第60話 『香水』


 フィッチャーは、右手に雑巾入りのバケツを下げ、左手にモップを持って、肩で市長室の扉を開けた。暫く使われていなかったこの部屋は、埃と黴の匂いがした。彼は荷物を降ろすと真っ先に窓を開けた。時代が変わったことを告げる、新しい風が吹き込んで来た。
 何の因果か市長になってしまった。窓から見えるこのミューズという大きな街を、自分が治めなければならない。ゴールドウルフに荒らされた街並は、まだ復興のきざしさえない。多くの市民が死んだ。家族を無くし、家を無くした。街が一度死んだのだ。そして、偉大なアナベル市長ももういない。
 フィッチャーは顔をぽりぽりと掻くと、まずはモップで床の掃除にかかった。
 副市長だったジェスは、「わたしには、アナベルの後継者はとても務まりません」と、立候補を辞退した。フィッチャーが『おまえがやんなきゃ誰がやんだよ!』と思っていたら、シュウに呼ばれて「おまえが立候補しろ」と言われてしまった。信任投票で市長になったらなったで、ジェスの風当たりは強い。アナベルの後を、フィッチャー『ごとき』が継ぐのが気に入らないらしい。
 市長なんて、自分こそ柄じゃあなかった。表に立つより、裏で色々工作する方が向いているのだ。嘘の一歩手前で駆け引きしたり、本当のことを言わないで取り引きしたり、相手をおだててOKをもらったり。アナベルは、実に上手にフィッチャーの力を引き出してくれた。アナベルの仕事をするのは楽しかった。
 アナベルの、女だてらの大きな背中や、意外に柔らかくたおやかな髪が懐かしい。男っぽい口調と不釣り合いだった、あの高くなめらかな声で命令されるのは、心地よかった。
 アナベルはこの部屋で命を落とした。同盟軍リーダーの親友だったジョウイ、あの少年の裏切りによって暗殺されたのだ。彼はその手柄を土産にルカに受け入れられ、やがてハイランドを手中に収める。あんな偉大な女性が、たった一人の少年の野心の犠牲になったなんて、やるせなかった。
「感心しないねえ、おいららしくもない。うだうだ考えても仕方ないことを、いつまでも考えんのはよしやしょう」
 誰もいない部屋で声を出して自分に言い聞かせ、パンパンと手を払ってモップを立てかけた。次は机の整理だ。「これをしなけりゃ、おいらの政務もできませんよねえ」と、誰にともなく話しかけた。
「おやおや」
 一番下の引き出しから、何本もの酒瓶が出て来た。みんな飲みかけのようで、一度栓が開けられている。「アナベルさん〜、仕事しながら飲んでやしたね?」ま、これは見なかったことにして・・・。
「あれれ?」
 大きな引き出しの奥から、書類に紛れて小さな香水の瓶が現れた。それは、半分ほどに減っていた。アナベルが香水をしていたのなんて、気づかなかった。

 フィッチャーは、それを、隣の書庫で整理をしていたジェスのもとへ持って行った。
「お掃除中、すみませんねえ。市長の机から、こんなものが出て来たんですが」
 ジェスは、ころりと丸い形のそれを手に取りコルクの蓋を開けた。きりりと女らしい、清涼感溢れる香りが微かにフィッチャーの鼻をくすぐった。ジェスも目を細めた。
「ああ、確かにアナベルのだ。同じ香りだ」
「市長が香水をしてらしたのなんて、おいら知りませんでしたよ。香りを覚えてらっしゃるとは、ジェスさんの記憶はすごいですねえ」
「・・・ふんっ」
 赤面した顔をごまかすように、ジェスは無愛想な表情を作って、瓶をフィッチャーに押し返した。
「あれ、いらないんですか?」
「なんでわたしがっ!」さらに赤くなって、大声になった。
『アナベルさんの形見の香水、欲しくないわけないのに。無理しちゃってますねえ。ほーんとにコドモなんだから』
 フィッチャーはにやっと笑うと、「おいらは一人暮らしなんで、あげる女性の心当たりもありやせんし。ジェスさんはご家族とお暮らしでしょう。ご母堂か妹さんにでも差し上げたらいかがですか。使いかけが気になるなら、まかないの女にでもやればいい」
 フィッチャーにそう言われて、ジェスは「そうだな」と、やっと手を元に戻した。そして、瓶を、極上の宝石のように大切そうに握りなおした。
 毎日そばにいてアナベルを見守っていたジェスの、心の痛みをフィッチャーが理解することはできない。だが、彼がすぐに市長の椅子に座る気になれなかった気持ちはわかる気がした。
「フィッチャー」
「なんです?」
「・・・市長が『おいら』はよせ」
「・・・・・・。」
「明日からは不精髭もそって来いよ」
「へーい」
 フィッチャー、32歳。今日からミューズ市長。ジェス、24歳、元副市長(現・一般市民)。なぜかジェスの方が十倍も偉そうな口をきく。
 市長室に戻って、雑巾で机の上や引き出しの中を拭きながら、ちらと酒瓶の中身を覗いてみた。
「どれももう飲めたもんじゃないな」
 香りもアルコールも飛んでいたし、中にはカビみたいなのが浮いている瓶もある。だが、処分する気にはなれず、瓶の埃をきれいにぬぐって、元通り机の一番下の引き出しに戻しておいた。
「おいらにとってのアナベルさんのイメージは、やっぱり香水瓶より酒瓶だな」
 アナベルを『女性』として認識したくなかった。認識してしまうと、今まで繕って来たものが、崩れてしまう。どうせアナベルは死んでしまったのだし、いまさら本当の自分の気持ちなんてどうでもよかった。
「おっと、『おいら』は禁止なんだっけ。まったく、面倒だったらないな」
 フィッチャーはやれやれというように、バケツで雑巾をすすいで堅く絞った。窓の外では陽が落ちて行く。フィッチャーの市長就任初日は、市長室の掃除で終わったようだ。

   おわり

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