第二章 金木犀館 1/2 |
☆ 1 ☆ 「落ちる落ちる落ちるー! コーヒーがないから書けないっ! コーヒーが ないと原稿が落ちるぞー!」 私の携帯電話に有理のわめき声が反響していた。 ここは大学の学食。電話が鳴ったのは私が「さあ食うぞ」 と箸を割った瞬間だった。 「それって、私にコーヒーを買って来いってこと?」 穏やかに尋ねながらも、私の箸を持つ手は怒りで震えだしそうだったぞ。 「あと、時計が止まっちまった。単二電池も二本頼む」 「そんなの自分で買いに行けばいいでしょ。私、午後から授業だよ。 それにこれから昼ごはんなんだから」 「腹も減ったな。カップ麺もよろしく。ラ王にしてくれ」 こいつ、人の話を全然聞いてないなっ。 うどんのおいしそうな匂いが空腹感を刺激する。おなかが空いてると、 イライラ度が増すことってないですかあ? 電話切って早く食べたいんだけど! 「頼むよー。買い物に出てるヒマはないんだ。 締切が過ぎちゃってるんだ。コーヒーが飲みたいよぉぉ」・・・泣きが入っていた。 有理はコーヒー中毒みたいなところがあるからなあ。仕方無いなあ。 「わかったわよ。昼ごはん食べたら、すぐに行ってあげる」 「サンキュー。レンゲ、愛してる」 「ウルサイ!」 私はむかっとして、力いっぱいフックボタンを押して電話を切った。 有理は自分勝手な奴だけど、もし姉が生きていたら、 欲しいと言う前にすっとコーヒーが出て来たのだろう。 消化のいい夜食が机に置かれることもあっただろう。 きっと『快適な修羅場』(なんじゃ、そりゃ)だったに違いない。 そう思うと、やっぱり可哀相になっちゃうんだよねえ。 電話の相手、藍澤有理は、たいして売れない恋愛小説を書いている あんまり有名でない小説家だ。私の義兄にあたる。 義兄といっても、 姉のあやめは三年前に事故で他界しているので、 もう関係のないヒトなのだけど。腐れ縁はいつまでも、という感じである。 私はうどんをかっこんで、急いで大学を出て、電車に乗った。 有理の駅で降りて、スーパーで買い物をしてアパートに向かう。 アパートの前の道路は枯れ葉の一枚も落ちていないほど綺麗になっていた。 二階への階段も廊下もチリひとつない。 有理の奴、かなり行き詰まってるなあ。 彼は、煮詰まると必ず部屋の掃除を始めた。 整理整頓、掃除機かけ、雑巾がけ。ワックスがけまでやることもある。 それでもまだアイデアが浮かばない時は、 アパートの廊下や階段、外の道路までホウキで履いていた。 担当さんの間では、有理んちのまわりが綺麗だと危険だと噂されているそうだ。 二階の一番はじ、有理の部屋の前には、 編集の猫柳さんが立っていた。コートのフードをすっぽりかぶって、 ポッケに手を入れている。長く待っているのだろうか。寒そうで気の毒だった。 「有理、いないんですか?」 「ごはんを食べにでも行ったんでしょうかねえ」 「ひどい! 出かけられないからって私に買い物頼んでおいて」 「 逃げたんでしょうか。回りが綺麗なのでイヤな予感が したのですが。あーあ」 彼は、今は主任になっていたが、まだ時々原稿を取りに来ていた。 「私、帰ります。有理を捕まえたら『バカヤロー』って言っといて。 午後の授業、フイにして来てやったのに」 コーヒーが飲めなくて、かわいそうだと思って来てやったのに。 悔しいから、買ったものは持って帰ってやれ。ふん。 私は再び電車に乗って、家に帰った。有理の駅から二駅という近さ。この近さが良くな い気もするんだけど ・・・。 駅前の駐輪場に止めてたチャリに乗って帰った。 家の門を開けてチャリを庭に入れ、郵便受けの手紙をチェックする。 父からハガキが来ていた。珍しいことだ。 年賀状以外で初めてかもしれない。 『ショウブが、大学受験で東京に行くので寄ると思うがヨロシク』 とあった。ショウブというのは、父と新しい奥さんの間に生まれた子供で、 私の異母弟である。 「ヨロシク」って言われてもなあ。うちで泊めろってこと? ハガキを見ながらドアを開けて、私ははっとした。 ・・・あれ? 私、今、鍵をあけたっけ? 悪い予感は的中していた。 玄関には見覚えのあるでっかいウエスタンブーツ。有理が来ているのだ。 「ちょっとー! 人に買い物頼んでおいて、トンヅラしないでよっ。しかも、 ひとんちに逃げ込まないでってば!」 有理はリビングでくつろいで、うちのコーヒーを勝手に入れて飲んでいた。 「ひとんち? ・・・ここはオレんちで、オレの慈悲でレンゲを住まわせてやってるんですけどねえ」 「ぐっ 。そ、それはそうだけどさ」 私一人が住むのに、庭付一戸建ては贅沢すぎる。 去年母が再婚してここを出た時、この家は売りに出された。 私は大学の近くにアパートでも借りるつもりだった。 有理が、あやめねえさんとの思い出の詰まったこの家を 人手に渡したくなくて、買い取ったのだった。で、なぜ、 ここに住まないかというと、今のアパートにはもっとねえさんとの 思い出が詰まっているから引き払えないのだ。バカな奴でしょ。 有理くらいの作家なら(あんまり有名ではないけど、 十年もプロを続けていられる程度には人気もあるし、 そこそこは版を重ねているらしい)、バリっとしたマンションくらいには 住めるだろうにね。新婚向け風の可愛い木造アパートに未だに住んでいる。 人が住まないと、家は痛む。で、庭の手入れもするという条件付で、 私はここに住まわさせてもらっているのだった。父から学費、 母から生活費は出ているものの、お小遣いはバイトで稼いでる身。 家賃がタダなのはありがたかった。 「たしかにここはオーナーは有理だけどさ、今は乙女が一人で住んでるんだぞっ。 勝手に入らないでよ! 下着でも干してあったらどうするのさ」 「干してあったよ。乾いてたから、たたんで階段に置いてある」 「きゃーっ!」 まったく、有理は私を女と思ってないんだから! 私は怒りにまかせてぼんぼんタンスに洗濯物をしまった。 いつまでも、ワカメちゃんぱんつで坂上がりしてたおチビじゃないんだぞ! 私がリビングにもどると、 有理は今度は私の買ってきたカップ麺をさっそくすすっていた。 「頼まれたから買ったけど、カップ麺なんて体によくないよ。 栄養のあるおいしい食事を作ってくれる奥さん、そろそろもらったら?」 「うちの近所はうまいメシ屋が多いし、 困るのは今みたいな修羅場の時だけだから。それにドレイもいるし」 「だれがドレイじゃーっ!(←自分だと認めている) そのカップ麺食べたら早く帰りなよ。猫柳さん、 寒いのに外で待ってたよ。それに、弟が来ることになってるんだ」 「弟?」 「離婚した父親の息子」 「ああ、そういえば居たな」 「大学受験で上京するの。父からヨロシクってハガキ来てた」 「だからって、なんでオレが出ていくのさ」 「受験生なのよ。同じ家の中に煮詰まった作家がいて、 下手すればイライラした担当まで押しかけてくるかもしれないなんて、 かわいそうでしょう」 「うっ 。オレ、煮詰まってたんだっけ。 あーあ、仕方ない、帰るか。あやめの弟だもんな。 オレにも大切な弟ってわけだ。あやめに似て、美形かもな」 「さあ。私もしばらく会ってないから、顔知らないんだ」 最後に見たのは、三年前の姉の葬儀の時だった。坊主頭で瓶底の黒縁 メガネをかけた、 背の低い男の子だったけど。三年たてば、 子供なんて見違えるほど変わってしまうだろう。 「オヤジも、年賀状に家族の写真くらい入れろってもんよね。 もしどこかで偶然出会って、知らないで恋に落ちたりしたら、 どーしてくれるのよ」 「それ、もらった!」 有理はいきなり大声を出し、ソファに身を乗り出した。 「えっ?」 「そのアイデア、いけそうだ。 ・・・オレ、帰る」 有理は食べかけのラ王を私に押しつけて、とっとと帰っていった。 昼にうどんを食べた私だったが、律儀にラ王の残りも全部たいらげた。 スープを飲んでいると、ソファに置きっぱなしのスーパーの袋が目に入った。 「カップ麺だけ開けて、コーヒーと電池は忘れていったな」 仕方無い、届けてやるか。有理が出てからまだ二,三分だ。 チャリなら、まだ追いつけるかもしれない。 チャリでこぎだして四,五M。すぐに寒くて立ち止まった。 手袋をする為にチャリから降りた、その時だった。 「待てーっ! ひったくりだー! つかまえてくれーっ!」 えっ? と思って顔を上げたら、目の前を小柄な男(アラブ系?) が走り抜けて行った。 男はボストンバックのようなものを抱えていたようだった。 「待てー!」 すぐに若い男の子( 高校生くらいだろうか)が、 黒いコートの裾をはためかせて追いかけて来た。 「おねえさん、ちょっと自転車貸して」 再び「え?」と思っているうちに、少年は私の自転車に乗ってひったくりを 追って行ってしまった。 ぼーぜん。 今のはなに? いったい何が起こったの? って感じ。 ・・・待つこと十分。自転車&少年は戻って来ない。 えーん、寒いよお。道でぼーっと立って待ってる私の姿って、 バカみたいじゃなあい? それよりも、私は少し心配になってきた。 少年は長身で運動神経もよさそうだったが、 もし相手が刃物でも持っていたら? 殴られて打ちどころが悪かったら? ケガして倒れてやしないだろうか。おまわりさん呼びに行った方がいいかしら。 私はとりあえず様子を見に行こうと、 自転車の行った方向へ歩き出した。少し歩くと先は急な下り坂になっている。 「あ、あれは ・・・」 坂の下の方から自転車を引いて登って来る、 黒いコート姿が見えた。私に気づいて、Vサインしてみせた。 笑顔だ。肩には、取り戻したボストンバッグを下げていた。 私は「だいじょうぶだったー?」と叫びながら、坂を走り降りた。 「自転車、ありがとう。おかげで追いつけた」 「遅いから、刺されたかと思った」 「ははは。少し揉み合いにはなったけどね」 そのせいだろう、コートの裾が少し汚れていた。 私は、この少年が、わりと ・・・いや、かなりいいセンいっている ことに気づいた。美形というのではないが、 人を安心させる好感度の高い顔立ちをしていた。 特に笑った時の目がいい。懐かしいような優しい気持ちにさせる目だった。 ひょろりと背が高く、彼の体型に長い丈の黒の綿コートがよく似合っていた。 「ケガしてない? ・・・あ、手。血が出てる」 右手の甲を擦り剥いていて、血が固まっていた。 「へーき、へーき。こんなの舐めときゃ治る。 はい、自転車。ありがとうございました」 彼は坂の頂上で自転車を私に返した。 「あ、やだ、上まで自転車引かせちゃったわね。ゴメンゴメン」 「ううん、勝手に持って行っちゃって、すみませんでした。おかげで全財産、 取り戻せました」 「全財産?」 少年はバッグのファスナーを少しだけ開いて見せた。 「えっ!」 中には一万円札の束がごっそり! ・・・に見えたが ・・・。 「トレーナーなんだ。お札の柄のトレーナー。 ひったくりは、これを見たらしい」 一番上に、一万円札の柄のトレーナーがのっかっていた。 まぎらわしいものを! しかもヘンなセンス。もしかして妙なヤツなのかも。 「あ、でも、このバッグに今現在の全財産入ってたのは本当だよ。 旅行者だもん。 このバッグ取られてたら、東京で頼って行くはずの親戚の住所も電話も わかんないし、実家に電話する電話代さえ無かったんだ。 あーあ、それにしてもハラへったな。このへんでうまい店知らない? 自転車のお礼におごるよ。一緒に入ってくれない? 一人でメシ食うの、苦手なんだ」 これはナンパだろうか。純粋なお礼だろうか。 それともホントに一人で店に入れないのだろうか。 ナンパだとしたら、厭味のないうまい誘い方だった。お礼なら、 断る理由はない。一人で入れないなら、付き合うのは人助けだ。 どっちにしろ、付き合っちゃうんだけどね。 私はこの少年に好感持ってたから。 そして私は、今日三度目の昼ごはんを食べることになったのでした。 ☆ 2 ☆ 「いくつ?」 「十八」 「 ・・・ほんとに十八杯入れるわよ」 スパゲティ屋で食後のコーヒーを前に、 私はシュガーボックスからスプーンで砂糖をすくう手を止めた。 少年は「こわいなあ」と苦笑した。 「ブラックでいいよ。でも、おねえさんが入れてくれるなら十八杯の 砂糖入りでも喜んで飲むよ」とニヤニヤ笑っている。 「ほんとに入れるわよっ」と私はすごんだけど、 結局そのままカップを少年の方へ押しやった。 ここはうちの地元のスパゲティ専門店で、二,三度有理と来たことがあった。 ゆったりとした椅子とテーブルの落ち着いた作りの店だし、 結構おいしい。安くはないが、おかげで中高生達の集団もいない。 少年はさすがに食べざかりらしく、大盛りのカルボナーラと アンチョビのピザをぺろりと平らげた。ま、私も昼食は三回目だから、 人のことは言えないけど。 「いい店だね。おねえさん、ここ、よく来るの?」 「そうでもないけど。自炊してるから地元で外食ってあまりしないなあ」 「前は彼氏と来たの?」 「 ・・・違うわよ」 どうせ義兄とだよ。思わず口調がとげとげしくなってしまった。 少年はそのトゲトゲにめざとく気づいたらしく、 「おねえさん、もしかして、彼と別れたばかりとか?」 などと突っ込んできた。 「違うわよっ!」 もっとトゲトゲしてしまった。 「それに、おねーさんおねーさんって呼ばないでよ」 「だって二十歳くらいでしょう。おねえさんじゃん」 「それはそうだけど ・・・。でも私には」 「『たちばな・れんげっていう、立派な名がある』って?」 「 ・・・えっ?」 「チャリのうしろに書いてあったから。きれいな名前だね」 「目ざとい ・・・」 「僕はラン。高三だよ」 彼は調子のよい子で、食事中も軽い会話と冗談めいたクドキ文句を 絶やさなかった。ちょっとケーハクな感じを受けるけど、 でもそれは歳が若いせいかもしれないし、 外見がいい分仕方のないことかもしれない。 ついに日本も、若い子の中にはこういうラテン系が出て来たのか、 って思っちゃうよ。単なるサービス精神だってわかっているから 楽しいんだけどね。 「東京へは受験で?」 その時、お調子者っぽかったランの表情が少し翳った。 笑いが消えるとその瞳は、精悍な爬虫類を思わせる三白眼だ。 が、すぐにニヤニヤ笑って、 「旅行。・・・も兼ねて。東京に来たら、葛西の水族園に行ってみたかったんだ。 つきあってよ。ヒマそうじゃん」 「ヒマそうで悪かったわね」 正直言って、私は水族館は大好きだった。 動物園も嫌いではないが、水族館は、落ち着く。 暗くて静かだからかな。それとも相手(サカナ)がクールだからかな。 迷った時、もやもやしてる時、イライラしてる時。私はよく サカナに会いに行った。 だから誰かと行くことはなく、いつも一人だったけれど。 たまには連れがいるのもいいかも。 「つきあってもいいけど、私、『近所へおつかい』のつもりで出てきたから、 一度帰って支度してきていい?」 そういえば忘れていた。有理のコーヒーを届けようとしていたのだっけ。 もうとっくにアパートに着いてる頃だ。 必要だったなら途中の店で買っただろう。 食事はランがおごってくれて、しかも家まで自転車を引いてくれた。 高校生におごらせるのもかわいそうだから、 「私が出すよ」って言ったんだけど、「自転車借りたお礼だから」って言って。 家に着いて、悪いけど彼には庭で待ってもらうことにした。 女の子の独り暮らしなので中で待ってもらうのは不都合だった。 「ごめんね、寒いのに。すぐ支度してくるから」 「ううん、当然だろ。一応大人の男扱いされてるってことじゃん」 ランは庭の横に自転車をしまいながら、気安く応じてくれた。 ミニスカにタイツと赤いブーツ。ボア付のジージャン。 若い男の子と一緒だから、ちょっと若づくりしてみました。 「おまたせ」 急いで家のドアを開けて外に出ると、ランはぼんやり庭に佇んでいた。 私ははっとした。有理がよくこうして立っていたことを思い出したのだ。 有理はうちの金木犀の庭がお気に入りだった。 あやめねえさんと結婚する前のまだ恋人同志だった頃。 まだ大学生だった時にも、濃紺のコート姿でねえさんを迎えに来てよくここで 立っていた。これから姉さんと過ごすひとときを想ってでもいるのか、 楽しげな表情を浮かべていた。真夏の燃える草木の匂いも、 春の優しい雨に濡れた土の匂いも、もちろん秋の金木犀も。 有理はこの庭のものはみんな愛した。 あの時私は声をかけられずにいた。 有理があのひとときを楽しんでいるのがわかったから。 たぶん私は、その頃から有理に恋をしてたんだろう。悔しいけど。 今、冬の庭は灰色の枯れた枝ばかり。鋭く尖った枝たちは、 ちょっとかすっただけで容赦なく引っ掻き傷を残しそうだった。 ランが私に気づいて振り向いた。さっきまでの調子よさそうな笑顔になって、 「やあ、ミニスカートも可愛いや」とお世辞を一発かましてくれた。 「これ、全部金木犀でしょう? すごいね。秋に来たかったな」 「秋には、そこの曲がり角を曲がる前から香りがしてるわ」 「 ・・・『金木犀館』かあ。ほんとにそうなんだ」 「えっ?」 「ううん、なんでもない。さ、行こうよ」 ランは駅への道を先に立って歩き出した。 『金木犀館』って、確か有理の小説にあったよ。古い少女漫画で 『ミモザ館でつかまえて』ってあったでしょう? あれをモチーフにした、 年上の女性に想いを寄せる少年のお話だった。 ランはずんずん歩いて行く。さっき一回通っただけで、 よく道を覚えてるなあと感心したけれど、私ははっとした。 来る時も、私にペースを合わせてはいたけど、私に『付いて来ている』って 感じはしなかったのだ。まるでうちへの道を知っているみたいに ・・・。 それに、自転車を貸した時も。私は、家を出て五メートルくらいのところに 止まっていた。ただの旅行者兼受験生が、 なぜこんな住宅街を歩いていたの? ・・・誰かの家を訪ねて来ていたの じゃないの? ・・・ランって何者? 「はい、バンドエイド。さっきの乱闘でケガしてたでしょ」 「さんきゅ」 「ねえ、以前このへん ・・・ううん、東京へ来たことはあったの?」 「三,四年まえかな。ヤボなセレモニーで来た」 あいまいなセリフだ。 「ランって ・・・本名?」 自分で聞きながらも変なことを聞いてしまったと思った。 私、疑っている。 あなたは ・・・弟のショーブじゃないの? でも、そうだとしたら、なぜ名乗らないの? 私がお父さんの前の奥さんとの娘だから、やっぱり心を許せないの? 私を試そうとしているの? 「アール・ユー・エヌ、ラン(RUN)。ニックネームさ。 でも、気にいってるから」とだけ言ってランは微笑んだ。 葛西の水族園は臨海公園駅を降りてちょっと歩いた所にある。 途中の公園の道も私は好きだった。石畳と左右の花壇は、これから水族園へ 行く人達の為の華麗なオードブルのようだ。 わくわくした気持ちを倍増させる。でもランの歩くのが早いので、 今日は小走りに駆け抜けた。 階段を昇りきると、やっと水族園のドームに到着。 入口のエスカレーターを使って下へ降りる。正面の水槽では、鋭い目つきの 鮫クン達がクールな表情で迎えてくれる。そして、順路を左へ折れて、 すぐに見えるのがここの売り物である大水槽。 銀色のマグロたちが光を反射させて泳ぎまわっていた。 「うわっ、すげえ。 ・・・雑誌の写真で見た百倍もかっこいいや」 子供みたいにランは水槽に貼り付いた。でかい図体して。 濁りのあるエメラルド色の水。ゆっくりと、そして時々すごい早さで 行く巨大なマグロたち。メタリックに輝くカラダは、ロボットみたいだ。 水の流れ。サカナたちの流れ。ここは、外と時間の流れが違う。 こんにちわ。また来たよ。今日はオトコ連れだよ、結構いいオトコでしょう? ・・・この前来たのは・・・かあさんが再婚した時だったっけ? ああ、違う。去年の夏、有理に見合いの話があったと聞いた時だ。 有理のことなんかとっくに諦めていたのに、動揺している自分に『動揺した』。 まだ忘れ切れてないことを思い知らされてショックだったんだ。 編集長の紹介とやらなので、有理は義理立てに一応見合いはしたが、 相手と二人になった時「まだ妻のことは忘れていないので結婚する気は ありません。そちらから断って下さい」と頼んだそうだ。その人は笑って 「大丈夫です、私も断るつもりでしたから」と言ったとか。私は大爆笑してしまったわよ。 たとえば ・・・。 地球が滅亡することがわかって、 ノアの方舟みたいな宇宙船が用意されたとする。 人間も一対、つまり夫婦じゃなきゃ乗れる権利はない。 私には恋人もいなくて、有理もまだ独身だったとしたら、 私を助ける為に有理は私と結婚するかもしれない。 でも、私に望みがあるとしたら、そんなとんでもない極限状態の時だけに違いない。 悲しいを通り過ぎて、笑ってしまうでしょう? ランはまだ最初の水槽にへばりついていた。随分時間がたっていたけど。 水槽の端から端へゆっくり歩いたり、立ち止まってずっと見ていたり。 今日は平日だし、午後も遅い時間なので水族園はすいていた。 自分のペースで気のすむまで見学できてラッキーだ。 ランは、前世で別れた恋人がサカナになっていて、 それを捜してでもいるように丹念に見て回っていた。 初めてでも普通は一時間半あれば回りきるコースだろう。 でも、その倍くらい時間をかけていた。イカやクラゲの水槽の前では、 このままここから動かないんじゃないの?ってくらいずっと見つめていた。 時々、「イカが泳ぐ姿ってこんなキレイだったんだね」とか、 私に話しかけた。 私がいることなんか忘れてるかと思ってたよ。 こういうのめり込み方って、まるで私が一人で来てる時みたいだわ。 受験を前にして不安や迷いもあるのだろう。 十八歳の時って、私はどんなこと考えていただろう。 閉館時間のアナウンスが流れ始めていた。私たちは最後にあわてておみやげ ショップへ飛び込んだ。 「来たからには何か買うぞっ」 「ここのタオルが可愛いんだよ。ほら」 私はペンギンやサカナや貝がらの絵のタオルを広げて見せた。 特に私はここの虹色のサカナの絵のタオルがお気に入りで、 自分用にハンドタオルを二枚持っていた。 あ、有理んちのバスタオル、もうみんなゴワゴワだったっけ・・・。 ちょっと高いけど、おみやげに奮発するかな。 姉もここの水族園が好きで、相澤家ではペンギンのマットやスリッパを使って いた時期があった。バスタオル、サカナよりペンギン柄がいいかな。 『そーか、おまえはオレが修羅場の時に、水族館になんか行って遊んでたのか。 いいよなあ大学生は気楽で。しかもオレが忘れていったコーヒーも 届けてくれなかったなあ』・・・有理の声が聞こえるような気がした。 ・・・やーめた。私はバスタオルを売場に戻した。 「彼氏におみやげ?」 ランが後ろから声をかけた。今までペンや下敷きのたぐいを見ていたくせに。 「違うわよ。それに買わないもん」 「ふーん。バスタオルなんて、随分色っぽい関係なんだなと思ったのに」 「バ、バカ言わないでよっ!」 私はさっきのバスタオルを手に取ってバコン! とランの頭をどついていた。うろたえている自分が情け無い。 顔が赤いのが自分でもわかる。 ランはくすくす笑って、 「レンゲさんって可愛いなあ。からかい甲斐があるっていうの? 年上とは思えないや」 「 ・・・失礼ねっ」 「でも、男性に買っていくつもりだったのは確かかあ」 「 ・・・。」これ以上何か言うのはやめよう。どんどん墓穴を掘りそうだ。 「レンゲさん、恋人、いないの?」 「いないわよ、悪かったわね」 思いっきり無愛想に私は答えた。ちくしょう、人が気にしてることを! 「じゃあ、これ買わせてもらってもいいかな、今日のお礼に。どれがいい?」 ランはガラス製のサカナのアクセサリーを指差していた。 「えっ?」 「だって彼氏のいる女のコにこういうのあげると、 彼氏が怒るだろ。まあそういう奴ばかりじゃないとは思うけどさ」 えーっ! ホントに私にこれ、買ってくれるの? 水色やグリーンに透けるガラスのサカナやヒトデたち。 キラキラ揺れて、カラランと風鈴のような音を出す。 イヤリングにユビワにペンダントヘッド。 私は男の子の友達は多かったけど、つきあったことってない。 未だにキスは、あの事故のような(?)有理との一回だけだったし、 貴金属どころかジャンクなアクセサリーのひとつも男性から贈られたこと なんてなかったのだ。二十歳になってこんな奥手でどうすると自分でも思 うんだけど 。 「じゃあ、この青いサカナのイヤリングがいいな」 私に遠慮という文字はなかった。だって、年下とはいえこーんな かっこいい男の子が、プレゼントしてくれるんだよ。 「私、男の子からアクセサリーもらうの、初めて」 ランは少し驚いたようだったが (そりゃそうだよな、ハタチの女が。よく考えれば『私はモテません』 って言ってるようなもんだ。私っておバカ?)、 「へえ、そりゃ光栄ですなあ」と言ってレジへ持って行った。 「はい。レンゲさんにとって初めてのプレゼント。僕なんかで申し訳ないけど」 水族園を出ると、もう少し暗くなっていた。 ランからイヤリングの包みを手渡され、 「貰えるもんなら何でもウレシイ」と私は笑った。 ちょっと、いやかなりウレシイよ。 でも、なんでこんなに親切にしてくれるの? 自転車貸しただけで。別に返した時に壊れてたなんてこともないしさあ。 水族園に付き合ったっていったって、一人でだって来れたわけでしょ? 私は別に美人でもないし、色っぽいわけでもない。 私に対して何か特別な思い入れがあれば別だけど。例えば ・・・異母姉、とか。 私はまだ、彼がショーブなんじゃないかという不安を消せずにいた。 不安? ・・・あのチビで坊主刈りだった子がこんなにかっこよくなってれば、 姉としてうれしいはず。姉の葬儀の時も、 親達の手前あんまり親しげにすることもできず、 挨拶だけして、お互い遠まきに見ていたっけ。 こんな風に親しく話ができたら、きっと嬉しいはずなのに。 ☆ 次のページへ ☆ |
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