第一章 その髪をほどいて 1/2 |
☆ 月曜日 ☆ 「<奥さーん、カラダだけはホーント大事にしてくださいよ> ってカンジ。交通事故で、女房が死んじまってさー」 五階でエレベーターを降りた私の耳に、男の声が飛び込んできた。 男は、病院の廊下の隅の隅まで響くような大声で電話をしていた。 義兄の有理の声だ。 見ると、公衆電話の前で、松葉杖を脇で支えて立ったまま、 ギブスの足を椅子にのっけている。 そういえば、昨日から歩く練習の許可が出ていたはずだ。 「だから、今のオレは正真正銘、独身なんだってば。 ド・ク・シ・ン。退院したらデートしようぜ」 「この、ひとでなしーっ!」 私は学生カバンで有理の後頭部をおもいっきり殴りつけた。 有理は松葉杖のバランスを崩して廊下にひっくり返った。 「いってー …」 「あやめねえさんが死んで、まだひと月しかたってないのに! 女ったらしー!」 「レンゲじゃないか。ひどいぞ、オレはケガ人なのにぃ…」 『もしもし? 藍澤先生? どうしたの?』 ぶらさがった受話器からは甘えた女の声。匍匐前進で受話器をつかみ、 「あ、ごめんね」 と、まだ会話を続けようとする有理であった。 「こっちが松葉杖をついてて抵抗できないと思って、 わざとぶつかってきたり、殴ったりする奴とかいるんだ。ひどいだろ?」 『えー、ひどーい。先生、かわいそー』 ブチッ。 私は指でフックボタンを押して電話を切った。 「さっさと仕事を始めてよ。文化祭前の忙しい時期に来てやってんのよ。 藍澤先生」 「はいはい、わかりました。… 松葉杖、取ってくれよ。オレ、まだひとりじゃ起きれないんだから」 「部屋まで這ってくれば。ふん!」 私は松葉杖を廊下の向こうまで蹴飛ばしてやった。 杖はすーっとすべって非常口のドアにぶつかって止まった。 有理は「おーい。もどってこーい」と杖に念力を送っていた。 有理の病室は個室だ。部屋で仕事をする為に個室にしてもらったのだ。 贅沢だったらありゃしない。 有理は、ペンネームを『藍澤ユーリ』という、 売れない恋愛小説を書いてるたいして有名でもない作家だった。 私が勝手に病室に入って、ハンバーガーをぱくついていると、 有理はほんとに廊下を這って戻ってきた。 「楳図かずおのへび女みたい」 「見ーたーなー。…あ!月見バーガーだ!オレには?」 「大作家の先生様が、高校生にたかるのかあ? それに病院で夕食が出るでしょ? 栄養やカロリーがきちんと考えられた、 体にいいやつが」 「どんなに粗食か、おまえも一度食ってみろよ。 オレは一ヵ月もここのメシで我慢しているんだぞ」 三白眼で睨みつけてきた。愛想のない一重の目だが、 あんまり怖くない。有理は目尻が 下がっているせいか、警戒心を感じさせない顔をしている 。頬がこけ鼻筋も通っているが、 この目のせいでクールとかにはほど遠いのだ。 「昨日まで動けなかったんだから、粗食で十分。いいもの食べたら太るぞぉ」 「しくしく。でぶになってもいいからシャバのメシが食いてえー」 「しょうがないなあ。 はい。ポテトはいかがですか?」 私は、しぶしぶフライドポテトを差し出した。 「さんきゅー!」と有理はわしづかみにしてほとんど持っていった。 「あーっ! 返せーっ」 「やだよーダ」 十七歳の私と殆ど精神年齢が同じと思われるこのバカ男が、 私の自慢のあやめねえさんの夫だなんて、とても信じられない。 クラスの男子の方がまだマシだ。 いや、『夫だった』だ。 姉は一ヵ月前の交通事故で他界してしまったのだから。 反対車線のトラックが飛び出した子供をよけそこなって、 姉の運転するクルマに正面衝突した、らしい。 姉は病院に運ばれてすぐに死亡した。 後ろの座席にいた有理は、頭を打って三日間も昏睡していたが、 結局は打撲と裂傷と右足の骨折だけですんだ。 こういうことって、あまりに突然だと、びっくりしすぎてしまって、 悲しいとか辛いとかいう感情は湧いてこない。 それに、通夜や葬式などの儀式や、香 典返しや生命保険の書類作りなどの事務処理だの、 やらなくちゃならないことが山ほどあって、 悲しんでいる暇なんかなかった。有理が入院していることもあって、 私もだいぶ手伝わされたし。あっぷあっぷしてるうちにひと月たってしまった。 もちろん、夜寝る前に思い出して、うるうるしてしまうこともある。 でも、それって、結婚して家からいなくなった時の淋しさと 同じような感じだった。 そういえば、姉たちが、夫婦なのに何故タクシーみたいな乗り方を していたかというと、 「あやめがでーっかいテディベアを買ったんだよ。で、うれしがって、 助手席に乗せたんだ。オレを後ろに追いやってサ。 あやめの阿呆は、助手席のテディベアをかばってハンドルを切ったんだ」 有理はそう言って肩をすくめて少し笑った。あの時の有理の顔を、 私は一生忘れられないだろう。 その問題のテディベアは、今では有理の病室の隅で、 笑っているんだか泣いているんだかわからないような笑顔で、 でかい図体を申し訳なさそうに縮めて座っている。 おちゃらけてはいるが、有理は本当に心からあやめねえさんを 愛してくれていたのだ。二人は高校時代からずっと付き合っていて、去 年結婚したばかりだった。 私とあやめねえさんは八つも歳が離れているので、 ケンカしたことやべたべた仲よくしたことはなかったけど、 綺麗で優しくて頭がよくて、私は姉が大好きだった。 特にうちは早くに両親が離婚して、母が働きに出ていたので、 私の面倒は姉がよく見てくれた。 長くて柔らかな髪。ほっそりとした顔立ちの、 ぱっちりした目の美人だと、身内ながらも思う。 もてそうだったが、後日の有理の話によると、まじめすぎるのと、 成績がよすぎるせいで男子からは敬遠されていたそうだ。まったく姉らしい。 「さて、と。 レンゲ、ケチャップついたままの手で、 オレのワープロに触らないでく れる? 一応精密機器なんだぜ」 「失礼、失礼。さあ、どこからでもかかってらっしゃい。 早打ちあやめ直伝の技、見せてやるぞー」 私はワープロの電源を入れて立ちあげた。個室だけあって、 ちゃんとテーブルもソファもあるのだ。私は来客のようにクッションのいい 椅子にふんぞりかえって、初期画面を待った。 姉は機関銃のようにキーを早く打てる人だった。 これを仕事にしていた。原稿の遅い『藍澤ユーリ先生』も、 姉にはだいぶ助けられたようだ。私はそんなに早くないが、ブ ラインドタッチくらいはできる。人差し指で打つ有理よりはマシなので、 先週から手伝いに来てやっていた。 もっとも、今のところは私のブラインドタッチも必要ないみたい。 百行くらい打った後に一時間くらい平気で詰まってるし、 『今日はもうオシマイ!』ってすぐやめちゃう。 こんなことで大丈夫なのかなあと思うのだが、 『大丈夫じゃないんだけどね』とにやにや笑っている。 小説を書くのって、けっこうデリケートな作業だと思う。 まして有理のジャンルは恋愛小説。最愛の妻を失くした彼は、 今キビシイ状態なんじゃないかなあと心配してしまう。 でも、私が心配してるなんて知れたら…。すっごく機嫌悪くなって、悪質なおちゃら けを始めるに決まってるんだ。有理はプライドが高すぎる。 「今日はこれでオシマイ。ご苦労であった」 「…。えっ? えーっ?…まだ三十行しか打ってないよ!」 「松葉杖で歩くお許しが出たろ? うれしくて歩きまわっちゃってさあ。 全然先を考えてなかったんだ。悪い、悪い」 「ちょっとー! 私は途中下車してまで手伝いに来てやってんのよ!」 「『来てやってる』? レンゲが、『プロの人の原稿の口頭入力なら、 勉強になるからやらせて』と、土下座して頼むから手伝わせてるのに」 「誰が土下座した!」 確かに私は高校で雑誌を作ってる。これでも編集長だ。 自分の勉強になると思ったのも 本当だけど、そう言っておけばプライドの高い有理も頼み易いだろうと気を 使ったのにー。 「仕事がないなら、もう帰るよ。夕飯に間に合いたいもん」 私はワープロの原稿をフロッピーに保存して電源を切った。 「ハンバーガーを食っといて、まだ飯も食うのか」 「あれは、お・や・つ。 姉さんが嫁に行ってから、 かあさんが寂しがってね。なるべく一緒に…」 言ってる途中にシマッタと思った。あやめねえさんが死んだことを 忘れて喋っていた。ああ、死んだって、こういうことなのかと、 つくづく感じた。有理は顔色も変えずに、 「おまえ、豪華ディナーを食ってる骨折患者よりも太りそうだな」 と切り返したけれど。 「おい、明日、金木犀を持ってきてくれよ。庭のやつ、もう咲いてるだろ?」 「部屋にはいっぱい花があるじゃんよー」 さすが腐っても(?)作家。部屋のテーブルや窓際のチェストには、 出版社や編集部や挿絵画家さんから贈られた蘭や薔薇の立派な花達が 飾られていた。 「それに、学校の帰りじゃ、もう花が落ちてるよ」 金木犀なんて、めでる花ではない。ぶ厚いコンブみたいな葉っぱに コンペイトウっぽい粒がくっついているだけ。 香りはいいけれど綺麗でもなんでもない花だ。 「朝、行く前に寄れよ」 「バカ言わないでよ」 「オレが持って来いって言ったら、持って来い。好きなんだ、金木犀」 『それは知ってるけど…』と言いそうになって言葉を飲み込んだ。 なんで私が有理の好きな花を知ってなきゃいけないんだ! 二人が結婚する前…大学生の頃から、秋になるとうちの庭で金木犀に 囲まれてぼーっとしている有理をよく見かけた。姉を迎えに来たのだが、 支度が遅くて待たされているのだろう。けっこう長い間待たされても、 有理は庭の中で楽しそうに佇んでいた。少なくても私にはそう見えた。 小学校帰りの私は、なんとなく邪魔しちゃ悪いと思って、 やっぱりぼーっと庭の外に立っていた。私はまだ十二歳くらいだったけど、 『いつか彼氏ができたら、その人もあんな風に私のことを楽しそうに待って いてくれるかな』なんて考えたものだった。 「明日、一度家に帰ってから持って来てやるわよ」 「ありがてえ、だんな」 「誰がだんなだ」 有理の相手をして、どっと疲れて家に戻ると、夕食は、母が仕事帰りに買って帰った月 見バーガーだった。 「イヤならいいのよ、食べなくても」 「とんでもない、いただきますっ」 食わせてもらってる身ですー。 私がいれた食後のコーヒーをすすりながら、母が、 「有理さん、元気だった?」と尋ねた。 「うん。相変わらずだよ。金木犀が欲しいって言ってた」 「庭じゅうの、持って行ってあげていいわよ。有理さん、 かわいそうだもの。あなたもうんと親切にしてあげるのよ」 気持ちはわかるけど、おふくろさま、 庭じゅうの金木犀を病院に持って行くのは親切ではないぞー。 どっちかというと嫌がらせだぞ。 その夜、部屋で予習をしていて、姉の部屋に辞書を借りに入った。 姉は、嫁に行っても家が近いので頻繁に帰って来ていた。 新婚のアパートが狭いこともあって、殆どの荷物はそのままに していったのだ。スーツや和服、本にレコード。本棚には、 姉の性格を表すように、作家の五十音順に整然と本が並んでいる。 『藍澤ユーリ』は一番初めにあった。 なんとはなしに開いてみたら、サイン入りだった。 恋人に贈る本にサインを入れる奴の気がしれない。 「あ。これ、好きだった話だ」 私も、もらったり、時には買ったりして、 有理の本は一応全部読んでいた。その本は中高生向け文庫のシリーズの一冊 だった。 同じ団地に住む幼なじみの少女に、大学生の彼氏が出来た。 デートに行く間際、団地の庭で少女はプレゼントの指輪を落として無 くしてしまった。主人公の少年は「奴にはして来るの忘れたとか言って ごまかしとけ」と言って少女を行かせ、雨の中を泥だらけになって探して、 やっとみつける。綺麗に石鹸で洗って、掌にのせてながめて、 そしてふと指輪にキスしてしまった。 自分が少女を好きだったことに初めて気づくのだ。 …『雨が降っていた』。確かこれが有理のデビュー作だ。 次に手に取ったのは『その髪をほどいて』って本。 「これも好きだったなあ」…文化祭のバンドのリハでケガをした不良っぽい 少年と、風紀委員の堅物の少女のラブストーリー。 クラスでのくじびきで負けて、病院へ嫌々ノートを届けに来ていた少女が、 少しずつ少年に心を開いていくのだ。 私はついつい姉の蔵書のユーリ作品を読みあさっていた。 本人はヤな奴だが、私はやっぱり藍澤ユーリのファンだった。 たぶん、小学生の時に姉の高校の文集で有理の小説を読んで感動した時から、 ずっとだ。 まだ十歳だった私が、有理の小説で泣いているのを見て、 姉は初めてクラスメートの藍澤クンの存在を認識したそうだ。 私は本やマンガを読んでしばしば泣く子供だったけど、 姉はそういうタイプじゃなかったので、相当な事だと思ってびっくりして、 有理の事も一目置くようになったらしい。どうだ、有理、私に感謝しろよ。 本棚には、独身時代のアルバムや高校の卒業アルバムなども並んでいた。 姉は高校生の頃から、細面で色白で目もぱっちりしていて、 集合写真の中でも目立っていた。長い髪をきっちり三つ編みにして、 制服のスカート丈にも全く手を加えていない品行方正ぶりだ。 成績もとてもよかった。 私はといえば、同じ制服を着ていても、同じなのは髪の長さくらいだ。 平凡なルックスと平凡な頭脳。 姉を覚えている先生達からは「ほんとにきょうだいかー?」 とまで言われる始末。出来のいい姉と同じ高校なんて行くもんじゃあない。 「あー! これ、有理だ。ぷぷ、暗ーい。今と別人みたい」 有理は後ろの方でうつむきかげんで地味に写っている。 卒業アルバムの集合写真って秋頃撮るから、 もしかして、まだ付き合う前かも。 有理はたぶん、姉と付き合い始めて変わったんだろうな。 素敵な姉だった。美しいだけじゃなくて、強くて優しかった。 幼い私がお祭りに行くのに浴衣を着たがったことがある。 母は仕事で遅いし、姉が着せるしかないのだが、試験前の忙しい時だったのに 母から何度も教わって習い、着せてくれた。 私がクラスメートと縁日で遊んでいる間、姉は次の日のテストの勉強をしていた。 私はタコヤキと風車をオミヤゲにして帰ったが、 しばらく姉の机の上には風車が飾られていたのを覚えている。 窓を開けると、赤い風車がカタカタと回っていたっけ。 冬の寒い日に家族三人で出かけた時も、 自分のマフラーを貸してくれた。真面目くさった顔して、 「レンゲが風邪を引いたら、私とかあさんが大変なのよ」と言って。 堅物で融通が効かないところもあって、私の友達の中には、 姉を怖がる子もいたけれど…。だって自分の妹みたいに本気で 叱ったりするんだよ。有理が『クラスでも煙たがられてた』って言ってたの、 少しわかる。でも私は、ううん有理も、 ねえさんのそんなところも含めて大好きだったんだ。 …素敵な夫婦だったのに…。 うっ。しまった。じわっときてしまった。 メソメソするなーっ。早くフロ入って寝よう! 明日は…やっぱり、朝の登校前に金木犀を届けてやろう。 庭じゅうの、とはいかないけどね。 ☆ 火曜日 ☆ いつもより一時間も早く起きて金木犀の枝を切り、 早い電車に乗って出かけた。 病院の正面玄関はまだ閉まっているので、 勝手知ったる裏の通用口から入る。 五階へ上がると看護婦さんが、 「あら、誰かと思った。三編みなんてしてるから、 わからなかったわ」と声をかけてきた。 「一応、これから学校なんで」 いつもは学校帰りに寄るので、髪はほどいているのだ。 「あらー、金木犀、いい匂いね。おにいさん、きっと喜ぶわよ」 花を抱えた私は、足で病室のドアをけっとばして開けた。 「おはよー」 有理はまだ寝ていた。 「おはよーーっ!」 起きやしなかった。ったく、朝に持って来いって頼んでおいて。 看護婦さんが言ってたっけ、『眠れない』ってちょくちょくミンザイ (睡眠薬)をもらいに来るって。看護婦さんは、 「いろいろ思い出すと、辛くて眠れないの ね、きっと」 と同情してたけど、いーえ、違うね(きっぱり)。 単なる、夜更かしの朝寝坊野郎なんだ。 九時の消灯時間に寝入れるはずがない。 朝食も、テーブルの上に置かれたまま手つかずだった。 バタートーストとベーコン野菜炒めとコーンスープ。 粗食だと文句言ってたけど、なかなかおいしそうじゃないかあ。 「食べないなら、もらっちゃうよ」 寝ている有理に一応断りを入れて、私はトーストを口にくわえて、 金木犀の枝を空いた花瓶に移し始めた。薬品くさい病室に、 甘く優しい香りが広がっていった。 「たちばな・・・さん?」 有理が起きたらしい。 ・・・えっ? ・・・『たちばなさん』? 私はトーストをくわえたままゆっくり振り返った。 『橘さん』って 。確かに私は『橘』って名字ですよ。 でも普通、妻の家族を名字で呼ぶかあ? 全員『橘さん』なんだぞ。 「なに企んでるのさ」と言いかけて言葉につまった。 ベッドから上半身起こしてこっちを見ている有理は・・・私の知っている 有理とは違うヒトだった。いつもの、図々しくて無愛想で口が悪くて、 子供みたいな大人の男ではなく、 傷つきやすそうなおびえた目をした、子犬みたいな、 本物の少年のようだった。ガタイも老け方も昨日と同じ二十五歳なんだけど、 表情だけが少年なのだ。 「・・・どうしたの?」と私がやっと聞くと、 「お見舞い、橘さんが来てくれたんだあ?」 「・・・はあ?」 ・・・なに言ってるの? もう私、目が点だよ! 「橘さん、朝メシ、まだだったの?」 私がトーストをくわえているのを見て言った。 「よかったら、これ全部食べていいよ。オレ、食欲なくて」 「えっ、ほんと? じゃあ遠慮なく。後で返せって言わないでよね」 私は自分でパイプ椅子を出して、有理フ横のテーブル脇に座った。 有理はくすっと笑って、「橘さんって案外面白い人なんだね。 もっとコワイかと思ってた」 ・・・変だよ。これって ・・・。 有理、どうしたの? まるで、高校生に戻っちゃったみたいだよ。まるで、私とあやめ ねえさんを間違えているみたい。まるで ・・・。 「まさか、ユーリ先生、私のことからかってない?」 すると有理は少し驚いた表情になって、そのあと赤くなった。 「ほんとは『ユリ』って読むんだ。でも、下の名前、よく知ってたね」 こ、これはもう、演技なんかじゃないよ。ヤバイよ。 有理がおかしくなっちゃったよー! そのあと私はナースステーションに飛んでいった。 そこは整形の担当だったので、 看護婦さんたちが有理が変だと確認したあと(するなよ、そんなもん)、 他の病棟の、精神科や神経科までもの医師達が呼ばれて、 大診察大会になった。 たぶん記憶障害を起こしているのだろう、という診断だった。 辛い事があって、その事実を認めたくない時、 稀になる人がいるらしい。つまり、妻が死んだ事を認めたくなくて、 記憶が交際し始めの高校生の頃に戻ってしまったってことだ。 その先の記憶をすっかり無くしているのだ。 「高校生の頃に、今と似たような状況の時期はありませんでしたか? ケガで入院していたとか 」 医師に言われて思い当たった。文化祭の準備で梯子に乗った有理が落ちて、 骨折で入院しているのを姉が見舞いに行ったという 確か、それがきっかけで二人は付き合い始めたはず。 そういえば、有理の作品にもそんなのがあった。姉との馴れ初めも、 ちゃっかりメシの種にしてやがったんだ。 「どれくらいで治るんでしょうか 」 「記憶喪失と同じですからねえ。明日治るかもしれないし、十年後かも・・・」 「もしかして、頭を殴ったりしたら治りますか?」 「 ・・・マンガじゃないんだから」 ちぇっ、有理を公然と殴れるかと思ったのに。 有理のせいでゴタゴタしたので、学校に着いたのは三時間目だった。 昼休みにコロッケパンをぱくついていると、「めずらしいじゃん、遅刻なんて」と、 親友の撫子が隣に座ってママの手作り弁当を広げた。 「実はね」と、撫子の玉子焼きに手を伸ばしつつ、 今朝あったことを報告した。 「へえ、ドラマチックやん。ユーリ先生、レンゲのおねえちゃんのこと、 ごっつう愛しとったんやねえ」 大阪弁になるなよ。 「医者の奴、いきなり本当の事を教えるとパニックを起こすから、 しばらくこのままそっとしておきましょう、だって。 今好きになりかけている人が、実はもう死んでいるって知ったら、 すごいショックだろうから、って」 「そりゃあ、まあ、そうだね」と撫子は同意して、 鳥の唐揚げをも狙った私の手をぴしゃりと叩いた。( さすがに鳥唐は大物なので見逃してくれなかったか。) 確かに今の有理は、ナイーブで内気な高校時代の『藍澤クン』なのだ。 本当の事を知ったら窓から飛び降りかねない。 「でも、ってことは、レンゲがしばらくおねえちゃんの振りするってこと?」 「 そうだよ」 撫子はゲラゲラ笑った。 「かつて、ミス椎野高と言われた美人のおねえちゃんのー? 身代わりー? あんたがー?」 「笑いすぎ!」 私は牛乳瓶で撫子の頭を叩くまねをした。 ・・・あの小説の続きはどうなっていたっけ。ロック少年と風紀委員の。 そう、『その髪をほどいて』ってタイトルだった。 有理の本なら少し図書室にあったはず。母校に勝手に寄贈したのだ。 でも、貸出カードは真っ白だったけどね。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 金木犀が甘く香っていた。業平はいつものように鈍い痛みを 右足のギブスの中に感じながら目覚めた。だが、その日の朝はいつもと 違っていた。おなじ高校の女生徒が金木犀の 枝を花瓶の生けている後ろ姿が見えた。それが ・・・小町だった。 豊かな髪を惜しげもなくきっちり三つ編みに結った、 ガチガチの真面目人間。美人で首席の風紀委員だ。 『やべえっ』 業平はベッド脇に置いた空のジュースの缶を隠そうと手を伸ばした。 灰皿代わりにしていたのが一目瞭然だからだ。 からん。 あわてたせいで手がすべった。缶が病室の床に転がり、吸殻が散らばった。 「在原くん! 病室は禁煙でしょ! 生徒手帳は私が預かります」 ・・・ あーあ。 クラスでは、病気や怪我で長く休んでいるクラスメートには、 くじびきで負けた者がノートやプリントを届けることになっていた。 小町ははずれくじを引いたのだ。 真面目な小町は、バンドをやっていて派手な業平に明らかに 嫌悪感を持っていた。 「ま、そう言わないで、朝メシでも食ってけよ」 「結構よ。そんなことしてたら遅刻しちゃうわ」 彼女は高三の今日まで無遅刻無欠席なのだった。 その時、彼女のおなかがぐーっと鳴った。赤くなる小町。 「ほら、ハラへってんじゃんか。 これ、持ってけよ」 業平は朝食のトレイに一本丸ごとのっていたバナナを投げた。 「ありがとう」 律儀に礼を言うところが可笑しくて業平は吹き出した。 業平はヘッドホンステレオをしたまま寝ていた。 いや、厳密には寝たフリをしていた。 小町が、病室を訪れていて、声をかけているのを知っていたからだ。 肩や腕を揺すって起こせばいいのに、触れるのをためらっている。 面白いから、業平は薄目を開けてそれを見ていた。 やっとの決心で肩へと伸ばした小町のその手を、いきなり業平 がむんずと掴んだ。 「きゃっ!」・・・ ケーキの箱が床に落ちた。 小町は崩れたケーキを皿に移しながら、「 びっくりさせないでよ、もう!」とぷんぷん怒っていた。 「ケーキ、こんなになっちゃって。朝食のお礼にせっかく買ってきたのに」 「では、崩れたケーキのお礼に、これをあげましょう」 業平は大袈裟な言葉使いをして、もったいぶった手付きでウォークマンから テープを抜き取った。 「うちのバンドのデモテープさ」 「ありがとう。あ、あの、文化祭、残念だったわね。あんなに練習してたのに」 業平は苦笑して、「まあね」と答えた。 「最後の文化祭だったからなあ。ラストの曲は、聞かせたいひともいたし ・・・。 でも、いいや。テープ渡せたから」 「えっ?」 「絶対聞けよ、そのテープ!」 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 第一章は、小町が、髪をほどいて初めてルージュをひいて、 業平のバンドのライブを見にライブハウスへ行こうとするところで終わっていた。 小町は、慣れない繁華街で道に迷って、結局店を見つけられずに泣きベソを かいて帰っていくのだ。 なぜ髪をほどくのか自分でもわからない小町の戸惑い。 怖い繁華街で道に迷った心細さと、 せっかく勇気を出したのに辿り着けない情け無さ。 私は涙が止まらなかった。・・・それは、とってもヤバイことだった。 なぜなら今は五時間目だったので。 「たちばな! なにしとるっ!」 「せ、先生、レンゲは急におねえさんのことを思いだして …」撫子が助け船を出してくれた。 「うっ、そうか。 君のおねえさんは本当にいい生徒だった」 先生まで涙ぐんでいた。ははは、撫子、さんきゅー。 帰りも有理の様子を見に寄った。髪は結ったままにして行った。 あの小説の通りに、ケーキもちゃんと買って来たぞ。 真面目な姉のフリなんて、あーあ、疲れるだろうなあ。 「こんにちわ」 口調もおとなしくドアを開けた。有理は文庫本を顔に乗せて ぐーぐー眠っていた。本を取ると、あまりに脳天気な寝顔だったので、 「起きろー! レンゲさまがケーキを買って来てやったぞ!」 と叫びたくなったが、抑えた。私は今はあやめなのだ。 あやめねえさんがそんなことするわけないんだから。 しっかし、マヌケな寝顔。小説の業平はかっこいいのにさ。 現実なんてどうせこんなもんだ。 「藍澤クン!」 私が声かけると、ぱっと目を覚まし、私を見て飛び上がって驚いていた。 「たたた、橘さん …」 「朝ごはんのお礼に、ケーキを買って来たの。お茶入れるわね」 私が来て、有理が緊張しているのがわかる。お茶の用意をしているあいだ、 有理はベッドに起きて本を読んでいるのだが、 同じページの同じあたりを何度も何度も読んでいた。 たぶん以前から有理は姉に好意を寄せていたのだろう。姉はきれいだったし。 「藍澤クン、何読んでるの?」 「ブラッドベリ。知ってる?」 「うん。『ロケットマン』とか『みずうみ』とか読んだかなあ。 SFっていうより詩みたいで素敵だったけど」 「他にも読むなら貸すよ。彼のは殆ど持ってるんだ」 「わあ、貸して貸して。これでしょ、これも。あ、これもまだ読んでない」 はっ、しまった、素に戻ってしまった。 気づくと私は腕にいっぱい本を抱えていた。姉はこんな欲張りではなかった。 有理は目を三日月みたいにして笑った。不思議。オトナの有理とは笑い方まで 違う。 「カバンにそんなに入らないだろ。また借りに来ればいいよ。 ゆっくり読んでていいよ、卒業までに返してくれれば」 そうか。それで私の本棚に、 買った記憶のないマニアっぽいSFが何冊もあるのか。 姉の本棚から勝手に借りて、忘れていたに違いない。あれって有理の本なんだ。 「ケーキ、三個も買って来てくれたけど、オレ食べきれないよ」 「私が二つ。藍澤クンが一つ」 私の答えに有理はあははと声をたてて笑った。 うん、こういう感じが有理なんだなあ。 でも、なんか妙な気分。有理には私があやめねえさんに見えてるのかなあ。 フォーカスでもかかって美人に見えているのだろうか。 だって、私が笑うと有理は少し赤くなって笑顔を返す。 話す時に有理の目をじっと見ると、はにかんで目をそらす。 ちょっと気分いいぞっ。 それに、有理の純情ぶりに、時々吹きだしそうになってしまう。 コーヒーカップを渡す時にちょっと指が触れただけで、 びくっと手が震えたりしちゃうのだ。 こりゃあ面白いやって感じである。 ホントは、もっとベタベタひっついたりして、 からかってやりたいんだけど。 マジメな橘あやめがそんなことをするのは変だから、しないけどさ。 家に帰ると、やっぱり肩がこっていた。いい子の振りもつかれる … と思ったが、有理から借りてきた本でカバンが重かっただけだった。 あの小説の続きが気になっていた。 自分の本棚から捜し当て、布団の中で本を開いた。 第二章からは業平が退院してからの話なので、参 考にはならないが、面白いのでついつい読んでしまう。 「おーっと! 小町の妹が出て来た。これって私ってことよね?」 小町が家でもらったテープを聞いていると、 小学生の妹が曲に感動して泣く、というシーンが出てきた。そのままやんかー。 それはいいとして、ハラがたつことにその妹の描写が 『ちびまる子のような髪型をしたおさるのモン吉に似た子供』 となっていたのだーっ! 誰が『おさるのモン吉』だとーっ! ちくしょーっ! 全国発売の書籍でよくもこんなこと書いてくれたなっ! 覚えてろよ、有理! おまえは今、私の手の中にあるのだ。 おまえはまさに私に恋をしようとしているところだ (正確には私にではなくあやめねえさんにだけど)。 いぢめてやるー! からかってやるー! 見てろーっ! ☆ 水曜日 ☆ 次の日、私は学校帰りには病院へ寄らず、一旦家に帰った。 姉が嫁ぐ時に残していったワンピースに袖を通した。襟が白いレースの、 水色のAライン。いかにも姉らしい服だ。姉が置いていったのは、 こんないい子ちゃん服ばかり。私は一生着ることはないと思っていたけどね。 復讐に燃える私は、鏡の前に立つと、髪をほどいて降ろし、 化粧も少しした。 私だって十七歳、遊びに行くのに化粧する時もある。 でも、普段なら絶対に塗らないパールピンクの口紅をひいた。 「・・・だっさあーい」 ピンクの口紅もこの服も、私には死ぬほど似合わなかった。 この姿で電車に乗るのかと思うと少し後悔してきたが、 私を『お猿』と表現した本が我が校の図書室にまであることを思い出し、 また怒りがこみ上げてきた。 行けーっ、レンゲ! 有理に復讐だ。 病院の五階の廊下で、有理が書いている雑誌の担当さんに会った。 げげ、締切のこと、すっかり忘れてた。 どうするんだろう。有理は高校生になっちゃってるし。 「 ・・・妹のレンゲさんか。びっくりした。奥さんの幽霊かと思いましたよー」 まだ若そうな編集クンは、背広を抱えてハンカチで汗を拭いた。 「ああ、いかにも姉がしそうな恰好ですもんね。 これ、お下がりなんです。それより、 精神科の先生からお聞きになりましたか、有理のこと」 「ええ。 ・・・はあーあ」と、彼はため息ついた。 「今月は諦めました。先生にも会わないで帰りますよ。 大変な交通事故に遇ったのは本当だし、原稿が落ちた言い訳はたちますから。 問題はこの先ですよー。 先生の作家生命の危機と言っても大袈裟じゃないでしょう。 記憶が戻ったらすぐに、連絡くださいね。それじゃあ」 彼は名刺を私に手渡していった。猫柳というその編集は、 有理より若いであろう、まじめそうな人だった。有理の担当だなんて、 気の毒なことだ。 私が部屋に入って来ると、有理は本をとり落とすほどびっくりしていた。 ワンピ姿を見てたくさんまばたきしている。どうだ、きれいだろ! いいねえ、この反応。 有理は本を拾おうとしながら「どこかへ行く途中?」と尋ねた。 「うん。これからデートなの」 ぱさっ。 ・・・また本を落っことしていた。「だ、誰と?」 私はくすっと笑った。 「ウソに決まってるじゃない。彼氏がいたら、 こんなにちょくちょく見舞いに来てあげてないわよ」 言ってから、レンゲとして自分でガーンとなってしまった私だった。←バカ? 「お化粧してるの?」 「うん」 「似合ってないよ」 ・・・再び、がーん。自分でも気にしてたことだけに、 指摘されたショックは大きい。有理をからかっていじめてやれ! と思って来たのに。クロスカウンターをくらってしまったー。くやしいっ。 これが本物の橘あやめだったら、 清楚で優等生っぽいこのワンピースも、 可愛らしいピンクの口紅も、きっと似合うんだろう。 有理はうっとりとみとれるのかもしれない。 「どうしたのさ。化粧なんて、らしくないよ」 まっすぐに、率直に、有理は言った。 「 ・・・私らしいって ・・・なに?」 尋ねた時、私は『素』に戻ってしまっていた。 レンゲが有理に問いかけていた。 「それは ・・・人に聞くことじゃないでしょう。 確かに答えが貰えたらラクだけどね」 有理はそう言ってゆっくりと笑顔になった。 確かにみとれてはくれていないけど、私を見る瞳は優しかった。 有理はそれ以上は何も言わなかった。 確固とした自分の生き方を見つけることができたら、 自分らしさがわかるだろうか。それともそれでもわからないままだろうか。 だいたい『確固とした自分の生き方』なんてのが存在するのだろうか。 ここで姉の服を着て姉の振りをしてる私の存在って、何だろう。 頭がクラクラする気がした。 ☆ 次のページへ ☆ |
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