さらば 愛しの熊オトコ

<2>

☆ ☆ ☆

 ジャンヌは、粗末な木の塀と、それにそぐわない立派な高さの展望台を見上げた。それ以外は田舎の木造校舎といった風情の建物だ。
『ビクトールの砦』。
 近郊の村や街ではそう呼ばれている。
 
 国境のいざこざや化け物騒ぎ、盗賊の横行。トラン国の軍隊が遠征するまでもない闘いを、一手に引き受ける『代理戦争屋』だった。
 重税と身分制度に縛られた国王制が崩れて五年。対立していた大臣たちと彼らが率いた軍、そして市民の解放軍の力で勝ち取った自由だったが、たった五年では、制度も完全ではないし、軍備も隅々まで行き渡っているとは言えなかった。
 現大統領と肩を並べて闘った、解放軍のリーダー、『女神』とまで言われたオデッサ・シルバーバーク。その両脇を固めた『青雷のフリック』と『熊オトコ・ビクトール』。この砦は、ビクトールとフリックが、密かに大統領の要請で営んでいるといわれる、傭兵たちのたまり場だった。
 優秀な戦士は国の軍に引き抜かれることもあると聞いている。ジャンヌは今日からここの一員となる。
 
「おーう、来たな!」
 ジャンヌを見つけて、門のところまで隊長のビクトール自ら駆け寄って来た。あんな巨体でどうしてあんなに速く走れるのだろう。ジャンヌは不思議だった。でもそれよりも、人なつっこい笑顔に、ついつられて微笑みそうになる。
『クマ』などとあだ名されるこいつは、決して洗練されたすらりとした男ではないのだが、まっすぐに素直で、暖かく包容力があり、生まれて初めてジャンヌが密かに惚れた男だったのだ。
「女のくせに少ない荷物だな」
 拳法着の着替えなどしか入っていない鞄を、ひったくるようにして持ってくれた。紳士的なのか乱暴なのかよくわからない。
「そうかな。みんなは何を持って来ているのやら」
「そりゃあ、パーティー用のドレスやら化粧品一式やらうさぎのぬいぐるみやら」
「それでも強いんだから、たいしたもんだ。あたしにはそういう余裕はないもの」
 ビクトールは、「良く言うよ、『熊殺しのジャンヌ』と呼ばれる豪傑のくせに」と笑った。
 そうじゃないんだ。女として外見に気を配る心の余裕がないんだ。ジャンヌは自分でそれを知っていた。
 パーティードレスを山と持参しようと、ここに集う女兵士が弱いはずはない。腕っぷしひとつを売り物にして、傭兵として稼いで生きている者たちだ。だが、普段は構えずに自然に呼吸しているのだろう。女らしい優しさや艶を失わずに、肩肘張らずに生活しているに違いない。
 例えば化粧をしたからといって、自分が美しくなれるなどとジャンヌは思えなかった。甘い匂いの白粉が、何針も縫った醜い傷を隠してくれるわけでもないのをよく知っていた。
 そしてこの傷は、醜さの象徴としてだけでなく、愛する者に疎まれた証として、ジャンヌの心にもっと大きな傷跡を残していた。
「着いて早々で悪いが、グループ分けの為に戦力テストをしたいんだ。いいか?」
 ふわりと荷物を肩にかついで、ビクトールが許可を求めてきた。
「いやだと言ってもやるんだろう?」
 にやりと笑ったジャンヌに、ビクトールも「まあな」と笑みを返した。
 
『テスト』と呼ぶには派手すぎた。ビクトールは「女性の入隊者は注目度が高くてな」と頭をかいていたが、これではまるで格闘技大会だ。
 コの字型の木造宿舎に囲まれた中庭。その中央の芝が小高くなった場所にジャンヌは立った。そのまわりを、ぐるりと観衆(隊員達だか)がとりまいて、腕を挙げ、歓声を上げて勝負を待っている。宿舎の窓を開けて乗り出して見ている野郎もいた。
 砦に残っている者全員というわけではないだろうが、それでも五、六十人は見物に来ている。砦は娯楽が少ないので、血の気の多い連中は退屈しきっているのだろう。
「えーと、拳法ってことで相手はロン師範を予定していたんだが」
 彼は、ジャンヌが歩いている姿をちらと見かけただけで『腰痛』で寝込んでしまった。確かにジャンヌには全く隙がない。かなりの使い手であることは、立ち姿だけでわかる。
「で、師範の一番弟子のワカバ君がお手合わせすることになった」
 ピンクのビクトールぽう着も可愛らしい、まだ十七歳位の少女だ。舎屋の木目を背後にして後屈立ちの構えで拳を握りながらも、すでに恐怖から微かに体を震わせていた。ジャンヌも十八なので歳はそう変わらないのだが、まるで子猫を追い詰めて苛めているようなイヤな気分だった。
「い、いきますっ!」
 しかし真面目に正面から闘おうというところが立派である。
「とうーーーーーーーっ!」
 二百%のパワーで突進してきた。横蹴り上げのポーズでジャンプしたが、ジャンヌがひょいとよけると、ワカバはそのまま芝生に顔をのめり込ませた。
 ビクトールに「大丈夫か?」と引っ張り上げられた時は、泣きそうな顔をしていた。
「鼻の頭、擦りむいているぞ。可愛コちゃんが台無しだな」
「面目無いですっ」
「仕方ない、オレが相手をしようか」
と、ビクトールが腰の剣に手を触れた時、
「今日はフリックはいないのか。『青雷のフリック』と手合わせしたい」
と、ジャンヌは相手を指定した。
 フリックだとー。くそ、オレが相手をしてみたかったのに。
『くくっ、まあそう腐るな。どんな女でも、おぬしより、美形のあいつを相手にする方が楽しいに決まっとる』
 星辰剣が頭の中にそう話しかけてきた。むかつく剣だ。
『おぬしの方では、かなりジャンヌという娘を気にしているようだがな』
「…ふんっ」
 ビクトールの女の好みはわかりやすい。強くて潔くて正しい女が好きだ。ただしいつも何も言えずに終わる。失恋、というにはあまりに痛ましい終わり方だった。気持ちを告げる前にどの女も死んでしまった。
 吸血鬼ネクロードに全滅させられた故郷の、幼なじみのデイジー。解放軍リーダーのオデッサ・シルバーバーグはフリックの恋人だった。想いを片鱗も表に出すことは許されなかった。彼女も闘いのさなかに、小さな子供をかばって死んだ。先の戦争で暗殺されたルルノイエのミューズ市長アナベル。地位に差がありすぎて好きだなんて言えるはずがなかった。
「フリックは部屋にいるだろう。チャコ、呼んで来てくれ」
 ウィングホードのチャコは、ビクトールの頼みを聞いて羽を羽ばたかせて舎屋の方へ飛んで行った。
 いいんだ。自分はもう女は。好きになる女はみんな死んでしまう。だからもう恋はしない、ビクトールはそう決めていた。
 ただ、ジャンヌが気になるのは、『女』としてばかりではない。人を寄せつけない厳しいあの瞳が、逆に誰かのぬくもりを求めて泣きぬれているように見えたからだ。
 フリックにはロザリーを紹介しようと思っていたが、双子なんだしジャンヌでもいいかもしれない。
 ジャンヌが奴を気に入ってるんなら。
 
  
『ビクトールさんの砦は、ここでいいのよねえ?』
 砦の門を、黒髪の清楚な美少女が訪れていた。
 受付の者までもが庭の格闘技大会を見学に行ってしまい、そこには誰もいなかった。
 ロザリーは躊躇せずに中に入った。ロザリーの興味は、姉の新しい生活場所を覗き見することにあった。
 中庭に人だかり。何だろう。大きくて汗くさそうな男たちが輪になって騒いでいる。
「ちょっとごめんなさい」
 ためらいもなく割って入ると、素手の姉と長剣を手にした男が向かい合って睨みあっている場面に出た。
 栗色の髪を背中で結んだ色白の青年は、姿勢のよい立ち姿で紺のマントをなびかせ、整った顔の横に剣を立てて握った。冷たい青い瞳だけが、姉の弱点を探ろうと細かく動いているように見えた。
「やめてーっ!」
 ロザリーは両手を広げて二人の間に立ちはだかった。
「おねえちゃん、入ってすぐ喧嘩なんてしないのっ! 少しは団体行動に慣れなさい!
 おにいさん、あなたもあなたよっ! 素手の相手になんで剣を使うの、卑怯だわっ!」
 ジャンヌは気まずそうに肩をすくめ、一番前で見ていたビクトールは顔をポリポリと掻いた。周りの観客達は目が点だった。
 ところがフリックだけはそうはいかない。剣を握る指が震えていた。
 この少女の、強い光を湛える大きな瞳、りりしい赤い唇。なつかしい、その顔。
「オデッサ! 生きていたのかーっ!」
 フリックはロザリーに抱きついた。
「きゃ」
「妹に何をするっ!」
 隙だらけのフリックは、ジャンヌの正拳突きを顎に食らって後ろへ倒れた。
「おおーっ。副隊長が一発で!」
 観客がどよめく。フリックは気絶しながら、うわ言で「生きているって信じてた…」などとまだ呟いていた。
 
「ご、ごめんなさい。姉のことだからまた喧嘩してると思って…」
 ロザリーは赤い唇からペロッと小さく舌を出した。
 砦の中の戦士の憩いの場、『レオナの酒場』で四人はテーブルを同じにしていた。足を置くと軋む木の床、ごつい石をごろんと置いたようなテーブル。傭兵達の集まる気兼ねのない店だ。
「わたしの方こそ、抱きついたりしてすまなかった。生きていたとしても、君がオデッサのわけがないんだ。十歳も歳が違う」
 フリックは濡れタオルで顎を冷しながら苦笑して答えた。
「解放軍リーダーだったオデッサさん?」
「わたしはオデッサの死に目に会っていない。まだどこかで『生きているかも』と思っているんだろうな。だから、君を見た時は動転した。申し訳なかった」
「……。」
 ロザリーは神妙に聞き入っている。
 
 ビクトールが、ジャンヌに目配せをして、ジョッキを握って立ち上がった。
「窓側の席があいた。オレたちはあっちでやってるぜ」
 しぶしぶジャンヌも立ち上がる。窓側の、森の景色が見える席に座り、「隊長は単純でいいな」とつぶやいた。
「そうかあ?」
「顔が似ているからって惚れるもんか?フリックはオデッサの容姿だけ好きだったわけじゃないだろう。ガキでもわかる簡単なことじゃないか」
『まったくこのお嬢さんのいうとおりじゃ、少しは勉強せい』
 二人しかいないはずなのに、年配の男の低い声がして、ジャンヌはきょろきょろとまわりを見回した。
「うるせい、くそじじい。似ていて気になるってことも確かにあるだろう。じじい、恋をしなくなって何百年だあ?」
『じじい、じじいと連呼するなっ!』
「……誰と話してるんだ?」
 ジャンヌの不思議そうな瞳に、ビクトールは腰の剣を指さした。
「じじい、自己紹介しろ」
『おぬしに催促されるまでもない。この勇敢で魅力的なお嬢さんと近づきになりたくてうずうずしとったところじゃ』
「口がうまいな」
『おぬしが口下手すぎるんじゃ。
 わしは星辰剣と申す。精神と頭脳を持った聖なる剣じゃ。の紋章を持つ者に継承されることになっとる由緒正しき剣である。今は、不本意ながら、このバカ熊に力を貸しておる』
「へええ、すごい剣なんですね。あたしはジャンヌです、どうぞよろしく」
「なにが『バカ熊』だよ。こんなじじい、無視してていいぜ」
『なにを言うか! わしの力あってこそ、ネクロードを退治できたのだろうが!』
「ああもう、うるせえ。あとで拾いに行ってやるからな」
 ビクトールは腰から鞘ごと剣を抜くと、窓を開けて下へ放り投げた。
『ばかもーん、なにをす……』
 声が遠くとぎれていく。
「い、いいのか、大切な剣を」
「うるさくてかなわん。あいつを携えている限り、オレのプライベートはないんだ。頭の中にまで介入してきやがる。
 あの剣はオレ以外には使えない。他人が触ろうとするとびりりと痺れて鞘も抜けないらしいからな。盗まれる心配はないのさ。
 さ、これで邪魔者はいなくなった、飲もうぜいっ」
「少しは付き合うが、あたしは妹を送って村まで帰らないと」
「そんなのフリックに任せればいい。喜んで送っていくに決まってる。あっちのテーブルは結構いいムードだと思わんか?」
 確かに美男美女の似合いの二人だが。ジャンヌはテーブル席を振り返って見た。
 別にいいムードだとは思えなかった。妹はジャンヌの保護者を気取っているから、世間のつきあいのつもりで接しているだろう。
「それとも、おまえは嫌か? オレが妹とフリックを仲良くさせようとするのは」
「別にあたしには関係のないことだ」
「フリックのこと、気にしていたんじゃないのか? やけに詳しかった。オデッサのことにしても、『青雷のフリック』という通り名のことにしても」
「解放軍の立役者じゃないか。名前だけなら他にも知っている。解放軍に関する本はずいぶん読んだんでね」
「勉強家なんだな」
 ふん、とジャンヌは鼻で笑った。
「オデッサに似ている為に街を追われた。『あんた達の顔のせいで』と母親に疎まれてナイフで顔を斬りつけられた。あたしはまだ十三歳だったよ。
 解放軍がどんな立派なことをやったかは知らない。だが、城下町のグレッグミンスターに住む者には、敵でしかなかったのさ。
 あたしらが、どんな奴らの為に苦しめられたのか、知っておきたかっただけだ。女神のオデッサさまが生きておいでになったら、この拳で鼻を潰してやらなきゃ気がすまなかったろうね」
「ジャンヌ…」
 
 フリックの顎の腫れはもう引き、二人は細いグラスで果実酒を飲んでいた。
「姉は強いだけでなく、優しくて責任感が強くて立派な女性です」
 ロザリーは微笑んだ。人付き合いの苦手な姉の為に、副隊長の印象を上げておいた方が得だろう。それでなくても姉は、ただのテストだというのに、大勢の隊員の前で彼に恥をかかせたのだ。適当にやっとけばいいのに、つくづく世渡りの下手な姉である。
「姉が母からかばってくれなければ、私の顔にも同じような傷があったでしょう。
 姉の拳法のおかげで、山で動物に襲われても無事だった。『熊殺し』だなんて、女性なのに迷惑な呼び名がついてしまいましたけど。
 道場に身を置くことができたのも、姉の力が評価されたから。私が生きていられるのは姉のおかげです。
 姉は村でも恐れられていて、友達もいなかった。ぶっきらぼうでとっつきにくいし、喧嘩は強いし。顔の傷のせいで、怖がられていました。私と養父母と、道場の子供以外には誰にも心を許さなかった。
 酔いつぶれてビクトールさんに背負われて帰って来た時は驚いたけど、翌朝あの人の砦に行くって言った時はもっと驚いた。でも姉にとっていいことだと思いました。
 姉をどうぞよろしくね」
 言われてフリックはあわてて立ち上がった。睫毛に溜まった涙をごまかすためだった。
「村まで送ろう。暗くなってきた」
 フリックは、涙腺が弱い。おかげで女々しいと言われることもある。
 美形だと誉められても剣士としては、別にうれしくない。みんなと同じに野営を張っても色白のままだから『やさおとこ』に見られることも多かった。世間の見る目など関係ないし、剣の腕には絶対の自信があったが、涙もろいのだけは見目が悪いと気にしていた。
 眼球の表面を覆う水分が人より多いに過ぎないのだ。フリックは自分にそう言い聞かせてきた。だがこういう時には恥ずかしい思いをする。
 
「酒場はそろそろお開きだ。部屋に案内するよ。年も近いし同じ格闘技なんで、ワカバと同室を考えてたんだが、いいかな」
 ビクトールはやっと席を立ち上がった。しこたま飲んだ後だが、ふらつきもしない。
「あたしは構わないよ。あっちがよければ。あんなテストのあとで、彼女が気にしてなきゃいいけど」
「大丈夫。明るくていいコだ」
「それは安心だ。あたしが暗くて悪いコでもうまくやっていけそうだ」
 ビクトールはジャンヌの額をコツンとゲンコツで叩いた。
「大丈夫だから。心配すんな」
 ジャンヌの不安を見透かすようにそう言って笑った。ジャンヌは赤くなった。
 まったく、こいつは、なんて男なんだろう。
「食堂は朝三刻からやっている。朝食は自由に取ってくれ。朝五刻から広間で打ち合わせだ。これが砦の案内図。けっこう広いから迷うなよ。…疲れたか?」
「いや、これしき」
「そうか、頼もしい。
 悪いことを聞いたな。過去の…。傷のことやら・・・」
 ビクトールはすまなそうに眉を上げた。熊というより、甘えた犬みたいな瞳になった。
 乱暴そうに見えるが、人には意外に繊細な思いやりを示す。
 ジャンヌは苦笑した。
「気にしてない。どってことない事だ。それに、隊長に知っておいてもらって、悪いことではないだろう」
「・・・。」
 ビクトールは大きな手でジャンヌの肩をポンと叩いた。暖かい手だった。
 
 ドアの内側では、灯は既に消えていた。窓から漏れる月明かりで、ベッドをさぐった。
 手前のベッドには寝息が聞こえた。ワカバはすでに寝入っているようだ。隣のベッドに倒れ込むようにして寝た。
 
 ビクトールが部屋で明日の会議用の資料を作っていると、フリックが帰ってきた。ここでは隊長も副隊長もみんなと扱いは同じ。寝室は二人部屋だった。
「玄関近くの芝で、星辰剣がわめいてたぞ」
「あ、忘れてた。まあ、明日でもいいか」
「明日から、オレは十日ほどここを離れていいか?」
 フリックは自分のベッドにどさりと腰を下ろした。
「・・・十日も? 旅か?」
 ビクトールは机から顔を上げずに訊ねた。
「まあな」
「いいんじゃないか、副隊長どの。おまえ、全然休み無しだったし」
「悪いな。おまえだって休んでないのに」
「いいさ。みやげが楽しみだ。首都のグレッグミンスター市には珍しい酒がたくさんあったよな」
「・・・なんだ。バレていたのか」
「ジャンヌとロザリーのことを調べに行くつもりなんだろう? あれだけオデッサと似ていれば、恋人としては気になるだろう」
「オレだけでなく、おまえも気にしていたくせに。ロザリー殿を送る道すがら聞いたが、彼女の店に、どうでもいいものを買いに何度も訪れていたそうじゃないか。最初は自分を口説こうとしているのかと誤解していたそうだよ」
 ビクトールは頭をかいた。
「ちえっ。うまく探っているつもりだったのに、怪しまれていたのか。
 まあ、おまえの調査の方は、姉妹を傷つけないやり方で頼むよ。家族も生きているのかもしれん。そっちにも迷惑がかからんようにな」
「承知してるさ。それに、シルバーバーク家が関係してるとしたら慎重にならぜるをえない。それに、久しぶりに色気に目覚めた親友の為に、一肌脱いでやるさ」
 フリックの言葉に、
「な、なんのことだよ」
と平然とした声で答えたものの、ビクトールはパラパラとメモを足元に散らばらせた。
「オレはフリックの為に・・・」
 あわてて拾おうと屈んだビクトールの指の先の紙切れを、フリックのブーツの爪先が踏みつけた。
「やっぱりそうか」
「うっ。べ、別にオレは・・・」
「闘いの戦略はみごとに立てるのに、不思議な奴だよなあ。
 言っておくが、オレはまだオデッサを愛しているし、どんなに顔が似ている女性がいても、それはオデッサではない。オデッサ以外の女性に心を寄せるつもりもない」
「うん・・・。わかっているさ。わかっているが・・・。
 寂しくないか? そう決めつけて生きているのは」
「・・・。」
「お節介な男だっていうのは、よく知っているだろ? まあ、おまえが嫌がるのに、無理に薦めはしないさ」
 ビクトールは床のメモを全部拾い集めて、机の上で整えた。
「ジャンヌのことも、放っておけなかったんだろうな。ほんとにお節介な奴だ」
 肩をすくめるフリックに、ビクトールは答えず黙ったままだった。
「明日は早く出るから、先に休ませてもらうよ」
 そう言うとフリックは先に横になった。
 ビクトールは机の上の予定表の用紙を見つめていたが、頭は別のことを考えていた。
 母親に疎まれ顔を斬り付けられる・・・。十三歳の少女にとって、心の傷の痛みの方が大きいだろう。ジャンヌの、人を寄せつけない頑なさは、そんな哀しい過去が原因だったとは。
 窓からのぞいていた月が陰った。いくらビクトールが考えてみたところで、痛みを和らげてやることはできない。もう寝よう。ビクトールは手元のランプを消した。
 
 ☆ ☆ ☆
 
 窓の外が明るい。慣れぬ部屋のせいか、ジャンヌは早く目覚めてしまった。
 同室のワカバはまだ気持ちよさそうに寝息をたてている。枕がわりにされたウサギのぬいぐるみが、笑顔のまま平べったく潰れていた。
 ジャンヌほどではないが短い髪で男の子みたいなのだが、薔薇色の頬と長い睫毛のワカバは、少女らしい愛らしさを失っていない。無邪気な寝顔だった。
 寝床で起床時間を待ちながらぐずぐずと考え事をするのは嫌だった。考えるより体を動かした方がいい。ジャンヌは早朝練習をしようと決めて起き上がった。
 
 庭はまだ朝靄に包まれていた。宿舎も淡く遠くに霞み、ビクトールの砦に来たことが、まだどこか夢の中のことのような気がした。自分には闘うことしか能がないから、遅かれ早かれこういう仕事につくだろうと漠然と思っはいたが。いきなりの集団生活。人と接するのが苦手なくせに。いったい何をとち狂ってしまったのか。まだ自分でも信じられない気持ちだった。
 裸足で踏みしめる芝だけが現実のものに思えた。
 空気がつめたくて気持ちがいい。型を一回通して流すと、体が火照ってちょうどよかった。靄を『突き』で斬り裂くと、腕の回りに小さな水滴が飛ぶ。
「・・・誰だ?」
 背後の木陰で、何者かが見ている気配がした。
「すまない」
 フリックの声だった。ジャンヌが振り返ると、紺のマントの背に旅支度らしい荷物を背負った彼が、ガラの大木の影から姿を表した。
「声をかけると邪魔になるかと思って、黙って無断で見ていた」
「どこかへ出かけるかの?」
「ああ。まあそうだ。
 ジャンヌ殿との勝負、昨日のあれはオレの負けだが、今の練習を見ていたら続きをきちんとやってみたくなったな」
「昨日のがおまえの負けなものか。ちゃんと闘ったわけじゃないし」
「・・・今、時間はあるか? オレは暫く帰らないかもしれないのでな」
「あたしは今で構わないよ」
 フリックは見目のいい男だ。副隊長を張っている誇りもあるだろう。入ったばかりの小娘に、特殊な場合だったと言ってもみんなの前で負けを喫して、面白くないかもしれない。ここで勝って出発すれば気分もすっきりするということか。
「ありがたい」
 フリックは笑顔で答えて、旅の荷物を木陰に置いた。そして笑みを浮かべたままで剣を構えた。本気で嬉しそうに見えた。
「鞘から抜かないが、いいかな?」
「こんな小娘、本気で闘えば正剣でなくても十分ってことか」
「何言っているんだ」と、フリックは笑った。
「ジャンヌ殿が強すぎて、手加減する自信がないからだ」
 そう答えて、鼻の頭に皺を寄せてまた嬉しそうに笑う。
 もしかすると、こいつは、強い奴と闘うのが嬉しくて嬉しくてたまらないタイプの剣士なのだろうか。変な男だ。だが、最初の印象は変わっていた。美形だからもっと気取った男かと思っていた。
「あたしのことは『ジャンヌ』でいいよ。敬称なんてくすぐったいからやめてくれ」
 ジャンヌも笑みを返すと、両足を少し開いて構えのポーズを取った。
 間をあけると隙が無いのがわかっていたフリックは、即座に斬り込んで来た。左脇。
 かわして蹴りを入れたが、斬り込む時に重心を加減していたらしく、よけられてしまった。
 瞬時にフリックは振り返って構えを取る。マントと長い髪がなびいた。ジャンヌも隙を消して構えた。
 きわどいやりとりが数回続き、最後はフリックの切っ先がジャンヌの喉元一瞬手前で止まった。ジャンヌはよけてバランスを崩して、芝の中に倒れこんだ。
 息が切れていた。
「参った。さすがに副隊長だ」
「つきあってくれて、ありがとう」
 フリックは手袋を外して、手を差し出して助け起こしてくれた。紳士だ。考えてみればフリックには言葉使いや物腰に品がある。育ちがいい気がする。なぜ、国の軍に入らず、傭兵などやっているのだろう。
「フリックは名門の出なのか?」
「名門かどうかは知らんが、父親は戦士の村で伯爵をやっている。シルバーバーグ家のオデッサとは幼ななじみだった。彼女が家を捨てて解放軍に身を置いた時、オレも家出して付いて来てしまった」
 晴れた空のような目を細めて笑った。本当に優雅に笑う青年だ。
「ビクトールが若い女性を勧誘してきたというから、興味津々だったんだ。いや、あの照れ屋が女の子にどんな風に声をかけたか、想像するだけでおかしくてな」
 フリックはくっくと声をたてて肩を揺らした。ビクトールとは全然タイプが違うが、彼も魅力的な青年だとジャンヌは認めた。
「ビクトールが君に興味を持ったのは、なんとなくわかるな。
 闘うのが、相手を知る一番の方法だとオレは思っている。
 ビクトールがオレの女っ気のなさを心配するのと同じように、オレも奴を心配していたのでね」
 ジャンヌはかっと頬がほてった。フリックは自分の人柄を計る為に、闘ってみたというのか。それもビクトールにふさわしい女かどうかという物差しで。
「誤解するな。あたしが志願したんだ。ここへ入れてくれって」
「へええ、そうなのか。
 この砦からは既に三組カップルが生れているんだ。四組目になるといいがな」
「か、勝手に決めるなっ!」
 ジャンヌは手の甲で額の汗をぬぐった。顔が熱い。
「では、出かけて来る。慣れるまで大変かもしれないが、頑張れよ」
 フリックはにやっと笑って荷物を抱えると、マントを翻して砦の門を出ていった。
 朝靄は晴れて視界が広がっていた。

 

<3>へ続く ★