八月 ひまわり

--- 「第三章 香りの庭から」 ---




☆ 一 ☆

 レンゲは、有理の問いに全身の筋肉を硬直させた。『死後二十四時間経過』と鑑定されかねない固まり方だった。
 握ったスプーンが傾き、へりからポタポタとビシソワーズが流れ落ちた。
「こぼれてる、こぼれてる!」
 有理が紙ナプキンを投げてよこした。
 ガラスごしに見える街は、ジリジリと真夏の太陽に焼かれる巨大なピザのようだ。アスファルトの陽炎は、道行く人達の足元をゆらゆらとぼやけさせて見せていた。
 平日の昼下がりのレストランは、ほどよくクーラーが効いている。さっきまであっち側にいて、有理に「暑いー」とか「荷物が重いー」とか散々文句を言って歩きまわっていたのがウソみたい。
「そんなに固まらなくても。『ランとおまえって、どうなってるの?』って訊いただけだろう」
 レンゲは受け取った紙ナプキンで、クロスについたスープの汚れをゴシゴシこすりながら、『私の方が神サマに訊きたいようなことを、有理が訊かないでよっ!』と心の中で呟いていた。そして拭き掃除が終ると、ガラスの器から直接冷製スープをずずっと飲み干した。
 こんなの、スプーンでちびちび飲もうとするからこぼすんだと言わんばかりの表情である。ガラスの器に、ワイン色の口紅が微かに残った。
 今日で会社の夏休みは五日目で、午前中から『何をやろうか』考えるのに疲れて、うんざりしているところだった。すでに昨日から食っちゃ寝モードに入っていた。だから、有理から、ランの代わりに用を頼む電話がかかってきた時には、「しょうがないなあ」ともったいぶりながらも、「何を着ていこう」と思ってちょっとわくわくしたのだった。おまけに有理なんかと出かけるだけなのに、化粧までしてしまった。『退屈』とは、おそるべきものである。
 有理はチキンの香草焼きにナイフを突き立てながら、
「週に三日は金木犀館に来ていたランが、一ヵ月も寄りつかないなんてさ。おまえら、ケンカでもしたの?」と、まだこの話題を続けようとした。
「そんなことないわよ。だいたい、今までだって、夕飯を食べに来たのはバイトのない日だけだったからね。大学が夏休みに入ってからは、バイトの鬼してるから、うちに来る必要がないんでしょ」
 そう言ってレンゲは、シーフードピラフの山を崩した。どんどん崩した。
 一ヵ月も顔を出さないラン。いや、厳密に言うと、ランと最後に会ったのはレンゲのバースディの翌日だったから、もう一ヵ月プラス五日も会っていない。電話は時々かかって来るけれど、「元気でやってるよ」とか「バイト先が変わったんだ」という、まるで故郷の母親への電話みたいなやつだった。ちなみに保護者の有理にも同じ内容の電話はちゃんとかけているらしい。
 レンゲは、ピラフの山は崩すだけ崩したのだが口に入れる気にはなれず、砂遊びのようにスプーンでもて遊んだ。
「食わないなら、オレが貰うぞ」
「食べるわよっ!」
 有理の一声で、いきなり食欲が湧いた。有理に食べ物を取られてなるものか。
 炎天下、あんなに歩きまわらされて、重い本をこんなに持たされて。サンダルの紐は足に食い込んで痛むし、ピンクのカットソーの背中も、汗でたぶん色が変わっているに違いない。ホワイトジーンズも腿のあたりがベトベトして気持ち悪い。約束した御馳走を奪われたら、何のために汗だくになったかわかりゃしない。
 レンゲの隣の椅子や足元には、紙袋にぎっしり詰め込まれた書籍が置かれていた。仕事がら必要なのかもしれないが、古本屋めぐりなんて、有理らしい地味でじじくさい趣味だ。
 ランが上京する前は、編集さんの若いのをひっぱり回していたみたいだけど、最近これはずっとランの仕事だった。今朝、レンゲのところに電話してきたのも、ランをつかまえるためだ。ランのアパートには電話はないし、携帯電話は留守電モードになっていたそうだ。 
 ランと連絡が取れないのがわかると、有理は、気軽な調子でレンゲを誘った。いくら退屈だからといって、乗ったレンゲがバカだったのだ。まさかここまで荷物を持たされるとは。しかも、有理は自分では本一冊さえ持とうとしない。レンゲが、手が塞がっているので流れる汗が拭けなくても、本の重さで指を真っ赤にしていても、助けてくれるどころか「とっとと歩け」とケリを入れて来る。なんて奴だ。
 だから、奢ってくれる約束だったランチは、絶対一番高いものを頼んでやる、と心に決めていた。ホタテと伊勢エビのピラフを、セットで。ふん、ざまーみろ。ほーら、おいしそうでしょう? 一口だってやるもんかー。
「ランが最後に来たの、先月の・・・。オレたちが編集と食事に行った日だよな。あれ以来寄りつかないわけか。
 うーん、ちっとキツい言い方しすぎたか」
「え?なに?」
「いや、ひとりごと。しっかし、あいかわらずいい食べっぷりだな」
 先に食事の済んだ有理が、コーヒーに口をつけながらニヤニヤ笑っていた。笑うとエクボのようなシワのできるこの口許、それから目尻。
 やめてよー。そんなそっくりな笑い方をしたら、ランに会いたくなっちゃうじゃないのよ!
 不思議だ。ランが上京する前は一年に一、二回しか会っていなかったのに。今ではたった一ヵ月会わなかっただけで、こんな風に寂しくなるなんて。
「ほら、早く食っちまえよ。後半戦に突入するんだから」
「えっ、まだ回るの」
「目当ての本屋はまだ半分の軒数しかクリアしていないよ。おまえがのろのろ歩いてるからいけないんだぞ」
「ひどい、これがどれだけ重いか、自分で持ってみなよ! か弱い女性にこんなに本を持たせてさっ」
「か弱い女性が、そんなに食うのか」
 有理はレンゲの前にずらりと並んだ空の食器を一瞥して言った。
「まあ、いいさ。それはオレが持って帰るから。でも、本を持つ約束で食事を奢るって言ったんだから、そうなるとこの店はワリカンだな」
「喜んで運ばさせていただきます」

 後半戦も何とかクリアして、レンゲ達は帰途についた。夕方と呼ばれる時間になっても一向に陽は落ちず、地面からむんむんした熱気が昇ってきた。
 有理のアパートの門の脇には、雑草が密集しているのか花壇だかわからないスペースがあり、そこに一本だけひまわりが咲いていた。
 小柄なレンゲより、背が高い。この暑さでもダレもせずに、きちんと背筋を伸ばして立っている。
 この気温の中、元気そうなのはひまわりだけって感じだ。
 アパートの階段は急なので、暑さも手伝ってちょっと目眩がした。早く冷えたビールが飲みたかった。
「あれ?」
 有理は、玄関の郵便受けから取り出した封書を見てはっとした表情になった。なんだったのだろろう? 表には切手も貼ってなくて、『藍澤有理様』としか書いてなかったような。

 レンゲはサンダルを脱ぎ散らかして、部屋の奥へ入って本の山を床に降ろした。どすんという音がして、ホコリが宙に舞った。
「つーかーれたー。指がソーセージみたいに腫れてるよぉ」
「ご苦労さまでした。冷蔵庫のビール、好きなだけ飲んでいいぜ」
 有理はクーラーをつけると、あぐらをかいて本の包みをほどきにかかった。レンゲはと言えば、冷蔵庫にまっしぐら。
 でも、あけてがっかりした。
「なーんだ。『好きなだけ飲んでいい』って、最後の一本じゃんか」
 有理がそんなに気前のいいこと言うはずないもんな、と納得しながらレンゲはプルトップを開けてぐいっとビールを流し込んだ。
 うー、しみるー★
「最後の一本?」
 有理が振り返った。
「待て、それならオレに飲ませろ!」
「えっ?」
 有理は目にも止まらぬ早さでキッチンに駆け込んで来ると、オズマの見えないスイングでレンゲから缶をひったくった。
「・・・?」
 レンゲが気づいた時には、もう有理はビールを飲んでいた。
「あーっ! 返せーっ!」
「これは、うちのもの。『返せ』はないだろ」
『家に帰ればビール飲み放題』なんて、オイシイ言葉で歩かせたくせにーっ!コノヤロー!
 レンゲは一発ボディにストレートをくらわせた。
「ぐほっ」
 有理が前かがみになった隙に、さっと手から缶を奪う。
「こら、おまえ。ドロボー!」
 どなった有理の口許を見て、レンゲの動きは止まった。
 口紅がついてる。有理の唇に。まるでキスした時みたいに。それも、レンゲがしている口紅とそっくりな色に見えるんですけど?
 ・・・なんで?
 手元の缶ビールの飲み口を見て納得。最初にレンゲが飲んだから、飲み口に口紅が付いて、それを飲んだ有理にもついたのだ。
 そして、奪い返したビールをレンゲが飲むってことは・・・有理と間接キス 。
 げーっ、それはいやだーっ!
「スキありっ!」
 有理は再び缶を取り、ごくごくと音をさせて残りを飲み干した。キャメル色のポロシャツの襟に覆われた、筋ばった首の、ここが喉だとわかるようだ。ああ、今、ビールが通っていくーっ。悔しいっ。
 それにも増して、レンゲが頭に来たのは、妙齢の女性が一度口をつけたビールを、何のためらいもなく飲みやがったってことだ。
 少しは、『レンゲに失礼だ』とか、『これは間接キスになるぞ』というためらいとか、そういうのがあってしかるべきなんじゃないか?
「そんな顔するなよ。あとで買いに出よう。今度はオレが一ダースでも一箱でも持ってやるからさあ」
 レンゲは時々思う。なんであやめねえさんは、こんなとーへんぼくなんかと結婚したのだろう。そして頻繁にこうも思う。若気の至りとはいえ、なんで自分は高校生の頃、こんな男を好きだったんだろうーっ!

 自分の部屋に残す数冊を選ぶと、有理は残りの二十冊ほどのハードカバーを再び紙袋に詰めた。
「これは、金木犀館の書斎に置いておく分」と言って、レンゲに差し出した。
「まだ私に持てっていうのー? それに、ほとんどうちに置くんじゃん。先にうちに来て書斎に入れてから、残りを持って帰ればよかったのにー!」
「そう言えばそうだな」
 有理の口調は、『別にオレには関係ないからな。持つのはレンゲだし』と思っているのが明らかだった。
 不服そうに頬を膨らませたレンゲは、ふと机の上のノートパソコンに目をやった。白くホコリを被っている。黒だからホコリの目立つこと! ここ数日フタも開けていないようだ。仕事、してないなー。古本屋めぐりをしたり、今は余裕があるのかな、とレンゲは思った。
「次のしめ切りは、いつなの?」
「昨日」
「えっ?」
「昨日でした」
「もちろん、原稿は」
「一行も書いてない」
 偉そうに言うな、偉そうに。
 電話機は、留守電メッセージが『五件』と表示されてした。たぶん全部、担当の猫柳さんだろう。
「もしかすると、昼間、訪ねて来たんじゃない?」
「だから神保町へ出かけたんだよ」
 有理はこういう奴だ。
「さっき郵便受けにあったのって、猫柳さんからの?」
 有理の眉がぴくりと動いた。
「違うよ。大家からの連絡事項」
「ふーん」
 レンゲはそれ以上突っ込まなかった。触れられたくないのを、有理の態度でなんとなく感じたからだ。でも、『家賃でも上がるのかな』くらいのことしか考えなかったが。
「さーて、本を置きにおまえんとこ行くか。これからまた猫柳が来るかもしれないことだし」
 もしかして、今日買ってきた本の中からネタになりそうなものを探す気なのだろうか。
 有理が原稿を落としたのは、あやめが亡くなった時一回きりだけれど、さすがに今回は大丈夫なのかとレンゲも心配になった。有理は人気作家ってわけじゃないし、穴をあけるようなことになったら大変だろうに。
 有理の友達のSF作家で、十六回の連載のうち四回落とした人がいるそうだけど。その人は前後編で書いても、後編に<続く>と書いてあるそうだ。彼は人気作家なので、一年に一作も書かなくても印税で裕福らしい。でも、有理の場合は、そんなわけにいかないだろう。
「駅前の酒屋でビール買って行こうな」
 有理はレンゲの心配などどこ吹く風という感じで、ビールのことしか頭にないようだった。レンゲは、してもどうしようもない心配をするのは無駄だわ、と思いながら本の入った紙袋を抱えて立ち上がった。
 階段を降りながら、有理は庭に目をやって「孤高の花だな」と、ぽつんと言った。
 えっ? ひまわりのこと?
「太陽に向かって、高く高く、上へ上へ延びていかなきゃならない宿命なんて、ご苦労なことだよな」
 有理は自嘲的に鼻で笑った。

「いっぽーん。にーほーん」
 ガチャン。ガラガラ。
 元気な音をさせて、自販機のビールが取り出し口に落ちて来る。
 地元駅の前にある酒屋は、お盆休みだった。
 面倒だけど、自販機で六本ほど買おうということになった。スポンサーは有理。ビールを運ぶのは結局レンゲ、ということになりそうだ。
 レンゲはしゃがんで一本ずつ取り出し、有理も中腰になって受け取って袋に放りこんでいた。
「僕にも一本めぐんでくれよ」
 高いところから、懐かしい声がした。
「おう、ラン。生きてたか」
 有理のセリフに、
「死にそうだけどね。夏風邪らしい。バイトを早退してきたんだ」と、ランが答えていた。
 レンゲが振り返ると、先月レンゲが貸したベティさんのTシャツをちゃっかり着たランが疲れた表情で立っていた。少し、痩せた。
「大丈夫なの? 薬はあるの?」
『偶然』って、少しドキドキする。脈が早くなるのを感じながら、レンゲはそれを隠すようにおねえさんぶって訊ねた。
「一応店でもらって飲んで来た」
 具合が悪いせいだろうか、いつもの人なつっこいランと感じが違う。そっけなくて、なんだかよそよそしい。
「アイスノンとか冷えピタとか持ってる?」 
 ランは無言だった。あるわけないか。部屋には冷蔵庫さえないんだから。
「うち、来れば? ランのところは、クーラーもないし、つらいでしょ?」
 ランはちらっと有理を見た。表情を窺っているような感じ。
 有理も、「来れば? ただし、病人にビールはやらんぞ」と、笑った。
「おまえに頼みたいこともあるしな。ま、熱が下がってからでいいが」
「なに?また、恐ろしい頼みごとなんだろ」
「いや。うちの家政夫のバイトしないかと思って。原稿が上がるまで・・・一週間くらいかな。泊まり込みでも通いでもいいが、買出しとメシの支度と洗濯を頼みたいんだ」
「別にいいけど。クーラーの部屋で寝れるから、泊まりがいいな」
 ・・・と、その時急に、ランの表情が険しくなったのがレンゲにもわかった。
「・・・有理。口紅がついてる」
「えっ? どこに?」
 きょとんとする有理とは反対に、ぎくっとしたのはレンゲの方だ。レンゲがしているのと、同じワインカラー。当たり前だ、レンゲのがついたんだから。
 これは、誤解されても仕方ない状況かもしれない。それに、何をどう言い訳すればいいのかわかない。だいたい、言い訳しようなんてこと自体、まるでランを好きみたいじゃないか。それに、言い訳して、ランに『あ、僕に誤解されたくないんだ』なんて思われるのもシャクだし。おまけに、言い訳の内容も問題があった。一本の缶ビールを二人で飲みっこしたことになるのだ。そんなことを、ランに知らせるのには抵抗があった。
「レンゲさんとキスでもしたの」
「ばーか」
 レンゲの心の葛藤の最中に、有理はランの攻撃を『ばーか』の一言で片づけてしまった。
「唇? そうか、さっきのビールか」
 有理は手の甲でレンゲのルージュをぬぐい取った。何の動揺もない。悔しいくらい、平然としている。
「おまえ、口紅なんてしてたの?」
 これにはレンゲも爆発した。
「してちゃ悪いかーっ!
 口紅もファンデーションも、マスカラもアイラインもしてるわよっ。化粧映えしない顔で悪かったわねーっ!」

 客間に布団を敷いてあげて、クーラーを緩めに入れた。喉が乾くだろうから、枕元にエビアンの瓶を置く。
「さんきゅ、何から何まで」
 ランは、布団の上にあぐらをかいて座っていた。
「一人暮らしだと、病気の時って困るよね。
 はい、冷えピタ。それから、小さいだろうけど、無いよりマシだと思って。有理のパジャマ。洗ってあるわよ」
「なんでレンゲさんちに、ユリのパジャマがあるのさ」
「だって、結婚する前はよく泊まってたから。
 母が、この部屋に布団敷いてあげて」
「つまり十年以上前のパジャマで、ってことは洗ったのは十年以上前なわけだな」
 ランは、きちんとたたまれた青のギンガムチェック柄のパジャマをまじまじと見た。
「服が腐ることはないから、大丈夫よ」
「・・・。」
 ランは一瞬沈黙して、クスリと笑った。
「そりゃ、そうだ」
「じゃあ、ゆっくりお休みなさい。居間にいるから、何かあったら声かけてね」
 病気だと思うと、なんとなく口調も優しくなった。本当は、全然顔を出さないから、少し腹をたてていたのだけれど。

 居間に戻ると、有理はもうビールを一本開けていた。買ってきた本を膝で広げて読んでいる。
「オレ、今日ここに泊まるからな」
「またー。そうやって逃げてばかりいてもしょうがないでしょ。猫柳さんには連絡入れた方がいいよ」
「ばか。担当から逃げるためじゃないよ。
 今夜、ランを泊めるつもりなんだろ? 二人きりにするわけにはいかないじゃないか」
「えっ?」
「自覚があるのか? ランは男で、おまえは女なんだぞ」
「・・・あ、そうか」
 ちょっと意外だった。有理がそういう俗っぽい心配をするなんて。
「誤解しないでほしいけど、反対してるわけじゃないんだ。雑な付き合い方をしてほしくないだけなんだ」
「・・・うん。ありがとう」
「それになあ。ガキんちょのおまえにはわからんだろうが、男には情けないほど気が弱くなって、人肌が恋しくなる時があるんだ。一人で病気の時なんかね」
 コホン! と、キッチンから咳ばらいが聞こえた。でかい図体のランが、食器棚の陰に隠れるように立っていた。今の、聞こえていたのかもしれない。
「レンゲさん、このパジャマなんだけど・・・」
「有理のじゃ、小さくて着れなかった?」
「いや、そうじゃなくて 」
 ランは、パジャマのトップを広げて見せた。
「どう見ても子供用なんだけど? これ、レンゲさんかあやめさんが子供の頃に着てたやつじゃないの?」
「えっ?」
 有理はもうゲラゲラ笑っていた。
「それ、懐かしいー。そうそう、その柄。おまえ、小学生だった時、着てたじゃんかー」
 レンゲは赤面して、ランの手からパジャマをむしりとると、
「ごめーん。一緒にしまってあったから、間違えちゃった。今、本物を取って来るね」と、二階へ駆け上がった。
 下からは、有理の、「あんなに小さかったんだよなあ」という、しみじみした声が聞こえた。オヤジくさいこと言ってる。
「広げてみて、『有理ってこんなに小さい人だったんだ』って、一瞬びっくりしたよ」
「バカ言ってるんじゃない」
「態度がでかいから、小さいのに気づかなかったのかな、とか思っちゃった」
 ランは笑いながら言った。
「ふん」
 ランの声が軽い気がして、レンゲはほっとした。酒屋の前で会った時は、具合が悪かったせいか、表情も険しくてなんだか態度が堅いような感じだったけど。バイト先で薬を飲んだと言っていたけど、それが効いてきたのかな。
 レンゲは、あやめの部屋の押入れの衣装箱を漁った。姉はポプリ代わりに化粧石鹸を入れていたので、服をめくるたびに微かに石鹸のいい匂いがした。
 レンゲは「あ、これだ!」と手を止めた。有理がレンゲのパジャマの柄を覚えていたように、レンゲもこの模様が鮮烈に記憶の中にあった。
 深い紺の地に、金色の線で幾何学模様のような絵が描いてある。子供の頃は何だかわからなかったが、今見るとそれは記号化されたひまわりの絵だった。
 日曜日の朝、このパジャマを着てボサボサの髪でトイレに起きてきた姿や、洗面所で歯を磨いていた姿を覚えている。
 アパートの庭に咲くこの花を、『孤高の花』と評した有理。
 わかってる、あんな男は二人といない。
 レンゲの中で、幼かった恋がまだくすぶっていた。陽に当たり切れず、中途半端に育った想いが、花にも実にもなれず、種になって土に帰ることもできず、何かの大きな葉っぱの陰に隠れてしなびて腐りかけて、でもまだ終わっていない。
 下の居間からは、有理とランの笑い声が聞こえていた。レンゲは立ち上がったが、一瞬立ち止まって、かつて有理が着て、これからランが袖を通すであろう、ひまわり柄のパジャマを抱きしめた。パジャマは石鹸の匂いがした。


☆ 二 ☆

 ランは、風邪というより疲労だったのかもしれない。金木犀館で一晩ぐっすり寝たら、熱も下がり元気になっていた。次の朝には、アパートに戻って行った。有理のところに泊まり込みするならば、取りに行く荷物もあることだろう。
 
 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 レンゲは、次の日、有理のアパートを覗きに行った。駐車場にクルマが無かったので、二人で夕食にでも出かけたかと思ったが、電気はついている。チャイムを鳴らすと、おタマを握ったランがドアを開けた。開けた途端にカレーの匂いがした。
「へえ、約束通り家政夫やってるんだね」
「まあね。レンゲさんも食ってく? 有理は本屋へ出かけたけど、すぐ戻るよ」
 床に散らばった本のせいで、ソファに辿り着くまで爪先立ちしなければならなかった。メモやしおりが挟まったもの、開いたままうつ伏せにされたもの、何冊も積み重ねられて崩れそうなもの。
 机の上、ノートパソコンのスクリーンセイバーが虹のような模様をつくり出していた。
「有理、書き始めたんだ?」
「そうみたいだよ。朝起きたら部屋がこんなになってた」
 台所でカレーの鍋をかき混ぜながらランが答えた。ランは髪を後ろできっちり結び、黒のタンクトップを着て首にタオルをかけていた。クーラーは効いているが、レンジの前は暑いのだろう、時々タオルで顔の汗を拭いている。オヤジ臭い動作も、見目のいいコがやると何でもキマるものだ。
「お手伝いに来たけど、必要なかったね。ちゃんと料理作れるんだ」
「調理実習で作った事があるのは、三パターン。カレーと、今朝作った目玉焼きとほうれん草炒め。明日の夕飯は焼きウドンだな」
「それをローテーションするわけ? やだな、それ」
「有理はコンビニ弁当でもいいって言ったけど、僕が台所に立ちたかったのさ。あやめさんが使ってた台所で料理してみたかったんだ」
 ランは振り向かずに静かな声で話を続けた。
「でも、やっぱりこの部屋の空間は、有理とあやめさんの二人のものだよね」
『ふうん。ランって、けっこうデリケートなところがあるんだ』
 絵を描く人っていうのは、自分のような凡人に比べると、ずっと感受性も豊かだろう。いろいろ複雑なことを感じたりするんだなとレンゲが感心していると。
「この部屋だと、ベッドとか目の当たりにすると『あーあ、あやめさん、有理にここでヤられちまったのかあ』なんて思っちゃうじゃん?」
 思わず本を取り落とす。すると、本の山がどさどさと崩れて行った。
「うっきゃー!」
 雪崩だー! 二十冊くらいが、ランの足元の方にまで崩れていった。
 ランは振り向いた。「何やってんのさ」
 ガスを消して鍋にフタをすると、長い体をかがめて本を拾い集めてくれた。
「反省しよう。コドモ相手には過激すぎる発言だったか」
「誰がコドモよ、誰が! ヤらしいわねっ。私はそういうの考えないようにして接してたの! 大人はそういうの、知らない振りするのよっ。すぐそういうこと考える方がガキじゃない。18くらいの男の子ってさ、Hなことばかり考えてるんでしょ!」
 レンゲがムキになってまくしたてている間、ランはクスクス笑いながら本を整えていた。まったくもう、年下のくせに人を子供扱いして!
「有理、気の毒。レンゲさんにとって、有理って生身のオトコじゃないんだねえ」
 え?
「好きなのに、具体的な妄想も持たなかったろ? もし抱かれたら有理の肩はこんなかもとか、そういうこと思ってもみなかっただろ」
『えっ?』
 過激な言葉の前に、何か気になることを言われたような気がしたけれど、強いスパイスの刺激にかき消されてしまった。
 ランは崩れた本をテーブルに戻し、レンゲの隣にどかっと腰掛けた。ソファがランの重みで沈んだ。ランは玄関のドアの方を一方的に見つめたまま続けた。
「僕は思ってたよ、あやめさんのほっそり伸びた腕や、綺麗な鎖骨のこと。あの鎖骨にふさわしい厚い胸の男になりたかった。華奢な腕を支えられる太い腕の男に、早く早くなりたかった。白い頬や白い肌に触れたかった。
 そういう気持ちを、レンゲさんは『Hなことばかり』って非難するわけ?」
 笑みの消えた瞳でこっちを振り向いた。丸みのない直線的な目は、笑っていないと鋭くてちょっと怖い。目の中にレンゲが映っている。困ったような怯えたような表情をして。
「なんで目を閉じないんだよ」
「えっ?」
「せっかくキスしようと思ったのに」
「ばかっ」
 レンゲは手近にあった本でぶっ叩いた。
 ・・・『ちょっと見直した私がバカでした!』
「痛いなあ。レンゲさんって、昔から殴るクセあったよなあ。いたいけな子供の頃、思いっきり殴られた記憶があるんだけど?」
「そんな昔のこと、忘れたわ。それに、どうせ失礼なこと言ったからでしょ」
「サルとか?」
「また言ったーっ!」
 レンゲが本を振りかざしてもう一発殴ろうとした時。
 コホン。
 小さな咳払いが聞こえ、正面を見ると玄関に有理が立っていた。
『げげっ、いつ帰ったんだろう、全然気づかなかった!』
 ラン曰く『れんげにとって生身ではない』その男は、二人を無視してスタスタとパソコンの前に座ると、本屋の袋をバリバリと破って開けた。怒っているのか書くことで頭がいっぱいなのか、レンゲにはわからなかった。
「カレー出来てるよ」ランが声をかける。
「ん。キリのいいとこで食べる」
 カタカタとキーの音が響きだした。レンゲもランも一言も発せなかった。仕事の邪魔になるし、何より雑談なんてできる雰囲気じゃない。
「じゃあ帰るね」
 レンゲは立ち上がった。
「カレー、食べていかないの?」とラン。頷くレンゲ。
「じゃあ、そこまで送っていくよ」
 ランは首のタオルをはずすと、素足にスニーカーをつっかけた。

 駅までの道を並んで歩いた。ランの影は大きくて、レンゲの影はランの影の肩くらいまでしかない。レンゲはさっきのランの言葉を思い出した。
『もし抱かれたら、肩はこんなかも』
 タンクトップからむき出しになった肩は角ばり、二の腕の筋肉は流線型をしていた。レンゲは有理の肩の形や腕の筋肉を思い出そうとしたけれど、ダメだった。たぶん初めから見ていなかったんだ。
 その時、さっきの引っかかったセリフを思い出した。
・・・『好きなのに』。そう、『有理を好きなのに』と言った。春にも、それに似たことを言われたっけ。ランは、レンゲが有理を好きだったことを知っていた。
「なんで気づいたの、有理を好きだったこと」
 ランは歩を止めずに器用に肩だけすくめてみせた。
「『だった』ねえ。ま、いいか。
 普通気づくってば。誰が見てもわかる。賭けてもいいけど有理だって気づいてる」
「そんな!」
「有理は、一応恋愛小説書いてメシ食ってるんだぞ。レンゲさんが思っているほど鈍感じゃないよ。たぶんその反対。でも、鋭すぎるのがバレると人に警戒されるから、ぼうっとした振りしてんじゃないの」
 有理が鋭い。そんな風に考えたことなかった。でも、言われてみれば確かにはっとさせるようなことを言うことがあった。かなり、しばしば、あった。そして、そのあとに、茶化したりおどけたりしてみせることが多い。
 私の恋に気づいている?
 あの、色恋の片鱗をみせない、真っ白い態度。レンゲの前では、女の匂いをまったくさせないこと。猥談のひとつさえ、してるのを見たことがない。レンゲといる時、大人の男として、不自然なことが多すぎる。自分の『男』の部分を意識して排除して接している。・・・気づいてる。気づいていたんだ。
 レンゲの歩みは自然と遅くなった。
『知ってて知らんふりして、見て見ないふりして・・・』
 悔しい。悔しいけれど、腹はたたなかった。有理のしていることが、精神的に大変なことなのがわかったから。
 レンゲの気持ちを知っていて、それでいてひるむこともなく、バカやってこづいて猿とか言ってコキ使って振り回して・・・。
 そうして何のためらいもなく、妹として愛し続けていてくれていたんだ・・・。

 駅前通りは人が多くて、ぼうっと歩くレンゲは何度も肩をぶつけられた。夏の夕方は、まだ群青にも紅にもほど遠く、あっけらかんと色気のない明るい空の色をしていた。
「バクダン、でかすぎたかな」
「えっ?・・・別に。気づいてたわよ、私だって、それくらい。私だって大人だもん。有理とずっといるもん。気づかないわけないじゃない」
 ランはあからさまら『ウソつけ〜』という表情になったけれど、反論はしなかった。
 ランは駅まで送ってくれて、「じゃあまたね」って戻って行った。


☆ 三 ☆

 ランから、仕事中に携帯に着信があったのは、四日後のことだった。
『原稿は無事入稿したんだけど。僕の風邪をうつしちゃったのかもしれない』
 有理が風邪で倒れたというのだ。
 レンゲは、女子トイレのパウダールームで携帯のアンテナを一番長く伸ばし、口許は手で抑えて、『小声で』叫んだ。
「あのバカが風邪ですって〜?」
 横で化粧を直していた、よその部署の女性がちらりとレンゲを見たが、何事もなかったようにまた鏡へと視線を戻す。
『僕は今夜からバイトに戻るって言ってあるし。悪いんだけど、バイトに行っている時間だけ、有理を見ていてくれないかな。仕事が終った後で、疲れていると思うし、申し訳ないのだけど』
 ランの、こういうものの言い方が好きだと思う。
「いいわよ、別に。どうせ暇だし」
 レンゲは、自分のこういう言い方が、嫌いだ。もったいぶっちゃって。有理のこと、心配なくせに。ランに、ものを頼まれて嬉しいくせに。
「何か食べ物を作ってあげた方がいいのかな。材料を買って行くけど」
『昼にお粥食わせたんだけど、吐いちまって。何も食べられないみたいなんだ。熱も38度5分ある。医者に来てもらって薬も飲ませたから、そう何日も寝込むことはないと思うけど。
 ポカリみたいなもんだけ買って来てくれるかな。有理んとこって、酒とコーヒーしか無いんだもん』

 飲み物だけでいいと言うのに、果物とかアイスクリームとかホカ弁とか、色々買ってしまうレンゲであった。ちなみにホカ弁は自分の夕飯。
 鍵は、ランとの打ち合わせ通り、郵便受けの封筒の中に入れてあった。ランはもう仕事に行っている。
 有理は、おとなしくベッドに寝ていた。濡れタオルを 律儀に頭にのせて、気をつけの姿勢で横たわっている。まわりに灰皿や本が散らばっていないということは、まじめに寝ているってことだ。まあ、よほど具合が悪いということだろう。
「有理・・・」
 声をかけたが、返事がなかった。眠っているらしい。
「さて、と」
 レンゲは、からあげ弁当を開けて、食べ始めた。ガーリックが効いたジューシィな肉をほおばる。
「・・・あのなあ」
 有理が口を開いた。
「なんだ、起きてたの」
 片目もあけて、レンゲをにらんだ。
「何も食べられない病人を前にして、おまえってヤツは」
「お腹は空いてるの? バニラアイス、買って来たけど。カットスイカもあるよ。食べる?」
「いや。また吐くと嫌だから」
 でも、人が食べてると腹がたつわけね。有理らしい。
「眠りたいから、何か音かけてくれない? 今入ってるのでいい」
「あいよ」
『よく、ものごとを気にして、縁起をかつぐかたがございます。だれでも、ものごとはめでたいのがいいに決まっておりますが・・・』
「・・・。有理。音楽じゃなくて、志ん朝が入ってるんだけど・・・」
「いいよ、それで」
 そういえば、有理が部屋で音楽を聞いているのを見たことがない。
 有理の寝息が聞こえ始めた。

『四文はいけないね。わたしは四の字は嫌いなんだ。では、10枚ではいくらだ。四十文で。では100枚では?四百文で・・・』
「ぷぷふ・・・」
 しまった、看病に来ているのに、つい志ん朝を聞いて吹き出してしまった。タオルでも代えてやるか。
 有理は、目は細いけれど、鼻は高くて鼻筋は通っている。唇は薄く、顎の線が細い。だから、寝ている顔に限れば、ハンサムな方だ。
『喋らないで、黙って寝てりゃ、イイ男なんだけどねえ』
 タオルを濡らし直そうと手を伸ばした時、有理が先にタオルを手に取り、ぱちりと目を覚ました。
「あやめ?」
 そして、レンゲと目があった。「・・・。」憮然としている。
「ねえさんの夢、見たの?」
 レンゲの方が、胸がつぶれそうになった。有理はまだ不機嫌そうな表情で、あきらめたような軽いため息をついた。
『上野の花が満開だってえから、近くていいから、どうだ? 上野ですか。すると長屋の連中がぞろぞろと出かけて・・・』
 CDは、『かつぎや』が終って『長屋の花見』が始まっていた。
 タオルを受け取り、流しで濡らしてきゅっと絞る。指に力が入らなかった。
「・・・夢、か。かもな」
「目がさめたら、姉さんじゃなくて、私がいて、ごめんよっ」
 レンゲは、ペチョっと有理の顔にタオルを落とした。
「つめてっ。それが病人への態度か〜!」
「それだけわめければ、元気なもんじゃない」
「ふん」
 有理はタオルを額からずりずりとずらして、瞼の上にのせた。
『番茶を煮出して、水で割ってうすめたんだ。どうだ、本物そっくりだろう。え、すると、お酒もりじゃなくて、お茶もりですか〜?』
 有理は泣いていた。その証拠に息を殺していた。
『有理?』
 まいったな。確かにタオルで泣いてるのは見えないけど。でも、見てはいけないものを見てしまった感じ。
 レンゲは、あやめの死後にアパートに戻った時に、有理がぼろぼろ泣いたところを見ていた。女子高校生のレンゲの前で、気持ちを抑えられずに、肩を震わせて泣く有理を。
 記憶と一緒に、気持ちまでがフィードバックされていく。七年も前。でも、七年しかたっていない。
『大家さん、いい酒ですね。これだけの酒となると、宇治でとれたにちがいねえ。酒が宇治から出るもんか。おかしなこと言うな』
「・・・裏に、ボロいアパートがあるだろ?」
「え?」
 突然、有理が話し始めた。
「ここと同じ大家の持ちもんさ。あれを取り壊して、ついでにここも取り壊して、でかいマンションを建てるんだと。ここは、春には無くなる・・・」
「えっ」
 思い出した。大家からの手紙。あの時堅い表情になった有理。
「年末までに、ここを引き払わなきゃならん」
 姉さんとの、思い出のつまった、この部屋が無くなる。この部屋を奪われる。
 有理のやるせない気持ちが、流れ込んで来る。
 いろんなことが・・・時間とか、事情とか。想い続けることさえを許そうとはしない。
 可哀相な、有理。
 その時、有理はタオルを取ると、がばっと半身起き上がった。
「おまえが泣くなっ!泣きたいのはオレの方なんだっ!」
 どならないでよ。
(元気なんじゃん。)
 自分だってさっき泣いてたくせに。
(同情されたと思ったとたんに激怒するのやめてよ。)
「ランが戻るまでなんて、待ってなくていいぞ。だいぶよくなったし。タクシー代やるから、帰れ」
 親切から言っているわけでないのは、そのトゲトゲした口調から明らかだ。
『私を早く帰したいだけだね?』
 まだ、見るんだ、ねえさんの夢。夢だとわかったあと、いつもいつも、あんな気分になるんだ?
「そのへんの女みたいに、べしょべしょ泣くなって言ってるだろ」
「そんなひどい言い方しなくてもいいでしょ!」
「頭いたいんだから、叫ぶな」
 自分が最初にどなったくせに。
『え、玉子焼きですか?あっしゃ、この頃すっかり歯が悪くなっちまって。この玉子焼きはよくきざまねえと食べられないんで』
「・・・病気の有理を、居るだけでイライラさせるなんて。最低だね、私。
 帰る。慣れた道だし、歩いて帰れるよ」
「そんなこと、一言も言ってないだろ」
 有理がベッドから起き上がる気配を感じたが、レンゲはバッグをひっ掴むと、有理の顔も振り向かずに靴を履いた。
「レンゲ!待てってば」
 手首に痛みを感じた。有理が手を掴んでいた。
「離して!」
「・・・。」
 有理は、苦笑し、静かに手を離した。
「まるで、別れ話してる男女の修羅場みたいだな。・・・どなって悪かったよ」
「お腹空いてるんでしょ。だから機嫌悪いんでしょ」
「ああ。そうだな。あとで、スイカ食うよ」
 
 アパートの廊下に出ると、むうっと暑い空気が体にまとわりついた。夜はまだ浅い時間で、まだまだ昼の熱気が残っていた。街灯に群がる羽虫がうっとおしくて、レンゲは手で払いながら階段を降りた。
 有理がここを追われる。金木犀館は、有理の持ち物だ。有理が外に部屋を借りる理由は、もう無い。
『出るべきなんだろうな、私が・・・』

 帰宅してランの携帯に電話した。ランはバイトから帰る途中で、もうすぐ有理の部屋に着くところだった。レンゲは、ランを待たずに帰ったことをわびた。
「私がいると、有理をイライラさせるみたいで」
『そんなことはないでしょう。
 有理は口悪いけどさ。そういう口をきく時って、なんかあるんだよ。
 照れくさい時とか、突っ込まれたくない時とか。何かごまかしたい時じゃん。特に、レンゲさんは、怒らせると、すぐカッとなるからごまかしやすい』
「なによ、それっ!」
『ほら、すぐ』と、ランの声は笑っていた。
『僕は、レンゲさんからは何も聞かなかったことにして、帰るから。
 あまり気にしないで、お休み。レンゲさんまで風邪で倒れたらシャレになんないよ』
 ランらしい優しいセリフで、電話は切れた。
 
< END >

 ☆ 翌月へ ☆


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