第43話 ミューズの休日


  ドアの隙間から明かりが洩れていた。同居人はまだ起きているらしい。フィッチャーは、はばかることなく音をたててノブをひねった。
「また、レオナの酒場で飲んだくれてたのか。いい身分だな」
 机に向かって何か勉強の本を読んでいたジェスが、振り向きもせずに厭味を言った。
「へへ、副市長さんは立派だね。勉強熱心で偉いったらないや」
 フィチャーは、にやにや笑うとそのままベッドへもぐり込んだ。自分はミューズの外交官でしかない。あんな若造でも上司だ。
フィッチャーは長いものには巻かれる主義だった。消灯時間後にしてはジェスのランプは眩しすぎたが、こうして上掛けをかぶってしまえばいいのだ。敢えて抗議などするつもりはなかった。
「僕らのミューズ市が、ハイランドの兵隊達に好き勝手に荒らされているってのに、よく呑気に酒なんて飲んでられるよ、まったく!」
 ジェスの攻撃はまだ続く。フィッチャーは、言葉の剣を薄い毛布一枚で防御した。こいつは、エリートで、でも子供なんだ。ムキに
なって言い返す必要もない。『自分達の街が敵に奪われて、平気な奴は少ないと思いますぜ』そんな言葉をぐいと喉の奥に押し込む。
 
 翌朝、フィッチャーはシュウの部屋に呼ばれた。
「ちょっと頼まれ事をしてくれんかな。会議室でみんなの前で依頼するほどの仕事でもないんでね」
 シュウの鋭い目が笑った。フィッチャーには、それで充分通じた。正式にではなく、秘密に頼みたいってことだ。
「シュウの旦那、命がアブナイことは無しですぜ」
「商人としてミューズで、数日商売をして来ないか?」
 フィッチャーは一瞬凍りつく。
 スパイか。それも、敵の兵隊がうろうろしている場所へ。だが、フィッチャーも個人的に街の様子を知りたいと思っていた。建物は破壊されていないか、市民に危害は加えられていないのか。
「へへ、いいっすよ。路銀ははずんでくださいよー」
 フィッチャーは気安く片目をつぶってみせた。
 シュウの知りたいのは、常駐する軍隊の規模と武器の種類だろう。それぐらいの調査なら、店屋などの協力者も多い。一人で充分だ。
 
 フィッチャーは偽造通行証で簡単にミューズ市へ入った。下っ端の兵隊をごまかすのなど、軽いものだ。道具屋に新しい商品を届けにきた卸売商という肩書である。店へ向かう前に、食堂へ足を向けた。人がたくさん集まる場所の方が、情報を得やすい。
 街並は殆ど変わっていなかった。ただ、人々は家の扉を堅く閉じ、出歩いている者は少ない。道を行くのも食堂で談笑するのも、みんなハイランドの軍服の人間達だ。
 軽い食事を注文し、商品のリストをチェックする振りをしながら、まわりの客の声に意識を集中させる。
「いよいよ、ルカ様が、やるらしいぞ」
「魔獣を解き放つというが、暴走しないのかね」
「・・・考えたくないな、それ」
 ルカが魔獣を操ろうとしているというのか? そんなことになったら、一般市民にまで危険が及ぶ。シュウが心配していたのは、このことだったのか!
「お金が無いじゃ済まされないよっ! このクソガキ!」
 おかみの激しい口調にフィッチャーが振り返ると、十歳くらいの黒髪の少年が襟首をつかまれてじたばたしていた。
「ご、ごめんなさいっ。ごはんを食べるのにお金がいるなんて、しらなかったんです」
「もっとマシな言い訳をお言い! 軍の警察につきだしてやるよ」
 声もまだ高い、痩せこけた少年だった。自分で切っているのか、ざんばらで不揃いな短い髪と、小さな顔にぎらぎらした大きな瞳ばかりが目立った。だが、品のあるきれいな少年だ。ミューズ市が平和な時は、いい家の幸せな子供だったのかもしれない。
「待てよ、おかみ。いくらだ? おいらが払おう」
 フィッチャーは思わずポケットからサイフを取り出していた。
 
「ありがとう。助かりました」
「もう無銭飲食なんてしちゃだめだぞ。うちまで送っていこう」
「・・・・・・。」
 少年は下を向いて立ち止まった。
「家なんて。・・・無いです」
 悪いことを聞いてしまった。やはり市民にも被害はあったのだ。それとも、戦争とは関係なく、親が病気で亡くなったということもある。
 フィッチャーもスパイである以上、色々尋ねられたくなかったので、少年のことも詮索するのはやめた。
「おいらは商人で、・・・フィリップ・プレシってんだ。ぼうずの名は?」
「ジル・・・ジルベール」
「今夜、泊まるところは?」
「・・・・・・。」
「しょーがねえなあ。いやじゃなかったら、おいらと来るか? 安い宿屋だけどな」
 少年は力なく小さく頷いた。フィッチャーは少年の細い手を握った。
 
『この人について行って、大丈夫なのかしら?』
 お金を立て替えてくれたからって、いい人とは限らないということは、ここまでの道のりで嫌というほど知った。
 ジル・ブライト。それがこの少年、いやこの16歳の少女の本当の名前だ。
 ものごころついた時からの軟禁生活。家族といえば、非道な国王であり愛情など無い義父と、殺戮の鬼と化したルカ兄。そして兄はついに父を暗殺した。城は血の匂いでむせ返るようだ。息ができなかった。そして、お飾りだったジルは、もうすぐ、今度は『道具』として、権力を欲するジョウイという少年と結婚させられるのだ。
 生きていて、楽しいことなど何もなかった。この先も、つらいことが続くのがわかっていた。ジルは、短剣で喉を刺して死のうと思った。
 そして、切っ先が喉に触れそうになった瞬間、気づいて手を止めた。
 逃げよう。見つかって殺されるにしても、ここで自害するよりマシだ。
 喉を切るはずだった剣は、ジルの黒髪をざんばらに切り落とした。干してあった下男の少年の服を盗み、こっそりルルノイエを抜け出した。どこへ行く等という目的はなかった。ただ、遠くへ。遠くへ逃げたかった。
 
『商人だと言っていたわね。フィリップさんが眠ったら、カバンの中身を盗みましょう。きっと幾らかはお金になるわ』
 宿のシャワーで数日ぶりに垢を落としたジルは、ゴシゴシと髪をこすりながらバスルームから出た。
「へええ、ぼうず、ホコリを落とすと美少年だな」
 ベッドであぐらをかいて資料を揃えていたフリップは、先に湯浴みをして、上半身は裸のままだった。ジルは目をそらした。無精髭のくたびれた中年という印象だったが、彼が思っていたよりずっと若いことに気づいたのだ。兄と同じくらいか、少し上くらい。まだ青年の体躯だった。ジルは、顔をそむけたままで「僕はソファで寝ます」と椅子にごろんと横になった。
「弱ったな。毛布が一枚しかないんだ。何もかけないと風邪ひくぞ」
「平気です。いつもは野宿でしたから」
「だけど、せっかく今夜はそうじゃないんだから」
 フィリップが、ベッドからシーツを剥がして、ふわりとジルにかけた。
「それで少しはハラが冷えるのを防げるぜ。寝冷えでピーピーのガキと同室なんて、御免だからな」
『なんて奴! レディだと知らないとはいえ、失礼な!』
 サイフも盗んでやる。服も靴も、ぜーんぶ盗んで換金してやる! 明日のんびり目覚めて、吠え面かいても知らなくてよ。
 ところが。
 久しぶりにクッションのきいたソファで寝たジルは、夜中に起きて盗みをするどころか、チェックアウトの時間までぐっすり眠ってしまった。しかも、シーツではなく毛布を被って寝ていた。
「ああ、それか。昨夜何度もクシャミをしてたからな。寒かったんだろう?」
 フィリップは先に起きて、白いシャツをはおり、鏡の前でタイを結んでいた。道具屋へ商品を売りに行くのだ。
 ジルは毛布を握りしめた。生れてこのかた、こんな優しさをジルに示してくれた人はいなかった。肩が震えた。嗚咽が洩れそうで、ジルはきつく唇をかんだ。
「商品を換金しないと、おいらも余分な金はないんだ。仕事が終わったら少し貸してやるから、もう食い逃げしようなんて思うなよ。
 この街じゃガキにゃ仕事はないだろう。その金を旅費にして、もっと南へくだるといい。レイクウェストやクスクスの街は平和だから、何かありつけると思うぜ」
「・・・・・・。」
 通りすがりのコジキ少年(としか、この男には映っていないだろう)に、何故こんなに親身になってくれるのだろう。城の中で、ジルのことを、少しでも思ってくれていた人がいただろうか。
「どうした? なんで泣いてるんだ? やっぱりハラが冷えて痛いか?」
 ジルは泣きながら笑顔になった。くちもとから笑みがこぼれ、瞳からも涙がこぼれた。
「・・・よっぽどつらい旅してきたのか? 金が無かったか? ずっと腹ぺこだったか? 気の毒になあ」
『いいえ、お金ならたくさんあったわ。目がくらむほどの宝石。金糸とレースで飾られたドレス。胃もたれして嘔吐したくなるほどの御馳走・・・』
「南まで、一緒に行っていいだろ、おっちゃん?」
『私は、初めて、人生は捨てたもんじゃないと思い始めている』
「おっちゃん言うなよ、おいら、これでもまだ若いんだぞ」
 フィリップは、ふてくされたような顔で苦笑してみせた。
 
 道具屋では、フィリップはみごとな交渉で薬やお札を売りさばいていった。
「へへ、おやじさん、この『怒りの一撃』のお札がレアなのは、承知だよな?」
「まいったな。じゃあ、10%上乗せだ」
「ありがとよ」
 ジルは店の隅で、彼の口のうまさに呆れてやりとりを見入っていた。
「じゃあな。帰りの道中、気をつけてな」
 主人が、他の客に見えないように、カウンターの横からそっと黒いファイルを差し出した。フィリップは、表情を変えずに「じゃあ」と別れを告げている。
『?・・・何なのかしら?』
 ミューズを出る時にも、彼の口のうまさが威力を発揮した。
「それがねえ、ミューズの妾が、勝手に産んじまいやがって。おいらは、旅から旅でそのことを全く知らず、だから認知もできなかった。
 彼女は、戸籍も作ってやんなかったんだよ。5歳の時に女が死んで、コイツは飯屋でタダ同然でこき使われて・・・」
 フィリップは、ほろほろと涙をこぼしてみせた。
「うっ、うっ、可哀相な話だ。わしにも12歳になる息子がおるよ。ちょうど、この子くらいだ」
 通行証をチェックする兵隊は、もらい泣きした。
「戸籍のねえコイツには、通行証もねえ。おいらの街に帰ったら、息子としてきちんと引き取るから、発行はそれからになるんだよ」
「おお、引き取って、きちんと学校にも行かせてやれよ」
 
「さて、と」
 ミューズを出ると、泣いていたはずのフィリップは、けろりとしてジルに振り返った。
「ぼうず。おいらはコロネから舟に乗る。同行するのはコロネまででいいか?」
「クスクスまで、舟で連れて行ってはくれない? 舟賃は、きっと、働いて返すから」
 コロネはまだ、ハイランドの傘下だ。もっと南へ。ジルはもっと遠くへ行きたかった。いや、フィリップと、もっと長くいたかっただけかもしれない。
「・・・おいらは、実は、クスクスへは行かないんだ。コロネに、迎えの舟が来ているはずだ。ジルベールを連れては行けない街なんだよ」
「家族がいるの? 僕、仕事を見つけて働くし、迷惑かけないよ。それとも、こんな汚い子供を連れて帰ったら、白い目で見られる?」
 ジルは、フィリップの上着の裾を握り、黒い大きな瞳に涙をためて見上げた。フィリップは目をそらすと、下を向いて黙りこんだ。長い時間黙りこんでいた。そして、靴で地面の芝をぼこっと蹴ると、困ったような泣きそうな笑顔を向けた。
「ノースウィンドゥ・・・」
「えっ?」
「おいらの帰る街は、ノースウィンドゥなんだ。そう言えば、わかるだろ?」
「・・・・・・!」
 ジルの指から力が抜けていった。フィリップの上着が、はらりと元に戻る。指先が、氷水に突っ込んだみたいに凍えていた。
「おっちゃん、同盟軍のひと?」
「成り行きでね。元はミューズの外交官で、フィッチャーってケチな男さ」
 ジルは後ずさった。まつげにたまっていた涙が、たえきれずはらりと落ちた。
「・・・そうかあ。かっこいいね。頑張ってね。でも、それじゃあ、僕みたいな無能な子供は連れていけないよね」
 さっきの道具屋も、彼に何かの情報を売ったのかもしれない。同盟軍のスパイだったなんて。
『私は、この人の敵なんだ。敵の国王の義娘。敵の大将の妹。敵の最高司令官の婚約者。私は、この人の街を壊し征服した、ハイランドの王女・・・』
「勝負の結果が出るまで、中立の街にいろよ。ノースウィンドゥは、敵の奇襲を受ける可能性もあるし、同盟軍が負けたら、あの城にいる者は子供でも引っ捕らえられるだろう。捕虜か奴隷かムチ打ちの刑か死刑か・・・。関係ないおまえを、巻き込めないさ」
『ムシがよすぎる。私の一族がしたことを、していることを、ルルノイエに置き去りにしたまま、私だけが自由になるなんて。逃げようとしたなんて。私には関係ないと、目をつぶり耳を塞いでいるなんて』
 ジルは、再びフィッチャーの上着を握りしめた。
「僕、おっちゃんを応援するよ。だから・・・。足手まといになるのヤだから、ここで別れる」
「ジルベール。行く当てはあるのか?」
 ジルは快活にうなずいてみせた。
「死ぬ気になりゃあ、なんでもできらあ」
「ばか。そんな悲しいこと、言うな」
 フィッチャーは眉根を寄せて、泣きそうな顔になると、ジルの両肩に手を置いた。暖かい大きなてのひらだった。
「すまない。大人が戦争なんてやってるせいで、おまえらガキんちょ達までこんな目に遇わせて」
「なに深刻ぶってんだよ、おっちゃん。じゃあね、バイバイ」
「待てよ、少しでも旅費の足しに・・・」
「薄給の公務員からなんて、恵んでもらっちゃオトコがすたるよ」
 フィッチャーの手をするりと抜けて、黒髪の少年は草原の方へ走り出した。そして、途中で振り向くと、まるで妙齢の少女のように華奢でほっそりとした腕を、フィッチャーに向かって大きく降った。
 フィッチャーも手を振り返し、そしてコロネの港へ向かって歩き出した。上着には、まだ少年が握った皺の跡がくっきり残っている。
 フィッチャーは手でそっとその皺に触れてみた。
 ミューズが崩壊する日が近いのを、まだ二人は知らない。

                              ☆ おわり ☆  


フィッチャー 連作 「香水」へ


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