五月 菫 --- 「第三章 香りの庭から」 --- |
アスファルトにはね返る陽ざしは、もう初夏のものだった。 ランは、右手に朝食の入ったコンビニの袋を下げ、左の肩には通学用の大きな布のバッグをかけていた。 この気候で長袖のダンガリーシャツは、暑い。ランは立ち止まって腕をまくりながら、 『夏服のダンボールを早く見つけなきゃなあ』 とため息ついた。 上京して一ケ月が過ぎた。新しい生活に目が回りそうだったが、やっと少しだけ、じっくり物を考えられそうな余裕が出てきた。だからといって、ランがじっくり物を考えるかと言ったら違うのだけれど。 角を曲がると『金木犀館』が見える。名前はお洒落な洋館みたいだが、ありふれた古い家である。秋以外の季節は。 ところどころ黒いペンキが剥げた門扉。もとは白かったらしい壁。名前を彷彿とさせるのは、木枠の出窓と外国のアパートのような作りの玄関くらいだった。 ランは、チャイムを鳴らそうと手をのばしたが、洗濯機の音がしているのに気づいて、裏へ廻ることにした。この家には、昔なつかしい『勝手口』というのがある。洗濯機はその勝手口のドアの横に設置してある。レンゲもそこにいるだろう。 庭では、シーツやタオル、布団カバーのような『大物』が、すでに洗ってもらって日向ぼっこをしていた。そのわきをすり抜けて、勝手口へ出た。 レンゲは、洗濯機の前に椅子を用意して、文庫本を読みふけっていた。 のびかけのショートカット。長めの前髪も気にせず、大きな目はページに釘付け。 化粧っ気のない小さな顔に、丸い小さな鼻とぽっちゃりした小さな口が、ちまちまとくっついている。可愛らしい顔立ちは、レンゲを五歳は幼く見せていた。 後ろに立ったランにも気づかない。洗濯機の中は、灰色というかねずみ色というか、すごい色になっていた。 「げー!水、まっくろ。何洗ってるの?」 レンゲははっと本から顔を上げたが、「会社の制服だよ」と答えてまた本に視線を戻した。 「OLの制服って、こんなにキタナイものなの?」 「毎日着てるけど、滅多に洗わないからね。長い休みじゃないと洗えないもん。お盆とか正月とか」 「そして、ゴールデンウイークとか、かあ。で、ちゃんと洗ってるわけねー」 褒めてあげた方がいいのかな?違う気もするけど。 「プリーツの中に、つまめるくらいのホコリや、ごはんつぶの乾いたのが入ってたりするの」 「きたねーなー。OLさんって、こわい〜」 ランは、『オー、マイ・ゴッド』とつぶやいて、十字を切るマネをしてみせた。 「それより、女性が洗濯してるのを覗かないでよね。下着でも洗ってたらイヤでしょ」 「レンゲさんの下着からは、こんな泥水のような汚れが出るのかー?」 そして『ぐー』でテンプルに一発決められたランであった。 ランは裏口からそのまま家に入った。勝手口というくらいだから、入るとそこはキッチンである。 1Fにはダイニング・キッチンとリビング、客間(和室)、バス・トイレ・洗面所がある。ちなみに2Fは、レンゲ・あやめ・元両親の部屋(現在では有理が書斎代わりに本を置いている)。『金木犀館』なんて大袈裟な名前のわりに、小さい家だった。それでも、レンゲ一人で住むには広すぎるかもしれない。 父親が離婚して出て行き、姉のあやめが結婚して出て行き、母親も再婚して出て行った。 この家は売りに出され、レンゲもアパート暮らしをするつもりだったらしいが、有理がこの家を人手に渡したくなくて買い取ったと聞いている。無理しちゃって、って感じである。 しかも、今住んでいるアパートにもあやめとの思い出がいっぱいだから、部屋を引き払うことができない有理。・・・で、長く人が住んでいないと家が傷むという理由で、レンゲが住まわせてもらっていると聞いている。庭の手入れをするという約束で、格安の家賃で。 でも、ランが庭を見る限り約束は果たされていないが。 ランは勝手にお湯を沸かして紅茶を入れて、買ってきたサンドイッチを広げた。もちろんこれでは足りないので、昨夜の残りのカレーを温め直す。 ランのアパートには食事を作れる設備は無い。週四日は、ウエーターのバイトをしている店で夕飯を食べられたが、バイトのない日はここで夕食を御相伴にあずかっていた。休みの日には時々朝食まで食べに来た。今日はこれから大学だが、レンゲがゴールデンウイークで休みなので、食料を漁りに来たわけだ。 「あ、ハムサンド、おいしそう」 食べ物の匂いを嗅ぎつけて、さっそくやってきたレンゲ。あげるとも言わないのに、勝手に取って食べている。もっとも、自分も勝手にカレーを食べているのだが。 「いい天気になったね」 「ほんと。やっと洗濯ができたわよ。休みに入ってから、ずっと天気が悪かったもん」 実にうれしそうに、満面の笑みで応えるレンゲだ。 『君は花のOLなのに、連休に洗濯以外にやることはないのかー?』 『天気がよくてうれしいのが洗濯の為だなんて、悲しすぎるぞー』 ランはそれらの言葉をぐいと飲み込んだ。また殴られるのはごめんだった。 「レンゲさんの会社って、九連休だっけ?」 「そう。旅行へ行く人が多いから、休み明けにはたぶんお土産がどっさりだわ。ナッツチョコやドライフルーツ、国内のお土産も最近はおいしいし」 幸せなヤツ。 「じゃ、僕、学校へ行って来る。暦の上は平日なんでね」 ランは一切れ残っていた玉子サンドをくわえて立ち上がった。 「連休中は店が休みなんで、バイトも休みなんだ。夕飯、食べに寄るね」 そう言い残して、家を出た。 この家の何かが、ランをほっとさせる。 家の作りが古くて、故郷の住宅街に残る家たちを思い出させるからなのか。それとも家を取り囲む木や草のせいなのか。家に何かが棲んでいるせいなのか(あやめの霊?)。 レンゲが女っぽくないのも、理由のひとつかもしれない。レンゲがすごい美人で色気もむんむんあるオネエサンだったら、こんな風に気軽に立ち寄れないかも。いや、そーゆーオネエサンはそれはそれで好きですが。 『レンゲさんって、カモミールのお茶みたいな女の子だよな』とランは思った。六コも年上のレンゲだが、『女の子』という印象が強い。 駅前の道を、違法駐車の自転車をかきわけて歩いた。大きなバッグが邪魔で、なかなか通りにくい。と、 「あのー。すみません」 すごい美人に声をかけられた。化粧は清楚だが、目鼻立ちのはっきりした、二十七、八のオネエサンである。むんむんほどじゃないが、色気もしっかりある。好きなタイプである。『宗教勧誘以外なら何でもいいや』と、「はい?」と愛想よく立ち止まる。 「あの、お願いがあるんですけど」 「なんでしょう?」ますます愛想がよくなる。 「あの風船を取ってくださいません?」 「・・・は?」 見上げると、街路樹に、あの有名なネズミの絵の描かれた風船が引っ掛かって、風にゆらゆら揺れていた。 「この子が手を離してしまって」 初めて気づいたが、美人の横にはよちよち歩く2歳くらいの女の子(たぶん。ピンクを着ているから)が、まとわりついていた。 『なんだ、主婦か。ま、美人には親切にしとこう』 ランは問題の木の下へ行って、ちょっと背伸びして手を伸ばした。枝にからんだ糸は簡単にほどけた。 「はい、おじょうちゃん。今度は離しちゃダメだよ」 なるべく優しい声を出して子供に手渡そうとしたのだが・・・わーっと子供は泣き出した。 「お兄さんが大きすぎて怖いみたい。犬も大きいのはダメだし」 『なんだよ!僕は犬と同じかっ?』 「じゃあ、おかあさん、これ」と、風船の糸を渡して、とっとと駅へ向かった。 ランの大学は、レンゲ達が通った椎野高校と同じ駅にある。電車に乗って十五分ほど都下へと下っていく。 電車は少し混んでいた。ランの横には、腰の曲がった和服の老婆が手すりに掴まって立っていた。 『誰か席を譲ってあげればいいのに。都会ってこういうものか?』 ・・・と、老婆が急に話しかけてきた。 「お兄さん、お願いがあるんじゃがのー」 「なんでしょうか」お年寄りには親切にしなければ。 「次で降りるんじゃが、網棚の荷物を取ってくれんかのう」 「おやすいご用です」 ランは、網棚に乗っていた黒いバッグ・・・それは手に取ってみるとナイキのリュックだった・・・を、老婆に取ってあげた。 「かたじけないのう」と言って、老婆は和服にリュックを背負うと次の駅で降りて行った。腕時計はGショックをしていた。たぶん『ぞうり』はエアマックスだろう。 大学に行く前に欲しい資料があったので、本屋へ寄った。駅ビルや駅前には大型店もあるが、ランは大通りを脇道に入ったところにある大きな古本屋が好きだった。ここはレンゲに教えてもらった店で、安くて品数も多い。 他にレンゲにはおいしいラーメン屋や安いランチの店も教わった。レンゲの情報は食べ物屋に関しては完璧だった。どういう三年間を過ごしていたかわかる気がした。 ランは探している本をすぐに見つけ買ってしまったが、自分の取る授業にはまだ時間があったので、ブラブラと本を見てまわった。 一年生は、実技は「基礎」のみで、デッサンばかりでつまらないが、美術史特に現代イラストの歴史の授業がランは好きだった。 新書版の本棚、『日本の文学・男性』のコーナーに、有理の本しかも同じ本が三冊もあった。五十音順なので藍澤ユーリは一番上の一番左すみ。一番目につく場所かも。 『五十音順だけでは赤○次郎に勝ってるな』 しかし。三冊も売りに出されて。愛されていないなあ、気の毒にー。 有理の小説は中高生向けなので、いきなり文庫になることが多く、新書版なんて普通の本屋にはもうコーナーさえない。 「お兄さん、その本取って」 「えっ?」 いつの間にか、ランの横には女子高生らしき女の子が立っていた。ショートカットで目のくりっとした元気そうな子だった。 『今日はこんなお願いばっかり 』 手を伸ばせばランなら簡単に取れるが、三回目だとさすがにうんざりしていた。 「そこに脚立があるよ」 「スカートで昇れって言うの?」 「じゃあ、お店の人を呼んでくれば?」 「あなたの背ならすぐに取れるでしょ!すごく意地悪ね!」 このイキのよさ、はっきり物を言うところ、すぐムキになるところ。 『うーん、誰かさんにそっくりだ』 いや、一目見て外見も似ているのに気づいていた。それで何となくからかってみたくなったのかも。 「意地悪もしたくなるでしょう、どいつもこいつも、『有理、有理』って・・・。 はい、どーぞ」 ランは軽く手を伸ばして、一番左の一冊を抜き取って渡した。 「ありがとう。あなたは藍澤ユーリを読んだことないからそんな風に言えるのよ」 少女は大切そうに本を胸にかかえた。 ランは憤然とした。声が少し大きくなった。 「あるよ。・・・って言うよりほとんど読んでる」 「『有理、有理』って騒いでる『彼女』の影響で?」 丸い瞳がいたずらっぽく笑っている。 「『彼女』、ではないけどね」 ランが目をそらすと、ますます瞳はいたずらそうに輝いて、 「じゃあ『彼氏』?あなた、ホモなんだ?体型がホモ好きする体型だとは思っていたけれど。うーん、もてそうだよね」 「勝手に決めるな!だいたい背が高いだけでホモだったら、バレーやバスケの選手はみんなホモじゃんか」 「そうだよ。知らなかったの?」←うそです。ごめんなさい。 「えっ!」 「長身イコールホモだと思って間違いないよ」 いい加減なことを何の根拠もなしに言うのが高校生というものだ。 「本当に?」 しかし、素直なランは間に受けている。 『僕も、誤解されないように気をつけた方がいいかも』 「ねえ、見て見て!サイン本だよ!やったーっ!」 少女はランのシャツの裾を引っ張った。その傍若無人ぶりは、ランと初対面だというのをすっかり忘れているとしか思えない。しかも、話題は飛んでるし。 ランもその勢いに呑まれて本を覗き込んだ。 確かにマジックで有理のサインと ご丁寧に『すみれさんへ』なんて名前まで入っている。 「サイン本、普通売るかねえ。愛されてないなあ」 「失礼なこと言わないで!きっと、何か事情があったのよ。嫉妬深い彼氏・・・あなたみたいなのが、勝手に売りに出しちゃった、とか」 「おいっ!」 「私、今日から名前を『すみれ』にしーよう。決めたっ」 相変わらず話題は自分勝手にぶっ飛んでいるし。あくまでもつっ走る少女であった。 「でも、その本は新書版の古本で買わなくても、普通の本屋に行けば文庫で出ているだろう?」 「文庫は持ってるの。でも、図書室で読んだ新書版と少し違っていたから。文庫になった時、加筆修正したみたい」 「それで新書版も買うんだ。ふーん。マニアだなあ。それより図書室に藍澤ユーリの本なんか置いてあるんだあ」 「卒業生なのよ。それで本人が寄贈してくれてるみたい」 「えっ?君、椎野高校の生徒?それ、椎高の制服なの?」 「そうだよ。おにいさんこそ実はファンなんでしょ、卒業高まで知ってるなんて」 『そうかあ、あやめさんもレンゲさんも着ていた制服かあ』 襟に丸みのある紺のブレザーは少しショート丈。スカートは紺のプリーツ。自分で加工したのかミニになっていた。この駅でよく見かける制服のひとつだったが、そうか、これが椎高のだったのか。 「制服を見るその目つき。おにいさん、あやしい。 ・・・だめっ、絶対売らないわよ!」 「君の発想は暴走するなあ」 この子に今さら『実は有理の従兄弟なんだ』って言っても信用しないだろう。 『そんなウソついて藍澤ユーリに会わせるからって言ってヘンなことする気でしょう!』とか言われかねない。もっとも名乗る気はないが。 ランは『念のため』と少女に頼まれてもう二冊も取ってあげた。中を確認してみたが、やはりサイン本は最初の一冊だけだった。 「やっぱ欲張ってもダメね。ああ、でも、嬉しい。サイン本ゲットだ〜」 少女は店の中で踊り出さない勢いだった。 「じゃあ、バイバイ、『すみれちゃん』」 これ以上付き合いきれない、とランは店を出た。 「本を取ってくれてありがとう、ホモのおにいさん!」 結構大きい声だったので、店中の人がランを振り返って見ていた。 『くそーっ!違うって言ってるだろ!』 「ねえ、僕ってホモに見えるのかな?」 ランの突然の質問に、台所で炒め物をしていたレンゲは、「えーっ?」と思わず聞き返した。 「大学で男にナンパでもされたの?」 「そういうわけじゃないんだけどさー」 ランは、テーブルで、チラシか何かの裏にイタズラ書きをしながら夕食を待っていた。 「ごはん出来たわよ。・・・熱心に何描いてるの?」 「うーん、こんな感じかな」 椎高の制服を着たお猿の絵。髪はベリーショート。 「なによ、この猿は!それに高二まではロングだったのよ!」 「猿の絵なのに自分だと判るところがスゴイ」 「だってうちの高校の制服じゃん。丈は私の頃はもっと長かったけど」 「時代ですかねえ。 実は、今日、有理のファンに会ってたんだけどさあ」 ランは『すみれ』とのいきさつを話した。 「ふうん。熱烈なファンじゃないの。有理も幸せもんね」 言葉とは裏腹に、レンゲの機嫌が悪くなったのがわかった。レンゲはテーブルに、がつん!と炒め物の皿を置いた。ガン!ガン!ガン!と、茶碗や小鉢もたて続けに置かれた。 調理中に話さないでよかったとランは思った。きっと料理がすごーく辛くなっていたに違いない。 「温かいうちにさっさと食べてよ。片づかないでしょ」 「はいはい。いただきまーす」 『レンゲさんは、何に腹を立てているんだろう・・・』 女子高生相手に嫉妬しているわけでもないだろうし。 素直に有理を『好き』と言える、あの子がうらやましいのかもしれない。姉が有理と結婚しなければ、ただの一ファンとして、あの子みたいに有理の本を幸せそうに抱えていられたのだ。 「これ、おいしいね」 ごちそうになっている身なので、ランは一応感想を述べることにしている。そして、レンゲの作る物はたいていおいしい。 「切って炒めただけだよ」と、レンゲはそっけない。 レンゲの料理は、 〇 切って炒める。 〇 切って煮込む。 〇 焼く。 ・・・この三種類である。潰す、刻む、漉す、巻く、包む等の複雑な作業は一切無い。ただし、材料はいいものを選び、分量は正確に計り、味見もまめにする。男の料理みたいだ。 「『中華一発』のラーメン、食べたいなあ」 野菜炒めをつつきながら、レンゲがふっと言った。『中華一発』と言うのは、椎高のそばのおいしいラーメン屋である。レンゲに教わって、ランも一度行ったことがある。昼時には行列が出来ることもあるほどの店だ。 「あの古本屋や制服の話してたら、思い出しちゃったよー。 食べたいー。どうしてもあのラーメンが食べたいーっ!」 「明日も休みなんだから、行ってくればいいじゃん。どうせ予定もないんだろ」 「どうせ予定はないけどねっ!ふん! 女ひとりじゃ、さすがにラーメン屋には入れないわよ」 「そういう羞恥心がレンゲさんにも残っていたか」 ばこん!(スプーンで殴られた音) 「わかったよー。明日は授業は午前中だけだから、つきあいますよー」 明日もいい天気だろうか。夏服のダンボール、探さなきゃなあ。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「ランくーん、バイト、休みなんでしょう? たまにはみんなで食事にでも行かない?」 校門を出ようとしたところで声をかけられた。 よく通る綺麗な声の主を振り返ると、クラスメイトの楢崎女史だった。親切だし物腰が柔らかいので男の学生に人気がある人だ。手入れのいい長い髪と、『普通の』ワンピースがよく似合う。美大の女子学生は変わった服装(髪型も含)の子が多いので、かえって彼女のような人は目立っていた。 「ごめん。せっかくだけど、先約があるんだ。付き合いが悪くてゴメンね」 「ううん。たまたまバイトが休みだって聞いてたから。でも、せっかくの休みなんだもん、ラン君にも予定はあるわよね。こっちこそ、ごめん。じゃあね」 もうちょっと押して欲しいな、というランの希望もむなしく、女史はあっさりと校舎の方へ戻って行ってしまった。いや、押されても、レンゲをすっぽかす度胸なんかはランは持ち合わせていないのだけれど。 『なんの因果で保護者の御機嫌取り 』 ため息つくラン。でも、そのわりには、見つけだした夏物の半袖シャツには、しっかりアイロンがかかっていたりする。 待ち合わせして食事に行くのだから(たとえラーメンでも!)、一応デートかなとランは思うのだが、レンゲの頭の中はラーメンのことしかないだろう。むこうがそう思っていない以上、違うって気もする。あーあ。 ランが駅まで迎えに行くと、待ちくたびれたらしいレンゲが、改札口の横でしゃがんでいた。 「二十四のOLが普通しゃがむかー?」 とランが言うものの、レンゲは白のTシャツにオーバーオール、すっぴんという・・・。 14,5歳の少年みたいだった。 『たくさん食べることだけを考えて選んだ服だなあ』 「『待たせてごめんなさい』は!?」 レンゲは空腹で気が立っているらしい。わかりやすい。 「待たせてごめんなさい」 「よろしい。・・・さ、行こう」 昼食時を過ぎていたので、『中華一発』はさほど混んではいなかった。待たずにすぐにカウンターに座れた。 この店は、入口にカウンターで十席ほど。奥にテーブル席が五つ。学生の集団が多いのでテーブル席が設けてあるのだろう。 レンゲはチャーシューメンをうれしそうに注文した。ランもは同じものを大盛りで頼んだ。 できたてのどんぶりを受け取り、箸を割った時のレンゲの笑顔といったら。 「うれしいな。卒業以来だから、六年振りくらいかな」 ランはおかしくて笑いそうになった。レンゲのはしゃぎぶりは可愛らしかった。 「おいしいー。この、スープのコク。麺の歯ごたえ。六年前と全然変わってないよー」 「はいはい。舌、やけどしないでよ」 「いらっしゃい!」 客の切れない店だ。また新客が入ってきた。 喋りながら入ってきたのは椎高の女子高生の集団だ。彼女たちがドアを開けたとたん、店が一段と騒がしくなった。 ランたちの後ろを通ってテーブル席へ向かっていたが、 「あれ?昨日ののっぽのおにいさん?」 声に振り向くと例の少女だった。 「やあ、すみれちゃんじゃんか」 「えっ?」 「自分で言ったんだろ、『私の名は今日からすみれ』って」 「あ、そーか」 黙々と食べていたレンゲが、ちらっと顔をあげて少女の方を見た。少女もレンゲと目が合ったようだった。 「おにいさんの彼氏?ほーら、やっぱりホモだったんじゃん」 それまでひたすら食べていたレンゲがむせた。 「誰が彼氏よー。どこが男に見えるわけー?」 女子高生相手にムキになって啖呵きっている。 「レンゲさんー、おとなげないからやめてよ」 「あれ?その制服。ってことは、後輩か」 「女の人だったんだ。しかも卒業生ってことは、私より年上?中坊かと思った」 「かーっ!」 「すみれちゃんも、やめなさいってば!」 ランはため息ついた。左右対称、鏡合わせの喧嘩を見ているようだ。いや、外見より、この性格。二人とも、なんてタイプが似ているんだろう。 『おまけに有理が好きだし・・・』 「何してるのよー。早くー」 友達に促されて、少女はやっと奥の席へ向かった。 「ラン、あの子のこと、気にいってるでしょ?」 「小さいレンゲさんみたいじゃない?」 二人同時に言って、内容の相互関係に気づいて気まずくなる。で、ラーメンをすすりながら、お互いに何か話題を探そうと頭をめぐらせる。でも、いつも意識して話題を探すような間柄じゃないので、全然見つからないのだ。 RRR・・・。 その時、レンゲの携帯電話が鳴った。 「うん。お疲れ様。え?今?『中華一発』って知ってる?さすが元・椎高生。うん、ランと一緒だよ。夕飯はカレーにするつもりだけど? ・・・えっ?ラーメン食べに来る?」 「有理から?」 ランは話題がみつかってほっとしてラーメンをすする。レンゲは電話をポケットにしまいながら、 「仕事、今終わったって。夕飯食べに行ってもいいかって電話だったんだけど。ここに来てるって言ったら、有理も来るって。今すごーくおなかが空いてて、どうしても、ここのラーメンが食べたくなったって」 「えーっ。それまで待ってろってことー? 仕方無いなあ。三十分で来るかなあ。レンゲさん、ゆっくり食べてよね。食べ終わったら餃子でも頼んでつなぐから」 「間に合うかな。間に合うといいけど」 そう言ってレンゲは、ちらっと奥のテーブルに視線をやった。 「有理のファンなんでしょ?会わせてあげたいじゃない?」 「あれー?敵に塩を送るとは随分な余裕じゃん」 「どうして敵なのよ!有理のファンで、しかも高校の後輩なのよ!」 「はいはいはい 」 「とは言うものの。実物は見ない方がいいのかなあ。少女の夢を壊しそう」 「彼女が、そんな繊細でヤワな子だと思う?」 「でも締切明けの有理もけっこうスゴイよ」 レンゲの言った意味は、有理が店に入って来た時にわかった。 有理は、ランたちを見つけ、「おう」と声をかけた。 「思ったより早かっただろ?電話してから二十分もかかってないじゃん」 「なに、そのかっこ。他人の振りしたいよ!」 まずレンゲがぼやいた。 「なにを言う、呼びつけておいて」 「呼んでない、呼んでない」 ボサボサの髪に不精ヒゲ。よれよれのポロシャツ。きわめつけが素足にサンダル履きというオヤジ臭さ。眠いのか空腹のせいなのか、いつにも増しての不愛想な表情。 「よく、そのかっこで電車に乗ったわね」 「タクシーで来た。腹が減って歩く気力もない。・・・チャーシューメン、大盛りね」 そして勝手にランの皿の餃子を頬張り出した。 「おじさん、あと、ビール。グラスは一つでいいから」 「あきれたー。昼から酒飲む気?」 「オレは仕事明けだから、いいの」 「ずるいっ。私だって仕事が休みだから、いいの。私にもビール一本!」 ランは肩をすくめる。『もう、勝手にすれば〜』という感じだ。 「有理、このポロシャツ、臭うよ。洗ってないでしょう?」 と、レンゲは半袖ポロの袖をつかむ。 「そういえば、おとといから、着たままだっけ」 「汚いなあ、着替えくらいして来てよ。顔だってどうせ洗ってないでしょ」 「それどころじゃなかったの!一睡もしてないんだから」 「そんな状態で、よく来る気になったよなあ」と、ランが呆れたように言った。いや、実際に呆れているのだが。 有理は疲れのせいか、いつもより早口で饒舌だった。 「電話でこの店の名前を聞いた途端、条件反射でスープの匂いや麺の食感を思い出しちまった。そしたら食いたくてたまんなくなってさあ。まだこの店があるなんて思ってもいなかったよ。外観は変わってなかったけど、中は少し変わったかな。ま、十五年たってるから」 有理は、目を細めた。愛想の無い三白眼が、ふうっと柔らかくなった。店のカウンター席に、今は亡きひとの影を見ているのだろうと思わせた。 「有理が高校生の頃から有名だったの?」 「まあな。あやめとも来たな」 「デートにラーメン屋?昔からムードなかったのねえ」 「おまえら二人だって、ここに来てるくせに」 有理の突っ込みに、ビールにむせるレンゲであった。 「別に私たちはデートじゃないもん!」 いや、そう思ってるのは知っていましたけど。そんなにムキになって否定しなくてもいいのにー。ちえっ。・・・と心で舌打ちするランであった。 自分のラーメンが来ると、やっと有理は静かになった。やれやれ。ランはその隙に有理のビールを頂戴した。 ちょうどその頃、奥の女子高生集団が席を立った。賑やかに何かわめきながらランたちの後ろを通る。 忘れていたけど、あの子に教えてあげた方がいいのかな。ふとランは迷った。あんなにファンなんだから、本人と会えればうれしいだろうと思う。 でもレンゲさんは見せない方が夢を壊さないって言うし。いや、まてよ、有理の小説って作家にあこがれを持つような内容かあ?それってレンゲさんの深層心理だったりしないか? 「あれ?菜々実ちゃん?」 ひたすらラーメンを食べていたはずの有理が、女子高生の一人に声をかけた。 「あー!ユーリ先生!きゃーっ!」 『すみれ』だった。・・・えっ?菜々実ちゃん? 「知り合いなの?」とランが恐る恐る尋ねると、有理はビールを奪い返して、 「イラストレーターの藤本春菜さんのお嬢さんだよ。 偶然だなあ。・・・ってこともないか、今は椎高生だもんな。後輩だな」 「えーっ!」と、ランは椅子ごと後ろに引っくり返りそうになった。 「藤本春菜っ!?あの有名な?」 菜々実はぷん!とほっぺたをふくらますと、 「ママを呼び捨てにしないでほしいわ」と抗議した。 ランはまだ茫然としている。 「うそっ。僕、イラスト集も持ってる」 「有理の文庫の表紙を描いてたよね?」 レンゲでさえ、名前は聞いたことがあるようだった。 「藤本さんが表紙を描くと、誰の本でも二割は売上げがアップすると言われている。オレのでさえ、そこそこ売れたもん。オレの『代表作』って言われてるヤツね」 有理は笑って肩をすくめた。 「ユーリ先生の知り合い?」 菜々実はちらっとランたちに視線をやった。 「ああ。レンゲと 従兄弟のラン。こいつはイラストレーターのタマゴ」 「うわーっ、内緒にしてくれよーっ!プロの娘の前でっ!」 ランは激しく抗議したが、菜々実は鼻で笑った。 「そんな大きなバッグを持ってこの駅で乗り降りしてたら、M美大かTデザインスクールに決まってる。とっくにバレてるわよ」 「ちぇっ」 「先生、すごいかっこしてるね。原稿、上がったんだ?」 「ああ。今さっきな」 「それが掲載される号って、たぶんママの表紙だよ」 「へえ、それは売れそうだ。ラッキーだったな」 『菜々実ー!』と、レジで待っている友達が声をかけた。 「あ、じゃあね。また遊びに来てね」 「ああ。おかあさんによろしく」 そして女子高生軍団は去っていった。 「口から先に生まれたような、面白い子だろ」 有理はラーメンの続きを食べながら言った。 「あーあ」とランはため息ついていた。 「今度藤本さんに会ったら、色紙にサインもらってやろうか。『ランくんへ』って名前も入れてもらえるぞ」 「やめてくれよーっ!・・・ったくもう」 「ランこそ、なんで知り合いなんだ。駅でナンパしまくってるんじゃないだろうな」 「違うよ〜。昨日、彼女が本屋で僕を脚立代わりに使ったの」 ランは昨日の出来事を手短に話した。 「へえ。オレの本がそんな取りにくいところにあるとは。ラン、おまえは本屋に常駐して、みんなに取ってやれ」 「ひどいや〜」 帰りは三人で電車に乗った。カレーの材料を買って金木犀館へ向かう。もちろん荷物はランが持たされた。 家へ向かう途中の道、アスファルトの隙間から、ひょろっとした紫の花が一本顔を出していた。 「へえ、こんなところにすみれが咲いているよ」 ランの言葉に振り向いた有理は、にやっと笑った。 「ばーか。これは『だいこんの花』だよ」 「ええっ?すみれじゃないのー?」 「なんにも知らないんだな、おまえ」 むっとするラン。 レンゲまでくすっと笑って、 「ランは『すみれ』には騙されっぱなしだね」 「・・・くーそーっ!」 金木犀館の庭に先に入った有理が、『自分の鍵』で、ドアを開けていた。レンゲが、素早く門扉を締める。有理がドアから中に入ると、レンゲがドアに手を添えて、両手に荷物のランの為に開いたまま待ってくれていた。 『なんか、あ・うんの呼吸って言うんですかっ〜』 声に出さずに、わざとおどけた口調で心で言ってみる。 ランはいつも戸惑ってしまうのだ。有理とレンゲの二人の、生活の呼吸というのを感じてしまう時があって。そして、それがあまりに自然で、自分がいると『割り込んでいく』ような疎外感を感じてしまう。 二人の付き合いは長いのだから、仕方がないことなのだと、自分に言い聞かせるのだが。 『あせっても、しょうがない 』 「とっとと、入ってよ!」 ドアを抑えたレンゲが怒鳴った。 「は〜い!」 ランは苦笑して、小走りになった。 道路の向こう側。アスファルトの隙間では、だいこんの花が風に揺れていた。 < END > ☆ 翌月へ ☆ |
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