七月 百合

--- 「第三章 香りの庭から」 ---




  ☆ 一 ☆

 バイト先を出た時には小降りだった雨が、今や土砂降りに変わっていた。
『店で傘を借りてきてよかった』
 お客の忘れ物の、女物の・・・真っ赤な花柄の傘だ。女物なので、大柄なランの肩や背中は濡れてしまっていたが、大切そうに腕にかかえた一輪の白百合に被害はないようだ。
 角を曲がると、金木犀館が見える。
 11時を過ぎてはいるが、居間にはまだ灯かりがついていた。レンゲがドアを開けてくれるまで、ランは何回もチャイムを鳴らさなくてはいけなかった。雨の音でチャイムがかき消されていたのかもしれない。
「どうしたの。今日はバイトの日でしょ。ソーメンくらいしかないよ」
 開口一番のレンゲのセリフに、ランは苦笑した。自分で一番かっこいいと思う笑顔で花を差し出すつもりでいたのに。レンゲは、夕飯だけを目当てにランがここに来ていると本気で思っているらしい。
「誕生日おめでとー。ま、いくつになったとは、聞かないから」
 そう言ってランは、銀色のリボンのついた百合を、ぽいっとレンゲに放り投げた。レンゲは少し驚いて、花をナイスキャッチした後、花とランを交互に見ていた。一瞬ひるんだレンゲだったが、
「誕生日で、しかもハナキンなのに、なんで家にいると確信してたのよーっ」とむくれた。こんな言い方をしても、レンゲはけっこう喜んでいる。ランは最近それがわかるようになった。レンゲは、照れると怒ったフリをする。
「ソーメンでよかったら、食べる?」
「食べる、食べる」と、ランは濡れたズックを脱ぎ捨てた。

 居間に入ると、すでに十数本の白百合が、大きな花瓶に飾られていた。
『ちぇっ、先を越されたかー。貧乏学生には一本がやっとだしなあ』
「有理が来たの?」
 借りたタオルで髪を拭きながら、ランはソファに座った。
「ううん。なんで?」
 レンゲは、台所で、ランが持ってきた一本を一輪ざしに生けていた。
「有理からじゃないの?その花」
「違うわよ!そんなわけないでしょ!!」
 レンゲは赤くなって否定した。口調がムキになっている。あやしい。
「それに、有理が私の誕生日を覚えているわけないでしょ。ううん、もし覚えていて何かくれるとしても、花なんて持ってくると思うかあ?」
 それもそうだ。
 でも、有理じゃあないってことは。・・・新たなライバル出現か?しかもレンゲの好きな花まで知っている。
「じゃあ、誰にもらったのさ」
 レンゲは、ますます赤くなって、「そんなこと、どうでもいいじゃない!」と怒鳴る。怒ったふりをして、これ以上つっこまれないようにしている。目茶苦茶あやしい。
「おーす」
 その時、チャイムも鳴らさずに、有理が自分の鍵で勝手にドアを開けて入ってきた。有理はこの家のオーナーだし、彼の本のほとんどがここの書斎に置いてある。レンゲが会社に行っている間に調べものをすることもあるので、自分の鍵を持っているのだ。
「すげー雨になったな。腹が減ってるんだけど、食うものあるかー?
 おおっ!ソーメンじゃん。オレにもー!」
 子供が外遊びからでも帰ったように、有理は食事の催促をした。レンゲもまるで小学生の母のように、「はいはい」と返事して有理の分のツユや薬味の準備を始めた。
「あれ?なんだ、この大量の花は。レンゲ、どこから盗んできたんだ?」
 レンゲはむっとして何も答えず、どん、と二人分のソーメンを盛ったガラスの器をテーブルに置いた。
 ランはくすっと笑って「レンゲの誕生日だよ、今日」。
「へえ、そうか。いくつになったかは聞かないから、安心しろ」
「二十二よ」
「嘘つくな、二十五だろ」
「知ってるんなら、いちいち聞くなー!」 
「しっかし、悲しいな。二十五の女が誕生日にソーメン食って自分で花買って」
「うるさいっ。ソーメンが不服なら食うな」
 えっ?とランは身を乗り出す。
「あのたくさんの百合って、自分で買ったの?」
「悪かったわね!!」
 レンゲの背後に竜が立ち昇っていく姿が見えるようだ。そんなに怒らなくたってー。
 でも、ひそかにほっと胸をなでおろすランであった。
「まったく、あんたたちは、誕生日を迎えた私を、わざわざ不愉快にさせるために来たわけー!?」
 背後の竜は暗黒の空をのた打ち回り、稲妻の間を縫うように降りてきて二人に襲いかかった。レンゲは、さらにガン!ガン!とつゆの入った小鉢を置いた。まわりにつゆが飛び散った。
 そして、あろうことかスプーン山盛りのわさびをそれぞれの小鉢に放りこんだ。
「あーっ!」
「うわっ!!」
 レンゲは唇の端をちょっと上げて、言った。
「全部食べろよ」

「有理、原稿上がったんだ?」
 がんばってソーメンを食べ切ったランは、水をごくごく飲んだ後にそう尋ねた。涙目になっている。
 有理は辛いものは平気らしく(もしかして長年こういう経験を積み重ねてレンゲに慣らされていったのかもしれない)、平然と食いきった。
「おう。しかも締切前に!すごいだろ!出版社まで持っていっちまったぜ。
 でも、三年振りだから、もうすっかり編集部のある階や部屋を忘れてて、迷ってんの」
 買い置きの缶ビールを飲みながら、変な自慢をしている。
「あ、そうだ。レンゲ、おまえ明日見合いしないか?」
『まんじゅう食わないか?』くらいの気楽な調子で有理が言った。
 ランは含んでいた水を吹きそうになった。 
「え?見合い?」
 当のレンゲはぽかんとして聞き返した。
「レンゲに原稿を持っていってもらったことがあったろ?編集の若い奴で、レンゲを見て可愛いって言ってた奇特なのがいるらしいよ。さっき編集長からその話を聞いて、見合いをさせようって、盛り上がっちゃって」
「私をオモチャにして、面白いことしようと企んでたわけねー」
 レンゲはジロリと有理を睨んだ。でも、笑みを含んだ睨みだった。本人も『可愛い』と言われて悪い気はしていないってことだろう。
 有理の小説が掲載されている雑誌は、ジュニア向けの小説誌で、SFやらファンタジーやら学園物やら、子供が興味を持ちそうな中身がどっちゃりと詰めこまれている。編集長は有理より何歳か年上の女の人で、レンゲの話ではけっこう美人だそうだ。
「クレストホテルの『ドラゴンズ・ヘブン』っレストランでやろうってところまで話は決まってるんだけど。有名なレストランらしいけど、知ってるか?」
「ドラゴンズ・ヘブン!?」
 三白眼になっていたレンゲの瞳が、ぱっと輝いた。
「そこって、雑誌によく載っている店だよ。確かフレンチの懐石を出す店で、クリスマスイブやバレンタインのディナーは、半年も前から予約で一杯ってやつ。
 やったー!行ってみたかったんだ、そういう店」
「しかも、七月限定メニュー『タナバタ・トワイライト』だぞ」
「わーい、わーい、『タナバタ・トワイライト』だって!」
 ランが「なに、それ?」と尋ねると、「知らない。どんなのなの?」と今度は有理に聞いている。まったくもう。
「オレも知らん。編集長がそう言って盛り上がってたんだよ。春から予約してたのに、連れが都合が悪くなってキャンセルするところだったんだと」
『みんな何か間違ってる・・・ 』
 お見合いっていうのは、結婚を前提とした付合いをするためにするもんだ。
 唯一見合いの正しい認識を持ったランが、一人で複雑な表情をしていた。
『レンゲさんも今日で二十五だもんな。もう結婚しても、おかしくない歳だよな』
 実際、レンゲの姉のあやめは二十四歳で結婚式を挙げている。
 自分はまだ、経済力のまったくない大学一年生で、十九にさえなっていない。レンゲを養うどころか、夕飯を食わせてもらっている身分だ。イラストレーターになるなんて、雲を掴むような話だし 。

 暗くなるランをよそに、明日のプランは着々と進められていった。地下鉄のどこの駅で降りるとか、何時にここで待ち合わせするとか。レンゲは、その店の載った雑誌を捜し出して来て、きゃあきゃあはしゃいでいる。
 出窓のガラスには幾筋もの雨の線が走り、家の中にいても激しい雨音が聞こえていた。 雨はまだまだやみそうにない。


☆ 二 ☆

 ランは、カーテンの隙間から差し込む、強い日射しで目を覚ました。今日はいい天気らしい。フトンからのそのそ這い出して、カーテンを開けて、ついでにガタガタと窓も開ける。ゆがんだ木の窓枠は、昨夜の雨を含んでいて、さらに滑りが悪くなっていた。
 となりのアパート(こっちよりはかなり高級)の駐車場。アスファルトがきらきら反射して眩しかった。
 ランはフトンをあげると、洗面用具を持って廊下に出た。トイレ・洗面所は共同。洗濯機は、二軒先にコインランドリーがある。風呂屋は歩いて七、八分。レンゲの家へ行く方がまだ近いくらいだ。
 六畳の部屋は、製図机と椅子と本棚代わりのカラーボックスが占領し、体の大きなランでなくてもかなり窮屈な状態だ。実家の外国製のベッド(日本製のだと身長が合わない)、マホガニーの洋服ダンスも、とてもこの部屋には入らないので置いてきた。フトンで寝るのは就学旅行以来だったし、服は、ダンボールに入れて押入れの中、である。
 弁護士事務所を経営する法律家の父は、ランが絵をやることには反対だった。一応説得して上京してきたものの、仕送りの金額は学費と画材代位にしかならない。
 ランが歯を磨いていると、二階の一番奥の住人・・・ランの隣人が、廊下をぎしぎし言わせながらのっそりとやってきた。
「ハミガキコ、借りるぞ」
「どうぞ」
 未だに返してもらったことはないが。
「竹中さん、寝言が大声なのはまだ我慢できるけど、歌わないでくださいよー」
「あれ、わし、歌ってた?」
「はい。けっこう大きな声で、『ゲゲゲの鬼太郎』を。しかも二番まで」
「ううむ。怖い夢は見ていたような気がするが」
「壁が薄いから、耳元で歌われてるみたいで強烈っすよ」
 竹中は学生ではない。元はそうだったが、中退して劇団で芝居をしているらしい。三十近いという噂だ。ここのぬしのような存在で親切なのだが、
「ほんとは耳元で歌ってたんだよ。添い寝して。よく眠ってたな」
「ぎゃーっ!」
 ホモだという噂もある。
「はっはっは。冗談だってば」
 腹から声が出ているので、彼が笑うと廊下の窓ガラスがびしびし鳴る。
「梅雨、明けたみたいですね」
「ああ。ランは初めての夏だよな。ここは暑いぞー。覚悟しとけよ」
「はあ・・・」

 ランは、遅い朝食を食べるために、金木犀館に向かった。朝食と言っても、もう十二時を過ぎていた。
 大快晴、である。タンクトツプで剥き出しになった両腕が、じりじりと真夏の日射しにこがされるのがわかる。呼吸をすると、なまぬるい酸素が体に入り込んできて気持ちが悪かった。
 金木犀館の門を開けて、ドアの前でチャイムを鳴らす。ジャングルみたいな庭が暑っ苦しさを倍増させた。真夏の草の匂い。
 庭は全然手入れされていなくて、雑草はぼうぼう、木の葉は生え放題である。しかも、世間の庭のような、涼しげな朝顔とか、暑いのも一興と思わせるひまわりとか、色みのあるものは、一切無い。緑・みどり・ミドリ。それもレンゲらしいと言えばらしいが。
 ドアを開けたレンゲは、紺の半袖のスーツを着ていた。
「待ってたのよ★」とにっこり。
「えっ」どきっとするランの大きな手に、「これ、お願い」と、レンゲは小型カメラを押しつけた。なるほど・・・。
「せっかくオシャレしたんだから、一枚撮っておこうと思って」
 白いボタンとトリミングが清楚な、紺のスーツだった。麻素材だろうか。スクエアにあいた襟のラインが、華奢なレンゲの鎖骨を綺麗に見せていた。ちょっとウエストがシェイプされた上着と膝上のタイトミニ。レンゲにしては珍しく、八センチはありそうな白のピンヒールを履いている。
「色気のない服だなあ。PTAに行く母親みたいだよ」
「うるさい。急に暑くなっちゃったから、仕方ないでしょ。夏物はこれと白いワンピースしか出してなかったのよ。白は、食べこぼしが気になって落ち着いて食べれないし」
 食うことしか考えてないのかー?
「見合いは夕方からだろ?もう用意してるの?」
「食事は夕方だけど。あの雑誌に描いているイラストレーターさんの個展をやっているから、先にそっちへ挨拶しに行くんだって。だからそろそろ有理も迎えに来るよ」
『それって、見合いっていうより、仕事関係者への顔出しをした後に、みんなでメシを食うだけじゃん』
「いいから、早く撮ってよ。汗で化粧が崩れてきちゃうよ」
「庭で撮るの?」
 このジャングルでかよー。
『アマゾン支社の入社式の新入社員』
『サバンナ幼稚園の入園式に出る母親 』
 想像がエスカレートしてきて吹き出しそうになったが、無事にシャッターを押した。
「ランも撮ってあげるよ」
「えーっ、僕、こんなかっこだよ」
 タンクトップに膝丈迷彩パンツ、素足にスニーカー。前髪は女性用のカチューシャ(レンゲからのもらいもの)で止めている。
「いいじゃん、別に。どうせいつもそんな格好だもの」
「そうだけどさ」
 レンゲと場所を交換する。ファインダーを覗いたレンゲが、「首までしか写らない〜」と嘆いた。三十センチくらい身長が違うから、そりゃそうだろう。
 カメラを構えたまま、後ろにずり下がったレンゲだが、慣れないヒールが草にひっかかった。
「あぶない!」
「きゃあっ!」
 レンゲは、どすんと後ろにこけた。スーツで見事に尻もちついている。
「いたたた・・・」
「パンツ見えてるぞー」
「あんたには『大丈夫?』と助け起こす騎士道精神はないわけ?」
「なにやってるんだ、暑いのにうっとおしい」
 ギギィ・・・と門扉を開ける錆びた音をさせて、有理が入ってきた。
 そして、「暑い暑い暑い〜」とわめきながら、倒れているレンゲを、石が置いてあるかのように平然とまたいで通った。
「もう、どいつもこいつも!」
 レンゲは地面を叩いてくやしがっている。
 有理は夏物の淡いグレイのスーツを着ていた。一応ネクタイはしていたが、暑いせいかゆるめていて、シャツの襟元のボタンもはずしていた。
「そうしてると、普通のサラリーマンみたい。うちの会社にもいそうだわ」
 レンゲは立ち上がると、スーツの土を払った。あちこちチェックして、「よかった、ストッキングは破れてない」とほっとしていた。
「二人で撮る?カメラ貸してよ」
 ランはレンゲからカメラを受け取った。
 有理は「えーっ!面倒くさい」と渋っていたが、「いいじゃん」とレンゲに手をひっぱられてジャングルもどきの前に立った。
「いくよー」
「ピース★」とレンゲは照れてVサインのポースをとっていたが、「スーツでピースはやめろ」と有理に注意されて舌を出した。
『ほんとうは、有理と撮りたくてカメラを持って待ってたんだろうなあ』
 四角い枠の中に収まった二人は、結構お似合いという感じで、本当に夫婦がかしこまった場所に出席するところに見えた。(ランには。)
「見合いだ」「懐石フランス料理だ」とはしゃいでいるのも、本当のところは、お洒落して有理と出かけられるのがうれしいからなんだろうな。滅多にそんな機会は無いだろうし。
 カシャリ!
 シャッターの音が、ランのため息をかき消した。
「よし、おまえらも撮ってやる。そら、ラン。来い」
 今度はランと有理が交代した。
 カメラを構えた有理が「ランが入らない」と文句を言った。
「そりゃそうでしょう。僕と有理じゃ、十五センチ違うんだから」
 ランが勝ち誇ったように言う。どーせ、有理には身長ぐらいでしか勝てないんだ。
「・・・くそ!下がれ、ウドの大木!」
「普通はカメラが下がらないか?」
「面倒くさい。お前らが下がれ」
 面倒なら、撮ってやるなんて初めから言うなよー。しぶしぶ後退する二人。
「きゃあっ!」
 レンゲがまたヒールをひっかけた。
「あ!」
 後ろに倒れそうになるのをランがとっさに片腕で抱き止めた。
「サンキュ。ナイスキャッチじゃん」
 レンゲの息が顔にかかるほど近かった。
 ランは「見栄張ってヒールなんて履くからだよ」と不愛想に言い返したが、自分でも顔が赤くなったのがわかった。かあっと全身が熱くなった。
 はっと我に返って前を見ると 有理がカメラのストラップをぐるぐる回しながら、にやっと笑った。
『ちっくょう。見ーたーなー』
「あーっ!有理、今の撮ったでしょ!?」
「ばっちり」
「ひどい!もう一回撮ってよ、ちゃんとしたところ」
「もう、フィルムが無いみたいだよ、これ」
「えーっ!・・・まったくー、どうしてくれんのよ!」
 大騒ぎ(いや、騒いでいたのはレンゲだけである)のあと、二人は出かけて行った。ランはレンゲから鍵を預かって、クーラーのある部屋を確保することができた。
 キッチンで適当に食事をした後、居間でソファにねころがって、持ってきた美術史の資料を開いた。ここなら涼しくて集中できると思ったのだが。
『似合ってたよな、有理とレンゲさん。三十二歳と二十五歳かあ。歳周りも丁度いいし』
 夕食の後にはバーラウンジくらい行くだろう。帰りは遅いかも。
 居間のテーブルには、大きな花瓶に生けられた百合が飾られていた。一輪差しは見当たらない。これと一緒にされたのかもしれない。
『抱きかかえた時、レンゲさん、いい匂いがしたな。
 甘い香り。香水かな、化粧品かな』
 ちっとも本の内容が頭に入って来ない。
「あーあ。やーめた」と、ランは本を放り投げた。
「学校にでも行くかな。誰かしら課題しに来てるだろ」
 ランはテーブルに広げた資料を元通りバッグに詰め、金木犀館を出た。


☆ 三 ☆

「ランくーん、ジュース飲む?」
 よく通る綺麗な声に名前を呼ばれた気がして、ランはボールを止めた。振り向くと、バスケコートの隅から、楢崎女史が手を振っていた。
 コットンのミントグリーンの半袖ワンピースを涼しげに着こなし、柔らかそうな長い髪を後ろにゆるく結んでいる。彼女のいる場所だけいい風が吹いているように見えた。
 女史は片手に缶ジュースが何本も入ったコンビニの袋を持っていた。教室にいるみんなに頼まれて、ジュースの買いだしに行っていたのだろう。
 ランはひとり、大学の校庭でバスケットをしていた。校門をくぐったところで、ボールが転がっているのを見たら、やりたくなってしまったのだ。どうせ気晴らしに来ただけだから、教室へ行くのもここでバスケするのも同じだった。
 来た時、誰もいない校庭はじりじりと日光に焼けて、静まり返っていた。たぶん、半分ヤケクソな気分だった。
 三十分くらい、ひとりでシュート練習をしていただろうか。背中は汗でべっちょり。肩や腕も汗が流れていた。少し頭がくらくらしていた。
「僕の分もあるの?」
 ランは、女史のところまでドリブルしていった。
「みんなの好みがわからないから、少し多めに買って来たの。ポカリでいい?」
 差し出された缶を「サンキュー」と受け取ると、ごくごくとすごい勢いで飲み干した。 
「生き返ったーっ」
「うふふ。元気いいなあ。ランくん、バスケ上手ね」
「あ、ごめん、汗くさいでしょう。そばに寄ると、きれいな服に汗がかかっちゃうね」 
「ううん、平気よ、普段着だから」
「バカだろ?御法度なのにね、バスケやバレーって」
 美術や楽器をやる者は指をケガしそうなスポーツはしないのが常識だ。
「でも、たまに、わーって体を動かしたいこと、あるわよ」
 そう言って女史は柔らかく笑った。
 女史は、優雅である。とても大人である。同い年とは思えないほどだ。
 あれ?・・・まてよ。
「聞いていい?楢崎女史って、現役合格だった?それとも・・・」
 美大は、現役入学者は珍しい。三浪四浪は珍しくない世界だ。もっとも、彼女には何浪もして黙々とデッサンをやっていたすさんだ雰囲気は無いのだが。
「それって、『歳いくつ?』って聞いてるのかな?」
 女史は笑顔のままでちょっと睨む真似をした。ランは見透かされて、「えっ。あっ。その・・・」と頭をかいた。
「うふふ、いいのよ。違和感があって当たり前だわ。私、二十五歳の主婦だもん」
「えっ? えーっ!」
 ランはあまりのことにびっくりして、ボールを取り落とした。
『しゅ、しゅ、しゅふーーーっ!?』
「高校卒業してOLやって結婚したけど。今になってどうしても絵の勉強がしたくなって、進学ゼミへ行ったりデッサン教室に通ったりして受験したの」
「へえーーー。すごい!!かっこいいやぁ。それに、旦那さんも理解あるね」
「合格すると思わなかったみたい。今頃あわててるのかも」
「あははは。『奥様は美大生』かあ。マジでかっこいい」
「ありがと」と女史は苦笑したあと、
「でも、クラスのみんなには内緒にしていてね。主婦の片手間の趣味で描いてるみたいな目で見られたりすると嫌だもの。みんなと仲良くしていたいから」
「うん、わかった」
「ランくんは課題をしに来たんじゃないの?」
「教室へ行ってみんなの邪魔でもしようかと思ってたんだけど。でも、バスケで汗を流したら気がすんだから、もういいんだ」
「何かあったの?」
「女史ってお見合いってしたことある?」
「えー?
 無いけど。一度してもよかったかなとは思ってる」
「それって、出会いとか期待してないでしょ? 綺麗な洋服を着て、いいレストランで食事ができる、みたいなのでしょう。不純な動機だよなあ」
「あと、単にやってみたいって好奇心」
「これだからなー。
 好きな女の子が、今ごろ見合いをしてるはずなんだー。今言ったみたいな理由で。
 遊び気分なのはわかってるんだけど、僕としては面白くないワケ」
「彼女に『やめろ』って言えばよかったのに」
「始末の悪いことに、そんなこと言える立場じゃないんだ。僕は恋人でさえ、無い」
「片想いかあ。いいなあ。若いなあ。うらやましいわ」
 女史は遠い目をして微笑んだ。
「うらやましがらないでよー!全部手に入れてしまった人が」
 ランの言葉に、女史は不思議そうな顔をして振り返った。
「結婚してるから?でも、それは全部を手に入れたこととは全然違うわ」
 そしてくすっと笑うと、
「それに、もし本当に私が全部を手に入れているとしたら、それは全部終わっちゃったってことだわ。そんなのつまらないでしょ」と、続けた。ランがはっとして女史を見ると、彼女は面白そうにランを見て笑っていた。
「いろんな意味で、若いっていいなと思うわ。がんばってね。
 あ、いけない。ジュースがぬるくなっちゃう。怒られちゃうわね」
 女史は校舎へ向かって小走りで戻り始めた。
 ランの未来は、何も見えていない。やりたい仕事も求める女性も、どう考えてもまだまだ手が届きそうにない。でも、楢崎女史は、『だからこそ楽しいんじゃない?』と言ってくれた気がした。

 ランは金木犀館に戻ると、勝手にシャワーを借りて、勝手に有理の買い置きの缶ビールを飲んだ。夕方近くなって、窓ごしの日射しは金色に輝いて部屋を照らしていた。カーテンをひいてしまうのが惜しい色だったので、そのままにしておいた。疲れていたランはソファで金色に包まれたまま眠ってしまった。

 いきなりの眩しさ。
 ランは片目だけを細くあけた。
「よく眠ってたわねえ、この酔っぱらい!こんなにビール飲んじゃって!」
 紺のスーツを着たレンゲが仁王立ちになって怒鳴っている。蛍光灯の不健康な明るさが開いた目に滲みて、痛い。
 ぼーっとした頭の、焦点をちょっとずつ合わす。
 大学へ行って、バスケして、 帰ってシャワー浴びて、ビール飲んで。そうか、そのあと眠ってしまったらしい。
 窓の外はもう黒一色。あの綺麗だった金色の夕陽はどこかへ消え去っていた。
 ランはぶるっと肩を震わせた。夜になってだいぶ涼しくなっていた。
「はくしょーん!」
 タンクトップではさすがに寒いかも。
「おかえり。楽しかった?っていうのもヘンか」
「おいしかったよ。星形のヒレステーキとか、キャビア入りのゼリー寄せとか、平目のパイ包みとか。つけあわせの野菜が星やハートになってたり、ソースが天の川に見立ててあったり、盛りつけも可愛かったし」
「・・・。」
 ランは少し、相手が気の毒になった。少なくてもむこうは、レンゲを『可愛い』と言っていたのだ。ちゃんと『見合い』のつもりで来ていただろう。ここまで食べ物だけに執着するやつも珍しい。
「・・・ハラへったな。カップラーメン、もらってもいい?あとビールも」
「どうぞー。どうせ両方とも有理のだし。あ、私にはコーヒーね」
 レンゲはどさっとソファに座り込んだ。
「足、いたーい。ハイヒールなんて大嫌い」
「あのあとは、もう、転ばなかった?」
「・・・。」
 転んだらしい。
 ランは多めにお湯を沸かしながら、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出して開けた。
「有理は一緒じゃなかったの?」
「途中で、お定まりの『あとは若い人たちで』って。私と笹口さんの二人でお茶して来たから別行動だったの。あ、笹口さんって、お見合いの相手ね。有理は美人編集長と二人で消えたわヨ」
「そういう言い方は有理にも相手にも失礼だよ」
「ランが二人を見てないからよ。私たちといる時とは別人みたいに、有理ったら大人なんだもん。話し方とか、話題の選び方とか。 美人でキャリアウーマンの編集長と、『お似合い』って感じ」
 ランが、スーツ姿で出ていくレンゲたちを見て思った、おいてきぼりの感じ。あれをレンゲも感じたのかもしれない。
「有理だって、仕事関係の人に、僕たち相手にしてるみたいな、バカなところは見せないだろ」
「有理をかばうんだあ?へーえ。ふーん」 
「レンゲさんもスポーツでもして気晴らししてくれば?」
「なに、それ?」
「いーや、別に。はい、コーヒー」
 有理は、どんな後くされのない美人と二人で酒を飲む機会があったとしても、たとえ向こうが誘って来たとしても、『チャンスがあればのがさない』とか『据膳食わぬは』とか、そういうことを考えるタイプの男性ではない。同じ男として、ランにはそれが見えていた。女性と二人でいるのは、どちらかと言うと苦手に感じているはずだ。
 だいだいあんなに面倒臭がりな奴に、プレイボーイみたいな真似ができるわけがない。そういう男はもっとマメなものだ。
「それで、お相手はどんな感じでした?食べるのに夢中で覚えていません、なんて言うなよーっ」
 ランは立ったままカップラーメンをすすり始めた。一気に半分くらいすずっと口に入れている。一個じゃ足りなそうな勢いだ。
「感じのいい人だったよ。婚約者が私と感じの似た人なんだって、それで可愛いって言ってくれたみたい」
「え?・・・ごほっ、ごほっ」
 ランはラーメンを気管につまらせ、咳こんだ。
「婚約者の・・・ごほっ。いる奴と・・・ごほっ。見合いしたのかーっ?」
「大丈夫?
 本気でお見合いだと思ってたの、ランだけじゃない?有理達は、ずっと仕事の話してたよ。あの編集長が、今度ヤングアダルトの雑誌に移るから、有理に大人向けのものを書いてみないかって話」
 レンゲはクスクス笑いながら、ランの背中をさすってくれた。
 もしかして、ほんとに、関係者の個展を見て食事しただけなわけ?編集長がせっかく抑えていた予約を、キャンセルするのが惜しいから、って。
 耳まで赤くなったのは、咳のせいではない。
 ランは、ビールを流しこんで、ほっと一息ついた。
 なんだか、無性にハラがたってきた。今日一日、イライラ、ヤキモキしていた自分は何だったんだろう。
 おまけに、有理とレンゲは豪華ディナー『タナバタ・トワイライト』なのに、自分はカップラーメン。喉につまらすおまけ付きで。
 あー、頭きた!ちっくしょう、反撃してやる!
 ランはちょっぴり意地悪そうににやっと笑うと、「これで『男いない歴』の年数も更新だね」
 今度はむっ!とレンゲが表情を変えた。
「その色気のない、いい子ちゃんスーツ。幼稚園の送り迎えのママみたいな化粧。今時高校生でももっと妖艶なメイクしてるぜ。まあ、この分じゃ、まだまだ年数を延ばせそうだな」
「言ったわね!今日は有理の仕事の人達と会うから、清楚に決めて行っただけよ!」
「そうかなあ。レンゲさんがいつまでも子供っぽいのって、『ずっと有理の妹でいたい』っていう潜在意識が働いているからじゃないの?
 女として勝負に出ても受入れられる自信がないから、色気のないままでいようとしてるんだ」
 どん!
 レンゲはテーブルにコーヒーカップを置くと、すくっと立ち上がった。怒りで、握った拳が震えている。
『やばい、本気で怒らせちまったかな?ちょっと、本質を突く痛いところに触れたかも』
「よくも『色気がない』とか『子供っぽい』とか連発してくれたわね!ランや有理を相手に色っぽくしても意味がないから、手を抜いていただけよっ!
 高校生の方が妖艶だとお!? 私だって、ちゃんと化粧すれば、岩下志麻もひれ付すような美女になるんだぞ!・・・見てろよっ!」
「ど、どこ行くの?」
 空のカップラーメンを握ったランが、勢いに飲まれている。
「部屋で、メイクをし直して来る。
 出来上がりを見たら、土下座して謝れよっ」
 レンゲは、タタタッと、二階へと階段を駆け上がって行った。
 しばらくあっけにとられていたランだが、くすっと笑うと最後の缶ビールを開けた。
 ちょっとからかうと、すぐムキになって、本当に可愛い。
 あのどんぐりまなこにどんな化粧をほどこせば、岩下志麻以上になれると言うのだ?無茶を言う奴である。
 まあ、レンゲにも思い当たるフシがあって、少しドキリとしたのだろう。それを否定したくってムキになってるんだ。からかって、かわいそうだったかも。
 ランはソファに座って、ビールを流しこみながら、レンゲが降りて来るのを待った。
『どんな出来でも、とりあえず、<綺麗!><美人!>を連発してやるか』
 しかし、三十分たっても、一時間たっても、レンゲは降りて来なかった。
 いくら念入りに化粧したとしても、レンゲ程度の顔で、そんなに時間がかかるとは思えなかった。
 ちょっと痛いことを言ってしまったから、ベソかいているかもしれない。レンゲはすごく涙もろい女の子なのだ。
 そーっと階段を昇って、廊下の突き当たりのレンゲの部屋を覗く。ドアはあけたままになっていた。
 レンゲは、スーツのままカーペットに座り込んで、アルバムらしきものに熱心に見入っていた。
「・・・何してるの?」
「あ、ラン、見て見て!これ、おねえちゃんの成人式の写真。ほら、綺麗でしょ?
 こっちは就職した時、家の前で撮ったの。これは結婚する少し前の。
 見て〜。なんて美人なのー★」
 レンゲは胸に手をおいてうっとりして言った。
 ・・・もしもし?
「妖艶なメイクをするって言ったから、待ってたんだけど?」
「えっ?」
 きょとんとして、ランを見上げる。
「あ、そーか。ねえさんの写真を見て参考にしようと思って。つい夢中になって見ちゃったー」
 とペロッと舌を出す。
『まったく、もう 』とランはため息をついた。からかわれているのは、自分の方かも、とふと思う。
「私さあ、昨日で、ねえさんの歳に追いついちゃったんだよね」
 あやめの成人式の写真に視線を落としたまま、レンゲがぽつんと言った。ランははっとレンゲを見上げた。
「私って、全然オトナになってないなあ、って時々うんざりする。ねえさんはあんなに綺麗だったのに。ねえさんはあんなに優しかったのに」
『比べる方が図々しいよ』などと茶化してしまうこともできたけれど。レンゲは軽い感じで言ったものの、たぶん何年も十何年も、気にしていたことなんだろう。出来のいい姉の存在は、早く亡くなったからよけいに美化され、重くのしかかって。
「年下の僕が言うのも変だけど ・・・あやめさんは、レンゲさんの歳の時、自分を大人だなんて思ってなかったよ、きっと。レンゲさんみたいに、悩んだりムキになったり、動揺したりしたよ。そんなにレンゲさんと変わらないよ、たぶん。同じ人間なんだもん」
「・・・。」
「有理だって、自分を大人だとは思っていないでしょ」
「・・・あんなオトナがいてたまるかー」
「あははは」
 ランは土下座はしないで済みそうである。それに、部屋に入った時からランは気づいていた。ベッドの横、サイドテーブルに昨日の一輪差し・・・ランが贈った百合の花が、飾られていることに。大きな花瓶と一緒にされたわけではなかったらしい。
「遅いから、僕、もう帰るけど 、着るもの、何か貸してくれないかな?」
 タンクトップで帰るには少し涼しすぎるだろう。
「男物のTシャツとかよく着てるじゃん」
「だけどランが着たら伸びちゃいそう」
「僕、背は高いけど、痩せてる方なんですけど」
「汗くさくなりそう」
「洗って返せばいいんだろう!? いいよ、もう、このままで帰るから!」
「やーね、すぐムキになる。ガーキ!」
「むかっ。ブスにブスと言うのが禁句のように、年下に『ガキ』と言ってはいけないぞー!」
「うるさいなあ、はい、これでいいでしょ」と、レンゲ自身がタンスを開けて白いTシャツを放ってよこした。広げて見ると、ベティさんがフラフープしているど派手なイラスト。まあ、風邪ひくよりいいか。
 
「じゃあ、おやすみ」
と言った時には、レンゲはもうアルバムに見入っていた。床に座って下を向いているので、鎖骨よりもっと先まであらわになっている。 
『ちえっ、全然警戒してくれてないんだからなあ』
 横にはベッドだってあるし、抱き上げてそのまま直行、なーんてことだって出来るのに。

 ため息まじりに階段を降りて、はっと足が止まった。居間のソファに有理が座っているのだ。出かけた時と同じ背広姿のままで、イライラした感じでタバコをふかしていた。 
「おかえり。いつ来たの?」
「ほんの今。おまえ、オレのビール、全部飲みやがったな」
「あ。ごめん。だってレンゲさんがいいって言ったんだもん。
 悪かったよ。バイト代が出たら買って返すよ」
「レンゲは?」
「部屋にいるよ。呼んでこようか?」
「いや、いい。おまえだけの方がいい」
 有理はタバコをもみ消した。
「ここへメシを食いに来るなとは言わん。だが、レンゲと二人きりの時に、あいつの部屋に入るのはやめろよ。今日なんか、酒まで飲んでるだろ」
「酔ってなんかいないよ?」
 ランは両手を広げて、『潔白ですよー』というしぐさをしてみせた。
「酔ってなくても、だめ。レンゲは、嫁に行くまではお義母さんからの預かり物だ。おまえは、まだ未成年で、オレが東京での保護者だ。叔父さんに対しての責任もある」
「何かあったら、親父に報告するわけか」 
「当然だ」
 有理は真顔でそう言った。それは、今まで見たことのなかった有理の表情だった。
 ランはぞくっとして、自分の肩を抱いた。考えてみたことも無かった。有理が自分の父親と同じ、『大人』という、向こう側の人間だなんてこと。
「有理が心配してるような事なんて、なあーんにもないよ!
 それに、押し倒そうと思ったら、レンゲさんの部屋になんて入らなくても、このリビングでだって、公園でだってできるんだからっ!オトナってバカみたい。
 じゃ、おやすみ!」

 ランは逃げるようにして玄関を出た。
 外は、昼間の暑さがウソのように冷えきっていた。借りたTシャツをかぶると、タンスにポプリでも入れているのだろう、ほのかに甘い香りがした。
 ランは立ち止まって、悔しくて、唇をかんだ。
 路地の街灯が、のっぽのランの影を、さらに長く細く、道に描き出していた。

< END >

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