パジャマで弾くノクターン

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 ☆ 一 ☆

 ミントは田舎のバスにゆられていた。
 シティから列車で一時間。さらにバスに乗って四十分の村。 そこが、家政婦協会が指定 した今度のミントの勤め先だった。
 バスは舗装道路の町を過ぎ、土ぼこりをあげ始めていた。 ほこりと霞で窓の外はぼうっとけむっている。畑のむこう、遠い山並みの淡い白は、桜だろうか。
 バスの内は、少しずつ人が減っていった。ミントが行く ような山奥まで帰る人は少ない のだろう。こんな田舎のことだから、 よそ者のミントはじろじろと見られた。
 シティでは、決して注目されるような女の子ではなかった。 ひょろりと背だけは高いも のの、長すぎる手足は女らしさを欠いていた。 帽子からのぞく編込み三編みの髪は赤毛だ ったし、尖ったアゴと三日月のような目と少し上を向いた鼻。 地味な顔立ちの少女で ある。
 今はその長い手足を、ツイードのスーツに包み、 バスの狭い座席に折り曲げるようにし て座っている。編み上げブーツの足元には 頑丈そうな木枠のスーツケース。村で生活する 為にやって来る若い女性は少ない。 確かに退屈な村人の好奇心をかきたてるだろう。ミン トはジロジロ見られるのがイヤで、思わず帽子のつばを下げて顔を隠した。
 今度のところは、村のバス停からもさらに徒歩で四十分ほどかかる森の中。  そこに、風変わりな天才科学者の研究所がある。
 なんでもその博士はすさまじい変人で、家政婦協会から 派遣された家政婦が十日ももっ たためしがないというのだ。おまけにこんな僻地である。 誰も行きたがらないクライアン トだった。
・・・でも、私は自分から希望して来てしまった・・・
 秘密を持つミントには人里離れた村の方が都合がよかったし、 たぶん、主人となる博士 は家政婦なんかに無関心で研究に没頭しているだろう。
・・・それに、もしかしたら、私を助けてくれるマシーンがあるかもしれない・・・
 「 次はガーリック村。お降りの方はいませんね」
 ミントははっと顔を上げた。しまった、降りるバス停だ。
 「降ります、すみません!」
 ミントより先に誰かが声を上げた。慌てて立ち上がりながら。
 バスは急停車した。
 「うわっ!」
 声の主はよろけて、かかえていた紙袋を落っことした。 バスの通路いっぱいにコロコロ とオレンジが転がった。車内に広がるオレンジの香り。
 「す、すみません」
 まだ若い青年だった。彼は真っ赤になりながらしゃがみこんで オレンジを拾いにかかっ た。見兼ねたミントも何個か拾って紙袋に放り込んであげた。
 「あ、どうも」
 そのバス停で降りたのは、ミントと彼だけだった。
 彼は、肩にかかりそうな長い栗色の髪と白い額、子供のようなまなざしの、 なかなかの 美青年だった。コットンの白いシャツがよく似合っていた。
・・・来たそうそう、こんなハンサムと知り合いになれるなんて、ついてる・・・  ときめいたミントだったが、すぐに首を振った。
・・・何を考えてるのよ、ミント。最愛の人がいるくせに!・・・  「いやあ、助かりました。一個どうぞ」
 青年は、人なつっこい笑顔でオレンジを差し出したあと、  「この村の人じゃありませんよね?」  と尋ねた。
 「シティから、森の研究所に派遣されて来た家政婦なんです。  えーと、この地図なんですけど、どう行けばいいのかしら?」
 「私も森の方へ行くんです。ちょうどよかった、ご案内しましょう。自転車の後ろにそ のスーツケースを乗せればいい」
 「わあ、ありがとうございます」
 青年は、バス停のそばに止めてあった自転車の後ろにミントの 荷物を縛って乗せると、 自分のオレンジは前のカゴに放り込んだ。 そして自転車をゆっくりと引いて歩き始めた。 ミントはその少し後ろからついて行った。
 軒の低い素朴な作りのレストランやバー、小さな市場、 古い丸木作りの店構えの雑貨屋 や仕立屋や酒屋。村で唯一開けた地域もすぐに通り過ぎた。  今、目の前に広がるのは、ただ、だだっ広いだけの野原と青いだけの空。
 「あなたのような若い女性が、シティからこんな田舎に派遣されるなんて 、少し気の毒 な気がするな」
 「お掃除やお炊事するのに、都会も田舎もないでしょう。ただ、不安なのは・・・ 」
 ふとミントの顔が曇る。
 「不安なのは?」
 「私の行く研究所の、ラベンダー博士という人は、 大変な変人なんですって。今まで派 遣された先輩家政婦達が、みんな逃げて来たのよ。 意地悪なお金持ちやいたずら悪ガキも 平気だったベテラン達が、よ。
 私の前の人は一週間。その前の人は三日。当日に逃げ出した人 もいたらしいわ。  家政婦協会の顧客のワースト・スリーに入ってる」
 「そんなに人が居つかないんじゃ、確かにブラック・リストものだろうなあ」
 「映画に出て来るような、マッドサイエンティストなのかなあ。やだなあ。  ガリガリに痩せこけて、びん底メガネかけてて、世界征服もくろむマシーンを開発して たり。  じゃなければ、ハゲでデブで、研究に夢中で一ケ月もお風呂に入って なかったり。きっ と、家の中はわけのわからない発明でいっぱいなんだろうなあ。 あーあ」
 ミントのため息に、青年はぷっと吹き出した。
 「女の子ってすごいなあ。勝手に色々想像して勝手に落ち込んでる」
 「あら、私の新しい職場のことなのよ。深刻になって当然でしょ?  ラベンダー博士のこと、知ってるの?」
 「狭い村ですからねえ」
 「ねえねえ、どんな人?知ってること、教えてくれない?」
 「村の新聞に載っていたプロフィールは・・・ 『四歳の時に既にIQ二百の天才で、英才 教育センターへ入れられて、十歳で大学を卒業、 十四歳で博士号を三つとって、大人にま じって政府機関の研究所で働いていたが、十七歳の時ガーリック村の 森に研究所を構え、 国から資金を与えられて独自で研究を開始。今もその研究は続けられている。内容は国家 機密』 だってさ」
 青年はケラケラっと笑いながら教えてくれた。
 「す、すごい人なんだあ。 やだなあ、ますます怖くなっちゃった」
 タンポポやレンゲの野原は終わりをつげ、自転車は昼でもうす暗い森のトンネルへ入っ て行った。木漏れ陽が不思議な形を作って道を照らしている。
 「うまくやれるかなあ。それでなくても私って、劣等家政婦なのに 」
 「『劣等家政婦』ーっ?」
 「すぐクビになっちゃうの。電化製品オンチなのよ。うまく使えないの。  洗濯機を使ってて部屋を泡でいっぱいにしちゃったり、トーストを炭にしちゃったり、 ガスストーブを爆発させちゃったこともある」
 「あはは。そりゃあアブナイ家政婦だ」
 青年は腹をかかえて笑っている。
 「前のところは一週間。その前のところは三日。 当日にクビにされた家もあるわ」
 「はははは。  当然、家政婦協会の派遣者リストでもワースト・ スリーに入ってるんだろう? ラベン ダー博士といい勝負になりそうだな」
 それを聞いて、ミントはふくれっ面になった。
 「マッド博士と一緒にしないでくれる?」
 「おっと、私が博士なら『劣等家政婦にそんなこと言われたくないね』って言い返すけ どな」  そう言って笑う青年。
 「あ、見えてきた。あれが研究所」
 森の中、うっそうとした木々の影が切れて、芝生が広がる野原に出た。 その真ん中に、 ポツンと、白い半球状の建物が建っている。プラネタリウムのような、リゾートホテルの ような。  いや、ババロアのような、アイスクリームのような。
 「かわいい・・・ 。もっと、うす汚れた白い壁や高い塀の 精神病院とか監獄みたいな 建物を想像してたわ」
 「ひどいもんだな。ラベンダー博士はそうとう誤解されてるらしい」
 青年は建物の前で自転車を止めた。
 「はい、お嬢さん、着きましたよ」
 「どうもありがとう。結局ここまで案内してもらっちゃったわ」
 「いいえ、どういたしまして」とミントのスーツケースを降ろしながら、「どうせ私の 家だしね」と笑った。
 「えええーっ!? あなた、ラベンダー博士の息子さんなの!?」
 青年はクスッと笑って、ズボンのポケットから鍵を出して扉をあけた。
 「『私』が、デブでハゲでびん底メガネのラベンダー博士です。そうそう、世界征服も 企んでるんだっけ」
 「えーっ!! ・・・ うわっ。ご、ごめんなさーいっ!」
 ミントは頭をかかえてしゃがみこんだ。
 「だって、こんな若い人だなんて・・・ 。あなたもズルイわよ、一言もそんなこと言わず に!」
 「おかげで、世間の抱く私のイメージがよくわかりました。道理で家政婦が来たがらな いわけだ」
 「・・・ 」たらり。
 「やっと来てくれたと思えば、劣等家政婦」
・・・あーっ、しまったあ。よけいなこと喋らなきゃよかった、あーん・・・
 もう、クビだろうな。すまなそうに戸口にたたずむミント。
 派遣された家に一歩も入らないうちにクビになるなんて、新記録だ。
と、青年はクスクス笑った。
 「私はあなたが大変気に入りました。仲良くやりましょう」
 「えっ? あんなヒドイこと言ったのに、クビにしないんですか?」
 「君は変わってて面白いよ。私はどうせ変人だから、君ならうまく やっていける気がす るな」 と青年はまたおかしそうに笑った。
 「えーん、すみませんってばぁ。『変人』って言うのは、協会の、電話をくれた人が言 ったんですよぉ」
 「いいよ、きっと、ほんとに私は変わってるんだと思うよ。それに、言われないと一週 間くらい風呂に入んないのもほんとだし」
 「き、きたない・・・ 」
 「ヘタすると、メシも食わない、ベットにも入らない。だから誰か中断してくれる人が 必要なんだよ」
 ラベンダー博士は、大きく扉をあけると、  「どうする? 君が職場を拒否することもできるけど?」
 「・・・・・・ 」
 ミントは少し躊躇した。この扉の中には、本当にとんでもない世界が待っているのかも しれない。
 博士は扉を手で抑えて待っている。  屈託のない子供のような目で、笑いかけながら。
扉の中に入ってみようか。信じていいんじゃないのかな。
 ミントは一歩を踏み入れた。もう物語は始まっていた。



☆ 二 ☆

 ラベンダー博士は、オレンジを抱えて、ミントをまずキッチンに案内した。  前の人が出て行ってから二週間。しかし台所は思ったより整っていた。
 「今さらですが、一応、ご挨拶を。わたくし、家政婦協会から来たミント・キシリトー ルといいます、よろしくお願いします」
 「ほーんと、今さら、だよ」 と博士は笑った。
 「堅苦しいのは好きじゃないんだ。家族のつもりで気楽にしていてください。  私がドクター・ラベンダー。この子がバージル。可愛がってやって」
 博士は足元をうろついていた黒い猫を抱き上げた。
 「とは言っても、働いてもらうんだし、お金の話をしなくちゃなあ。お給料や労働条件 は、前の人と同じでいいの?」
 「あ、はい。そうです」
 ミントはあわててスーツのポケットから、茶封筒を取り出した。その中には、家政婦協 会から持たされた『ミント・キシリトールを派遣いたします』という証明書と、博士から サインをもらって協会に送り返す契約書が入っていた。博士は猫を抱いたまま、片手でサ インをした。これで、週の初めに博士の口座から協会に振り込まれた金額の七割ほどが、 週の終りにお給料として協会からミントの口座に振り込まれることになる。
 「この家を案内しながら、仕事を説明して行こう。まず君の部屋を」
 博士は猫を腕に抱いてキッチンを出た。 ミントは博士のうしろを、スーツケースをひき ずってついて行った。
 「君の仕事は、私の自宅を整えてくれること。 掃除も洗濯も君のペースに任せる。研究 室はノータッチでいい。  あとは食事の用意。人間は一日三回、猫は二回」
 一階にはキッチンと食堂と居間、階段を昇って二階にプライベートルームと書斎があっ た。
 「このはじが私の部屋。毎朝八時に起こしてください。そうそう、 は仕事に入ると時 間が無くなってしまうので、食事の十二時と六時と、 仕事を切り上げる夜の九時には研究 室に呼びに来てください。あと三時にお茶を入れて持って来てください」
 「はい。でも、研究室には時計はないんですか?」
 「あるけど、どうも見ていないらしい。おまけに腕時計もしているんだけど。  ヘタすると何日も食事もせず、眠りもせずに仕事してる。今は、いちいち目覚まし時計 をセットして置いてる」
やっぱり、変わってるかもしれない・・・
 「隣の部屋が書斎。本が読みたい時は自由に持ち出していいです。 でも、研究関係の科 学の本が多いから、女の子はつまんないかな。
 この、廊下の一番奥が君の部屋。バスルームもクロゼットもピンクのドレッサーも付い てる。可愛い部屋だから、女の子好みだと思うよ。  実は私の部屋も同じ作りで、同じピンクのドレッサーもついてる」
 「えーっ? 博士って、そういう趣味!?」
 「言われると思った。・・・  政府はここを国営のペンションにするつもりで作ったらしいんだ。だから外見も少しそ んな感じだろう? 政策が変更になって、いらなくなっちゃったんだろうなあ。  それを研究所として与えられたんだから、私の才能も、研究内容も、いかに期待されて ないかがわかる」
 博士は肩をすくめて笑った。
 「このまん中の部屋は妻のローズマリーの部屋。やっぱり作りは同じなんだ。私と妻の 部屋の掃除も、君のペースでいいよ」
 「奥様が、いらっしゃるの?」
こんな変人科学者に、奥さんがぁ?
 「あとで紹介するよ。私に妻がいちゃ、へん?」
 「だって、お若く見えるから・・・ 。博士っていくつなんですか?」
 「二十三。結婚したのは三年前」
 若い。博士の年齢も若いが、結婚もなんて早かったんだろう。
 「私が今二十歳だから、この歳にもう結婚なさってたのね。大学出るのも結婚するのも すべて早かったんですねえ。
奥様はおいくつ?」
 「結婚した時は二十一歳。そして今も二十一歳、かな」
 「・・・ ?」
 「会えばわかるさ。
 少し部屋で休む? 今四時だから(と、腕時計をちらと見た) 六時に食事の用意 をして、研究室に呼びに来てください。冷蔵庫にはかなり買い置きがあるし、キッチンの 床の貯蔵庫にも。なんとかなるでしょう?
 私は好き嫌いもないし、食べ物には執着がない方だから、力作は作らなくていいよ。自 分の食べたいものを、適当に作ってみてください。
 じゃあね」
 博士は猫を抱いたまま、階下へ降りて行った。

 ミントは自分の部屋に入ると、スーツケースを置いて、 その上にに腰かけてため息をつ いた。少し疲れたかも。
 ゆっくりと部屋を見回す。
 広くはないが、可愛い作りだ。白を基調とした壁。 フローリングの床は赤味のある茶色 なので暖かい感じがする。くすんだ色の小花模様の ベッドカバーとカントリー調の木のベ ッド。籐のクロゼットとピンクのドレッサー。 グリーンのチェックのカーテン。
 小さいがベランダまでついている。窓を開けると、緑の匂いの風が部屋に滑り込み、カ ーテンを舞い上がらせた。ベランダからは、 庭や、遠くの森さえも見わたせた。
 帽子をとって、家事をする服装に着がえて白いエプロン姿になる。髪を結いなおしてメ イドのミントのできあがりだ。
 一年前までは普通の学生だった。『最愛の人』、 カレッジでも人気者のシナモンの恋人 だった。
・・・すっかりメイド姿が板についちゃって。 もう、シナモンには会えないのかなあ・・・
 「ううん、あきらめるもんですか。弱気になってもいいことはひとつもないわ。
 春野菜のシチューでも作ろうかな。材料がそろってるといいな」
 ミントは食事の支度をするために、元気な足取りで部屋を出て行った。

 「ラベンダー博士、夕飯の時間です」
 六時を五分ほど過ぎた頃、ミントは研究室への一階の長い廊下をこわごわと進んだ。そ して、研究室のスチール製のドアをノックした。この可愛らしいペンション風の建物に不 似合いなドアだった。
 いないの? と不安になるほど間があいてから、ドアがひらかれた。
 「・・・・・・ 」
 博士はドアをあけると、無言でミントをまじまじと見つめ、
 「・・・ ああ、そうか。新しい家政婦が来たのを忘れてた」と苦笑した。
 白衣姿の彼は、まるで手術中の医師のような硬い厳しい表情で、野原で自転車をひいて いた青年とは別の人みたいだった。
 「 ラベンダー博士?」  ミントは少し怖くなった。
 「ああ、大丈夫。いつもこんな風なんだ。  もう六時か。そういえばハラが減ってるな」
 ドアの隙間から、ちらっとのぞいた部屋。ドーム状の高い白い天井、壁沿いにびっしり と計器のたぐい、何台も並ぶコンピューター、修理工場のような溶接機械。
・・・映画でよく見るマッドサイエンティストの研究所と同じだわ・・・  「あ、そうだ、妻を紹介するって言ったっけ。おはいり」
 博士は大きくドアを開いた。
 「研究は国家機密じゃないのですか?」
 「ウソに決まってるだろ。重要な研究ではあるけど、期待されてないもん。
さあ、どうぞ」
 「失礼しまーす。・・・ 奥様って、お仕事を手伝ってるんですか?
・・・!! 」
 中央まで進んで、あるものを目撃したミントは絶句した。
 新生児が入るような透明な四角いガラスケースが、 大きいのから小さいのまでいくつか 並んでいた。コーヒーカップくらいの大きさのにはエンゼルフィッシュ。ミルクパンくら いのにはラット。シチュー鍋ほどのにはウサギが 。  どの容器にもたくさんの管が入り込んで、コンピューターにつながっていた。
 いや、ミントが絶句したのは、それのせいではない。
 壁に立てられた一番大きな容器。そう、棺桶くらいの大きさのそれには、若い女性が入 れられていたのだ。
 普通はこんなものを見たら、恐怖で脅えたり気味悪がったりするだろうが、ミントには これに関する知識があった。
コールド・スリープ(冷凍睡眠)。
 ・・・ラベンダー博士の研究って、これだったのね・・・
 本物を見たのは初めてだが、ミントの住んでいた時代では、 新聞のニュースや科学雑誌 には『大きな病院で実用化が検討されている』という記事が載ったりしていた。
 「綺麗なひと・・・ 。このひとが?」
 「私の妻だった、ローズマリー。
 そんな目で見ないでよ、私が殺したわけじゃないよ。  ま、これを見て逃げた家政婦は多いけどね。二十人・・・ いや、もっとだな」
 博士はこういう態度に慣れているらしく、 笑いながら優しい口調で説明を始めた。
 「『コールドスリープ』って聞いたことがあるかな?」
 ミントは少し考えてうなずいた。何年も前に書かれたSF小説にだって載っている。う なずいても大丈夫。
 「現代の医学で治せない病人を冷凍状態にして眠らせて、成 長も細胞の変化も全く止め て つまり、病気の進行も完全に止めて、 『医学の発達しているはずの未来へ託す』と いう名目で研究されている。政府の思惑は、 ほんとのところはわからないけど。
 私は、コールド・スリープから目覚めた人が、 時代遅れにならずにすむ研究をしている。  何十年も眠っていると、起きた時、 新しい時代についていくのが大変だろ? スリープ 状態でも必要な情報を与えることのできる装置を研究してるんだ。眠っている間にも、ニ ュースや文化、流行などを知らせ続けていける装置のね」
 「ふうん。・・・ で、奥様は人体実験のモルモットに?」
 「まさか。そんなひどいことしないよ。  ローズマリーは研究とは関係ない。私が装置を私物化してるだけ。  死んだ時、外傷が全然無くて、あまりに綺麗なままだったんで、土に埋葬する気になれ なくて 」
 「・・・ 」  ミントは胸が痛くなった。
 「こうしていれば、一緒にいるみたいだから?」
 「うん・・・ 。実はそうなんだ」
 博士は子供みたいな目で、子供みたいに正直に答えた。
 「気味悪がらないの?」
 ミントは首を振った。
 「 泣いてるの?」
 ミントは顔をおおった。
 気味悪いなんて思うはずがなかった。博士の切ない気持ちがわかったから 。
 「・・・ 」  博士も黙ってしまった。こんな反応をした家政婦は初めてだった。
 いや、予感していたのかもしれない。だからこんなに早く教えた。ローズマリーを凍ら せた理由を家政婦に話したのも初めてだ。
 「ミント、夕食にしようか。呼びに来てくれたんだよね。楽しみだな。ミントはどんな 料理を作ってくれたかな。
 さ、行こう」
 ラベンダー博士は優しくミントの肩を押した。



☆ 三 ☆

 「わあ、おいしそうだな。それに、テーブルが可愛くなってる」
 食堂に入るなり、博士はうれしそうな声をあげた。
 お皿を二枚重ねたり、ナプキンを花に折ったり、ミントが少しだけ工夫したテーブルセ ッティングを、博士はとても気に入ってくれたようだ。
 「味の好みがわからなかったので、失敗のないシチューを作ってみました」
 ミントは少し気取ったポースで博士の皿に給仕した。
 そして、「すみません、事情を知らなかったので、奥様の分もセッティングしてしまっ て。今片付けます」と彼の正面に置かれた皿に手を伸ばした。
 「ああ、そうか。悪かったね。  でも、ミントは食べないの?」
 「 え? あとでいただきますよ。台所で」
 「ここで一緒に食べればいいじゃないか。その方が楽しい」
 「えーっ? メイドがご主人と同じテーブルで?」
 「いいじゃないか。私はその方がいいな」
・・・やっぱり変わってるわ。こんなこと初めて・・・
 「はあ、じゃあ、お言葉に甘えて」
 ミントは片付けかけた皿にシチューをよそり、博士の前の椅子に座った。
 「えーと、ワインがあったよな。ミントの歓迎会だ。ワインを開けよう」
 博士は自分で立ち上がって、台所の床下の貯蔵庫から 一本引っ張り出して来た。
 「あ、そんなこと私がやりますよー」
 あわててミントが氷や入れ物を用意した。
 「どうぞよろしく」
 「こちらこそ」
 ワイングラスを合わせる。カチリと繊細な音がした。
 「博士、私はそうそうの事じゃ驚かないし、逃げたりしませんから、あまりお気づかい なく。心配しないでくださいね。
 それより失敗してクビ切られないよう気をつけなくっちゃ」
 「私も、失敗にいちいち目くじらたてる方ではないから、大丈夫だよ。  夕飯の支度では何か面白いドジはしなかったの?」
 博士は、シチュー皿でスプーンをもて遊びながら笑っていた。
 「ひどいわ。ご覧の通りドジはナシですよー。この家のレンジもパン焼き器も野菜むき 器も、今までの家の中で一番使いやすかったです」
 「へえ・・・ 。今までの家政婦達は、使用法がよくわからなくって使いづらいって言って たよ。私が、妻のために、市販のものを色々改造しちゃったからね。でも、ローズマリー は、たいして使わないで死んでしまったけれど」
 「・・・ 。聞いていいですか?奥様はいつ亡くなられたの?」
 「三年前」
 「だって、結婚したのが三年前って 」
 「三年間の片想いのすえ三年前に結婚できたけど、 三カ月で死んでしまいましたとさ」
 博士は苦笑して、わざとおどけて言った。
 「・・・ ラベンダー博士 」
 「心臓マヒでね。嵐の夜、森に出ていて、目の前の木に雷が落ちたんだ。  外傷は何もなくて、ほんとに眠ってるみたいだった 。死んでる顔まで綺麗なんだ」
 ミントはうなづいた。「ほんとにお美しい方ですね」さっきのガラス越しの姿を思い出 して言った。
 ブロンドの長い髪、白い肌、小さな口。今は閉じているその瞳も、さぞ愛らしかったこ とだろう。
 「ごめん、こんな話。ミントの歓迎会だったのにね」
 「いいえ、私が尋ねたんですもの。私こそごめんなさい」
 「いや、久し振りにローズマリーの話ができて楽しかったな」
・・・ 『楽しかった』? こんなつらい思い出話が?
 でも、ミントにはなんだかわかる気がした。
 「ごちそうさま。とてもおいしかったよ。  じゃあ、次は九時に呼びに来てください」
 博士はミントの料理を全部たいらげ、食後のコーヒーを一口飲むと、そのカップを持っ たまま研究室へ戻った。
 流しで洗い物をしながら、ミントはふうっとため息ついた。
一年間の片想いの末、シナモンとは奇蹟的に恋人になれたけど。 たった一ケ月であん な事故があって・・・ 。
 シナモン。どうしているのかしら?
 博士の話は、ミントに恋人のことを思い出させて切なくさせた。

 九時にドアをノックした時には、さっきより早くドアがあいた。
 「やあ。サンキュ」
 今度はミントのことを覚えていたらしい。
 博士はテーブルに広げた書類をさっとまとめ、壁に巡らされた計器類の不必要なスイッ チを切り・・・ 。
 最後に、装置で眠るローズマリーに「おやすみ」と言うと・・・ 。
・・・うそおっ・・・
 ガラス越しに長いキスをした。
 映画のシーンのようだった。
 そして書類を抱えて部屋を出て、白衣のポケットから鍵を出してかけた。
 「これを見た家政婦が、二人逃げたっけ」かすかに笑った。
この人は危うい。確かに危うい 。  でも、それがとても普通のことに思えてしまう 。  『愛していれば、自然だ』って思えてしまう・・・
 「これで君の一日の仕事は終わりです。あとは自由にしててよ。村へ出てもいいし。家 の中のどこに居てもいい。本が読みたい時は書斎から取っていいよ。
 じゃあ、明日八時に起こしてください。私はなかなか目覚めないらしいので、部屋に入 って思いっきり揺するなり殴るなりしていいからね」
 「えーっ?」
 「とは言っても。君は若い女の子だから気の毒だな。オバサンの家政婦達は平気だった けどね。
 ドア越しにかなり大声で起こしてみてくれる? ノックくらいじゃダメだと思うよ。で きる限り頑張って起きてみるから。  じゃあ、よろしく」
 そう言って彼は二階へ上がって行った。
 「おやすみなさい」
 ミントはその白衣の背中を見送った。
おやすみなさい、私の新しい、アブナイご主人様。
 あなたは私を気に入ったと言ってくれたけど、 私もあなたが気に入りましたよ。
 どうぞよろしく。

 ミントは台所でハーブティーを入れて自分の部屋へ戻った。
 メイドのユニフォーム、エプロンを脱ぎ捨て、編込みの三編みもほどいてシャワーを浴 びて コットンのネグリジェに着替えてお茶をすすった。
 カーテンを少しあけると、満天の星空がのぞく。
 「うわあ☆」
 ミントは思わず窓をあけ、裸足のままベランダへ出た。
 首を思いっきり上に向けて、ほわーっと星空に見入った。
・・・ねえ、シナモン。   遠い宇宙で、星がこの瞬間に光ったら、その輝きをあなたが見るのかしら?
 いつも遠くから見てあこがれていた。カレッジの二つ先輩。同じサークルの優しくてハ ンサムな青年。
 長身で甘い顔立ちで 人に安らぎを与える優しいブルーの瞳をしていた。  柔らかい口調でいつも穏やかで。成績のよさもひけらかさず、テニスで勝っても奢らな い。後輩の面倒もいやがらずにみた。  みんながシナモンを好きだった。  そして、ミントも。
 「いつも遠くから見ててくれたね。暖かい、押しつけのない瞳で。
 練習で僕が転んだ時は、遠くのコートにいても一番に駆けつけてくれた。  試合に負けた時、その場限りのみんなの慰めや励ましの言葉の中で、君のかけてくれる 言葉がいつも一番心にしみていた。
 実は、僕も、ずっと君を見ていました」
 それは緑の風の中。夕暮れのテニスコート。差し出された日焼けした手に、ミントはお ずおずと自分の手をのせた。
 ・・・トゥルルルルル 。
 ミントは目覚ましのベルを切った。ベルが鳴る前から目は覚めていた。枕が涙で少し濡 れている。グリーンのカーテンから、太陽の陽が透けていた。
ええい、メソメソしちゃダメ。泣いてたらパンは焼けないわ!
 ミントは身支度を整えると台所へ降りて行った。
 ニャー。
 バージルが足にまとわりついた。早くもエサをくれる相手を覚えたらしい。
 「おはよう、バージル。この家ではあんたが一番早起きね」
 ネコ缶をあけた後、ラベンダー博士の朝食の準備だ。
 パンを焼き、サラダを冷やし、コーヒーを沸かす。ベーコンを炒め、玉子をスクランブ ルする。
 そして八時。博士の部屋をノック。
 「お早うございます。お起きになる時間ですよ」
・・・ 。しーん。
 扉に耳をつけても、コトリとも音がしない。いや、静かな寝息だけ聞こえる。
 「はかせー!八時ですーよーっ!」
 しーん。
スースースー。
 本人の言ったことは本当だった。
 ノブはまわった。鍵はかけてないらしい。 ミントは部屋につかつか入り込み、ベッドの そばへ行って「起きてください!」と声をかけた。まだ起きない。
 肩を揺り起こそうとつかんで、ふっと博士の美しい寝顔が目に入った。
 白亜の額に細く整った眉、彫りの深い目鼻立ち。 品のいい寝息をたてる薄い唇。
・・・ 綺麗なひと。
 こんなに綺麗で、人柄も決して悪くない。しかも天才科学者。
 不遇な結婚に終わる理由が何もないわ。
 神様がいるなら、奥様をもう一度生き返らせてあげてください。
 彼にもうしばらくの愛の日々を ・・・
 涙がポトリと博士の頬に落ちた。
・・・あ、イケナイ・・・
 ミントはあわてて博士の頬を拭き、自分の涙もぬぐった。
 「博士、時間ですよ、起きて下さい」
 肩をつかんで激しく揺すると、「う、うううん 」やっと気づいたらしい。
 ミントはカーテンを開け、窓も開いた。朝の風が部屋に入ってくる。
 ラベンダー博士はやっとのこと上半身をベッドに起こした。
 「ローズマリー?」
 でも、まだ寝惚けている。また、ミントのことを思い出すのに時間がかかるかもしれな いと思った。
 「博士、お早うございます。八時になりましたよ。  昨日から御世話させていただいてる家政婦のミントです。食堂に朝食の用意ができてい ます」
 「・・・ え・・・ あ・・・ うん。 」
 IQ二百の天才科学者も、寝ぼけている時は可愛いものである。麻素材らしいスモック 型のネグリジェ姿も無防備で可愛かった。
 「ミント、君のコロン・・・ 」
 「えっ?」
 「ローズマリーと同じだ。ローズマリーが起こしに来たのかと思った。  昨日はそばに寄らなかったから気づかなかったな。
 いや、バスでオレンジを拾ってもらった時に感じた、なんだか懐かしい感じは、これの せいだったのか 」
 「三年も前の、コロンの香りを覚えてらっしゃるの?」
 「うん。覚えてた。今思い出した 」
 「おつらいようだったら、コロンを変えますけど?」
 「つらい? なぜ? 幸せな目覚めだったよ。うれしかったなあ」
 博士はほほえんだ。  恋がかなった少女のような笑顔だった。
 こんな微笑を 男の人がするこんな微笑を、ミントは見たことがなかった。
 博士は遠い目をしていた。彼には天国にいる妻も見えるのかもしれない。



☆ 四 ☆

 この家は、ミントにとって、やりやすかった。
 博士はほとんど一日こもりっきりなので、自分で計画をたてて自由に仕事ができた。監 視されずに自分のペースでやれるので、 変に緊張して花瓶を割ったり鍋をひっくり返した りすることもない 。軽いドジは見つからずにやり直しもきいた。
 「一週間にもなるのに、楽しみにしていた失敗はまだないの?」
 ラベンダー博士は、『平目のムニエル・ホワイトソースがけ』を つっつきながら笑って いた。
 「博士が気づかないだけですわ。今夜も、実は、ほら」
とナイフで自分の平目をひっくり返して裏を見せた。黒く焦げていた。
 「ほんとだ。みごとだなあ、ははは」
 一番楽なのは、失敗をつくろわなくていいことだった。彼は怒らなかったし、かえって 面白がった。
 それに、うまくやろうと構えなくてもすんだ。
 そりゃそうだ。博士があんな無防備に自分の弱さをさらけだすのに、ミントが何を構え る必要があるだろう。

 こんなことがあった。
 三時のお茶は、ポットごと研究室に運ばせるのだが、彼はお茶を飲みながら装置に話し かけていた。ローズマリーが生きているかのように。
 それは特別な会話でなく、たぶん夫婦が毎日のお茶で話すようなことだった。
 今日の天気のこと、仕事が調子いいとか悪いとか、新聞で見た変わった記事のこととか、 猫がどうしたとか 。
 最初に博士が装置に話しかけているのを見た時、 ミントはびっくりして立ちすくんでい た。彼はそれに気づいて、
 「気味悪いだろ? でもこうしないと忘れちゃうから」と にが笑いして言い訳した。
 「これを見て、家政婦が五人は逃げたな」
 「ひとりで黙々と仕事してるから? 話をしないと、 言葉を忘れるのですってね」
 「うん。それもあるけど、あの感じを忘れたくないんだ。 ローズマリーと一緒に暮らし てた時の、あの感じ」
 「・・・ 。  ううん、博士は今もまだ、奥様と一緒に暮らしてらっしゃいますよ。  私にはそう見えます」
 「 うん。そうだね。  ありがとう。そんなこと言ってくれた家政婦は初めてだ。
 きっと、ほんとにそうなんだ。私はまだローズマリーと暮らしてる」
 カップに唇を触れて、かすかにほほえんだ。
 ミントには、この家で仕える相手は、博士とローズマリーの二人であるのが、 空気で感 じとれた。住人である博士が、ローズマリーが居ると思って生きている。 生活している。  三年間、二人で生活を続けてきた空気が感じとれるのだ。

 ここでの仕事は快適だっが、買い物だけは少し大変だった。
買い出しは、自転車をこい で村まで行った。自転車だと三十分でバス停のある村に着く。 まあ、途中の森も野原も恰 好のサイクリングコースなので、楽しんでしまえるミントではあったが。
 野菜や肉や果物を、前と後ろのカゴに詰め込めるだけ買い込んだ。
 店屋では必ず「森の博士のところに来た新しい家政婦さんかい?」と聞かれた。  「ひどく変わってるそうだが」とか「あんたも早く逃げた方がいいよ」とかさんざん言 われた。
 ミントはそのたびに、笑って「博士はとてもいいかたですわよ」と答えたが、 村での博 士の評判はやっぱりあまりよろしくはなかった。
 初めて買い出しに出た日の夕食の時、彼は「夕飯があってよかった。買い出しに出た家 政婦が、村での私の評判を聞いて逃げたこと何度かあったんでね」と苦笑していたが。

 ミントがここを気に入った理由は、仕事がしやすかった事の他に、もうひとつあった。
 朝、窓から吹き込む、風が連れる緑のにおい。
 目覚めて自分の部屋の窓を開ける瞬間も、博士を起こしに行って彼の部屋の窓を開ける 時も、吹き込む風がミントは好きだった。
 昼、太陽がいぶり出す緑のにおい。
 白いシーツや博士の白衣や自分のエプロンを庭いっぱいに干すと、光が反射して自分が どこにいるかわからなくなる。光に香りがするなんて知らなかった。
 強い雨の日でさえ草木は香ることをやめなかった。
 そして、なによりも、夜、星が凍らす緑のにおい。
 晴れた晩には、かならず星を見上げた。気づくとはだしでベランダに 出ていた。

 その夜は特別星が美しかった。
 ミントは思わずベランダづたいに庭に降りていた。女性にしては長すぎる手足と軽い体 のミントには簡単なことだった。
 裸足の足の裏に感じる柔らかな芝。  パフスリーブから延びた腕に感じるひんやりした森の空気。
 白く浮き上がる丸い建物。  そして、満天の星。氷砂糖のかけらのような、そのひとつひとつのきらめき。
・・・あら?
 遠く、優しく、バイオリンの音(ね)。
 涙が出そうなメロデイ。心がとろけそうなノクターン。
 ミントの足は自然にその音の方へ向いた。
 玄関から廊下を通って・・・ 。  研究室の鉄のドアが開いている。灯りがついていた。

 まるで夢のような光景だった。
 タキシード姿の美しい青年が、棺桶みたいなコールド・スリープ装置の美女を前に、バ イオリンを奏でていた。
 テーブルにはピンクの薔薇の花束。ロゼのワインとグラスが二つ。
 まわりはいつもの計器だらけの壁とシールドがからまる床、 管の伸びた大小のガラス容 器、修理工場みたいな道具だらけの空間。
 甘いノクターン。
 彼は額に落ちる前髪もいとわず、ただローズマリーのために愛の曲を弾いた。
 前の家政婦たちがこれを悪夢のようなシーンと言うのなら、夢とは何だろう。
 それはミントにとって息苦しいほど切ない思いだった。失くしてしまった愛しいものを 思い出させて・・・ 。
・・・博士は、いいですね。まだ目の前に愛する人がいる。会いたくなったら、ここへ会い に来れる。  私は・・・ シナモンの顔ももう忘れそう・・・
 タイム・スリップ。
 それは、事故だ。
 天災だ。
 過去に戻りたいと懇願する人の多い中、恋のさなか、今までの人生で一番幸せな時を過 ごすミントにあんなことが起きなくても・・・ 。
 アパートメントの五階にミントの部屋はあった。ベランダで、シーツを取り込んでいる 最中に突風が吹いた。シーツに体が包まれ、風に煽られ、自分がどっちを向いているのか わからなかった。そして、落ちた。死ぬ、と思った。
 落ちて、気づくと三十年も過去にもどっていた。目が覚めたのは、アパートが出来る前 の公園の広い芝生の上。回りに建っていたミントのアパートも隣の家も自動販売機も何も 無い。最初は、死んで、天国にいるのかと思った。
 歩き回って街の様子等で三十年前にタイム・スリップしたらしい事を知った。信じられ なかったが、ここはどう考えても天国ではないようだし。窓から落ちたあの時、あの空間 が過去につながっていたのだろうか。詳しい理由はわからない。
 それが、一年前の出来事である。今ではこの世界でなんとか生きている。
 あと二十九年たつと・・・ 。  ミントが四十九歳になると・・・ 二十一歳のシナモンに出会うことになるのか 。
 そっと涙をぬぐったつもりだったが、気配に気づいてラベンダー博士ははっと手を止め て振り向いた。
 ミントだと気づいて、かすかに笑うとペロッと舌をだし「見つかっちゃったな」と言っ た。
 「誕生日だったんだ、ローズマリーの。
 去年、そこそこ長く居てくれた家政婦が消えたのはこの翌朝だった」
 「言ってくださればバースディ・ケーキを焼きましたのに 」
 「言うって、『死んだ人の為にバースディ・ケーキを焼いてください』って?」
 博士は今度は皮肉っぽく笑った。
 「博士 。そんなことで私が驚くと思いますか?」
 「ははは、それもそうだね。
 君はこの曲で泣いたの? 目がウサギだ」
 「えっ? あっ」  ミントはあわてて頬をぬぐった。
 「君も想うひとがいるのかな。  たぶん、ちょっと切ない想いびとが」
 「・・・ 。」
 くしゅん、とミントが小さなくしゃみをした。  博士はミントの裸足の足をちらっと見やって、またくすっと笑った。
 「外に出る時は、裸足だと冷えるからサンダルを履いた方がいいよ。肩にも何かはおっ た方がいいな。森は夜は涼しいからね」
 気づけばミントはネグリジェのままだった。
・・・やだ、はしたない・・・
 「もう休みます。おやすみなさい。
 あの・・・ 邪魔してごめんなさい。そんなつもりはなかったんだけど」
 「うん。わかってるよ。それに別に邪魔してないよ。
 おやすみ、星空の好きなメアリー・ポピンズさん」
 ミントは赤くなった。
・・・ラベンダー博士って、不思議なひと・・・



☆ 五 ☆

 雨の季節になった。
 ミントは傘をさして自転車に乗ることができない。食料の買い置きもそろそろ底をつい てきた。仕方無いので徒歩で村へ出かけようとしていると、博士が珍しく研究室から出て 来た。ビニールの敷物みたいのを抱えている。
 「ラベンダー博士の大発明を貸してやろう。私だって時には役に立つものを作っている んだ」
 彼は、雨の中、自転車にそのビニールを装着し始めた。ハンドルと後ろのカゴに透明の パイプを立てて骨組みを作る。子供がプラモデル作るみたいに、目をきらきらさせてもの すごく楽しそうに組み立てている。ビニールをかけると、運転者は濡れないし両手でハン ドルを握ることができるしくみが完成した。
 「ビニールには特殊コーティングがされていて、雨をはじき、 しかも曇らない」
 「へえ。すごいわ」
 「これで濡れないで自転車に乗れるだろ?」
 そう言う博士は、雨の中で作業をしてびしょ濡れだったのだが。
・・・変なひと。くすっ・・・
 ミントは遅ればせながら博士に傘をさしかけた。
 「他にも色々発明なさってるんですか?」
 「うん。他にも色々発明なさってる。今度見る?」
 「見たい。・・・ ねえ、タイムマシーンなんて作らないんですかあ?」
 「そんなもの現実に出来るわけないじゃないか。あんなの神の領域だよ。
 ミントには戻りたい昔があるの?」
 「 いいえ。行くなら、未来に」
 「ふうん。君は前向きでエライなあ」
 「いえ、そんなんじゃ・・・ 。
 雨がひどくならないうちに行って来ます。 何か買ってきてほしいものあります?」
 「いや、別に。気をつけていってらっしゃい」
 帰りは嵐みたいな雨になってしまった。
 強い雨と風が森の木々をゆさゆさとゆすっていた。 ひゅーっと悪魔のような声がする。
 雷。稲妻。
・・・えーん。こわいよおお。早く抜けよう・・・
と、遠く前を白いものがよぎった。
 ミントは背筋が寒くなった。
・・・なに? 今の何よっ!?・・・
 森で死んだローズマリーの幽霊だろうか? まさか、そんな・・・ 。
 先へこいでいくと、木と木の間を走り去る白い影が再び見えた。
 あれは・・・ 。
 幽霊なんかじゃない。あれは・・・ 。
ラベンダー博士!
 ミントは自転車から降りて、白衣の博士を追いかけた。
 「ラベンダー博士! 何してるんですか、こんな雨の中、傘もささずに!」
 博士が消えた茂みの方向へ怒鳴った。雨の音が大きいけれど、声は届いただろうか。
 「雷がつかまえにくる・・・ 。ローズマリーをつかまえに来るんだ!」
 茂みの中から、博士が叫んだ。ヒステリックな声の調子。いつもの、ミントが知ってい る博士の声じゃない。
 バキューン!
・・・えっ?
 ミントの一フィートほど右を、何かがすごいスピードで通り抜けた。木に当たってバキ バキッと枝が折れる音がした。焦げ臭いような臭い。でも、まだミントには何が起こった かわからなかった。
 「ラベンダー博士?」
 茂みにこわごわと近づくと、博士がライフルを構えて、ミントに狙いを定めていた。
 「おまえだな、ローズマリーを連れに来た悪魔は! どこへやった? どこへ隠したん だ! 私のローズマリーを返せっ!」
 博士は長い髪を雨で頬に張りつけ、びしょ濡れだった。しかも、足は靴も履かずに素足 のままだ。
 「博士? 今撃ったのは、博士なのね?」
 私を狙ったのね? 今も私に狙いをつけているのね?
私を・・・ 奥様を連れに来た、『悪魔』だと・・・ 。
 『わかりあえている』、と思っていた。
 博士の痛み、博士のローズマリーへの愛。そして、ミントがわかってあげたことを、博 士もちゃんと理解して・・・ 。そう思っていた。
そう信じていたのに !
 「ライフルを離して下さい、ラベンダー博士」
 ミントは祈るような口調で言った。
 「お願い、ライフルを離しなさい! 騒ぎを大きくしたくないのよっ!」
 ミントは、断固とした足取りで、博士に近づいた。撃たれるかもしれない。 でも、怖く はなかった。悲しみと絶望の方が恐怖より大きかった。
 「ローズマリーは・・・ 奥様は、家にいるでしょう!? 研究室の中に! 忘れたの!?」
 えっ? と、ラベンダーは、険しい表情を少し緩ませた。
 ミントはさらに近づいて、博士の腕に自分の手を重ねた。 ライフルを奪い取るための行 動ではなかった。ただ、博士の手をしっかり握りたかった。
 冷たい腕だった。ミントは自分の掌にほてるような熱さを感じた。
 この人は、きっと嵐の度におかしくなるのだろう。雷が鳴ると外へ・・・ ローズマリーを 助けに森へ飛び出すのだろう。稲妻に心掻き乱されるのだろう。
 博士はもうライフルを構えてはいなかったが、視線はさっきミントが立っていたあたり ・・・ ミント本人をすり抜けて森の木々を見ていた。うつろな瞳をしていた。ぼそぼそとわ けのわからないことをつぶやいている。
 「博士・・・ 」
 ミントの目からぼろぼろと涙が零れた。
 ミントの暖かい涙が、雨で冷えた彼の手の甲に伝わった。
 「・・・ ミント?」
 声の調子が変わった。ミントは博士を見上げた。
 ミントを見おろす瞳が 正常にもどっている。
 あたりを見回して、ここが森の中だと気づいたようだ。
 「私は・・・ ?」
 手に持ったライフル・・・ 。
 「そうか、雷。またやったのか、私は 」
 はーっと長いため息をつくと、髪をかきあげた。
 「ごめん。君までびしょ濡れだね」
 「博士、研究所に帰りましょう。手も頬もこんなに冷えて・・・ 風邪ひきますよ」

 熱いシャワーを浴びてきた博士に、ミントはマグカップを差し出した。
 「ミント特製、元気が出るホット・ワインです」
 「ホット・ワイン?」
 首にバスタオルを下げて髪を拭きながら、彼は食堂のテーブルについた。そして、マグ カップにおそるおそる口をつけた。
 「あまい☆ おいしいや」
 「ワインを暖めてお砂糖を入れたんです。体が温まるでしょ?」
 博士はおいしそうにホット・ワインを飲み干した。
 「ほんとに元気が出てきた。  ミントが発明したの? 私のどんな発明よりすごいや」
 柔らかい笑顔が戻っていた。だいぶ落ち着いたらしい。
 博士が、ふわぁと軽いあくびをかみ殺すのを見て、  「今夜は早くお休みになった方がいいわ」 と、ミントが忠告した。
 「そうだね・・・。
明日の朝・・・ 雨がやんだら・・・ 。バス停まで送るよ。  スーツケースは私が運ぼう」
 「え?」
 「今度こそミントに愛想つかされたよね。君を危険な目に遇わせたようだね。本当にす まなかった。
 今までの人の中で一番長く居てくれたし、よくやってくれたのに、残念だな」
 「博士・・・ 」
 「ライフルをきちんと片づけたら寝るよ。おやすみ」
 博士は、濡れて黒く艶を放つそれをしっかりと掴むと、研究室へ戻った。
 ライフルなんて、研究所のどこにあったんだろう。ミントは全然気がつかなかった。森 の中で一人で政府の研究をやっているのだ、護身用のライフルくらい研究所にあってもお かしくはないのだが 。

 ミントもその夜はすぐに休んだ。
 窓に吹きつける風の音と、屋根を叩く雨の音。ミントは毛布を被って、それらを遮ろう とした。
 あの時、あと一歩右に寄っていたら、弾は命中していたかもしれない。いや、博士が自 分に向けて発砲したことは、確かなのだ。ミントを、『妻を連れていく悪魔』だと本気で 思い込んでいた。
 今までの優しい日々は、何だったのだろう。
 ミントは、嗚咽が洩れないよう、枕に顔を埋めた。
 博士も、ミントを解雇するつもりでいるらしい。明日になったら、荷物をスーツケース に詰めよう。
 ミントは、泣きながら眠ってしまった。

 翌日は、嵐がウソのような快晴だった。
 窓から差し込む眩しい朝陽でミントは目を覚ました。
 「わあ、いい天気!」
 裸足でベランダに出ると、手すりもたたきもまだ濡れていたが、水滴のひとつひとつが キラキラ輝いていた。
 水分を含んだ森は、子供が泣いた後の睫毛みたいだった。
緑の木々が、涙の残りを溜め てこっちを見ている。はっとするような心が洗われるような気分になった。きゅんっと、 ちょっと切ない。
・・・もっと、ここに居たかった。
 この森が、風が、おひさまが好きだった。
 そう、それからバージル。そして、いつもの博士なら。
・・・そうよ、私が博士を見捨てて出て行ってしまったら、あの人はどうなるの?・・・
 シナモンの居る時代を離れて、今までもつらいことはたくさんあった。
 まだ、がんばれるはず。天気はいいし、空は青い。
 ミントは、唇をきゅっと結んで、空を見上げた。

 「さあ、起きてください! 今日は洗濯日和なのよ。シーツを洗うから、とっととベッ ドから起きてくださいな」
 ミントはいつも通り、博士を起こしに部屋を訪れた。
 やっとのことで目を覚ました博士は、こもった声で、  「今日はいいよ、仕事は。朝食を食べたら送るよ。荷物はもう作ってある?」 と言った。昨夜の出来事は、覚えているらしい。
 「なぜでかすか? 私はクビですか? せっかくこの家に慣れてきたのに」
 ミントはわざと明るく怪訝そうな口調で訊ねた。
 博士は眠そうだった目を、軽い驚きでしばたかせた。
 「だって・・・ 。精神病院の看護婦役までやらされるのはイヤだろう?」
 ミントは吹き出した。確かに『精神病院の看護婦役』かもしれない。
 「子供の頃は、童話作家か看護婦さんになりたかったのよ。ちょうどいいわ」
 そうミントは笑った。笑うと三日月みたいに細い目が、ますます細くなった。
 「まだ、いてくれるの?」
 「当たり前でしょう」
 それを聞いて博士も嬉しそうに笑って、  「ミントの笑った顔は、バージルが寝てる時にそっくりだなあ」
 「えっ?・・・ そう?」
 ミントは赤くなった。喜んでいい事なのかどうかわからなかったが、博士が自分の好き なものと似てると言ったのだから、きっとほめてくれたのだろう。

 たまった洗濯ものを、庭に思いっきり広げて干す。
 シーツも、白衣も、タオルも、エプロンも。
 強い日射しと風の中、白い布たちが気持ちよさそうにはためいている。
 「ニャー」
 久し振りに表に出れたバージルも、嬉しそうにミント のまわりをまとわりついた。
 「よいしょ。ほら、ふんずけちゃうぞ」
 ミントもはしゃぎながら、ロープにシーツを掛けていく。
 「楽しそうに干してるなあ」
 ベランダからラベンダー博士が声をかけた。
 「風邪気味なんだから、ちゃんと寝てなきゃダメでしょう?」
 「もう平気だよー。熱もないし」
 見おろす白い布の波の中、ミントも洗いたてみたいにキラキラ光って 見えていた。
 と、急に強い風が吹いた。
 シーツがミントにまとわりつく。
 「きゃー。ああ、もう!」
 「あははは」
 ベランダで博士は腹をかかえて笑っている。 大きな笑い声がミントにも聞こえた。

フローズン(凍らせて)。
この瞬間を・・・

 ふと、ミントはそう思った。
 氷に閉じ込めてずっと取っておきたかった。
その時は何故だかわからなかったけれど。



☆ 六 ☆

 雲は流れていく。
 時がたっていく。
 花が降り、雨が降り、蝉しぐれが降り・・・ 。そして夜は相変わらず、窓辺に星が降り注 いだ。
 ベランダで星を仰いでも、ミントがシナモンを想う時間はだんだん 減ってきていた。
・・・離れて、まだ一年半しかたってないのにね。 博士に軽蔑されちゃうわね。博士は、亡 くなった奥様を、今もあんなに愛し続けているのに・・・
 「にゃー」
 バージルが庭に出ていた。今夜も星の綺麗な気持ちのいい夜だった。
 「バージル、眠れないの? 一緒に遊ぼうか?」
 ミントは、また裸足でベランダづたいに庭に降りた。
 「ほら、おいで」
 バージルを抱き寄せ、芝の上に座って星を見上げた。
 「あんたも星を見る? 夜は、あんたの目の方が星みたいね」
『ミントの笑った顔は、バージルが寝てる時に似てるなあ』
 「『夜の猫の瞳のようですね』なーんて言われれば、すごいほめ言葉だけどねえ。  バージル、ちょっと目をつぶってごらん。どんな顔になるの?」
 ミントはバージルの喉を撫でた。にゃーと鳴くと、 気持ちよさそうに目を閉じる。
 「ガーン。私の笑顔って、こんな顔!?」
・・・こんなファニー・フェイスで、よくもまあ、シナモンに好きになってもらえたものだ わ。奇跡よね。シナモンって、少し変わってたかも・・・
 大いに変わり者のここのご主人は、美人がお好みだったけれど。
 「・・・ 」
 星が流れた。
 「キレイねえ 」
 少しきつめにバージルを抱きしめる。バージルは暖かかった。涙が出た。
 「眠れないの?」
 博士のベランダから声がした。あわてて頬をぬぐうミント。
 「 いいえ。あんまりいい夜なんで、バージルと遊んでたんです。  起こしちゃいましたか?」
 「いいや。まだ眠ってなかったから」
 博士は、ミントが泣いてたのに気づいただろうか?
 「星が綺麗だから、バイオリンを弾きたかったんだけど、いいかな?」
 「 えっ?
ど、どうぞ」  博士はバイオリンを手にしてベランダへ戻って来た。  そして、美しいノクターンを弾き始めた。
・・・あ。この曲・・・
 研究室で弾いていたのと同じ曲だ。タキシード姿で弾いていた曲 。
 とまった涙がまたこぼれ出した。優しい調べ。切ない音色。
 星がまたひとつ、流れた。
 曲が終わって、ミントは思わず拍手した。
 「素敵。博士、すごく上手ですよね」
 博士はミントを見おろし、  「実は、バイオリニストになりたかったんだ」 と苦笑した。
 「IQ二百の天才少年だったくせに?」
 「好きでそう生まれたんじゃないよ。  今でも、帽子とバイオリンだけ持って、知らない街へ行きたくなる。好きな街角で弾い てコインを投げてもらって 。・・・  科学者なんて、やめたくなる」
 「ラベンダー博士 」
 彼の心は科学者より芸術家なのかもしれない。繊細で傷つきやすく、少し危うい。  赤ん坊みたいな無防備で純粋な瞳のひと。
 「そうしてパジャマでバイオリンを弾いていると、昼間は白衣の科学者なのか、タキシ ードの楽団員なのか、ジプシーのバイオリン弾きなのか、見分けはつかないわ。
 夜は、みんなパジャマ姿。
 星の下では、みんな同じ。
 科学者も政治家も警察官も、お医者さんもセールスマンもコックさんも」
 「・・・ 」
 博士は黙ってしまった。出すぎた事を言って怒らせてしまったかしらとミントは不安に なった。下からは暗くて表情はわからなかった。
 でも、次の言葉で怒っていない事がわかった。
 「ミント特製のホット・ワインでも飲んだ気分だな。私の方が元気づけられてしまった ね。
 バイオリンを聞いてくれてありがとう。君も明日は元気になってね」
 「博士・・・ 」
 やはり、泣いたのを見ていたのだ。 それでバイオリンを弾いてなぐさめてくれたのだ。
 「おやすみ」
 「おやすみなさい、博士」
 ミントはもう一度バージルを抱きしめた。

 季節は流れていく。
 夏が終わり、森は黄金色に変わろうとしていた。
 ミントがお茶の用意をしていると、珍しく博士が研究室から出て来た。何か機械を抱え ている。
 「今お茶を持っていこうと思ってたところですよ」
 「いいよ、ここで飲む。新しい発明が完成したんだ」
 少年のように頬が紅潮している。
・・・この人、政府依頼の研究なんて、ろくにやってない気がするなあ・・・
 ラズベリー・ティーをカップに注ぎながら、  「どんな発明ですか?あ、それは国家機密じゃないでしょうね。聞かされてスパイに追 われる日々、なんてヤですからね」
 「ははは。そんな有能な科学者だったら、とっくに外国に連れ去られてる。
 ほら、これを作ったんだ」
 「・・・ ?」
 コードレス電話のような形をしていた。 親機は小型のワープロみたいに見えた。
 「これって・・・ ワープロ?」
 「うん。ただし、キーボードを打ち込むんじゃなくて、喋った言葉を字に変換していく んだ。見ててごらん」
 今行われた会話が、画面に表示されていく。
 「・・・ すごい 。ラベンダー博士って、ほんとに天才だったんですね」
 「疑ってたな。
 あげるよ、ミントに。君のために作ったんだ」
 「えっ?」
 「童話作家か看護婦になりたかったと言っただろ? このマシーンが、君が童話を書く 手助けになるといいと思って」
 「 ラベンダー博士・・・ 」
『童話作家か看護婦になりたかった』なんて、ちっちゃな女の子だった頃、誰もが抱 く夢なのに。あんな冗談まに受けて・・・
 ミントの胸は切なさでいっぱいになった。ラベンダー博士が、私のために発明をしてく れたなんて 。
 「君はよくやってくれるから、何かお礼がしたかったんだ」
 「・・・ 」
・・・そうよね。
『お礼』ね。そんなもんよね・・・
 なんとも複雑な気分だったが、博士の気持ちはうれしかった。
 「ありがとうございます。大切に使います」
 森の中、黄色と赤の葉っぱ達は狂ったように舞い落ちる。
 枝が見えてくる。空が見えてくる。
 今まで緑の葉たちが隠していた秘密をあばいてしまう。

 「ラベンダー博士、少し運動しましょう。スポーツの秋ですよー。  ずっと研究室にこもってちゃ、体に毒よ」
 ミントは白衣の袖をひっぱって、野原に連れ出した。
 「テニスなんてやったことないよ」
 「大丈夫、このラケットの面でボールを打つだけ」
 「・・・ 。こう?」
 博士はさすが知能指数が高いだけあって、すぐにコツを飲み込んだ。あっという間に、 正確な場所にボールを飛ばせるようになった。
 返ってきたボールを、ミントが反対へ打ち返す。
 「今度は左。 そうそう」
 何回もボールが往復するようになった。二人は息を切らしてボールを追った。
 「ミント、少し休憩しようよー」
 ミントは笑ってタオルを投げてあげた。
 「今日はおしまい。博士はいきなりたくさん動くと、明日起きれなくなりますよ」
 「言ったな。二十三歳の若者に向かって」
 「ふふふ。でもスジは悪くなかったわ。この先、いいライバルになりそう」
 ミントも手で汗をぬぐって笑った。
 「さては、私の運動不足解消の為というのは名目で、単に自分の遊び相手が欲しかった んだな」
 「当たり」
 「こいつ!」
 博士はさっき受け取ったタオルをミントの顔に投げつけた。
 「いたーい。ひどいわ」
 「ははは。
 白衣が汗になっちまった。シャワー浴びてから仕事にもどろう。 洗っておいて」
 「はい」
 ミントは脱いだ白衣を受け取った。汗のにおいがした。
 彼は小走りに、研究所へ戻って行く。
 ミントは白衣を抱いたまま、しばらく森に残っていた。

・・・木の葉が全部舞い落ちてしまったら・・・ 。
もう少し隠しておいていて。枝も幹も茎も。
空の色を・・・


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