第二章 金木犀館 2/2 |
☆ 3 ☆ 館の外の公園へ出ると、ランは「少し時間をくれる?」と 言ってベンチに座り、バッグから小ぶりのスケッチブックを取り出した。 「十分くらいで終わるから。忘れないうちに描いときたいんだ」 そう言うや否や、さっき見たマグロやペンギンやクラゲを、 いろんな構図でラフに描き始めた。 『寒いからやめてよー』とか、『早く帰ろうよー』なんて言える雰囲気 じゃなかったんだよね。 そうかあ。絵を描く子だったんだ。 ランは無我夢中で描いている。十分なんてあっという間にたっちゃったよ。 でも、ゆっくり描いてていいよ。 それにしても寒い。周りは淡く夕焼けの色に包まれていた。 ランにはそんなの目に入らないだろうけどね。 足踏みすると少し暖かいのって知ってる? ランの邪魔にならないよう、 ベンチの後ろの階段に行って足踏みしていた。 階段からは、海が見えるんだ。夏には好きな景色だけど、 冬の海は厳しくて悲しい気持ちにさせられる。 でもまあ、一応夕焼けだし、水面にオレンジ色が反射していてそれなりに きれいだ。明日は暖かいかもしれない。 冬のトンネルも折り返しを過ぎて、春が近づいていると思いたかった。 もし、私が父達の暮らす静岡の町へ行く機会があって、 姉だと名乗る前にショーブと会っていたらどうしただろう。 そのまままっすぐ行けば、父の家。その器の中で一度会ってしまえば、 儀礼的な挨拶と表面的な世間話と。もう、本当の話なんてできない。 ショーブが本当はどんな子なのかなんて一生わからないだろう。 あとは、父が死んだ時とか、そんな時に会うだけだ。 半分血がつながった、ほんとの弟なのに。 偶然ショーブに会っていたら、私は『レンゲ』だと名乗っただろうか。 本当のショーブに触れたいと願わなかっただろうか。 寒いから、考えが空回りしてるかもしれない。さっきから、 何回も似たようなことを考えている。 ったく、気になるんなら聞けよ、『ショーブなの?』って。私らしくもない! ・・・本当に私らしくもない。 あーあ、手袋、持って来ればよかった。ここへ来る時に着替えた、 コートのポケットに入れたまま置いてきてしまった。 しくしくしく。寒いよー。私は手を擦り合わせた。 閉館から一時間位たったろうか。あたりはすっかり暗くなり、 水族園のお客達も帰って人がいなくなっていた。 ランの座るベンチの横に照明があるのだが、それでも絵を描くには暗いだろう。 「サンキュー。おまたせ。 ・・・すっかり暗くなっちゃったね」 ランはさんざん人を待たせたくせに、軽くそう言うと、 パタンとスケッチブックを閉じた。 「ラン君って美大受験するの?」 「ランって呼んでよ。そう呼ばれるのが好きなんだ」 私の問いには答えず、にっと笑った。 「いま何時?」 時計を持たないランが、バッグにスケッチブックをしまいながら尋ねた。 「五時半、かな」 「 うそ!」とランは私の腕をとって腕時計の文字盤に見入った。 が、はっと私の手を握り直し、「氷みたい 。ほんとに一時間もたってら。 ・・・ごめん」と、自分でもおろおろしながら謝っていた。 「ほんとにほんとにゴメン! 途中で『十分たったよ』とか 『寒いから帰ろう』とか言ってくれればよかったのに! くそ、描き始めると時間忘れちまうんだよ」 私は「ううん、大丈夫だよ」とくすくす笑った。 ランが本当にすまながってうろたえているのがわかってかわいかったのだ。 「でも、手がこんなに冷たくて 。あっ! 手袋!」 ランはコートのポケットから、男物のごっつい毛糸の手袋を引っ張り出して、 私の手に押しつけた。 「とりあえず、これしてて。あーあ、先に渡せばよかった! 気がきかなくて、 ごめん」 ランはゴメンを連発し、自分に腹をたてて地団太ふんでいた。 「大丈夫だってば。私も、海を見てたから、時間忘れてたよ。夕陽がきれいだったんだよ。 ランは見れなくて残念でした」 『あんなに夢中で描いてるのに、中断させられないよ』 なんて素直なことは、私は口が裂けても言えないヒトでした。 私の言葉に、ランは泣きそうな笑顔になって、そして ・・・なんとランは私を 抱きしめたのだった。まるで母親が小さな子供を抱きしめるように。 ランの大きな黒のコートが私を包み込んだ。私の心臓はトクトク早く 鳴っていた。 こ、これってすごーくヤバイんじゃない? 静まれ、心臓! 私は寒さのせいかドキドキのせいかわからないけど、震えていた。ラン、 あなたにはそんなつもりはなくても、私には男免疫がないんだから やめてよねっ! ランの腕に力がこもったのがわかった。まずいよ、これ。私が、 腕から逃れようとしてもがいたその時、ランの唇が私の唇をおおった。 背中にまわったランの腕が震えているのがわかる。 だって、あなたは ・・・ショーブじゃないの? 私はランの唇をかんだ。 「いてっ! ・・・」 ランは口許をおさえて私から手を離した。口の端が少し赤くなっている。 「あ ・・・僕。 ・・・ごめん、そんなつもりじゃ ・・・。くそ、参ったな」 ランは自分の前髪をくしゃっと握って下を向いた。 「私こそ、ごめん。痛かった?」 ランは首を激しく振った。私にキスしてしまったことを 後悔してる様子だった。 「こんな気持ち、予定外だよっ。ちくしょう、 こんなつもりじゃなかったんだ ・・・」 もしもし、突然キスされてショック受けてるの、私のはずなんですけど? 相手にここまで落ち込まれるとなあ。 私はため息をひとつつくと、ランのバッグを拾って渡した。 「風邪ひくよ、帰ろう? 試験は明日なの? 暖かくして早く寝るのよ」 大人ぶって平静を装っていても、私の心臓はまだ百メートル走の直後みたいに ドックンドックンいっていた。 「ちぇっ、ガキ扱いされちゃった」 ランも小さなため息をついて、バッグを肩にかけ、 駅へ向かって歩き出した。照れ臭そうにして、私に顔を見せないように 早いペースで歩いていた。 「もっとゆっくり歩いてよー」 背の高いランに追いつく為に、私は小走りになった。 駅で切符を買って渡してくれた時、 「僕は美大は受けないよ。さっきまでは、たぶん弁護士になるんだろうな、 って思ってたけど ・・・」 ずいぶん前の質問の答えが今頃返ってきた。それにしても、 ひとごとみたいな言い方。 「諦めるにも、つっ走るにも、自分はまだ子供すぎる。 ・・・何時間も サカナと対してて見つかった答えはこれだけだけどね。 長い時間、つきあわせちゃって、ごめんよ」 「ほんとだよ。イヤリング一個じゃ、安い安い」 そう言って私が笑うと、ランも声をたてて笑っていた。 ランとは東京駅で別れた。 「親戚の家に世話になるつもりだったけど、気が変わった。 ホテルに泊まるから。ここから別の線だね」 ちょっとドキッとする。親戚ってうちのことだったのかな。 「あ、手袋、ありがとうね」と私はあわてて手袋を脱いで返した。 「レンゲさん、色々ありがとう」 「なによ、今更あらたまって」と私が照れていると、 「会えてよかったよ。 ・・・不思議だよね。あの道で、 僕がひったくりにあわなくて、レンゲさんが自転車を引いてなかったら、 こんな一日はなかったんだよね」 ランは自分も少し照れながら言って、頭をかいていた。照れるくらいなら、 初めから言うなよぉ。 「じゃあ」 握手して別れた。ランの手は大きな手だった。まだまだ背は伸びるかもねぇ。 ランの黒いコートは駅の人混みに紛れていった。 君は一体、誰だったの? ショーブ? それともただの行きずり少年? でも、そんな事はもうどうでもよかった。 こんな風にはもう二度と会うことはないだろう。 弟だろうが血がつながっていなかろうが、もうサヨナラなのだ。 私はそのまま家に帰る気分にはなれず、 有理のアパートに寄った。律儀にコーヒー豆も買って行ってあげた。 担当の猫柳さんは帰っていた。有理は黙々とワープロの前に座りキーボードを 叩いていた。順調に進んでいるらしい。 「コーヒー入れてあげるね」 「どうした、えらくサービスがいいな。 先に猫柳が買って来たやつを使いな、開いてるから」 有理はキーを叩きながら、モニターから目を離さずに言った。 私はちゃっかり自分の分もいれて、有理のカップをキーボードのそばに置いた。 「サンキュー」 いいペースらしい。サボリ魔の有理が休みたがらないなんて。 私はソファに深く腰かけコーヒーをすすりながら、 有理がキーを叩く背中を見ていた。 ちょっと猫背で痩せている背中。キーを叩く時、右下がりになる。 私は、ずっと、ずっと見ていた。 キーの音と、シューシューと加湿器が蒸気を吐き出す音だけしていた。 静かだった。私は、さっきもこんな風にランが絵を描くののそばにいたっけ。 「明日の夕方までには上がるからな。そしたら話を聞いてやるから」 前を向いて、手を動かし続けながら有理がぽつんと言った。 「えっ?」 「だから、今は、『どうしたんだ?』って言ってやるヒマはないからさあ。 ちなみに、タオルはタンスの一番上に入ってるぜ」 私は ・・・。 有理の背中を見ながら泣いていたようだった。 自分でも気づかなかったけど。なんで泣いているのかもわからなかった。 それにしても有理には背中にも目があるのかぁ? 私はお言葉に甘えてタオルを借りた。有理は、本当に、 昼間話していたあのネタで今回の原稿を書いているのだろうか。姉弟だと知らずに好きになっちゃう、というあのネタを。 有理が恨めしい気がした。 「ふん!」 「 ・・・なんだよぉ。急に」 「べーつにー。 ねえ、有理の小説で『金木犀館』ってあったじゃん?」 「あったっけ?」 「あったよ。ほら、『ミモザ館でつかまえて』をパクったやつ」 「 ・・・パクったって言うなよーっ!『インスパイヤされた』、 『雰囲気を借りた』。もっと言い方があるだろーっ」 有理はモニターから顔を動かさずに怒って言った。 「思い出した、それ、『ラブストーリーで行こう』って短編集に入ってるよ。 本棚の前に積んである山の中にないか?」 「あ、あった」 私はもどかしい手つきでそのページを開いていた。 ストーリーは、いとこの結婚式で花嫁さんを見て恋をしてしまった、 おませな十一歳の男の子の話だった。可笑しくてちょっと悲しいお話。 有理はこういうのは得意とするジャンルだった。ラストで少年は、 いとこの新居に遊びに来たけれど家に入ることができず、 いつまでも金木犀の香る庭に佇むのだ。 有理の小説には派手なものは少ない。雑誌のアンケートもあんまり 上じゃない。でも、私は好きだった。横柄で意地悪でヘラヘラした 藍澤有理の中には、確かにナイーブでロマンチストの、小説家・藍澤ユーリが 棲んでいるのだ。不思議だけどねえ。 「あれえ? 有理、留守電ランプが点滅してるよ。三件も入ってる」 「知ってる。電話に出れないだけ。メッセージは聞こえてるから。三件とも、 九州の叔父貴からだ。いとこのランが家出したけど、そっちへ来てないか、 っていうやつ」 「家出ーっ? 大変じゃない! ・・・えっ、『いとこのラン』?」 「藍澤走(そう)、通称・ラン。さっきおまえが言ってた小説、 あれのモデルだよ。あやめに恋をした小学生。覚えてないか、 何度か会ってるだろ。 この春地元で一番いい高校に受かったんだけど、 イラストの専門学校へ行きたいって家出したらしいよ」 「 ・・・高校に合格?」 「今、中三。十五歳。あやめとの結婚式の時は十一歳だった。 『絶対有理からあやめを奪い取ってやるーっ!』って熱血宣言しやがった。 ませたガキだよ、まったく」 「 ・・・中坊。十五歳? ・・・好きだったのはあやめねえさん?・・・しかも・・・」 しかも有理の身内だーっ! コーヒーカップを持つ手が怒りで震えていた。コーヒーが波打っている。 「誰が十八歳だって? ちくしょーっ!」 五歳も年下だったなんて ・・・。 騙された騙された騙された! だけど、一番くやしい事は ・・・。 従兄弟だったなんて。似てたんだ、有理に。 懐かしくて安心したのは、有理に似ていたからなんだ。 くやしいっ! 私はカップでガン!と床を叩いた。焦げ茶のしぶきが床に散った。 異母弟のショーブじゃなかった。従兄弟の『藍澤走』だったんだ。 「おーい、うちのコーヒーカップ、割るなよっ」 「私、ランらしき人に会ったよ。家の近所で」 「えーっ?」 今までずっとモニターを見ていた有理が、初めて手を止め振り返った。 「名字は知らないけど、ランって名乗ってた。 旅行を兼ねた受験で東京に来たって言ってた。高三だって言ったけどね」 「あいつだよっ、それ。ランはガキのくせに背は高いんだ。 三歳くらいごまかせる」 「親戚んちに泊まるつもりだったけど、やめてホテルを取るって言ってたよ」 「げげげー、やっぱり東京に出て来てたのかぁ。 常習犯なんだよ。何年かに一度、ぶらっと上京してくる。 一人でチケット取って一人で飛行機乗って。ほんとに一人で東京へ来ちまう んだぜ。 三年前、オレが退院した日に一緒にメシ食ったの、覚えてるか」 記憶がよみがえってくる。私を「サル、サル」と連呼した、 あの生意気なガキ! あの子供がランなの? えーっ! あのピーピー高い声で喋っていたチビが? 「・・・。」 もう何も言う気が失せていた。くーそー、すっかり騙されてた! それにしても、子供の成長ってなんて早いんでしょ。 あやめねえさんに恋したって話は微笑ましくって可愛いと思ったけど、 ランはもう可愛いなんて感じじゃない。ランは、すごく『オトコ』だし 『オトナ』だ。地元でどんな中学生をやっているのか、恐ろしくなる。 ねえさんが生きていて、ランがハタチ位になったら、 有理なんて負けてたかもよ。 「 ・・・とは言っても、しょせんガキだ。ホテル取るとしたら、 結婚式で来た時に両親と泊まったところだろう。行くぞ」 有理は立ち上がってコートをはおった。 「えーっ! 私も行くのぉ?」 「当たるなら、オレのカップにじゃなくて、ラン本人に当たってくれよ」 ☆ 4 ☆ 有理はクルマを都内の某ホテルへ走らせた。 事前に電話で確認すると、確かに藍澤走はチェックインしていたのだ。 今は、夕食でも食べに行ったのか、外出中だった。 戻りを張って捕まえるため、私たちは入口の見えるティーラウンジに席を 取った。 あの子は一人で外食が出来ないと言っていた。 コンビニにでも買いに行ってるのだろうから、 すぐ帰ってくるだろう。それとも、外食できないってのもウソなの? 「ミートパイとケーキ、食べていい? 怒ったらおなかすいちゃって」 こんな時にと、有理は呆れていたけど、 「どーぞ」と言った。だってー。私だってまだ夕飯食べてないんだよー。 あ、有理もそうか。 「 ・・・ランは弁護士になるの?」 有理は、『そんなことまで話したの?』って顔をしてちょっと びっくりしてた。 「叔父貴は弁護士事務所をやってるからね。 ランは一人っ子だから、親は継がせたいだろうなあ」 「ちょっとかわいそうだね」 「だからと言って家出していいってわけじゃないだろ! それも オレの締切の時に!」 有理が機嫌悪いのは、ほんとはそんなせいじゃなくて、 有理だってこんな役目はいやなのだ。有理も、 大学生の時にプロにはなったものの、 『作家なんてヤクザな商売につかずちゃんと就職しろ』って 両親に反対されたんだもの。 私が、運ばれてきたパイをぱくついていると、 「何があったんだ?・・・って聞くのは、ちょっとコワイな」 カップから唇を離した有理の口許は、ほほえみに似ているがちょっと 違って見えた。 「えっ?」 「おまえはガキだし、ランは下手すりゃオレなんかよりずっと 『オトコ』だしなあ」 ランに抱きしめられた感触がよみがえり、顔がかっと赤くなった。 「あ、有理もミートパイ食べる? 結構おしいよ」 私は話題をそらそうと必死になって、パイののった皿を有理のそばへと押した。既に半分食べ散らかしてパイ皮がバラバラになっている。 「いらねえよ。 ・・・いや、もらうかな。 レンゲもランも、いつのまにか大人になりやがって、まったくもう」 有理は予備のフォークを握って、ぱふっとパイに突き刺した。 私は次に来た苺のショートケーキに取りかかっていた。 「その分有理がオジサンになってるのよ」 「ふん」 パイとケーキがおなかに入った私は、すこおし温和な気分になってきた。 ランに対してそんなに怒るのはやめよう。 ほんとは、私が勝手にショーブだと思い込んでたんだから。 それに、ランに魅かれたのが有理に似てるせいだったのは、 ランの責任でも何でもない。いつもの悪いクセ。また一人で空回りしてた。 私は白い華奢なカップを両手で包み込んだ。 コーヒーの苦さが口に残っていた。 ホテルの自動ドアに黒い長身の影が見えた。黒の綿コート。 私がずっと見ていると、彼も視線に気づき私を見た。 少し驚いたようだったが、連れの有理の後ろ姿にも気づき、 まっすぐこっちに向かってきた。手にはモスバーガーの袋を抱えていた。 有理は気づかずに、イライラとコーヒーをすすっていた。 ランは静かに有理の後ろに立つと、 「あやめさんが死んでたった三年で、ホテルに女を連れ込むのかよー」 とぼそっと言った。 有理はコーヒーを吹きそうになった。 「ラン! このバカもん!」 ランはクスクス笑っていた。 「おまえ、なあーっ!」 怒る有理を尻目に、ランはニヤっと笑い、 「あーあ。見つかっちゃったもんなあ。有理、僕にもコーヒーおごってよ」 とテーブルについた。そう、このニヤニヤ笑い。 これに何故気づかなかったのか。有理にそっくりじゃないかあ。 「家に電話しろよ。叔父貴、心配してるぞ」 「さっき、したよ。明日の夕方帰るから。 明日、イラストスクールの試験なんだ。それ受けたら、帰る。 腕だめしくらい、してもいいでしょう?」 「ラン ・・・」 「博多を出た時は、もっと切羽詰まった気分だったんだ。 東京でバイトしながらスクールへ行くか、 記念に試験だけ受けて親父の言いなりに弁護士になるか。二つに一つしか道は ないと思ってた。でも ・・・」 「でも?」と有理は先を促した。 「高校の三年間に、もっと実力をつけて実績をつんで、親父を説得する。 だから、今回は帰るよ」 『諦めるにも、つっ走るにも、僕はまだ若すぎる』 ・・・。私は、 ランが水族園を去る時に言ったセリフを思い出した。 有理は腕組みしながら、「ランの方はこれで一件落着らしいが ・・・」 ちらっと私を見た。 「レンゲ、おまえ、ランに何か恨みごとを言うんじゃなかったのか?」 「えっ?」←ラン 「えっ 」←私 二人同時に赤くなって下を向いてしまった。 だいたいさあ、あの別れのあと数時間後に再会させるなんて、 作者は悪趣味だー。 「じゃあ、ラン、オレたちは帰るぞ。 くそ、修羅場の忙しい時に! 話を聞くまでは、捕まえたらとっととオレんちに連れて帰ろうと思ってたが ・・・。 ほんとに明日家に帰るな?」 「約束するってば」 「何時の飛行機だ? オレは無理だけど、レンゲに送りに行かせるから」 「うん。試験が終わったら電話入れるよ」 有理はクルマで直接私の家まで送ってくれた。原稿が乗ってるところを 中断させられているので機嫌は悪かった。でも、ランが見つかって少し 安心しているのがわかる。 家に着くと、ドアの前に菓子包みとメモが。 ショーブが来たけど、不在なので帰ったらしい。 しまったー、すっかり忘れていた! 翌日。 大学の学食で、Aランチを食べようと席に付いた時、 携帯が鳴った。有理からだった。 有理はランの乗る飛行機の便と出発時間を教えてくれた。 「楠木君、これ食べていいよ」 隣に座っていたクラスメートにランチを押しつけ、走って大学を出た。 モノレールが羽田空港駅に着いて、階段を駆け上がると、 改札口にはランが立って待っていた。あの黒いコートで。 「おっせえなあ。五本もモノレールをお迎えしちゃったぜ」 私はコツンと軽くゲンコツくらわした。 「おねえさまにその口のきき方はなに?」 「ちぇっ。トシ、バレちゃったもんなあ」 「バレる前から年下だったでしょ!」 「そうでした」と、ランはぺろっと舌を出した。 「トシごまかしたの、怒ってる? だって、十五だって言ったら 家出少年だと思われそうで 」 「家出少年だろっ!」 「そんな怒んないでよー。ねえー」 私が先に搭乗口入口へと歩き出した。怒っているので歩調が早い。 いや、ほんとはマトモに顔を見るのがちょっと恥ずかしかったからなんだ。 「怒ってるのって、歳のことじゃなくて、 有理のいとこだっていうの隠してたこと?」 それも怒ってます、確かに。 「あやめさんの妹だと知って近づいたこと?」 ああ、もう、いちいち確認して、怒ってた原因を思い出させないでくれる? 「ねえ、東京バナナっておいしいの?」 えっ? ・・・真剣に謝ってるのかと思えば、 後ろを歩くランは売店を覗いていた。 「知らないわよ。東京の人間は東京みやげなんて食べたことないもん」 「変なの。うちは地元民もラーメンや明太子を食うぜ」 「明太子、送って」 「そんなの近所のスーパーで買えよー。 今度来る時は、持って来てやるよ。夏休み ・・・いや、秋の連休がいいかな。 金木犀が咲いてる時がいいな」 ランはちょっと目を細めた。 「 たぶん、すごく緊張して歩いてたんだ。 あやめさんの家へ向かう時。他に注意が向いてなかった。 だからカバンをひったくられるなんて醜態を ・・・。バカみてえ」 「ラン ・・・」 「なんか、不思議な光景だった。家の前の道に、 『ほら、使って』とばかりにあやめさんの妹がチャリ持って立ってたんだもん」 「なにが『ほら、使って』だよ。 勝手に奪い取って行ったくせに。 私は新手の自転車泥棒かと思ったわよ」 ランは、あはははと声をたてて笑った。そうか、 ランは私のことを覚えていたんだ。私の方はそんなに変っていないものね。 「今度ランが来たら、ちゃんと家に入れてあげるからね。 ねえさんの部屋にも通してあげるよ。服にも触らせてあげるし、 椅子やベッドにも座らせてあげる。有理がダメって言っても、 絶対約束するから!」 私の剣幕に、ランは苦笑していた。でも、笑ってうなずいた。 「でもさあ、レンゲさん」 「えっ? なに?」 「寝かしてくれるなら、レンゲさんのベッドの方がいいな」 「なんだよ、それーっ!」私は真っ赤になってランを殴ろうとしたが、 彼はそれを予想してたらしくヒョイっとよけた。 「あははは ・・・」 「もう、オトナをからかうんじゃないっ!」 ランの乗った飛行機が離陸し、銀色に光りながら遠ざかっていく。 空の色と混じりながら輪郭があいまいになり、 やがて溶けてしまったように見えなくなった。 私は雰囲気に弱い。他にも、どんな別れだったのか、 テイクオフで泣いている人たちもいた。 涙が出て来た。くやしい。ランからはもう見えないから、 泣いてもいいんだけど。でもここで泣いたら、 まるで私がランを好きみたいじゃないか。 ええい、ランのばかやろーっ! こうしていても寒いし、とっとと帰って暖かいうどんでも食べよう。 そうだ、博多ラーメンを食ってやろう。 私がモノレールの方へ歩いていると、タクシーから降りた男の人が、 こっちに向かって走って来るのが見えた。有理だ。 「もう行っちまったか。急いだけど間に合わなかったな。 ま、オレがいない方がレンゲにはよかったかもしれないが」 ニヤッと笑った。ああ、こういうところ、そっくりでイヤになる。 ほらっ、とハンカチを渡されて、有理に泣いたことがバレていた。 「原稿、上がったんだ? 早かったね」 「まあな。あーあ、腹へった。メシ食いに行こうっと」 「私、ラーメンがいい。有理のおごりね」 「やーだよ。お前が失恋する度にメシおごってられっか」 「誰が失恋したってぇ!」 「敵があやめじゃ勝ち目無いって。 まあ、これから先が勝負だなあ。あやめは死んじまってるんだから」 それって、有理が言うかぁ? ランの飛行機がとろけていった空は、 青いソーダ水みたいに澄んだ色をしていた。 いい天気だ。少しずつ春が近づいているんだろう。 その日の夕方、ショーブから『試験が終わったのでこれから 新幹線で帰ります』という電話があった。結局会わずじまい 。幻の弟でありました。 ランはイラストスクールの試験にかなりいい成績で通った。 でも、入学の権利は放棄して、まじめに高校生してるらしい。 夏には暑中見舞いが届いた。黄色や青のきれいなサカナ達のイラストだった。 ランの作品だ。透明水彩で描かれたそれは、 見ているだけで水中へ引きずり込まれるような不思議な 気分にさせられた。水がゆらゆら揺れているのが見えるようだ。 私はアクリルのカード立てを買って来て、机に飾った。 また、行ってみようかな、水族園。これからは、 一人で行くと少し寂しいかな。 夏休みだけあって、水族園はかなり混んでいた。 それに、この炎天下、遊園地や動物園より、 室内のここの方が涼しいから人気があるのだろう。 密集してエスカレーターを降りると、なつかしいあの大水槽が見える。 でも、人が多すぎて、マグロを拝めるのはほんの上の方だけ。 私はそんなに背の高い方じゃないので、こういうシチュエーションは損だった。 「ちぇっ、せっかく来たのに」 思い出の水槽なのにさあ。 ああ、いいなあ、あの人。あんなに背が高かったら、よく見えるだろう。 白いTシャツ、少し長めの髪を後ろで縛っている青年。 ・・・えっ? ちょ、ちょっと待ってよっ! 「ラン!」 私の声に振り向いた。 「レンゲさん ・・・」 向こうもびっくりしていた。 「どうしたの?」 私は人を押し分けてそばに走り寄った。 「家出してきたわけじゃないよ。夏休みじゃん」 「でも、来るのは秋だって ・・・」 「レンゲさんこそ、ほんとによくここに来てるんだなあ。 あやめさんもここが好きだったって聞いてたけど、 レンゲさんもよっぽど好きなんだね」 「ランのハガキ見たら、来たくなっちゃったのよ」 私の返事を聞いてランも笑った。 「僕も。アレ描いてたら、来たくてたまらなくなって、飛行機に乗っちゃった」 「あきれたあ」 「金木犀はあやめさんの思い出だけど ・・・僕にはここでの レンゲさんとの思い出の方が強烈みたいだ」 あれ? これってもしかして ・・・。もしかするわけ? 「ヒマなら一緒に回ろうよ、って、ヒマに決まってるよなあ」 「失礼ね!」 ぶつ真似をした私の手を、ランはそのまま握って手をつないだ。 「行こう。混んでるから、はぐれるなよ」 私は少し強引なランに手を引っ張られる恰好になった。 でも、人にぶつからずに上手に進めた。 すいすいと、まるでサカナが泳ぐみたいに。 私達は人波を泳いで進んで行った。 < END > ☆ 第三章へ ☆ |
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