九月 茉莉花 --- 「第三章 香りの庭から」 --- |
☆ 一 ☆ 「じゃあ、また来週な」 「おやすみー」 クラスメートの藤田と楢崎女史が、とじる寸前の電車のドアの向こう、手を振っていた。 ランも手を振り返し、ドアが閉まるのを待ってホームを歩き出した。 改札近くの蛍光灯には、蛾が何匹か張り付いて飛んでいたが、真夏の頃の迷惑な元気さはもう無いようだ。夜になると、半袖じゃちょっと涼しいな、とランは思った。 夏休みが終わって、最初の土曜日。クラスで『お久し振り。みんな元気だった?』のノリの飲み会があった。バイトが忙しくて普段そういうのに参加できないランも、今夜はバイトが休みだったので珍しく出席した。 でも、結局一時間くらいで、三人でふけてしまった。美大には「予備校派閥」や「浪人派閥」があって、ランは地方出身の現役合格だったので、なんとなく疎外されていた。 楢崎女史も、歳こそは何年も浪人した人より年上だが(失礼!)、現役合格だし、何より、みんなが『主婦の片手間』で通学しているという偏見を持っているらしい。藤田に至っては、『高校時代サッカー部』というだけで、仲間外れだった。 藤田は、電車の中で、 「デッサンのゼミにはちゃんと通ってたよ。高校に美術部がなかったんだ。それに、静岡ではサッカーをやってないと、村八分にされるんだよー。いいじゃないか、スポーツやってたって」と、怒ったような嘆くような口調で言い訳していた。 ランのいるグラフィック科はまだいい方で、油や彫塑などはその傾向がもっとヒドイそうだ。 「なんだかなあ」 ランは声に出してつぶやくと、駅前の酒屋の自販機でジャスミン茶を買い、その場でゴクゴクと飲み干した。そして、レンゲがわざわざここまで『ポストウォーター』を買いに来ていることを思い出して、一本買った。 腕時計を確認する。まだ九時半だ。たいしてアルコールも飲んでいないし、金木犀館に行っても有理は怒らないだろう(だいたいあんな興覚めな飲み会で酔えるもんか)。 レンゲの顔を、ちょっとでいいから見たかった。 金木犀館の庭に入ると、懐かしい草の匂いがする。子供の頃、野原で走り回った時にかいでいた、葉っぱを踏んずけた時みたいな匂いだ。 庭には、普段は、何の木だかわからない、誰も意識していない金木犀の木が大量に生えている。でも、今月の末か、遅くても来月の頭には、むせるほどに香ることだろう。 『路地の角を曲がる前からわかるわよ』と、レンゲが言っていたっけ。 チャイムを鳴らし、ドアがあいたので、「はい、おみやげ」と、ポストウォーターの缶を差し出そうと腕を延ばしかけて。 そして、その手が途中で止まった。 中年の女の人が立っていたのだ。 ランはびっくりして、何度もまばたきした。 五十を少し過ぎているだろうか、でも、優雅な美人だった。ランは、あやめにそっくりであることに気づいた。あやめの、そしてレンゲの母親なのだろう。 むこうも、少し驚いた表情をしていた。独り暮らしの娘の家に、夜に訪ねて来る男をどう思っただろう。 「あ、あの 。レンゲさん、いらっしゃいますか」 舌が乾いていて、うまく発音できなかった。 「走くん?」 レンゲの母はそう言うと、ランの返事も聞かずに破顔し、「うっわー、大きくなって!」と叫んだ。 「あやめの結婚式に会ったわよね。うんうん、面影あるわ。それに、有理さんにそっくりになって、従兄弟っていうより兄弟みたいね」 母親は、早口でよく喋る人だった。外見はあやめだが、性格はレンゲのようだ。 「さ、入って、入って」 レンゲの母はランを家に招き入れた。 「レンゲは、今、お風呂に入ってるわ。 さ、座って。御飯は食べたの? ビールでいいのかな」 リビングは、すでに宴会の果てって感じだった。何本も飲み散らかされたビールの空き缶が転がり、出前の寿司の盆だけが残っていた。 「有理、ごめん、勝手にビールもらったよ」 大きなタオルで髪をゴシゴシこすりながら、レンゲがリビングに現れた。 「あれ、ラン、来てたの? 話声がきこえて、有理にしちゃイヤに早いとは思ったんだ」 ピンク地に恐竜の絵柄のパジャマを着て、子供みたいにほっぺを赤くしている。ぜひ、腰に片手を置いて瓶牛乳を一気飲みするところを見たいとランは思った。髪はまだ濡れていて、短い髪はタオルでこすられて乱雑な方向にピンピンと立っていた。 『普通、湯上がりの女性って、もっと色っぽいもんじゃないの?』 そう思うとおかしくて、ランは笑い出しそうになるのをこらえた。ま、レンゲらしくて可愛いけれど。 「有理が来るの? だって、今は」 締切が『先週」』ったはず。今頃、大修羅場だろうに。 「母さんが電話して、『有理さんもいらっしゃいな』って言ったら、『喜んでうかがいます』って返事したそうよ」 「あの、尊大な有理に、弱点があったとは」 ちょっと驚きである。 レンゲの母は、にこにこ笑ってタバコをふかしている。ふんわりした雰囲気やその美貌は『あやめ』だし、明るく快活な態度は『レンゲ』なのだが、強い赤の口紅や細い煙草が、娘達とは違う、一人の大人の女性であることを感じさせた。 今は再婚して、葉山でレストランのオーナーシェフをしてる人の奥さんになったと聞いている。九州出身のランは、葉山がどこにあるかはよくわからなかったが、別荘地であることは知っていた。『別荘』ってことは、東京からだいぶ遠いってことだ。 親子だから会いに来ても変だってわけはないけれど、そんなに遠いところから、理由無しに来ることは稀だろう。 何だろう、例えばレンゲに見合い写真でも持って来た、とか。 最近、どうも悲観的な考えに走る傾向があるかも。一人暮らしに疲れて来たかな。 「明日は出発が早いから、葉山は遠くて大変でしょ。だからうちに泊まりに来たんだよ」 ランの考えを読んだかのように、レンゲが解説した。 「明日、母さんと私と有理とで、お墓参りに行くの」 「あ。命日だ、あやめさんの」 そうか。命日。墓参り。 十九のランには、親への付き合いとか義務とかいう響きしか持たないそれらの事柄だった。だが、実際に家族を失っている人には、誕生日を祝うような行事なのかもしれない。ランは二人を見ていてそんな印象を受けた。 「若い人には、変な感じでしょ、こんな時だけ揃って墓参りに行く、なんて」 母親は笑って言った。 「いいえ、そんな」 「ま、私もあの子があんな石の下にいるなんて思ってないけどね」 肩をすくめて、タイトスカートから覗くきれいな足を組みかえた。 有理が来たのは、それから小一時間もたってからだった。三日分くらいの不精髭をたくわえ、コーヒーの染みのついたままのTシャツを着ていた。 「汚いなー。また、三日くらいお風呂に入っていないでしょ!」 レンゲが、冷蔵庫からビールを取り出しながら、非難した。 「お風呂、わいてるわよ、入ってけば?」 と、これは母親。 ランの方がどきりとした。さっきレンゲが入った湯船なのだ。でも、この家では(というかこの母には)そういうことは普通らしい。 「いや、風呂入って気持ちよくなると、眠っちまいそうだから」 有理はそう言うと、置かれたビールに手を伸ばした。 「でも、ビールは飲むくせに」 ランが指摘すると、「だまれ」と一蹴された。この詰まり方で、明日墓参りに出かけたりして、大丈夫なんだろうか。原稿が落ちても知らないぞ。 「有理さんも、早く新しい奥さんを貰わないとねえ」 ランもレンゲも、有理さえもが声を揃えて言った。 「いや、これは、そーゆう問題じゃなくて」 あやめが生きていた頃だって、こんな風だったのだろう。 「お父さま達は、お元気? 帰国なさってるのよね?今年は都内の住所で年賀状をいただいたわ」 「・・・。」 「え、そうなの?」とレンゲ。ランは親戚だから知っていたが、レンゲが知らないなんて。有理はよほど親の話をしたくないらしい。 「まだ勘当は溶けてないの?」とレンゲの母。 「ははは。うちの親も意地っ張りで。一度言いだしたことは。オレも直木賞を取ったことだし、そろそろ許してくれてもいいと思うんだけど。でもオレもあんまり付き合いたくない人種なんで」 「だれが直木賞だ」とレンゲに突っ込まれている。 厳密に『勘当』というわけでは無いのは、ランも知っている。有理の結婚式にも出ていたし、あやめの葬式にも帰国していた。ただ、伯父はまだ、作家になったことを怒り続けているし、叔母はまだ、嘆き続けているらしい。 有理の家は、ランの家どころでは無い、エリート至上主義だ。ランの学力を知りながら弁護士にしたがったランの父も相当だが、伯父も、有理を国家公務員か外交官か政治家秘書と言っていたらしい。ランがもっと有理と歳が近かったら比較されて、「有理より絶対いい偏差値の学校へ入れ」「ランは模試で何番だった」とお互いが言われて大変だったろうと思う。 有理があやめと付き合いだして、この家に入り浸ったのは、自宅にいたくなかったせいもあるんだろう。気さくなレンゲのお母さんも、有理をほっとさせたんだろう。 ビールを一本開けてひと息ついた有理は、タバコを取り出した。 「そう言えば、蓮見さん、入院したんですって?」 蓮見というのは、再婚の相手の姓だ。今は蓮見姓になった母親が、有理からタバコの火をもらいながら、 「そうなのよ。トシのくせに無理して草野球なんて始めるから」 病気ではなく、腕の骨折だそうだ。 「今、店はどうしてるんですか」 「二ヶ月くらいなら、若手だけで乗り切れるって、頑張ってるわ。乗り切れればあの子達もいい自信になるだろうしね。 有理さんも、またぜひ食べに来てよね。そんなに遠いわけじゃないんだから。レンゲも通勤するって言ってる距離だし」 えっ? ぼんやり二人のやりとりを聞いていたランは、はっと顔を上げた。 ・・・レンゲが、『葉山』から、『通勤』する? 「かあさん!」 レンゲが声をあらげた。 「あらあら、まだ有理さんに言っていなかったの?」 「明日、お墓参りの時に言おうと思ってたのに! 口が軽いんだからっ!」 「・・・レンゲ?」 有理が凍りついていた。氷の妖精かなんかにでも魔法をかけられたみたいに、まぶたも唇も指先もフリーズしていた。時間が経過しているのを知らせるのは、指先のラークから立ちのぼる煙だけだ。 いや、ランだって心臓が止まったかと思った。でも、有理でさえ聞かされていないなんて? 野郎二人にシリアス表情で凝視され、レンゲは頭をかいて、 「やだなあ、そんな顔しないでよ」と、茶化そうとした。 「蓮見さんが入院すると、母さん、このトシで一人ぼっちであの大きな家で暮らさなきゃいけないじゃん。寂しくて可哀そうだもん」 「このトシだけ、よけいだわ」 さり気なく抗議する母。 「蓮見さんは、もともと、結婚する時にも一緒に暮らそうとは言ってくれたんだけど、大学が遠くなるし 。ま、色々あって・・・私は残ったんだけど」 『色々あって』って、有理と離れたくなかっただけじゃんか、とランは心の中で呟いた。 「そんな顔しないでよ。蓮見さんが退院してリハビリが終ったら、帰ってくるから。 かあさんが大変そうだから、手伝いに行くだけだよ。二、三週間かなあ」 「・・・え?」 「なんだよ。ずっと行くのかと思った」 ラン達の緊張は、あっけないほど一瞬でほぐれた。『レンゲが生活圏内から居なくなる』というのは、想像さえしたことがなかった。いや、いつか結婚して遠くへ行ってしまうにしても、こんな急にいなくなることには、覚悟ができていない。 有理の驚きかたを見ても、ランと同じだったのだろう。日常、視野の中にいる親しい人間が『突然』に消える。それは、まるで死のようだ。有理は、きっとあの時のことを思っただろう。 「・・・。一度は帰ってくるわよ」 「レンゲさん、なんだよ、その『一度は』って?」 ランは不安になって即聞き返す。 反対に、有理は、タバコをもみ消すと、ソファの背に大げさな動作でもたれかかった。そして、ため息ついた。 「アパートを出る期限は大晦日だ。オレはギリギリまで、あそこに住むから。レンゲは、急がなくていいぞ」 え? え? なに? ランは寝耳に水だった。有理は、すべてを察したようだけれど、ランには何が何だか・・・。 「レンゲが来てくれるのは、もちろん嬉しいけど、引っ越しって面倒よねえ。結婚して、いっそ二人でここで住んじゃえば?」 母親のあまりに邪気の無いセリフに、有理はソファから滑り落ちた。レンゲは、つまんでいたカマボコを喉につまらせた。 「あら、昔はけっこうあったのよ、そういう再婚。昔は、結婚って、『家と家』って意識が強かったから」 「お義母さ〜ん、勘弁してくださいよぉ。・・・ほら、レンゲも怖い顔して、睨んでますよ。 そうだ、原稿、遅れてるんだ。帰って書かないと」と、わざとらしい調子で立ち上がった。明らかに、不自然に、『退散体制』に入った。 ちょっと待ってよ、だから、レンゲさんの引っ越しの話はどういうことなのさっ。ランの動揺をよそに、有理は胸ポケットにそそくさとタバコとライターをしまった。そして、「明日、七時にクルマで迎えに来ます」と、 母親に敬語でそう言った。 「図体のでかいのが一緒だから、狭いでしょうけど、勘弁してやってください」 えっ? 僕? 「僕も連れて行ってくれるの?」 ランはきょとんとした表情で訊ねた。あやめの墓参りなんて、自分は部外者で、まぜてもらえないと思いこんでいたけれど。 「じゃあ、明日」 ランと有理は玄関のドアをしめた。レンゲの母の前では不愛想を返上していた有理だが、玄関を出た途端、機嫌悪さが沸点に達した。 「くそっ!」 有理は、門の横にあるツツジの葉っぱを小枝ごと力まかせにちぎり取ると、ランの存在を無視してスタスタと歩き始めた。 「有理、待ってよ」 有理は早足で歩きながら、力いっぱい小枝を握っていた。握った方の腕が震えているのがわかる。 有理が門を力任せに閉めると、カーンという大きな金属音が響いた。 ランは、レンゲが金木犀館を出ていくことについて、尋ねたくて気が急いているのだが、怖くて有理に近づけなかった。修羅場の時の雰囲気も殺気立っているけれど、もっと静かで、中に向かっている。こんな風に外に気を発している有理を見たのは、初めてだ。 と、有理は急に振り返ると、早口でまくしたてた。 「オレは、レンゲに『出て行ってくれ』なんて一言も言っていないんだぞ? アパートが取り壊されるって伝えただけだ。オレの住んでるアパートだぞ? だから、オレは、他にどこか借りるつもりでいたし。 たぶん今回様子を見てみて、蓮見家でうまくいきそうなら一緒に住むつもりなんだろう。 レンゲは・・・ここを出て行くんだ」 「そうか。有理のアパート、無くなるんだ?」 ・・・そういうことだったのか。 レンゲは、きっと、色々悩んだだろうし、決める事はつらかっただろう。でも、有理離れをするいい機会だと思ったんだ。レンゲは、決めたんだ。 有理はなんでこんなに怒っているんだろう? ショックだったのはランも同じだけど、自分は『怒り』は全く感じないし。 レンゲが、有理に相談しないで決めたことを怒っているのか。それともレンゲを追い出す形になってしまった自分の存在に腹を立てているのだろうか。 「別のアパートを借りるつもりだって、もっと早くレンゲさんに言ってあげれば・・・。 無理か。・・・無理だよ。金木犀館は有理の家なのに。レンゲさんだって、やっぱり違和感があったんだよ。だって、今はあのアパートにいる理由があるけれど、今度は違ってくるわけだし。それだと、まるで有理に面倒見て貰ってるみたいで」 「ふざけるな!」 有理が、いきなり、ランの顔に、握っていた小枝を投げつけた。 「いたっ!痛いじゃないかっ」 有理みたいな奴に本当のことを言ってはいけない。本当のことを指摘されると、ますますヘソを曲げて手がつけられなくなる。ランもそれはわかっていたのだが、自分もレンゲが出ていくことにショックを受けていたから、そこまで気を回す余裕がなかった。 有理は薄い唇をますますきゅっと結ぶと、ジロリとランに一瞥をくらわした。 「近所のおばはん達みたいな、下卑た考えだな。レンゲがオレに囲われてるみたいだっていうんだろ。あー、やだ。 だいたい、あんな色気のカケラも無いガキの、どこをどう見て愛人だっちゅーんだ。 オレの中では、まだオカッパの小学生だった時と変わらん。 おまえにも、疑われたりすると気色悪いから、この際ハッキリ言っておくがな! レンゲに『女』を感じた事は今まで一切無いぞ! 恋愛感情のひとカケラも無い! それはこれからも変わらん。オレの中では、ガキんちょは一生ガキんちょだ!」 道路で(しかもレンゲの家の前の道で)そんな大きな声で怒鳴らなくても・・・。 レンゲは、健気で可愛いし、押しつけでない優しい気持ちのある女性だし、つらい時に明るく笑ってみせる哀しさというか弱さというか、そんなところは色っぽいと思うのだけれど。 でも、ランはレンゲを褒める言葉を口にしようとしてやめた。 有理のこの怒りは、悲しみでもある。 やはり有理は有理自身に腹をたてているのだ。 レンゲの気持ちを知っていながら、妹以上に思えなかったことに。 恋してあげられなかったことに。 あやめを忘れられないことに。 その場に立ち止まったまま、歩を進められなかったことに。 あやめがいて、あたりをレンゲがちょこまかと走りまわっていた、金木犀館の想い出。 有理は、ずっと、ずっと、その感じを味わっていたかったんだ。 砂の城みたいな、幻みたいな。時間が未来に進んでいかない、閉じ込められた甘やかな空間。 止まっていた時間が、動きだす。砂時計の砂が、落ち始めた。崩れていく。みんな。 ランは、有理を慰める言葉を持たなかった。 そんなランの気持ちも知らず、有理はさらに意地悪を言った。 「ラン、おまえは脳天気に構えているみたいだけどなあ、レンゲが出ていけば、会うには約束しないといけないんだぞ、わかってるのか? 今までみたいに、ぶらっと金木犀館に立ち寄れば会えるってわけじゃなくなるんだぞ」 有理の指摘に、改めて愕然とするランだった。これまでのような、曖昧な関係は許されないのだ。義兄の従兄弟なんて、遠縁とは言っても、はっきり言って他人だ。これから会おうと思ったら、ランの意志で、はっきりと言葉にして、約束を取りつけなきゃいけないのだ。断られることもあるだろう。 今まで感じていた好意は、『有理の従兄弟』に寄せられたものなのかもしれない。従兄弟だから、色々世話を焼いてくれてただけかも。 また悲観的になってきた。なんだか、自分が情け無くて、泣きたくなった。 「じゃ、おやすみ」と、自分のアパートへの分岐点で別れようとしたランの、二の腕を有理がぐいっと捕まえた。 「こら、待て。おまえは、これからうちに来て、濃いコーヒーを入れるんだ。それから、明日、六時半にオレを起こすこと」 「・・・えっ? ええっ!?」 いきなりの命令に、ランは口をぱくぱく開けた。有理は気にもしない様子で、 「七時に約束してるからなあ」と続けた。 「って、つまり、僕に、泊まって、有理より先に起きて有理を起こせってこと?」 有理は返事をせずににやにや笑った。 「あーあ」 ランは肩を落とした。まったく、人使いが荒いんだから。 「コーヒーを入れるのは、練習しておけよ、これからはお前が毎日オレのコーヒーを入れるんだから」 「なんで僕が。それも『毎日』って言った?」 「金木犀館に、住まわせてやるよ」 「えっ?」 「食わせてやるって言ってるんだよ。これで、バイトに追われずに、描くことに集中できるだろう?」 「う、うん、まあ」 家賃はいらないし、食費や光熱費も浮く。確かに助かるし、この前風邪で倒れた時は少し心細かった。有理と暮らせれば、とりあえず部屋でのたれ死にする心配はないだろう。でも、嫌な予感もする。有理に毎日家政夫代わりにこき使われそうな。 有理は少しは怒りがおさまったようで、どこかボーッとしたいつもの有理になっていた。修羅場の作品の続きについて考えているのかもしれない。一緒にいてランは、有理の気持ちが、もう『ここ』に無いことを感じていた。 電車に乗る前に、ランはまた駅前の自販機でジャスミン茶を買った。 「女の子みたいなもの飲むんだな。うまいのか?」 「飲んでみる?」 ランは、有理の為にもう一本買って、淡いピンクの缶を手渡した。そう言えば、『ポストウォーター』を買って行ったが、レンゲに渡すのを忘れた。バッグに入れたままになっている。レンゲへの想いと同じだ。いつも言えずに持って帰ってしまうのだ。間抜けだったらない。 「げー、まじい。臭いし渋いし。何だよ、これ。よくこんなの飲むな」 有理は、文句を言いながらも缶のお茶をさらにゴクリと飲み、まじまじとパッケージを見ていた。 「ジャスミン。茉莉花(まつりか)かあ」 「茉莉花?」 「モクセイ科の、白い花だよ。金木犀と同じ種類だ」 「さすが、腐っても作家、いろんなことよく知ってるよなあ」 「腐ってもは余計だ」 ランは不思議に思う。 7年。有理だって、寂しかったに決まっている。レンゲの明るさは救いだったろう。会った時は小学生だったからと言って、心は揺れないものなのだろうか? レンゲは、魅力的な女の子だ。 <レンゲに『女』を感じた事は今まで一切無いぞ! 恋愛感情のひとカケラも無い!> たぶん、ウソでは無いと思う。ランだって、もし有理に何らかの感情があれば、察知する自信はある。 では、有理にとって、レンゲは何なのだろう? 「なんだ、どうした?」 「・・・レンゲさんが、もし、早く有理離れしてたら。きっと、とっくに、いい男にかっさらわれてたよなあ、と思って。僕にとっては、ラッキーだったのかも」 「ばーか」と、有理は笑った。 「普通は、先に男ができて、それで何かから離れて行くもんだよ」 『何か』。 「有理にとっては、レンゲさんは義妹って言うより、娘みたいなもんなのかな?」 早くパートナーと死別した時、子供が心の支えになってくれる場合が多いだろうし。 「ふざけんな、あんなでかい娘の父親にされてたまるか。 レンゲは・・・ただのレンゲだよ。 おまえも、若いなあ」 有理はマズイと言ったジャスミン茶をもう一度口にした。 若いと言われて、ランは憤然とした。 『ただのレンゲ』という一言に、有理が本当にレンゲを大切に思っていることが感じ取れて、ちょっと悔しかった。 「・・・ふん、僕はどうせ若いさ。 さ、行こう。 特別ににがーいコーヒーを入れてあげるからサ」 ランは二段抜かしに、駅の階段を駆け昇った。 「あ、こら、ちくしょう!」 「どうせ僕は、若さと背だけが取り柄ですよーだ。 きちんとエンドマークをつけてよ。曖昧なままだから、レンゲさんはケリをつけられずにいる。僕が強引に迫っても、有理を引きずり続けるだけでしょ」 「カケラだって始まってもいないのに、何がエンドマークだよ、馬鹿らしい。あんなガキんちょとそんな風に言われるなんて、心外だぞ」 「よく言うよ、自分だってガキのくせに。有理の恋愛経験だって、たぶんそう華やかなものじゃないだろ。だいたい、人と接するの、苦手なくせに。女くどくのなんて、苦手中の苦手なんじゃないの」 言い過ぎたかなと顔色を見たが、自覚していたことらしく、憮然とはしていたが反論はなかった。 「くそーっ!」 有理も一段おきに階段を昇りはじめた。 「ふふん、追いついてごらん」 有理は途中で足がもつれて、つんのめっている。 光の中、ホームを、電車が滑り込んできた。ランは軽やかに階段を昇って行った。 ☆ 二 ☆ 部屋で携帯を握りしめたまま、もう30分もたった。掌が汗ばんできた。服だって、大学から帰ってTシャツを着替えたのだが、西日の当たる部屋でじっと携帯をにらみつけていて、また汗になってしまった。壁にあるのと似たようなシミが、背中にも出来ていそうだ。 全開になった軋んだ窓からは、ランをせせら笑うようなアブラ蝉の声が聞こえていた。蝉の声はさらに焦りをさそう。 土曜日に、レンゲは葉山へ行った。お義父さんが退院するまで二週間、そこから会社に通うと言う。東京の地理に疎いランは初めて知ったのだが、『葉山』は地名で、そういう名前の駅は無い。『逗子』という駅を使うのだそうだ。 月曜はバイトだったが、今日は休みなので、ランは会社にいるレンゲを夕食に誘おうとしていた。 3時から3時半の間に、レンゲは5分ほどお茶の休憩の為に席を立つ。その時間帯を避けて、3時40分頃にレンゲの携帯にコールするつもりだった。そして、「つもり」のまま30分が経過した。 なんて誘おうかと考えた時、今まで、近所にいたから、こんな風にあらたまって誘うのは初めてだと気づいた。そうしたら、なんだか緊張して、あれこれ考えて色々心配になって。 仕事中に誘っても、怒らないかな。就業時間が終ってからにしようかな。 夕飯は、お母さんと食べる約束してるかもな。だって、お母さんが寂しいからって葉山に行ったんだから。 もしOKだったとしても、こっちはお金が無いから、ファストフードかサイゼリヤくらいしか行けない。そんなのだったら、誘うべきじゃないかも。 考えは、どんどんマイナス思考になっていく。 『変だよ、これ。僕はそんなタイプじゃないはずなのに』 高校では、女の子は積極的に誘う方だった。気の効いたセリフもすらすら出て来ていたと思う。わりと、モテた。誘う時に、迷いや躊躇はあまり無かった。 『うーむ。困ったもんだ。けっこうレンゲさんのこと、真面目に好きなんだろうなあ』 他人ごとのように思う。 その時、手の中のモノがいきなり鰻のようにブルった。 「うわぁぁぁっ!」 ランは悲鳴をあげて携帯を投げ出した。単に着信しただけなのだが。 ランは膝をついて、あわてて鰻もどきを拾った。レンゲからの電話だった。 『家まで遠いから、昨日の帰り、おなかすいて死にそうだったのよ。今日、軽く一緒に夕飯しない?』 先を越されてしまったランであった。 「お母さんと、一緒に夕飯を食べなくていいの?」 と言っても、もう食べ始めてしまったけれど。ポテトをつまみながら、ランが内心おそるおそる尋ねた。 「帰ったら一緒に食べるよ。これは、オヤツみたいな感じ。軽く食べておかないと、満員電車でお腹が空いて倒れそうになっちゃうよ」 軽くって。今レンゲがパクついてるの、ビッグマックなんですけど・・・。 「化粧。・・・今日、何かあったの?」 レンゲは会社にはきちんと化粧をして行っているけれど、『身だしなみ』程度だ。もともと念入りに化粧をするタイプではない。でも、今日は、ゴールドのハイライトだし口紅の赤も濃いし、まばたきする度に睫毛にマスカラがたっぷりついているのがわかるという、かなりヘビィな化粧をしていた。 「今朝、母さんにされた。オモチャにされてるかも」 ランは、微笑ましくて、つい笑ってしまった。 「しばらく離れてたから、お母さんも、何やらと構ってやりたかったんじゃないの? いいじゃん、たまには」 てのひらで、発砲スチロールに入ったコーヒーを包みこむ。レンゲは、どこにいても、楽しげなホームドラマのシーンに居るように思えた。バタバタした出勤の時間、些細だが暖かい母とのやり取りが目に見えるようだ。 「変じゃなあい? 母さん、人の顔だと思って、すんごい厚化粧にしたような気がするんだけど。絶対、遊んでると思うな」 「別に変じゃないよ。今までがあっさり過ぎた気もするし。あれはあれでレンゲさんらしいけどさ。お母さんも、少し色っぽくしようとして、奮闘したんじゃない? 成功してると思うよ」 レンゲはあやめとは違うタイプだけれど、けっこうきれいなヒトなんだなとランは改めて思った。ただ、ランはすっぴんのレンゲの方が、らしくて好きではあったけれど。 「ほんと? ほんと? 色っぽい?」 「・・・『色っぽい?』と質問する行為は、あまり色っぽく無い」 「ちえっ」 レンゲは苦笑して、マック・シェイクをぐびぐびと飲んだ。 「葉山って、海の近くなんだよね?」 むこうでの生活の片鱗を、少しでも知りたい。ランはそう思った。本当に行ってしまうつもりなのかどうか、も。 「いわゆる『湘南』の、ちょっと高級っぽい地域かな。でも、通勤圏内だし、普通の家の方が多いけど。実は、まだ、蓮見さんのお見舞いに病院へ出かけただけだから、辺りのこと、よく知らないんだ。避暑客相手のお洒落なお店も多いらしいんだけどね」 「お義父さんの具合、どう?」 お義父さんのこと、『蓮見さん』って名字で呼ぶんだぁ。まあ、大人になってからのお母さんの再婚だし、『父親』って感じはしないだろうな。 『もしかしたら、レンゲさんにとっては、有理の方が<父親>に近いかもしれない』、ランはそう思った。 「すんごい元気。退屈してるから、喋る喋る」 『ずっと住むことになっても、うまくやっていけそう?』『住み心地はいい?』『ずっと通勤することになっても、この距離は大丈夫そう?』『金木犀館じゃない家で、よく眠れてる?』・・・たくさんの質問が、ランの頭を渦巻いていたけれど。まるで詰問みたいで、どれも口に出せなかった。今は、怖くて、自然な調子で尋ねられそうにない。 それに、聞いてみて、どうするというのだ。レンゲは、真相はともかく、心配かけないために全部に『バッチリだよ』と答えるに決まっているじゃないか。 「品川まで、同じ電車で帰るね」と言って、東京駅でレンゲと一緒に3台横須賀線を待った。ランは品川から山手に乗り換えてさらにまた渋谷で乗り換えするのだから、本当は初めから東京で山手に乗ればいいのだけれど。 東京始発があったので、それに乗り込めば、ボックス席でない扉横の座席に隣り合わせで座れた。まだざわつく車内は落ち着き無く明るく、サラリーマン達が荷物を網棚に乗せたりビールのプルトップを開けたり、みんな忙しそうだった。 「このままうちに来て、夕飯食べて泊まっちゃえば? 母さんも大歓迎だと思うよ」 ランは苦笑する。 有理が金木犀館でそうだったように。あまりに自然に、家族のように受け入れてくれる、レンゲとその母親。有理は、結婚前から自分の家のように出入りしてパジャマまで置いてあったそうだし。 有理や自分のような家に育った者には、甘美な心地よさだろう。こういう愛情を示されると、『家』を、『その家族』を、いとおしいと思うに決まってる。有理が、あの『家』ごと、あやめの家族まるごと、あんなにも愛しているわけがわかる気がする。 「明日、一校時から授業なんだ。残念だけど。ほんとは、ずっと一緒に乗って行きたいんだけどね」 自然に、ふっと口から出た。くどき文句などでは無かった。正直な想いだったかもしれない。 タイトスカートの膝に乗せたレンゲの小さな手が、そっと指を組み直した。貴金属を何もしていない細い指の先にある、控え目に透明のマニキュアが塗られた丸い爪が、車内の蛍光灯に照らされてきらりと光った。 「僕が、一人で外食できないって、昔話したっけ? コンビニ飯も食いあきてるし。 レンゲさんの都合がいい日だけでいいんだけど・・・」 まず、一緒に夕食を食べてもらう約束から、始めよう。 「イヤだよ〜ん」 えっ。・・・えーっ!・・・がーん!! しかし、隣でランを見上げたレンゲは笑っている。 「言ったでしょ、食事じゃないって。あれは、お・や・つ!」 いたずらっぽく笑うレンゲの口許は、もう自分の淡い口紅を塗り直していて、いつもの色だった。 発車のベルが鳴っている。静かにドアが閉まり、列車が動きだした。真昼みたいに明るい地下ホームの景色が、ゆっくりと流れていく。 ふと、ランは、あの水族館のマグロの流れを思い出していた。 < END > ☆ 翌月へ ☆ |
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