魔の街に棲むキメラ

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< 4 >

 その日は、朝から、夏のように暑かった。シャツは、肘までしか腕まくりできない。それ以上折ると義手の金具が覗く。
 数人の似顔を描いたが、午後からはもう、暑すぎてとどまる者が少ない。
『今日はあがったりだ』
 そして暑さの次は夕立だった。
 陽が暮れかけた頃、往来は急に闇に包まれ、轟音の雷と共に驟雨が道を襲った。カルヴィーノは慌てて荷物をまとめ、ロトの店の軒先に隠れた。
 今日は店じまいとしても、雨が止むまで宿にも帰れない。足元では、強い勢いで地面に叩きつけられた雨の棒が、折れて跳ね返り、カルヴィーノのくるぶしにぶつかっていた。たかが雨でも、痛みを感じるほどの強さだ。突然、辺りが金色に明るく染まる。大きな落雷がとどろき、雨は強さを増す。もう、今夜は客なんて通りっこない。
 コンコンと、背後でガラスを叩く音がした。
 振り向くと、ディヤーが、『入ってらっしゃい』と手招きしていた。

 カルヴィーノがドアを押すと、客は当然誰もいなかった。ディヤーはいつもの作り笑顔で、「すごい雨ねえ」とタオルを差し出した。ロトも暇そうにテーブルで雑誌を広げていたが、娘以外のウエイトレスに「もう帰っていいよ」と指示を出した。
「道の前が、川みたいになってる」
 ディヤーは窓から外を眺め、面白いものを見るようにはしゃいでいた。雷や豪雨に喜ぶ類の人間がいるが、彼女もそうなのかもしれない。
「オレも、あのまま道にいたら、流されてたかな」
 髪を拭きながら冗談を言うと、「そうよ、感謝なさい」とウインクを返してきた。
 ロトが雑誌から顔を上げ、「よかったらシチューでも食っていかんか?だいぶ余っちまったんでな」と嬉しい提案をしてくれた。
「え、いいんですか」
「今、持って来るわね」と、ディヤーは厨房に引っ込み、すぐに皿にたっぷりと注いで来た。今度は父の前だからか、『熱いわよ、気をつけて』のサービスは無しだったが。
「じゃあ、いただきます。ありがとうございます。
 そうだ、お礼ってほどでもないですが。食べたら、ディヤーさんの似顔絵、描きましょうか?」
 確かにいつもディヤーは仕事中なのだ。描いてやりたくても、なかなか機会は無く、今夜はいいチャンスかもしれない。
「え、ほんと?わあい」
「よかったな、ディヤー。
 いや、実は、あんたに描いてもらう為に、休みをくれとまで言われてたんですよ」
 ロトはそう言って笑った。
「でも、絵を描くとなると、時間がかかりますよね?悪いが、雷でマハーヴァも心配なんで、わたしは先に帰らせてもらっていいですか?」
 父親とは、こう無頓着なものなのだろうか。カルヴィーノは首を傾げる。自分はせいぜい10日ほど前からの知り合いに過ぎず、どこの馬の骨ともわからぬ風来坊なわけだが。娘と二人きりにすることに、危機感は無いのだろうか?それとも、風采の上がらぬカルヴィーノが、とても安全そうな男に見えるのか。
「ディヤー、店の戸締り頼むな。あ、客の忘れ物の傘、カルヴィーノさんに出してやりなよ」
「はあい、了解。・・・マハーヴァ、今頃ガタガタ震えてるでしょうね」
 それが楽しいことででもあるように、妹はふふんと鼻で笑った。そしてスキップで店のドアの札を『CLOSE』へとひっくり返した。
  
 食事を終え、椅子を向かい合わせに並べると、画家とモデルはその椅子に腰を滑らせた。
 カルヴィーノは足を組んでスケッチブックを開き、偽の右手で木炭を摘む。
 ディヤーも、椅子にいい子の姿勢で座り、嘘の笑みを返す。営業用のかわいこちゃんスマイルを首の上に貼り付けていた。
 注文をつける気はない。絵はロトへの礼だっだ。背景はこの食堂。看板娘のアイドルショット。店の宣伝ポスターにしてくれ、くらいのつもりだった。
「姉さんは・・・雷が苦手なのか」
 外はまだ時々稲光が光る。雨は止みそうにない。
「臆病なのよ。毛布をかぶって震えてれば、すべて災難は去るとでも思っているのでしょ」
 容赦ない言い様だった。笑みが消えている。初めて会った時、姉に似たカルヴィーノを見た時の、色の無い表情を思い出した。
「仲が悪そうだな」
 その問いにディヤーの瞳が金色に輝く。
「別に。相手にしていないわ、あんなヒト」
 唇が怒りに震え、それを押し殺そうとしていた。
 その表情に惹かれ、その通りに手が動いてしまいそうで、カルヴィーノは自粛した。そんな表情を描いても、自分は楽しくても、ロトへの礼にはとてもならない。
「この、肖像画みたいな構図だけじゃなくて。もう1、2枚、描かせてもらっていいかな。すぐ描き終わるから」
 間違いない、ディヤーは姉を憎んでいる。時々、カルヴィーノを見る表情に、棘が混じる。カルヴィーノの頬の線に、瞳の形に、髪の質感に。戸惑いながら嫌悪を隠せず視線をそらす。
 それがカルヴィーノには面白かった。快感、とさえ言っていい。例えば自分の腕にナイフで傷をつけ、滲んでくる血をじっと見つめているような。
 ディヤーは「いいわよ」と承諾した。
「あたしをモデルとして、気に入ってくれたのかな?」
 今度は媚びたように笑いかける。天使の仮面なのか、悪女のベールなのか。わからない女だった。
 カルヴィーノは、すでに2枚目のデッサンを取っていた。ディヤーがテーブルに肘をつき、背を丸めたポーズ。可愛い振りの笑顔はもう無い。上目使いにカルヴィーノを見つめている。
 ディヤーは、立ち上がると「どんな感じなの?」とスケッチブックを覗き込んだ。衿から覗いた胸が、カルヴィーノの鼻先をかすめる。どう考えても挑発している。
「あら。シリアスな感じだわね。けっこうあたしっていいオンナ?」
 カルヴィーノに気があるとは、とても思えない。どちらかというと、忌んでいるように思う。ディヤーが誘惑してきた理由は、ただ一つだ。
『マハーヴァに似ているから』
 カルヴィーノを自分の虜にする。この顔を目の前に膝間付かせたい。支配したい。自分の掌で転がしてやりたい。
 それとも、この顔に泣かされたい?支配されたい?転がされたい?今よりもさらに憎悪が増すように。
「よくわからん。・・・だが、面白い女だ」
「面白いなんて、ヒドイわ、レディに向かって。・・・へえ、こんな木の燃えカスみたいので描くんだね」
 ディヤーは、カルヴィーノの右手を軽く握った。義手は、何も感じなかった。目で見て、手を握られているなと思うだけだ。
「ああ」と、カルヴィーノは掌を広げ、木炭をテーブルに落とした。掌も指も炭で黒く汚れている。
「絵を描くことしか、興味ないの?」
 ディヤーは、自分の両手で、カルヴィーノの右手を掴み、自分の頬に当てた。左頬に黒い汚れが付着する。
『・・・。』
 ディヤーの闇にはたまらなく惹かれた。ただの可愛い振りした女の誘惑なら、乗るわけもなかった。
 カルヴィーノの義手が、今度は自分の意志でディヤーの頬から顎へと滑り、首へ降りて黒い線を作っていた。線は、衿の大きく開いたドレスの肩を抜く。
「更衣室があるのよ。そこならソファもあるわ。行く?」
「いや、この床の上で抱いてやるよ。仕事中にトレイを抱えてこの床を通る度に、オレを思い出せ」
「こ、ここで?でも、窓から・・・」
 戸惑うディヤーを無視して、カルヴィーノは木の床に押し倒した。ディヤーは客相手に遊んでいる女かもしれないが、カルヴィーノは宮廷貴族相手の画家だった。少年の頃からあんな場所に出入りしていると、いいことも悪いこともたくさん教わった。
『オレを膝間付かせる気なら、お笑いだよ』
「外は土砂降りだ。誰も通りゃしない」
 窓は、叩きつけられる雨粒が破裂して流れ落ちて、何も見えない。雨のカーテンがかかっているようだった。乱れ髪のような銀の雨が踊る。

 床に横たわる裸婦のデッサンを終えて、カルヴィーノはスケッチブックを閉じた。
「その肘の痣は何?両腕の同じところにあるけど」
 ディヤーが寝そべったままで尋ねる。裸の背中には直に床の冷たさが伝わるだろうが、火照った体には丁度いいかもしれない。
「痣じゃない。金具だ。オレの両手は義手なんだ。
 遠い国の王侯貴族達の。奴らの肖像画なんぞ描いてたのさ。王妃の絵の目つきが色っぽすぎるって王様に疑われて、姦通の罪で両手首を斬られた」
「・・・でもそれってどうせ、冤罪じゃないんでしょ?」
「まあね」
「だと思ったわ。あんたならやりかねない」
 たぶんディヤーの想像しているのとは違う。だが、カルヴィーノは特に反論しなかった。苦笑してみせただけた。
「姉さんってのは、そんなにオレに似ているのか?」
 ディヤーの表情がいきなり曇る。姉の話題が出るのも嫌そうだった。
「姉そっくりの男と寝た気分は?」
 ぷいと横を向いて起き上がり、乾いたしぐさでとっとと下着を付け始める。
「オレ本人には、何の興味も無かったくせに」
 ディヤーは返事もしない。黙々とドレスのボタンを嵌めていた。
 ロトは、ディヤーが画家を誘惑しにかかることを知っていた。暗黙の了解。何かの罪の償いのように、見て見ない振りをして。だから、カルヴィーノが娘を抱いたと知っても、とりあえず殴られずには済みそうだ。
 カルヴィーノは椅子にかけてあったシャツを羽織った。雨は少し小降りになってきたようだ。・・・傘はまだ借してくれる気はあるだろうか?


< 5 >

 雨は明け方まで残っていたが、朝陽に追い払われるようにして止んだ。カルヴィーノは眩しさに目を細め、だるい体をベッドから起こす。宿の窓に届く木々の葉が、水を含んでプリズムのように輝いていた。
 窓から下の路を見降ろす。庭の土の上も、門までの石畳も、まだ水たまりが消えていない。たぶん、ロトの店の前もこんな具合だろう。陽が高くなって路が乾くまで、店は広げられない。
 もう一度ベッドにもぐり込んでひと眠りしようか、それとも・・・。
 昨日の夜からずっと。眠っている間も。夢を見ながらでさえ、己の欲望を意識していた。『マハーヴァに会ってみたい』。
 自分と同じ顔の異性。瓜二つの顔の下から伸びる、たぶんカルヴィーノより細くて華奢な首。胸の膨らみ、くびれた腰。自分と同じで違うもの。
 それは、鷲の頭に獅子の体を繋がれたグリフォンや、獅子の顔に山羊の体を持つキメラのようだろうか。それとも、ケンタウロスやマーメイドのようなのか。
 想像すると、両手が震えた。歓喜なのか畏れなのか。両腕でしっかりと自分の肩を抱き、震えを静める。
 一目見てみたい。そして、『描きたい』。
 その想いは、雲の切れ間から差し込む陽のように、真っ直ぐでひたすら強く、曲がることなく突き進む。誰にも止められない。たぶん、太陽自身にさえ。

 ロトの屋敷の場所は、噂で聞いておおよその見当が付いていた。肩に画材を背負い、だがカルヴィーノはロトの店の前でなく、屋敷の方を訪れた。ロトとディヤーは、もう当然店に居る時間だった。
 背の低い鉄の門と、小さいが整った庭。二人が仕事に出た時のままなのか、門は半分開けっ放しだった。カルヴィーノはまばたきの間も躊躇せずに中へ入った。
 大きな屋敷ではないが、壁には蔓草が絡み、木の扉は年輪に似た艶を持つ、長く人間が暮らした匂いのする古い家だった。ドアについたノッカーを2度叩く。引きこもりの姉は在宅のはずだが、当然返事は無い。もう一度叩く。結果は同じだ。そっとノブを握ると、ビクともしなかった。中から幾つ鍵を掛けていることやら。
 カルヴィーノは、壁に沿って庭を進んだ。狭い通路だが、芝はきちんと刈られ、樹の枝も肌を襲うことは無かった。庭師が入っているわけではないだろう。引きこもりは結局時間を持て余している。
 裏口へ回った。『裏口』と言うより、庭へ出るテラスと呼んだ方がいいかもしれない。ガラス張りのテラス窓から厨房を覗くと、テーブルに大きなジャガイモの籠を乗せて、小花模様のドレスの女がひたすら皮剥きをしていた。下を向いているので顔は見えないが、カルヴィーノと同じ、色素の薄い銀の髪をしていた。自分と同じ髪形を想像していたが、マハーヴァの髪はストレートで長く、後ろで地味に一つに括っている。陽が当たり、それが銀というより白髪に見えていた。
 ロトの店の食材なのだろうか。女が両腕で抱えてやっとという大きな籠だ。中は茶色い土まみれの澱粉で、籠に狭苦しそうに押し込められている。テーブルにはこぼれた土が点々と踊っていた。左にはバケツみたいな大きな器が置かれ、裸にされた芋たちは、そこに放り込まれた。
 マハーヴァは顔を上げない。ひたすら芋の皮を剥き続ける。こんなに長く見つめ続けているのに、全く気づかない。・・・彼女は外の世界を遮断している。
 ガラスをノックする。やっと気づいたマハーヴァがはっと顔を起こす。
 マハーヴァは想像以上に自分に似ていた。目の配置も、眉の細さも、髪の荒れ具合も、鼻の形も、唇の薄さも。こけた頬の線、少し尖った顎。気味が悪いほどだ。そして、想像以上に華奢だった。筋の出る細い首には、喉仏が無い。狭い肩幅だった。
 ガラス戸の鍵は締まっていなかった。カルヴィーノはガラリと開けて、声をかけようと唇を開いた。
「動くと刺しますよ!」
 マハーヴァが立ち上がってナイフを向けた。土で汚れた刃が上を向いている。陽が反射して灰色に色を無くした瞳は、歪んだ鏡のように何を映しているのか曖昧だった。だが、本気なのはわかる。人だろうが犬だろうが鳩だろうが、雄がこの線から入り込もうとすれば、容赦無く刺すことだろう。
 飾りの無い木綿のワンピースは衿が詰まっていて鎖骨は見えないが、シンプルな形の分、胸の隆起と腰のくびれを際立たせた。カルヴィーノの顔に、女の体が付いている。
『キメラだ・・・』
 膝が震えた。
 声のことは想像から外れていた。自分と同じ形の唇から、細くて高い女の声が発せられて、カルヴィーノは一瞬驚愕で茫然とした。鏡の自分に話しかけたら女性の声が口から飛び出しような、そんな衝撃だった。
「君を描きたい。君の絵を描かせてくれないか?」
 自分の素性や、ロト達と顔見知りのことや、玄関は3度もノックしたことや。先に釈明すべきことは、すっ飛ばされた。
 ナイフの柄に込めた力を緩めず、マハーヴァは侵入者の顔をまじまじと見つめた。しかし、すぐにその指の力が抜けるのがわかった。
「あなたがカルヴィーノさん、ですか?」
 家族から聞いていたのだろう、自分そっくりの似顔絵描きの噂を。
「描かせてくれ。オレに顔がそっくりな異性がいると聞いて、描きたくてたまらなくなった。モデルになって欲しい」
 カルヴィーノは自分の望みだけを、火山の溶岩のようにひたすら溢れ出させる。
 マハーヴァは警戒を解かず、ナイフを握り続けた。
「父はあなたを真面目そうな絵描きだとは言ったけれど・・・。妹からは色々な話を聞いています。特に昨夜は」
「・・・。」
 姉の目は嫌悪感で溢れていた。ディヤーは何を話したのだろう。カルヴィーノにレイプされたとでも言ったのか。それとも、この腕を無くした姦通事件のことか。
 ディヤーは姉を嫌っている。そんな姉妹なのに、男と寝たことを、彼女はいちいち男嫌いの姉に報告しているのか。胸元のキスマークを見せつけ、どんなポーズを強要されたか嘯き、眉をひそめ耳を塞ぐ姉の表情を楽しみながら。
 潔癖そうなこの姉には、ディヤーと寝たというだけで、カルヴィーノも不潔で危険な雄の一匹ということになるのだろう。
「君の絵を描きたい」
 カルヴィーノは、ただそれだけを繰り返す。マハーヴァを前にして、他の言葉は考えつかなかった。
「お断りします」
「なぜ!?」
「・・・妹もモデルに誘ったそうですね」
「昨日ディヤーと寝たことを非難しているのか?」
 やっとカルヴィーノから別の言葉が発せられた。マハーヴァを見て痺れたよう動かなかった思考能力や冷静さが、少しは戻ってきた。
「言っておくがあれは合意だぞ。それに、オレの方が誘惑されたんだ。あんただって、妹がどんな女か気づいてないわけじゃないだろう」
「ディヤーのことを悪く言わないでちょうだい。あの子は、私の代わりに14から店に出ていた。私があの仕事を嫌がったから。
 皿を運ぶと男に手を握られたり、フロアを歩くだけでいやらしい目で見られたり。私は耐えられなかった。あの子は、私の身代わりになったのよ」
 いや、ディヤーはあの仕事に向いていると思う。楽しんでやっていると思うのだが・・・。だが、マハーヴァの中には妹への負い目があり、妹を自分の窮地を救ってくれた天使のように考えているらしい。
「あんたに、指一本触れる気はないよ」
 というより、いつだってモデルの女に手を出すつもりなんてない。ディヤーの場合は特別だった。ディヤー本人に惹かれた。絵の対象としてでなく、彼女自身に興味を持ってしまった。それは『惚れた』ってことかもしれないが、カルヴィーノにはその感情が計れない。ただ、言えるのは、『描きたいもの』と『触れたいもの』は、別なのだ。
「そんなこと、どう信じろって言うの。私は男と部屋に二人っきりでいるのはごめんよ」
「・・・椅子を一つ貸してくれ。オレは庭で描く。このガラス戸の鍵を閉めて、あんたは気が済むまで中でジャガイモを剥けばいい」
 マハーヴァは、右手でナイフを向けたまま、左手一本でダイニングの椅子を引きずった。折り畳み式の木製の椅子だった。それをカルヴィーノに手渡す時も、ナイフの方もカルヴィーノの喉元に近づけた。相当の警戒ぶりだ。
「適当な時間になったら、オレは勝手に仕事に行くから。オレが消えたら椅子を取り込めばいい」
 椅子を受け取り、まだ少し湿っている芝の上に広げる。椅子の白木の背には、マハーヴァの手の泥がこびりついていた。マハーヴァは音を立ててガラス戸を閉めると、素早く明確なしぐさで鍵を閉めた。木枠の穴に、螺旋状の棒をはめ込むタイプの鍵のようだった。
 マハーヴァは、またジャガイモ剥きに戻る。
 テーブルが邪魔で、マハーヴァの胸から下が見えない。カルヴィーノはガラスを叩き、指で『テーブルのこっち側に移動してくれ』と指示を出した。マハーヴァは無視する。
 カルヴィーノはムキになって、ガラスをガンガンと殴った。『全身が見えない。こっちに移動してほしい』とスケッチブックになぐり書きした文字を窓越しに見せる。
「やめて、ガラスが割れるわ!」
 ガラス越しでも、怒鳴れば声はきちんと聞こえるようだ。
「割られたくなければ、移動してくれ!」
 これでは脅迫だった。だが、マハーヴァはしぶしぶ、ジャガイモの籠を抱えて窓際の椅子に移動した。
「ありがとう」
「割られたら、掃除が大変だからよ」
「・・・掃除、好きだって聞いてるけどな」
 なにせ、屋敷に籠もって一日中掃除してるという噂だった。
 カルヴィーノが軽口を叩くと、きっと睨んだ。目が細いので、脅しの効く視線だ。自分も人を睨む時、あんな顔になるのだろう。

 カルヴィーノは、組んだ膝の上にスケッチブックを広げた。マハーヴァは、庭に人がいることを忘れるように、ナイフを動かし続けた。手元だけを見つめ続ける。窓へは絶対視線を上げない。
 義手の右手では描き切れない。このグリフォンを。キメラを。この右手は、所詮自分では無いのだから。
 カルヴィーノは、木炭を唇にくわえ、スケッチブックを膝から胸の位置まで高く持ち上げた。首が動き、白い紙に黒い筋が走る。輪郭、長い髪、流れるような首の線。
 黒い炭が容赦無くマハーヴァの動きをなぞる。籠に伸ばした腕の長さ、肘の曲げ具合。肩が凝った時に首を左右に曲げる動き。芋を握る指の関節の一つ一つ。ナイフを握る筋の一つ一つ。
 マハーヴァが足を組み変える。膝の移動、角度、ずらした腰の位置、伸ばした爪先。コロコロと芋を一個取り落とす。拾う時の屈む動作。肩と背中の線、背筋。襟足。首の後ろの骨の丸さ。
 カルヴィーノの銀の目はすべてをトレースし、唇からそれを紙に伝えた。
 マハーヴァの骨格はほぼ把握できた。服のたるみや布地の張り具合で、肉のつき方も少しは読める。だが、まだまだ足りない。
 カルヴィーノは、唇からポトリと木炭を落とした。黒い口紅でも塗りつけたように、唇が闇の色に染まっている。
 口は、長い時間木炭をくわえるようには出来ていない。絵を描き続けるようにも、だ。疲労で口角が痙攣していた。
 カルヴィーノは頬に指を触れた。軽い筋肉痛がした。今日はこれが限界だ。

『明日も来ます』
 画用紙を一枚切り取り、そう書いて椅子の上に置いて、その庭を去った。


< 6 >

 ロトの店に着いたのは、もう夕方近かった。カルヴィーノが居なければ居ないで、通行人は何も無かったように路を通りすぎて行く。
 敷物を敷いていると、窓が開いてディヤーが顔を出した。
「今日は来ないかと思ってたよ」
 目をくるんと回すと、照れたように言って下を向いた。営業用では無い笑顔を初めて見たかもしれない。
 昨夜の今日だ。カルヴィーノが姿を現さないので、ディヤーなりにヤキモキしたり考えを巡らせたりしたのかもしれない。
「ちょっと用があったんだ。あ、しまった、傘を忘れた」
「いいよ、返すのはいつでも。どうせ客の忘れ物だし。・・・唇に汚れが付いてるよ?」
「え・・・あ、そうか」とシャツの肩で口を擦る。黒い汚れが白い布にこびりついた。
「ああ、ダメだよ、それじゃ。ほっぺたにまで広がっちゃったわよ。それ、何?炭?歯にまで付いてる。オシボリを持って来てあげるね」
 ディヤーは熱いオシボリでカルヴィーノの頬を拭こうとした。
「い、いいよ。自分でやる」と手を出すと、ぶうっとむくれた。
「わかった・・・。拭いてください」 
 カルヴィーノは観念して顔を突き出した。
 この街で繁盛している大きな酒場の看板娘だ。ディヤーに惚れている男は多い。一度くらい抱いたからと言って、風来坊画家が恋人気取りできるような相手でもないろう。だが、ディヤーの握る熱いタオルで、頬が火照った。赤面している自分に戸惑う。

「マハーヴァ?」
 その声でディヤーの手は凍てついたように動かなくなった。間違われるのは久しぶりだった。振り向くと、まだ若い男だ。農夫の行商なのか、作業着姿で空の大籠を背負っていた。麦藁の下、陽に焼けた朴訥な顔が覗いている。
「いや、すみません。人違いでした。ディヤーと仲良く話していたので、つい」
「ピート!!」
 耳元でディヤーの歓声が炸裂した。
「いつ来たの?仕事?ご飯食べて行ってくれるよね?」
「うん。お義父さんには・・・ロトさんには挨拶をと思って来たんだ」
 マハーヴァの夫だった男、か。幼なじみだと聞いている。ディヤーとも親しかったはずだ。背も高く立派な体格をしていた。誠実そうで真面目そうで。申し分無い青年だ。
「パパも喜ぶわ。さ、入って!」
 タオルはカルヴィーノの手に押しつけられた。蒸しタオルはもう冷めて、湯気が消えている。温度が下がるのは早いものだ。ディヤーは、店の玄関から客人を迎える為に飛んで行った。
 人前ではきちんと『父』と言っていたロトのことを、あの男の前では『パパ』と呼んでいた。カルヴィーノは、路に独り取り残される。
 今日は、仕事をしないで帰ろう。マハーヴァのスケッチだけでも気持ちが高ぶっていた。神経はすり減り、疲れ果てている。つまらない似顔絵描きで、数枚の銀貨を稼いでも仕方ない。
 カルヴィーノが、絵を描く気分になれないのは、珍しい事だった。
 辻の似顔絵描き。旅から旅の流れ者画家。地に足を付けて土を耕す農夫に比べれば、なんて薄っぺらい男なのだろう。

 翌日は、布を薄く巻いた木炭を数本準備した。これで唇に炭は付かない。歯でくわえるにも、布で巻いて太くしておいた方が楽なのだ。口でくわえるて描くだけだと、疲労が激しい。
 マハーヴァは家族に告げただろうか。予想では『否』だ。
 もし告発するくらいなら、初めからカルヴィーノは刺されていた。ガラス戸を開けた瞬間に。
 マハーヴァは、ガラス越しでも、描くことを許可した。あの折り畳み椅子は彼女自身が貸したものだ。あの行為で、もうマハーヴァは家族に言えなくなったはずだ。

 今日は、門はきっちり閂がかかっていた。しかも閂に錠までしてある。こんな低い門ではあまり意味は無いのだが。マハーヴァの意思表示ということか。カルヴィーノは、門柱に片手をついて、勢いをつけて飛び越えた。
 一応、礼儀でノッカーを叩く。3回。もちろん、返事のあるわけもない。
 庭へと回る。ガラス戸の中では、マハーヴァがワークシャツとオーバーオールで床の雑巾掛けをしていた。
 ガラスを叩くと、こちらに気づいた。相変わらず今日も自分と同じ顔だ。2日目でも、この違和感には慣れない。 
「今日も描かせてもらいます」
「誰がいいって言っ・・・」
 怒りに任せて立ち上がったマハーヴァは、テーブルの端にしこたまオデコをぶつけた。
『痛っ!』
 カルヴィーノも、思わず手で額を抑えてしゃがみこんだ。痛みのあるはずもないのに。
 もし昨日、マハーヴァがナイフで指でも切ったら、自分も指を握ったのだろうか。そうかもしれない。妙な気分だ。鏡に捕らわれてしまったような。
『馬鹿な。じゃあ、マハーヴァがファックされている場面を見たら、おれも感じるってことかよ』
 自分に無い子宮口がどう感じるっていうのだ。愚かな考えだ。
 昨日ロトの店の前で会った元亭主を思い出す。ピートと言ったっけ。自分の肌に触れられたわけでもないのに、あの男の顔を思い出すと怖ぞ気が走った。
「はい、椅子。・・・言っておくけど、今日は厨房にずっと居るわけじゃないから」
 マハーヴァは、ガラス戸を細く開けると、椅子を手渡した。眉の上が赤くなっている。
「オデコ、平気?」
「・・・。」
 返事をせずに、ぷいと横を向いた。
 ありがたいことにワークシャツのボタンは2つ外してあった。鎖骨が覗く。掃除で暑いせいもあるのだろう。袖も三回ほどめくってあり、腕の筋も肘の骨もしっかり見えた。
 肘には金具が付いていない。不思議な気がした。
「昨日、ピートって人に会ったよ。ロトの店の前で」
「そう」
 反応は無かった。だがここまで無反応というのは、それを装っているのかもしれない。ピートが来店したことは、もう妹から聞いていたのだろう。姉をいたぶるには十分な事件だ。ディヤーがこれを逃すわけはなかった。
「掃除が終わったら、この部屋に戻ってきて欲しい。そのテーブルの脇に立っているだけでいい。昨日は座っている姿しか描けなかった」
「約束する義理は無いわ」
 ガラスはピシャリと閉じられた。

 雑巾がけはすぐに終わり、マハーヴァは厨房から姿を消した。昨日より動きがあったので、新しい絵は幾つか描けたが・・・。マハーヴァは本当にずっと戻って来なかった。
 カルヴィーノは、ひたすら待ち続けた。ヒグラシだろうか。まだ夏でも無いのに、気の早い蝉が庭の樹にしがみついて鳴いている。太陽はゆっくり動き、カルヴィーノの座る椅子の影が、日時計のように少しずつ回って行く。
 何度目かの伸びをして足を組み換え、十何度目かのため息をつく。
 確かに、マハーヴァがこの部屋でモデルになる義理は無い。カルヴィーノの方が勝手なことをしているのだ。警官兵を呼ばれても仕方のないことを。
 カルヴィーノは待ち続ける。陽が落ちて来た。椅子の影は東へ長く伸びる。暗くなるとストリートの似顔絵は描けない。今日も仕事ができなかった。
 この庭とて同じだ。もう手元が見えないだろう。カルヴィーノは諦めて立ち上がり、椅子をたたむ。のろのろと椅子を引きずり芝生の芝をちぎる。最後のため息をついて、それをガラス戸に立てかけた。
 急なランプの灯で目が眩んだ。マハーヴァが厨房に入って来たのだ。カルヴィーノが帰ることを決めた後に。
 もう昨日と同じ小花模様のドレスに着替えていた。竈に火をくべているので、家族の夕食を作るのだろう。
 もしかしたら、2階からでも庭を眺めていたのかもしれない。諦めて立ち上がるカルヴィーノを確認して、下に降りて来た?
 カルヴィーノはガラスを叩く。
「明日こそは、きちんとポーズを取ってくれ。いや、今、ちょっとだけでも描かせて欲しい。灯りのある室内へ入れてくれ」
 彼にはそんなことを頼む権利は無いのだが、叫ばずにはいられなかった。
「義理は無いと言ったでしょう。明日も、厨房になんていないわよ」
「ディヤーに言うぞ。椅子を貸したこと。それは描いていいって許可と同じだ」
「・・・!!」
 マハーヴァは慌てたようだ。初めて表情を崩した。そして、観念したようにガラス戸を開けた。
「少しなら中で描いていいわ。でも私は、勝手に炊事をさせてもらうわよ」
「ありがとう、マハーヴァ」
「この板の線から絶対こっちに来ないでよ。もし一歩でも入ったら、熱湯を頭からぶっかけるわ」
「・・・。了解」
 マハーヴァは本当に熱湯をかけることだろう。もっとも、引かれた線を越えるつもりは毛頭なかった。
 マハーヴァがカルヴィーノに背を向けているおかげで、容赦なく視線を走らせることができた。こんな風に嘗めるように背中やうなじを眺めたなら、マハーヴァでなくても怒るはずだ。だが彼女は竈に向き続ける。カルヴィーノと視線を合わすのを避けているのかもしれない。
 背中には贅肉が無い。軽く背を曲げると、布の上からも背骨が浮き上がっていた。裸の背は容易に想像がつく。唇にくわえた木炭は、白い紙に勝手にその背中を描いた。くびれたウエスト。マハーヴァは痩せていた。尻の肉は薄く、貧弱だろう。太股は筋肉質で少年のようだと思う。ふくらはぎも細いし、足首は白くて華奢だ。そのあたりからはドレスの裾から覗き、見え隠れした。
『これは、キメラでは無い。獅子を見て、山羊を思い出して、それが合体したのを想像して描いているのと同じだ。それなら自分の顔を鏡で見ながらでも描ける』
 カルヴィーノはパタリとスケッチブックを閉じた。口から炭を吐き出す。
「明日で終わりにする。もし、あんたが・・・いや、いいよ、無理だ」
「言いかけてやめるなんて、気持ちが悪いわね」
 竈からやっと視線を移し、腰に手を当て振り返ったマハーヴァだった。
「オレは・・・あんたが異性だから描きたかった。自分と同じ顔の異性だから。今のままでは、オレが女装して鏡を見て描くのと同じだ」
「何がいいたいの?」
「あんたの着衣でない姿が描きたい」
「ば・・・バカじゃないのっ!?」
 マハーヴァは、沸騰する鍋から、杓で本当に湯を投げてきた。もっとも、カルヴィーノの足元、床で跳ねただけだったが。
「あんたが、性的な接触を嫌って出戻った事も予想はついてる。だから、無茶な頼みだっていうこともわかっている。
 でも、オレはあんたが描きたい。もちろんガラス越しでいい。あんたは鍵をかけてここにいればいい。オレは庭からあんたを描ければいい。
あんたは、オレを見て不思議な感じはしなかったか?同じ顔で、でも男なんだぜ?」
「それは・・・。そう、そりゃあすごく羨ましかったわよ」
「羨ましい?」
「だって。男のあなたは、男性からいやらしい言葉を投げられたり、胸を触られたりすることは無いでしょう?ある年齢に達したからって、結婚させられることもないでしょう?」
「羨望を打ち砕くようで悪いけど」
 カルヴィーノは、マハーヴァの言葉を遮った。
「オレは宮廷のお抱え画家だったから、お相手は女だけじゃなかったぜ。15の時から。男でも女でも。一人でも二人でも」
「・・・。」
「みんながオレの絵を褒めたたえる。でも疑心暗鬼だった。いい絵を描いている自信があった。なのに、地位を固める為に、男娼まがいのことをするのが当然の業界だった。断れば、今までの地位は危うくなる。何かが狂っていたんだ、あの世界は。
 罪を着せられ、あの国を追い出された。それでオレはやっと自由になった気がする」
「カルヴィーノ・・・」
「オレが女だったら、王は姦通罪なんて言い渡さなかっただろうがな。男だから楽だなんてことは無いサ」
「ご、ごめんなさい・・・」
 マハーヴァは、さっと顔を赤らめた。自分だけが不幸を背負っていると思っていたのだろう。それを恥じたように見えた。
「いや、別にあんたが謝ることじゃない。
 少し喋り過ぎたかな」
 自分のやっていることが、どんなに勝手なことだったかわかっていた。静かに暮らすマハーヴァにとって、どれほど迷惑だったかも予想はついた。
 マハーヴァは結局、情の深い優しい女なのだろう。
「・・・夕飯、私は先に一人で食べるんだけど。あなたも食べていく?」
 カルヴィーノは苦笑する。
「いや。ロトの店に食いに行くつもりなんだ。今日、路上に顔を出していないし、ディヤーにも会っていないから」
「それは・・・一日一回はディヤーに会いたいってこと?ディヤーが好きなの?」
「え?」
 いきなり突っ込んで聞かれて、カルヴィーノはうろたえる。まばたきをくり返す。唇はうまく言葉を紡ぎ出せず、噛みしめられて形を崩す。
『そりゃあ・・・好きじゃなきゃ・・・しません』
 そんなこと、この姉の前で言ったら、また熱湯が飛んで来そうだが。が、心の中で自分の気持ちを認めてしまった。はっきり意識したくなくて、ずっと曖昧にしていたのだが。
「そう。ディヤーも、あなたのこと、気に入ってるみたいよ。ライバルは多いだろうけど、がんばってね」
 いや、それは・・・。違うのはわかっていたが、マハーヴァに説明するわけにはいかない。『大嫌いなあんたに、オレが似ていたから』とは、とても言えまい。
 カルヴィーノは、道具箱に出したものを全部しまうと、立ち上がって肩にかけた。
「明日来て・・・あんたがここに居なかったり、居ても着衣だったら。何も声をかけずに諦めて立ち去る。二度とここへは来ない。約束する。
 迷惑をかけた。すまなかった」
 ガラス戸から出て行こうとするカルヴィーノに、「玄関から出たら?」と言ってくれたが。
「いいよ。いまさら」
 カルヴィーノは苦笑して出て行く。

 一度宿に戻り、道具箱を置いて、借りた傘を持ってからロトの店に行った。
「あ、傘は入り口の傘立てに差しておいてください」
 他のウエイトレスに注意される。
「これはオレのじゃなくて。前にディヤーから借りたんで、返したいんだが」
「お客様の忘れ物の傘ですね。お預かりします。空いたお席にどうぞ」
 空いた席と言われても、混んでいるので探すのが大変だった。隅のテーブルの、一番端にやっと腰掛けた。
 ディヤーは、相変わらず忙しそうに走りまわっている。笑みを作りながら。遠くのフロアにいるのに、笑い声が届く。料理を届けると、かならず一言二言客に声をかけていく。忙しいとウィンクだけしていく時もある。
『あ・・・オレの絵』
 その背後の壁に、焦げ茶の木枠の安っぽい額縁が飾られていた。中には、モノクロのディヤーの絵。店の椅子に座って膝をかかえ、口許だけで微笑んでいる。いわゆるグラビア笑顔ってやつだ。背景はこの店だと一目でわかる。暖かな大きな木のテーブルと、しっかりした椅子たち。懐かしい風合いの壁、道に面した大きな窓。
 店に飾ってくれたってことは、ディヤーもロトも気に入ってくれたってことだ。描き手のカルヴィーノには、そういうのが二番目に嬉しい。
 一番は、自分が納得したものが描けた時。二番目が、お客の喜ぶ顔を見た時。報酬が大きいとか実績になるというのは、三番目だった。
 ディヤーはその日は、カルヴィーノにちらっと手を振ってみせただけで、オーダーを取りに来たのも料理を運んだのも他のウエイトレスだった。だが、その額縁の存在は、カルヴィーノを充分に楽しい気分にさせた。

 会計に立った時、初めてディヤーが気づいた。伝票を受け取り、レジ打ちしながら、「病気なのかと思って心配しちゃった」と言った。
「油できちんと描きたい題材を見つけたんで。今、そっちにかかってる。オレ、油絵が本職なんだ」
「それで食えないなら、本職は似顔絵でしょう」
 レジが『正解!』とでも言うようにチン!と返事した。痛い言葉だ。
「じゃあ、明日も路には出ないの?」
「いや・・・。たぶん明日からは、戻るよ」
 明日、モデルに振られて。それで諦めがつくだろう。スケッチは随分残した。あれでたぶん一枚描ける。毎日、夕方宿に戻ってから少しずつ仕上げればいい。


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