第62話 『フィッチャー市長最後のお仕事 第二章』



「産まれた子供が女の子だったら、男のかっこをさせて、近所にも男だということに・・・してもらえる・・・わけ・・・ないですね、そうですよね」
 フィッチャーは、ヨシノのいれたお茶をずずずとすすった。ジルは縫い物の手を一瞬止めて一瞥して、また作業に戻った。
「おっちゃん、自己完結するくらいなら、言うのやめたら?」
「・・・おっちゃん言うなって言っただろ! おいらはまだ若・・・くないですね、ジル殿にくらべたら」と、またも茶をすする。
「自己完結するところに、若々しさがないんだってば。それに、その中途半端な言葉使いをやめてよ」
 ジル単体にさえどう接していいかわからなかったのに、ジルがジルベールだとわかってからは、もうドツボのフィッチャーだった。
 ヨシノがフィッチャーにおかわりの茶を注いでくれた。場がもたないので茶ばかり飲んでいる気がした。それもじじくさいと思われているのだろうか。
「フィッチャーさん、わたくしは、反対のことを提案しようと思っていました。男の子だった時も、女の子として育てれば、残党に利用されずにすむのではないかと」
「ヨシノさん、この男は、逆に利用することを考えてたのよ」
 ジルは眉ひとつ動かさずに淡々と縫い物を続けた。
「残党をいぶり出すことに、私の赤ちゃんを利用しようとしているの。ね、そうでしょう、市長さん?」
 図星なので、フィッチャーは黙っていた。
「あなたの黒幕に伝えてください。私は、子供の性別を偽って育てる気はありません、と。男なら男として、女なら女として育てますから」
『黒幕って・・・。大統領なんですけど、一応あのひと』

 フィッチャーが庭に出ると、ピリカが犬のナナミとじゃれて遊んでいるところだった。暖かな春の陽射しが芝生の庭に降り注ぎ、少女と犬を包み込む。物干し竿に干された白いシーツ達が、風に揺らめいてくすくす笑っているようだ。そこは神に祝福された天使の庭のように見えた。
「やあ、ピリカちゃん」
「うう、うう!」ピリカは笑顔で返事をくれた。
 フィッチャーがミューズで買ってくる絵本やおもちゃのおかげで、ピリカはすっかりなついてくれていた。短い時間だが、フィッチャーはここへ来ると、買ってきた石版でピリカに字を教えていた。頭のいい子なのだろう、既に文字でなら会話ができるようになっていた。
『あとどれくらいでうまれるの』たどたどしい字で、ピリカが石版に綴った。
「もう臨月だからね。いつ産まれてもおかしくないよ。ピリカちゃんはおねえさんになるんだから、これまで以上にジル殿のことを助けてあげなきゃね?」
『ピリカ、いまもたすけてるよ』
「うん、そうだね。ピリカちゃんは偉いよね」
『おねえちゃんはよくピリカをぎゅっとして、ピリカがいたおかげでたすかったっていうの』
「・・・・・・。」
 フィッチャーは言葉を失い、ただ、ピリカの頭をなでた。
「あら、ピリカちゃん、フィッチャーさんに遊んでもらってたの? よかったわねえ」
 洗濯物を取り込みに、ヨシノも庭に出て来た。ちらりとフィッチャーを見たが、メガネの奥の瞳がまだ憮然としているのがわかった。
「・・・わたくし、フィッチャーさんを見損ないました。ジルさんの赤ちゃんを、そんなことに利用するつもりだったなんて。そのために親切にしているのですか? 同じ女として許せません」
 ヨシノは背伸びしてシーツを竿から次々とはずしていく。憤慨のせいか、乱暴で素早い手つきで白い布がはがされていった。だがヨシノの背では少しきついようだ。フィッチャーは横に立ち、取り込みを手伝った。
「おいらは『フィッチャー』ですよ、利用できるものは何でも利用するに決まってるじゃないですか。嘘つきで調子がよくて、やってることの全てにウラがある。口先だけで生き抜いて、市長にまで成り上がった男だ。忘れたんですか?」
 フィッチャーのからかうような口調に、ヨシノの手が止まった。
「ごめんなさい、言い過ぎました。どうせシュウさんの差し金ですよね? フィッチャーさんが、ジルさんを思いやってあげているのは、見ていてわかります。ジルさんが気の毒で、つい出すぎたことを言いました」
「きっとジル殿は、同情されるのは嫌いですよ」
「そうね。・・・定期検診でいらっしゃるキャロのお産婆さんがね、渋い顔をなさっていたわ。ジルさんは健康だし子供も順調なのだけど、なにせ歳が若くてまだ体ができていないので、難産になる可能性が高いのですって」
「難産。そうですか・・・。でも、ジル殿はつよい人だ、きっと大丈夫ですよ」
 フィッチャーが心配したからと言って、いい結果になるという問題でもないだろう。フィッチャーは自分にそう言い聞かせた。もし、赤ん坊がダメだったら、ジルの落ち込みはどんなだろう。慰める言葉なんて見つかるはずもない。もし、ジルが死んだら? そんなことは考えたくもなかった。
「あ、そういえば」と、ヨシノはクスリと笑った。
「キャロの街では、ジルさんのことはずっと謎だったみたいです。郊外の屋敷に若い身重の女が住んでいて、ほとんど人と付き合いもなかったでしょう? わたくしが買物などでキャロに行くようになって、随分色々尋ねられました。街の人たちは勝手に想像をめぐらしていて、どこぞの名士に囲われた愛人ってことで落ち着いたようです。どこぞの名士って、あなたのことね、きっと」
「やめてくださいよー。・・・今まで、本当に誰も訪ねて来なかったんですか? 手紙や使いの者を見かけたこともなかったですか」
 ヨシノはしっかりと強く頷いた。
「ジョウイは、どういうつもりでいるんでしょうね。リーダー達と旅に出て、もう帰らないつもりなのかな。それとも帰る気はあるのだろうか。帰るとしたら、ジル殿の元に帰るつもりだろうか」
 それこそ、フィッチャーが色々想像してみても仕方のない最たる事柄だった。自分はジョウイではないのだ。わかるはずもない。だが、最近のフィッチャーは、そのことばかり考えていた。
 ジョウイの居所を探し出すのは、容易ではないが出来ないことでもない。もしかしたらシュウのことだ、とっくに情報を持っているかもしれない。ジョウイがジルの妊娠を知れば、旅をやめて帰って来る可能性は大きい。
「ジル殿は、ジョウイを待っているんでしょうかねえ」
「・・・ばか」
「はっ?」
 ヨシノはフィッチャーが腕に抱えたシーツを、むしるように奪い取った。
「フィッチャーさんが、こんなにおばかだとは知りませんでした。少し腹が立ちました。そろそろミューズに帰るお時間ですわよ。ごめんくださいませ」
 ヨシノはすたすたと屋敷へ戻って行く。何がヨシノを怒らせたのかわからないまま、フィッチャーは茫然と背中を見ていた。と、ヨシノはくるりと振り返った。
「今の質問、ジルさんに直接するようなこと、絶対やめてくださいね」


 フィッチャーはつないだ馬をほどいて、石の門を出た。次に訪れる時にはジルは母親になっていることだろう。
 ヨシノがあれほど「ばかばか」言うってことは、彼女には答えがわかっているってことだろうか。それとも、それに触れることがジルを傷つけるからという意味だけなのか。
 ポキリと木の小枝が折れる音に、フィッチャーは振り返った。茂みが揺れ、木の葉が散っていた。
『ムササビでもいたのかな。キャロには野性のムササビが多いらしいし』
 フィッチャーは馬にまたがり、燕北の峠へと向かい走り出した。しかし、さっきの『ムササビ』が気になっていた。
『戻るか? しかし、陽が落ちてから峠を越えるのはホネだが・・・』
 手綱を握ったまましばし迷っていたが、深くため息をつくと馬の方向を変えた。

 屋敷に近づくと、土には自分のではない足跡が残っていた。三人か、四人か。フィッチャーの背中に悪寒が走った。フィッチャーは誰ともすれ違っていない。つまりこの足跡の主たちは、隠れてフィッチャーが行くのを窺っていたってことだ。
 ハイランドの残党だろうか。ジョウイ達が、ジルの妊娠のことを聞いて戻ったことも考えられたが、もの陰から覗いた庭は、ひっそりと静まり返りピリカの笑い声もナナミの鳴き声も聞こえなかった。屋敷全体が息をひそめている気がした。嫌な感じだ。
『まいったな。おいらはこういうことは得意じゃないんだが』
 腰の短刀を確かめ、動きやすいように上着を脱いだ。同時に、馬に手紙をつけてキャロに向けて放した。だが、この手紙が届いたとしても、よそ者のジルに対してキャロの住民がどこまで動いてくれるかはわからない。
『キャロの応援を待ってから動く方が利口だな』とフィッチャーは思った。だが、きっと自分は利口ではないのだ。ジルの安否を確かめたくて気持ちが急いている。
 裏に回り、木をつたってベランダに降りる。ナナミに気づかれて鳴かれるのが怖かったが、芝の上、骨つき肉の傍らで倒れているナナミの姿が見えた。毒入りの肉でも与えられたのか? かわいそうに、何の罪もないのに。苦しんだ形跡がないのだけが救いだ。
『これで、少なくとも好意的な相手でないことだけはわかりましたね』
 ベランダから二階に侵入し、靴音がしないよう裸足になった。部屋は荒らされていたが、人の気配はない。ドレッサーの引き出しが乱雑に開けられ、中身が放りだされていた。フィッチャーは床に落ちたピンクの下着を手に取った。
『可愛いのはいてるんだなあ。場合が場合じゃなけりゃ、もう少し楽しませてもらうんですけど』
 それをベッドに置くと、扉にぴたりと体をくっつけた。扉ごしに階下の音を拾う。歩きまわる靴音は一人、それと低い男の話し声。ジル達の声はしない。
 軋まぬようゆっくり扉をあけたフィッチャーは、悲鳴をあげそうになって自分の口を抑えた。廊下に見知らぬ男の血まみれの死体が転がっていたのだ。仰向けに倒れた男は目を開けたままだった。喉から腹にかけての長い傷。ヨシノのナギナタだろう。ヨシノが殺さねばならなかった敵ってことだ。これはもう、話し合いに来たハイランドの残党でもなさそうだ。
『見なかったことにして、そのまま帰っちゃいましょうかねえ』と、苦笑まじりに廊下へ這い出た。
 匍匐の姿勢で階段から居間をのぞくと、大きな男がヨシノの桜丸を手に立っているのが見えた。ヨシノとピリカは後ろ手に縛られて、床に転がっている。特に外傷はないようだ。男は毛皮のチョッキを素肌にまとい、腰に斧を下げていた。燕北の山賊かもしれない。フィッチャーはため息をつくた。自分が三人いても、この男一人に勝てないだろう。
『ジル殿はどこだ?』
 二階の廊下を回り込み、居間の鏡が見える場所まで移動した。フィッチャーは心臓が凍りつくかと思った。ジルはもう一人の男に抱えられ、喉元にナイフを突きつけられていたのだ。
「早くはいちまえよ、お妾さんよ。もらった宝石がこれだけってこたぁないだろ。残りはどこに隠してんだい?」
 男が、ナイフの腹をぺたぺたジルの喉にくっつけながら言った。
「どこにも隠してません。それで全部です」
 意外にしっかりとしたジルの声が聞こえた。
「ならば、あんたを人質にして、あんたのご主人から身代金をいただくって手もあるんだが。あんたの亭主は誰なんだい? どこの商人か役人か?」
 ジルが鏡ごしにフィッチャーに気づいた。フィッチャーが小さくピースをすると、リラックスしたのか、微かに笑った。
「頭がからっぽの山賊でも聞いたことがあるでしょう? この国の大統領でシュウって男よ。彼のような切れ者を敵にして、あなたたちがお金を取ることができると思って?」
『おいおい。シュウ殿を妾持ちにしちまったよー』
 残りの敵は二人。短剣の柄を握る手が汗ばんだ。護身用のこんな飾りの武器では、やつらに傷さえ負わせられないだろう。それでなくても、闘いにはまったく自信がなかった。だが、フィッチャーは、今からジルを助けようとすることに、何の疑問も持っていなかった。
『勝機があるとしたら、いつだ?』・・・奴らの気がゆるむ時。それは?
「うっ・・・。陣痛が・・・。う、産まれる!」
 ジルは前かがみになった。
「な、なんだって!」 「お、おい、どうするよ」
 山賊達が困惑して顔を見合わせた。ヨシノが叫んだ。
「私の縄を解いてください! お嬢さまのお産が不幸なことになったら、身代金どころじゃないでしょう!」
 大男はナギナタを壁に立てかけると、しぶしぶヨシノの縄をほどいた。身をかがめたジルの首からは、男のナイフも離れていた。
『今だっ』
 フィッチャーはナイフを抜いて、二階から飛び下りようと欄干に手をかけた。
 と、その時。
「蹄の音?」
 みんな一瞬動きを止めて耳をすました。馬のいななきと同時に、バタンと扉があいた。
「うおおおお! フィッチャー殿の一大事、お助けに参った!」
 剣を振り回しながら、見覚えのある男が飛び込んで来た。
『マ、マイクロトフ・・・』
「なんだこいつ!」「やっちまえ!」だが、斧やナギナタに手を伸ばす前に、優秀な騎士の剣は二人の喉をかっ切っていた。
「ま、待ってくれ、マイクロトフ・・・」やっと追いついたカミューも、部屋へ駆け込んで来た。
「まずは二階へ上がって様子を窺ってから・・・、もし人質でもいたら・・・。あれ?」

 マイクロトフ達は、騎士団を退団しグラスランドへ旅立つところだった。だがその前にこの国をもう少し見ておきたいと旅に出て、キャロの街でフィッチャーの馬に出会ったというわけだ。
 山賊をキャロの警官に引き渡し、死体も片づけてもらった。
「キャン、キャン!」新顔のいい男がいるのに気づき、ナナミははしゃいでカミューにじゃれついてきた。フィッチャーは仰天して、「ナナミ、死んだんじゃなかったのか!」と歓喜の声をあげた。
「ナナミは、死んだフリが得意なのよ」と、ジルがそっけなく言った。
「フィッチャー殿、二人目のお子さんが産まれたらすぐにでも、きちんと結婚された方がいい。自由でいたいのかもしれないが、男はきちんと責任を取らなければ」
 真一文字に結んだ口で、マイクロトフが注意を促す。彼は街の噂を信じて、すっかり誤解したようだ。しかも、ピリカまでもフィッチャーの子供だと思っている。カミューは後ろでクスクス笑っていた。彼は、ジルという名で何か気づいたかもしれないが、余計なことは何も言わなかった。
「そういえば、ジル、いい機転だったな。陣痛が起こったフリをして、山賊達をひるますなんて」
「・・・忘れてたわ・・・。ほんとに来てるの・・・。いたたた・・・・」

「フィッチャー殿は、奥方のそばについていてあげてください」と、マイクロトフ達がキャロへ戻るついでに産婆に連絡してくれた。産婆が来てからは、フィッチャーは邪魔だと寝室から追い出されてしまった。
 居間でピリカと遊んでいるうち、ピリカは眠りについた。マシュマロに目鼻を描いたような可愛い寝顔だった。ジルの子供も、きっとこんなに可愛いんだろう。
 ジルは難産になるかもしれないという鈍い心の痛みが、常にフィッチャーを不安にした。
『ジルは強い女だ。きっと乗り切れる』自分にそう言い聞かせ、ピリカの髪を撫で続けた。
 小鳥のさえずりがしていた。朝陽が部屋に差し込み、まぶしさに片目を開いた。自分もあのまま眠ってしまったらしい。その時、夢うつつで小鳥の声と思っていたのが、違うものの声だということに気づいた。
『あ・・・産まれたんだ』

<第二章 終>    

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