さらば 愛しの熊オトコ

<1>

 それは、田舎の小さな村から始まる。
 
 ☆ ☆ ☆
 
「これは何?」
 男が、くすり屋のガラスケースに並ぶ黒い壜のひとつを指さした。中身なんてどうでもよさそうだ。店員の黒髪の少女の反応をちらちらとうかがっている。
「はい、カズラー蛙を焼いて煎じたものです」
 妹のロザリーは、接客業の鑑のように、屈託の無い笑顔を返した。
『そんな下司な野郎に、笑いかける必要などないぞ』
 店の前、腕を組んで立ち止まったジャンヌは、窓から中の様子を観察していた。そして片方だけ眉を上げた。
 あのでかい男。これで三回目のご来店じゃないか。
 となり村の代理戦争屋の建物を『ビクトールの砦』と名づけて、隊長を気取っている男だ。
 鍛えた体を誇示するように素肌になめし皮のベストだけを羽織り、腰に大きな両手剣を携えている。陽を反射する灰色の髪はばさばさで、手入れもされずに背中に邪魔そうにかかる。目つきは鋭く、薄い唇は一文字に結ばれていた。
『熊オトコのビクトール』。
 やはりロザリーに目をつけたのだ。
 
「こ、こっちのやつは?」
 ビクトールは上目使いで少女を見ながら、別の壜をさした。
 掌にじっとりと汗をかいていた。目的は買い物でなく、少女の方だった。だが、ビクトールはこういうことには不器用で、たぶん野菜の皮を剥いて花の形にする方が楽なんじゃないかと思った。もちろん野菜の皮剥きなんてしたこともないのだが。
「アイフラワーの果実を乾燥させて擦りおろしたものです。どちらも、精力剤としては効果てきめんですよ」
 ビクトールは目をひんむいて三歩退いた。清純そうなこの子の口からそんな言葉が飛び出ようとは…。
 色白でほっそりとした顔に、りんごのような赤い唇がくっついている。まっすぐで長い髪は腰のあたりまであった。髪と瞳が黒である以外は、解放軍のリーダーだった故オデッサに生き写しだ。
 五年前、自分たちの旗が国王の城になびくのを見ることなく死んだ、強くて潔かったオデッサ・シルバーバーグ。親友のフリックの恋人だった美しい娘に、この少女は瓜二つなのだ。
 先月この村に偶然立ち寄ったビクトールはあまりのそっくりさにあぜんとした。そして、今もオデッサを想い続ける副隊長に、いい形でこの子の存在を知らせたいと思ったのだ。
 彼氏がいるのか、性格はいいのか、どんな男が好みなのか、家族構成は…? 
 しかし、照れ屋のビクトールの捜査はなかなか進展しない。
「今帰った」
 店の入り口から、女が入ってきた。拳法着を身につけた長身で筋肉質の女で、黒髪は短く刈り込まれていた。声を聞かなければ男だと思ったろう。
「ねえさんったら、店の出入り口を使わないでよ。しかも、そんな泥のついた練習着で!」
「ああ、ロザリー、すまん」
『ロザリーというのか』
 ビクトールは三回通ってやっと彼女の名前を知った。このペースでは、フリックと会わせる頃には全員老人になっているかも。
 その時、背中にきりりと刺すような痛みを感じた。殺気だ。ビクトールは用心しながら振り返った。
 姉の方がビクトールを見据えていた。ついビクトールも強い視線で返したが、彼女の顔の傷に気づいてひるんだ。頬にはかなり目立つ刀傷がくっきりと刻みこまれていた。古い傷だ。
 しかし、そんな傷を負わせられたことがあるなど信じられぬほど、立ち姿を見ただけで十分な訓練を積んだ戦士であることはわかった。どこへ斬りつけても、ひょいと軽々よけてしまうだろう。隙がまったくなかった。
「となり村の砦の傭兵だね。そんなクスリを調達して、女でも買いにいくのかい?」
 口調にはからかいが含まれていたが、敵意の毒針が千本もありそうな視線だった。
「ジャンヌねえさん、言葉が過ぎるわよ。ごめんなさい、兵隊さん。どうぞ、うちで山ほど精力剤を購入して、女で何でもビシバシ買ってくださいな」
 ロザリーはにっこり笑って煎じたタルブ蛇入りの壜を差し出した。
「い、いや、傷薬だけくれ」
 ビクトールは早々に店を逃げ出した。
 
 その後ビクトールは、村の酒場でジャンヌについて情報を収拾した。美女についてあれこれ訊ねるのは恥ずかしいが、格闘家のことを聞いて回るのは平気なのだ。戦力になるなら自分の部隊に勧誘しようと思っていた。
 シャンビア・ジョッキを交わす村人たちは、気さくで陽気だった。ビクトールはもともと、人に警戒心を起こさせるタイプでないらしい。ジャンヌの噂も簡単に手に入った。
 ジャンヌは、この村の拳法道場のココヤマ師範の一番弟子で、別名『熊殺しのジャンヌ』と呼ばれる使い手だそうだ。今では師範より強いと言われている。
 五年前の国王軍と解放軍の内戦の頃、まだ十二、三歳の姉妹だけでこの村に流れてきた。
 今は、妹のロザリーはココヤマ夫人のくすり屋で店員として働き、姉は道場で子供を教えている。
 そして驚くべきことに、ロザリーとジャンヌは双子。一卵性双生児だという。
「ふたごーっ? あの美少女と、あのアマゾネスが?」
 間の悪いことに、ビクトールが叫んだ瞬間に、ジャンヌが酒場のドアを開けた。
「おにいさん、何をかぎまわっているのさ、あたしらのこと」
「相当の腕と見た。うちの砦にスカウトすべきか下調べをね」
 ビクトールは正直に答えた。交渉や駆け引きのできない男だった。
「あたしのスカウトにしちゃ、妹のまわりをうろついてたみたいだけどねえ?」
「う…、そ、それは」
 ビクトールは赤くなって黙ってしまった。親友の恋人候補だなんて、この女戦士に照れ臭くて言えるわけがない。
 ジャンヌはその態度を見て、誤解したらしい。
「解放軍で活躍した『熊オトコ・ビクトール』のだんな。ロザリーは、あたしの大切なたった一人の妹だ。そう簡単にちょっかい出させやしないよ。彼女について何か訊ねたいなら、こいつで勝負しないか?」
 ジャンヌはビクトールが握ったシャンビアのジョッキを奪い取った。
「シャンビア・ジョッキの早飲み勝負だ。ジョッキ一つ飲み干すごとに、勝った方の質問を負けた方が答える。嘘はいけない。正直に答えなくてはいけない。どうだ?」
「…いいだろう」
 名乗ったわけでもない自分の名前を、この女は知っていた。なぜだ?
 ビクトールは嫌な予感がした。
 おまけに自分は解放軍時代から、『熊オトコ』と陰口叩かれている身だ。『熊殺し』のこの女とも、相性が悪いに決まっている。
 
「で、勝負って。このハンデは何だよーっ!」
 ビクトールの目の前には大ジョッキ。ジャンヌには小ジョッキが置かれた。
「体重の比率で酒の量を決めてもらった。ちなみにマスターに審判を頼んだが。文句あるか?」
 「い、いや」
 ジャンヌには、反論を許さない・・・人を寄せつけない雰囲気があった。
「レディ、ゴー!」
 ビクトールが七割も飲まないうちに、ジャンヌは空のジョッキをテーブルに置いていた。
「くそお」
「いいな。正直に答えろよ。なぜ妹の周りをうろつく?」
 粗野に見えるが妹思いなのかもしれない。ビクトールは恥ずかしさで頭をかきながら、「親友の死んだ恋人にそっくりだったんだ」と小声で告白した。
「いい子だったら、奴に紹介しようと思って…」
「ふうん。オデッサは『青雷のフリック』の恋人だったのか」
「なぜおまえは、我々の名前を知っている? そんなにも詳しく」
「質問は勝負に勝ったらだ。さ、二杯目いくぞ」
 そしてビクトールはまた勝てなかった。ジャンヌは意地悪く笑った。
「だんなの故郷の町は、吸血鬼に襲われ、一晩で滅びたと聞いた。街の住人は誰一人助からなかったという。なぜおまえだけ生き残っている?」
「おめおめと、か?」ビクトールはそう言って軽く笑った。
「オレはその時まだ十五で、隣の市へと用事で出かけていた。知らせを聞いて町に駆けつけると、もうすべの人間が死骸になっていた」
 ジャンヌは驚きを覚えた。
 この男にとって、つらい過去だろうに、いともあっさりと昇華している。男の笑いには皮肉も自虐も感じられない。緑がかった灰色の瞳には、これを尋ねたジャンヌへの怒りさえも感じられなかった。ただ運命を受け入れ、淡々としていた。
 わざと、つらい過去を語らせるために訊ねた。思い出させて、悲しませるつもりだった。
 とことん嫌がらせをして、ロザリーの回りをうろついたことを後悔させてやろうと思っていたのだ。だが、拍子抜けだった。
 三杯目の勝負もジャンヌが勝った。口許に残ったシャンビアの白い泡を手の甲でぬぐって、すかさず尋ねた。
「オデッサに惚れていたのじゃないのか?」
 ビクトールは肩をすくめる。
「愚問だね。解放軍の野郎どもで、彼女に惚れていなかった男なんているもんか。強くて潔くて優しくて、おまけに別嬪。どんなに不利な攻防でも、オデッサに『必ず生きて帰ってね』と言われれば、勇気がわいたものさ。そういう女だった」
 フリックとの三角関係のことをつついてやろうと思っていたジャンヌは、はぐらかされたような気がした。だが、たぶん今のがビクトールの嘘のない気持ちなのだろう。咄嗟にごまかしを言える男ではないように見えた。
 バカ正直、というのとも違う。過去を切り捨てて無いものとしているという印象でもなかった。たくさんのものを背中に軽々としょって、よろめきもしない。
 しかも、初対面のジャンヌに対して嘘やごまかしで乗り切ろうともしていない。こっちが悪意を持って接しているのは気づいているだろうに。
 奴に対する印象が変わりそうなのが怖くて、ジャンヌはジョッキの把手をきつく握り直した。
 そして四杯目。さすがにジャンヌもきつかったが、負けるわけにはいかない。解放軍だったやつに、オデッサの信奉者だったやつに、負けるものか。もっとつらい思い出をたくさん喋らせてやるんだ。
 それに、こいつに問われたくないことも多かった。
「四連敗だな、ビクトール。おまえの砦は、トラン側の国境に立ちながら、ルルノイエから資金が出ていると聞くが?」
 この質問にはさすがのビクトールも目を見開いた。一瞬絶句したが、苦笑して肩をすくめた。
「イエス…とだけ言っておく。確かに資金は一部出ている。だが、それが全予算のどの程度の割合かは、オレは知らない。
 しかし、そんなことまでよく知っているなあ」
「ルルノイエのスパイじゃないのか」
「質問はひとつまでって約束だろ? 答えが知りたきゃ、もう一杯勝つか、オレの砦に入隊して、一緒に闘って自分の目で確かめるんだな」
「ふん。あたしを勧誘しているつもりか。
 五杯目も勝ってみせるよ。あたしは格闘も酒も人に負けたことなんてない」
 だが、四杯目で苦しさを感じていたジャンヌは、ついに五杯目で負けを喫してしまった。
 負けることなんて、考えてもいなかった。
 ジャンヌは身構えた。自分は散々意地悪な質問をした。何を聞かれるのだろう。顔の傷のことか、村に流れてくる以前のことか、生い立ちのことか。
 だが、ビクトールの問いは違った。
「海は好きか?」
「え?」
「海は好きかと聞いたんだ。正直に答えろよ」
「あ、いや。好きも嫌いも、見たことがないから」
 ジャンヌはとまどった。こいつは、ジャンヌの聞かれたくないことをわざと外してくれたのだろうか。
「そうかあ。俺の故郷は港町だった。大きな船、小さな船、怪しい船。いろんな人生が行き交っていた。ガキの頃は海賊になるのが夢だった。…町が滅びなければ、今頃は海賊の頭領かもな」
「今だって山賊みたいなもんだろ、傭兵の隊長だなんて」
 刺のあるジャンヌの言葉に、ビクトールは「違いない、あははは」と明るく笑ってのけた。
 こんな男がいるのか、世の中には。呆れたような、泣きたいような気分になった。ジャンヌは思い切って訊ねてみた。
「今入隊すると、ほんとにあんたの部隊に入れるかい?」
「え?」
 今度はビクトールが聞き返す番だった。
「あんたの下で闘ってみたくなった。雇ってくれるかい?」
「…おう、もちろんさ!」
 ビクトールは、満面の笑顔で身を乗り出して来た。なぜこいつはこんな風に、すぐに人を受け入れることができるんだろう。
「砦には、面白い奴等がたくさんいる。狼男も魔法使いもウイングホードもトカゲ男もいるぜ。国の正式な軍隊に入れないが、強くて気のいい奴ばかりだ」
 ビクトールは両手を広げて陽気に言った。
 彼が仲間を大好きなのが伝わってきた。広げた手の内側に、彼が愛する仲間達を抱いているようにさえ見えた。
 ジャンヌは、その腕の内側に混ざることへの憧れを覚えた。そいつらが羨ましいような切ないような気分。
 素肌に革のベストをはおっただけのビクトールの両腕はむきだしで、広げた腕の筋肉の大きな山が露になっていた。だがそれは、強靱さや豪胆さよりもむしろ、包容力と暖かさを感じさせた。
「ほんとに入隊してくれるのか」
「ああ。面白そうだからな」
 はぐれ者ばかりの傭兵の集団。自分にぴったりじゃないか。
 ビクトールはびしっとジャンヌの掌を叩いて笑った。
「よおおしっ! ジャンヌの入隊祝いだっ。 飲もうぜ!」
 
 そのあとは勝敗抜きで飲み続け、ジャンヌはつぶれた。安心しきって心を許して人と酒を飲むのは初めてだったのだ。意識はあるが足が立たなかった。
「熊殺しが『熊オトコ』につぶされるとは、無念」
「まだ悪態ついてる余裕があるな。妹が心配してるぞ、送るから背中に乗れ」
「人に頼るのは不本意だ。あたしは頼らず生きてきた。一人で歩いて帰る」
「部下を安全に保護するのも隊長の役目でね。命令だ、おぶされ」
「……。」
 今度は素直に背中に乗った。自分は大柄な女だと思っていたが、ビクトールの背中は広かった。彼は大ジョッキで飲んでいたのだが、ジャンヌを背負って立ち上がっても、よろけもしなかった。
 
 店を出ると、いきなり数人に囲まれた。
「なんだ、おまえら」
 背中のジャンヌに、ビクトールの声が振動とともに響いた。ジャンヌには見覚えのある野郎どもだった。
「街のチンピラだよ。ロザリーにちょっかい出そうとしたので、のしたことがある」
「のした、だとーっ? 用事があるから途中で帰っただけだろうっっっ!」
 派手な柄シャツの裾をだらしなく出した男が、怒りにまかせてナイフを抜いた。
「おめえ、どこの誰だか知らねえが、その女を下に降ろせ。おめえには関係ない。恨みがあるのは女にだけだ」
「いいぞ、ビクトール、降ろしてくれ。こんな奴ら五、六人くらい、何でもない」
 無関係なビクトールを巻き込むわけにはいかなかった。
 それにしても卑怯な奴らだ。酒場でジャンヌが潰れたことを聞いて、嬉々として駆けつけて来たのだろう。
「やだね」
「ビクトール!」
「背中にいい女を背負える、せっかくの機会なんでね。それに、こいつら、気にくわない。女一人に、大勢で」
「女扱いするなっ」
「足腰が立たないくせに、威勢だけはいいんだからなあ」
 ビクトールはため息まじりに剣を腰から引き抜いた。鞘に納めたまま、右手で握った。左手は背負ったジャンヌの腰を支えていた。
「剣を抜くほどの相手じゃないだろう。血を流す価値も無い」
 鞘を取る気はないらしい。剣は両手握りの剣だった。ビクトールは今それを片手で握っている。右手に力が入ったのがわかる、筋肉の山がぐぐっと隆起した。手首を被う革の指無しグローブにも、手の甲のすじが盛り上がったのが見て取れた。片腕で振り回すには重すぎるはずだ。鞘の分重みも増しているし、木刀代わりに使うつもりなら、剣として使うよりずっと腕力がいる。
「無理だ。あたしを降ろせ」
「気にするな。蚤がたかっている程度の重さだから」
「の、蚤だとぉ! もっとマシな表現はできないのかあっ」
 片肌を脱いでいる男が、いきなり剣を抜いて襲いかかった。ビクトールは肩を動かしただけで奴をよけると、首の後ろにひじ鉄をくらわして一瞬で倒した。男は地面にはいつくばって気絶していた。
 強い。
「女扱いされたくないくせに、『蚤』では不服か。アゲハ蝶が止まっているとでも言えばいいのか?」
「……。」
 奴らがナイフやら鉄の棒やらを振り回して次々に飛びかかってきたが、ビクトールの相手ではなかった。『アゲハ』を背負った彼は、なるべく最小限の動きで彼らを交わし、瞬時で大きなダメージを与えた。
 剣を振り回すことはなるべく避けた。握りの反対側で、リーダーらしい派手なシャツの男の腹を打つと、もう襲って来る者はいなかった。腕をおさえて道にしゃがんだ奴がいるかと思うと、店の軒下には脛を抱えて寝ころがる奴がいた。相手は全滅だった。
「引け!」
「また用事を思い出したってわけか」
 ビクトールの冷笑を浴びながら、チンピラ達はかき消えた。集うのも早いが逃げていくのも早い奴らだ。
「すまない。借りができたな」
「気分は悪くないか。そう激しく動いたつもりはないが」
 大丈夫、と言おうとしたが、こいつには無理して繕う必要がないのだと思い直した。
「少し、目が回った」
「ゆっくり行こうか」
「ああ、頼む」
 おかしい。酔がまわっているからだろうか、ビクトールの肩においた手も、背中につけた頬も、燃えるように熱い。
 ビクトールは喧嘩の後でも息さえ切れていなかった。隊長を張るだけある男だ。
 夜道に闇に香るコパミンティの葉と、冷たい風が心地よかった。風に混じったビクトールの汗の匂いは、決して嫌ではなかった。ビクトールのざんばらの髪がジャンヌの鼻をなでた。
 船はこんな風に心地よく揺れるのだろうか。
 ジャンヌはビクトールの背で、まだ見ぬ海に乗り出す夢を見ていた。

 

<2>へ続く ★