二つの空、二つの心

<6>



< 23 >

 パーンは、膝を付き、両の掌も絨毯に降ろして腕をつっぱった。毛足の長い繊維が指にからみついた。頭を、絨毯にこすりつけるように下げた。
「申し訳ないですっ! わたしがついていながら!」
 ヴィエリの慌てた声が聞こえた。
「や、やめてください、パーン殿、土下座など」
「必ず誘拐団を逮捕し、ロザリー様を救出します!」
「いや、それより先に」と、ヴィエリの隣のコスタが冷やかな声で言った。パーンは顔を上げた。
「軍警察は、ジャンヌ少佐の逮捕に全力を尽くしたらいかがかな? 彼女が逮捕されれば、誘拐団はロザリー殿を返して来るのじゃないかね? 少佐の殺人に対する抗議なのだろう?」
 ヴィエリ達は明日の国葬の為に帰国し、シルバーバーグ家に立ち寄ったところだった。
 パーンの方は、あれから殆ど家にも帰らずに捜索に加わっていた。現場検証と聞き込み。足と体を酷使し、頭の働きを麻痺させるよう勤めた。動きを止めると、想像してしまうからだ。むごい環境できつく腕を縛られたロザリーの姿や、背から斬りつけられ床に倒れ動かなくなったロザリーの姿を。
「本当に思想集団の仕業かどうかも、まだ捜査中です」
「どういうことだ?」
 コスタの問いに、パーンでなくヴィエリが答えた。
「ジャンヌ殿に加担する者たちの可能性もある、ということでしょう。ジャンヌ殿としては、ロザリー殿の無事さえ確保できれば怖いものは無い。赤月帝国組の古い体制の上役達を、次々に暗殺していくつもりかもしれないし、遠い異国へ二人で逃げるつもりかもしれない」
「加担する者、か。なるほど」
 パーンは黙っていた。黙ってただ下を向いていた。ロザリーが誘拐されたと聞いて、こうも冷静でいる婚約者の気持ちが測れなかった。『何の為の護衛か』と二、三発殴られるぐらいは覚悟していたのだが。それだけ、彼は自分と違って紳士だということか。
「このパーン、命に代えても犯人を見つけ出し、必ずロザリー様を無事に保護いたします!」
 拳をきつく握りしめ、二の腕に筋を浮き上がらせるパーンだった。

「その書類はどんなバクダンなんですか?」
 深夜、無事にビクトールの傭兵養成所に到着したフィッチャーだった。気つけにビクトールの私室で一杯酒をもらい、体と頭の緊張を緩めたところだ。
「二組、それを狙って来ましたよ」
 ビクトールは机に肘をついて書類に目を通しながら、にやにや笑っている。所長の私室と言っても、狭い部屋だった。机とベッドしかない。服は、ベッドの上や椅子の背にかけてあり、タンスのたぐいも無かった。フィッチャーは、デスクに座るビクトールと足がぶつかりそうになるのを気をつけながら、ベッドに腰を降ろし、コップにつがれた酒をストレートで嘗めた。
「それで、寝ずに馬を走らせて来たのか。目が血走ってる」
「いつまた襲われるかわからなくて、怖くて眠ることなんてできやしませんよ」
 フィッチャーは眼球を軽く押して疲れを和らげながら答えた。目の下が腫れている。隈でも出来ているのだろう。
「こっちは、シュウがその前にオレにくれた書類だ。おもしろいぜ、見てみろよ」
 ビクトールがよこした『調書』と『極秘』の書類に目を通す。疲れているせいか、神経が麻痺していて、驚きは少ない。本来なら、内容についても、シュウが協力していることも、驚愕すべき出来事だ。
「シュウの旦那は、おいらの想像以上にトランの動向を気にしているようですね」
「オレには『トラン共和国が欲しい』と言ってたぜ。本気かどうかは知らんがな。
 ほい。で、これが、おまえさんが命がけで守った書類だ」
「帳簿の写しのようですが。商品名に並んだ記号は、武器・防具の隠語ですよね。これ、剣や鎧の密売の帳簿ですかい?」
「しかも扱われている商品は、軍で主力として使用されているものばかり。軍の武器の横流しの証拠だ。軍の者が手引きして、盗賊や他国に売りさばいていたようだ。一行目にある『コレを調査すること』という文字の横に元帥のサイン。シュウはこれの原本を握っているのかな」
「元帥・・・コレで、密売犯達を脅迫してたんじゃないですか? コレを狙って来たのは複数だった。しかもコレの存在を知っていた」
「まあ、『自首を勧める』程度だったかもしれんし。・・・裏に血がついている」
 ビクトールに言われ、「え?」と書類の裏をめくった。薄く、縦に一本、赤い筋が入っていた。
「ああ。おいらのですよ。包帯の中に隠したから。
 脅迫目的なら、それぞれの犯人用にこの書類を準備したでしょう。金と引き替えに渡す、みたいな。元帥を殺した犯人の動機がコレだとすると、彼は写しとも知らずにコレを入手して安心してるんじゃないかな」
「なぜ?」
「こんな書類は普通、元帥もどこか見つかりにくいところに隠しておくでしょう。殺してしまったら、探して盗むのは至難の技だ。どこにあるかわかっているから、殺して、持って逃げることができた。たとえば目の前にあった。そう考えるのが自然です」
 目の奥が痛い。そろそろ酒が体に行き渡り、眠気がピークに達していた。だが、馬を飛ばして来た興奮がまだ醒めず、神経は高ぶっている。いいかげん眠らないと、頭がぶっ壊れそうだ。フィッチャーは、コップに残ったアルコールを、一気に飲み干した。初めて、指がヒリヒリ痛んでいることに気づく。長時間手綱を握っていたので、親指のつけ根が擦り剥けていた。
「むこうでは、大変だったそうだな」
「ああ。傷はたいしたことないです。おいらは斬られた時は『死んだ』と思いましたけどね」
「いや、それもあるが。スタリオンから聞いたが、クレオがおまえに惚れたって」
「・・・。知りませんよ、そんな話。特別にお話したり色っぽい機会があったわけでもないし」
「なんだ。それはキスマークってわけじゃないのか」
「賊に剣先を喉に突きつけられて、少し切ったんです! からかうのはたいがいにしてください」
 フィッチャーは、喉元の絆創膏に手をやった。かっと熱くなったせいか、酒が急に回って来たのを感じた。
「だいたい、そんないいこと、心当たりありません。おいら、軽傷で大騒ぎしてピーピー言ってましたし。情けない男っす」
 軽いあくびが出て、かみ殺した。タイを緩める。
「情けない男に、母性本能を感じる女もいるぞ」
「そんなんじゃ、嬉しくも何ともありませんよ。・・・若けりゃともかく・・・この歳になって」
 座っているのがきつくなり、背広を脱ぐと、横になった。
「おい、客室のベッドを用意してやるぞ。フィッチャー! オレのベッドで寝るなよ!」
 ビクトールの声が、遠くなっていく。マットレスのクッションが心地良い。フィッチャーは、紐でくいっと引っ張られるように、眠りの世界にからめ取られて行った。

「いい加減に起きろ。シーツが洗濯できないだろう。寝ててもいいが、シーツだけ取らせろ」
 頭上から迫力のあるアルトが降って来た。すっぽりかぶった上掛けごと激しく揺すられ、フィッチャーは体をギシギシいわせてやっと半身を起こした。
「うわっ、誰だっ! ビクトールじゃないっ!」
 白いエプロンの美人が、後屈立ちの構えでフィッチャーに対した。
「ジャンヌさん、ですか? でも、そのカッコ・・・」
「フィッチャーどの? 無事帰られたか」
「昨夜、遅く着きました。そうか、ビクトールさんと話こんでいて、寝ちまったのか」
「かたじけない。ロザリーは無事に保護できた。フィッチャー殿のおかげだ。怪我をしたと聞いている。すまなかった」
 純白の。胸当て付きで裾にはフリルまでついたエプロン。綿レースの三角巾。頬の傷は隠そうともしていないが、それでもどうみても女性に見えた。涼やかな目元、きつく結ばれたうすい唇。どこの美女かと思えば。口調は全くジャンヌのままだ。
「ビクトールかと思っていた。すまん。お疲れだろう。そのまま休んでいてくれ」
「いえ、もう起きます。シーツ、ですか?」
「ついでに枕カバーも。ここではわたしもロザリーも居候なので、洗濯と掃除を手伝っているんだ」
「シルバーバーグ家ご令嬢達が、掃除洗濯ですか?」
「18まで道場にいた。掃除洗濯は修行の一部だ」
 フリルのエプロン姿で『修行』って言われても。
 フィッチャーが笑いを噛み殺しながら立ち上がると、ジャンヌは慌ててくるりと背をむけた。フィッチャーが下着姿だったからだ。
「すまんが、廊下に出ている。洗濯物は、廊下に投げておいてくれ」
 そう言い、逃げるように部屋を出て行った。
 貧乏性のフィッチャー。無意識にズボンもシャツ(シルク)も脱いで、椅子にかけてあった。シーツを剥ぎ取って丸めると、服を着てから廊下にいるジャンヌに手渡した。
「すまん」
 ジャンヌは洗濯物をかかえ、パタパタと足音をさせて廊下を小走りに走って行った。
 下着と言ってもアンダーシャツとトランクス。露出度はそう高くなかったが。ジルが動じないのに慣れすぎていたが、ジャンヌはまだ若い娘なのだなと、微笑ましく思った。
 食堂で朝食をいただいたら、とっととキャロに帰ろう。


< 24 >

 天気には恵まれていた。降られたら難儀な旅だったろう。
 今日も朝からいい天気らしく、食堂の大きな窓からは、まぶしい光が差し込んでいた。長い木のテーブルが3つと、ベンチのような椅子が並べられただけの食堂は、30人も席に付けば満席だろう。普段はローテーションにしているのかもしれない。
 時間は過ぎていたが、調理場をのぞくと料理が残っていたので、勝手によそってトレイに乗せて持って行った。
 食事を取っていたら、ビクトールが近づいて来た。手に、昨日のとは別の書類を握っている。
「すみません。ビクトールさんのベッドを占領しちまって」
「いや、いいよ。よく眠れたか?」
「よく寝れたより、いい目覚めでしたよ。あの部屋で寝たおかげで、美人に起こしてもらって、いい思いしました」
「ふん」とビクトールは鼻で笑うと、フィッチャーの皿にあったボイルドエッグを口にくわえた。
「あぁ、おいらの玉子!」
 ビクトールはスープも一口飲むと、「これ、どう思う?」と書類をテーブルに置いた。
「何ですか、これ」
「証拠をでっちあげる作戦。青いマルがついたのが、フィッチャーの役」
「勘弁してくださいよぉ。おいらはこれからキャロに帰るんです。もう、いいでしょう?」
 フィッチャーは悲鳴のまじった声を出した。その口を、ビクトールがロールパンをつっこんで塞いだ。
「フィッチャーは律儀な男だ。途中で帰るなんて言わないよなあ。それでなくても人手は足りない。おまえみたいに有能な男に、途中で抜けられたら困るんだよ」
 フィッチャーは、バターのじわっとしみたパンを飲み下し、
「あ、これ、旨いですね」と言いながら、
「おだてられても、もう手伝いません。とにかく殺生沙汰になったら、おいらは絶対に不利ですし。もう危険なことはこりごりです」
「・・・誘拐の計画と実行。家宅侵入。薬物混入指示」
 フィッチャーはぎょっとして、握ったパンのカケラをテーブルに落とした。
「それから、殺人容疑者の隠匿、逃亡の幇助」
 ビクトールは、罪状を挙げて指を降りながら数え始めた。
 フィッチャーはため息をついた。
『それから、偽宝石を売った罪もです』
「わかりましたよ。やりますよ。やればいいんでしょう。どうせ待ってる者もいないわびしい独り身です。異国で刺されて死んだって、誰も泣きゃあしません」
「そんな自暴自棄になりなさんな。そう危ない役じゃあないさ。事件が解決して、すっきりして帰れた方がいいだろう?」
 ビクトールはバン!と強く背中を叩いた。フィッチャーはむせ返った。
 ぐいと飲み干したコーヒーは、冷めていて苦みだけが残った。

 どんよりした気持ちで庭に出ると、外は腹が立つほどの晴天だった。ジャンヌとロザリーが、シーツの山を次々と干しているところだった。きりりと糸の締まった白い綿ブロードが、風にはためいていて舞っている。竿にくくられた布たちが踊る。白が反射して、光も踊る。布と光が手に手を取って、フォークダンスでも踊っているみたいだった。娘たちの笑いさざめく声が聞こえて、くすぐったい気分で自然に笑みがこぼれた。
 キャロ郊外の屋敷で、ヨシノとジルが庭に洗濯物を干していた光景を思い出す。白い布の波。布に反射する光。まるで幸福の象徴のような景色だった。束の間の幸福。
 たとえばルルノイエの城の中で。一人でもジルのことを思ってくれる人がいたならば。ジルの人生は変わっていたかもしれない。
 道場では授業が始まっているらしく、カチャカチャと剣が合わさる音が聞こえていた。生徒のかけ声、講師の怒声。屋根に停まる鳥のさえずり。木々の葉擦れの音。
「フィッチャーさあん」
 ロザリーが手を振り、駈けて来た。ロザリーも同じ白のエプロンをして、長い髪は作業しやすいように後ろで一つに結んでいた。
「無事に帰って来れたんですね。よかった。本当にありがとうございました」
 黒い瞳が細められた。光が満ちて解けて行きそうな。黒蜜のような甘い瞳だ。
 フィッチャーは「いえ・・・」と照れて思わず頭をかいた。
「あの、これ・・・」
 ロザリーは、エプロンのポケットから、鍵を取り出し、フィッチャーに握らせた。
「厩の鍵です。フィッチャーさんが乗って来た馬車の馬もそこにいるはずです。姉が、『ビクトールにはわたしから言っておく』と言っていますから。
 姉と二人で話し合ったんですけど。もう、これ以上はご迷惑かけられません。フィッチャーさんが闘いが苦手なこともわかっています。
 キャロに帰っていただいても、大丈夫です。待ってる人がいないというのは、ご謙遜ですよね。見ていればわかります。いえ、それより、フィッチャーさんが『早く会いたくてたまらない人がいる』ように見えます。大切な人がいるのに、これ以上危険なことに巻き込むわけにはいきません。これまで、命をかけてくださったこと、どんなに感謝しても足りません。ありがとうございました」
 この娘たちは。
 フィッチャーは苦笑した。剣は使えず武道はからっきし、歩いていても隙だらけ。ちょっとした怪我でピーピーと泣き言を言う。彼女達の目にも、この自分はよほど情けなく映ったのだろう。『今度巻き込んだら、あっけなく殺されちゃいそうよ』『その前に、二階から飛び下りただけでも死ぬかも』そんなやり取りもされたかもしれない。
 実際、その配慮はありがたかった。冗談では無いかもしれない。
 フィッチャーは鍵を受け取った。
「助かります。おいらも、虚勢を張れるほど強くないんで。実は困ってました」
「ビクトールさん、強引だから・・・」
「ありがたく逃げさせてもらいますよ。お二人の幸運を祈っています」
 フィッチャーは、道場の窓の下をしゃがんで通り抜けると、厩に忍び込んで鍵を開けた。鍵は錠に嵌めたままにしておいた。フィッチャーを覚えている馬達が少しはしゃいだが、静かに手綱を引いて外に出した。
 やっと、キャロに向かうことができる。馬が嘶かないように鞭も当てることなく、フィッチャーは馬車を出発させた。

 陽が高くなり、昼が近かった。もうすぐリューベ村というあたりだったろう。
 いやな気分だった。キャロに向かう高揚感は微塵も無い。
『ここで逃げていいのか? ジャンヌさんたちの好意に甘えて』
『コマが足りないのはわかっている。自分が役に立てるのはわかっているのに』
 ずっと、馬を走らせながら、反芻していた。自分に問いかけ続けていた。
 馬鹿な。このまま真っ直ぐ走り続ければ、ジルの笑顔に会える。
 傷の痛みを・・・剣を頭上に振り上げられた時の恐怖を忘れたのか。
 フィッチャーは、腹の傷を確かめ、喉の傷を絆創膏の上から触った。
 だが、庭で白い布が舞う風景が、脳裏から消えない。ジャンヌとロザリーの笑顔が、ジルの笑顔と重なる。
『一度は関わったものを。危険だからと、逃げていくのか?』
 手綱に力がこもらなかった。馬は、どんどん速度を緩めていく。横を歩く旅人が、怪訝そうな顔をして追い越して行った。
 そして、馬車は、停止した。
『・・・。』
 フィッチャーは、椅子に座り直した。
 カチリ。
 背広の裾が鳴った気がした。ポケットに手を入れたら、ジャンヌのイヤリングが入っていた。
『しまった。返し忘れた』
 フィッチャーの顔に、静かに笑みが広がって行った。
「大切なものだと言っていましたよね。このまま持って行ったら、『窃盗罪』までつけ加えられてしまいそうです」
 フィッチャーは、声に出してそう言った。馬車は、ゆっくりと方向を変えた。
『ごめんなさい、ジル殿。おいらはバカかもしれんです』
 逃げないこと。
『いつも隣にいながら、おいらは・・・』
 それは、難しい生き方だ。
 ジルが自分を愛していることに、見て見ないふりをしてきたのだ。嫌なら四年も一緒にいるはずがない。
 自分だけが一方的に愛しているのだと言い聞かせて、受け止めようとしなかった。怖かったから。王妃だったジルが。ジョウイの妻だったジルが。
 彼女の重い運命を一緒に背負うのが怖かった。ジョウイの影と張り合うのが怖かった。
 ずっと、逃げて来た。卑怯者のフィッチャー。
『おかしいですね。キャロから遠ざかりながら、こんなに気持ちが近くなっていく気がするなんて』
 ふと、少年の白いシャツの背中が思い出された。ジルベールの背。ミューズに向かい、いやルルノイエに戻る為に、フィッチャーに別れを告げて走り出した、あの小さくて細い背中。
『ああ、そうか。ずっと、わかっていませんでした』
 ジルは、フィッチャーが『連れて行けなかったから』戻ったのではないのだ。
 自分の意志で戻ったのだ。自分なりに闘う為に。運命を受け入れて。
 それが今、理解できた。
「お茶の時間までには、ビクトールさんのところに戻れるでしょうかね」
 フィッチャーは、馬を急がせた。


< 25 >

 薄い花柄の茶器から、最高級の茶葉の香りが漂っていた。クレオは砂時計の砂が落ち切るのを確認して、二つのカップに茶を注いだ。
 シーナは、あれからちょくちょく遊びに来ていた。両親が苦手な彼は、城には居づらいらしい。かと言って、兵士宿舎は自由がきかなくて嫌なのだ。
「わがままなヤツ」
「何とでも言えよ。いただきまーす。・・・パーンは全然帰って来ないの?」
「忙しいらしいわ」
「奴が必死で探している犯人が、まさかここに居るとは思わないだろうなあ。バレたら殴り殺されるな」
「・・・。」
 クレオは黙ってお茶をすすった。沈黙に耐えられない性格のシーナは、さらに話題を変えて話し続ける。
「フィッチャーは、もう無事にハイランドに着いたかな」
「でしょうね」
 クレオには会話を続ける気がない、というか心はここに無いようだった。
 空気の読めない男はまだ続ける。
「あの男はやめた方がいいぞ」
「・・・え?」
「フィッチャーだよ。かっこいいとか言ってたじゃんかよ」
「ああ。がんばってくれたわよね。戦闘はど素人なのに」
「あいつ、独身は独身らしいけど、入籍してないだけで、内縁の妻がいるらしいぞ。しかも隣の家の未亡人ともねんごろになっていて、トラブってるみたいだよ」
「へえ。そんな人には見えなかったけど」
「相変わらず、男運が悪いなあ、クレオは」
「ちょっとカッコイイって言っただけじゃない。なんでそんなに話が大きくなってるのよ」
「話が大きい方が、面白いじゃんよ」
 その時、玄関の扉が開いた。
「パーン?」
 返事も無く、『ただいま』の挨拶も無く、パーンが応接間を横切った。物も言わずに自分の部屋に向かって行く。
「おかえり、パーン。ご苦労様。お風呂は?食事は?」
 パーンの後を追いかけるように、クレオが続いた。
「いい。国葬会場警備の深夜ローテーションなんだ。夜半には起こしてくれ」
 部屋に入り、そのままベッドに向かおうとするので、「着替えないと」と言っても、「いい」と無視するだけだった。
「せめて鎧は取りなさい!」
「・・・。」
 パーンは無言でされるがままに肩鎧を外した。そしてそのまま、前のめりにベッドに倒れ込んだ。
「パーン! 大丈夫?」
「ZZZZ・・・」
「やれやれ。2秒で寝たわね」
 シーナも恐る恐る部屋を覗き込んで、「だいぶキてるな」と呟いた。
「フィッチャーが心配したのはこれだよ。クレオも」
「私は大丈夫よ。パーンに比べたら」
 クレオは毛布をかけて、バンダナを外してやった。気合を入れようとかなりきつく結んだのかもしれない。額に跡がついていた。まるで何か忌まわしい刻印のように。
「髪が汚れでベタベタ。少し早めに起こして、入浴させないと」
 クレオが母親のように、ため息まじりに言った。

 夕方に、パーンの国葬警備の任務を解く司令がメッセンジャーによって届けられた。
『どんな風にパーンに伝えよう。もう、このまま起こさずにいようか』
 クレオはメモを握りしめ立ち尽くした。
「クレオ」
 声に慌てて振り返る。
「呼び鈴で、目が覚めた。任務失敗による謹慎か。休暇と思えばいいさ。初めてってわけじゃないし」
「パーン・・・」
「ハラがへった。メシの後に、必ず風呂には入るから」
「パスタとシチューとステーキ、どれがいい?」
「シチュー」
 即答だった。
 クレオが数回まばたきする間に、パーンは一皿平らげた。よほど空腹だったのだろう。
 二杯目のシチューをテーブルに置く。
「そういえば、昨日。いや、一昨日だったかな。ヤバイな、日付の感覚が無い」
 子供のようにスプーンを握ったまま待っていたパーンは、すぐさままた食べ始めた。だが今度は、ゆっくり味わいながら食べてくれているようだ。
「なに?」
「街の北の門で、あの男に会った。クレオがいい男だって騒いでいた・・・。何て言ったっけ。服だけ立派な宝石屋」
「フィリップ・プレシ?」
「そうそう。金蔓がいなくなったから、さっさと帰国したようだ」
「ああ、彼ね、とんでもない男だったわ。未亡人狙いの女ったらしで、今も地元の街で三人の女を囲ってるって話よ。あれ、何か違ったかな。でもまあ、おおむね、そんな感じのヤツらしいわ」
「男運、相変わらずだな」
 パーンが初めて、少しだけ笑顔を見せた。

 作戦会議は、ビクトールの部屋でこっそり行われた。会議と言っても、ビクトールの他は、フィッチャーとジャンヌの二人だ。これでは確かに、フィッチャーに去られてはきつかったことだろう。もっとも、剣の使えないフィッチャーが、どの程度役にたてるかはわからないけれど。
「ヴィエリ殿というのは、どのような経緯で婚約者になられたのですか?」
「弁護士達が選んだ20人の中から、最終的にはロザリーが彼がいいと言った。偉ぶらないところと、ハンサムなところが気に入ったらしい」
 エプロンをはずしたジャンヌは、『少佐』の顔に戻っていた。フィッチャーは再び軽く感心する。視線。所作。眉の動かし方一つ見ても、女に見えないのだ。そんなことに感心されても、ジャンヌは怒るかもしれないが。
「彼はヴィエリ伯の実子ではなく、豪商に嫁いだ妹の子供だそうだ。一家が強盗に殺され、引き取られたと聞いている。少年時代は平民として育ったせいか、貴族特有の傲慢さがなくて。ロザリーはそこが好きみたいだったな」
「ハンサムって。金髪碧眼?」
 フィッチャーは、港の茶店で会った、もしやと思った青年を思い出す。
「ああ。すごいぞ。金髪碧眼、長身痩躯。白亜の額に眉目秀麗。夢に出てくる王子様みたいな男だ」
「そいつが犯人だ。絶対犯人に違いない。そんなヤツ、許せねえ」
 ビクトールが憤慨して言った。
「そんな美形で、しかもロザリーさんみたいな美人が婚約者。羨ましい限りですね」
 シュウが言っていたっけ。シルバーバーグ家の名前があれば、トラン共和国次期大統領も夢ではないと。
 ビクトールが指摘する。
「家督はジャンヌが継ぐが、何かあればロザリーの婿である彼が後継者だろう。動機は十分だ」
 港でのあの将校がヴィエリに間違いなさそうだが、しかし彼は野心に燃える男には見えなかった。シュウの方がよっぽど、悪人に見える。
「ジャンヌ殿が巻き込まれたのは、偶然かもしれないし、実行犯の機転かもしれませんし。ヴィエリ殿はただコスタの代わりにジャンヌ殿を呼びに行っただけで、犯罪とは関係ないかもしれない。彼は利用されただけで、しかも今でも気づいていないのかもしれない」
「そんな、ムシのいい解釈」と、ビクトール。
「すみません。ただ、相手はロザリーさんの婚約者です。慎重にしたいんですよ」
「では、コスタという男は?」ビクトールが先を促した。
「血筋のいい男だ。父親の現・副元帥は、赤月帝国では大佐格だったはず。妻も貴族だが、噂では元々は豪商で、貴族の血筋を金で買ったらしい。コスタ家は家系もよくて金持ちなので有名だ」
「両方揃ってるのって、なんか頭にきますね。そいつが犯人に間違いありませんよ」
 ジャンヌはあきれて肩をすくめた。
「おまえたちと来たら」
「ま、冗談はさておき」
「オレのは冗談じゃねーぞ」と言うビクトールの声を無視して、フィッチャーは続けた。
「とにかく、証拠がありません。
 二人の有罪を立証する為には、罠にかけないといけませんね」
 言葉に出して、自分でもイヤになってきた。自分こそ、シュウに負けない悪人かも・・・。
「罠にかける?」
「ヴィエリとコスタをか?」
 その問いに、フィッチャーはにやりと笑って答えた。
「いいえ」
 思わず声をひそめた。
「レパント大統領を、です」
「えーーーーーっ!」
 みんな仰天してのけぞった。
「だ、大統領って!」
「そうです」
 フィッチャーは眉一つ上げずにそう答えた。


<To Be Continued>


『二つの空、二つのこころ』 ★ 8 ★ 




< 26 >

 男は、磨き抜かれた王宮の床を進んだ。
 フードを目深にかぶり、闇色のマントの裾を翻して。サンドベージュに光る床に、コツリコツリと安っぽい靴音が響いた。だが、男の背筋は時を超えた使者のようにまっすぐと伸び、フードの影から覗く視線は玉座のレパントをしっかりと見据えていた。両脇に十数人も並ぶ大臣や上級騎士たちも、その不敵な雰囲気に『何者か』と息を飲んだ。フードに山羊の角と長く尖った耳を隠しているかもしれないと思わせる、禍々しさを持った男。男が歩いた後ろから、砂が流れ落ちるように、王宮の床もさらさらと地獄へと崩れ去っているかのような錯覚を与えた。
 男は、真紅の絨毯が敷かれた境界線まで進み、フードを脱ぐと、跪いた。焦げ茶の髪の間に魔王の角は無かったが、前髪が長すぎるらしく、うつむく男の顔を隠した。
 階段の高みから、大統領が声をかける。
「次の者。名前と、陳情の内容をかい摘んで述べよ」
「天誅平和団。パトリック・デュモン」
 並んだ騎士達からどよめきが起こった。ロザリーの誘拐事件で知名度のある思想団体。カチリカチリと所々で剣を抜く準備の音が聞こえた。
「天誅平和団?」
 レパントも驚愕し、椅子から腰を浮かせた。
 男は顔を上げた。的を貫く矢のような強い視線。意志の強さを誇示するような三白眼だった。男は、細い眉をしかめたまま、大統領を睨み付けるようにして、朗々とした声で答えた。
「軍の二勢力の対立を愁う。
 我々は、赤月派元帥を殺害した容疑者・シルバーバーグ少佐を拉致している。
 取引したい。少佐の身柄を引き渡す代わりに、100万ポッチいただきたい」
「な、なんだと!」
 その大胆不敵な申し出に、大統領は今度は本当に立ち上がった。
「妹のロザリーも保護している。二人一緒に100万だ。高い買い物ではないだろう?」
 男は大統領と同等の口を叩き、ぶ厚い下唇を歪ませて不敵に笑ってみせた。

「で、大統領の御前で10万ポッチを要求するワケです」
 ビクトールの部屋のミーティング。フィッチャーのシナリオに他の二人も顔を付き合わす。
「10万って・・・わたしが言うのも何だが、少なくないか???」
 ジャンヌは憮然として言った。
「えっ。そ、そうですか。でも、10万ポッチ。大金ですよ。景徳鎮の壺が12万ですから」
「わたしは壺以下か?」
「い、いえ、そんな」
 世にも恐ろしい突っ込みにオロオロするフィッチャーだった。
 ビクトールが一言。
「100万」
 フィッチャーはのけぞった。
「ひ、ひゃくまんポッチですかぁ」
「半端な金額よりいいだろう?」
「おいら、怖くて、発音できませんよぉぉぉ。吃っちゃいそうです」
「あんまり安いと、レパントが『わかった』とか言って払ったらどうするんだ。自分の練った計画なのに、台無しだろ。
 ほんとにもう、貧乏性なんだから」
「悪かったですねっ」

「少佐は、単なる殺人容疑でなく、反逆罪の容疑も受けている。ご存じかな?」
「少佐を無償で渡さぬと、わたしも反逆罪に問われると言いたいか、大統領どの? 大統領たるもの、値切りなさるか」
 脇を固める大臣・官僚達もあっけに取られた。たかが誘拐団の首領。だが、態度だけは大統領と対等に渡り合っていた。
「無礼な。
 この者を引っ捕らえろ!」
 数名の警備兵が男の回りを取り囲み、一人が男の腕を後ろ手に取った。二本の棍が男の前で交差し、退路を断つ。だが、男は全く暴れず、抵抗をしなかった。
 警備兵に腕を掴まれた時に、後方で整列していたパーンにも顔が見えた。
『あの、宝石商・・・。ええと、フィリップ・ブレシ!』
 うさん臭い男だと思ったら、やはり!
「容疑者の情報は、軍警察に報告する義務がある。知っていて報告しなければ、罪に問われるのだぞ」
「猶予は五日間」
 大統領の忠告に怯えもせずに、男は前を見たまま挑戦的に言い放った。
「五日たっても閣下からよい返事が無い場合は、わたしの仲間が少佐を他国へ亡命させる。
 少佐ほどの将校ならば、他国の軍隊も垂涎ものの情報もたくさんお持ちかと思うが」
「・・・。牢に放り込んでおけ! 思想犯の独房に」
 男は、両腕を警備兵に取られて、引きずられるように連れて行かれた。参列者達のざわめきは消えない。驚嘆の声や憶測の雑談が飛び交い、ますます騒がしくなっていた。
「静まれ!・・・次の陳情者を呼べ」
 レパントは冷徹に命令した。

 陳情者達の謁見が終了し、大統領は部屋に引き上げた。
 パーンは足早に廊下を急ぎ、大統領室のあるフロアへと出た。
 一瞬、踏み出す足が停まった。
 例のことを告げれば、知らなかったとは言え、利用されたクレオも罪に問われるかもしれない。もちろん、最初の時に気づかずに取り逃がした自分も、処分を受けるだろう。
 だが、パーンは再び急ぎ足で歩を踏み出した。パーンの律儀な正義感の方が勝った。両端の警備兵に「入るぞ」と念を押し、ドアを開けた。
「レパント殿にお目通りを。さっきの誘拐団のことで!」
 秘書に性急に用件を告げた。秘書は書類から目を離すこともなく、「どうぞ。中にいらっしゃいますよ」とペンで扉を差して答えた。


< 27 >

 その晩の、グレッグミンスターの飲み屋の話題は、誘拐団が独占した。この事件のことは、軍警察の警護兵達ばかりでなく、いつの間にか下級兵士や、商人や侍女や宿屋の従業員、一般人にまで広まっていた。
 将校や官僚が集う高級パブも、人々の好奇心について言えば、安酒場と同じだった。
 カウンターの隅の席では、コスタとヴェエリがこそこそとブランデーを前に今日の事件のことで額を付き合わせていた。
「どう思うか?」
「・・・。」
 コスタの問いにヴィエリは無言だった。
「軍の取り調べは優秀と聞く。きっと、犯人に少佐とロザリー殿の居場所を吐かせることができるさ」
「もちろん、戻って来て欲しいですが。その前に、そんな恐ろしい集団に誘拐され、ロザリー殿が怖い思いをしていないかが心配です」
「若い娘が誘拐されたんだ。婚約者の君も、相応の覚悟をしておいた方がいい。妊娠だけはしていないといいがな」
「やめてくださいっ、そんな!」
 ヴィエリは整った美しい眉をしかめ、コスタを睨んだ。だが、優しい顔だちのせいか、怒りを表現するにはあまり効果がなかった。
「あなたを手伝うんじゃなかった。あなたの思想には賛同したけれど。元帥が武器の横流しをしているなんて、確かにわたしも許せないと思う。
 しかし、義姉になる人に殺人の疑いがかかるなんて、思ってもみなかった。ロザリー殿までそのせいで誘拐されて・・・」
「それは、おれのせいではないだろう。気の毒だとは思うが・・・。
 それより、誘拐団の方が気がかりだ。少佐が無実だと知っていてやっているのか、違うのか」
「彼らは営利目的のようです。そんなことはどちらでも構わないのだと思いますが。
 5日のうちに、逮捕者から供述を取るか100万ポッチ払うかしなければ、ロザリー殿とはもう一生会えないかもしれないです。気分が沈んでいますので、わたしはこれで失礼します」
 ヴィエリは先に席を立った。
「ここはおれが払っておくよ。元気だせよ」
「ありがとうございます」
 力なく返事して、ヴィエリは帰って行った。
『ちっ。弱気になりやがって』と、コスタが悪態をついた。
「なにが婚約者だ。家同志で決めた結婚だろうが。愛しているわけでもあるまいに」

 ヴィエリが帰宅すると、執事から差出人の無い書簡を渡された。今日の夕方に届いたという。
 ペーパーナイフで封を切る。
 手書きではなく、書籍か何かの文字を切り貼りして作った手紙だった。
『あと4日。政府が応じない場合、妹は処分する。他国は、少佐のことは欲しがっているが、妹はそうではない。
 妹殿の身柄は、20万ポッチで御婚約者殿にお返しする意志がある。明後日夜七時、マリーのレストランの一番奥、テーブルに薔薇が置かれた席へ来たれり。金は現金に限る。天誅平和団』
 ヴィエリはテーブルに手紙をポイと投げ、軽いため息をついた。

 パトリック・デュモンこと、フィッチャーは、取り調べが終わって独房に戻された。一日目は無事に終わった。ゴワゴワの囚人服の上下は、肌が擦れるので軽い痛みがあった。特に暴力を振るわれる場面などは無かったが、空腹で腹が鳴っていた。渇きで喉もヒリヒリした。
 夕食が出されなかったわけではない。その時間になると取り調べは中断し、机の上に食事のトレイが置かれた。しかしそれは、取調官の片手によって、床の上に落とされた。
「被疑者が暴れて、食事を落とした。掃除の者を頼む」
 彼はそう言った。床の上に散らばったスクランブルド・エッグ。空のアルマイトの皿が、いつまでもカタカタと床の上で踊っていた。
 たぶん明日も、明後日も。そういうことが続くのだろうと思わせた。だが、空腹ぐらいなら怖くはなかった。ひたすら黙秘を続けるフィッチャーは、さほど喉も乾かなかった。かえって、取調官の方が、たくさんの飲み水を必要としていたようだ。
だが、何日目あたりから拷問が始まるのか、自分がそれにどれくらい耐えられるのか。フィッチャーの緊張感は消えない。
 独房は、石のブロックで四方を囲まれた部屋だった。扉は鉄で出来ているようだ。小さな窓が付いているが、守衛側からしか開かない。
明かりは、はるか高みに丸く小さく空けてある穴、窓とはとても呼べないものから差し込んでいる月光だけである。灰色の壁と灰色の囚人服が保護色のように溶け合って、守衛には手足と顔しか見えないんじゃないかと思われた。
 備え付けの、堅い板だけ張られたベッド、いつ洗ったのかわからない毛布、白くてテカテカ光る便器。そして静寂。
 この部屋にあるのはその四つだけだった。

 それでも、一人になって緊張が溶けると、フィッチャーは板のベッドでうとうと始めた。
 ポトリ。
 鉄の扉の窓が開き、何かが落とされた。フィッチャーは片目でそれを確認した。月明かりで、てらてらと光る長く細い・・・。
 フィッチャーは飛び起きた。
 毒蛇は、入り口近くでとぐろを巻いたまま、特に動こうとはしなかった。だが、いつこちらに向かって牙を向くかわからなかった。
 独房に、もちろん武器になるものは無い。
 毒蛇を素手で掴んで便器に流すか、睨み合って朝まで過ごすか。
 守衛が声をかけた。
「喋りたくなったら、いつでも言いな。すぐにドアを開けてやるぜ」
 蛇は、時々首をもたげたり、くるりと向きを変えたりした。細いロープくらいの蛇だ。鼠や鳥の卵ぐらいの大きさの物を餌にしているだろう。空腹だとしても、フィッチャーでは餌には大きすぎて、襲っては来ないと思われた。いや、襲って来ないことを祈りたい。こちらから攻撃をしかけない限り、毒牙で噛みつくこともないはずだ。
 フィッチャーは、いきなり飛びつかれた時の為に、毛布を手でピンと張って楯のように持ち、蛇と向かい合った。
 天井近くの窓からの月明かりが、時間の経過で少しずつ動いていく。だが蛇は殆ど動かない。濡れたような背を銀色に光らせ、体をもつれさせていた。
 空が微かに白み、時を告げる鳥が鳴いた時、一度だけとぐろをするりと解いて、声の方へぬるぬると移動して行った。ベッドの高みで息を詰めて見守るフィッチャーを無視して、窓のある壁に近づく。だが、餌になる鶏も卵も無いと気づいたのか、またそこで丸くなり、動かなくなった。
 結局、蛇とのにらめっこで一睡もせずに夜が明けた。
 朝になると、守衛が網を肩にしょって鉄の扉を開けた。蛇は網にからめ捕られ、去った。だが、蛇のような目をした守衛が、にやにやと笑って、フィッチャーを外へ連れ出した。二日目の取り調べが始まる。

 

 

<7>へ続く ★