敷ばかりが並ぶ街並み。どの屋敷も高い立派な門に守られている。中央広場の公園の噴水から豊かに溢れる清い水、惜しげもなく公共の場所に設置された数々の彫刻、緑輝く街路樹、埋め込まれた絵タイル。ゴミ一つ無く整備された街だ。道行く人々の服装も、ハイランドの首都とは格が違った。 「街境付近は普通の民家も多いけれど。このあたりは、貴族や身分の高い騎士のお屋敷ばかりだから、よけいにね」 「ロザリーさん達とは親しいそうですが」 「ロザリーはいつも退屈しているから、お互いの家をよくお茶しに行き来してるわ。少佐・・・ジャンヌの方は、忙しいらしくてあまり屋敷には帰らないし、私は顔見知り程度かしら。口数は少ないけれど、妹思いで、真面目で。そう、ちょっとけむたいくらい真面目な感じだった。悪いことをするような人には見えなかった。うちのお坊ちゃんの逃避行も、事の始まりは陰謀に巻き込まれたのが原因だったわ。なんだか似た匂いがする」 「ビクトールさんとは・・・こちらの御曹司を助けたのが縁だそうですね」 追われるマクドール家の御曹司を助け、ビクトールが解放軍に引き入れたと聞いている。ハイランド戦争の時、王国軍の企みを知って殺されかけたリーダーとジョウイを助けたのも、ビクトールだった。 「見守って、励まして、強くする。でも余計な手助けはしない。人を育てるのがうまい男だったわ。ロザリーは、ずっと彼の行方を探しているようだった。居場所がわかって、きっと喜ぶわ。 私やパーンが解放戦争の頃の話をすると、ビクトールのことをすごく聞きたがっていた。ビクトールとは砦の頃に知り合ったそうね。 ロザリーは大佐だか総裁だかの息子と婚約させられているし、もし行方がわかってもどうしょうもないのでしょうけど・・・」 「・・・え?」 クレオは何か激しい勘違いをしている気がするのだが。ロザリーは、姉の為に情報収集をしていたのではないのか? しかし、フィッチャーはロザリーと会ったわけではないし、ロザリーの気持ちはわからない。本当にロザリーもビクトールを愛しているのかもしれな・・・無いだろうな、やっぱり。 「フィリップさんは、反対に、ロザリーとは面識が無いのよね」 「はあ。それで、ご紹介いただこうと思いまして。ロザリーさんには、豪華な宝石でも買って気分を晴らしていただこうかと思いましてね」 クレオに、どこまで話していいものだろうか。巻き込んでいいものだろうか。 警備兵がうようよいるシルバーバークの屋敷で、ロザリーが納得して協力してくれたとしても、スタリオンと二人で、誘拐を装って彼女を連れ出すことは難しそうだった。ビッキーの瞬きの紋章で外へ飛ばしてもらうにしても、『思想団体の誘拐団』の影はちらつかせる必要がある。 だが、全部話して協力してもらうとなると、クレオも反逆者扱いになってしまう。保護する為にロザリーを巻き込むのとはわけが違う。 「商人って、宝石商だったのね。私にも見せてくださる? 何かすてきなのはあるかしら?」 「気に入ったのがあれば、ぜひお買い上げください」 テーブルの上にジュラルミンケースを広げた。クレオは瞳を輝かせたが、すぐに失望したようだった。 「ちゃんとロザリー用に揃えてあるのね。黒髪黒い瞳に合う宝石ばかりだわ。茶の髪や灰色の目にはちょっと無理ね。残念」 へぇ。へぇ。へぇ。へぇ。・・・・78へぇ。 髪や目で、似合う宝石や似合わない宝石があるのか。勉強不足だった。 ここに広げられた貴金属は、黒髪黒い目の女性の為のものだという。どんな感じなんだろう・・・と、フィッチャーもまじめに覗き込んでみた。うわ、高い! 「・・・。ま、高価ですし。ご覧になるだけでも」 「そうね」 クレオに内密で事を実行した場合、彼女は後で我々に裏切られたと思うだろう。特にビクトールやスタリオンとは共に闘った古い友人だという。きっと深く刻まれてしまうであろうその溝を、どう埋め合わせすればいいのだろう。 「マクドールのお屋敷に来たのは・・・」 自分はどうしようとしているのだろう? 何を言おうと言うのだ? 「自分の一存です。ビクトールさんや、ましてやスタリオンさんの意志ではありません」 「フィッ・・・リップ、どうしたんだ?」とスタリオンまでが怪訝な顔をした。 「いや。おいらが、ロザリーさんと面識がないもんで、クレオさんを商いに利用させてもらおうと思いました。すみません」 「・・・。」 「それを、後まで覚えておいてください。ここへ来たのは、おいらの一存だったことを」 ビクトールも、スタリオンも。クレオを騙したり利用したりするつもりはなかったことを。そう、人を騙して利用するのは、フィッチャー、いつも自分の仕事だ。 「ビクトールが何を計画しているかは知らないけれど・・・。 私には、ロザリーとジャンヌを助ける手伝いはさせて貰えないの? 私を誰だと思っているの? 反逆罪なんて、朝飯前よ。怖くもなんともないわ」 フィッチャーは、スタリオンと顔を見合わせた。朝飯前って言われても〜。 この人は、あまりに今回の事件とかかわりが薄い。巻き込んではいけない。フィッチャーは腹をくくった。 フィッチャーは、背広の胸ポケットからメガネを出してレンズを拭きながら、少しだけ微笑みながら続けた。 「反逆罪? 何のことでしょう? わたしは、フィリップ・プレシっていう、ケチな商人です。だいそれたことにかかわっちゃいません。 あなたには、パーン殿という、面倒みなきゃいけない手のかかる男がいるのでしょう? しかもパーン殿は国粋主義者で、融通のきかない頑固者と聞いていますよ。まっすぐな、いい人物なのでしょうね。 わたしも、ジャンヌ殿が冤罪であると思います。無実が証明されることを祈ります。ただ、あなたたちはかつて一度巻き込まれた。ローテーションだとでも思っててください」 「フィリップ・・・」 「さ、シルバーバークのお屋敷に案内してください」 クレオを促し、フィッチャーは縁無しの伊達のメガネをかけた。それはフィッチャーを三割増しに金持ちそうに見せた。いや、メガネをかけたとたん、フィッチャーが成りきったのかもしれない。『高級宝石を扱う羽振りの良い商人=フィリップ・プレシ』という見ず知らずの男に。 「了解しました。もう、詮索はやめることにします。行きましょう」 クレオも毅然とした態度でソファを立った。 < 11 > シルバーバーク邸は、マクドールの屋敷に張り合う豪邸だった。石作りの門は、積み上げられた石の色で龍だか鳥だかの飾りを作っていた。豪奢でそして重厚で。ここいらの屋敷は、ただ立派なだけでなく、赤月帝国の支配の永さを感じさせた。ハイランドはまだ国としてはひよっ子だ。だいたい、貴族や伝説の六将軍や名将・名軍師などいるのは、歴史の長い国だけだ。『何代も騎士を出した家柄』なんて。ハイランドでの名家なんて、せいぜい親が騎士だとか市長だとか、二代目からだ。 この歴史ある大国と同等に渡り合おうとしているのだから、シュウの苦労もわかる気がする。 「警備兵の指揮を執っているのがパーンよ。彼は志願して行ったの。というか、ロザリーが危険と聞いて、すっ飛んで行ったわ」 門の出入口、数人の兵隊が佇む中、一人だけ軍服でない男がいた。鍛えた腕の筋肉を露にした拳法着。肩だけの鎧。鎧につけた階級章で大尉と知れた。 「パーン。ロザリーに会いに来たけれど、いいかしら?」 クレオに気づいたが、無愛想な表情はニコリともしない。 「任務、ご苦労様す。スタリオンです。あれ以来だね」 スタリオンが声をかけると、小さく頷いた。 「ハラがへった・・・」 「そうだと思って、差し入れを持ってきたわよ。みんなで食べてね」 クレオは、うまそうな匂いのするバスケットをパーンに押しつけた。 「ありがたい。・・・そちらは?」 「ハイランドの宝石商のフィリップさん。きれいな商品でロザリーを慰めたいっておっしゃってくれて。実は、ハイランドでのビクトールのお知り合いなのですって。消息が知れてロザリーは喜ぶわ」 無表情だったパーンの顔色が変わった。 「ビクトールが・・・見つかったのか」 それは古い友人の消息がわかった喜び、という表情ではなかった。何かが終わってしまった後の、諦観の表情に似ていた。彼は静かに下を向いた。 「詳しい話は、任務明けにするわね。じゃあ」 と、クレオは、フィッチャー達を率先して庭に入った。 広い庭だった。まるで公園だった。クレオは、正面に見える屋敷の正面玄関でなく、裏口に向かってぐるりと白い石畳の小道を進んだ。両側には手入れの行き届いた花壇が、主の安否など無頓着に、無責任によい香りを放っていた。 「裏口から?」 「ええ。正式訪問の客ではないのでね。それに、裏口の様子を見れた方が都合がいいでしょう?」 「・・・。」 結局、協力させてしまっているわけか。フィッチャーは、忍び込む時の為に、まわりの地形を確認しながら進んだ。 「パーン殿はロザリーさんを・・・」 「え? ああ、単細胞だからね。美人のロザリーにおネツなのよ。崇拝者って感じかしらね。バカでしょ、相手はレオン様のご令嬢よ。身分違いもはなはだしいわ」 クレオもバーンも、マクドール家に仕えた一介の騎士だ。赤月帝国からトラン共和国になってからは、パーンはただの軍人、クレオは一般市民にすぎない。 「ハイランドのような新しい国の人から見たら、身分違いなんて時代後れだと思うでしょうね。この国はまだ古い意識で満ちているわ」 「いえ。人の心は、どの国でもそう変わるものじゃありませんよ」 座りの悪かった敷石の一枚が、フィッチャーの靴に踏まれて、軋んだ。 ロザリーはクレオの来訪は歓迎したが、「アクセサリーなんて選ぶ気持ちになれない」と一度は断った。 「でも、ビクトールの消息をご存じなのですって」 「ビクトールさんの? でももう、すべて遅過ぎるわ。姉がいなくなった、今さら」 ロザリーは長いまっすぐな髪の、華奢な美女だった。黒い大きな瞳、小さな赤い唇。だが驚くほどジャンヌに似ていた。双子だったことをフィッチャーは初めて知った。ジャンヌを初めて見た時の『端正な顔だちの青年』という印象を思い出した。 がっくりと落とした細い肩。フィッチャーは、その肩に手をおいて『ジャンヌさんは、ビクトールさんに会えましたよ』と言ってあげたい衝動を覚えた。いかん、いかん。どうも自分は、黒髪黒い目の女性に弱いようだ。 情に流されている暇は無かった。応接室に控えている、執事、侍女、警備兵。何人か確実にスパイが混ざっていた。顔を上げなくても、視線の痛さでフィッチャーは感じ取ることができた。味方は、いない。失敗は許されない。 「レアな商品を揃えて来たんですよ。そうおっしゃらずに、一目だけでもご覧ください」 フィッチャーは華やかな木彫りの細工のテーブルの上でケースを広げて見せた。 「どうですか、こちらのターコイズのイヤリングなど」 それだけは、シュウが用意したものでなく、フィッチャーが持ち込んだアクセサリーだった。 ロザリーはちらっとそれに目をやり、首を振った。 「どこがレアなの。よくあるデザインだわ。現に私もそっくりのものを持っていてよ」 フィッチャーはその言葉に、にやりと笑った。ロザリーははっと顔色を変えた。 これはジャンヌから預かって来たものだ。母親から『ロザリーとお揃いで』貰ったイヤリングだと言っていた。ジャンヌは宝石を身につける機会は無いが、大切にいつも持ち歩いていたのだそうだ。 ロザリーの態度が変わった。 「ごめんなさい。よく見たら素敵ね。きちんと見せていただくわ」 フィッチャーは感触を掴んだので、細長い箱に入ったエメラルドのネックレスを取り出した。 「こちらがわたくしどものイチオシの商品です。どうぞ試着してみてください。デザインや長さから、もっと胸のあいたドレスにつけるものですので、試着室で十分検討してみてください」 箱の中にはメモが入っている。 「ビクトールさんは、それをつけたロザリーさまをご覧になりたいとおっしゃっていました」 「ビクトールが?・・・わかったわ。試着したからと言って、買うとは限らなくてよ」 ロザリーはその箱を手に取った。 「着替えて来ます。・・・あ、侍女はいらないわ。別にパーティーに行くわけじゃあるまいし。ネックレスを試すために着替えるだけですもの」 ロザリーが消えると、スタリオンはフィッチャーに小声で「おみごと」と囁いた。 「まだ、これからだ」 メモには、ジャンヌは無事であること、ロザリーの保護の為に偽装誘拐を計画していることが書いてあった。同意してくれた時の、誘拐計画の段取りまでが書いてあり、ロザリーが警備兵に告げれば即逮捕される危険な内容だった。いつパーンが踏み込んで来るかわからない。 待つ時間は長かった。女の着替えがかかることは知っていたが、じりじりと胃が焼けつくような痛みの中で時計が時を刻んだ。 ロザリーが深緑のカクテルドレスで現れた時には、ポットの茶はすべて飲みつくされていた。それでもフィッチャーの喉はカラカラに乾いていた。 ドレスは夜のパーティー用のもので、宝石を繋いだ細い肩紐の、胸が大きくあいたデザイン。いくつもエメラルドが重なり合った大ぶりなネックレスとそのドレスはよく似合った。ただ、ロザリーが細く華奢なので、ネックレスのボリュームが勝ちすぎていたし、だいたいロザリーのような若い娘がするアクセサリーではなかった。もっと年配の妖艶な熟女向きのものなのだ。 「大変気に入りました。買わせていただきます。今は手持ちがありませんので、明日のこの時間にもう一度来ていただけます?」 計画は『承諾』だった。今夜、決行だ。 「ありがとうございます」 しかしまだ安堵はできない。この後ロザリーが軍警察に告発する可能性もあった。夜にここへ来た時、軍が待ち伏せしていることは十分考えられた。 < 12 > マクドールの屋敷に戻ると、ビッキーが帰宅しているようだった。居間から若い娘のはしゃぐ声が聞こえた。連れがいるようだ。若い男の笑い声もした。 クレオが先に部屋に入った。 「ビッキー、帰ったのね。あら、シーナ」 フィッチャーの爪先が扉を踏み越えて凍りついた。 ハイランド戦争で一緒に闘ったシーナ。トラン大統領の一人息子。 「元帥の国葬があるんで、将軍は全員出席なんだ。で、国境警備だったバレリアの護衛で戻って来た。街でビッキーに偶然会ってさ」 「なにがバレリア将軍の護衛よ。実はバレリア将軍が御曹司の護衛をしてるんでしょ」 「えー、心外だなあ」 「シーナ、久しぶり。バレリアの部隊にいるのか。激務だなあ」 スタリオンも懐かしそうに握手を交わした。 「スタリオンも来てたの。ハイランドにいるんじゃなかったの?」 そしてドアのところに突っ立っていたフィッチャーにも気づいた。 「フィッチャー! ・・・だよね? そんな商人みたいなカッコしてるから気づかなかったよ。久しぶりだな」 クレオの眉がぴくりと上がった。 「フィッチャー? あの、『シュウ大統領の傀儡の』役人?」 うわっ、バレた! 「傀儡はひど・・・うわっ!」 言い訳する間もなく、投げナイフがフィッチャーの髪をかすめ、後ろの壁に突き刺さった。 「ロザリーを慰めたいなんて言って! シュウのスパイだったのね! ビクトールの名前まで出して!」 「そうですけど、これにはワケが・・・。わっ、ちょっと待って!」 ナイフは次々に繰り出され、一本がフィッチャーの脇腹をかすった。背広の布と共にフィッチャーも壁に釘付けになった。 ――カシミアなんだけど、この背広。―― シュウに請求できるだろうか? 「この国の戦争は、まだ終わっていないんだ」 紅茶にブランデーを落としながら、シーナが言った。 「ちょっと、そんなに入れないでよ。紅茶なのかブランデーの紅茶割りなのかわからないわ」 クレオが慌てて酒瓶をひったくった。 頬もナイフがかすったせいで、フィッチャーは顔に絆創膏を貼り付けるハメになった。背広の背には10センチも裂けた。この姿ではもう『金持ちの宝石商』のフリはできなさそうだ。 「おいらは紅茶はいりません。ブランデーだけください」 もうヤケクソな気分だった。 クレオだけでなく、シーナにまで計画が知れることになった。おまけに二人とも協力すると言う。家族であるパーン大尉やレパント大統領を欺くことになるのだ。 「オヤジはオヤジだし、オレはオレだ。フィッチャーがそんなに気に病むことはないさ。よほど『家族は大切』って想いがあるんだろうなあ。フィッチャーの奥さんや子供が羨ましいね」 シーナは、ブランデーの紅茶割りを口にして、皮肉な口ぶりで言った。シーナは両親のことはそれなりに愛しているようだが、反発もあるようだった。 「おいらは独身っすよ。それより、戦争がまだ続いているというのは?」 「解放軍がトラン共和国を創設して、赤月帝国は破れたわけだけど。帝国の軍人達で、志願した者はそのままトランの軍で雇用した。赤月帝国で上の地位だったお偉いさん達も含めて、ね。先日殺された陸軍元帥のシェフチェンコ家もそれだった。 今は平和だからね。暇だから、勢力争いが盛んなのさ。赤月帝国で地位が高かった奴らと、解放軍上がりの者達と、ね。バレリアみたいに、平民で将軍になった奴なんて、赤月組からものすごく恨まれてる。彼女が首都を嫌ってずっと国境警備をしてるのは正解だな」 「ジャンヌ殿はどんな立場にいたんです?」 「少佐の立場は微妙だったよ。結局、どちらにも属してないわけだしね。あの若さで、しかも庶子でシルバーバークという名家の家督だから、妬みは買ってたけれど、部下思いだし思想は一貫しているし、私利私欲で動くタイプではないし、おやじからの信頼度は厚かった。でも、気持ちがまっすぐすぎて、融通が聞かない面もあったみたい。ちょっとバレリアに似てるでしょう? だからオレ、あの人、けっこう好きなんだ。フィッチャーの為じゃあないよ、助けようと思ったのは。それに、ロザリー、美人だしねえ」 「あなたは結局ソレでしょ」とクレオに突っ込まれていた。 シーナは、今夜の『誘拐団の一味』に加わると言ってきかなかった。腕のたつこの青年がいてくれるのはありがたいが、しかし・・・。フィッチャーの良心はうずく。 「おやじの態度がはっきりしないのも、少佐をシロだと信じきれないからだろうな。古い体制を一掃しようと過激な奴らが立ち上がったとしたら、少佐が仲間でないとも言い切れない。なにせ理想主義者だから。 だけど、暗殺なんて。少佐は人を殺すのを一番嫌がっている。誘拐して軟禁とかならわかるけど。しかも短剣で刺すなんて。道具で殺すのは、『道具が無くちゃ人を殺せない人』がやることだよ」 火の魔法に長けたシーナらしいセリフだ。 「一度城に帰る。おやじんところに、事件の詳しい調書があるだろうから、写しをちょろまかしてくる」 「シーナさん、そういうことはやめてください。気持ちはありがたいですが。 あなたがうまくごまかしたつもりでも、きっと、レパント殿は全部気づきます。親とはそういうもんですよ」 「ちぇっ。親になったこともないフィッチャーが、よく言うよ」 だが、シーナにも心当たりがあるのだろう、父親への接触はしないと約束した。 24歳の青年も4歳の少女も、親の前でウソをつくとバレるのは、あまり変わらないようだ。フィッチャーはベルの親ではないが、父親代わりでずっと一緒にいるせいか、ウソはわかる。なんとなく、いつもと態度が違うのだ。どこがどうと理路整然と説明できるわけではないが。『何か変だ』とピンと来るものなのだ。 「それに、調書のちょろまかしの方は、大丈夫。手は打ってあります。似たことをビクトールさんの方でやっているはずなんで」 フィッチャーは、ブランデーオンリーのティーカップに口をつけ、気づいて飲み干すのはやめた。これから先の突入作業に関しては、フィッチャーは役に立てないだろう。特に、戦闘になったら、足手まといにならないよう気をつけなければ。 <To Be Continued> 『二つの空、二つのこころ』 ★ 5 ★ < 13 > ハイランドの首都・ノースウィンドゥ。 戦争の時に本拠地だった城は、今は大統領庁舎になっていた。裏庭にあった墓地は、街のこの高台に移された。 ビクトールは、湖を見下ろしていた。晴天のせいか、はるかむこう岸のコロネの港まで見える気がした。強い風が、髪も服もはためかせた。 この街を訪れるのは好きではない。ここはビクトールの故郷。吸血鬼ネクロードに滅ぼされた村。墓地には、ハイランド戦争で戦死した名のわからぬ兵士だけでなく、ここがまだノースウィンドゥ村だった頃の村人の遺体が葬られていた。ビクトールの両親も、祖父母も、まだ幼かった弟も、幼なじみの悪ガキだった奴らも、初恋の少女も、隣に住んでいた若い夫婦も、向こうの通りの店屋のオヤジも、いつも犬を連れた老婆も、死体になってから初めて会ったたくさんの人々も。 首都・ノースウィンドゥだなどと。何年たってもその肩書には慣れることができない。その響きには、いつもとまどう。かすかな心の痛みを伴って。 墓を見舞った足で、庁舎へと向かった。吸血鬼より厄介な男と対決しなければならない。 正面の石段を一気に駆け抜け、守衛の兵士に「よぉ」と手を挙げ、中に入った。戦争中は本拠地だった城なので、目をつぶっていても城内を歩けた。 「アップル、会う度に綺麗になるな」 秘書のアップルに挨拶して、シュウの部屋へ急ぐ。アップルはあまり高く無い鼻にやっとひっかかったメガネを直してから、「ビクトール、待って!」と叫んだ。 「養成所の新入生の名簿、今月の分がまだ出ていません! 新しい部屋割りのリストもまだです。それから、先月の講師給与の合計が、間違っていました。早急に修正して、再提出してください。それから、先月も言ったけれど、講師のヒックスのスペルが間違ったままです。これはこちらで修正しておきましたけれど、必ず来月までに直しておいてくださいよ!」 ビクトールは、うんざりした様子で足を止めて振り返った。 「はい、はい、はい、はい」 「返事は一つでいいですっ」 ヒステリックに書類をぎゅっと握っているアップルに、にやりと笑いかける。 「一つ一つの命令に、返事したんだよ。怒ると美容によくないぞ。それでなくても忙しくて睡眠不足なんだろ」 「よけいなお世話です。シュウ兄さんは、もっと忙しくてもっと寝てませんから。 何の用なの? 面会は私を通してください」 「シュウの野郎のこと、『兄さん』って呼ばない方がいいぜ。ほんとの兄妹だと勘違いして、アップルに懸想する男がいるかもしれん。シュウを恋敵にするなんて気の毒だろう。あんな男、どんな形でも敵にまわしたら大変だ」 「バカ言わないで! 私とシュウ兄さんは、本当の兄妹みたいなものよ! マッシュ先生のところで、小さい時から兄妹弟子として暮らして・・・」 「ふうん。じゃあ、アップル。オレと付き合ってくれよ。シュウなんかより、ずうっと優しくするぜ」 アップルは手にした書類を机に叩きつけた。 「ふざけないでっ! もーう! 来る度に人をからかって! いいかげんにしてよ!」 「うるさぁぁぁぃっ!」 大統領室のドアが開いた。シュウは腕を組んでいるから、足で蹴って開けたらしい。 「静かにしろっ。私は殆ど寝ずに書類に目を通しているんだっ。くだらん下世話な話をするなら、よそでしてくれ!」 シュウの額に怒りマークが出来ていた。 話の内容も、全部聞こえていたようだ。まあ、聞こえるように大声で話していたのだが。さぞ、怒りに指を震わせながら書類をめくっていたことだろう。ビクトールは腹の中でくすりと笑い、溜飲を下げた。 < 14 > ビクトールは大統領室のソファにどかりと腰掛けると、「まだ帰ってないかと思ってたぜ」と言いながら、キョロキョロと棚を物色した。 「ここには酒は置いてないのか? こんなにたくさん立派な棚があるっていうのに」 「おまえは、棚は酒をしまう場所としか考えとらんのか。 昨日帰って来て、自宅にも戻れずにいる。そうそう首都をあけてもいられんのだよ。仕事が山積みだ」 「キャロには行かなかったのか」 「フィッチャーを脅かしてやっただけだ。ジルにプロポーズしたいと言ったら、青くなってた。ばかな男だ」 「・・・。」 「で、何の用だ? ま、聞くまででもないか。フィッチャーから、色々仕入れたのだろう。トラン陸軍元帥の殺人事件のこと」 シュウは、警備兵たちに目で合図をした。彼らは一礼すると、部屋から退出した。 「人払いかよ・・・」 「一応、念には念を入れんと。・・・何が聞きたいんだ?」 「全部」 「欲張りな奴だな。・・・徹夜で調書を読んでおいてよかった。シルバーバーグ少佐が、女性だったとはなあ。ハイランド、というかマチルダ騎士団は女性を雇用しないから、考えも及ばなかった。トランでは稀にあるようだ、うっかりしていた」 「そうだな。バレリアっていう、すげえ女がいたよな。元々はオデッサも軍人だった。赤月帝国には、ソニア・シューレンもいた」 「しかも、少佐は以前ビクトールの砦の傭兵だった」 「・・・そうなのか? 砦にはたくさん人がいたんでなあ。一人一人覚えてねえよ。いつ頃のことだ?」 「とぼけるな!」 シュウは声を荒らげて調書で机を叩いた。 「・・・兄妹って、しぐさも似るのかねえ。乱暴でいけねえな。国民にこの姿を見せてやりたいぜ」 「少佐は、おまえの恋人だった」 「冗談じゃありませんよぉ。傭兵は商品だぜ。商品に手は出しませんよぉ」 恋人でなど、あったものか。頑な態度。人を信用しない瞳。でも、なぜかビクトールだけには、おずおずと微笑み返した。 三年前の、たった一度の抱擁。口づけ。ビクトールが手にかけた、レオンの娘だった。どうしろと言うのだ。 「シュウの旦那も、アップルと自分のゴシップは話されると嫌がるくせに。異性だからって、何でも恋愛がらみで考えるのはよくないぜ」 「ふん。・・・調書の写しだ。やるよ」 机に叩きつけられて無残に折れまがった書類の束を、シュウは投げてよこした。 「読めばわかるが、どう考えても怪しい。少佐に、元帥を殺す理由は無い。少佐が無実と考えれば、トリックは解けて行く。あとは現場検証と証人の尋問で崩していけるはずだ。 少佐が、殺されていないといいのだが。彼女を犯人にしたてあげて、殺してから死体を隠蔽しておく。彼女はどんなに警察や軍が探しても見つからず、逃亡が成功したのだと思わせる。真犯人は永久にわからない。・・・わたしなら、そうする」 「やめてくれよ!」 ビクトールは本気でぞっとして、怒鳴った。大丈夫だ、ジャンヌは今、養成所の宿舎にいる、無事で静養しているのだと、自分に言い聞かせた。 「少佐を見つけたい。何としても無事に保護したい。トランの殺人事件などどうでもいいと思っていたが、少佐が女だと知って気が変わった」 「・・・どういうことだ?」 「わたしは、シルバーバーグ家が欲しい。助けて恩を売って彼女と結婚する」 「ば、ばかを言うなっ!」 「わたしは、ハイランドのようなちっぽけな国の大統領で終わるわけにはいかない。最終的にはトラン共和国を掌握する。レパントの次かその次くらいの大統領としてな。その為には、シルバーバーグの名前が必要なんだ。私はマッシュ・シルバーバーグの弟子だった人間だ。そう悪い縁組でもないだろう?」 「ふざけるな。きさまって奴は・・・。人を利用することしか考えてないのか?」 「形だけ結婚してくれればいいのさ。彼女がおまえの恋人なら、指一本触れないでいてやるよ。何なら、夫人の警護兵として雇ってやる。いつも一緒にいられるぞ。ただ、避妊だけはちゃんとしてく・・・」 ビクトールがシュウの襟首を掴み、持ち上げた。 「もう一度言ってみろ。首の骨をへし折ってやる。ジャンヌを愚弄するなっ!」 「少佐のファースト・ネームは、ジャンヌというのか」 ビクトールははっとして手を離した。シュウはにやりと笑う。 「おまえもフィッチャーも、バカな男だ。女なんぞの為に」 「バカで悪かったなっ」 「おまえ達ほどの男が・・・」 「・・・。シュウ?」 「ジルとジャンヌをこの手に握ることができれば、おまえらをも掌握することができるのだろうがな。ビクトールのような男に一瞬でも平静さを失わさせるなんて。ジャンヌとはとんでもない女だな。 おまえらは、決して、わたしの為に本気で働いてくれることはないだろう。おまえらがわたしの下にいれば、世界を動かすこともできるだろうに」 「シュウは、そんなに世界が欲しいか?」 「ビクトールこそ、なぜそう欲がない? おまえは世界が欲しいとは思わんのか?」 「オレは・・・欲張りだよ。『世界』なんかより、もっとすごいもんが欲しかった。暖かい家庭。平和な村。 愛する妻と元気な子供。仕事から帰ると、家族の笑顔と湯気の出た食事とが迎える生活。 明日をも知れない傭兵稼業が続いた。斬られて瀕死で泥の中にうずくまって敵をやりすごした夜。極寒の中で何日も開戦を待った湖畔。 体を洗っても洗っても、返り血の匂いは取れない。殺した敵兵の家族に会ってしまったこともある。 世界を掌握して、何か楽しいか? オレは平凡に温和に暮らしたかったよ。 ハイランドはちっぽけな国だとおまえは言う。なら、ずっと平和を維持し続けてみろよ。それはそれなりに、大仕事だと思うぜ。その為にならオレは、協力を惜しまない」 「・・・。おまえって男は。そんな恥ずかしいことを、照れずによくもまあ、しゃあしゃあと。 オン・ステージのチップだ、とっておけ」 シュウがよこしたのは、『極秘』の赤印が押された紙っぺらだった。 「破門された時。尊敬していたマッシュに、わたしは人格を否定された。絶望したし、ヤケにもなりかけた。レオン殿の慰めのおかげで、商人として一から生き直す気になれた。 レオン殿の娘。見殺しにするのは、惜しいからな」 「シュウ・・・」 レオンに感謝しているからと、素直に言えばいいのに、まったく。 ビクトールは紙に視線を落とした。警察の調書には無い、シュウ側で掴んでいる項目に星印がついていた。辻褄の合わないところ、証言があいまいなところもピックアップされている。 「しかし。あんな堅物に見えたレオン殿に愛人がいたとは。どんな顔をしてくどいたことやら」 シュウは羽根ペンの先を机の上で叩きながら、ため息をついた。 「ははは。男は、偉そうな顔してても、女に惚れたらみんな同じさ。 あんたは、どうなんだい、旦那。女に惚れたこともないのかい?」 「ふん」 隣の部屋で、あんたを心配している可愛コちゃんがいるだろう? 愛する者があるからこそ、本気で世界を守ろうと思えるんだろ? 「チップ、ありがたく戴いとくぜ。詰まったら、また相談に来る」 「おい。わたしは大統領で、探偵じゃないんだぞ」 「その前に、友達だろ?」 シュウが一瞬赤面した。ビクトールは笑うと、「じゃあな」と出口に向かった。 「おまえなんぞと、友達になった覚えはないぞ!」 シュウの怒声を遮り、扉をしめた。 < 15 > 黒マントの怪しげな集団が、シルバーバーグの屋敷を物陰から窺っていた。空は曇りのようで、月は出ていない。 門では、パーン達ががんばっている。 「みなさん、ご苦労様です。コーヒーです。いかが?」 ロザリーがトレイにポットとカップを用意して玄関から出て来た。 「ロザリー様自ら・・・。かたじけない」 パーンが堅い礼を述べた。 「さ、みんな、ご好意をいただけ」 夜番の兵士達がわらわらと集まり、ポットに群がった。 「パーンさんたちのおかげで、嫌がらせはすっかり無くなりました。ありがとうございます」 「いえ、任務ですから」 にこりともせずに返答した。 『堅いでしょう?』 『あれじゃ、ロザリーも気づかないよなあ』 黒マントの集団の中の二人、クレオとシーナが小声で囁き合った。 昼間渡した首飾りの箱には、メモの他に眠り薬が入っていた。夜番の兵士に薬入りの飲み物でも振る舞い、彼らを眠らせる指示がしてあった。 「パーンさん、お腹が減ったでしょう? コーヒーじゃ物足りないでしょうけど、もう一杯いかが?」 ロザリーはお代わりを勧めた。パーンはからだがでかいので、倍飲ませないと効かないかもしれない。 『ごめんなさいね、パーンさん。あなたに恨みは無いのよ』 姉の好きな男と感じの似た青年だが、ビクトールほどガサツではない。ずっと正規軍にいたせいか、礼儀正しく紳士的だった。任務では剣を携えているが、本来は姉と同じ拳法家で、物腰や心得などは姉に通じる部分が多かった。彼の背後にいる時、姉に守られているのと同じようなオーラを感じた。それは、心地よかった。 「いえ。飲みすぎると、小用が近くなりますので」 ロザリーは赤面した。 「ご、ごめんなさい。気づきませんで」 『何やってんだよ、パーンのバカ』 『まったくもう、レディへの断り方ってものがあるでしょうに』 コホン! とフィッチャーが咳払いをした。 クレオ達は闘い慣れているのでリラックスしているようだが、あまり緊張感が無くても失敗する危険はある。 あと30分もすれば薬が効くだろう。フィッチャーは自分の肩がバリバリに凝っているのを感じた。もう掌に汗をかいている。 フィッチャーは剣を持たなかった。見つかったら、応戦せずにひたすら逃げる。応戦なんてしたら、一太刀で斬り殺されるに決まっている。 隣で、カタカタと歯の音が聞こえた。ビッキーが震えていた。 『ビッキーさん。あなたは、屋敷には忍び込まないのだから、怖いことはありませんよ。おいら達を屋敷内に飛ばしてくれた後は、マクドールのお屋敷に戻っていてください』 『怖くないわ、緊張しているだけ。今夜は2回目だから、たぶん大丈夫だとは思うんだけど』 『2回目?』 『この前スタリオンをハイランドに戻したでしょ? その前は失敗だったの。変なトコに飛ばしちゃうのは、4回に1回くらいだから、今夜はたぶん大丈夫よ』 うげげ。洛帝山に飛ばされるのだけは御免こうむりたい。 30分が経過し、兵士達の動きが止まった。門に寄り掛かって座り込む者、道端に丸くなる者。パーンでさえ座ったまま動かない。 ビッキーの「えいっ!」というかけ声で瞬きの呪文が発動した。四人は気づくと昼間通された応接間にいた。 応接間では、ロザリーが待っていた。 「もうすぐ、召使の見回りがあるんです。気づかれないうちに、早く出ましょう」 「ロザリーさん、ちょっと待ってください。あなたの部屋はどこですか? 寝室から連れ出したはずなのに、応接間に誘拐声明を置いて行くのは変でしょう」 「そうね。一緒に来て下さい。案内します」 燭台を手に、ロザリーは踊り場のあるらせん階段を駆け昇った。廊下を先に走り、一番南側の、端の部屋の扉を開けた。 フィッチャーはさっそく、クローゼットを開いたりシーツを剥がしたりして荒らした形跡を作った。その横で、ロザリーは宝石箱をあけて、母からもらったイヤリングを手に握った。姉とお揃いの、例のターコイズのやつだ。 「お守りなの。持って行っていいでしょう?」 「誘拐が狂言だってバレますよ。でもまあ、いいでしょう。解決まで、そう長引かない事を祈ります」 ベッドのサイドテーブルに、脅迫状まがいの誘拐声明文をナイフで刺して固定した。 「傷をつけるのが申し訳ないほど高価なテーブルですね」 どこまでも貧乏性のフィッチャーだった。 下へ降りると、シーナとパーンが立ち回りを演じていた。 『うそでしょう?』 フィッチャーが一番苦手な成り行きだ。 パーンは眠り薬が効いて足元がふらついていたが、シーナの方も、目深にかぶったマントが邪魔なのと、パーンを傷つけないように気づかったので、難儀していた。 「ロザリーさ、ま。 賊、で。す」 パーンが明瞭でない発音で叫んだ。だが、声に対して反応があったようだ。遠い廊下から足音が聞こえた。この騒ぎで召使達が起きて来たようだった。 「急ぎましょう」 ロザリーの手を取り、階段を走り降りた。パーンはロザリーと賊が並走しているのは変に思うだろうが、フィッチャーにはロザリーを抱いて逃げる腕力は無い。 パーンの背後から、オレンジが飛んで来た。応接間の飾りのフルーツ籠にあったやつだ。クレオだった。オレンジは後頭部にみごと命中し、パーンはうずくまった。 「今のうちよ!」 『しっ。クレオ、喋るな。バレるぞ』 シーナとクレオは玄関を飛び出した。玄関で見張っていたスタリオンと合流する。フィッチャー達も階段を降りきった。 「あ・・・」 ロザリーの握った指から、イヤリングが片方こぼれ落ちた。それは、転々と転がり、地下へ降りる先への階段へと落ちた。 「先に行ってください。拾って行きますから」 頷いてロザリーは応接間を横切り、扉を出た。 フィッチャーが地下の踊り場でイヤリングを収め、応接間に上がって来た時、パーンは剣を杖に立ち上がりかけていた。そしてフィッチャーの前に立ち塞がった。 「ロザリーさ・・・ま・・・。」 『パーン殿には一人分の薬じゃ足りなかったですか。象並みに飲ませないと効かないかもですねえ』 策略に穴があったのだ。仕方ない。 パーンの剣が振り上げられた。 フィッチャーは死を覚悟した。 ――ジル殿。―― いや、だめだ! おいらはまだ死ねない! 『彼は足に来ている。おいらでもよけられるかもしれない』 フィッチャーは後ろへジャンプした。腹に鋭い痛みが走った。血が宙を飛んだのが見えた。シャンデリアと立派な天井。フィッチャーは絨毯の上に倒れた。だが、なぜかパーンが倒れる地響きも感じた。林檎の甘酸っぱい果肉の匂いがした。林檎が割れたらしい。 ――林檎はオレンジより堅いから、効いたかも・・・。―― クレオが林檎をパーンに放ってくれたようだ。 「フィッチャー! 大丈夫か!」 シーナが戻って来た。 「証拠が・・・残ると・・・困ります。とにかく連れて・・・帰って・・・くださ・・・い」 「あんまり喋るなよ。・・・これぐらいじゃ死にやしないよ。歩けるか?」 シーナが肩を貸してくれて、慌てて屋敷を出た。 |