第一章
 その髪をほどいて 2/2




  ☆ 木曜日 ☆

 翌朝、教室で撫子からイラストを渡された。 我が新聞部では、文化祭の販売を目指して雑誌を発行することになっていた。 撫子はイラスト要員で、将来はプロ志望だ。
「ユーリ先生に寄稿してもらう予定だったのに、 無理そうだね。プロの作家さんの文に絵をつけれるの、 楽しみにしてたのに、残念だなあ」
「ごめんね、撫子。でも、来年こそは書いてもらうから」
 私は机でトントンと教科書を揃えながら、撫子の方を見ないで言った。 撫子が言葉にして『残念』だなんて言うのは、 本当に、心底がっかりしているのだ。 撫子に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「来年には、記憶が戻ってるといいね。どうなっちゃうんだろ、 ユーリ先生。だって、今日ギブスが取れるんでしょ、 あと何日かで退院じゃない。それまでに記憶が戻らなかったら・・・ どこへ帰るの?」
「 ・・・。そういうこと、考えたことなかった」
 身内の私より、撫子の方がよっぽど親身に有理を心配している。 私は、姉の真似して有理をからかうことばかり考えて、すっかり忘れていた。
 有理の両親はニューヨーク在住である。 有理の入院・姉の葬儀の時にはさすがに日本へ帰ってきたが、 今はもう遠い空の下にいる。記憶障害のことも、特別連絡はしていない。  うちの母が一応有理の保護者ってことになるか。 でも、精神は高校生だけど、戸籍上は二十五歳だし保護者ってのもないもんだ。  退院したら、姉と生活していたアパートに戻るのだろうけど ・・・。
 やはり、本当の事を告げるしかないのだろう。年齢や職業のこと、 事故のこと、そして姉の死のことも。
 冷静に考えると、記憶が戻らなかったら、すごく大変なのだ。
 たとえば有理の生活費は?  すぐに今までと同じレベルの小説が書けないなら、 編集の人が言ったように本当に『作家生命の危機』なのだ。 彼はどうやって食っていくのか?
 私も ずっとあやめねえさんの振りを続けていけるの? ムリに決まってる。
 ほんとうに頭を殴ってでも、記憶を取り戻してもらわなきゃヤバイ。 ヤバイのだ。
・・・でも・・・。

 有理は、ギブスを電動ノコギリで切った時の様子を、 一生懸命話していた。私があいさつがわりに「どんな風だった?」 と聞いたら、ホントに詳しく説明してくれていた。
 記憶が戻るってことは、この『藍澤クン』がいなくなってしまうってことだ。
 まっすぐで、シャイで、ナイーブな、高校三年の藍澤有理が ・・・。
 そして同時に私も、『想いを寄せる美人のクラスメート』から、 ただの『からかい甲斐のある義妹・お猿のモン吉』に戻るのだ。まるで、 シンデレラの馬車が十二時でかぼちゃに戻るように 。
「ねえ、足の傷、見せて。手術で縫ったんでしょ?」
 私はつとめて明るく言った。
「いいけど、十五針縫ったから、けっこうグロいよ」
 有理は右のパジャマの裾を膝の上まで捲ってみせた。 左足に比べるとガリガリに痩せて筋肉も落ちている。 痛々しい新しい傷の隣に、古い傷が残っていた。
 有理は「あれっ?」って不思議そうな顔をして考えこんでいた。 これからもどんどん、辻褄のあわないことに出会うだろう。
 病室に来る前に、精神科の先生と相談して、先生から退院の日に本当の ことを言ってもらえるようになった。 有理は混乱するだろうが、医者から言われるのが一番説得力があると思う。 ちゃんと信じるだろう。
 退院は三日後に迫っていた。あと三日。こうしていられるのも。
「痛そうな傷。かわいそう」
 私は涙が出そうになった。もちろん傷を見たせいじゃない。
「 ・・・あと三日で退院ね」
「すぐ学校に出れるわけじゃないけどね」
「 ・・・。」  自慢じゃないが、私の涙腺は弱い。めちゃめちゃ弱い。 まつげに溜まっていた水滴が、膝の上で握ってた拳にぽとんと落ちた。 なんで涙が出ているのか、自分にもわからなかった。
「どうしたの?」
「わかんない ・・・。私にもわかんないよ!」
 もう、涙は止まらなかった。頬をたっぷりと流れ落ちていく。 目にゴミが、なんて理由でごまかせる量じゃないぞ。どうするんだーっ?
 有理はあわててタオルかハンカチを捜したが、見つからなかったらしく、 バスタオルをよこした。私はバスタオルで顔を覆った。少し汗くさい。
「退院しても、しばらく自宅療養してるから、見舞いに来てくれよ」
「いやよ。行くもんですか」
 ああ、もう、これってねえさんのキャラクターじゃないよ。 『レンゲ』が出ちゃってる。
 有理は、くすっと子供を笑うような軽い笑いを洩らした。
「通学し始めたら、迎えに来てよ。松葉杖つくとカバン持てないじゃん」
「いやだってば! 私は有理のカバン持ちじゃあないわよっ」
「歩けるようになったら、デートしよう」
「ヤだ、ヤだ、ヤだっ! ・・・えっ?」
「好きだよ、オレ。君のこと」
「 ・・・(茫然)」
 有理はバスタオルで私の頭を包みこむと、にこっと笑った。
 くらっときた。男の子に『好きだ』なんて言われたの、初めてなのだ。 たとえ姉の身代わりとわかっていても、 足はガクガク震え心臓はばくばくいっていた。 オトコ免疫のない悲しさだ。相手は有理なのに。
 そして、ほんの一瞬の出来事だった。唇にひんやりと冷たい感触があった。 それが有理にキスされたのだと気づくのにしばらくかかった。
 パニックだった。ぱにっく! PANIC! 大パニックだ。
 こんなこと、予想もしてなかった。  私にはもちろんファースト・キスなのだ。これって ・・・なんか・・・ 神サマ、残酷じゃあないですかあ?
「有理のばか!」
 私は有理をぼかっと殴ると、病室から逃げ出した。
 どこをどう走ったか覚えていなかった。私は泣きながら走っていた。 風景はにじんで、コップの水をぶちまけた水彩画のようだった。 耳の後ろがどくどく鳴り体中の血液は大騒ぎしているのに、 背筋がぞっとするほど寒い。
 すれ違う人たちは、きっと変な顔して私を見ていることだろう。 でもそんなの気にして いる余裕はなかった。とにかく病院から ・・・有理のいる病室から遠く、 遠く離れたかった。

 ふと正気に戻ると、私は駅の切符売り場の前に立っていた。
「あーっ! カバン!」
 私は有理の病室に学生カバンを忘れてきたのだ。 あの中には定期券もサイフも入っていた。おまけにサイフには家の鍵が ・・・。
 母が仕事から帰るのは七時過ぎるだろう。 あと三時間もある。それまで家にも入れないのだ。
 幸い二、三十円の小銭がポケットに入っていたので、 撫子に電話をした。撫子はこの駅まで出て来てくれた。
「おなか空いてない? おごるよ」
 電話の声の調子や、明らかに泣いて腫れている目。 撫子は変に思っただろう。
 撫子に誘われ、駅前のマックに入った。
 チーズバーガーとコーラで少し落ち着くと、また悲しくなってきた。
 私はバカだ。大バカだ。 いい気になって姉の真似なんてするから、こういう目にあうんだ。 楽しかったのだ。姉でいるのが。憧れのあやめねえさんになれるのが。 有理の好きな女の子でいるのが。
 有理にキスされた。好きだと言われた。 でも、それは私が言われたんじゃあない。有理は私じゃなくて、 あやめねえさんにキスしたんだ。
「はい、ハンカチ」
 テーブル越しに撫子がミッキーマウスのハンカチを差し出していた。 私はまたちょっとうるうるしていたらしい。
「ごめん。もう大丈夫」
 撫子は何も尋ねなかった。有理の病室にカバンを忘れたら、 取りに戻ればいいことだ。何故戻れないかとか、何故泣いているかとか、 気になっただろうけど、でも、なあんにも聞かなかった。
「アップルパイ、食べない? ポテトは?」
 撫子は、さらにまた食べ物をおごってくれた。 食べ物で機嫌が直ると見透かされているところが悲しい。 でも、満腹になると、なんとなく元気になったのも本当。
 クラスメートやタレントの話で少し笑った後、撫子が唐突な提案をした。
「ねえ、レンゲ。髪、切ってみない?」
「えっ?」
「行きつけの美容院で、高校生のカットモデルを捜してるの。 普段四千円なんだけど、千円で切ってもらえるんだよ」
「 ・・・。」
「ロングヘアって、レンゲの性格からいうと 違うんじゃないかと思ってたんだー。短い方が似合うよ、きっと」
「そうだね。私もそう思う。それに ・・・制服は今更変えれないけど、 髪型ならあやめねえさんと変えることができるもんね」
「レンゲ ・・・」
「もう、大丈夫だよ、私」
 おなかいっぱいになったから、気持ちは思いっきり前向きだった。
 撫子も笑顔でうなずいて立ち上がった。
「さあ、そうと決まったら、早速行こう! 千円は貸してあげるから」
 そして私の手を取った。

 髪が短いっていうのは、こんなにいいものだったのかぁ。 首すじを通り抜ける風が心地好かった。顔を洗うのもラーメンを食べるのも( ちなみに、その夜の母の作る夕飯はラーメンだった。 もちろん私は夕飯も全部食べた)髪をゴムでしばらなくていいし、 お風呂に入るのにもシャワーキャップはいらない。 髪がブラの肩紐にひっかかって痛い思いをすることもないし、 朝も二十分は寝坊できる。
 あ、でも、明日は少し早く家を出ななきゃいけないんだ。 学校へ行く前に、病院へカバンを取りに行かないと。 ノートも教科書も入ってるんだから。
 ええい、勇気を出して行くんだーっ!
 でも、どんな顔して有理に会えばいいんだろ。 いつもみたいに眠っててくれるといいな。


 ☆ 金曜日 ☆

 次の日の朝。
 私は恐る恐る病室のドアを開け、静かに中を覗いた。
「なんだ。いないや」
 ほっとした。さてと、私のカバンはどこでしょう。
「おう。猿が廊下でチョロチョロしてると思ったらおまえか。 随分ばっさり切ったな」
 背後から声がした。有理の声だ。 ・・・そして、この口調は ・・・。
「早く入れよ。松葉杖でどつくぞ」
 振り向くと、ふてぶてしくて陰険で意地悪そうな顔をして有理が立っていた。

「いつ、記憶が戻ったの?」
「オレ、記憶障害っていうのになってたんだって?」
 有理がベッドに座ったとたん、お互いが同時に言った。 お互い顔を見合わせて苦笑した後、 有理があごで『おまえ先に喋れ』と合図した。
「記憶が戻ってから、先生に説明は受けたの?」
「ざっとね。さすがにナイーブでデリケートなオレだなあ」
「泣いたり取り乱したりできないから、抑圧されてたんでしょ。 プライドが高すぎて泣けないからだよ」
「ふん。泣いたり取り乱したりするヒマがなかったんだよ。 昏睡状態から醒めたら、あやめの葬式まで終わってたんだ。 遺体も見ていないんだぞ、実感なんか沸くかよ」
 私は黙ってしまった。そうか、そういう悲しみもあるんだ。
「 ・・・そんなことより、おまえに聞きたいことがある」
 えっ? ちょっぴりドキッ。
「オレが部屋で倒れているのを、夕メシを運んできた看護婦が発見した、 らしいよ。その前のことは覚えてないんでね。で、 オレは誰かに殴られたらしいんだ。松葉杖も転がってたっていうし 」
「ど、どきっ」
「そして何故か部屋にはおまえのカバンが置きっぱなしになっていた」
「きゃーっ!」
 私は頭を手で抱えて、有理のどつきに備えた。
「ごめんなさあい! そんなに強く殴ったつもりはなかったのよ!」
 私が殴って逃げた時、殴られた有理は転んだのだろう。 そのおかげで記憶が戻ったらしい。よかったと言えばよかったけど。
 医者の奴、最初に『マンガじゃないんだから』なんて言って止めたくせに。 しょせん福娘紅子の小説なんてマンガみたいなモンなのだ。 こんなことならもっと早く殴っておけばよかった。
 有理は、軽くゲンコで私の頭を叩いて、 「ま、オレを思ってのことと解釈しよう」と言って、うんうんと自分で頷いた。
「 ・・・有理の記憶が戻ってよかった」
 私は心から笑顔でそう答えた。
「まだ少し頭がぼーっとしてるがな。 何も覚えてないっていうのは、少しコワイな。おまえ、 オレに悪さしなかったろうな」
 ドキドキッ。
「女装させて写真撮ったとか、怪しい通販の申込みをさせたとか、 オレの嫌いな洋梨を 『好物だ』と言って食わせたとか 」
「洋梨 ・・・。ちっくしょー、気づかなかった! 惜しかったーっ!」
 私は地団太踏んだ。くやしい。そういう手があったか。
「まあ、おまえの頭の悪知恵なら、たかがしれてるだろう。
 しっかし、その髪型、似合いすぎるな。モン吉以外の何者でもないぞ」
「むっかー」
「さっぱりしてていいじゃんか。似合うって言ってるだろ。 それより、今月の締切のことなんだけど ・・・」
「落ちたよ」
「がーん!」

 病院から駅へと向かう道、私はハナ歌まじりだった。 昨日通った時とはなんという違いだろう。スキップしたい気分だ。
『ちっくしょー、昨日までのこと、すっかり忘れやがってー!』
『私の涙はなんだったのぉ?』
『ファースト・キス、返せーっ!』
 心の中でそう叫びながらも、笑いがこみ上げてきた。
 有理が戻った。帰ってきた。
 豪華な馬車はかぼちゃにもどってしまったけれど、 かぼちゃの方が食べれるからいいかもしれない。
 好きだ。今の有理が好き。 ・・・ずっと前から。私は初めて素直にそれを認めた。

 学校へ着いたら、撫子以外のクラスメートは私の頭を 見て騒然となった。なんせ、腰まであった髪をショートにしたのだ。
「どうしたの? 失恋でもしたの?」
「うん、まあね」と私は舌を出した。
 撫子に、有理の記憶が戻ったことを告げたら、とても喜んでくれた。
「レンゲも、もう大丈夫そうだね」
「いろいろありがとう。心配かけてごめんね」
「ううん。千円さえ返してくれればいいの」
さすが我が友。
   

☆ 日曜日 ☆

 翌々日の日曜日。有理が晴れて退院する日。
 四十日という長い入院生活だったので、荷物もすっかり多くなっていた。 有理はまだ運転できないし、母の仕事は日曜休みではないので( それより母の運転だと、また事故って病院に逆戻りしそうだ)、 出版社の猫柳さんにクルマを出してもらうことになった。
 病室で荷物整理をしていると、三歳くらいの男の子を連れた 若い母親が部屋を覗いた。
「あっ 。どうも」
 有理が気づいて、表情を硬くした。挨拶をしに廊下に出ていった。
「退院おめでとうございます」
 少し緊張した母親の声。私はドアを細く開けて廊下の様子を盗み見た。 後ろでは編集クンも覗いていた。小声で ・・・綺麗な人だけど、どなたです?・・・ と聞いた。
・・・事故の原因になった、飛び出した子供とそのお母さん。
・・・あーあ、なるほど。
 姉の葬式に来ていたので、母親の顔に見覚えがあった。 有理のところにも二、三度見舞いに訪れたようだった。
「本当にあの時は、うちの洋介が申し訳ないことを ・・・ 。 謝ってすむことではないですが・・・ 。私がちゃんとこの子を見ていれば ・・・」
最後の方は声が詰まっていた。
「ママー、どうしたの? どこか痛いの? 泣いてるよー」
 子供が母親を心配していた。優しい男の子なのだろう。
 まだ、自分のしてしまったことの重大さなんて、理解できるわけがない。
 正面衝突のトラックの運転手の方は、 他の病院でまだまだ入院しているらしい。 警察やら保険やら賠償やらという、こまごました事務処理はすべてとっくに 終わっていた。子供を憎んでもあやめねえさんは帰っては来ない。
「奥さん、そんなに自分を責めないで下さい」有理が珍しく 真面目に答えていた。
「あれは交通事故でした。それ以外の何でもない。 僕は、お子さんのことを恨んでいませんから。 子供が遊びに夢中になるのは当たり前で、 お子さんのせいじゃないですよ。奥さんもそんなに自分を責めないでください」
 確かに、母親は、姉の葬儀で会った時より十歳も 老けたように見えた。すっかりやつれていた。姉より少し上か、 もしかしたら同じ歳くらいかもしれないのに。
「この子が大きくなって、事故のことで負い目を持つようなことになったら、 今僕が言ったことを忘れずに話してあげてください。僕は、恨んでいない、と」
 若い母親は、廊下を何度も振り返ってお辞儀をして帰っていった。  てれ屋の有理だけど、こういう時はやっぱり大人なんだな。
 有理が部屋に戻ってきたので、私と編集クンはぱっとドアから離れ、 荷物の整理を続けるふりをした。
「ばーか、覗いてたのはわかってるんだ」
 有理が雑誌で私の頭をぽこっと殴った。
「い、痛いじゃないのっ」
「ふん」
 てれてる、てれてる。
「あの子が大きくなっても、誰も知らせないといいですね、事故のこと」
 猫柳さんの言葉を、「そんなこと、あるわけないんだ」と有理は無愛想に 否定した。
「本当のことなのに、つらいからって、知らない方がいいことなんて、 あるわけないんだ。 事実は、乗り越えていかなきゃならないんだから」
「よく言うよ、現実逃避して高校生に戻っちゃってたくせに」
「うるさい」
 ぽこっ。私はまた雑誌で殴られた。
 でも、本当なの? 本当にそう思ってるの? 憧れていた女の子と恋が 始まろうとしていたあの空間と、最愛の妻が死んでしまっている現実の世界と。 それでも、戻って来てよかったと思ってる?
うん、そうだね。有理ならきっとそう思ってるね。

 荷物は、私と猫柳さんの二人でクルマに積み込んだ。 大きなテディ・ベアには手こずったが、二人がかりで抱え、 かろうじて後ろの座席に押し込んだ。
 その間、有理は偉そうにずっと待合室でタバコを吸って待っていた。 もう十一月だというのに、キャメル色の半袖のポロシャツに白の綿パンと いう夏のような恰好だ。事故にあったのは九月の、まだ暑い時期だったから。
 病院の外に出ると、木枯らしが吹いていた。街路樹にかろうじてしがみついていた、 茶っけておいぼれた葉っぱたちが、 次々とこそぎ落とされていた。有理が「げーっ、寒いぞっ」と肩をすぼめた。
猫柳さんのクルマは、私が子供の頃見たことがあるぞ、 というくらい古い中古車だった。 予想通りのすごい乗り心地で、有理は後ろで散々文句を言っていた。
 アパートに着いて、 有理が部屋のドアを開けた。その途端、私たち三人はぶっ飛んだ。  四十日、密封され放置された部屋というのは、 こんな強力なものなのかーっ。
「くっせーえ!」
「すごい埃! なにこの蜘蛛の巣! ・・・きゃあ! そこ、ゴキブリが死んでる」
「なんか腐ってますよ」
 三人で絶句して顔を見合わせた。
「窓あけろ、窓!」
「持って帰った荷物を入れる前に、部屋の掃除しなくっちゃ」
「掃除用具買ってきます」
 有理は松葉杖ついたまま部屋に入って (この部屋じゃ靴のまま入っても平気だよ)、 カーテンと窓を一気に開けた。 私は台所の生ゴミやシンク下の棚の腐った野菜やらを捨て始めた。 猫柳さんは、バケツと人数分の雑巾、洗剤等をスーパーに買いに行った。
 水道の水は出した瞬間茶色かった。冷蔵庫の肉も牛乳も卵も、 みーんな腐っていた。ダイニングキッチンの四隅全部に律儀に蜘蛛が 巣をはっていた。
 事故の後に、有理の両親が保険関係の書類を 取りに入ったり、猫柳さんがワープロを取りに来たりしたことはあったものの、 ずっとほったらかしにしてあったのだ。 きちんと掃除をしに来てあげればよかったー。 私も母もこういうことには疎いかも。気づく人がいるとしたら、 ねえさんくらいのものだけど ・・・。そんなこと言っても、ねえ?

 ボウルに、ひからびた茄子のスライスがたくさんはりついていた。
「あっ ・・・」
 ねえさんが、夕食に使うつもりで、 アク抜きしていたのだろう。油断していた。こんなところに、こんな片鱗。
 胸が張り裂けそうだった。二人のディナーはもう永遠にない。
 泣きそうになったことを有理に悟られてなるものか。 あっちは静かだけど、何してるんだろうと、有理の様子をうかがった。
 有理は、リビングのテーブルの前で立ちつくしていた。
「有理?」
 近づくと、テーブルの上には二つの白いコーヒーカップ。 有理の視線はそこから微動だにしなかった。
 出かける直前に二人でお茶したのだろう。 カップの内側には、コーヒーの残りが、 固まってヒビ割れて粉々になっている。 片方のカップには、薄くルージュの跡が残っていた。・・・有理の肩が震えていた。
 きつく拳を握っていたけれど、私が隣にいるのを知っていたけれど、 有理は涙を止めることができないでいた。
 私は、黙ってずっと、有理の隣に佇んでいた。
 泣いていいんだよ、有理。悲しいの、当たり前なんだから。

 というわけで、猫柳さんが戻ってきた時も、 ぜーんぜん片付けは進んでいませんでした。 「何やってたんですか、今まで」と、 原稿を催促する時のように怒る彼デシタ。
 掃除が終わって、持って帰った荷物の整理も終わると、 すっかり夜になっていた。
「おなかすいたー!」
「メシ食いにいくか。今日の謝礼に何でもおごるぞ」
「わーい」
 その時、ピンポーンとチャイムが鳴った。 私がドアを開けると、十二、三歳だろうか、 大きなスポーツバッグを肩にかけた男の子が立っていた。 賢そうなすっきりした目鼻立ちの、育ちのよさそうな子供だ。
「おばさん、有理はいるか?」
 お、お、おばさんだとーっ! このうら若き高校生のレンゲ様に向かって!
「ソウ君じゃないかっ!」
 背後から有理の悲鳴のような叫び声がした。 普段物に動じない有理としては、異例の驚き方だ。 有理は松葉杖で立ち上がると、玄関まで飛んできた。
「やあ。病院へ見舞いに行ったら、今日退院したんだって?」
 ボーイソプラノで、有理にタメ口を叩く。有理をさらに偉そうにした子供。
「叔父さんたちは? まさか またソウ君一人で出てきたわけじゃあないよね?」
 有理は恐る恐る訊ねていた。 このガキが有理を呼び捨てにしているのに、 有理が君付けで呼んでいるのも笑える。
「・・・。」
 少年は下を向いた。ごついデッキシューズの爪先でトントンと 廊下の床を蹴った。
「信じられなかった。あやめさんが死んだなんて。 オヤジは葬式に連れて来てくれなかったし、 この目で証拠を見るまで信じないと決めた」
 そう言うと、きっと唇を結んだ。
隣の有理は心底深いため息をついていた。

 有理が連れて行ってくれたのは、近所のちょっとお洒落な チャイニーズ・レストランだった。このあたりって、 かわいいレストランや雑貨屋が多いんだよね。
 扉を押したあと、「あやめと、よく来たな」有理がポツンと言った。
 有理は結構気前がよくて、バシバシ頼んでいた。 病院で粗食に耐えていた反動なんだろう。
 一緒に食事にくっついてきたソウという子供は、 有理の従兄弟だそうだ。そういえば結婚式にいたな、 小学生版の七五三みたいなかっこした蝶タイのガキが。
 結婚式であやめねえさんに一目惚れして、 「いつか有理から奪い取ってやる」と宣言したらしい。 その直後、両親に内緒で一人飛行機に乗って新婚の有理たちを訪ねた 前科が残っているという。とんでもない子供だ。
 そして今回も、一人で上京してきちまったわけで。
 有理は少年を叱らなかった。知らないうちにあやめが死んでいたという、 取り残された者の悲しみを理解したのかもしれなかった。 それとも叱っても無駄だと思ったのかな。
「おまえは、食ってる時が一番幸せそうだなあ」
 ビールで少しだけ愛想がよくなった有理が、「これも美味いぞ。やるぞ」 と自分の分の蟹爪をくれた。 「このサルが、美人のあやめさんの妹だなんて嘘だろ?  有理ったら、僕を騙そうとしてるんだろ?」
 ソウはしつこく何度もくり返し言った。腹たつガキだなあ、 まったく! くそ、猿になったのは髪を切ったせいなんだよっ!
「髪だけは綺麗だったのに、よっぽどの失恋だったんだろうなあ。 これも食っていいぞ」 有理が海老チリも半分くれた。 チリペッパーの辛さが鼻につんときた。可笑しくて可笑しくて、 笑いそうになった。
「まだ失恋したと、決まったわけじゃあないよっ」
 私は強気に箸を振り回した。
「いつか、私にメロメロに惚れさせて、土下座させてやるー。 『あの時はすみませんでした』と泣いて謝らせてやるぞっ」
「よおし、レンゲ、その意気だ」
「あやめさんの妹さんなんだし、きっと美人の遺伝子は持っているはず。 頑張ってくださいね」
 猫柳さん、ありがとー。私、DNAの可能性を信じて努力するわっ!
「サルの分際で恋愛する気か?」
 こーのー、くそガキーっ!
 ぼこっ!
 私は容赦なくソウの頭を殴った。
「痛いなあ。どうせ殴るなら失恋させた相手にしてよー。『女王様!』と 跪まづかせてやるっていうのは、どう?」
 このガキ、どこでこんなこと覚えたわけー? でも、 有理が私にひれ伏すところを想像すると、笑いがこみあげてきた。

 有理。ずっとねえさんを想い続けても、それはそれできっと楽しい。 傷が癒えたら素敵な女性と恋をして、また結婚するのもいい。 若くして逝ったねえさんの分も、幸せになってほしい。 私も、有理の何倍もかっこいい男を見つけて、いい恋するから。
 あーあ。なんだか、いい気持ち。ふわふわして、暖かいよ。瞼が重い。
「このサル、食べながら寝てやがる」
「レンゲさん、起きてくださいよ」
「あーっ! こいつ、オレの老酒、勝手にこんなにあけて! 未成年のくせに!」
 ふふふ、有理の声だ。なあーんか、遠くで騒いでる。ふしぎー。雲の上を歩いてるみたいだよー。
「寝るなーっ」

 雲の上で、天使の羽をつけたあやめねえさんが笑っているような気がした。


< END >

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