六月 鈴蘭 --- 「第三章 香りの庭から」 --- |
水滴が、ビルの壁にまで染み通って来そうな、雨の金曜日。 会議室の机で昼食をとるOL集団。話題は、流行のファッションや彼氏とのデートのこと、夏休みの海外旅行の予定、話題のTVドラマetc. 。 そして、その華やかな会議机の一角で、地味に弁当をつつく三人組。にぎやか組に較べると少しだけ年齢も『おねえさん』のようだ。 「レンゲ、日曜日のドレス、もう決めた?」 紙コップのほうじ茶をすすりながら、椿が尋ねた。 「桔梗の結婚式、もうあさってかあ。どうしよう」 レンゲは、フルーツヨーグルトをずるずるスプーンですすりながら、とても本気で『どうしよう』とは思っていない口調で答えた。 梅子がイライラした様子で、 「友達の結婚式ってチャンスなんだよっ。特に二次会は!わかってるの?」と責め立て、 「私と椿は彼氏がいるからいいけど、レンゲはこのチャンスをのがすと、しばらく男と知り合うチャンスさえないぞ」と、どん!と机を叩いた。・・・「あ。」 レンゲのスプーンからヨーグルトがすべり落ちた。 ペチャ。 ヨーグルトは制服のスカートにまあるく広がって落ちた。 「あーあ。こぼれちゃったでしょ」 ティッシュでこすってヨーグルトをぬぐいとる。白い王冠のようなシミが残った。 先月洗濯したばかりなのに。次に洗えるのは、夏休みじゃないか〜。 レンゲの勤める会社は、大きな電機メーカーの子会社である。彼女は本社勤務で事務をやっている。 事務というと、足のきれいなおねえさんが、キーボードをバシバシ打っていたり、指のきれいなおねえさんが伝票やお札をめくっているイメージがあるかもしれないが。レンゲのワープロ入力は「北斗の拳」と呼ばれている。それ以上の説明は不要だろう。 日曜日に結婚する桔梗は、同期入社のお弁当友達だ。椿も梅子も同期で、みんな今年で二十五歳になる。仲間うちでは桔梗の結婚は一番乗りだが、同期の中では決して早いほうではない。 「夏服、まだ出してないんだよね。面倒だから、ねえさんの借りちゃおうかな」 あやめのなら、洋服ダンスに入れたままになっている。 「バカ言わないでよ。それ、亡くなったおねえさんが結婚する時に置いていった服でしょう?いったい、何年前のよ。流行遅れもいいとこだわ」 レンゲの(ずぼらな)アイデアは、梅子に即座に却下された。 椿も「あーあ」と笑ってにが笑いしている。 「レンゲったら、あんまり真剣に取り組んでないでしょう」 「今は、今夜の夕飯に何を作るかで頭がいっぱいだから、そのあとのことまで考えられない」きっぱり。 「おーおー、なんと立派なアタマだ」 「しかも、今、お昼を食べたばかりで」 何とでも言えーっ。 今日はランのバイトが休みの日。夕飯を食べに来るはずなのだ。 この前はロールキャベツだったから、今夜は何にしよう。和食がいいかな。炊き込みごはんと焼きザカナとか。ボリュームが足りないかな。 「今、恵まれないハスキー犬にエサを与えることで、女神の気持ちが目覚めつつあるんだ」 『恵まれないハスキー犬』というのは、有理がランを指して言った言葉だ。図体はでかいけれど、穏やかでしつけがいい。そして、よく食べる。確かに・・・という感じだった。 「何よ、それ。新しい育てゲーかなんか?」 「ゲームしてるヒマがあったら、オトコつくれー!」 日曜日も残念ながら雨だった。ま、梅雨なので三人とも覚悟はしていたけれど。 三次会のカラオケを断ったレンゲたちは、二次会の貸切りパブの前でみんなと別れた。 右手に傘、左手には引出物の大きな紙袋。ハイヒールは雨が滲みて来るし、ドレスにハネはあがるし、美容院で大枚はたいて作った髪はくずれてくるし。 いや、三人の機嫌が悪いのは、そのせいではない。 「ったく、もう!どーして、二次会って、オンナ目当てのヘンな奴しかいないのさーっ!」 歩き出しながら、まず梅子が爆発した。自分だって、レンゲに『オトコ目当て』で参加を勧めたことなどすっかり忘れている。 普段は穏やかな椿でさえ、 「あの新郎の友人とかいう司会者がさせたゲームの品のなさ!キャバレーでオヤジがやるゲームみたい!」と、ぷりぷり怒っていた。 レンゲも、「会費を五千円も取ったくせに、乾き物しか出ていなかったー!」と、違うことで怒っていた。とにかく三人とも、怒っていたのだ。 「それに、桔梗も桔梗よ。結婚式では、私達の誰かが取れるように、ブーケを投げてくれるって約束してたのに」 「旦那の親戚の女にあげちゃってさ。裏切りだわ!」 「可愛かったな、あのすずらんのブーケ。欲しかったのに」 ブーケを取れなかった女たちの落胆は大きい。 「気晴らしに、もう一軒行こうか」 「おーっ!」 梅子の提案で初めて、レンゲは、ランのバイト先がこのあたりだったことを思い出した。 二次会で接した男性たちの、妙なプライドの高さや、変な卑屈さや、驚異的な図々しさや。そんなのにうんざりしていた。新郎の『御友人達』だから、親会社の社員や一流大学の卒業者、いわゆるエリートサラリーマンばかりなのだが。 ああいうのを見ると、口は悪くても有理がどんなにいいオトコかわかる。ランがどんなに優しくていいコか、とかも。 正直に言えば、ランの顔を見たくなったのだ。 「義兄のイトコがバイトしている店、行かない?」 『デネブの庭』というその店は、雑居ビルの地下一階にあった。レンゲは店の名前しか知らなかったので、電話帳で調べて行った。 ガラスのドアには綺麗な天使たちの絵が刻みこまれていた。ゴージャスだが、可憐で可愛い感じの外装だ。ガラス越しに見える店内は、少し照明は落としてあるが、女性客も多く健全そうな雰囲気である。 ドアを開けると、丁寧な言葉づかいのタキシードのウエイターが、礼儀正しく三人を席へ案内した。思ったより広い店で、思った以上に女性客が多い。 ランを探してきょろきょろしながら座ったレンゲは、ウエイターに、 「藍澤走っています?」と尋ねた。 すると彼は急に困惑した表情になった。 「申し訳ございせん。藍澤はウエイターですので、同席はご勘弁ください」 ・・・えっ? 「あの、もしかして 」 「レンゲ、ここ、ホストクラブじゃないの?」 「えーっ? やっぱ!? ランったら、そんなところでバイトしてたわけ!?」 レンゲの大声に客たちがいっせいに振り返った。 ソファに深く座った女性たち。年配のグループもいれば、レンゲたちのような0Lらしきグループもいる。そして、どのテーブルにも、高級そうなスーツを着て髪をキメた青年たちが二,三人くっついている。 「レンゲさん、ちょっと、外へ出て」 黒い大きな影が、いきなりレンゲの手をとって、外へ連れ出した。ランの声だった。梅子たちも荷物を抱えて、レンゲ達の後を追って店を出た。 ドアから出て、店の正面からはけた場所で、ランはようやく手を離してくれた。赤茶色のれんがの壁は、階段から吹き込む雨で、濡れたところがどす黒く色が変わっていた。かすかに生ゴミとほこりの匂いがする。 ランは、さっきの青年と同じ、黒のタキシードに蝶ネクタイをしていた。片手には銀のトレイをかかえたままだった。 「びっくりした。レンゲさんが来るなんて」 「びっくりしたのはこっちよ。知らなかった、ホストクラブでバイトをしているなんて 」 「ごめん、言ってなくて。でも、僕はただのウエイターだよ。ここの方が、時給がいいんだ、同じウエイターの仕事でもね」 「そりゃそうでしょうよ。で、有理は知ってるの?」 「言ってある」 「あきれた!それで、有理が許したっていうの、こんな不健全なところ!」 「そんなに不健全な店じゃないよ。今、レンゲさんも店を見たでしょう。有理は信じてくれている」 「私が信じてあげないと思ったから、隠してたのっ!?」 「現にキーキー怒ってるじゃん」 「キーキーって、サルじゃあるまいし!」 二人のやりとりをあっけにとられて見ていた梅子と椿。やっと状況が呑み込めてきた。 「でも、ランくん、だっけ? 私にも未成年の弟がいるけど、ホストクラブでバイトしてたら、やっぱり怒るな」 椿が静かにそう言った。 「そうよ、うちの姉もむかし、女子大生パブでバイトしてて金銭感覚がおかしくなってた時期があるわ。しばらくヘンだったわよ」と、これは梅子。 「でも、僕は生活がかかってるし。やめれないよ」 断固とした口調だった。レンゲははっとした。 そうだ、ランは、そのへんの大学生がお小遣い欲しさにバイトしているのとは、わけが違うのだった。 「あんまり長く外に出てるとマズイから、戻るけど。 レンゲさんは、もう店に入る気はないだろ?雨はひどいし、荷物も多いし、タクシーを呼んであげるよ。 そう言えば友達の結婚式だって言ってたっけ。三人ともせっかくのドレスなのに、雨で気の毒だったね」 ランは、優しい。知らなかったとは言え、勝手にバイト先に来て、人のバイトの内容にケチつけたのに。 「一台だけ呼んで、三人ともどこかの駅で降りるのがいいと思うけど。どうする?」 「そうだ、二人ともうちに来て飲みなおそうよ。泊まっていけば?」と、レンゲ。ここへ誘ったのはレンゲだし、責任を感じてしまう。 「え、でも、いいの?」 「明日、会社に行くのに、服は貸すから」 「じゃ、おじゃましちゃおうかな」 「私も」 ランが、「じゃあ、タクシー呼んで来るから、待ってて」と、店へ戻って行った。 ガラス越しに、誰かにさかんに頭を下げているのが見えた。店長とかチーフとか、そういうたぐいの人なのだろう。 ランに迷惑をかけてしまった 。 雨は相変わらずひどく降っていて、ビルの前をクルマが通るたびに、水を撥ね飛ばす音がしていた。 れんがの壁に寄りかかりながら梅子が、 「いいオトコじゃん、あんたのイトコ」と肘でこづいた。 レンゲは、「『義兄の』イトコ、ね」と訂正した。 その後の金木犀館での大宴会については、あまり語りたくない。 有理の買い置きのビールやウイスキーも含め、もらい物や料理用やら、一軒の家によくこんなに酒があるもんだと感心させられる。言い換えれば、レンゲたちは、家中の『ありったけの酒』を探し出して飲みつくした、というわけだ。 チャイムの音に気づいたのは 十二時近かったかも。 雨の音よりも、自分たちの話し声や笑い声がうるさくて、鳴っているのにすぐには気づかなかった。 「はーい!」 レンゲがソファから立ち上がった時、ふらっと、足取りがあやしかった。 「きゃーはは、レンゲったら、酔ってる!」 もっと酔っている梅子が大笑いしていた。 こんな時間にうちに来るのは有理とランしかいないが、チャイムをきちんと鳴らすのはランである。有理なら自分の鍵で勝手に入って来る。 ドアを開けると、予想通りランが立っていた。 「やあ。盛り上がっているみたいだね」 いきなりステレオのボリュームつまみを上げたように雨の音が飛び込んできて、少しぼうーっとした。どこか別の空間にワープした感じ。 雨はランのシャツにところどころシミを作り、たたんだ黒いコウモリからは大量のしずくがこぼれ落ちていた。白い雨の線がランの背景を滲ませ歪ませていた。その後ろには家の庭とは違う世界・・・白い砂が一面に広がる砂漠だったり、白い城壁そびえる古い城だったり、白い波がしらの立つ海原だったり・・・が、広がっているような気さえした。 ランはレンゲを見ると、 「すごーく、酔っぱらってないか?目がうつろなんだけど」と、目の前で手を振ってみせた。 「らいじょーびっ!何ひに来たのさー!」 「まだ怒ってるの?」 「あたりまへれひょー!」 ただし、怒っているのは、自分自身に対してなのだが。ランの立場を考えないでわめいたことや、迷惑をかけたこと。こんなんじゃ、信頼して話してもらえなくて当たり前だ。自己嫌悪、自己嫌悪、じこけんお。 「一応、謝りに来たんだ。隠してたこと、悪かったよ。ごめん」 ランはペコリと頭を下げた。 「でも、これだけ酔ってると覚えていてくれないだろうなあ」 「酔ってないどー」 「はいはいはい」と、ランは苦笑する。笑うとランの細い目がさらに細くなる。マユゲごと目尻が下がって、懐かしい甘えたい感じになる。 「許ひてあげるから、すずらんのブーケ、ちょうらい」 「・・・へっ?」 「すずらんのブーケ。式で取れらかったの。すごく可愛いかっらのに」と、しおれた花のように言った。 「ブーケって、いくらぐらいするの?高いのかな。バイト代が出てからでいい?」 「うん★」 にへらぁと笑うレンゲ。もう、くるくるぱー状態かも。 「バイト先を隠してたのって、レンゲさんに『あんなとこでバイトするほど生活が苦しいの?』って目で見られるのがイヤだったからなんだ」 「そんなに生活くるひーの?」 ランはまた苦笑して、「まあね、仕送りは少ないからね。うち、金無いわけじゃないくせに、単なる嫌がらせだよなあ」と答えた。 すると、レンゲは、くるんと丸い瞳から、やっぱりくるんと丸い水の粒をつるんと落っことした。 「お、おい、レンゲさん」 「ごめんね、私が男らったら、ここで一緒に暮らしぇたのに。そしたらアパート代や生活費も浮いらのにね」 「・・・。」 ランはレンゲの手を取って、 「君が男だったら、上京して来るかよっ。美大なら地元にだったあるんだ。でも、レンゲさんのそういうところ、好きだけど」 そう言ったあと、「これも覚えてないだろうなあ」と、涙が落ちた後の頬に軽く唇を触れた。 ランが、たとえジョークでこういう行動の真似しただけでも、レンゲはいつも暴れたり殴ったり大変な騒ぎなのだが、酔っぱらっているせいか、「あれー?」とほっぺを手で触れてぼーっとしている。ガードのあまい今なら、抱きしめても唇にキスしても平気かも、とランはちらっと思ったが、それはフェアじゃないし。 「じゃあ、おやすみ。戸締りはしっかりね」 「うん、らいじょーぶ」 ランがドアを閉じたと同時にガチャガチャと鍵を閉める音が聞こえた。甘いのはランの方かも。あれだけ酔っていても、さすがに『鉄壁のディフェンス』、『女井原』と呼ばれるだけのことはある。(作者注:いえ『女井原』はたまに大事なところで空振りしたりするから、そう呼ばれてるだけでしょう。ほら、イラン戦とかさあ) 翌日も雨だった。でも、昨日よりは静かで優しい雨の音。いつまでも、うとうとと眠っていたいような音。 「電気つけるぞ」 パチパチと閃光が目の裏にはじけたかと思うと、急に明るくなった。むりやり目をこじあけると、ドアの前に有理が立っていた。 「本を取りに来たんだ。入るぞ」 ぼんやりとあたりを見回す。 左右にフトンが敷かれ、右では梅子が枕をかかえ大口をあけ、左では椿が毛布を被って大きな山となりイビキをかいている。両方ともバクスイしていた。書斎に三人分のフトンを敷いて雑魚寝したんだっけ 。 「有理、早いじゃん。徹夜でもしたの」 「ばか、もう昼過ぎだぞ」 「えーっ!?」 ズッキーン!! 急に起き上がろうとしたレンゲは、頭をかかえこんだ。ひどい頭痛だ。 「いたた。頭いたーい」 「玄関にハイヒールが散らばっているのを見て、いやーな予感はしたんだが。リビングにはカラの酒瓶がごろごろしてるし。しかも、どう見てもオレの酒の瓶もあったような気がするんだが?」 「はは、遠慮なくごちそうになりましたー} 「『先ヲ越サレタ花嫁ノ御友人達、其ノ晩ヤケ飲ミヲスル之図』か。しっかし、類友だなあ、おまえら」 有理は、色気も無くぐーぐー眠っている二人を横目で見て、うんざりした口調で言った。さっきまでレンゲもこういう状態だったのだろう。 「では、失礼して」と、ひょいっとフトンを避けて奥の本棚へ辿り着いた有理は、目当ての本を探し始めた。そして、二、三冊引っ張り出しながら、 「おまえら、会社はサボリか。今日は月曜日のはずだけど」 たらり。 「やっばーいっ!!」 大声を出すと頭の芯がずきずき痛んだ。でも、それどころじゃない。 レンゲはふらふらしながら階段を降りると、電話に飛びついた。そして、自分の部所に休みの電話を入れた後、バッグを探し出して手帳を出すと、椿と梅子の部所にも『こわいろ』で電話をした。椿は少し裏声ぎみの優しい声で、梅子の分は「風邪で 」とゴホゴホ咳を混ぜながらの大熱演だった。 冷汗ものだ。残した仕事の処理とかを聞かれたらどうしようかと思った。 階段の途中で、有理がニヤニヤと笑いながら一部始終を見ていた。 「おもしれえな、OLって。オレ、今度、OLを主人公に書こうかな。今の使わせてもらうよ」 「やめてよっ!・・・いたた。大声出させないでよぉ」 「これだけ飲めば二日酔いにもなるさ」 居間のテーブルの上には、ビールの空き缶がピラミッド状に高く積まれ、床にはウイスキーやワインの瓶が芸術的配置で転がっている。 そう言えば、このカラのワイン瓶で、椿が肩を叩いていたような気がする。「結婚式って肩こるわあ」と言いながら、バシバシ音を響かせて叩いていた。アザになりそうなくらいに強く叩いているように見えて、『痛くないのかなあ。酔ってるから痛みを感じる神経が鈍ってるんじゃないのー?』と思った記憶が残っている。記憶が・・・。記憶? 「有理さあ、今部屋に入ってきた時、『レンゲのそういうところが好き』って言わなかった?」 「はあ?言うかよ、そんなこと。おまえらの、あのだらしない寝姿を見て、か?」 「さあ?」 尋ねたレンゲの方が首をかしげていた。 「夢でも見たのかなあ」と、ほっぺに触れてみる。 有理にはさすがに言わなかったが、夢でそう言ってくれた人は、ほっぺたにキスしたような 。 「おまえ、オレに好きだと言われたい願望が夢の中に・・・(ぼかっ!)」←殴られた 「ポスト・ウォーター、飲みたい。買ってきてよー」 「殴っておいて頼みごとするとは、いい度胸だな。しかも、あれって近所に売っていないじゃないか」 ポスト・ウォーターとは、レンゲのお気に入りのスポーツドリンクだ。ポカリスエットやアクエリアスほどメジャーではないので、滅多に売っていない。 「駅前の自販機にあるよ」 ゆえにレンゲはそれのある自販機や店舗をチェックしている。 「あそこまで行けっていうのか?雨が降ってるんだぞー。オレ、帰る」 「えーん、けち」 有理は本を抱えてとっとと帰ってしまった。有理は、こういうところは、全然優しくない。いや、どういうところも有理は優しくないのだが 。 何だろう、有理に対して何か怒らなくっちゃいけない事があった気がしていたのに。 二階の二人はまだよく眠っている。 レンゲは「部屋が酒くさーい!」と叫ぶと(もちろん叫んでから頭がズキッとしたが後の祭りだった)、出窓を開いて外の空気を入れた。雨は小雨だったので、少しくらい窓を開けても大丈夫だ。 次に、ちゃきちゃきと、テーブルの上を片付け始めた。空き缶やカラの瓶を捨て、食べ残しのポテチやクラッカーを処分し、グラスとお皿をきれいに洗った。 水をガブガブ飲んで渇きを癒したが 、・・・違う!違うのだ!やっぱり、ポスト・ウォーターが欲しい。あれじゃなきゃ、ダメ。あれじゃなきゃ、二日酔いの喉が喜ばないのだ(大袈裟)。 レンゲは、ジャージのパジャマの上下のまま、長めのレインコートを着込み、長靴を履いた。 『これでパジャマは隠れる。完璧!』 この姿で無謀にも駅前まで出ようとしていた。 ドアを開けると、雨は思った以上に小降りで、これではあまりに重装備の気がしたが、今さら着替えるのも面倒だ。傘を省略することにして、フードを被って外に出た。 まだ体にアルコールが残っているらしく、少しほてっている。外の空気の冷たさが気持ちよかった。まだ少し、宙に浮いている感じがする。『雨に濡れても』の曲が鼻唄で出そうになって、自分の機嫌がいいことに気づきちょっぴり驚いた。歩くたびにポケットの小銭と鍵がこすれ合って、ジャラジャラと笑い声のような音をたてた。 自販機に辿り着き、目当てのものを買ったのはいいが、つい勢いで欲張って三本も買ってしまった。手で持ちきれないので、腕にかかえた。 と、急に、黒い傘の影がレンゲを覆った。 「どこの中坊かと思えば、レンゲさんじゃんか。会社サボったな」 振り向くと、ランが傘を差しかけて笑って立っていた。肩には布製の大きなバッグ。もう、授業が終わって帰宅するような時間なのだ。 しまった、よく考えたら、顔も洗ってないぞ。 「レディをつかまえて、中坊って言うな」 顔も洗ってないくせに、一応怒ってみせるレンゲだ。確かに小柄なレンゲは、こんなかっこうをしていたら、中学生・・・しかも男の子の、みたいだった。 家への道を歩き出しながら、ランは笑いを噛み殺しながら、 「フードかぶって長靴はいたレディは少ないと思うけど?」 すかさずレンゲが、「しかも下はパジャマなんだ」と、レインコートの裾をめくってみせた。 ランは「サイテー」と、ゲラゲラ笑って受けていた。 「他の二人は会社へ行ったの?」 「まだ寝てる」 「しょうがねえなあ」 「あれ、うちへ来るんじゃないの?」 金木犀館とアパートとの別れ道で立ち止まったラン。 「遠慮しとくよ。レンゲさんだけでも怖いのに、さらに二人もいちゃ、たまんないや」 「言ったな。一人が、ランのこと『いいオトコ』だって言ってたよ」 「ふーん」 「ま、年上には興味ないか」 ランはレンゲの言葉にちょっと憮然とした表情になって、黙ってしまった。そして「あやめさんみたいなら、話は別」と不愛想に言った。 「あ、そうだ、これ」 ランはバッグからハガキ大のカードを取り出した。 「授業中に描いたんだ。クラスの女の子たちに聞いたら、ブーケって何万もするんだってね。いつ買ってあげられるかわかんないから、しばらくこれで我慢しててよ」 カードには、モノクロの鉛筆描きで、丁寧にすずらんの花束が描かれていた。白くて可憐な小さな鈴。ひとつひとつの花の丸み、つややかな葉。葉脈にぽつんと光る水滴のみずみずしさ。繊細にうねりを持ったリボンのつや。すべてが、細かく端正に描かれていた。 「・・・?」 不思議そうな表情でカードを受け取るレンゲ。 「あ、ありがとう。とてもきれいね」 「もしかして、ゆうべ、『すずらんのブーケが欲しい〜!』って泣きそうになってたの、覚えてないな?」 「えっ?私、店でそんなこと口走ったっけ} 「ああ、もう!バイトの帰りに寄った時だよ。家の玄関で」 「ラン、ゆうべ来たの?いつのまに?」 「・・・これだよー」 「あ、そうだ。有理に怒ろうって思ってたの、ランのバイトのことだった。すっかり忘れてたわ」 「すっかり忘れてたことをもう怒らないでよ。きのうだって、わざわざ謝りに行ったんだからね。バイトの帰りで疲れてたのに。雨も土砂降りだったのに。 覚えていないなんて」 ランはがっくりと肩を落としてみせた。 「謝りに来たの?」 「そうだよ。玄関で土下座までさせられたの」 「うそ。見たかった! くーそー、どうしてそんな面白いこと、覚えてないんだろ。くやしいっ!」 ・・・と、今、ランの口許が笑った気がした。 「あ、ウソなんでしょ、今の」 「さあね。皆さんによろしく」 ランは、別れ道を右へ折れて帰って行った。 レンゲは濡れないように注意深くカードをポケットにしまい込むと、金木犀館に向かって歩き出した。 唇をかんで笑みを噛み殺して、ポケットの上からそっとカードに触れてみる。 と、その瞬間、腕に抱えた缶の一本がぽろりと落ちた。 「あっ」 この道はなだらかな下り坂になっている。 ・・・コロコロコロと。 小さなしぶきをたてながら、缶は転がっていく。 あわててつかまえようと、かがんだ途端、残りの二本もぱしゃ!ぱしゃ!と落ちた。 「うわーっ!」 コロコロコロコロ・・・。 もう、手がつけられない。缶は加速度をつけて坂道を落ちていく。 『あーあ』 このまま転がり続けても、金木犀館の門扉にぶつかれば止まるだろう。その前に下水溝に落ちるかもしれないけど。 青と白のツートンの缶たちは、濡れた舗道の上を水しぶきをたてながら、楽しそうに転がって行った。 < END > ☆ 翌月へ ☆ |
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