二つの空、二つの心

<4>

 
< 16 >

 マクドール邸に戻り、フィッチャーは居間のソファに寝かされた。
「おれは水系の魔法はあまり得意じゃないんだけど。どうかな」
 シーナが『優しさのしずく』をかけた。出血だけはどうにか止めることができたようだった。
「痛い・・・。死ぬかと思いました」
「喋ると腹筋使うから、また出血するぞ」
「・・・。」
「浅いわ。縫うほどの傷じゃないわね。
 パーンが寝ぼけて剣を振り回してくれたおかげで助かったわよ。あいつは剣は下手だもん。素手の方がよほど強力よ。素手なら命が無かったかもね」
「オレンジや林檎を投げるのはいい案だったよな」
「ナイフだと怪我させてしまうから」
「しかしナイフ投げの名手と言っても、果物じゃ握り具合が違うし、重さも違う。難しいだろ?」
「でもまあ、マトがでかいからね」
 クレオもシーナも、まるでディナーの感想でも言い合うような口ぶりだった。歴戦の戦士たち。女たらしで遊び人のレッテルを貼られたシーナも、片エクボがチャーミングなクレオも。命をかけて闘いに出ていた人間たちだ。
 部屋には血の匂いが満ちていた。それも、自分が斬られ出血した、その血の匂いなのだ。斬ったのは腹なのに、耳の後ろがドクドクと痛みを知らせていた。
 痛くて起きられないので傷は見ることができないが、起きれたとしても怖くて傷口など直視できそうにない。横っ腹が生暖かいのは、自分の血なのだろう。まだ流れた血も乾いていない。
「フィッチャーは戦闘経験が無いからなあ。これくらいの怪我でびびってんだもんなあ」
「・・・悪かったですね」
 ハラが切れたのだから、シャツも切れたに違いない。例の、金持ち宝石商用の衣装の一つだった。切れたどころか、血まみれか。
 ――シルクだったんですけどねえ。――
「パーン殿の任務明けは、朝ですか?」
「本来ならそうだけど。でも誘拐の捜査に加わるだろうし。軍に迷惑がられても、無理矢理加わるんでしょうねえ。そうだ、着替えをしに一度戻るかもしれない」
「パーン殿が帰る前に、ビッキーさんには、ロザリーさんとスタリオンをビクトールの兵士養成所まで飛ばしてもらわないと」
「そうだな」
 フィッチャーは、握っていたイヤリングを、ロザリーに手渡した。
「ビクトールさんには、おいらはシュウの旦那の仕事を終えてから帰ると言っておいてください」
「ごめんなさい、フィッチャーさん。私がこれを落としたばかりに。いいえ、持って行きたいなんてわがまま言ったから」
「あなたの黒髪と漆黒の瞳には、ほんとにこの石がよく似合いますね。ジャンヌ殿とお揃いのこのイヤリングのおかげで、あなたはおいらを信じてくれた。おいらにとっても幸運の石ですよ」
「ほら、フィッチャーはあまり喋ると」
「ああ。怪我に慣れてないもんで」と苦笑した。
「じゃあ、スタリオンさん。ロザリーさんを頼みます」
「頼まれるほどのことじゃないよ。息を吸って、吐いたらもうビクトールの腕の中さ。安心して休みな」
 二人は、ビッキーの瞬きの紋章で、あっという間に目の前から消えた。無事に着くことを祈った。

「さて、包帯を巻いたら、おれ達も退散しようぜ。宿まで送る」
 クレオの治療の後、シーナが再び肩を貸してくれ、宿まで送ってくれた。受付の女将は「やだよ、酔っぱらいは。部屋を汚さないでおくれよ」と言っただけで、特に咎め立てはしなかった。フィッチャーが、先払いでしかもチップをはずんでいたおかげかもしれない。
 シーナがベッドまで運んで、スーツとシャツを脱がせてくれた。
「今夜は付いててやるよ。軽傷でも一応怪我人だしな」
「軽傷、ですか。つくづく情けないです、おいら」
「痛い? ま、神経がお釈迦になってない証拠だよ。痛みの無い怪我の方が、おれは怖い」
「城には帰らなくていいんですかい?」
「どっかで女遊びでもしてると思ってるさ。実際、帰って来たらいつもホントにそうだし。
 さ、よく眠った方がいいぜ。けっこう出血したろ。寝て食うのが一番の回復方法さ」

 痛みと恐怖で悲鳴を上げそうになり、目が覚めた。入り口に誰かが来ていた。宿あらためのようだった。
「なんだよ、こんな時間に」と兵士に文句を言っているシーナの姿もあった。
「これが連れの分の通行証。ひどく酔ってるんで、起こしたくないんだ」
「しかし、一応全員の確認を・・・」
「で、これが、おれの。なんか文句ある?」
「・・・! シーナ様! レパント大統領のお坊っちゃまでしたか! 失礼いたしました。お休みのところ、申し訳ありませんでした」
「何があったの?」
「いえ、あの。シルバーバークのご令嬢が、誘拐されまして」
「えー? だって、あの家は兵隊が警備してたんだろ?」
「はあ、それはまあそうなんですが。あ、次がありますので、失礼します」
 兵士は逃げるように扉をしめた。
「シーナ殿・・・」
「やあ。起きちゃったか。だいぶうなされてたね」
「ああ・・・。そうかも。どんな夢かは覚えてないのですが。
 すみません。宿あらためが来ていたんですね」
「ロザリーの誘拐事件は公表するみたいだな。
 ねえ、ジルって誰だよ」
「・・・。おいらは、つまらんうわ言でも言いましたか」
「フィッチャーがまだ独身なのって、その人のせい?」
「いえ、別に。女房の来てが無いのは、甲斐性が無いからです」
「クレオが、フィッチャーが独身って聞いて身を乗り出してたぜ。フィッチャーのこと、『いいオトコだ』って連発してた」
「はあ。買いかぶりでしょう。これしきの傷で泣き言を言ってる、情けない男ですよ」
「で、ジルって誰?」
「・・・。」
「教えてくれないと・・・くすぐるぞ〜。笑ったら確実に傷が開くぞ〜」
「よしてください。別に隠すようなことじゃありませんから。アパートの隣の部屋に住んでいる子連れの未亡人ですよ」
「・・・へえ。なんか複雑そうだね」
「複雑なんですっ」
 そう言い切った。ピシャリと戸をしめるように、フィッチャーはその話題を強い口調で終わらせた。シーナもそれ以上は尋ねなかった。


< 17 >

 息を吸って、吐いたら、もうビクトールの腕の中。スタリオンの言った通りだった。
「うわっ!」
「きゃあっ!」
 水しぶきが高く上がった。ここは湖の上? でも水は温かい?
 膝をついたままで息はできるから、深くは無い。でも、寝間着は水びたし。隣でスタリオンも髪まで濡れねずみになっている。
「おい。おまえら。どこに現れるんだよ、まったく」
 すぐそばに、豆鉄砲を食らったようなビクトールの顔があった。ビクトールの裸の胸と腕が、水中に落ちそうなロザリーの体を支えていた。
「ロザリー。久しぶりだな。計画は成功したようだな」
「こ、ここってもしかして・・・」
「おう。養成所のオレの部屋、しかもバスルームの湯船の中。とんでもない場所にテレポートしてきたもんだ」
「きゃーーーーっ! いやぁん!」
 ロザリーの悲鳴に風呂場のエコーがかかり、建物中に鳴り響いた。
「なんだ」「どうした」と、どやどやとみんなが様子を見に来た。
「・・・ビクトール。うちの妹に何やってるんだっ」
「おい〜。勘弁してくれよ〜」

「ふぇっくしょーん!、これはビッキーには『成功』になるのかぁ?」
 ビクトールは着衣を済ませ、タオルで髪をゴシゴシ拭きながらベッドのへりに腰をかけた。
「くそう。風邪を引いたら、ビッキ―のせいだな」
「風邪のウィルスも、おまえの丈夫さにびっくりして逃げ出すよ」
 ジャンヌはそう言って笑った。妹を無事に保護できて、ほっとした。自然に冗談が口に出た。
 ロザリーがバスムールからちょろっと頭だけ出した。服が濡れたのでここで借りたのだが、もちろん男物しか無い。白いシャツと灰色のズボン。この学校の生徒の『標準服』だ。
「すごく大きいんだけど・・・。変じゃない?」
「ロザリーが二人入りそうだな」とビクトールがからかった。
「ロザリー、無事でよかった」
 ジャンヌがロザリーを抱きしめる。
「お姉ちゃんこそ。ううん、きっと無事だって信じてた」
「マトリューシュカみたいだ」と今度はスタリオンが笑う。同じ服を着たジャンヌが、ロザリーとそっくりで、でもひと回り大きかったからだろう。
「ロザリーは、客室の、ジャンヌの隣のベッドを使うといい。あ、オレの荷物が置きっぱなしだったな。今、きれいにしに行くから」
「お姉ちゃんと、隣のベッドで寝ていたのぉ?」
 ロザリーの突っ込みに、ビクトールは慌てて「看病だよ、看病」と言い訳していた。ビクトールの狼狽ぶりがおかしくて、ジャンヌもくすっと笑った。
 
 ジャンヌがロザリーの為にベッドを作ってやり、「先に寝てていいぞ」と言い残してシーツ類をまとめて洗濯場に運んだ。向かう廊下で、ひょいと横からビクトールが手を出した。
「いいよ、オレのだ。自分で運ぶ。汗くさいぞ」
「惚れた男の匂いだ、くさいものか」
「・・・おまえ、言うようになったな。貸せってば」
 ビクトールは赤くなって荷物をひったくった。
「ありがとう、ロザリーのこと。それに、色々」
「礼はフィッチャーに言うんだな。それに、大変なのは、これからかもしれんぞ。おまえさんが、ハイランドとトランと、両方に追われているのは変わらんのだから」
 そう、問題は山積みだった。
 ――ずっと、ここにいられたら。――
 名前を変えて。家督の立場を捨てて。
 ビクトールのそばに。
「・・・どうした?」
「いや」ジャンヌは苦笑して、首を振る。
「ビクトールの隣にいると、わたしは弱虫になりそうで、怖いよ。何度も否定してきた甘い誘惑が、弱くなった心をくすぐるんでね。
 わたしを助けてくれた人々。真実を解明する為に力を貸してくれる人々。みんなの為に、わたしは強くならんとな」
「オレの存在は・・・おまえを弱くするのか? マイナスなのか」
 ビクトールは皮肉っぽく肩をすくめると、洗濯場のドアを開けた。明日の作業を待つ、シーツの山、着替えの山が籠によりわけられ、白い布達が窓からの月明かりで部屋を照らしていた。
「違う、そんなことを言いたいのじゃない!」
「いや、確かにそうかもしれん。オレも、おまえがいると甘えたくなる。闘いが怖くなる。死ぬのが怖くなる。
 ・・・この事件が無事に解決したとしても。オレはおまえのそばにはずっといてはやれない。
 いつまでここの所長をやっているかはわからん。風来坊のビクトール。誰に言われたのか。うまいあだ名をつけられたもんだ。一つところにとどまるのは、性に合わない。
 おまえのそばに近寄れないのは、レオン殿を殺したからだけじゃない。シルバーバークという歴史のある家柄。そんな家柄が怖いからだ。自分の意志ではない力に、からめとられていく。その恐怖。
 おまえには継げって言っておいて、勝手な言い分だがな」
「ビクトール・・・」
「でも、決めている。おまえのことは、きっと、ずっと見ている。何かあったら助けに行く。ま、ホントに困ってそうな時だけに、な。
 それでは、不服か。いつもオレのここに」
と、ビクトールは自分の胸を親指で差してみせた。
「ジャンヌがいるっていうだけでは」
 ジャンヌは片方の掌で顔を覆った。泣いた顔を見られたくなかった。自慢にもならないが女だてらに大きな手だ。涙を隠してくれるだろう。
「それは、さよならと同じだ。いつもそうだ。そうして遠く離れていく。
 おまえは、卑怯な男だ」
「卑怯か。そうだな。確かにな」
 ビクトールは、ジャンヌの手首をつかみ、泣き顔をあらわにさせた。骨太でたくましいジャンヌの手首を、小枝のように軽くつかんで顔から引き剥がした。
「見るなっ」
 ジャンヌの抗議の言葉をビクトールがふさいだ。それは口づけと言っていいのか。腕に抱いた汚れたシーツごと、一緒に丸めて抱きしめられたみたいだった。
「いつもそばにいて、抱きしめて口づけしてベッドで抱いて。それだけが愛か? まあ、それも詭弁かな。そばにいてやれない男の」
 ビクトールの息がジャンヌの前髪を揺らす。ジャンヌを抱えた太い腕の感触。こめられた腕の力の心地よさ。
「だまれっ、抱きしめて口づけしておいて、今さら何を言うっ!」
自分が『女』の顔をしているのがわかる。恥ずかしくて顔が上げられなかった。
「ベッドで抱いてのオマケもつけようか?」
「まだ言うかっ!」
 ジャンヌの前蹴りだった。腕で受けたビクトールは、跳ね飛ばされて壁で背中を打った。
「いてて。おまえをくどくのは命懸けだな。ま、足もだいぶ回復しているようで、何よりだ」
「おかげさまでっ。・・・先に戻る。おやすみ!」

 ジャンヌが部屋に戻った時、ロザリーはもう寝ていたが、気配で目覚めたようだった。
 ジャンヌは毛布を被った。
「お姉ちゃん?」
 返事はしなかった。声を出せば、泣いているのがわかってしまう。肩が震えないように、息を殺して泣いた。

 洗濯場の窓から見える月は、静かに動いて框の外へ消えようとしていた。背に壁を感じたまま、ビクトールはそれを見ていた。
 蹴りを防いだ右腕を撫でると、まだずきずきと痛んだ。
「くそ、本気で蹴り上げやがって」
 バカな男だ。短い間しか一緒にいられないならば、甘い言葉の一つでも囁いてやればいいものを。
 

< 18 >

 鈍い痛みと共に朝が明けた。
「おー。目が覚めた? 生きててよかった」
 シーナがジョークなのか本音なのかわからないセリフを吐いた。テーブルの上では、スクランブルエッグとトーストのバターが湯気を立てている。シーナはサーバーから二つのカップにコーヒーを入れ分けているところだった。
「朝メシ、部屋に運んでもらったんだ。食うだろ?」
「・・・ありがとうございます」
「たぶんもう、立って歩けると思うよ」
 フィッチャーは頷くと、腹巻のように巻かれた包帯の上から、傷に手を当てた。耳の後ろのドクドクは消えていた。右腕に力を入れて、上半身を起こす。ズキリと一度鋭く痛んだが、その後は何事もなかった。毛布の上にあった未使用の寝間着を羽織り、ベッドの支柱に掴まると、ゆっくりと立ち上がった。
 恐る恐る、テーブルまで歩いて行く。普通に歩く限り、傷には響かない。
「大丈夫そうです」
 大仕事を成し遂げたかのように、椅子におもむろに座った。
「メシ食ったら、おれは帰るから。休暇ってわけじゃないんで。一応時間までには城に出勤しないと」
「どうもご迷惑かけちまって」
 食欲は無かったが、怪我の回復には睡眠と栄養と言われていたので、無理して口に入れた。シーナは朝食のトレイまで片付けてくれて、「遅刻だ〜」と慌てながら部屋を出て行った。
 フィッチャーは、自分でガーゼを代えて包帯を巻き直すと、顔を洗ってきちんと髭を剃った。新しいシャツをまとい、スーツを着て、鏡を見ながらタイを結ぶ。これからゴードンの店へ行き、シュウの仕事にエンドマークをつけなければならない。
 
 パーンは、明け方、仮眠を取る為に一度屋敷に戻って来た。
 クリオは寝たフリをしていたが、いきなり部屋に入って来たパーンに起こされた。パーンはノックもせずにドアをあけると、何も言わずに手に持ったランプをクレオの枕元に置いた。
「ちょっと、何なのよ。女性の部屋に、ノックも無しで」
「ロザリー様が誘拐された。今まで捜査だった。少し寝たらまた出勤するから、朝になったら起こしてくれ」
 用件だけ言うと、部屋を出て行こうとする。
「ちょっと待ってよ。ロザリーが?」
「天誅平和団だか何だか言う思想団体に誘拐されたらしい」
「思想団体?」
「声明文が残してあった。ジャンヌ殿の殺人に抗議する、と言う。妹を返してほしければ、速やかに自首しろという内容だった。
 でも、変だ。ロザリー様のイヤリングが一組無くなっていた」
「その団体が、資金作りの為に盗んだのでは?」
「他にも高価な貴金属があるのに?」
「さあねえ。私は探偵じゃないし。・・・パーン、酷い顔をしているわ。ちゃんと起こしてあげるから、しっかり休みなさいな」
「・・・オレが警護していながら・・・」
 パーンの腕の筋肉の小山が震えていた。きつく握った拳のせいで、鋭い筋が浮きでていた。
「ジャンヌ殿が自首しなかったら、ロザリー様の命に危険が・・・」
『ごめん。ごめんなさい、パーン』
「きっと、大丈夫よ。殺人に抗議してる団体なら、ロザリーのこと殺したりしないわよ」
 クレオは、パーンの肩を抱きしめた。パーンは大きいので、抱きしめても腕も交差しないのだけれど。
 大きなパーンの背中が、子供のように震えていた。実直で素直で単細胞のパーン。融通が聞かなくて、思い詰めやすくて。
 小さな子にしてあげるように、クレオはずっとパーンの髪を撫でてあげた。硬くて短い髪。クセのない真っ直ぐな。パーンの性格のような。
「クレオ・・・」
「なに?」
「ハラがへった・・・」
 クレオは苦笑した。いつものパーンのペースが戻ったみたいだ。
「胃に負担がかからないものを作ってあげるわ。食べたらすぐ寝なさいね」
 パーンはだるそうに頷いた。

 ゴードン商会は、大通り、時計台の塔の隣の豪勢な建物だ。まあ、グレッグミンスターで、豪華でない建物を探す方が難しいのだが。
 取引客と荷でごった返す中、主人のゴードンがフィッチャーを見つけて奥へ招いた。応接室へ通された。
「すみませんね、忙しいところ。昨日は屋敷に入り、ロザリーさんと接触することができましたよ」
「フィッチャー、いやフィリップだったな。実は大変なことになった」
 ゴードンがソファに腰掛けるや否や、両頬をバチンと叩いて言った。
「ロザリーが誘拐されたんだ。だから、ロザリーと接触してジャンヌから連絡が無いか探るってこの仕事は、とりあえず中止ってことで」
「誘拐?」
「思想団体のしわざらしいよ。やだね、頭のネジが取れちまった連中っていうのは」
「困ったな。ネックレス。昨日お買い上げいただいたのですが、料金がまだなんです」
「それなら、軍警察に書類を提出しないと。書いときな。出しておいてやるよ。戻ってさえ来れば、商品でも料金でも、どちらでもいいのだろ?」
 ゴードンが差し出した書類に、フィッチャーは必要事項を書き込んだ。前かがみになると、少し傷が痛んだ。
「持ち込んだ貴金属はシュウ殿が準備したものなんで、取り返せなかったら厭味を言われて大変です」
「厭味どころか。あの人のことだ、給料から引かれるぞ」
「ええっ! あんなバカ高い首飾り! 冗談じゃないっす」
 ゴードンは扇子を取り出すと、パチンと広げ、仰ぎだした。人の不幸が嬉しいのか、にやにやと笑っている。
 フィッチャーの安月給では、分割しても一生かかって払い終われるかどうかわかったもんじゃない。こんなことなら、イヤリングと一緒に持ち出せばよかった。
「で、わたしはハイランドに帰っていいんでしょうか?」
「任務が中止なんだから、いいんじゃないか? シュウによろしく言っておいてくれ。あ、奴にこれを渡しておいてくれ」
 ゴードンは、薄い書類ケースを差し出した。鼠色の厚紙の封筒で、中身は10枚足らずの書類のようだった。
「えー。これは契約外ですよ」
「いいじゃねえかよ、早く仕事が終わったんだし、ケチケチしなさんな」
 ソファにふんぞり返ってバタバタと激しく扇子を動かすゴードンに眉をひそめながら、フィッチャーはしぶしぶと書類ケースを旅行鞄にしまった。
「危険なものじゃないでしょうね? ヤですからね、この書類を狙った賊に追われてバッサリ、なんてのは。
 ところで、貸馬車屋の安い店を紹介してくださいな。帰っていいなら、もう帰ります。この街は、誘拐やら、なんだか物騒でいけない」
「あいよ。紹介料、100ポッチだ」
「金取るんですか〜。勘弁してくださいよ〜。自分は、『ケチケチしなさんな』とか言っておいて。ブツブツブツ・・・」

 クレオとビッキーに礼を言っておきたかったが、マクドールの屋敷にパーンが戻っている可能性もあり、寄るのはやめた。
 パーンと会うのは避けたかった。フードを被っていたとは言え、かなり近くで顔を合わせた。薬がどの程度効いていたのかもわからないし。フィッチャーの顔を忘れていても、対峙すれば思い出す可能性もあった。
 一番安かった二頭立ての馬車を借り、店屋で水や食料を調達して出発した。ビッキーの瞬きの紋章は、今度で4回目。怖くて頼めたものではない。地道に馬車で帰るのが、結局一番の早道の気がした。
 グレッグミンスターは大きな街なので、交通量も人も多く、誘拐騒ぎのせいなのか国葬が近いせいなのか兵士の数も昨日の倍くらい居て、大通りを迂回させられたり、時間によって通行止めだったり、街の通用門まで出るのに時間がかかった。事件があった後なので、例によって街を出るだけでも通行証提示を求められるのだろう。
 森を抜けて川を船で上がるつもりだったので、北の門を目指した。
『えっ?』
 門に溜まる警備兵達。トランの軍警察の制服に混じって、たくましい両腕をあらわにした肩鎧の男がいた。
 フィッチャーは唇を噛んだ。
 ――もう任務に着いているんですか。働き者ですねえ。――
 しかも、東西南北、四方にある通用門。よりによってここに居るなんて。
 ――おいらは、よほど籤運がいいらしいや。――
 今さら迂回したら不自然だ。このまま突き進むしかない。
「次の馬車、前へ出して!」
 馬車を停止線で停める。パーンが険しい顔で近づいて来た。背筋が凍りついた。背広のポケットから通行証を取り出す指が震えた。
 おいらは、フィッチャーだ。とぼけることには、誰にも負けない。ゴクリと唾を飲み込んだ。
「通行証を」と言うかすれた声。そこには憔悴し切ったパーンの顔があった。ごつい顔に、さらに目の下のクマが影を作っていた。
「フィリップ・プレシ・・・」
 聞き覚えがあることを思い出したのか、顔を上げた。疲れた表情からは思っても見なかった、強い瞳だった。
「昨日屋敷に来た商人か・・・」
「シルバーバーク邸で警護していた方ですね。ご苦労様です」
「・・・。」
 じっとフィッチャーの顔を見つめた。パーンの目からは何も読み取れない。睨みつけるような強さで、パーンは見つめ続けた。
「あ、あの・・・?」
 唇が震えた。バレたのか? 気持ちが急いて、さもしいことに自分から手を出して通行証の返却を求めた。
 その時、パーンの拳が風を切った。それはフィッチャーの腹をめがけて繰り出された。
 ――!!――
 拳が止まったのはほんの5センチ手前だった。自分が生きていると知って、フィッチャーは止めていた息を長く吐き出した。背中を冷たい汗が流れ落ちていた。
 パーンは通行証を手渡し、「クレオがおまえに惚れたようだ。あいつの趣味はよくわからん」と、吐き捨てるように言った。
「行っていいぞ」
 パーンの許可と同時に、フィッチャーは馬車を出した。わっと走り出しそうな気持ちを抑え、ペースを保つ努力をした。
 腹筋に力を入れたので、傷が痛んでいた。傷口が開いたのかもしれない。
 ――はは。バチかもしれませんね。罪の無いパーン殿の心労を思うと。――
 自虐的に一人馬車の中で唇の端を上げた。
 森のうんと先、バナーの港から船でラダトへ。安全地帯はまだまだ遠い。



 

<5>へ続く ★