さらば 愛しの熊オトコ

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☆ ☆ ☆
 天雷のような清く悲しい遠吠えが、かすかに聞こえた。外は月夜、銀の狼が鳴いている。
 呼応しようと口を開いたボブを、キニスンが取り押さえた。
「呼んでどうする!」
「すまねえ、つい」
 ボブは狼の姿で絨毯の上にいた。空いたベ ッドはビクトールが使った。ビクトールとフリックの部屋では、ビクトールのベッドをシェラが占領 しているからだ。
 ビクトールはずりずりと窓まで体を寄せて、細く開けて外を窺った。
「近いな。今夜は村に来るかもな」
 闇を見ながら、別のことを考えていた。
『二十年前、レオン・シルバーバーグ侯の屋敷でメイドを勤める娘がいた。名前をマグノリアとしようか』
 フリックの乾いた声がまだ耳に残って いる。
『レオン侯に寵愛されたメイドは、身籠もっ て屋敷を退き密かに双子を産んだ。街でお針子をしながら二人を育てていた。オデッサが父親に反抗し狼煙を上げるまでは、平穏で幸せな日々だったろう』

 従姉妹に似すぎていた娘達。
 ビクトールは目を閉じた。

「隊長。来るぜ」
 ボブが片耳をぴくりと動かし言う。
 遠吠えがガラスをぴりぴり震わせた。曲がり角を影が躍る。大きい。ビクトールは身を乗り 出して窓を開いた。
 右の頭は空を仰ぎ、左の頭は先への道を見据えていた。一歩。周りの建物を見回す。もう一歩。瑠璃のような毛が月に輝く。凍てつ いた夜を、銀の狼が闊歩する。
 ビクトールはにやりと笑った。なかなかの別嬪さんのようだ。相手に不足はない。
「少し可哀相ですね。人を襲ったわけでもないのに。空腹なだけなんじゃないかな」
 キニスンの言葉に肩をすくめる。双頭の巨大狼と人間が共存できるとは思えなかった。
 美しい双子。その姿ゆえに疎まれる。
 ビクトールはぱたんと窓を閉じた。

『〇月□日。曇り。
 昨夜、村に銀毛狼が来た。窓からちらと姿を見たが、かなり大きかった。牛の五倍ほどあっただろう。
 しかし、凶暴というより、美しい獣だと思った。二つの頭に宿る四つの瞳は月にきら きら輝いていた。青味を帯びた銀の毛は、湖 の水面のように波立っていた。こんな風に思うのは、被害に遇っている村の人達に悪いかもしれないが。
 銀毛狼が去った直後、夜も深い時間だったが、ドアを叩れてどきりとした。おかみだったら死んでも開けるもんかと思ったが、相手 はフリックだった』

「すまんな、こんな時間、しかも女性の部屋 に」
「シェラ様は大丈夫なのか?」
 招き入れると、フリックは頷いてため息をついた。
「今、やっと眠った」
 結んだ栗色の髪はほつれて乱れていたし、 シャツのボタンがいくつか千切り取られて胸がはだけていた。
「かなり激しい誘惑を受けたようだな」
 ジャンヌが笑うと、 「誘惑って言えるか、あれが。もうほとんど強姦未遂みたいなものだ」 と、眉をしかめた。
「宿を飛び出したと聞いた。・・・すまなかっ た。オレがビクトールに、君を連れて来て欲しいと頼んだ。君の母上のことを知っていて呼んだんだ」
「・・・。」
 ジャンヌは思わず顔をそむけていた。フリックの目を見ることができなかった。
「黙っていたことで、君を動揺させてしまったようで・・・悪かったと思う。
 言っておくが、ビクトールはここに来るまで、 何も知らなかった。オレが勝手にやったことだ。あいつは、人前にも関わらずオレの 胸ぐらをわし掴みにしたほど、珍しく怒りを露にした」
「ビクトールが・・・?」
「あいつは、二つのことが理由でオレのしたことを怒っていた。
 一つは、戦闘員が闘う前に心を乱してしまうような状態を作ったこと。闘いに集中できなければ、力のある者でも思わぬ失敗をしたりする。奴はそれをとても心配していた」
「もう一つは?」
 フリックは、部屋の扉に寄りかかると腕を組んで静かに言った。
「君を傷つけたこと、だ」
「・・・。」
 ジャンヌは視線をそらした。頬が赤いかもしれない。ビクトールが、たとえ隊長の立場からだったとしても、自分を気づかってくれたことは嬉しかった。
「言葉が無いよ。オレは、君の心を乱し、 傷つけた。副隊長失格だな」
「フリック・・・」
 涙腺の弱い彼は、すでに青い瞳をうるませていた。大の男、それもこれだけの使い手の涙など見ると、いたたまれない気分だ。
「あたしたち母子の確執は、みんなには関係ないことだ。あたしが母親を憎んでいること など、あんたは知らなかっただろう」
 人の痛みを自分も同じように受け止めて、いちいち泣いているこいつは、ビクトールに負けず劣らずのお人好しの気がした。
「あたしは大丈夫だから。泣くなよ。いいオ トコが台無しだぞ」
「くそ、どちらが年配者かわからんな」
 フリックは苦笑して、頬の涙をぬぐった。

『朝食はボブが運んでくれた。今朝は人間の姿をしている。
「狼の時にもいい匂いがしたけど、髪、綺麗にしてるんだねえ」と言うと、彼は嬉しそうに髪をかきあげた。
「おう、わかるかい? 毎朝アサシャンしてるんだぜ。二度洗いしてトリートメントさ。 フローラル・ミントの香りだぜ。おっと、でもオイラに惚れちゃいけない、オイラは自分に惚れてる女には興味ないんだ」・・・だそうだ』

 朝食後、傭兵部隊(眠っているシェラは別にして)は狼の足跡を辿った。形は狼の足跡だが大きさは熊の二倍あるそれは、村を出た後 裏山の池の辺りを徘徊していた。そしてもと来た方向へと戻っていった。
「北の洞窟、か」
 百五十年前に封印したという・・・。地図を確認しながら入った祠、体を氷づけにされていたはずの本体は、どこにもなかった。
「去年の猛暑と暖冬で解凍したのか?」
「ビクトールさん、これ! 封印の印が消えかかっています」
 キニスンが見つけた印・・・岩壁に刻み込まれた記号は、線がかすれていた。
フリック が怒りで拳を震わせ、目に涙をためた。 「・・・。馬鹿らしい。結局そういうことか。  戦いと遠いところにいる市民達は、無頓着だよな。まめに見舞っていれば、こんなことにはならなかったのに。  ここに封印するために闘った戦士たちだっていたはずなのに。命を落とした者もいたかもしれん・・・」
 ビクトールはフリックの肩を叩いた。
「そうなっちまったことを嘆いても仕方ない。  オレたちが今回奴を倒して封印しても、ま た二百年もたてばみんな忘れてる。で、未来のオレ達みたいなヤクザもんが再び金儲けにありつく。そういうもんだ」
「・・・。」
 フリックは頷くとため息をついて、拳をほどいた。
 昨日は村長たちの前で、喧嘩まがいの雰囲気だった二人だそうだが、一瞬の出来事だったのだろう。今は全くしこりは感じられない。 ジャンヌは少しほっとした。
「奴のことだが、ここでなく、巣にしている場所があるはずだ。もっと暖かで、居心地のいい場所が。そこからおびき出す。我々の戦いやすい場所へ。時間は昼間。夜だと魔の力は強いからな」
「だが、ビクトール、あいつが昼間にのこのこ出てくるとは思えんが」
「月夜を演出する」
「演出?」

『それからあたしたちは、銀毛狼の巣の見当をつけた。
 洞窟の南側、比較的暖かい場所に枝や藁を しいて眠っているようだ。ビクトールの考えた通 り、岩の間から陽の光が入るようになっていた。
 宿に帰りってからは、村の人たちと協力し て、微かに透き通る布を用意して何枚も縫い合わせた。それから竹槍をたくさん用意させた。
 準備は整った。あとはあたしらが全力をつ くすだけだ』

 翌日の闘いに備えて早く床についたものの、 ジャンヌはなかなか寝つけなかった。
 ほの暗い天井に、細面の白い顔が浮かんでは消える。
 幼い頃には何度も頬を寄せた、柔らかな栗色の髪を結い上げ、糊の効いたエプロンをきっちり着けて。そしてジャンヌを斬りつけた 美しい顔で、「いらっしゃいませ」と深い礼 をする。
 ジャンヌはベッドから半身を起こした。
 ビクトールに、余計なことを考えるなと命令されている。庭か食堂かロビーか。どこかで型を一本流すかして体を動かそう。体がほどよ く疲れれば眠れるに違いない。

 ロビーにはうすく明かりが灯り、何人かの人影が見えた。ジャンヌが階段を降りて行くと、「これで四人目だな」というフリックのからかうような声が聞こえた。
「眠れないのか」
 ビクトールが声をかけた。
「闘いの前で興奮しているらしい」
 母親のことは口に出さなかった。
 二人は、地酒らしい陶器の壜を酌み交わしていた。
 キニスンは弓の手入れをしていた。柔らかい布に薬品か何かをしみこませて、丁寧にこすっている。静かに黙々と、でも楽しそうに作業をしていた。
 隣に座ってジャンヌはじっとキニスンの手元 を眺めた。
「こんなところで手入れなんてしなくても、 と思うでしょう。でも、これをしていると落ち着くんです。
 ボブが先に眠っちゃったんですよ。部屋で明かりを点けて始めると、起こしちゃいそうだったんで」
 「あたしは武器といったら爪をつけるくらいで、荷物にもならないが。弓は長いし背負っても大変そうだ。用意する矢の数も少なくはないし、かさばるだろう」
「よく言われるんですけどね」
キニスンは手を休めずに微笑んで答えた。
「でも、弓との付き合いは長いし、もう体の一部みたいで、全然気にならないんですよ。 却ってしょってないと落ち着かなくて。
 僕は猟師なんです。砦に来る前はリューベの森に住んでいた。この前の戦争の時にビクトールさん達と一緒に闘ったのだけど、 戦争が終わって帰ったらで森が焼けて、無くなっちゃって。ビクトールさんに誘ってもらって砦にいるんです」
 キニスンは穏やかに淡々と話した。
 「僕は、人に甘えるのが苦手で、困っていても『助けて』って言えない人間だったんだけど。
 煤まみれで街道の隅に弓だけ抱きしめて座り込んでた僕を見つけて、ビクトールさんが拾ってくれた」
「・・・。」
 放っておけないビクトール。お節介なビクトール。
「まだ酒はたくさんあるぜ。ジャンヌもこっちへ来て飲まないか」
「ああ」
 ビクトールには、自分も煤にまみれて膝を抱えているように見えるのかもしれない。だから何かと気にかけてくれるのだろうか。
「キニスンは飲まないのか?」
「僕、お酒が飲めないんですよ。遠慮なくど うぞ」
 ビクトールたちは、強い地酒をストレートで飲 んでいた。闘い前夜とは思えない。
「少しだけ貰うよ。寝酒程度でいい。・・・  シェラ様は今夜はいいのか?」
 酌をしてくれたフリックに問うと、 「明日に備えて早く寝ていただいた」 と、目を細めて笑った。ほっとしている笑い だ。
 白い頬を多少上気させているフリック に対して、ビクトールは一滴も飲んでいないんじゃないかというほど冷静な顔をしていた。もともと、どんなに飲んでいても酔っぱらった顔など見たことはないのだが、明らかに今は微塵も酔っていないだろう。
「飲んでいるのか?」
 ジャンヌが尋ねると、やっと笑顔になった。
「飲めば飲むほど覚醒していく」
「もったいない。もうよせよ」
 フリックが杯を取り上げた。

☆ ☆ ☆
 朝。
「時は満ちた」
 腰に手を当てビクトールが言うと、
『気取るな、馬鹿もん』
「気取るな、バカヤロー」
 星辰剣とフリックが同時に罵声を浴びせかけた。
 宿の玄関に自警団や宿の従業員が、傭兵を見送るために集まっていた。
「おかみさん、夕めしは宴会を頼みますぜ」と、ビクトールはマグノリアに陽気に笑いかけた。
「どうぞご無事で」
 深々と頭を下げる婦人。みんなは軽く会釈 して出ていったが、ジャンヌは無視した。顔をそむけたまま、宿を出た。
 恨みや憎しみのどす黒い力が、ジャンヌの体をかけめぐり、心を乱す。だめだ、考える のは戦いの後にしよう。今はそんな事を考えている余裕はない。
「ジャンヌ、初陣の覚悟はいいか?」
 ビクトールの言葉に、ジャンヌはうなずいた。

 太陽は高い。
 裏山への道を、踏みしめて歩く。
 昨夜は月が出なかったせいか、銀毛狼も出現しなかった。ここ数日は村の家畜を襲っていないので、空腹で気がたっているかもしれない。
 先頭を狼になったボブ、少し離れてビクトール、 ジャンヌ、キニスンと続く。フリックはシェラを腕に抱えて最後を行く。闘い前の緊張をほぐすかのように、雑談まじりで登って行っ た。
「隊長がでかすぎて前が全然見えない」 とジャンヌが文句を言うと、ビクトールは、 「そんなに前が見たいなら、肩車でもしてやろうか」 と憎まれ口を叩いた。
「あれ? この痣、どうしたんだ?」
 右の肩と背中に何箇所か新しい痣ができていた。ビクトールの背中をとれる奴なんて滅多にいないだろうに。しかしジャンヌをじろりと 睨んだたけで、隊長は答えもしない。
 ちょんとキニスンが指でジャンヌの腕をつつ いた。
「ジャンヌさん、謝っておいた方がいいですよ。強制連行される時、隊長の背中を何発も 殴ってたじゃないですかあ」
「えっ。あっ」  あの時の。
 ビクトールは痛くも痒くもない顔していたじゃないか。でも、そりゃあそうか、こっちは拳法家なんだから。
「・・・あのぉ」
 ビクトールは聞こえないふりでどんどん先へ歩 いて行ってしまう。

 銀毛狼の巣の洞窟に着いた。それまで意識 してくつろいだ雰囲気を作っていた戦士たちは、ここで闘いへと気持ちを切り換えた。陽 の漏れる隙間に、縫い合わせた布を覆い石を乗せて固定する。これで狼のねぐらに漏れていた光は、弱く柔らかく変るだろう。
「やってくれ、キニスン」
 隊長の号令で、キニスンは矢を何本も洞窟に 放り込んだ。香草を詰めた袋を括り点け、火を点けてある。やがて洞窟の入り口からも煙 が立ち始めた。
「そろそろ出て来るだろう。ボブ、うまく誘い込めよ」
「任してくれよ」
 灰色の煙の中からゆっくり現れたそれは、 外が明るいので少し戸惑っているようだった。 洞窟に戻りかけたが、もうもうと繰り出して くる煙に追われ、結局表へ出てきた。
 怒りか、幻惑か。
 銀毛狼は、太陽を仰いでひと声叫んでみせ た。周りの枝がぴりぴりと震えた。ジャンヌの腕に鳥肌がたった。背中を冷たい汗が流れ落ちる。
 ボブは遠吠えに答えると、走り始めた。最初は見つけやすいようにゆっくりと。
 青い山が動いた。太陽に反射して表面が光っている。風にさらさらと長い毛足の毛が動 く。真夜中のような瞳が、茶色い小さな同類を見つけて視線を止めた。
 やがて速く。
 ボブは決して捕えられない距離を保ちながら、四本の足で土を蹴り続ける。
 距離を縮められたボブは、崖に追い詰められたが、飛べない高さではないかのようにさ りげなく飛び下りた。銀毛狼はボブを追って跳躍した。
 奴は見たかもしれない。目の前を白いグリ フォンが横切るのを。グリフォンの背にはさ っきの茶ブチ狼がへばりついていた。
 「へへへん、単細胞めー」
 銀毛狼は竹槍の罠へと落下した。その衝撃で崖の小石はぱらぱらとはがれ、まだ枝にしがみついていた葉達も舞った。
 悲鳴に似た咆哮。しかし狼はまだ立ち上がった。
 崖の下で待機していたジャンヌ達の出番だ。
「行くぞ」
 力みも気負いも無いいつもの口調でビクトールが号令をかけた。そして彼が先頭に立って銀毛狼の前へ躍り出た。
 シェラの聖魔法。華奢で小さな掌から溢れ出た閃光が、二つの頭を直撃した。キニスンの弓。 右頭の耳を矢が貫通した。
 片方の頭が細く火を吐いたが、皆すばやく避けた。昼間のせいで、魔法の力は弱い。も う片方の吹いた細かい氷のつぶても、フリックの盾に当たって水滴になった。
 奴はビクトールに右の顔の片目を斬りつけられた。  ビクトールの跳躍、腕力、俊敏さは、ジャンヌを背負って街の雑魚を退治した時の比ではなかった。まさかと思うほど飛び上がり、剣の先が銀毛狼の鼻先に届いた。軽く振るったよ うに見えた剣が、奴の右目をえぐり取っていた。
 フリックにも左の顔の片目を斬りつけられた後、ジャンヌに前蹴りげを喉に決められて銀毛狼は血を吐いた。陽に輝く銀の髪は血と泥にまみれ、それでもきらめきは消えなかった。
 美しさにジャンヌは目を閉じたくなった。  銀毛狼は片目ずつでジャンヌを見すえながら、なぜこんな風に斬りつけられるのか問うているようだった。
 我が何をしたのか?
 それともこの姿がいけないからか?
 ただそれだけなのか?
『あたしらが何をしたのさ?』
『それともこの顔がいけないから?』
『ただ、それだけなの?』

 慟哭。狼の二つの頭が空を仰いだ。しかし そこに求める月は無く、無慈悲なほどに輝く目を焼く陽があった。
「うわっ!」
 左前脚がビクトールに襲いかかった。ビクトールは咄嗟によけたが、行き場を失った脚は崖の突出した部分に当たった。
「キニスン、岩が落ちる!」
 ガラガラと音をたてて、小石も雑草も抱え込んで、人ひとりと同じ大きさの岩が落下してきた。キニスンは少し後ろで弓を射っていた。 警告の声に崖を振り返ったが、遅かった。岩は落ちた衝撃で砕けたが、キニスンはその場に倒れ込んだ。
「キニスン、大丈夫か?」
 ビクトールが駆け寄ると、キニスンは顔を地面からそむけ、消え入りそうな声で言った。
「肩・・・。右肩をやられました。すみません、 弓がひけません」
「動くな。喋らない方がいい」
 ビクトールはキニスンを抱いて、離れた場所へ非難させた。闘いに戻ると、ジャンヌとフリックが同時に尋ねてきた。
「キニスンは?」
「肩の骨が砕けてるな。命に別状はないだろ う。治癒に半年ってところだ」
「半年・・・。そんなに」
 ジャンヌの握った拳の力が虚ろになった。 怪我が治っても、元のように弓が的を当てるまでには、筋力やカンを取り戻す厳しい練習が必要になる。それより、今芝に横たわるタ ケルの痛みはどんなだろう。額に脂汗を浮かべる痛みだろう。のたうち回って苦しんでいやしないだろうか。
 ちらりと背後を振り返ろうとしたジャンヌ に、ビクトールの叱咤が飛んだ。
「ジャンヌ、集中しろっ!」
 狼が赤いブレスを吐いた。
「あぶないっ!」
 かばったフリックの楯が炎を受け止めた。金属の溶けた匂いが鼻をつく。煙が楯から上がっていた。
「つうっ・・・」
 フリックは楯を手放し、膝をついた。手袋が焼 け焦げている。掌は火傷で赤くただれていた。
「すまない、フリック。無事か?」
「オレは片手剣だ、闘いに支障はない」
「どれ、応急処置を施してたまおう」
 シェラが指先から冷水を溢れさせた。
 ビクトールが星辰剣を握り直し、 「こっちも満身創痍だが、あちらさんはもっとヤバイはずだ」 とみんなを力づけた。二の腕の傷から出血し、 筋肉のコブの間を血がしたたり落ちていた。狼が吐いた氷の破片で切ったらしい。肘を伝ってぽたぽたと地に斑点を作っている。
「だが、長期戦はまずい。とっととケリをつ けようぜ」
 そう言うと、地を蹴って高く跳躍した。右頭の顎あたりまで飛び、ひょいと牙を避けると喉を斬りつけた。吹き出した血がジャンヌ たちのところまで届き、肌を汚した。
 シェラの細い指先から、槍のように鋭い光が飛び出し、左頭の眉間に突き刺さった。潰されていない側の目をかっと見開いたかと思うと、そちらも瞼を閉じた。
「半身はしとめたぞよ」
「よぉぉし、もう半分!」
 ビクトールの声に力づけられ、ジャンヌは気持 ちを集中させた。助走をつけて思いっきり飛 び上がると、体を翻して勢いをつけた。利き 足の踵に確かな手応え。ジャンヌの蹴りが右の頭に決まった。
 右頭は目を開いたまま、首を垂れそのままゆっくりと地面に倒れ伏した。崖からパラパ ラと小石がこぼれ落ち、ジャンヌたちの肩を打った。
 銀毛狼はもう動かなかった。

「シェラ様。炎を」
 ビクトールが魔物の死を確信し、指示を出した。
「みな、少し離れるがよい」
 シェラが屍に掌を向けると、赤い棒状のものが一直線にのびて銀毛狼を突き刺した。その瞬間、銀の毛が赤く染まった。棒のようなものは炎だったのだ。
 炎は周りの草や小枝や罠の竹槍をもパチパ チと燃やした。草の燃える匂いが野焼きを思わせた。それ以前に、肉と毛の焦げる匂いは 吐き気をもよおさせた。
「妖獣も人間も、燃える時は同じ匂いだな」
 ビクトールがぽつんと言った。
「火の粉が飛んでくるぞ」
と、ジャンヌの腕を掴んで、後ろに下がらせた。闘いに没頭したせいか、頭の中がからっぽになっていた。
 茂みからボブが出て来て、 「みんな、平気だったか?」 と声をかけた。  ボブはもう人間に戻っていた。フリックに借りたのか、紺のマントを体に巻き付けていた。褐色に近い裸の肩がのぞいている。
「暗示かけて来なかったか?」
「なんのことだ?」
 ビクトールは星辰剣を腰におさめて尋ねた。
「銀毛狼だよぉ。オイラは耐えられずに、人間に戻って耳を手で塞いで震えてた。でも、 声じゃなくて、直接頭ん中に話しかけてきやがるんだ。
『おまえはなぜ、人間に与する。  狼の誇りを忘れたのか。  おまえの血に恥ずかしいと思わんのか』
・・・参ったよ」
「・・・銀毛狼が、か?」
 ビクトールはきょとんとしている。彼には聞こえなかったのが明らかだ。
「隊長は、単に鈍感なのかもしれねえけど」
「悪かったな」
「いやあ、聞こえなくて何よりだよ」
 マントが落ちないように握りしめ、ボブは 鼻をこすってみせた。口調は明るいが、ボブ が憔悴しているのがわかった。
 ボブはまさに、狼の血に誇りを持っている男で、人間の側にいることに疑問を抱き続けているってことだろう。炎の起こす風が、ボブのふわふわの髪を舞い上がらせた。
『バカもん。わしが結界を張ってやったのじ ゃ。未熟なおぬしは気づきもせんじゃったろうがな』
 星辰剣がいまいましそうな声を出した。
「おまえがか?」
 ビクトールは聞き返した。
『あやつは妖かしのもの。  ボブにはボブの一番つらいところを突いてくる。おぬしにも同じじゃ』
「・・・。そうか。ありがとよ、星辰剣」
『ふん。鈍感なおまえには必要なかったな』
 ビクトールに礼を言われて、星辰剣は照れてしまったようだ。ジャンヌが闘いながら悲しい想いを抱いたのも、そういうことだったのかもしれない。銀毛狼はそうやって敵の戦意を喪失させようとしたのだろう。

「シェラ様、そろそろ水をかけてくださいませんか。
 さあて、村には証拠に頭蓋骨のひとつでも持ち帰るかな」
「愚かなことを申すな」
 反対の掌から霧のような水を放出しながらシェラが隊長をたしなめた。
「骨はもとの祠にすべて戻し封印する。今度はわらわがやってやる。百年や二百年で解けてしまうような、ヤワな封印とは訳がちがうぞよ。
 人を襲ったわけでもないのに、気の毒なことよなあ」
 シェラの起こす水のきらめきが、虹を作った。 焦げて黒ずんだ巨大な白骨に、七つの色が映って揺らめいていた。
「わらわの封印は数千年は解けぬ。安心してゆっくり眠れ。目覚めた時にはもう人間など滅びているに違いないぞ」
 ほほほと、シェラは嬉しそうに頬を薔薇色に輝かせて笑った。

 キニスンだけが村に戻って治療を受け、安静を言い渡された。
 自警団の青年達も手伝い、銀毛狼の骨を祠に運んだ。二つの頭蓋骨に関しては、気味悪がって村の青年達の誰も触ろうとしないので、 フリックとビクトールが二人がかりで一個ずつ運んだ。二人とも負傷は大事に至らず、傷に包帯を巻いた程度だった。
「なあ、ここの割れたところ、ジャンヌが最後に蹴りを入れた部分だろ」
 ビクトールが、眼球の二つの窪みの間を指で触った。ぽろぽろと骨のかけらが砕けて落ちた。
「『鳥兎(ちょうず)』か。そこは割合もろいんだ」
 ジャンヌは簡単に言った。
「もろいって言ったって」
 相手は熊の二倍はある妖獣だったんだが。
「オレ、殴られた背中の骨、大丈夫かな」
「隊長には肩叩き程度だったろ」
と笑いながら、ジャンヌは銀毛狼の足・・・前脚の部分だろうか・・・の骨に手を伸ばした。
『つっ!』
 むき出しの腕にかぎ裂きが出来ていた。骨の先に細く残った銀の金属片のような爪に、 ジャンヌは腕を引っかけてしまったのだ。傷は浅く、うっすら血が滲んでいる程度だ。小指の長さくらいの引っかき傷だった。
 哀れな断末魔のようだった。
 自分が殺さたことに納得できないでいる魂の、最後の抵抗・・・。

 夕方までには骨はすべて祠に運び込まれ、 土の中に埋められた。シェラが石版に聖文字を刻み、封印魔法を唱えた。最後に、皆がここ を離れてから、洞窟自体を封印した。誰もここを訪れることができないように。在っても見えぬ、在っても触れられぬ魔法だという。
 儀式が終わり、皆が村へと戻り始める。
 空が赤く染まり出し、峠から見る下の景色 は壮観だった。小さな屋根のひとつひとつが夕陽に染まり、黄金の穂を風になびかせる畑もきらきらと輝いた。あまりに綺麗だからだろうか、少し頭がぼうっとしてきた。闘ったせいで興奮しているのかもしれない、体が熱い。
「宴会だ、宴会!」
 ビクトールははしゃいだ声を上げ、ポンとジャ ンヌの肩を叩いた。ぐらりと体が傾き、当のジャンヌがはっと驚いた。
 膝をついて、立ち上がろうとしたが・・・足に力が入らない。
「ジャンヌ!」
 みんなが駆け寄った。
 ビクトールが「どうした?」と声をかける。
 ボブが腕の傷に気づいた。 「こりゃあ、銀毛狼のか?」
「馬鹿な! 前脚の爪の毒か!」
「何故すぐ言わなかった!」
 みんなの声が朦朧として遠い。
「・・・もう骨になってたから、まさかと思っ てた。甘いな、あたしも」
「いい、喋るな」
 ビクトールはジャンヌを腕に抱えると、村への道を駆け出した。こんな大きな男が、なんで風を切るほど速く走れるのだろう。しかもあたしみたいなでかい女を抱きかかえて。薄れていく意識の中で、ジャンヌはそんなことをぼんやり考えていた。

 宿のベッドに寝かされた。意識が紐でからめとられていくように感じていた。遠く、遠 く流されていく。呼吸が苦しい。体が燃える ように熱かった。
 医者らしき男が指示する声、ビクトールの怒声、 フリックの返事、バタバタと床を行き来する音。
「ジャンヌはそんなに珍しい血液型だったのか?」
 医者が何か説明している。
「私の血を取って下さい!」
 おかみの・・・母の声だ。ヒステリックな金切り声だった。
「私の娘です! 私はこの子の母親です!  どうか私の血を使ってください! いくらでも取ってください!」
 母親だと、おまえが? 笑わせるな。頬を斬りつけられた時の痛みを、忘れたと思うのか?
  あたし達を見捨てて、今ではこんなに立派な宿のおかみをしている。
 認めるものか、おまえが母などと!
 怒りがだるさを凌駕した。
 ジャンヌは「やめろ・・・」と喉の奥から声を絞り出した。重い瞼をあけると、回りに集まる影だけがうっすら見えた。
「おまえの血など。いらない。おまえを。母親だなどと。認めない。おまえに助けてもらうなら。・・・死んだ方がいい」
「ジャンヌ!」
 悲鳴のような嗚咽のような女の声だった。 それでもジャンヌは続けた。
「・・・許さない。あたしは。あたしたちは。  その女の血を。あたしは拒否する」
「ふざけるなっ!」
 怒鳴った大きな影は、ビクトールだ。
 ほっておいて。もうあたしを放っておいてくれ。
「くだらない意地や憎しみを持ち込むな。おまえは今、商品だ。ビクトールの砦の傭兵という商品なんだ。こんな事故で勝手に死ぬな。
 それともほんとに死んでもいいのか。
 そうだな、おまえ、日記をつけてるそうだな。死んだら砦の掲示板に貼り出してやろうか」
「ば、ばかなことを」
 どうしてこの男は、そういう馬鹿らしい事を考えつくんだ!
「それとも、死体を剥製にして、広間に飾ってほしいか? おまえの貧弱な裸体でも、砦のヤロウどもなら大喜びだろうよ」
「こいつ・・・」
「死んだら『負け』だと、オレはずっとそう思ってきた。おまえもそうだったんじゃないのか?」
 死んだら負け。
 ビクトールの通り抜けてきた修羅場を思うと、 その言葉は重かった。
「・・・降参だ。悪かった」
「腕を出せ。血を足してもらうんだ。ずいぶん悪い血を抜いたらしいからな」
 太い指が腕をつかんだ。ひやりと心地よく て、ジャンヌはそのまま眠りに落ちた。

「おかみはあんなに血を取ったんだから、もう休んでください」
 遠くビクトールの声が聞こえた気がした。耳の後ろがどくどくと鳴っていて、周りの音が聞 き取りづらい。
「あとはオレ達が付いています。顔色だって真っ青じゃないですか」
「でも、娘が危険な状態なのに、ゆっくり休 んでなんていられません! 必要ならもっと血を取って下さいっ!」
 線の細い切羽詰まった声は、おかみだろう。
「フェザーでロザリー殿を呼びに行かせまし た。それに砦には血の有り余った連中もたくさんいます。ジャンヌが珍しい血液型だと言っても、砦には何人かいたはずです」
 この冷静な口調は、フリックだ。
「さ、おかみさん、座ってください。あなたまで倒れたら、ロザリー殿が来た時悲しみますよ」
 椅子のきしむ音と供に、また意識が遠ざかっていった。

 頬が熱い。
 痛い! 血が出てるよ、だって掌にこんなにべっとりと。かあさん、何したの? 今、 あたしに何したの? 手に持ったその光るのは何? ねえ、かあさん。泣いてないで答えてよ。・・・あたし達は、そんなに邪魔なの?
 そう、そうなんだね?
 ぱちりと目が醒めた。部屋の空気で真夜中なのがわかる。コーアンの宿の部屋。ランプ の光が、窓の外を眺めてつっ立っている大きな背中を照らし出していた。そして、自分の側に、肩に上着をかけられて椅子に座ったまま倒れたように寝入っているおかみがいた。
 腕に軽い痛みがある。毒を出すため傷を切開したのだろうが、まだだるくて動けない。 体をチェックする余裕も、声を出す元気もなかった。
 と、ビクトールが振り返った。ジャンヌの気配を感じたのだろう。
「気がついたか。まだ静かにしてろよ。水を飲むか?」
 微笑んで一回瞼をつぶってみせた。ビクトールは吸い飲みで水をくれた。まだ何か言いたげにジャンヌを見つめている。だが、「寝てろ」 とだけ、ぼそりと言った。自分はまだ危ない状態なんだと悟った。
 静かに目を閉じた。

「娘を出せ!」
「解放軍の手先! あたしの息子はあんたの身内に殺されたんだ!」
 扉を激しく叩く音に、母は怯えるようにジャンヌとロザリーを抱き寄せた。
 街から逃げて来たが、この小さな村もグレッグミンスター市の傘下でしかない。  若者は国王軍へ志願し、村人は解放軍を敵としている。
 リーダーのオデッサは賞金首だった。いたるところに彼女の似顔絵が貼られ、皆が顔を知っていた。
 オデッサそっくりの双子の娘をいくら「他人の空似です」と言い通そうとしても、誰も信 じてはくれなかった。 「身内だろう」「妹だ」と言われ、食料も売 ってもらえなかった。
 最初は石を投げられる程度だったいじめが、 戦争が大きくなるにつれてエスカレートしていった。
 私刑・・・。今度娘達を外に出したら、私刑 に遇うだろう。母は二人を絶対に外に出そう としなかった。
 そしてその日。ついに、村人は家まで襲いにやってきたのだ。
「私が村人を引き止めるため、二人だけを裏口から逃がしました。でも、たとえ二人が逃げのびられても、オデッサ様に似たあの顔ではまた同じ事の繰り返しです。
 私は・・・私はナイフでジャンヌの頬を斬りつけました。
 あの時のジャンヌの表情を・・・忘れられません。母親に顔を斬りつけられるなんて、大変なショックだったと思います。
 この子は、私からナイフを奪って私を刺して逃げました。『ロザリーの顔だけは』と守ろうとしたのでしょうね。ビクトールさん、本当はジャンヌは優しい子なんですよ。
 ええ、私の傷はたいした事はありませんでした。脇腹をちょっとかすっただけです。
 この顔の傷は、二人が逃げた直後に自分でつけたものです。娘に傷をつけて、自分が痛い思いをせずにすむつもりは、初めからありませんでしたから・・・」
 これは夢?
 あたしの都合のいい夢なんだろうか。かあさんがあたしを斬った理由が、そんなことだ ったなんて。あたしを疎み憎んでいたからじゃなくて、無事に逃がす為だったなんて。
 あたしは死ぬのかな? だから神様が、いい夢見せてくれてるの?

 

<6・完結>へ続く ★