十一月 セイタカアワダチソウ --- 「第三章 香りの庭から」 --- |
< 1 > はからずも11月に引越すことになった。 レンゲの転居先の家業はレストランなので、12月は忙しい。しかも土日のない商売だ。彼女の引越しは11月に行われた。で、レンゲの部屋が空いたということで、翌週には、ランも、ろくに電気が使えないボロアパートから、金木犀館に越すことが許されたというわけだ。 「いいなあ、ランくん、一戸建てに一人暮らしだなんて」 4トン車を転がしながら、クラスメートの楢崎女史がため息ついた。 「たった一カ月間だけですよ。しかも、来月の末には、口うるさいイトコと同居になって、僕は家政夫としてこき使われるんすから」 「イトコって、藍澤の恋敵って人?」 もう片方の隣には、やはり手伝いに来てくれた藤田が、肩をすぼめて狭そうに座っている。 「恋敵っていうニュアンスではないんだけど。僕が越えたくて越えられない男って感じ」 そうなのだ。自分がレンゲに思い切り迫れないのは、有理にはかないっこないとか、有理は偉大な男だとか、そう思ってしまっているからなのだと思う。 「ランくんが『越えたい男』だなんて、よっぽどイイ男なんじゃないの? 会えるのが楽しみだわ」 女史はうふふと笑うとステアリングを大きく切った。強いGがかかり、藤田は大柄なランに押し潰された。 「おくさ〜ん、勘弁してよ」 「あら、結婚してても、イイ男はイイ男として認識するものよ。あなたたち、人妻を神聖化しすぎてなぁい? それより、ラン君は早く地図を確認してほしいなあ。徒歩10分の道なのに車で迷うってどういうことよ」 そう、確かに。ランのアパートから金木犀館は徒歩10分程度。でも、大物は製図机くらいのランの引越しなのに、4トン車を持って来た女史にも責任はあると思う。それでなくても、金木犀館のあたりは、道幅も狭く入り組んでいる。4トン車だと迂回しないといけない道が多く、ランだって地元民じゃないし、すっかり迷ってしまった。 こじんまりした一戸建てや、庶民的なアパートが建ち並ぶ街並み。古い看板の商店。空き地にびっしり生息し、風になびく長身の黄色い雑草の群れ。黄金色の波頭のようにゆらゆらと揺れている。動くのは、猫。そしてまた、猫。 ランは、このあたりの風景が好きだと思う。 「今、金木犀館に電話してみる。地図見るより、地元民に聞く方が早いよ。 それにしても、楢崎女史の実家が、運送屋さんだなんて、意外な感じ。でもおかげで助かったけど」 ランは、レンゲの携帯にかけてみた。電源が切られていたので、今度は家の電話にかける。 「今は軽トラの方が需要が多くて、これしか空いてなくて。ま、タダで借りるんだから、勘弁してね」 女史は、独身の頃、家業を手伝うので大型免許を取ったのだという。 『アパートからの道で、迷ったって〜?』 呆れているレンゲの声が携帯から響いた。 『あ、わかった、そこなら桜井クンちのそばだ。うちに入る道の前まで出て行ってあげる。ファミマ曲がるとすぐだよ』 さすが、25年間地元民。 「ファミマ、曲がってください」 「はぁい」 「うわーっ!」 女史の運転は、見かけによらず、荒い。 トラックが金木犀館に無事辿り着くと、レンゲと女史の「いつもランがお世話に」「いえ、こちらこそ」などという大人同士みたいな(年齢的には充分大人同士ではある)挨拶の応酬が始まった。普段の二人を知っているだけに、ランはおかしくて仕方なかったけれど。 「あら? イトコって人は?」 「有理なら、来るのは力仕事が全部終った頃だよ」 「なあんだ。イイ男を拝見させていただくこと、楽しみにしていたのに」 「どこがイイ男なのさ。誇大広告で人手を釣ったわね」とレンゲはランを睨み付けた。 庭に一旦荷物を降ろすと、女史はトラックを置きに実家に帰った。こんな大きなクルマを、いつまでも止めておくわけにはいかない。 「駅からの道はわかる?」 「大丈夫よ。でも私も、搬入が終った頃に戻ろ。力仕事は、若い人達に任せるわよ」 荷物の搬入は藤田に手伝ってもらった。 「おまえ、パワーマック持ってるなんて、一言も」 「だって、電気が足りないから、今まで繋げなかったんだ。実家から送ったダンボールのままだよ」 「いいなあ、実家、金持ちなんだなあ」 「一人っ子だったからだよ」 パソコンも無用の長物だったけれど、製図机も大き過ぎて邪魔だった。とにかくアパートは狭かったので、製図机は食事テーブルを兼用していて、板が斜めにされることは一度もなかった。 部屋の掃除の途中で女史が戻り、さすが主婦、てきぱきと指示をくれて予想以上に早く終わった。レンゲが食事を用意してくれた頃、有理が現れた。 「いつもランがお世話になってます」と、有理も一応オトナのフリをして女史と藤田に挨拶をしていた。どうせ、一緒にメシ食えばバレるのに。 「じゃ、オレは」 有理が帰ろうとするので、 「え、食べていかないの?」 「ランの友達に挨拶だけしに来たんだ。保護者がいると、何かとやりにくいだろ」 それだけじゃない。有理は最近、ランとレンゲが一緒にいる時、必ず捌けようとしているように見えた。 「へえ、この唐揚げ、大葉が入ってますよね? どうやったのかしら? 擦り潰して入れたの?」 「ううん、衣に、塩の代りに『ゆかり結び』の素を入れてるんです」 「なるほど〜」 女同士って、不思議だ。同い歳のせいもあるのか、すぐに話題を見つけて仲良くなっている。 「藍澤のイトコ、だっけ? おまえがそれだけ意識してるほどの人なら、ちょっと話してみたかったな」と、サシミを頬張って藤田が言った。 「そう言えば、藤田くんも浮いた噂を聞かないけど、彼女いないの?」 酔いで心持ち頬を赤くした楢崎女史が、空いた藤田のグラスにビールを注いだ。 「えっ? オレかよ〜。おくさん、勘弁してよ」 「エンレンしてるんじゃなかったっけ?」 「藍澤、ばかっ、しぃぃぃっ!」 「え〜、地元にいるの、彼女。高校時代の? どんなコ? 写真持ってる〜?」 女史の攻撃が始まった。うへえ。こっちには来ないで欲しいと祈るランであった。 「一週間たって、どう? 新しいトコの住み心地は」 まだ一応大人のフリしてるレンゲに話題を振る。 「そう言われても、つい最近まで二週間も居たし、『戻った』って感じだよ。 ランこそ、今日から、きっと寂しいよ。一軒家の一人暮らしなんて、初めてでしょう?」 一人で寂しいなんて、子供じゃあるまいし。でも、ランは「そうかもね」と笑った。 「かわいそうだと思ったら、レンゲさん、今夜泊まって痛っ」 ばしっとゲンコがボディに入った。あいかわらず防御が堅い。 「駅まで送るよ」 食事が終わり、ランは三人と一緒に表に出た。 庭は、コート無しではちょっと寒い。夜と言っても、まだ近所の家から子供の見るアニメの主題歌が聞こえてくるような時間だった。 「寒いから、いいんじゃない? レンゲさんが一緒なら道は確かだし。荷物からまだコートを出していないのでしょ」 トレーナー一枚で両腕をきつく組んだランに気づき、楢崎女史が気を効かせた。 みんなを門まで見送った。三人ともクラスメートで三人とも同い年みたいに、和気藹々と駅に向かって行く。 玄関に引き返す途中、昼間空き地で見かけた長身の雑草達が、この庭にも群生していることに気づく。 月明かりにさわさわと揺れる黄金色の花たち。ランの肩に触れて黄色い花粉を残す。 『ほんと、荒れた庭だよな。野っ原に群れるような雑草が、普通、庭にここまで咲きほこるか?』 レンゲだけを引き止める言い訳や策略も、考えれば考えついたと思う。バッグからこっそり鍵とか携帯とかを抜いて、テーブルの下に落としておいたり、とか。『〇〇が見つからないけど、どこにあるの?』と言って残って一緒に探してもらったり、とか。そういう策略をするのは、慣れていたし。でも、あえて、後ろ姿を見送った。 こっちへ来て、自分は変わったと思う。高校までの、何でも思い通りになった世界。大人だと思っていた、18歳の自分。 セイタカアワダチ草より、ほんのちょっとだけ、背が高いにすぎない自分に気づく。 レンゲには、誠意以外、たぶん通用しない。 距離が変わることを。遠くなることを、マイナスとは思いたくなかった。 「はっくしょーん!」 ランは大きなくしゃみをして、犬のようにブルルと震えると、あわてて家のドアを開けた。 まずは、荷を解いて冬物を出すところから始めよう。 < 2 > 有理が顔を出したのは、それから三日後だった。ランが夕飯の肉じゃがを煮ていると、ひょっこり入って来た。名目は、古書店で買った本たちを書斎に置きに来たと言うのだが、様子を見に来てくれたことは間違いない。 ランは水商売のバイトは辞めた。来週から、駅前のビデオ屋の夕方から深夜のバイトに就くことになっていた。ただ、有理の夕飯のことなどもあるので、週三回にとどめた。引越しが済んでからは、初心者用料理の本を購入して、レパートリーを増やすために勉強中である。今夜も、真面目に面取りまでして、肉じゃがを煮ているところだった。 「有理、ごはん食べていく?」 「いいのか?」 「もともと、うまくできたら持っていくつもりだったんだ」 有理は、「ありがたい」とキッチンテーブルに腰掛け、ラークに火をつけた。 「食材費、置いていくな」 「いいよ、そんなの。それに、買ったのは肉だけだし。米も野菜も、レンゲさんが残してあったのを使ってるんだ。助かってる」 レンゲは、保存食品も置いていってくれたし、シャンプー等の日用品も「嫌じゃなきゃ使って」と言って全部置いていってくれた。これはランにはかなり助かった。今、ランの髪はフローラルブーケの香りである。 鍋を弱火にして蓋をすると、ランもテーブルに座った。 「まだもう少しかかるんだ。ビールでも飲む?」 「いいや。帰ったらまた仕事だから。 レンゲからは、連絡あったか?」 ランの様子を見に来るというのも、名目のようだった。結局、本当は、レンゲの様子を知りたいというところか。 「だって、日曜に会ったばかりだよ。気になるなら、有理が自分で電話すりゃあいいじゃん」 「やだよ。気にしてると思われるとシャクじゃんかよ」 「だって本当に気にしてるくせに」 「うるさい」 有理はふんとばかりに煙を吐き出した。ほーんとに素直じゃないんだから。 「電話してみるよ。今日、来ないかなぁ」 ランはコーディロイのシャツのポケットから、携帯を取り出した。 『僕。肉じゃがを作ってみたんだけど。有理も来てるんだけど、食べに来ない?』 「オレを引き合いに出すな!」 有理はテーブルの向こうで怒鳴っている。レンゲにも聞こえたことだろう。 『うん。残念だけど。じゃあまたね』 「今日、会社の歓送迎会なんだって。残念。 有理が居る時じゃないと、呼べないだろ。僕だけの時に呼んだら怒るから。 だいたい、急に、レンゲさんと離れようとするの、かえって不自然だよ。僕は、普通にしていてくれた方が、闘い甲斐があっていいんだけどなあ」 「誰がおまえと闘うかよ」 「ああ、僕が、有理の存在を越える為に、自分と闘うって意味だよ」 ランは苦笑して、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。 「おい、オレが飲まないって言ってるのに、自分だけ飲むのか。それなら、オレも飲むぞ」 「やれやれ」 ランは、有理の分も取ってやった。 「仕事って、今の連載の?」 「いいや。以前からずっとやってみないかって言われてた、ヤングアダルトの雑誌」 「ふうん。どこがどう違うの」 「ヤングアダルトは、『まめに改行しなくていい』、『主人公が十代でなくてもいい』、あと一番大きな違いは『セックスシーンを書いていい』かなあ」 「へえぇ。楽しみ、有理の書くベッドシーン」 「ばぁか。書いていいってだけだよ」 「なあんだ、出て来ないのか。それも不自然じゃん」 今度は有理が「やれやれ」と苦笑した。 気の短い有理は『まだか』『まだ出来んのか』と文句を言ったが、ランはきっちり30分鍋を火にかけた。初心者だからマニュアル通りと言うのもあったが、ランの方は待つのに慣れているせいもあったかも。おかげで、初めて作った肉じゃがは大成功だった。 「うまかったよ。サンキュ」 珍しく有理が素直に礼を言う。 煙草とライターをジャケットにしまって立ち上がると、思い出したように、「あ、それから」と言った。 さっきから言う時期を測っていたのは明らかだ。 「別に、オレは怒らないぞ。怒る立場でも無いし、怒る権利も無い。だいたい今までだって、レンゲが住んでた時、おまえ一人でメシ食いに来てただろ」 一時間も前の話だったので、ランは最初何のことかわからなくて、きょとんとした。気がついて、苦笑になった。 「そんなこと言うと、毎日レンゲさん呼んじゃうよ」 「だから、来るかどうかは、むこうの気持ちだろ」 「ちぇっ。・・・あーあ、がんばろ」 有理が帰って、テーブルを片付けていると、小鉢の下に500円玉を見つけた。 お金なんていらないって言ったのに。しかも、なんて有理らしい置いて行き方。でもまあ、助かるし、いいか。 と、スリッパに何か当たった。小さな重い物。蹴っ飛ばされて壁にぶつかって止まった。黒い・・・小銭入れのようだ。有理が500円玉を出して、落っことしたのだ。 「大人なことをしようとしても、なんかスマートじゃないんだよな、有理って」 小銭だから困らないだろうし、すぐに気がつけば取りに戻るだろう。ランはテーブルにぽんと置いた。 チャイムが鳴った。 へええ、気づいて取りに来たか。 だが、ドアを開けたら、レンゲだった。 「あれえ。どうしたの? 会社の飲み会は?」 皮のコートに、モヘアの丸首ワンピース。ピンクパールのネックレスまでしていて、普段の通勤着ではなく確かに会社のイベント用という感じの装いだった。 「一次会は終わったよ。会社のなんて、6時に始まったら8時にぴったり終わるよ。 料理がヒドかったから、ランの肉じゃがが食べたくなっちゃって」 『来るかどうかは、レンゲの気持ち次第だろ』という有理の言葉を思い出して、心の中でガッツポーズをするランであった。 あ、でも・・・。 「ほんの今、有理、帰っちゃったんだ。忘れ物してったから、戻って来るとは思うけど」 この言い方、ちょっとずるいかなと自分で反省する。 「有理が褒めてくれたぐらいだから、おいしくできたと思うよ。よかったら、食べてってよ」 レンゲは、テーブルの小銭入れを見て、「あーあ、有理、バカねえ」と笑っていた。 「駅に着いて、慌ててるわね。これが無いと、電車に乗れないもん。有理はここに来る時、札入れまでは持って来ないことも多いから」 「だって、レンゲさんも駅から来たでしょう。擦れ違わなかったの?」 「あ、ほんとだ。じゃあ、タクシーで帰ったのかな」 煮崩れに気をつけて、鍋を温め直す。レンゲの箸も茶碗も残っていた。よく考えると、日用品も、ランの為に親切で残したというわけじゃなく、単に面倒だから置いていったのかも。 「うわあ、おいしそう。いい飴色してる」 「食べてる時のレンゲさんは、ほんとに幸せそうだなあ。あ、残してあった野菜とか調味料、勝手に使わさせてもらってマス」 「使ってくださ〜い。ああ、おいしい。ホントに初めて作ったの? ラン、料理の才能あるよね」 「レンゲさんを釣るのは、やっぱ食べ物か」 「え、何よ。失礼ね」 ハグハグとじゃがいもを頬張っているので、憤慨で頬をふくらませているのは、あまり目立たない。 「お金無いからサ。一流レストランなんて誘えないし。せめてせっせと料理を勉強して、おいしいもの作りま〜す」 「それって、私がおいしい食べ物に釣られてやって来るって言いたいの?」 上目使いに睨んでいる。 「じゃあ、僕が好きだから来てくれてるの?」 うーん、ストレートすぎたかな。 「しょってるわねえ」と軽くかわされてしまった。さすがにあんまりストレートだと、冗談だと思われたか。 「レンゲさん、食べてる時、嬉しそうだからサ。嬉しそうな顔をいっぱい見たいだけ」 これはさすがに少しは効いたかも。ちょっと照れて、わざとむっとした表情になる。 ランがコーヒーを入れようとすると、「あ、私がやるよ」と、食べ終えたレンゲが立ち上がった。 「ごはんのお礼。そろそろ切れそうだと思ったから、豆も買って来たんだ」 現金でなく、物で返してくれるところが、『やっぱ女性なんだな』と思わせた。ランの経済力の無さは周知の事実だが、プライドもあるだろうと気を使ってくれたに違いない。 「実は、私も忘れ物してるんだ。部屋の押入れの中。あ、別に、取りに来たわけじゃなくて、処分してくれればいいの」 コーヒーをすすりながらレンゲが赤面しながら言った。ランは、ああ、あれかと思った。でも、「ふうん。どれ?」ととぼけた。気づかなかった振りをした方が、レンゲも恥ずかしく無いだろう。日用品を全部置いていったレンゲは、みごとに生理ナプキンのストックも忘れていったのだった。まったく、しょうもない。 「僕が捨てておけばいいのかな?」 「あ、自分で捨てる! 中、見ないで! 部屋、入っていいかな?」 レンゲは真っ赤になって立ち上がった。なんかもう、中学生の女子みたいで、おかしい。 「どうぞん。・・・意外にきれいにしてるだろ?」 「押入れ・・・」 「はいはい。このビニールだろ? はい」 ランは、スーパーの青いビニールに入ったままの、そこそこ大きい荷物(でも軽い・笑)を取り出して、レンゲの胸に押しつけた。ガサゴソと賑やかな音がした。 「なっちゃって、ここに忘れて来たことをやっと思い出した、ってところ?」 ちょっと意地悪してからかうと、かあぁぁと頬を赤くして、「違うわよ!」と叫んでから、 「あ! 中身見たのね!」とさらにわめいていた。 「そんなの、気にするようなコト? 美大のコなんて、隣に男子生徒がいても平気で『お徳用』買ってるぞ〜」 「どうせ、ガキよ。悪かったわね」 ムキになるレンゲに、ランは肩をすくめた。 ランは別のことで悩んでいた。有理は戻って来るだろうか。来月から有理と一緒に住み始めたら、この家でレンゲと二人きりになれるチャンスは二度と無いかも。チャンスの神様には前髪しかない。千載一遇。一期一会(それはちょっと違うぞ)。 ビニール袋を胸に抱いて、ガサゴソ部屋を出ていこうとするレンゲの背中を、「レンゲさん」と、名前を呼んで引き止めた。もっとさりげなく呼び止めたつもりだったのに、声に力が入っていた。レンゲの背中が緊張したのがわかった。『あっちゃ〜、しまった』と思ったけれど、もう遅い。 「なに?」と振り向くレンゲ。 『何』と聞かれても何もありません。ただ、このチャンスを生かしたいだけ。何も言葉が出て来ない。喉の奥が、接着剤で貼りついたみたいにくっついて、声が出なかった。今までなら。他の女のコの時なら。自然なセリフやしぐさで、キスして、ベッドまでだって持ち込めたのに。 何やってんだ、自分。 生まれて初めて、臆病でどんくさくてカッコ悪い自分を噛みしめる。足が震えてる。 「あのさ・・・」 声を絞り出す。瞬きばかりしてる。気の効いたセリフなんて何も出て来ない。 『なんで?』と思う。答えはよくわかっている。 レンゲが荷物を抱き直してたグシャグシャという耳障りな音と重なり、ランの口から「好きだ」という小さな声が吐き出された。 聞こえなかったかもしれない。レンゲはまだぽかんとしている。 ランの方も、言ったまま固まってしまった。もっと違ったやり方もあったとは思うんだけど、もう言ってしまったもんはしょうがない。 レンゲは、うつむいた。耳まで赤くなっているのを見ると、ちゃんと聞こえはしたようだ。まるで中学生の初めての告白みたいで、ランは情けないようなもどかしいような気持ちでいっぱいだった。 「気づいていたとは思うけどさ」 ランは、やっとのことでそうつけ加えた。 「・・・ひどいわ」 「え?」ランはひやりとした。レンゲを何か傷つけるようなことをしてしまったのか? 表情には真剣さが増し、悲壮とも言える眼差しでレンゲを見つめ、次の言葉を待った。 「人が生理ナプキン抱きしめてる時に、告白するなんて」 レンゲは、頬を膨らませて、ほんとにちょっと不服そうだった。ランは吹き出した。緊張がほぐれ、楽になれた。でもきっと、レンゲは本気でもっとロマンチックに告白してほしかったのだろう。ごめん。 「いつまでも生理ナプキンをかかえてるからいけないんだろ?」 ランはクスッと笑いながら、レンゲの腕をほどいて荷物を下においた。そして、やっと、レンゲを抱きしめた。 レンゲは体を堅くしたけれど、今度は抵抗はしなかった。自分の胸にうずまる、ちいちゃなレンゲがいとおしかった。髪に触れる。 「伸びたね、髪。伸ばしてるの?」 コクンと胸でレンゲがうなずいた。やっと自分のペースになってきた。すっと体を引いて、すばやくキスをした。レンゲは小柄なので、膝をいっぱい曲げた。 階下で、電話のベルが鳴っていた。五回コールして留守電。有理の声がした。ランは腕に力をこめた。もう、レンゲを離さない。 『そっちに、小銭入れを忘れたと思う。来週にでも取りに行くから、預かっておいてくれ。中身はともかく、レンゲから貰ったヤツなんだ』 レンゲの肩がぴくっと動いた気がした。いつあげたものなのか、思い出している。有理の、たぶん素直じゃなかった礼の言葉や、照れくさそうな顔。 レンゲの指が、肩が、瞳が。心が揺れているのが見えた。透明マニキュアの指が、ランのシャツをつかんだまま、凍りついている。ランは、その指を掌で覆い、力を込めた。 「離さない」 負けたくなかった。有理にではない。『有理にかなうわけがない』と、闘う前に萎えてしまう、自分に。 ここで手を離したら、この前と同じ。自分も、そしてレンゲも落ち込むんだ。またレンゲは、有理を忘れていないことに気づいて、泣くんだ。 強引な口づけ、そして抱擁。ランの手がモヘアのワンピースの肩を抜いて、首にキスをした。ベッドまで、あと三歩のところにいた。 突然、レンゲに突き飛ばされた。 よろけたランは、レンゲを見降ろして、初めてレンゲが泣いてるのに気づいた。 「ラン、ごめん。待って。もう少し、待って」 「レンゲさん・・・」 「私も、ランのこと、好きだよ。ウソじゃないよ。だけど・・・。 初めて好きって言われて・・・キスされて・・・。そのまま『初めて』なんて、やだ。 ごめん。子供だって笑って。でも、怖いの。お願い、少し待って」 「・・・。」 気づかなかった。気づいてあげれなかった。 レンゲはマジで奥手でねんねで、恋愛経験が無くて。ただ、ランとの『大人の恋』に怯えていただけだったのに。 有理の影を気にしていたのは、自分の方だったなんて。 すうっと、肩の力が抜けていった。 愚かな自分。 臆病なレンゲの想いにも気づいてあげれなくて。 「ごめん、僕こそ。・・・強引すぎたね。本当にごめん。もう、泣かないで」 「・・・。」 子供みたいにしゃくりあげるレンゲ。6コ下のランの方が、6歳年下の女の子(ってことは13歳かよ)を押し倒そうとして泣かしちまったような、妙な感じだった。 レンゲには、誠意しか通じない。そう、ほんとにそうなんだ。 「レンゲさんの気持ちがわからなくて、焦ってた。遠くへ引越しちまったせいもあるかな。このまま、曖昧なまま離れて行ってしまいそうで、怖かった。 僕は高校時代はあんまりマジメじゃなかったけど、こっちへ来てからは、レンゲさん一筋で、ほんとに本気で好きなんだからね」 後で考えると赤面しそうなほど、本音を吐露してしまったかも。レンゲは、やっと泣きやんで、ゆっくり頷いた。 「クリスマスまでには、ローストチキンもデコレーションケーキもマスターしておくから。今年のイブは、一緒に過ごそうよ。予定、無いよね?」 「あるわけないでしょ、悪かったわね。また食べ物で釣ろうとしてるわね」 レンゲはいつもの口調になって、笑顔を見せた。ランは小さくガッツポーズをした。 「やった、約束成立。ま、邪魔者の有理のことは無視して、楽しいイブにしましょう。 ・・・さあて。駅まで送って行くね」 玄関のドアを開けると、木枯らしが吹き込んで来た。 「さむ・・・」 両手をこするレンゲに、ランは手を差し出す。レンゲは微笑むと自分の手を重ね、ラン達は手をつないで歩きだした。 曖昧な檸檬の膨らみを持つ月が、凍りそうなほど綺麗な夜だった。耳と鼻の頭が冷たいけれど、つないだ指先は暖かかった。 庭の黄色い草が波打つ。まだまだ自分は未熟で小さいけれど。でも、これからだ。 < END > ☆ 翌月へ ☆ |
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