二つの空、二つの心

<5>


< 19 >

『極秘』のてらてらと赤い印。
 シュウがくれたという書類だった。
「どう思う?」
 食堂での朝食のコーヒーを目の前に、ビクトールから差し出された。泣きはらしたまぶたは重く、眠いわけではなのに視界は晴れない。
 奴は、まるで何も無かったように気持ちを切り換えている。ジャンヌに手を貸してくれているのはわかっているが、負い目も後悔も戸惑いも・・・何の動揺も無いのが、少し悔しい。
「トラン軍の将校の名前はオレには見当がつかん。できれば説明してくれるとありがたい」
「ああ・・・」
 書類は、二つの考察に分けて書いてあった。一つはジャンヌが犯人だった場合。もう一つ、犯人でない場合のシュウの考察の方に目を通した。

『犯人は、ヴィエリ少尉とコスタ大尉。共犯』
 最初の一行で肝を潰した。ヴィエリは、大佐の息子で、ロザリーの婚約者だ。コスタ大尉はコスタ副元帥の息子である。
「確かに、この二人が、元帥の警備の時に組んではいたが・・・。事件の時は他のコンビがドア前にいたな。二人は隣の部屋で休憩だったはずだ」

1 ドアごしにすぐ警備兵がいる。少佐が部屋を出て、元帥が当て身でうずくまっていたのは数秒だと思われる。少佐が落とした短剣を拾い、抜いて、刺し殺す。その間に声を出される可能性は高い。よほど素早く刺し殺す必要がある。犯人はすでに別の短剣を握って待っていたのではないのか? 

2 少佐が短剣を落としたのは偶然か? 皮ベルトが、もみ合ったら切れ易く細工されていなかったか? 制服も短剣も、少佐は妹婿(予定)のヴィエリから借りている。

3 「1」を仮定すると、同じ短剣が2本あったことになる。兵士は護身用短剣はスペアを与えられている。柄には名前が刻まれている。しかし、ヴィエリは、少佐がドアに入った直後、数秒後に取り押さえている。ヴィエリの直接犯行は無理。

4 犯人は、少佐が掴まった時にはまだ他の部屋にひそみ、騒ぎに乗じて窓・ベランダなどから逃亡したと考えられる。ベランダから隣の部屋のベランダに移動は容易。一度部屋から出て2、3分で犯行現場に駆けつけられるものと思われる。よって直接犯行はコスタ大尉。

5 問題は、二人が元帥を殺害せねばならなかった理由が不明なこと。

「無茶苦茶だな、動機が無いのに。結局それはわたしと同じだ」
「シュウは、状況証拠だけで、人間をチェスの駒をみたいに動かしてみて判断しているんだろう。あいつは誰とも知り合いじゃないから、相手の人間性も知らない。まあその分、私情もない」
「コスタとは親しくないが・・・ヴィエリは善良な男だ。気持ちも優しい」
 軍人に向かなそうな男だった。気が弱いお坊ちゃんという感じの。小さな動物や子供に親切で。ブロンドにブルーアイのハンサムボーイだが、照れ屋で女性は苦手なようだった。
 逃亡の時、護衛兵の中にいたので、顔に裏拳を当てた。すまないことをしたが、他の者に比べ手加減したので、気絶するまでは至らなかっただろう。痣くらいはできたかもしれないが。

「この部分は違う。メッセンジャーはヴィエリだった。コスタじゃない」
 調書の方には、護衛の証言として、交代の時にヴィエリしかいなかったとある。『元帥の命令で、コスタは今シルバーバーグ少佐を呼びに行った』とヴィエリが言い、数分後に少佐が訪れたので納得したと書いてあった。
「コスタはずっと部屋の中にいて、交代した後にヴィエリがおまえのところに来た、ということだろう」
 ビクトールが簡潔に答えを出した。
 ヴィエリは、義弟になると思って、愛するように努力してきた者だ。これは、シュウの推理にすぎない。だが、こんな風に『可能性』を見せつけられると、もうマトモに顔を合わせられないような不安を感じた。
「これは・・・ロザリーには見せないでくれ」
「当然だ。なにせ『極秘』だしな」
 面白半分に押されたような印だった。シュウにとっては推理ゲームなのかもしれない。凡人達の想いをせせら笑うかのように、皆の人生をてのひらで転がして。
「目がまわるな」
「ん?」
 ジャンヌはぽつりと言った。ビクトールは肩をすくめる。
「確かに、鵜呑みにはできん。だが、シュウの野郎は頭のいい男だ。推理に穴は見つからないし、こう考えるのは自然だ。
 もっとも・・・この紙自体が、シュウの罠かもしれないがな」
「わたしを捕らえる為のか?」
「・・・別の意味では、イエスだな。奴は、ジャンヌに恩を売って結婚するんだと言っていたぞ。シルバーバーク家が欲しいんだと」
「はぁ? ・・・ありがたいことだな、わたしなんぞを。
 口では愛していると言うくせに、家柄に驚怖して逃げる男もいるんだから」
「ははは・・・。それは随分な意気地なしだな」
 ビクトールは力なく笑った。
「コーヒー、お代わりを持って来ようか?」
 文字通り、逃げる逃げる。ジャンヌは苦笑した。
「随分とサービスがいいな。煮詰まって、さぞ苦いことだろう。頼むよ」
 空になったマグを差し出した。
 ヴィエリもコスタも。国葬の為に南下していることだろう。今頃はトランの国境付近か、それともバナーの港あたりか。


< 20 >

 フィッチャーは貸馬車屋に馬車を返し、船の時間を尋ねた。
「え、ノース・ウィンドゥへの直行便ができたんですか?」
「結局は首都へ向かう人が多いのでね。一日一便だが。もうすぐむこうからの船が着くはずだ。点検後、一時間くらいで折り返し出発するよ」
 店の主人が丁寧に教えてくれた。
「へぇぇ。便利になったもんだね」
 昔は寒村だったバナーの村だが、トランとハイランドの国交が確立された今、中継地点として『街』として栄えていた。それも、宿屋、みやげ物屋、大小さまざまな食事処。船を待つ者たちの為の街として生まれ変わった。
 フィッチャーは、船付き場近くの茶店に落ち着き、船を待つことにした。

 二杯目のマグが空になる頃。
 大きな船が着いた。トランの軍服の男たちが、わらわらと降りて来た。
 国葬に出席する将校たちが、コロネの駐屯地からノース・ウィンドゥの港を経由して引き上げて来たのだろう。彼らは亡くなった元帥の直属の部下に当たるわけだ。
 ハイランド共和国と違い、トランは『軍人の国』だ。
 統一以前のハイランド地方は、自治権を持つ小さな市が集まった『都市同盟』と、ブライト家王室が政務する『ハイランド皇国』と、騎士の国『マチルダ騎士団』の3つの集団に別れて対立していた。マチルダ騎士団は騎士によるの騎士の為の国であり、ハイランド皇国には巨大な軍隊があったが、都市同盟のそれぞれの市には、きちんとした軍隊は無かった。殆どが、市で育成された自警団程度のものだった。
 フィッチャーが市長を勤めたミューズ市も軍隊は無かった。だからアナベルは、ビクトールに『傭兵隊の砦』を管理してもらっていた。あれがミューズの軍隊の代わりだった。
 今のハイランド共和国は、軍隊イコール『マチルダ騎士団』である。他の市、村の国民は、作物を作ったり商いをしたり、血なまぐさいこととは無縁に暮らしている。そして、『軍』と、『役所』や『警察』は別の組織である。
 トラン共和国は、一番偉いのが軍人である。貴族も士族も僧侶も学者も、どの家系も軍人である。『赤月帝国』の長い歴史の中でも、共和国になった今でも、それは変わらない。警察は『軍警察』、役所の役人も『軍役人』、事故災害の救助隊も『救助軍』で医者も『軍医』、国の組織の人間は全員軍人だ。
 もちろん、農民や漁師、商人の人数の方が圧倒的に多い。共和国になってからは、軍人も一般市民と同等、平等は謳われてはいる。
 だが・・・。
『茶店に入って来るなりの、この傍若無人ぶりは、それが浸透しているとはとても思えませんけどね。それに、バナー港は一応ハイランドなんですけど』
 船が着いて吐き出された、トランの焦げ茶色の軍服の男たち。
 フィッチャーがいたのはそう大きな店ではなく、席数も多くはなかった。空席が無いと見ると、脅して先客を立たせる者や、店主に言って無理に席を空けさせる者もいた。座るや否や、順番を無視して注文を要求する。遅いと剣で床を叩く。かつてのミューズの傭兵達だって、もっと行儀がよかった。
「こちら、空いていますか? 相席いいでしょうか?」
 フィッチャーの前のテーブルに着いたのは、割合お行儀のいい部類だった。二人とも30前のようだが、他の者とは制服も違い、襟章肩章から将校クラスと知れた。一人はごつい体格の男、一人は役者みたいな男前。しかし男前の方は、その男振りを失笑に変えるような、青い目のまわりに青い痣が出来ていた。女で揉めて喧嘩でもしたのか、と思わせた。
「タバコを吸ってよろしいでしょうか?」
 優男の方が、また許可を求めて来た。フィッチャーは頷いた。
「やれやれ、ノース・ウィンドゥはもうこりごりだ」
 ごつい男の方が先にタバコを取り出してふかし始めた。
「制約が窮屈でしたね。シュウ殿は、他国の軍隊を自由にさせるのが面白くないのでしょう。他の街は割合よかったのに」
 優男も自分のタバコに火をもらいながら応えた。タバコは高級品なので、一般市民はたしなまない。ハイランドでは傭兵の一部が自作の紙巻きタバコを吸ったりはしていたが。この若さで将校だということは、家柄のいい裕福な青年達なのだろう。
「ノース・ウィンドゥからですか?」
 たぶんコロネからだろうと思いながらフィッチャーは尋ねた。
「いえ、コロネの、トラン駐屯地からです。三日後に国葬があるのでね」
「それは遠くから大変ですね」
「でも、おかげで家に帰れます。彼は妻に、私はフィアンセにも会える。久しぶりですよ」
「それはそれは、ごちそうさまです」
 青年の無邪気さに、フィッチャーもつい笑みがこぼれた。
「あなたはご商売ですか?」
「ええ、まあ。宝石商です」
「ほう。見せてくれんか」
 もう片方の男が、初めて話しかけてきた。
「首都で妻への土産を買おうと思っていたが、好きに外出させてもらえなかったんでな」
「愛妻家でいらっしゃるんですねえ」
 フィッチャーが鞄を開けながらおだてると、
「なあに。単なる点数かせぎさ。・・・ヴィエリ、君はいいのか、ロザリー殿には」
 えっ!と声が出そうになるのをフィッチャーはこらえた。ロザリーの婚約者か? いや、しかし、ロザリーというのは少ない名では無い。
「そんなに持ち合わせが無いんだ」
「何なら貸すぞ、出世払いで。未来の家督殿」
「いや、彼女はアクセサリーはたくさん持ってるみたいだし。いいよ」
「そうか。・・・おい、おれはこれを貰うぞ。釣りはいらん」
 男は、大きな真珠のイヤリングを手にした。随分と羽振りのいい男だ。
「ありがとうございます。きっと美しい奥様なのでしょうね」
「まあ奥方もまあまあだが。・・・商人、この港街は前泊か?」
「いえ。午前中に着いたばかりです」
「なんだ。女の情報を聞こうと思ったのに」
「そういうことなら、ここの茶店のご主人に直接お尋ねになるといいと思いますよ」
 やれやれ、とんだ愛妻家だ。港に着いたとたんに娼館の品定めか。
「あ、私の方はもう乗船できるようです。失礼します」
 商品を売るだけ売って、さっさと引き上げた。これらの商品は黒髪黒い瞳向けだと言われたが、彼の妻は果たしてそうなのだろうか?
 ――たぶん、違うんでしょうけどねえ。――
 世の亭主殿なんて、そんなもんなんでしょう。


< 21 >

 港から港。船に乗ってしまえば、すぐにノース・ウィンドゥだった。シュウに報告したら、とっととキャロに帰ろう。フィッチャーは、夕闇にそびえる市庁舎へと歩みを急いだ。
「なんでもう帰って来たんだ?」と眉をひそめるシュウに、「実はロザリーさんが誘拐されて、いなくなりまして」と、報告した。自然に言えるように、船の中で百遍も編集したので、かえってわけがわからなくなっていた。
「誘拐?」
 書類の山にサインをし続ける手が一瞬止まった。
「はあ。ゴードンさんの話によると、思想集団のしわざだそうですが。ゴードンさんの指示で、もう帰っていいってことだったので・・・。いけなかったでしょうか?」
 フィッチャーはソファで小さくなって、すまなそうに答えた。こわごわとシュウを上目使いで見た。
 シュウは顔色一つ変えずに「誘拐ねえ・・・」と言ってサインを続けていた。
「まあ、接触する相手がいなくなったんだ、仕方ない」
「あと、ゴードンさんから、書類を渡すよう頼まれました」
 初めてシュウが顔を上げた。手に取った書類をながめ、「ふふん」と笑うと、「アップル!」と秘書を呼んだ。
「これ、すぐに写しを取ってくれ。
 ・・・で、ロザリーには全く会えなかったのか?」
「いえ。一度お屋敷に上がりました。お話はふた言三言。あ、それで、お買い上げいただいたエメラルドのネックレスの料金が、未回収でして」
「えーーっ! なんだとっ!」
 ロザリーの誘拐を聞いた時よりこっちの方が十倍は驚いていた。シュウはペンを放り出して身を乗り出した。
「料金、未回収?」
「す、すみません。警察に書類を出せば、現物か料金かが戻っては来るそうですので、ゴードンさんに頼んでおきました」
 やはり一生給料から棒引きだろうか。
「フィッチャー・・・。あれ、偽物だぞ」
「え?」
「スパイで行って本当に売るなよ。だいたい、あんな料金で売ったら、詐欺で訴えられるぞ」
「えっ、えーっ!」
 なんとしてでも、現物が返って来ますよーに。
「宝石商が、本物と偽物の見分けがつかんとは。少し教育せんといかんな」
「仕方ないでしょう、あんな豪華な宝石類なんて、間近で見る機会は無いんですから! わたしに『宝石商』という役が無理なんです!」
 フィッチャー。貧乏性なだけでなく、貧乏人であった。
「女房殿に見せてもらって、勉強しろよ。すごいのをたくさんお持ちのはずだぞ。貴金属は城から持ち出したはずなんだ」
「ジル殿は、女房じゃありませんよ! それに貴金属は、ジョウイ殿が旅の資金にと殆ど持って行かれたそうですから。
 で、もしかして、これは全部偽物ですか?」
 フィッチャーは、慌ててテーブルに鞄の中身を広げた。
「そうだよ。当たり前じゃないか。目的は商売じゃないんだ。高価な本物を用意する必要は無いだろう」
「・・・売りました、トランの将校に。イヤリング。あぁ、どうしよう!」
 シュウも、そうならそうと初めから言っておいてくれればいいものを! これじゃあ、ジャンヌのことがバレて反逆罪の前に、詐欺罪で逮捕だ。
「トランの? 安物に騙されおって。ざまあみろだな」
「シュウ殿、そういう問題じゃ・・・」
「しかし解せんな。偽物の見分けはともかく、ロザリーのような若い娘が、あんなババくさい首飾りを買うとは」
「勧めたわたしが悪いんです」
「また、どうせ口が巧かったんだろう。『必要以上』に」
 ああ、また厭味を言われてしまった。
「シルバーバーグの屋敷は、何人くらいで警護していた?」
「門のところに7人。あとは、召使に2、3人が混じっているようでした」
「意外に多いな。そんな中を、よく誘拐したもんだ」
 ――ええ、そりゃもう、ほんとに大変でしたよぉ。――
「ロザリー本人が協力したのかもしれんな」
「え?」
「『姉さんに会わせてやる』と言えば、ついて来るかもしれん。信用させる為に、姉が持っていた短刀でも見せて。よくある手口だ」
「・・・。」
 シュウはすべてを見透かすように、顔を上げてフィッチャーを見て笑った。パーンと対峙した時より、何倍も恐怖を感じた。寒けがした。
「女だったのですか?」
 フィッチャーの口から出た言葉に、シュウの表情が「え?」とぽかんとした。
「少佐のこと。今、『姉さん』って。前はレオン殿の『御曹司』って言ってましたけど」
「まあな」
 シュウは今度はにが笑いしたように見えた。
 シュウとの会話は、どこに罠がしかけてあるかわからないので、疲れる。
「スタリオンはどうした?」
「もう先に帰りましたよ」
 いつ帰ったかは、特に言う必要はないだろう。ノース・ウィンドゥで別れたわけではないのを、わざわざ告げる必要はない。
「なんだ、ビクトールのところに届けてもらいたい書類があったのに。代わりに届けておいてくれ。どうせキャロの通り道だろう」
 アップルが、さっきの書類の写しを完成させて持って来た。シュウはそれを大統領印の入った茶封筒に入れた。
「また書類運びですかい? 伝書鳩ですね、わたしは」
「ビクトールのところまで、市の馬車で送ってやるよ。御者付きの四頭立てだぞ」
「へえ、ずいぶん豪華ですね。ではお言葉に甘えることにします」

 庁舎を出ると、もう夕焼けも消え、街は闇をまとっていた。馬車を正面に回してくれると言うので、入り口でしばらく待った。
 終戦から五年。ノース・ウィンドゥは首都というには質素な街だ。庁舎、国や市の機関が多く、整ってはいるが華美ではなかった。門も壁も画一化されて、似た形、似た色合いの建物が並んでいた。
 背広のポケットに手を突っ込むと、ジャンヌのイヤリングが触れた。ロザリーの信用を得る為に借りて来たものだ。
 シュウの話を聞いて、よくもまあロザリーが自分を信じてくれたものだと思う。自分がロザリーなら、絶対眉唾だと思う。罠じゃないかと疑ってかかることだろう。・・・このイヤリングが無かったならば。
――おいらにとっても、本当に幸運の石だったようですね。――
 ターコイズと言ったっけ、この石は。黒髪黒い瞳に合うそうだ。高いのだろうか? キャロまで帰る途中のどこかの街で、宝石屋をのぞいてみようか。
『すごいのをたくさんお持ちのはずだぞ』
 シュウの言葉を思い出し、「あ、そうか」とため息をついた。

「びっくりしたわ。フィッチャーさんが、そういう仕事の人だって知って」
 遠く夕陽が沈んで行く。青紫に色を変えた空の、裾野を朱色が染めていく。ジャンヌとロザリーは急いで庭の洗濯物たちを取り込んだ。夕方は鷹のような早さで迫って来る。
 ビクトールの傭兵養成所で、やることもないので、二人は洗濯とまかないの手伝いをまさかれた。あくまでも簡単な手伝いばかりだが、ブラブラしている二人を見かけた生徒達の「誰、あれ?」という疑問は解消できるだろう。
 二人お揃いで、生徒の標準服の上に白いエプロンをまとい、髪も白い布でおおった。それだけのことで、不思議にジャンヌも女に見えた。
「だって、ぜったい、『ウソつけなさそうなヒト』だと思ったから信じたのに。うーん、すっかり騙されたわ」
 シーツをからめ取りながら、憤慨するロザリーであった。
 ジャンヌは微笑みながら、妹の届かぬ高い竿のシーツを次々に素早く取り込んで行った。
「イヤリングがあったから信じたんだろ?」
「それはそうだけど。でも、ヒトにも騙されたな」
「彼は・・・イチかバチかの賭けを買って出てくれたんだ。負ければ命も危険な賭けを、な。いくら感謝しても足りない」
「ビクトールさんがいなかったら、惚れてたかも〜?」
 いたずらっぽく顔を覗き込むロザリーに、ジャンヌはシーツを乱暴にたたみ、
「ビクトールなど! フィッチャー殿の足元にも及ばん!」
「あらら。ケンカしたの?」
「・・・。別に!」
「フィッチャーさんの、あの、情けなさそーなところが、みんなを油断させるのでしょうね。演技だとしたら、たいしたもんね。・・・それとも、『地』かしら?」

「はぁーくしょん!」
「風邪ですかい?」
 振り仰いで御者が気づかってくれた。
「さ、出しますよ。急ぐよう言われているんで、飛ばします。寒いかもしれませんが、勘弁してください」
 庁舎前、ノース・ウィンドゥからフィッチャーの馬車が出発した。
 三階の執務室の窓から、シュウが下を見下ろしていた。馬車の跡を、二頭の馬が追った。
「トランの犬、か?」
「フィッチャー、危険じゃないの? 彼は剣も持っていないのよ」
 アップルも心配そうに覗き込んだ。
「あいつなら、何とかするよ。
 さあて、仕事、仕事」
 シュウは何事も無かったように、窓から離れた。


< 22 >

 ノース・ウィンドゥから傭兵養成所に向かうには、クスクスを経由して、ラダトを右にやり過ごす。ずっとデュナン湖を左手に見ながら。
 クスクスは港街だ。まだ夜は浅く、繁華街の灯だろうか、色とりどりにまたたいているのが見えた。
「つかまっていて下さい、少し飛ばしますよ」
 御者が唐突に言った。
 灯を見ながらうつらうつらしていたフィッチャーは、御者の緊張した声に『え?』と顔を上げた。
「付けられています。むこうはクスクスに入る前に追いつきたいようです。こちらは振り切ります」
「付けられてるぅ???」
「向こうは二頭です。挟まれたら終りです」
 ――ひえ〜。シュウの旦那の書類か? 勘弁してくださいよぉぉぉ。――
 フィッチャーは、片手で馬車のヘリに掴まりながら、タイを緩めた。そして片手でシルクシャツのボタンを外し始めた。

 あと少しでクスクスの街というところで、一頭に前に回られた。馬車は悲鳴を上げて急停車した。覆面の二人組だった。彼らは素早く馬車に走り寄ると、一人が御者の腕を逆さに取り、もう一人がフィッチャーの胸に剣を突きつけた。御者は帯剣していたが、一叩きで剣を地面に落とされた。
「暴れたり大声を出したりすると、命が無いぜ。大統領から渡されたモノを出しな」
「あ、は、はい。・・・出します。出しますから、剣を少し離してください。そんなに近いと、あなたがクシャミしただけで弾みで斬られちまいそうです」
 それでなくても、あまり運がいい方じゃないんだから。
 男達は、騎士や剣士というわけではなさそうだった。剣は大ぶりな太いもので、盗賊や傭兵が好んで使うタイプ。服はハイランドの町民、一般市民が着る普通のシャツとズボンだった。黒い覆面だけは、不自然に高価そうなものだ。光沢のある柔らかそうな生地はシルクサテンのようだった。
「この封筒です」
 フィッチャーは、自分の背と背もたれに挿まれた茶色い書類入れを差し出した。
「ちょっと! 大統領からの機密文書を、そんなに簡単に!」
 御者が非難の声を上げた。
「命には代えられませんよ。おいらが書類を出さないと、あなたも殺されるんですよ。それにどうせ、意地張ったって、おいら達を殺した後にゆっくり探せば、簡単に見つけられてしまうんだから」
「ほほう、にいちゃん、ものわかりがいいな」
 声は五十がらみ、いや、たいてい盗賊は声が老けている。四十五、六か。三十代半ばのフィッチャーを『にいちゃん』と呼んだ。
 書類を受け取った男は、中身を開いて確認した。
『KONAMI ANNOUNCES SUIKODEN IV FOR PLAYSTATIONR2
 GAMERS TO EMBARK ON A NEW EPIC RPG ADVENTURE IN FALL 2004
 Set 150 years before the events of Suikoden I, Suiko 4 offers an updated graphical engine, expanded battle system, and ship-to-ship combat. ・・・・・・・』
「な、なんだ、こりゃ!」
「異国の言葉です。『えんぐりっしゅ』というらしいです。大統領は、機密文書は、この言語を暗号代わりに使うことが多い。ちょっとした学者や教師なら、すぐに解読できるものだそうです」
「そうか。おまえらの、命までは取らん。手間かけたな」
 男達は、踵を返して、ノース・ウィンドゥ方面へと戻って行った。蹄の音が、遠ざかって行く。安堵感が広がって行った。
『まあ、覆面しているのを見て、ちょっとは大丈夫な気はしてましたが。書類を取ってさらに殺すつもりなら、顔は隠しませんからねえ』
「フィッチャーさん! なんで、あんなに簡単に渡してしまうんですか!」
 御者は憤慨していた。
「あなたには、大統領の使者としての誇りは無いんですかっ」
 まだ若い男だった。薄い眉、その眉間に皺を寄せ、色白の頬を紅潮させて怒っていた。
「無いですよ、そんなもの。おいらは所詮、使い走りっすよ。そんなことに命かけてられませんよ」
「もう、知りません! こんな人、許せません。だいたい、無精髭は生やしているし、シャツのボタンは互い違いだし、だらしないったらない!
 わたしはこのまま首都へ帰ります。あなたは歩いてクスクスまで行ってください」
「えっ、それはひどい。殺生な。歩けばけっこうな距離です。せめてクスクスまでは送ってくださいよ。そこからは自分で馬車を借りますから」
 まだ、腹の傷は完全ではない。体力も完全には回復していなかった。歩きは、きびしい。
 無精髭・・・。そうか、グレッグミンスターで剃ったきりだった。庁舎にこのツラで入ってしまったわけか。まずいかも。
「御者さんだって、今戻ったら、さっきの馬の人たちに会うかもですよ」
「それなら、望むところです! 書類を取り返す為に闘います!」
「2対1だ、殺されますよ。しょうがないなあ。・・・あれは、偽物です。ニセ書類ですよ。本物はちゃんと、まだ、しまってあります」
「えっ?」
「おいらは剣は全然ダメなので、いざという時の為に、ああしてニセ書類を用意しているんですよ。けっこうコロっと騙されて持って行くでしょう?」
「・・・。」
 御者の青年は、あぜんとして、フィッチャーをマジマジと見つめた。
「失礼しました。そんな深い計画があるとは知らず、失礼なことを」
「いえ、いいんですよ。あなたを騙せないようじゃ、あいつらも騙せません。
 でもまあ、アレも、ある意味は機密書類らしいですよ。特に、『IN FALL 2004』とか『Set 150 years before the events of Suikoden I』あたりが」
「そんなマニアックなギャグ・・・(*注)」

 クスクスに着き、貸馬車屋を探した。御者は散々謝り、最後まで送ると言ったが、『最後』とはビクトールのところまでだ。養成所からの足、キャロへ帰ることを考えると、ここで馬車を借りておいた方がいい。それに、養成所まで来られて、シュウのところの者にジャンヌとロザリーの姿を見られたらまずいというのもあった。
「では、馬を見立ててあげますよ。それで全然旅の快適さが違いますよ」
 御者は親切にも、貸馬車屋の厩に付いて来てくれた。空腹だったので、クスクスで食事を取るつもりだったが、この生真面目な男が見張っているのだから、すぐに出発しなければならないだろう。
「でも、いい馬だと、値段も高くないですかねえ」
 もう深夜に近かったので、他に客はいなかった。フィッチャーは、馬と馬のの貸値段票を一枚ずつ確認していた。
「そうなんですよ。でももう、フィッチャーさんには、馬は必要ないかも」
「え?」
 顔を上げた、その喉に、細い剣先が触れ、ちくりと痛んだ。
「書類。出してもらいますよ」
「・・・。」
 薄い眉の下の三白眼が、獲物を狙う蛇のようにうれしそうに笑っていた。
「本物の御者さんは、どうなったんですか」
「ノース・ウィンドゥの庁舎の馬小屋で、縛られて気絶しています」
「死んではいないのですね、よかった」
「ご自分のことを心配したらどうです? 早く書類をお出しなさい。まさか、二つもニセ書類は準備していないでしょう」
「ニセ書類? あの話はウソですよ」
「・・・え?」
「あれは本物の書類です。ああ言わなければ、あなたが無駄死にをしに書類を取りに戻ると思ったから、ウソをついたんです。あんなもの、写しにすぎない。庁舎には原本があります。
 家族や恋人を助ける為ならともかく。あなたのような、若くて真面目な人が、あんな紙っぺらの為に命を落としてはいけないと思った」
「・・・。」
「余計なお世話だったようですね」
「くそっ」
 切っ先が震えていた。怒りなのか、動揺なのか、フィッチャーには測れなかった。
「ここの一番いい馬を持って行ってください、おごりますから。早馬なら、奴らに追いつける。わたしがお節介をしたせいで、距離が開いてしまった。さ、早く行かないと」
 フィッチャーの喉から、剣先が離れた。青年は剣を納めると、栗毛の美しい馬の手綱を取った。鞍を確かめ、木戸を開けた。
「それでいいんですか? 値段はそう高くないですよ」
「目は確かなんでね。
 あなたにはすっかりやられた。・・・わたしの命を助けてくれようとしてやったことだ、あなたのことは殺さないでおいてあげます」
 厩のまわりを見回し外に出ると、青年は栗毛にまたがった。最初、静かな蹄の音がして、すぐに鞭が入り、疾走し始めた音が聞こえた。
『行った・・・』
 フィッチャーは、その場にへたり込んだ。腰が抜けた、と言った方がいいかもしれない。厩の木戸に背をもたれさせると、背中に滂沱の汗が流れていたことを知った。氷みたいな冷たい汗だった。 
 こわごわと、喉に触れる。ぬめっと、濡れていた。
 ――うわぁ、血っ!――
 見ると、指には、三本ともに血がついていた。
『もう、ダメだと思いましたが。・・・純真な青年でよかった』
 殺されると覚悟した。大芝居だった。まだ恐怖で歯が噛み合わない。
『まさか、あんな咄嗟の嘘でだまされてくれるとは』
 嘘というより賭けに近かった。紳士的でプライドの高い青年。彼は、自分を助けた者を一度は見逃すだろう、という賭け。
 それにしても、二組も賊が襲って来て、奪おうとするなんて。
『一体、何なんでしょうね、コレは』
 フィッチャーは、包帯の上から、肌に密着した書類を軽く叩いて確認した。慌てて着替えたので、ボタンがずれていた。そういえば、彼にそれを指摘されたっけ。
「片手でうまくボタンの着脱ができれば、女性ももっとスマートにくどけるのでしょうかねえ」
 はるか若い頃の恋の失敗を思い出しながら、ボタンをきちんとはめ直すフィッチャーだった。

 

 

<6>へ続く ★