十月 金木犀 --- 「第三章 香りの庭から」 --- |
< 1 > 『秋だ鍋だ』と騒いだのはレンゲ本人だったが、買い出しに行って荷物の重さには辟易した。 『ちっ。有理にクルマ出してもらうんだった』 スーパーの帰り、ビニール袋の持ち手が、指に食い込んでズキズキ痛んだ。 住宅街は、ちらほら金木犀が香り始めていた。古い家のたくさん残る、入り組んだ街並みだ。低い塀や、子供の運動靴が干された鉄柵が並ぶ道。何軒かに一軒の割で金木犀の植えられた庭があるようで、ふわりと風が吹くたびに甘い匂いが鼻孔をくすぐった。 どこかの家からテレビの音が聞こえてくる。夕方と言うにはまだ陽が高く、長袖のブラウスでちょうどよい気候の、心地よい晴天の日曜だった。 通りにワゴンが停まり、おなかのせりだした女性が降りて来るのが見えた。あれくらい大きいと臨月だろうか。クルマから降りるのも難儀なようだ。自分と同じ歳くらいかな。大変そうだなあ、とぼんやり考えていて、はっと気づいた。 『ここ、撫子んちじゃん。ってことは、え?』 「撫子?」 無造作に髪を後ろに結んだ妊婦が振り返り、「わあ、レンゲ!」と笑顔になった。 撫子は、中学高校と一緒だった友達だ。特に高校では、一番仲がよかった。 「レンゲ、か、変わってない〜〜」 撫子は爆笑している。 「ひー、笑うとお腹に響くよ〜、助けて〜」と言いながら、まだ笑っている。失礼な奴だ。 運転手はご主人なのだろう。ペコリとレンゲに会釈すると、「クルマ、駐車場に入れて来る」と言って、行ってしまった。ちらっとしか見れなかった。もっとよく観察したかったのに。 「おめでとう。予定日はいつなの?」 「あと一カ月。実家でラクして産もうという魂胆。レンゲはまだ金木犀館にいるの?」 「悪かったわね、まだ嫁に行ってないわよ。でも、年末までには、あそこを出て母のところで一緒に住むつもりなんだ」 「お母さん、具合でも悪いの」 「ううん、そうじゃないよ。金木犀館を出なきゃいけない事情があってさ」 「ふうん」 撫子は、それ以上聞かなかった。昔から、あまり人のことを詮索する子ではなかった。 「産まれるまではヒマだからさ、今度お茶でもしようよ」 「うん。私も、大抵いつもヒマなんだ」 言って少し情けなくなるレンゲであった。 家の門を開けようとして、いい加減に閉められていることに気づく。レンゲは、戸締りについては神経質な方で、門もきちんと閉める。もう、有理が来ているってことなんだろう。 撫子がママになる。レンゲ同様、どちらかと言うと奥手な部類だったけれど。まわりの人は、確実に前へ進んでいるんだなあと思う。ああ、何やってるんだろう、自分。 玄関前に荷物を置いて、ポケットから鍵をさがしていて、庭の桜の根元に有理が座っているのに気づいた。 座っているというか、寝ちゃっているというか。 もうほとんどの葉が朱色に朽ち果てた樹。幹の皮膚感だけで桜と知れるその樹の根元に寄りかかり、有理は本を開いたままうたた寝していた。 『鍵があるんだから、入ってればいいのに』 そろそろ、庭も香り始めた。一年間のうち、たった二、三週間の短い時期だが、この庭は極上の楽園になる。 楽園。隠れ家。この時期には有理は頻繁にこの庭に隠れに来る。 少し長くなりすぎた前髪が、風に揺れていた。ダンガリーのシャツは、有理を五歳は若く見せた。 『ほれ、起きろよ』 鼻をつまもうとしたら、有理が先にはっと目を覚まし、レンゲの手を掴んだ。 「あやめ?・・・なんだ、またおまえか」 うんざりした口調で、手をふり払った。 『うー、むかつく!』 「ねえさんの夢ばかり見てるんだねえ」ちょっと厭味を言う。 「・・・。今は、たまたま金木犀の匂いがしてたからだろ」 ふてくされたように、唇をとがらす。 「金木犀トリップですかい。昔、ほんとにトリップしちゃったこともあったよね」 あやめが死んで最初の金木犀の季節、有理は記憶障害を起こして「高校生」に戻ってしまった。それは数日で元に戻ったけれど。有理にとっては、触れられたくない、恥ずかしい事件に違いない。 「あれは、なあ!」 案の定、すくっと立ち上がって、声を荒らげて抗議を始めた。 「最愛の妻を亡くした悲しみを、お子様のおまえに理解しろというのが無理な話だろう。なにせ彼氏いない歴25年だもんな」 『有理は、突っ込まれたくない時や、照れくさい時には、わざとレンゲを怒らすようなことを言うだろ?』 ランに言われたことを思い出す。ランに忠告されてから、レンゲはこういう時は、有理の裏の意図を考えるようになった。記憶障害の件は、レンゲが思っている以上に、恥だと思っているようだ。 反撃のチャンスだ。 「金木犀のポプリでも身につけて、一年中トリップしてれば〜。一年中ねえさんの夢が見れるよ。 私が結婚してここに高校生になった娘を連れて来たら、『あやめっ!』とか言って泣いて抱きつきそうだわね」 「抱きつくかよっ。だいたい、本物の高校生のあやめだったとしても、いきなり抱きつくわけないだろ! それじゃ半分犯罪者だ」 おお、有理がムキになっている。これはオモシロイかも。 「だいたい、あの時だって。 おまえが病室に金木犀を持って来た時、髪だけは紛らわしく長くて、後ろ姿だけはあやめに似てたから・・・」 有理の声の勢いが失速しなければ、レンゲも気づかなかったかもしれない。 『記憶を無くしていた時のこと』を、なぜ有理が覚えているのか。有理がシマッタと思ったのは明らかだった。 「それ、記憶無くしてた時のコトじゃないの、あの数日間の最初のシーン」 「え? だって、おまえから、聞いたじゃん、状況」 有理はあわててとぼけた。だけど、ウソだ。レンゲだって、あの事件は穴があったら入りたいほどハジに思っている。有理に思い出していただいては困る事件なのだ。レンゲは、絶対に、あの事件の詳しいことは口にしていなかった。状況を説明したことなんて、ただの一度だってない。 『くそう・・・。覚えてたなんてっ。ちっくしょう。覚えてて、しらばっくれてたなんて!!』 「ああ、そうだっけ。そうかも」 レンゲは、内心怒りながら、なるべく冷静そうな声で自分もとぼけてみせた。そういうことにしておこう、と思ったのだ。 あの時、有理がしらばっくれてくれなかったら、ものすごーくみじめには違いなかったのだから。それに今だって、有理が覚えているってことを認めてしまったら。昨日までみたいに接するなんて、恥ずかしくてできそうにない。顔から火がでそうだ。顔、赤くなっているかもしれない。 有理も下を向いたままで、ジーンズの土を払った。芝に転がっていた本も拾う。思い切り不機嫌な顔をしていた。そして「少し寒くなったな」と言ってシャツの腕をさすった。 「10月にもなって、外で昼寝なんてするからよ。家に入ってればよかったのに」 「仕事の資料を取りに来る時は、しかたないから鍵で入るけどな。たいていおまえは会社の時間だし。でも、ランにも注意した手前、今日みたいな時に勝手に入るのはやめたんだよ。アイツだって、面白いわけないだろ?」 「・・・。」 有理が、少しずつ、距離をあけていく。あけようとしている。 「重くて、お酒は買えなかったんだ。家にある分で足りるよね」 レンゲは話題を変えると、ドアを開けて荷物を持ち上げた。有理が何も言わずにもう一つのビニールを持ってくれたので、『あらまあ珍しいこと』と思う。 「猫柳を呼んだんだ。奴が駅に着いたら電話してくることになってるから、買って来させればいい」 「またそうやって猫柳さんを使う〜」 有理が家族との食事に人を呼ぶなんて、あんまりないことだった。 「でもまあ、普段迷惑をかけている編集さんにごちそうしようだなんて、有理としては殊勝な考えだよね」 レンゲは、買って来た野菜などをザルにバラして洗い始めながら、自分の言ったことにうんうんと頷いた。 有理が手伝ったのはキッチンまで。テーブルに荷物を置くと、どかりと椅子にもたれ、即座に胸ポケットからラークを掴み出した。 「三人で鍋なんて食いたくなかっただけだよ。どうせおまえらがいちゃいちゃしてて、オレ、つまんねーもん」 「・・・。」 濡れた椎茸がつるりと手から落ちた。怒るより先に、あきれてしまった。そしてつい吹いてしまった。『私とランが、いついちゃついたのよっ!』と怒鳴りたい気持ちもあったが、有理の子供っぽさと率直さに笑いが出てしまった。 それに、レンゲとランの『イチャイチャ』を阻止する為に呼ぶ人間が、編集の猫柳氏だという選択肢も、笑えた。 「有理こそ、呼ぶのが猫柳さんだなんて、女っ気ないんじゃん」 「ふん。おまえはすぐお義母さんに言いつけるからな」 あらま。ガールフレンドくらいはいるのかしら。鱈は軽く水洗いしてザックリと斬る。 「編集部だって、女性はいるんだから。前の編集長だって女だしさ」 なんだよ。けっきょく編集さんかい。人参はきちんとクッキー型で花に抜いた。 「ま、おまえにしては、いい戦術だったよな。と言っても、計算してやったわけじゃないだろうけど」 二週間、逗子の母親の家に行っていたことを指しているようだった。その間、ランはバイトの無い日は必ず携帯にかけてきて、「一緒にメシ食おうよ」と誘ってくれた。そして、その帰りには、一緒に東京駅から電車に乗って途中駅まで送ってくれた。 告白された等の具体的な進歩があったわけではないが、少しいい感じになってきたかなあと、ひそかに浮かれているレンゲではあった。 「ほんとに、何年もモタモタしてるよな、おまえら」 ウキウキ気分に水をかける奴もいる。 「余計なお世話!」 「うわっ、包丁をこっち向けて振るなよっ」 「いたっ!」 集中力が切れたら指も切れた。 「きゃーいたたた」 あわててカットバンを取りに行く。 「だから〜、包丁をまな板に放り投げるなっ!」 レンゲが人差指に絆創膏を巻いて戻ると、なんと有理がキッチンに立って続きを切っていた。 「うっそー、驚き。手伝ってくれるの」 「あとは白菜だけだろ」 見ると、有理は白菜の芯部分は丁寧にカットしている。レンゲよりずっときちんとしてるかも。 「言っておくけど、おれは修羅場以外は、ちゃんと料理を作ってるんだぞ。外食は体に悪いから、あんまりしないようにしてるし。インスタント・ラーメンにも野菜を入れるタイプなんだから」 「へええ。世界で一番、不摂生してる人間に見えるけどね」 でも、確かに、絶対深酒はしないし、わがままなくせに好き嫌いはしないし。タバコだって、決してヘビィスモーカーではない。 「健康には気をつけてるってば。 ・・・慢性な自殺なんてしたら、あの世で会った時にあやめに叱られるだろ。おれは、あやめに軽蔑されないようにしっかり生きるって決めたんだ。だから」 「『だから、志望校も変えない。教師になる夢も捨てない。前を向いて生きてみせる』って?」 「・・・ははは。読んでるのか」 有理は白菜を切り終えて、3個目の大皿をラップした。 「先月号だったわね、このフレーズ。あやめサンでなくさやかサンだったけど。まったくもう、何がホントでどこまでホントなのか」 「ふん。もの書きなんて、うそ八百書いてなんぼの仕事でっせ」 それもウソのくせに。 「っあー!」 レンゲは悲鳴を上げた。カットバンが血を含み切れず、一筋の血が手首にまでたらりと垂れたのだ。 「けっこう出血してる。バンドエイドじゃダメじゃん」 「うわっ、気持ちわるっ。オレ、そーゆーの、ダメなんだ」 有理は冷たく目をそらした。 き、気持ち悪いだとー! 人が怪我してるのにぃぃぃ! なんだその男気の無さはっ!! あ、ヤバ。怒ると血のめぐりがよくなって、出血がひどくなりそ。 「ガーゼして上から包帯巻かないとダメかも」 自分ではもちろん巻けない。 「オレ、その傷口、見るのヤだからな。 ・・・あ、チャイムだぞ。ランが来た。いいところに〜。 おーい、ラン!」 有理・・・。あやめねえさん、思い切り軽蔑してると思うぞ〜。 < 2 > ランが器用に包帯を巻いてくれている間に、猫柳からの電話が来て、有理は迎えに出て行った。 「大丈夫? 痛みは無い? 鍋が終ったら、洗い物とかは僕がやるからね」 小さな蝶結びを作って、ランは言った。相変わらず優しい。 「へーき、へーき。ゴムしてやるから」 言ってからシマッタと思って「ゴム手袋のことだよ」と断りを入れて、わざわざ断りを入れる方が変だと気づき、赤面した。 ランは苦笑して、 「僕が洗い物すれば、その分ここに長くいられるじゃない?」と言った。 くすぐったくて嬉しいセリフ。とても心地よい。とても心地よいからこそ、不安になる。 「・・・ランって、ほんと、なんでそんなに優しいの?」 「えっ・・・」 切り裂いた包帯のちょうちょ。その先を長い指でつまんだまま、ランは言葉に詰まっていた。 「別に・・・優しくないよ、普通だよ、だって・・・」 何か言いかけて、口をつぐんだ。そして思い直したように、笑いながら先を続けた。 「それって有理を基準にしているからでしょう? そしたら、大抵の男はみんな優しく見えるってば」 「確かにそうかも」 レンゲは冗談に合わせてかぶりを振ってみせたけれど。少し気になった。ランは何を言いかけたのだろう。 鍋のいいトコロは、人が増えても、メイン(鶏肉や魚)を買い足さずとも、ごまかしが効くところだ。白菜とかエノキダケの量を増やしたり、最後に残りご飯を入れての雑炊大会にしてみたり。 まあ、有理はビールを飲むとたくさんは食べないし、猫柳も遠慮してか、それほどは食べなかったので、レンゲは鍋の最中に食材の買い出しに行かずにすんだ。 「しかし、あの時の小学生が、こんなにデカくなっちゃうなんてねえ」 猫柳は、さかんに感心してビールを煽った。ランが小学生の時に会っているのだ。 「わたしらが、歳を取るはずですよ。ねえ?」 「有理はともかく、私に振らないでくださいな。私はトシとってませんからね」 「ははは。レンゲさんがそう言ったら、神様だって怖くてうなづきます」 どーゆー意味じゃ。 そう言えば、あの時のランは、生意気で強引で、傲慢な子供という印象だった。中3で家出してきた時のランも、今より偉そうで自信家で。優しいと言っても、それは、『一般の女の子にモテる仕様』の優しさで。今とは全然違う感じだった。年月を経て、ランは確実にイイ男になっている。 雑炊が無くなり、ビールも底をつき、有理は猫柳氏を送りがてら、帰った。ランは約束通り、片付けを手伝ってくれた。 流しで洗い物をしながら、ランが、目の前の窓を見て、「雨が降って来たね」と言った。 「けっこう、土砂降りだ。有理、戻って来るんじゃないかな」 ダイニングでテーブルの片付けをするレンゲの耳にも、雨の音が聞こえだした。本当だ、土砂降りのようだ。 「コーヒー、入れといた方がいいわね」 レンゲは、有理の為に豆はキリマンジャロにした。ドカドカと騒がしく入って来て、雨に文句言いながらコーヒーを要求する有理の姿は、容易に想像できた。 「あ、コーヒー、僕も」 レンゲは「もちろんよ」と笑った。 だが、ランが洗い物を終えても、有理は戻らなかった。 レンゲは、有理が『今しようとしていること』を思う。でも、「距離をあける」なんて、今さら、なぜ。ランに厳しく言っている手前? レンゲが母の所に行くのを決めたから? それとも・・・レンゲがもう子供じゃないから。 有理は、雨の中、アパートに戻ったのだろう。 砂時計の砂、サラサラと。雨のように有理の肩に髪に降り注いで。 ランは白いマグにコーヒーを受け取ると「さんきゅ」と言った。大きなマグカップが、ランの掌に包まれて、華奢に見えた。 「酔い覚めのコーヒーは、おいしい〜。 雨が降ると、急に気温が下がりそうだね」 「ランのところ、寒そうだもんね。そのうち、うちから、ファンヒーター1個持って行っていいよ」 「ありがと。でも、ダメなんだ。電気暖房器具は、一部屋に一個って決まりでさ。うちには、電気毛布があるから。たくさん使うと、ヒューズが飛んじまうんだ。 しかも、暖房器具を使う時は、テレビや電灯も全部消さないとヤバイ」 ランは面白そうにクスクス話していたけれど。 「うそ。じゃあ、冬の試験の時とか、どうするのよ」 「サテンとかで勉強して、寝る為だけに帰るってことになるかなあ。試験より、課題制作が問題かな」 「・・・私、今月中に、ここを出るよ。11月になると急に寒くなるし。そうすれば、ランはここで暮らせるでしょ?」 「大丈夫だよ。あそこの住人は、みんなそうして過ごしてるんだ。レンゲさん、ここにいてよ、ギリギリまで。そんなに早くいなくなると、寂しいよ」 「う・・・ん・・・」 「レンゲさんが長く居てくれる方が、うれしいに決まってるだろ。寒いのなんて、服たくさん着てりゃしのげるんだから。 無理してると思う? 本気にしてない?」 「・・・。」 「こんなことで、泣かないでよ。参ったなあ」 ランはカップをテーブルに置くと、自分のシャツの腕で、レンゲの顔をくしゃくしゃっと拭いた。小さい子供の顔を拭くみたいに。 「ひど〜。乱暴」 本当にそう思ったわけでは無かったけれど。 そして、ランは、ぎゅっとレンゲの頭を抱いた。とても自然だった。 「僕が優しいとしたら、それは、相手がレンゲさんだからだよ。誰にでも優しくなんて、しないよ」 何時間も前の答えが、今、返って来た。 雨が激しく屋根を叩いている。ランの細くて長い指が、レンゲの髪に触れ、そして髪を梳いた。耳の後ろが熱い。ドクドクと脈を打っているのが、ランに聞こえてしまいそうだった。ランの腕の力がふっと抜け、体が離れた。 このあと、キスされるのがわかっていた。 ・・・今は、ダメ。まだ、ダメ。 自分の中で、声が聞こえた。 レンゲは、やっとのことで声を絞り出した。 「有理が戻って来るわ」 声が震えた。レンゲは、両手でランの体を引き離した。目をそらした。ランの顔を見られなかった。 レンゲの言葉を聞いた途端、ランはさっと腕を解いた。 「・・・そうだね」とだけ言った。もう、だいぶ時間がたっているのだから、戻って来るはずないのがわかっていたのに。 「今度、ホカロンでも差し入れしてよ。あれで今年はしのぐつもりなんだ」 話題を変えて、ランは快活にそう言うと、立ち上がった。 「帰るの?」 マグの中のコーヒーは、まだ半分も残っていた。ランはうなずいた。 「あんまり長居すると、あとで有理に叱られそうだし。絶対、『あの日、おまえ、何時までいた?』ってチェック入るもんな。雨がこれ以上ひどくならないうちに、帰るよ」 ごめん、ラン・・・。 玄関まで送ったレンゲは、傘立てに突き刺さった傘たちを物色した。必要な本数だけ出しておいて残りはしまうとか処分すればいいものを、ありったけの傘をぎゅうぎゅうに傘立てに押し込んでいるものだから、一本一本引き出して確認するのも難儀な作業だった。 「有理の置き傘持って行きなよ。大きいヤツじゃないと、ランは濡れちゃうでしょう」 黒いコウモリをやっとのことで見つけた。後はレンゲの女物の傘や、コンビニのビニール傘しかなかった。 「こっちのビニール傘でいいよ。それは、有理が戻ったら使うかもしれないだろ」 ランは『有理』にこだわった。戻るはずのない『有理』に。 やはり、さっき有理の名前を出したことが、ランにはこたえたみたいだった。もっと上手なすり抜け方があったかもしれない。でも、でも、レンゲだって慣れてないし、他に逃げる言葉が見つからなかったのだ。でも、確実に、ランを傷つけてしまった。 「・・・。有理は小さいから、こっちので平気だよ。持って行きなよ?」 レンゲは強引に有理のコウモリを持たせた。 ランはにが笑いしていた。 「ありがとう。今日はごちそうさま」 そう言って、土砂降りの中、金木犀館を出て行った。玄関の屋根を叩く雨の音は暴力的で破壊的で攻撃的だった。扉が閉まったあとも、レンゲはその音をずっと聞いていた。 自分だけが、濡れずに、ここにいる。 < 3 > 鍋だったから、ワインは飲まなかった。だから、手つかずで1本残っていた。「コップ」にワインをついで、ゴクゴクと飲んだ。どんどん飲んだ。酔って眠る為に飲んだけれど、そういう時に限って、意識は覚醒していく。 『ヤバ。眠れない。明日は会社なのに』 瓶が空になっても、睡魔はおそって来なかった。自分の本棚から、本を一冊引っ張り出す。外国のSFが並んだ前の一列を取り出すと、後ろにはずらりとパステルカラーの背表紙が並んでいる。有理の本だった。 こういう風に、隠すこと自体、問題かも。 レンゲは、本を読む計画は中止にして、本棚の本を全部床に出した。包帯の人差指を使わずに指に力を入れると、何度か手がツりそうになった。ほったらかしの本達も多く、ホコリが、ランのしてくれた包帯を灰色に汚した。 そして、全部出し終えると、今度は『タイトルの』五十音順に並べ始めた。普通は、作家の五十音順に並べるものだ。レンゲも最初はそうするつもりだった。でも、それだと『藍澤ユーリ』は、一番始めのところから、かなり大きいスペースを取ることになるだろう。 まるでレンゲの今までの人生みたいに。 それに抵抗したくて、タイトル順に並べることにしたのだ。 ハードSFやスペースオペラに、パステルカラーが所々混じって行く。 たまに、有理。思い出した頃に有理。 もっと早く、こうすればよかった。 もっと早く、出ていく決心をすればよかった。有理のそばは、安心で居心地がよすぎた。意気地なしだった自分。 ランの、引いた、無理した笑顔がよぎる。 『もう、遅いかもしれないけれど・・・』 ワインは、寝て起きた時に効いていた。 『頭いて〜』 頭のてっぺんがフライパンで叩かれたように痛み、両のこめかみも瞬きするだけでズキズキ痛んだ。作業は夜中にまで及び、軽い疲労のおかげで寝入ることは出来たのだが。 雨は、全然、微塵も、お情け程度にも小降りになっていなかった。ドタドタと軒を叩いている。 『神様だって、許してくれる』 レンゲは会社に仮病の電話をして、サボリを決め込んだ。こんな日は、しょうがない、と自分に言い訳する。 食欲はなかったが、コーヒーだけは飲みたかった。 キッチンに降りて行くと、昨夜、片付けられなかったサーバーのコーヒーが、冷えきって置きっぱなしになっていた。テーブルには、ランが飲み残した白いカップも、そのまま。 片付けて入れ直す気力は、とても起きなかった。サーバーのコーヒーを自分のカップに注ぎ、レンジでチンした。 「うえ〜、まじぃ」 覚悟はしていたが、想像以上のまずいコーヒーだった。砂をお湯で溶かしたみたいな味! でも、今のレンゲには、苦さだけが欲しかったから。 パジャマのまま、椅子に両膝をたてて丸くなって座り、両手でカップを包んで、ずっとうずくまっていた。強い酒でも飲むように、ちょびちょびとまずいコーヒーを嘗めながら。どれくらいそうしていたか、自分でもわからなかった。時間の感覚がなかった。 ガチャリとカギが開く音がして、『有理だ』と思って、初めて時計を見上げた。そろそろ昼になろうとしていた。 今一番会いたくないのがランだとすれば、燦然と輝く第二位・銀メダル野郎は有理に決まっていた。でも、逃げる気力も隠れる体力も無くて。レンゲは彫塑のようにそのまま椅子の上で固まっていた。 有理が置物と間違えて気づきませんように〜。 「なんだ。・・・サボリかよ」 台所をのぞいた有理は、からかい気味の声で言った。あっけなく見つかってしまった。当たり前か。 「どうしても必要な本が何冊かあって。まだ昼前なのに、悪いな」 珍しく断りを入れて、書斎に上がって言った。 数十分はたったのだろうと思う。近所の学校の12時のチャイムが聞こえたような気がするから。でも、有理が数冊の本を抱えて降りて来た時、レンゲはまだ置物になったままだった。 「コーヒー、オレにも・・・。あ、いーです、自分で入れます」 レンゲにジロリと睨まれて、有理は敬語になった。 ちらりと、ランのカップに視線を止めた。 「来た時、靴があったらそのまま帰ろうかと思ってたけど・・・」 棚から、豆の入った缶を取り出しながら、有理が語尾を濁らせた。 「用が終ったら帰れば」 二度目の一瞥にはさらに怒りがこもっていて、有理は肩をすくめた。 「探したけど、無かった本があるんだ。あやめの本棚にあると思ってたんだけど。高校の時の文集、知らないか? 今度、連載陣の中高生時代に書いた作文や小説を掲載する企画があるんだとさ。その頃の写真付きで。編集のやつら、オレ達の下手な文章を載せて、笑い者にする気なんだぜ、ちっくしょう」 「他のみんなは、高校の頃からうまかったから、『ほ〜う』と感心しようという企画なんだと思うけどな」 「くそ、どうせオレは今でも下手くそだよ」 フィルターに、バサッと力任せに轢いた豆を叩きつけている。 レンゲは、ゆっくりと、笑顔になった。 自分は、まだ小四だったっけ。 有理の書いたものを、初めて読んだ時のことを思い出した。優しくて切なくて。何か甘やかなモノがふうっと自分の中に流れ込んで来た、あの感覚。恋は、もう、あの時から始まっていたんだ。 しょうがなかったんだ。 レンゲは、「どっこいしょ〜!」と声を出して椅子から立ち上がった。 「うわ、ババくせぇ」 「ふん。・・・文集だけでいいの? 写真もいるの?」 「あ、写真も。す、すみませぇん」 レンゲは、昨夜(というか今朝というか)整理し終えたばかりの本棚の前に立った。姉の文集なら、『さっき見かけた』という感覚だ。 「はい、これでいいんでしょ」 「さんきゅ。こっちの本棚はタイトル順かよ。姉妹って、似てるというか、似てるようで正反対というか」 姉の方が作家順だったことを指しているのだろう。っていうか、それは普通だってば。 姉の高校時代の文集がレンゲの本棚にあったことも、開いてみると有理の作品のところ(姉のではなく)に付箋が貼ってあったことも。 有理はその不自然さには気づかないフリをした。 なにせ、知らんフリにかけては、年季の入った男だ。気づかぬフリをし通すと決めたら、きっと、炒飯にハエが入っていようが、家の前の道をヤクザ達の車が撃ち合いながら走り抜けようが、服のポケットから突然象が出て来ようが、動じることなくポーカーフェイスを続けるに決まっている。 「で、あとは姉さんのアルバム? 高校時代の写真なんて、自分の実家の方がたくさん残ってるでしょうに」 レンゲは、押入れからアルバムを引っ張りだした。 「あの家は、オレの私物なんて、全部焼き払っていそうだよ。だいたい、写真だけのために、わざわざ嫌な思いをして訪問する気もない」 有理はしらっとした表情で、姉のアルバムをめくり始めた。 「修学旅行の集合写真あたりが無難かな。・・・やだやだ。今と同じ顔してる。大人になってませーん」 有理はバリバリと上のビニールをはがし、大きな集合写真を爪で剥がしにかかった。台紙にへばりついたそれは、剥がすのに時間がかかった。 有理も。『自分は大人になれていない』と思っているんだ。 下がり気味の眉と愛想のない三白眼。カメラを睨み付けるように見つめている。きつく結ばれた、かたくなな薄い唇。泣くのを我慢している表情にも見えるし、何かに苛立っているようにも見えた。 「この頃って・・・まだ、ねえさんと付き合う前だよね?」 「ああ。修学旅行は、二年の初夏だったからな」 有理は、若い頃の写真を見られたくないらしくて、剥がし終えるとそそくさと文集のあいだに挟んだ。 「この頃から、有理はねえさんのこと、好きだったの?」 「えっ?・・・なんだよ、いきなり」 「いつぐらいから、ねえさんのこと、好きだったの?」 「・・・あー! レンゲ、おまえ、パジャマのボタン、一列かけ違えてるぞ。あ、ズボンも裏返しじゃないか、ほら、『綿100% メイド・イン・チャイナ』、タグが出てる。だらしねえなぁ」 「・・・。」 有理はあわてて話題をそらすと、文集を持って階段を降りて行った。今のは、照れてたのか? ・・・と、有理は階段の途中で立ち止まり、レンゲを振り仰いでにやりと笑った。 「おまえが、大人になったら話してやるよ。今はまだまだ、もったいなくて、話せませ〜ん」 きーっ、まったくもう、憎たらしいんだから! トレーナーとジーンズに着替えて下に降りて行くと、有理がコーヒーをカップにつぎ分けていた。レンゲの分まで入れてくれるなんて、天変地異が起こりそうだ。 最近、しばしば、有理はレンゲをきちんと扱う。まるで、「大人の親戚同士」みたいに。 持っていく書籍がテーブルに5、6冊積み上げられていた。雨の中を持って帰るのはけっこう大変だろう。レンゲは、ビニールで包んで、さらに防水加工の紙袋に入れてやった。 少し、元気になっていた。有理には、優しくされるより、腹がたつことを言われた方が元気になれる。不思議なことだけれど。 「何かあったわけじゃなくて・・・何もなくて落ち込んでるってところが、レンゲらしいというか・・・」 「うるさいな」 レンゲが元気になったのを見越して、すぐにいじめてくる有理だ。 「それもどうせ、ランが勇気出して意志表示しようとしたのを、殴るとか蹴るとかしたんだろ」 殴る蹴るの方が、まだマシだったかも。『有理が戻って来る』って言って逃げるなんて・・・。 「ま、奥手中の奥手、アマゾンの密林、インドの山奥で修行をしてってタイプだからなあ」 うー、面白がってるだろーっ、ちくしょー。 レンゲはがばっとコーヒーを煽った。ちょっと熱かったけれど我慢してそのまま飲み込む。 「あやめは、心配してた。『自分のせいで、レンゲが頑な女の子になってしまったみたいだ』って」 「・・・え?」 ねえさんが? ねえさんのせいって? 「あやめは高校の時は、『男ギライ』だったよ。男子生徒を嫌悪していたし、生徒だけじゃない、男性の教諭も嫌っていたフシがある。お父さんのことを恨んでいたからだと思うけど」 「・・・。」 「子供だったレンゲにも、随分言い聞かせてたんだって? 『男なんてくだらない』『男なんて嘘つき』『男なんて信じるに値しない』『男なんて好きになっちゃダメ』『男なんて』『男なんて』・・・」 「ああ、そうかも。でも、私はそんなに影響されてないよ、『また、ねえちゃん、言ってる。言わせておこう。言えば気がすむんだろう』って。そういう感じだったし・・・」 有理は吹き出した。笑って肩が震えている。手に持ったコーヒーが波打っていた。 「おまえって、ガキの頃から、まったく。 ま、あやめは、けっこう本気で苦にしていたみたいだ。杞憂だったようだがな」 父のせいではないと思う。ただ、『父がいなかったせい』はあるかも。この、男性免疫の無さは。 「別に、私がモテなかったのを、ねえさんのせいにする気はないよ」 「まったくそうだ。モテないのは色気がないせいだ」 断言して有理は、レンゲにぐーで殴られた。 「今夜にでも、ちょこっとランに電話入れておけよ。今日、必ずな。すぐに話をするのがいい。時間がたつと、わだかまりが残る。 きっと落ち込んでるぞ。あくまでも、なぁんにもなかったように、いつも通りに話すんだぞ。 話しづらいからやーめた、とか。いつも通りにできないからやーめた、とか、ダメだぞ。絶対、逃げるなよっ。 ここ一発、腹に力入れていけ」 有理は、わけわかんないアドバイスを残して帰って行った。それから、リクエストも一つ残して。 「金木犀、八割くらい咲いたら・・・」 「わかってるよ。切ってアパートに持って行ってあげるよ」 毎年のことだし。 「いや。電話をくれ。オレが取りに来るから。 わざわざ、持って来てもらうの、悪いだろ。オレが貰うのに」 青天の霹靂、である。 生来、横暴でも自分勝手でもわがままでもない有理だ。あれらは、レンゲを可愛いがってる(つもり)なのも、わかっていた。『一緒に遊んでいた』という感覚が正しいかもしれない。 小犬の前でジャーキーを掌で隠してからパッと見せてやるとか、小さな子供とボールで遊んでいてわざとちょっと遠くへ投げるとか。そんな種類の『楽しませるため』の意地悪だった。 そう、レンゲは、楽しかったのだ。キャッキャとはしゃいで、よちよちボールを取りに走る子供のように。 横暴で無くなったことが、寂しいだなんて。 有理が帰った後、コーヒーの残りを口に含む。有理の入れたコーヒーも、やっぱり、苦かった。 * * * * * * * * * * * * 夕方ランに電話を入れようと思っていたら、3時頃にむこうからかかってきてしまった。 心構えができていなかったので慌てたが、『腹に力を入れて』気合入れて出た。 今日、バイトが終ったら、帰りに傘を返しに行くという用件だった。『11時頃になるけれど、いいかな?』と。 いつもなら、本当は会いたいのにもったいぶって、『いつでもいいのに』とか『有理のだから返さなくてもいいよ』とか言ってしまうのだけれど、やはり今日は『気合一発』なわけだし、深呼吸して言葉を探し、「有理に文句言われたくないし、助かるわ」と答えておいた。 「その頃、門と玄関の灯をつけておくね」 『サンキュ。じゃあ、あとで』 ランも、努めていつも通りの口調で話しているようだった。時間があくほど気まずくなるから。ランもそう考えていたのかもしれない。 ランが来るまでに、『差し入れ』を買っておこう。使い捨てカイロのパックを買って、可愛いリボンを結んで。 ・・・もう一度、ランの笑顔が取り戻せるように。 ランの笑顔が、欲しいと思う。有理より本当に好きなのかとか、愛しているのかとか、これは恋なのかとか、そんなのの答えは出せそうにないけれど。確実に、本心から、『ランの笑顔が欲しい』と思った。 雨はやっと止んだようで、窓の外は明るくなっていた。 さあて、顔を洗って出かけましょうか。雨上がりには、金木犀も香ることだろう。 < END > ☆ 翌月へ ☆ |
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