四月 桜

--- 「第三章 香りの庭から」 ---




 春はあけぼのとは言うけれど。

 レンゲは、モノレールの窓から、夕暮れにかすむ満開の桜を覗き込んでいた。
 少し暗くなりかけた時刻。高架線下の花たちは、まるでパステルの粉を散らしたように淡くかすんでいた。紫色の風景に溶け込む花びらたち。
 夜の飛行機で、ランが来る。

 義兄・藍澤有理の従兄弟。東京の美大の試験に受かって、この春からレンゲや有理の沿線の住人となる。
 小説家の有理が締切りに追われていて迎えに行けないので、レンゲが代わりに行くことになった。でも、有理に頼まれなくたって、自分から迎えを名乗り出たことだろう。どんな山になった仕事があったとしても。
 入試の時に会ったばかりだけれど、あの時はゆっくり話のできる雰囲気ではなかった。普段は明るくお調子者のランも、さすがに緊張してピリピリしていた。
 冬休みは上京しなかったし。
 ランと「ちゃんと」遊べるのは、本当に久し振りだ。
 そして、少なくとも四年間。大学にいる間は、レンゲのいい遊び相手になってくれるだろう。
 遊び相手。今はそれしか言いようがなかった。
 恋人ではないし 。ボーイフレンド?友達?姉と弟?
 レンゲにとって、ランは何なんだろう。

 モノレールが羽田に着いて、人波に押されながら、到着ロビーへ泳ぎ着く。出張から帰るのか前泊するのか、通勤ラッシュさながらのサラリーマンの波だ。ロビーも思ったより混んでいて、空いている椅子は無かったが、レンゲは気にもならなかった。大きな柱に寄り掛かって、MDウォークマンのスイッチを入れた。
 博多からの便に遅れはないようだ。慣れないハイヒールを履いたので少し足が痛かったが、もう二十分もすればランの笑顔と会えるだろう。
『会社の帰りだからスーツ姿だけど、オバサンくさくないかなあ』
 レンゲは、ブラウスの襟を直し、イヤリングの位置も耳に触れて確認した。
 夏休み、春休み。高校が長い休みに入ると、ランは貯金を下ろして東京にやって来た。
 六歳年上のレンゲのことを、からかったり、冗談めかしてくどいてみたり。時々は真面目に自分の夢・・・イラストレーターになること・・・を話してくれたりもした。
 ランは、いわゆる『かっこいい』男の子だった。長身で好感度の高いルックス。親切で話も上手。そういう男の子と接していて、レンゲとて気分が悪いはずはない。
 有理曰く、「レンゲも、ああいう女たらしと付き合って、少しは男慣れすれば?」だって。有理がレンゲにコブラツイストを食らったのは言うまでもない。
『二十四歳の今日まで、私に彼氏ができなかったのは、誰のせいだと思ってるのよっ!』
 あやめ姉さんが亡くなった後も、「メシつくれ」だの「雑誌を買って来い」だの、家が近いのをいいことにこき使って!早く再婚しろーっ。
『こんなに近くにいたら、なかなか忘れられないでしょっ!』
 悔しい事に、有理は何も知らない。何も気づかない。レンゲは、姉が死んだ時に初めて有理への気持ちに気づいて、ずっと、隠し続けて。ずっと、忘れようとしてきたけれど。
 見知らぬ人たちが行き交う中に佇んでいると、時間の流れの感覚が狂う。つい、過去へ過去へと想いはさかのぼる。有理のことなんて、考えてもしかたないのに。もうすぐ、未来の匂いをまとう笑顔がやってくるというのに。

 ロビーの自動ドアが一気に開き始めた。どどっと一斉に人がなだれ込んで来る。他にも何便かが同時刻に着いたらしく、かなりの人数だった。
 でも、ランは見つけやすいはず。
『あ、いたいた』
 初めて会った中三の時に百八十近くあった彼の身長は、今や百八十五センチに到達していた。集団から、頭ひとつどころか、肩から上が飛び出している。長い髪を無造作に後ろで結んで。シルバーグレーの軽いコートをはおっている。
 薄い唇をきつく閉じて眉間にシワ寄せて。
『機嫌が悪そう。飛行機に酔ったのかな?それとも、寝ちゃって、寝起きなのかな?』
「ラン!」
 手をあげて声をかけると、こっちを向いてレンゲに気づいたようだ。でも、表情はこわばったままで、期待していた笑顔は、ない。その表情は、レンゲの心にふわりと不安の靄をかけた。
 ランはゆっくりレンゲに近づくと、「どうも」と頭を下げた。
『なによ、いつもは、「よお!」とか言っちゃって、もっと偉そーなのに』
 その時初めて、レンゲは、ランの腕にへばりついている、小柄なモノに気づいた。
 茶髪のワンレンロングヘア。三日月にカットされた眉。化粧はしているものの、顔立ちはどう見ても女子高生だ。
「有理は?」と、ランがかすれた声で尋ねた。
「締切りで忙しくて。代わりに私が」
「どうもすみません」と、ランはペコンと頭を下げた。
 なんなの、その、他人行儀な口のきき方!
「彼女は、クラスメートの ・・・あ、だった、だな、もう。篠崎さくら。東京見物したいって言って付いて来ちゃったんだ」
「こんにちわー。さくらでーす」 きゃぴきゃぴ。
「こちら、いとこの有理の義妹で、橘さんだ」
 た、『たちばなさん』だーっ!?
 かつて、ランが私を名字で呼んだことがあったかっ?なんなの、それ。誰が『たちばなサン』だよっ!
「遠縁の、タ・チ・バ・ナですっ」
 思いっきり愛想良く、よそいきの声で挨拶してやったわよっ。
「走(そう)君の彼女?可愛い子ね」
 お世辞だけどね。ただ化粧が濃いだけじゃん。時間がたって、目の化粧が溶けてタヌキっぽい。
 走というのが、ランの本当の名前だ。藍澤走。でも、彼の父親以外はみんな(母親さえも)、彼を『ラン』と呼んでいるらしいが。 
「はーい。高校では公認でしたあ」
「余計なこと、言うなよ」
「えーっ、だってー」
「ウソだよ、ほんとにただの友達なんだってば」←レンゲに言っている。
「じゃあ、卒業式の帰りにしてくれたキスは何だったのお?」
「あれは、さくらが最後に、って泣くから」←さくらに話しかけている。
 むかつくーっ!
「いい加減にしなさいっ!!」
 レンゲの剣幕に、ロビーの乗客達もはっとふり返った。
「私は、山積みの仕事を残して定時で退社して、わざわざ迎えに来てやったのよっ!
 痴話喧嘩なら、よそでやってよ!
 どうせ早く二人きりになりたいんでしょ、帰るわ」
「ちょ、ちょっと、レンゲ・・・橘さんっ!」
 ランにつかまれた肩を、思いっきり振り払った。ランはひるまず、腕をつかんだ。
「僕、自分のアパートの場所、まだ聞いていないんだ。鍵も有理が持って来るはずだったし」
「・・・。」
 すっかり忘れてた。
「はい、これ」
 私はコートのポケットを探り、顔をそむけたままリボンのついた鍵を手渡した。
「腕、痛いわ。離して」
「あ、ごめん・・・」
「このメモがアパートの住所。荷物は、受け取ったままの状態で部屋の中よ。じゃあね」
「じゃあね、って。この住所を書いた紙きれ一枚で、地方から出てきた僕に辿り着けと言うのかー?」
「彼女と二人の宝島さがしだもの、楽しいでしょ?」
「お、おいーっ!」
 レンゲは、人ゴミの中をスイスイ抜けてどんどん行ってしまった。ランは、片手に大きな旅行カバン、もう片方の腕はさくらにしがみつかれている。いくら長身で足が早いと言ったって、追いつけるはずがない。
 人の多い場所を上手に歩けるのは、東京で育った人間の、特技の一つかもしれない。
 そんな特技など、欲しくもなかったレンゲだ。券売機に一枚ずつ、コインを落とし込む。
 追いつけなかったのか、追って来なかったのか、レンゲにはわからなかった。

 街にはすっかり闇が忍び寄り、帰りのモノレールの窓から見える桜並木も、幽霊みたいににじんで見えた。レンゲの瞳の水分が、来る時より多くなっていたからかもしれないが。
 ランにつかまれた腕のあとが、まだ痛い。 
『そりゃあ、私は彼女でもないし、六つも年上だし。好きだと言われたわけじゃないけど・・・』
 毎月送られてきた、手のこんだイラストのカード。あれは何だったの?三年前のキス、あれは何?あの笑顔は?意味深な言葉の数々は?
『からかわれてたんだ、私・・・』
 出会った時、もう二十一歳の女子大生だったのに、男免疫の全然なかったレンゲ。ランの言葉やしぐさに、いちいちドギマギしたり、過剰に反応して怒ったり。さぞ、からかい甲斐があっただろう。
 レンゲの足は、JRの自分の駅を通り越して、二つ先・・・有理のアパートの駅で降りていた。
 インターホンを鳴らすと、いきなり「まだ出来てねーよっ!」と怒鳴られた。
「私だよ、有理」
「なんだ。担当かと思った」
 ガチャリと鍵をはずす音がして、煙草をくわえたままで有理がドアを開けた。灰を落とす時間も惜しいのか、首でも振ったらグレイの粉が足元にポトリと落ちそうだった。
「どーした、そんな顔して。ランに会えなかったか?」
「ランの名前なんか、二度と聞きたくない!」
 有理はくすりと笑うと、「ま、入れ。暖かいコーヒーでも飲めば、少しは落ち着くだろう。あ、オレにもね。少し濃い目にしてくれ」
「それって、けっきょく、有理がコーヒー入れてほしかったんじゃん」
「あたり」

 レンゲは、キッチンでお湯を沸かして、インスタント・コーヒーの準備をした。姉が亡くなって、もう七年になる。有理にずっと恋人がいなかったとはレンゲも思ってはいないが、再婚するほどの人は現れないらしい。少なくとも、この部屋に女性の影を感じたことは、まだない。
 だから、安心して、ここへ甘えに来てしまうのかも。
 レンゲの父親は、レンゲが物心つく頃、恋人を作って家を出て行った。母と姉と女三人での暮らししか知らなかったレンゲにとって、年の離れた義兄は、本当の兄のようでもあり、父親でもあり、・・・疑似恋愛の対象でもあったのかもしれない。
「ランから電話があって 『泣き』が入ってたぞ。『××区○○町っていうのは、どの電車に乗ればいいんだ』って。
 アイツが無事に辿り着けても、おまえと会えてないんじゃ鍵も渡してないだろ。コーヒーを飲んだら、行ってやれよ」
「鍵は渡したわよ」
「なんだ、会えてたのか。・・・なんで?」
・・・うっ。うるうる。・・・じわっ。
「うわっ、待て!オレは今、忙しい。頼むから泣くな」
 キーボードを打つ手を休めもせずに叫ぶ有理。
「冷たいヤツ」
 レンゲは勝手にタンスからタオルをひっぱり出して涙を拭いた。
「邪魔しちゃ悪いから帰ってきただけよ。彼女と一緒だったから」
「女連れだったのか」
「三流映画のジゴロみたい。コート姿で、片手に旅行カバン下げて、片方の腕で女抱いてて」
(もしもし、片腕に彼女がしがみついてただけでは?)
「へえ、かっこいいじゃん。やるな。
 ・・・いてえっ!すぐ殴るんだからー」

 有理は、ジュニア向けの恋愛小説を書いて食っている。さほど有名でもなく、たいして売れてもいないが、十年以上もプロをやってるんだから、何とかなってるって事でしょう。
 有理は姉と付き合い出すまでは、無口で無愛想で、教室の隅で本ばかり読んでいる暗い人だったらしい。レンゲが、姉の文集を読んで有理の書いた小説に感動しなければ、姉は卒業まで有理を見つけなかったかもしれない。
 今の有理は、愛想がないのや不親切なのは相変わらずだが、知り合いにはよく喋った。レンゲと居る時も、手も動いているくせに、早口でまくしたてる。ぼーっとしてそうに見えるが、頭の回転の早い人なのだろう。
「だから、『ランは"たらし"だぞ』って、あれほど言ったのに」
・・・口は、悪い。
「私が怒ってるのは、そんな事じゃないわよっ!だって、別に、私はランの彼女でも何でもないもん。
 父親を説得してやっと東京の美大に通うのを許して貰えたくせに。真剣に勉強する気があるわけっ?」
「はいはいはい。まったくもって、レンゲ様のおっしゃる通りでございます」
 有理はいい加減な返事で受け流した後、振り向いてにやっと笑った。
「随分ランのこと心配してあげてるんだなあ」
「むかっ」
「うわっ、だから、殴るのはナシだってば。
 ランには道順も詳しく教えてやったし、たぶん自力で辿り着けるだろう。あのあたりはレンゲの家から歩いて五分位だ。今までだって歩いたことのある場所だろう。
 ランは、レンゲの家が近いからあの部屋に決めたんだ」
「うちの夕食が目当てなのよ、あいつ」
「ま、食わせてやるのはメシだけにしろよ」
「すけべオヤジ!」
「ぼこぼこ殴るなーっ」

 屋根をたたく雨の音が聞こえ始めた。雨が降り始めたようだ。
「あーあ。降ってきちゃった。傘、貸してね」
 窓に、ぽつぽつと水滴がついていた。ひどくなる前に帰ろう。
「桜は、もうダメだろうなあ。もう一週間も、外に出てないんだ。満開になったところも、結局見ていないよ。オレは、今年も花見にも行けないのかあ」
 そう言ってため息つく有理。
「本当なら、とっくに終わっている仕事でしょ。自分が悪いんじゃん」
「そうだけどさー。因果な商売!」
「あ、傘、もう一本貸して。途中で担当さんに会ったら渡してあげるから」
「やめろよ。駅に着いて、雨だから来るのやめようと思ってるかもしれないだろう」
 有理はもう一本の傘をひったくって言った。ヒドイ男だー。

 レンゲは雨の中、ハネを上げぬよう細心の注意で歩いていた。
 とっておきのハイヒールだったのに。
 赤い靴の爪先が、濡れて色が変わっていて悲しかった。

 家の前に着いて 門扉が少し開いているのに気づいた。朝、会社に行く時は、ちゃんと閉めたはず。一軒家に女の独り暮らしなので、戸締りには特に気をつけていた。
 玄関のところ、ドアの前に何かがうずくまっているのが見えた。
「誰かいるのっ!?」
 傘を閉じて握り直し、殴る準備を整えた。 
「僕だよ、ランです。傘なんかで殴らないでよ」
 小さな軒先の下で、コート姿のでかい図体を折りたたんで雨をしのいでいる。
「あら、彼女と、夜の東京をランデブーじゃなかったの」
 フンとそっぽを向いたレンゲの質問には答えず、ため息まじりにランが言った。
「ランデブーねえ。何時代の言葉だよ。
 もらったこの鍵、合わないんだ。レンゲさんちのじゃないの?」
「えっ?」
 空港でランに渡した鍵。
 赤いリボンのが、うちの。間違えないように、ランのには緑のリボンをつけて、コートのポケットにも、ちゃんと右と左に分けて入れた。
 レンゲは、恐る恐るコートのポケットから残りの鍵を取り出した。案の定、緑のリボンが結ばれていた。
「あっちゃー。ゴメン!」
「ちえっー」
 あの時、怒りで冷静では無かった。確かにきちんと確認しなかった。
「ほんとに、ごめん。わざとじゃないのよ」
「わかってるよ。レンゲさんだって、家に入れなくなるもん。
 雨が降って来た時には、これ使って勝手に入っちゃおうかと思ったけど」
「・・・。」
 軒下じゃ収まりきらないランの肩や髪、コートの裾も、すっかり濡れてしまっていた。 
「やめましたー。僕、紳士だから〜」と、ランはウインクしてみせた。もう、他人行儀ではない、いつものランだった。
 ランの笑顔は、レンゲに落ち着きを取り戻させた。
「さくらさんは?どこか暖かいところで待っていてもらってるの?」
「ホテルを取ってやった。僕の部屋に泊まりたがってたけど 。ホントは、レンゲさんの間違いのおかげで、助かったんだ」
「彼女、じゃないの?」
「違うって言ってるでしょう〜。クラスメートで・・・確かに仲は良かったけど、ただの友達だよ」
「ランは、ただの友達と卒業式にキスするんだ?」
「よく聞き覚えてるよなあ。はーい、はい。つっこまれるとは思ってました。
 言い訳はしないよ。本当のことだもん。僕は・・・そういう男だもん」
 そう言って横を向いたランの顔は、暗くて表情が読み取れなかった。トタンを叩く雨が賑やかに前衛音楽を奏でている。
「さくらには、明日一日付き合って、夕方の飛行機で帰ってもらうよ。ディズニーランドにでも行くかなあ」
「また、頼まれたら空港でもキスとかしちゃうんでしょ」
「・・・するかもね。特に泣かれたりすると、弱いな」
「あきれた〜」
 そう素直に肯定されると、怒る気にもなれなかった。いや、怒る立場にレンゲはいないのだが。
「レンゲさんは、いいな。嫌なものは嫌って、はっきり言えて。
『キライ』。『ダメ』。『イヤ』。
 僕は、そんな風に言えないから」
「・・・私、そんな言葉ばかり言ってる?」
 ランは答えなかったが、笑っていた。レンゲは赤面した。
「傘・・・持っていっていいわ。どうせ有理のだから、返すのはいつでもいいわよ」
「中に入れてくれないの?寒いなー。濡れてるのになー。待ってたのになー」
「ダメッ!」
 言ってから、ランも、当のレンゲさえ吹き出した。言ってる、言ってるよー。
「よいしょ」とランは立ち上がって、コートを払った。
「じゃあ、傘、借りるよ。
 有理のところに寄ってたから遅かったんだ。どうせ有理に言いつけてたんだろ」
「有理は、きっとお父様には報告しないから、大丈夫よ」
「そうじゃなくて・・・」と、ランはくすっと笑う。
「レンゲさんは、相変わらず『有理ばなれ』してないんだな、と思って」
「な、なによ、それっ!」
「じゃ、おやすみ」
 ランは傘を開くと、雨の中をゆっくり歩いて門を出て行った。雨に叩かれた桜の花びらが、一枚、二枚、黒い傘に張りついた。グレイの光沢のあるコートが、暗がりの中に淡く浮かんでいた。
『有理ばなれしてない、って、それ、どーゆーことよっ!?』
 ランは、私が有理を忘れられずにいるのを知っているというの?
 そして、有理は私がランに魅かれていることを知って、頻繁にからかう。
『ちょっと待ってよ。ってことは・・・』
 ランは、レンゲの好きなのは有理だと思っていて、有理はランだと思っている。
『なに、それーっ!希望も未来も将来性もないじゃんー!』
 私は・・・。
『私は、いったい、誰が好きなんだろ 』
 玄関のたたきの上には、落ちて濡れた桜の花びらが何枚もへばりついていた。白なんだかピンクなんだかわからない、曖昧な色合いで。
 恋人の望むままに、人を殺して首を捧げていたあの盗賊は幸せ者かもしれない。360度に広がる満開の桜たちなら、あっというまに人を恋に狂わせてしまえるかもしれない。
 金木犀館の、たった一本の、それも散りかけた桜には、あまり力はありそうにない。雨に打たれてうなだれながら、白だかピンクだかの花びらを必死に支えているようだった。


< END >

 ☆ 翌月へ ☆


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