王様の金のグラスの、金のワイン

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 街から街へ。その銀の髪の男に目的は無い。乗合馬車に揺られ、次の都市を目指す。
 暮らす場所はどこでも構わない。常春の穏やかな村でも、灼熱の砂漠の街でも、たとえ冥界でも。彼には、イーゼルを立て、画材を広げるスペースさえあればいい。
 旅の同伴者は彼をこう呼ぶ、『絵に取り憑かれたカストル』。カストルは、双子座の片割れの名前である。
 昼下がり。次の街も近く、馬車は乗客の午睡の邪魔をせぬよう、穏やかに走っていた。女性版ポルックスは、布張りの壁に頭を預けながら船を漕ぐ。彼と酷似した荒れた銀の髪の質感、鏡合わせのような目鼻立ち。小石の衝撃で馬車が揺れ、額を壁に打ちつけそうになるのを、彼が慌てて抱き寄せる。馬車に乗る時には、毎回、『拳一つ離れて座って』『指一本触れないで』と戒厳令を敷くわりに、無防備に深い眠りに落ちる。
 窓から入り込む風は、森の木々の香りがした。男の長過ぎる前髪をさらさらとなびかせる。左の瞼の上を走る、傷の跡が覗く。
「マハーヴァ。そろそろ街に着く。起きろ」
 肩にも触れず、愛想無しの口調で声をかける。性別の反転したレイス(ドッペンゲンガー)。マハーヴァを連れた旅も、そろそろ季節を二つ越す。

 到着した都市の名はピットアンバー。『琥珀』の意味を持つ。眠らぬ街のイルミネーションを宝石に例えたのか、酒の色のことを差すのか。人口も多く娯楽も多い大きな都市だと聞いた。確かに、乗合馬車の降車場も人の出入りが多い。街の門をくぐってからも、窓からは派手な商店の店並が続くのが見えた。
 少し長く留まり、似顔絵描きの仕事を続けるつもりだった。女連れの旅は、野宿もできず、乗物にも乗らねばならず、金がかかった。

 まだ陽が高い。仕事場を探す時間くらいはありそうだ。荷物を置くのと、同伴者を部屋へ押し込めておく為に、まずは宿を探した。石造りの二階三階の建物が並ぶ。食堂、酒場、薬屋、洋服屋、帽子屋、たくさんの商店が軒を連ねる。広い往来には、果実や野菜を売る屋台が出て、もの売りの声がかまびすしかった。
ピットアンバーには、観光客目当ての高級ホテルから、出稼ぎ労働者向けの簡易宿までさまざまな宿泊施設があった。かなりの都会なのだ。男は、宮廷画家として暮らした都市を懐かしく思い出した。
 柄も悪くなく、質素だが清潔な宿を見つけた。『ショールの宿』というその旅館は、隣の下宿と並行して営業しているらしい。ここのオーナーらしい受付の恰幅のいい老婦人は、地味なカーディガンを羽織り、細い毛糸で編み物に熱中していた。まるで女子寮の寄宿舎長のように堅実そうな婦人で、そんな婦人の経営する宿なら安全だろうと思われた。顔を上げた婦人は愛想よく、祖母が孫を受け入れる笑顔で客を迎えた。
記帳した名を確認し、読み上げる。
「カルヴィーノさん?そちらは?妹のマハーヴァさんね?双子なの?」
 あまりにそっくりなので、二人を見た者はたいていそう尋ねる。神経質そうな眉、目つきのいいとは言えない細い瞳、通った鼻筋、唇が薄くて大きな口。細面で尖った顎とこけた頬の輪郭。まるで間違い探しのゲームだ。相違点を探す方が難しかった。わかりやすい答えの一つは、カルヴィーノの左目が常に瞑っていることぐらいだろう。
「いや」とカルヴィーノは苦笑する。
「妹は俺よりだいぶ若い。双子と言われると不機嫌になる」
 肩をすくめてみせた。マハーヴァは5歳ほど年下のはずだ。
 マハーヴァは長いまっすぐな髪を後ろできりりと結び、衿の高いドレスを着込む。痩せて肩がとがった体型までそっくりだ。女だてらに背は高い方だろう。カルヴィーノは長身というわけでは無いので、ヒールのブーツを履いたマハーヴァと殆ど同じ背格好だった。
 カルヴィーノが『女性のように美形』なわけではない。マハーヴァが男顔で、しかも女っぽさのカケラも無いのだ。その髪のようにパサパサで、少しの潤いも無い女だった。
 二人が兄妹であることを疑う者はいない。そう金持ちで無い画家は、部屋を二つ取らずに済むので助かっていた。マハーヴァとは完全な他人の空似、何の血の繋がりも無い。

 部屋は裏通りに面し、日当りも悪く、値段相応だった。粗末なベッドが二つ並んだだけの部屋の床に、カルヴィーノは画材の木箱を、マハーヴァは旅の荷物を下ろした。
「絶対、ここから入らないでよ」
 マハーヴァは早速ベッドの間にロープを張り、シーツで部屋を二つに分けた。この狭い部屋を二つに分けたら動きが取れない。だが、抗議する気は無かった。マハーヴァの男性嫌悪症にはもう慣れた。熱帯魚はいつまでも飼い主に懐かずに可愛げが無いと聞いたことがあるが、まさにそんな娘だった。
 カルヴィーノは似顔絵描きに必要な道具だけを抱えると、マハーヴァを残して部屋を出た。特に忠告しなくても、彼女が部屋から勝手に出て行くことは無い。人、特に男性と接することを嫌うマハーヴァは、この宿でも引き籠もりを決めていることだろう。

 受付の老婦人に、人の多く集まる気さくな食堂を尋ねる。酒が出る店の方がいい。自分の食事の為では無い。道で似顔絵を描くにしても、繁盛している店の軒先を借りる方が有利なのだ。
 よく肥えた婦人は頬の肉を揺らし即答した。
「ああ、それなら『ディオニュソス』だね。活気もあるし、大きな店だ。料理が安くてボリュームもある。明るい店だから、初めての客も気後れせずに楽しめるだろうよ」
 カルヴィーノは婦人から道筋を聞き、店があるサロス・ストリートへと出かけて行った。


< 2 >

 サロス・ストリートは、そう危険も無さそうな繁華街という趣だった。気取りの無い服装ののほほんとした通行人達が、食堂などの窓を覗き込みながら楽しげに歩いている。
近くに劇場が幾つか並び、その前は広場のようになっていた。通りは飲み屋や食堂が劇場から吐き出す客を待っている。人の流れも多い。広場には、手作りのアクセサリーを売る者や、人形使い、ジャグラー等がいた。ジャグラーはコミカルなオルゴールの音楽に合わせ、夕闇が降りて来た空に幾つもボールを放り投げては、器用に順繰りに回して取る。芸人の周辺には人だかりがして、先の道へ通るのがやっとだった。
『ディオニュソス』はすぐにわかった。既に明りが灯った同じ形の窓がたくさん並んでいた。この幅が一つの店だとすると、かなり大きい酒場だ。軒下も、カルヴィーノが座って作業を進めるのに十分なスペースがあった。窓も広く、少し暗くなってからも灯で手元が見えそうだ。ただ、これほどの店の前で誰も商売していないというのが気になった。店長が厳しく取り締まっているかもしれない。
黒い太めの桟が扉をモダンに見せた。霞んだガラスが、気温の下がった外と中の熱気の温度差を知らせた。ダメで元々と、カルヴィーノは扉を押す。
客達の嬌声が高い天井に反響し、ファンでかき廻されて店中に行き渡っていた。まだ夕方というのに、店はかなりの繁盛ぶりだ。
「お客様はお一人で?カウンターでよろしいですか?」
ウエイターと呼ぶには体格のいい、まるで用心棒の様な男がメニューを抱えて応対した。
「ええと。店長か支配人か。この店の責任者に、お願いがあって来たのですが」
 口調は丁寧語だが、ぶっきらぼうに切り出す。
 用心棒のような男は「私が支配人ですが・・・」と眉を寄せると、「話ならこちらで」と、出入り口から隅のテーブルへとカルヴィーノを捌けさせた。

「この店は何時からやってるのか?」
 全体に照明も明るく健全な店だが、促された片隅の席は、酒の棚の陰になりって薄暗かった。キャンドルの灯だけが客の手元のナイフとフォークを照らす。だがそういう席を好む人種もいるらしく、数人の客がそのテーブルで飲食していた。
「酒場なんだが、劇場のマチネ客も見込んでるんでね。夕方と違うメニューで昼から営業しとるよ。何か?」
「ええと、日暮れまでの間、店の前のスペースで似顔絵を描いていいだろうか。もちろん商売で。俺は画家のカルヴィーノと言う」
「へえ、お前さんは片目なのに絵描きなのかい?」と、支配人がからかうように笑った。
暗いテーブルから咳払いが聞こえた。客の一人からの支配人への抗議らしい。ごつい男は少しだけ小さくなって「ああ、すまんことを言ったな」と素直に謝罪する。カルヴィーノ本人はそう気にしていないのだが。
「以前、店の前に占い師がいてね。うちとは無関係だと言っても、占いの客がうちに抗議しに来るんだ。『奴の言う通りにして事業に失敗した、どうしてくれる』『失恋した、どうしてくれる』ってな。うちで飲食してくれる客なので、困っちまった。以来、前での店開きは断ってんだよ」
「それは、その占い師の力量に問題があったからだ。俺の絵は、そんな苦情が来ることは無い」
「たいした自信だな」
 そう言ったのは、支配人では無く、奥の客だった。声から判断すると、先程の咳払いの男のようだ。
「どうだ、私を描いてくれないか?もちろん金は払う。支配人、巧かったら許可してやったらどうだい?この店に来る楽しみは、うまい料理とたっぷりの酒。そこにプラスアルファが加わる」
 常連の上客なのか、支配人も反論はできないようだ。テーブルには店の主流の量の多い食事とは違う、値段の張りそうな食材の料理が並んでいる。皿さえも高級品だ。
堅気で無いのは見てわかった。黒髪を後ろに撫でつけた、凄味のある男だ。黒に似た緑の光沢のあるスーツは上級品だった。胸のチーフは真紅のシルク。赤い薔薇のようでもあり、撃たれた後に吹き出した血のようでもあった。
「オーディションってわけですか?」
 カルヴィーノはにこりともせずスケッチブックを開いた。キャンドルの明りが男の顔に強い影を落としていた。カルヴィーノは木炭を一本取り出し、右手で握る。この男に色味は必要無い。この黒い筆記用具一色で描く自信があった。
「あ、食事は続けてていいですよ」
 顔を似せればいいだけの絵なら、ポーズなど必要無かった。確認したい部分がある時だけ、顔を上げてモデルを眺める。支配人の方は、「完成したら呼んでくれ」と仕事に戻って行った。
 男は40歳くらいだろうか。酒にも仕事にも疲れた表情をしている。だが、彫りの深い整った顔立ちだった。瞳は珍しい濃い翡翠色で、鼻は高く唇は肉厚だ。皮膚の色も若干褐色がかかり、移民か移民二世かもしれない。平らな額を走る一本の皺が、男をジゴロでは無くもう少し知的な役柄に見せた。
 ハンサムな男は描きにくい。支配人のような男なら、簡単に二割増しに描くことができるが。この客を喜ばせようと思うと、凡庸な美男子像になる危険があった。カルヴィーノは、顔の作りは修正せずに、光と影を強調し、渋いタッチの似顔絵を作り上げた。
「こんな感じでどうですか?」
「途中経過はいいよ。出来たら見せてくれ」
 男は鴨のコンフィを咀嚼しながらこちらを見ようともしない。カルヴィーノは、「いえ、終わったんで」と、スケッチブックから完成した絵を切り取り、男の前へとおいた。
『もう?』と声に出さずに男は眉を寄せた。額の皺も深くなる。制作時間が短いから、ろくな絵で無いと思ったのだろう。だが、カルヴィーノの作品を見ると、眉を上げ、赤ワインで料理を全部飲み下した。ヒュ〜と賞賛の口笛を吹く為に。
街の似顔絵描きはお客をその場で待たせているし、下手すると次の客も待っている。必然、描くのも早くなるのだ。早いからと言って手を抜いているわけでは無い。瞬時に観察して対象物を掴み、顔を上げて何度も確認する手間を省く。そして、手元に集中する時間を確保する。
「すごいな。私はこんなにいい男じゃないと思うが、だが、鏡を見ているようにそっくりなのも確かだ。こんなことができるのか!」
 男は画用紙を握って、少年のように頬を紅潮させる。ジゴロのような中年男が、クリスマスに玩具を貰った子供のように興奮していた。
「以前、美術の学校を出たという画家に、金貨50枚で肖像画を描いてもらったことがある。だが、こっちの絵の方がずっとすてきだ。あの絵を外して、これを額に入れて飾りたいくらいだ!」
「俺の似顔絵は銀貨20枚です」
 カルヴィーノは笑って答える。これだけ褒められれば、嬉しいものだ。
 しかし、金貨50枚で肖像画とは、貴族並みだ。この男はよほどの金持ちなのだろう。
「支配人。オーディションは合格だ」
 男が指を鳴らすと、支配人自らがワインを継ぎに来た。支配人も似顔絵を見て、「なるほど、これはみごとですね」と唸った。
 男はカルヴィーノの前に金貨を一枚滑らせた。
「釣りですか?銀貨80枚も持ち合わせは無いです」
 男は「取っておけ。恋人に去られて死にそうな気分だったが。画用紙一枚分、幸福にしてもらったよ」と、もう一度絵に視線を落とす。嬉しいセリフに、カルヴィーノは頬を緩め唇を噛んだ。
「支配人。明日から、彼は店の前で描く。いいな?」
「ええ、そりゃあもう」
 その物言いは、上客だとしても越権すぎる。カルヴィーノはまじまじと男を見つめた。
「雨が降ったら、中へ入れて仕事を続けさせてやってくれ。どこかテーブルを一つ確保してやれ」
「了解しました」
「劇場の役者やショウのダンサーにも声をかけてやるよ。あいつらは、描いてもらうのが大好きだ。そうだ、明日にも看板俳優を連れて描いてもらいに来よう。絵は私が買い取り、サインを入れてもらって、この店の壁に貼る。君にもうちの店にも、いい宣伝になる」
「うちの店・・・」
「この店のオーナーのモロクールさんだ。ここだけじゃない。飲食店5つ、ホテルを1つ、劇場を1つ。この街では名前の通った実業家だよ。
カルヴィーノと言ったっけ?おまえ、来た早々、すごい人に認めて貰えてラッキーだな」
支配人がカルヴィーノの肩に手を置き、ウインクした。
「カルヴィーノというのか。画家、テーブルを共にしないか?もちろん奢りだ」
「いえ、申し出はありがたいのですが。宿で妹が待っていますんで。サンドイッチでも買って帰って二人で食います」
「そうか。残念だ。・・・妹想いなんだな。
支配人。使い捨ての食器に、シチューを二人分持たせてやれ。パンも忘れずにな。
 宿はどこだ?ショール未亡人の館か。夫人は親切だが規律が厳しい人で、その分きちんとした宿だ。あそこは下宿も経営している。頃合いを見て移るといい。身元保証人には私がなってやろう」
 妹を抱えた隻眼の画家に同情したのか、それとも持てる者の気まぐれなのか。モロクールはさらに、「一杯だけ付き合わんか?」と伏せられた新しいワイングラスを顎で差した。
 ここまで親切にされた相手を無下にはできない。
「ありがたく」と、カルヴィーノはグラスを返して握った。ボトルを握った男の左手が、カルヴィーノのグラスへと伸びた。スーツの袖から、包帯が覗いた。綿ブロードのきっちりとしたワイシャツのカフスの下は、確かに、幾重にも巻かれた包帯だった。
「ああ、これか。画家っていうのは目敏いものだな。
あいつが消えたのは5日前だ。いや、特別に深く惚れてたってワケじゃない。ただ、いなくなり方が、利いたな。屋敷の金目の貴金属を、抱えられるだけ持ち去りやがった。私のことは単なる金目当てだったようだ」
「・・・。」
 彼女に去られてリストカットしたのか。
「大切なものだと知っていたはずの、母の形見のネックレスや、父の形見の金の懐中時計。容赦無く持って行った。今頃、どこかの街で、分解して売り払っていることだろうさ」

 支配人に、まだ暖かい器を手渡され、扉を開ける。外はもう闇に包まれ、家並みの屋根の上に金色の星が出ていた。予定よりだいぶ長居してしまったようだ。
「オーナーの笑顔がやっと戻って来た。ありがとよ」
「いえ、こちらこそ、すごくよくしてもらって」
 丁寧に礼を述べて、カルヴィーノは『ディオニュソス』の前を去った。
 抱えたシチューのぬくもりとは反対に、これから顔を付き合わせて食事をしなければならない熱帯魚との時間を思い、腕が冷えて凍えていくような錯覚にとらわれた。
 性別の反転したレイス。レイスは、ドッペンゲンガー以外に、生霊の意味もある。心臓が動いて呼吸はしていても、自ら生きようとしない生霊は、鏡の向こうにいて体温も感情も無いカルヴィーノの影のようでもあった。


< 3 >

 カルヴィーノは元来愛想のいい方では無いが、生きて行く為にはわがままは言っていられない。宿に戻ると受付の婦人に話しかけ、いい店を教えて貰って仕事場を確保できたこと告げて、丁寧に礼を述べた。
 階段を軋ませて上がり、隅の部屋をノックする。鍵は持っていたが、いきなり開けるとマハーヴァが怒るからだ。
 返事はないが、ゆっくりとドアを開ける。マハーヴァは、壁に背をつけて、膝を抱えていた。泣いているようだ。
「遅くなってすまなかった。街で一番大きな酒場の前で描けることになった。そこのオーナーに、食べ物も貰って来た。ハラが減っただろう?」
『おかえり』も『おめでとう』も『おつかれさま』も無く、マハーヴァはコクンと頷いただけだった。
 初めての街で部屋に取り残され、心細くて泣いていたのは確かだ。前にもこんなことはしょっちゅうあったから。だからと言って一緒に外出しようという気も無いわけだし。それに、カルヴィーノが帰って来たからといって嬉しそうな顔をするわけでも、何か言葉をかけるわけでもなかった。
 包みを開くと、スプーンは2つ入れてくれたが、当然だが取り皿などは無い。マハーヴァは、カルヴィーノと同じ器から食べ物を取ることは無い。先にマハーヴァが食べるという方法でもダメだ。マハーヴァが口をつけた器や食事に、男性が手を伸ばすことが許せないのだ。だから、いつも、食事の前に分けてやらねばならなかった。
「俺は店で食って来た。全部マハーヴァの分だ」
 ショール婦人にお愛想を言って食器を借りるのが面倒だった。カルヴィーノも所詮、マハーヴァと変わらない。本質は偏屈な人嫌いだ。
 ベッドしか無い宿だ、食事の為のテーブルや椅子があるはずもない。カルヴィーノは床にシチューの器を置き、包んであった布の上にパンとスプーンを置いた。
床に膝を付いたマハーヴァは、「いただきます」と手を合わせてから食べ始めた。神に祈ったのか、カルヴィーノに言ったのか。だが、帰ってから初めて聞いたマハーヴァの声ではあった。
 鏡で自分が食事をするところを見た経験は無いが、無愛想な自分でも、おいしければ表情が和らいだりもするのだろう。マハーヴァの腹は満たされて来たようで、険しい目付きが柔和になっていた。
 マハーヴァが、自分を嫌っているわけでないのは知っている。生理的なものなので、彼女にもどうしようもないのだ。
「スプーンが二本あるわ。私だけの分なのに、お店の人は何故二本入れたのかしら」
「食事が済んでいても、俺も付き合うかと思ったんだろ。一緒に食う方が楽しいっていうのが、世間の考えだからな」
 描いていると一食くらいは平気で抜いてしまうカルヴィーノは、夕飯を食べ損ねることなど何とも無かった。
「俺、湯浴みして来ていいか?」
 シチューをせわしなくスプーンで口に運びながらマハーヴァは頷いた。彼女はカルヴィーノが居ない時に湯に浸かったはずだ。風呂の水音が男に聞こえることさえ嫌った。だが、カルヴィーノが湯を浴びる事には無頓着だった。

 バスタブは渇き切って一滴の水滴も落ちていない。まるで新品のようだ。自分の肌に触れた水滴が残ることも許さず、全部拭き取っているのかもしれない。彼女ならやりかねなかった。
 マハーヴァは旅にはお荷物でしかなかったし、一緒に暮らすには苦痛も多い。一人で旅するよりも強く孤独を意識した。だが、マハーヴァを見捨てることはできない。これは、罪深く生きて来た自分の枷なのだと思う。
 蛇口からの水流が、溜まった湯の上で渦を巻く。細かい泡が流れ込み、澱む。湯は、透明な中に透明な螺旋を描いて行く。
 罪。死刑より重い罰として行われた、両手首の切断。それでも義手で描き続けている。だが、自分の罪とはそんなことでは無いとわかっていた。

 濡れた髪にタオルを被せてバスルームから出てくると、マハーヴァが義手メンテナンス用の薬品を鞄から出しておいてくれた。そう、決して、マハーヴァはカルヴィーノを嫌っているわけでは無いのだ。
街の宿に落ち着くと、カルヴィーノは入浴後にまずこれをする。左右の肘に2本ずつ、ビスがある。まず左肘のビスを外して、左手を胡座をかいた足の上に静かに落とす。右手で薬品に浸した綿棒を握り、丁寧に肌と密着した部分を拭って行く。終わったら左手を装着し、右手首のメンテは口に綿棒をくわえて行う。マハーヴァはこの作業を気持ち悪がって、いつも毛布をかぶる。
旅から旅で荷物は最小であり、二人とも寝間着なども持ち歩かない。マハーヴァは着衣のままベッドにもぐり込む。
義手は接合部分に水や砂が入り込む事は無いが、その密着度のせいで、育った皮膚が機械部分に付着してくる。時々それを取り払ってやる。あと数年はこのメンテだけでどうにかなるはずだ。
 最初はこの作業を見たくなくて毛布をかぶったマハーヴァだが、終了した頃には静かな寝息をたてていた。二つのベッドを仕切る、シーツのカーテンを引くのも忘れている。
 カルヴィーノはシーツで陰を作ると、シャツだけ脱いで横になった。この街では仕事が期待できそうだという安堵感から、カルヴィーノは心地よく眠りに着いた。


< 4 >

 宿のカーテンは薄く、寒さも明るさも防いではくれない。裏通りに面した安い部屋にも朝は訪れる。
 眩しさにカルヴィーノが片目を開けると(片目しか無いのだが)、マハーヴァはもう身繕いをして窓の外を見ていた。
「おはよう」とカルヴィーノが挨拶すると、声だけが「おはよう」と返って来た。
 ベッドから半身を起こし、柵に掛けたシャツを羽織るが・・・まだ寒い。もう街路樹が紅く染まる季節だ。綿シャツ一枚というのはそろそろきつい。

ショールの宿には朝食が付いていた。広い食堂で、下宿人と宿泊客が一緒に食べるシステムのようだ。学生らしい男、商人、それから芝居を見にきた観光客の婦人達が、既に、湯気の立つスープとフワフワそうなオムレツを前に、話が弾んでいるようだった。若い男が一人と中年男性が二人いる。マハーヴァが降りて来てここで食うはずは無かった。
「妹の分、トレイを持って上がって、部屋で食ってもいいか?」
 カルヴィーノがショールに尋ねる。
「具合が悪いのかい?旅の疲れが出たかい?昨日も部屋から一歩も出なかったようだが」
「いや・・・」
 ここに下宿するとしたら、長く世話になるのだ。婦人には本当のことを告げた方がいいかもしれない。
「妹は心の病気で。ある事件から、引き籠もりがちになって。男性が全く駄目なんだ。同じ席で食事するのも厭がる。同席の男性たちに失礼な態度を取ると思うので」
『まぁ』と、婦人は同情で眉を寄せる。
「そうだったのかい」と、親身な表情を見せ、トレイをカルヴィーノに預けた。
「妹さんの分だけ?あんたは?」
「あ、俺は食堂で食います」
 下宿人達に挨拶もしたかった。人と話すのは営業活動になる。カルヴィーノにとって楽しい活動では無いが、かつて宮廷画家だった時の男娼まがいの営業よりはずっとマシだった。
 今日食いつなげれば、明日また描くことができる。
 カルヴィーノは、そうやって生きて来た。だが、マハーヴァは・・・。
 トレイを握って部屋をノックしながら想う。マハーヴァが自殺するのを引き止めたものの、自分が明るい未来や希望を与えてやる度量があるわけでも無い。貝のように殻を閉ざしそこから出ようとしないマハーヴァ。いつもカルヴィーノの背中に隠れ続けるマハーヴァに、幸福はあるのだろうか。

 皆と軽い挨拶を交わし、適当に談笑しながら早めに朝食を済ませ、立ち上がった。部屋から食事済みトレイを運び出し、厨房へ返しに行くと、食堂に残った連中が自分らについて噂話をするのが聞こえた。
「どこのお姫様だってんだ。下々とは一緒に食事できねえってかよ」
 商人が吐き捨てるように言うと、
「いや。月夜しか人間の姿に戻れない怪物なのかも。それで人前に出られない」
などど、学生風の男が茶化すように答えた。
 厨房のショール婦人は「気にするんじゃないよ」と、ひったくるような強い仕種でトレイを受け取って、笑顔を見せた。カルヴィーノも『慣れてます』とでも言うように頷く。
 確かに、ある意味マハーヴァは怪物かもしれない。他人に融合せず自己を貫き通せる者というのは、強靱な神経を持つわけでも傲慢な心を持つわけでも無い。ただ、弱いのだ。

 マハーヴァには、昼食用に近所のパン屋のバケットを買って与えておいた。カルヴィーノは12時には『ディオニュソス』の前に居た。
 扉にはまだ『CLOSE』の木の札が下がっていたが、煙突からは煙が立ち昇り、窓の向こうでは従業員達が準備に忙しそうだ。
カルヴィーノは、客の出入りに邪魔にならない遠い窓の下へ敷物を敷いた。昼食の店を探すのでサロス・ストリートを流す通行人も多く、カルヴィーノの事を一瞥して通り過ぎる。以前描いた、お姫様風やお城の絵、猫や馬などの絵を飾り、くたくたの帽子を鞄の底から引っ張り出して形を整える。まだまだ誰も立ち止まらない。
『ディオニュソス』のドアから木の札は取り払われ、食堂の客はぽつりぽつりと訪れる。だが、絵描きの出店には訪れる者は無かった。
『似顔絵 一人・・・銀貨20枚 二人・・・銀貨40枚』
 厚紙で作った看板を出し終え、一息ついて瓶から紅茶を流し込んだ。ショール婦人が、空き瓶に入れて持たせてくれたものだった。
 どうせ初日に仕事なんて有りっこない。今日は、『ここでこんなことを始めました』というデモンストレーションだ。カルヴィーノは、居心地の悪さと退屈とを紛らわす為に、スケッチブックを広げて街並みを素描した。
『ディオニュソス』の前には、通りを隔てて、キャンディを計り売りする可愛い店構えの菓子屋がある。赤いレンガの小さな店で、ここからでも店内に並ぶキャンディの瓶の色鮮やかさが目に入った。隣は薬草店で、シンプルな石造りの店だった。軒先に縛って干された草達は、どれも効きそうな渋い色をしている。隣は、焦げたような木造の風合いの店だった。珈琲専門店らしい。暗い窓と、深い色の窓枠の感じが好みだった。カルヴィーノは、桟の木目の影までも丁寧に描き込んでいく。
 来た時は陽も高く暖かかったが、次第に影が長くなり、肩も冷えて来た。鳥達があちこちで鳴いて、街路樹から飛び立った。巣のある森に帰る時刻なのか。
 気づくと、四本の足の影が敷物に伸びていた。紫紺のズボンの男性の足と、ピンヒールを履いた形のいい足と。
 昨日の男(モロクールと言ったか)と、化粧の濃い目鼻だちの派手な女が肩を寄せて立っていた。女はそう若くもないが、ぴたり体に張り付いたワンピースには脂肪もたるみも感じられない。ミニスカートから覗く足も含め、みごとな肢体だった。
「うちの劇場の看板女優だよ。昨日の私の絵を見せた。彼女も描いて貰いたいそうだ」
「このヒトったら、昨夜は、芝居が跳ねた後に楽屋に押しかけて、あの似顔絵を無理矢理みんなに見せて自慢するのよ。『私はいいオトコだろう?』って。呆れちゃったわ」
「で、自分も『いいオンナ』に描いて貰いたくて、ここへ来たくせに」
 モロクールは、馴染みの役者に宣伝してくれたのだろう。ありがたかった。
「今日はお二人で?それともご婦人だけで?」
「トルマリンだけ描いてやってくれ。私なんぞとツーショットでは彼女も不満だろう。
寒そうだな。上着は持って来なかったのか」
「服はこれしか持ってません。明日は羽織るものを買って来ます」
 カルヴィーノは、肩をすくめる。義手の指は寒さを感じないので悴むことは無い。こんな時は便利だ。
 男は自分の紫紺のスーツのジャケットを脱いで、投げてよこした。
「これをやるよ。ウールだから冬まで使えるだろう」
「え・・・」
 やるって。カシミア混だろう。毛もこの色合いは特別な手染めのはずだ。作りもしっかりしている。彼の服は仕立屋に作らせたものだろうし、金貨10枚でも買えるかどうかという品だ。
「こんな高いもの、貰えない。それに、あんたが寒い思いをするだろう」
 ジャケットを脱いだモロクールは、シルクのシャツにニットベストだけだ。
「私はもう屋敷に帰るところだ。馬車もそこに待たせてある。・・・嬉しいものだな、私が寒いだろうから返すだなんて」
「貰っておけば?彼は、あなたに何かしてあげたくてしょうがないのよ」
「いや、いらない。この服は俺には似合わない。あんたが着てこそ似合うものだ。仕立屋が、俺が羽織っているのを見かけたら泣くだろうよ」
 カルヴィーノは胡座をかいたままで、投げられたジャケットを拾い上げ、男を振り仰いで差し出した。カルヴィーノの口調から敬語が消えていた。
「俺も仕立屋も同じだ。昨夜俺が嬉しかったのは、金貨を貰えたからじゃない。あんたが本気で俺の絵を気に入ってくれたからだ。あの絵を濡れたテーブルに置かれたり、四つ折りでポケットに入れられたりしたら、きっと悲しかった。この服も、大事に着てやるべきだ。丁寧ないい仕事をしている」
「・・・わかったよ」
 モロクールは苦笑まじりにジャケットを受け取り、腕に抱えた。
「この服は私に似合っていた?」
「ああ」
「ありがとう」と、男は礼を述べると、馬車を留めた場所へと戻って行った。

「あなた、変わってるわね」
 モロクールの馬車が去ると、女は面白そうにカルヴィーノを覗き込んだ。カルヴィーノは既に女を描き始めている。
「あんなマフィアみたいな服、押しつけられちゃたまりませんよ」
 カルヴィーノの本音に、トルマリンは声をたてて笑う。大きな口を嫌でも目立たせる真っ赤な口紅。更にそれが大きく開かれ、顔の半分が口になった。目も元々が大きいのだが、黒く太いアイラインでもっと大きく見せようとしていた。鼻も高いのに、ノウズシャドウが濃い。女優とは貪欲なものだと思う。
「あら、あたし、こんなに口が大きい?」
「大きいですよ」と即答するカルヴィーノに、「ひどい」と、またけたたましく笑う。
 カルヴィーノの右手は、トルマリンの特徴を捉えながら、その大きく見開いた瞳が今にもくりんと動き出しそうな、活き活きと美しい表情を作り出していた。トルマリンの快活な笑い声が聞こえてきそうな似顔絵だ。
「え、もうできたの。見せて!
へええ。モロクールが騒ぐだけはあるわね。あたしは口が大きいのはコンプレックスだったけど、こうして見るとチャームポイントじゃん?
ね、これ、自分の楽屋に飾っていいかな」
「お客様が購入したものですから、ご自由に。これから舞台ですか?」
「まあね。14歳に化けにいくか〜」
「ジュリエット役ですか」
「あら、よくわかったわね」
「王立劇場で見ました。この国でじゃ無いですが。その時のジュリエット役の女優さんは47歳でしたよ。トルマリンさんならまだまだ大丈夫ですよ」
「いやあねえ、励まされてる気がしないわよ。ね、あたし、何歳に見える?」
 薹の立ったジュリエットは、前かがみになってカルヴィーノに顔を寄せた。下着をつけていないのは、ラインが出ていないので明らかだ。胸の谷間を見せれば、5歳若く言って貰えるとでも思っているのか。
 だがカルヴィーノは「41くらい?」と容赦無い。トルマリンは憮然として唇を尖らす。
「あれ?外れました?」
「いーえ!」と女優は声に怒りを含ませる。
「でも、なったのは先月よ。まだなったばかり」
 カルヴィーノは含み笑いをする。トルマリンは美人だし体の線もみごとで、まだ20代でも通るだろう。だが、態度や口調は若い娘のものでは無いし、何より白粉の下の肌のキメは年齢を隠せない。
「今度、見に来てね」
 看板女優は気さくに手を振る。
「お金が貯まったら」とだけカルヴィーノは答える。今日の帽子の中身はトルマリンが投げ込んだ銀貨20枚のみ。そろそろ店じまいの時間だった。
二人ぶんの夕飯と、取り皿を買ったらお終いだ。上着は買えそうに無い。

 
< 5 >

 揚げたてのナゲットと堅焼きのパンを抱えて宿に戻った。受付に座るショール婦人は、編み物から目を離して「おかえり」と言った後、「その格好で外にいたのかい?」と顔をしかめた。
「嫌でなければ、これをあげよう。肩掛けにもひざ掛けにもなる」
 椅子の横に積まれた数枚の中から、黒地のものを引っ張り出した。細い毛糸できっちり編まれたブランケットは、緑・黄色・赤という派手な色合いが異国調で、面白い風合いを出していた。
「こんなに手の込んだものを俺に?」
「部屋にはまだ20枚もあるよ。趣味で編んでいるんだが、もう貰ってくれる人もいなくてね。以前はここの居間で、若い娘を集めて編み物教室なんぞも開いたものだが。手編みのブランケットを嫁入りの時に持参するなんて、時代遅れなんだろうね」
 これは、マハーヴァの退屈を紛らわすことはできないだろうか。
「あの・・・。ブランケット用の毛糸って、高価なのか?」
「いや、ピンからキリまでだ。安いものは銀貨1枚で3巻き買える」
「まだ妹にも聞いていないのだが・・・。もし、その・・・。妹が習いたいと言ったら教えて貰えるだろうか?」
「・・・。」
「女性には、普通に接することができる。あなたは親切だし、その・・・。
 俺は、妹はこのままではいけないと思っている」
 ふわりと、婦人はブランケットを広げてカルヴィーノの肩にかけてくれた。いい香りがした。香水では無く、ヴァニラかナツメグか。ケーキやクッキーに似た甘く優しい香りだった。
「お易いご用だよ。
 さ、早く行っておあげ。お腹を空かせてあんたを待っていることだろうさ」

 ノックしてドアを開けると、朝とは違う服を来たマハーヴァがいた。今朝は、というかこの街に着いた時からずっと、無地の木綿のワンピースを着ていたはずだ。今はターターンチェックのウール生地のワンピース姿だった。マハーヴァが一人で服を買いに出るはずもない。
「ここの女将さんがくれたの。嫁いだ娘さんの古い服だそうよ」
 長身のマハーヴァにはふくら脛が見えたが、薄い木綿の服よりはずっと暖かそうだった。
「ありがたいな」とカルヴィーノが言うと、マハーヴァも微かにほほえみ、「そうね」と頷いた。

 マハーヴァもショール婦人には好意を抱いたようで、編み物を教わることには乗り気だった。元々働くことが好きな娘だ。実家ではピカピカに床を磨き、常人ならうんざりする量のじゃが芋や人参の皮を剥いていた。庭の芝はきれいに刈られ、木の枝は形よく整えられていたっけ。
 翌日、カルヴィーノは安心して仕事に出かけた。貰った肩掛けはマントのように被って胸の前でピンで留めた。
 昨日のカルヴィーノは見るからに余裕が無かったのかもしれない。不思議なもので、そういう時に客の足は遠のく。今日は、帽子を鞄から引っ張り出す前から、子供の絵を描いて欲しいという母子が声を掛けて来た。縦巻ロールでサテンリボンをした12歳位の娘だ。母子で芝居見物というところか。上向き加減の鼻をチャーミングに描写し、腫れぼったい瞼を少しだけクリアにした。その後も、忙し過ぎない程度にポツリポツリと依頼があり、夕方には帽子は銀貨で一杯になっていた。
『ディオニュソス』は料理によってはテイクアウトも可能というので、肉詰めパイとロールキャベツを買って帰った。
 支配人が、「順調なようで、よかったな」と声をかけてくれた。

 宿に帰り、宿泊で無く下宿扱いにして貰い、前払いで一月分の家賃を払った。下宿だと夕食付きも可能だというのでお願いした。画材だけでも荷物なのに、夕食を抱えて帰らなくて済むのは助かる。
 ノックをしようとドアの前で拳を握ると、先に扉が開いた。
「階段が軋む音がしたから。・・・おかえりなさい」
 マハーヴァは、後ろで一つに縛った髪形は変わらないものの、そこに芥子色の太い毛糸をリボンの様に結んでいた。ショール夫人のしわざにしろ、まだ解いていないってことは、そう厭でも無かったのだろう。
「編み物はどう?やれそう?」
 夕食をカルヴィーノが床に置くのと同時に、「ここまで編んだの」とマハーヴァが途中経過の未完成品を広げた。丈としては4分の1くらいか。初心者の練習作品らしく、細かい模様は入っていないが、編み目の大きさが機械のように正確で整っているのはいかにもマハーヴァらしい。

 翌日の最初の客は、前のキャンディ屋の店員だった。
「おとといから、ずっと気になってたの。昼休みは一時間なんだけど、その間に描き上がる?」
「その後に『ディオニュソス』でメシを食って、食後の珈琲も飲めるさ」
 カルヴィーノは軽口を叩いて描き始める。服は私服らしいが、赤や黄色のポップな水玉のエプロンが可愛い。ブロンドは染めているようだが、前髪を抑えた赤いヘヤバンドも愛らしかった。広くて丸い額が綺麗だ。限界までビューラーで掴んで引っ張り挙げたような、これでもかとカールした長い睫毛だった。目は大きい方では無いが、白目が少なく瞳が大きいので小リスのような印象だった。少し出た前歯とふっくらした頬が、さらに齧歯類を思い起こさせた。
『そうか。こんな可愛いコが、目の前の店にいたのか』
 貧乏な街の似顔絵描きが、こんな可愛い女の子とどうこうとは思っていない。ただ、カルヴィーノが仕事をする場所のすぐ近くで、この子が綺麗なキャンディを売っているのだと思うと、少し嬉しくなった。
「うっわー、私、こんなに可愛くないよ〜!すてきに描いてくれいありがとう!
 トルマリンさんが描いて貰いに来てたわよね?あの人と同じ画家さんに描いて貰えただけで幸せなのに、こんなすてきな絵!
私、女優を目指してるの。いつかトルマリンさんみたいになるのが夢」
 ここは大きな街だ。夢や想いや思惑が渦を巻いている。カルヴィーノはその螺旋に目が回りそうになり、曖昧に微笑んでみせた。
 
 その日もそこそこの稼ぎを上げ、帰りにキャンディ屋を覗いた。もう彼女はシフトを終えて帰ったようで、顔中髭のような親父が店番をしていた。でもまあ、目的は彼女では無いのだし、いいのだけれど。
「キャンディを。なるべく色の綺麗なやつ。10個ずつ、二つの袋に分けて入れてくれ」
「フタマタかけとるなんて、いい度胸だな」と、にやにやと髭を動かして笑った親父は、シチューを掬うような大きなスプーンで、一抱えもあるガラス瓶から、キラキラした宝石のようなキャンディを、赤いやつ、青いやつと、幾つも選び出した。そして、平たい皿にカラン、カランと落としていった。
「まさか。妹と、下宿の女将さんにだよ」
「あんた、その目で、似顔絵を描きながら妹を養っとるんかね?」
 返事に窮する質問だった。隻眼なことと絵描きであることは関係ないし、絵を描くこととマハーヴァを養うことは無関係だったから。
「モロクールに気に入られたようだが。信頼するのはやめときな。実業家と言えば聞こえがいいが、このへんの興行権を取り仕切る胴元・・・ヤクザみたいなモンだ。このへんで商売する者たちは、あいつの顔色を見てオドオドして暮らしとる」
 親父の野太い指に握られたスプーンが、トレイを転がるキャンディを器用に掬いあげる。丸い宝石達は、半透明の紙袋に滑り込まされる。紙越しにも、鮮やかな色が透けて見えた。
「ほい。20個で銀貨2枚だ。またよろしくな」

 夕暮れの帰り道、明りが灯り始めた街灯にキャンディの紙袋を透かして見る。オレンジや青や赤やピンクや。大きな教会のステンドグラスみたいに綺麗だった。
 新米絵描きの頃。まだ15歳くらいだった。貴族の屋敷の居間で、グラスに乗ったガラスのようなキャンディを見た。葡萄を形作った飴細工で、赤や黄色の鮮やかなキャンディの実がキラキラと輝いていたっけ。仕事を終えた後で、それを口に入れる機会があったが。色が鮮やかであればあるほど着色料が多く使われ、甘みより薬品の苦さや渋さが勝つことを知った。
 そういえば、ゼリービーンズもコンペイトーも、子供の頃はあまりの美しさにびっくりしたものだ。だが、口にしたら、そう美味いものでもなかった。歯にこびり付くゼリービーンズのあのねっとりした不快感は、まだ記憶に残っている。
 キャンディもゼリービーンズも。きっと夢のようなものなのだ。見ている時が一番楽しい。口の中に入れてかみ砕いてしまうと、それは苦痛に変わる。


< 6 >

 その後も仕事は順調だった。時々、モロクールに聞いたという役者やダンサーも訪れてくれた。彼が経営する他の酒場のバーテンだという男も、「命令なんで」と照れくさそうに頬の傷を歪めて言い訳した。当人は、カルヴィーノがジャケットを突っ返した日から、姿を見せなかったが。
『怒らせちまったかな』
 その日は『ディオニュソス』は定休日だったが、カルヴィーノの方は店を出していた。劇場は芝居をやっているし、サロス・ストリートの通行量は変わらないからだ。適当に稼ぎもあった。
 まだ夕方だというのに、千鳥足のズボンの裾が目に止まった。しかもハイヒールに抱えられているようだ。紫紺のカシミア混の布に見覚えが有り、顔を上げた。
「やぁあ。景気はどおだい?」
 くぐもった声だった。泥酔とまでは行かないが、翡翠の瞳が澱み、カルヴィーノを捉える焦点も曖昧だ。肩を貸す女はダンサーなのか、長身で体格もよい。冬にはまだ間があるが毛皮を纏っていた。
「君は、似顔絵で無くても・・・人で無くても描くか?」
「ええ。可愛がってるペットでも、自慢の屋敷でもね。花でも壺でも何でも描きますよ」
「これを、頼む。金貨1枚出すから」
 モロクールはふらついて地面に膝を付くと、ジャケットの内ポケットからアンティークの懐中時計を取り出した。金メッキのようだが、蔓草の細工模様も見事な、美しい品だった。
「奴が持ち出した父の形見だ。競売に出ていた。自分のものを金貨120枚も出して買うまぬけなんて、私くらいだ!」
 モロクールは、吐き出すように強い口調で言うと、いきなり立ち上がった。よろけたのを女が受け止める。怒りが納まらないようで、女の腕を振り払うと、エナメル靴の先で石畳の道を蹴った。
「店で呑んでるから、完成したら声を掛けてくれ」
「あ・・・」
『定休日ですよ』と教える暇も無く。彼は扉を強く引く。『CLOSE』の札は目に入らないようだ。引いても開かないので、ドンドンと扉を叩いている。店内が暗いのがわからないのだろうか。口調はしっかりしていたが、かなり酔っているらしい。
「『ディオニュソス』は今日は休みのようよ」
 女に言われて、やっとドアを叩く手を降ろした。
「『パクトロス』に行く」
 女は「はいはい」とまた肩を貸した。
『・・・“パクトロス”ってどこだよ』
 そろそろ帰ろうと思っていたのに。モロクールの勝手さに憤りながらスケッチブックを開く。時計は質のいいものだが、金貨120枚の価値があるとは思えない。せいぜい30枚だ。恋人に盗まれたこれを、自暴自棄に競り落としたのだろう。そして祝杯を挙げて悪酔いしてるってわけか。ロクでもない男だ。

『ディオニュソス』というのは別名バッカス。酒の神様の名前だ。だが、『パクトロス』とは。これもモロクールの経営する酒場の名らしいが。
時の王ミダスは、今の富に飽き足らず、『触れるもの全てが黄金になるといいのに』と願い、その通りになった。手に取るワイングラスは赤い酒ごと金に変わり、触れたパンは金塊に変わる。ミダスはもう水も飲めず食べ物も食べられない。神に詫びて、その欲深い罪の体を洗ったと言われる河が『パクトロス』だった。ギリシア神話の一節だ。
 カルヴィーノは、街頭に立つ客引きや娼婦に道を尋ねながら、やっと店を捜し当てた。陶器屋(もう閉まっている)の横の狭い間口。地下へ降りる階段が、蟻地獄の入口のようにぱっくりと口を開けて見えた。階段の手摺りには赤いカードがピンで止めてあった。ペンで『パクトロス』と書かれたその文字も、掠れて消えかけていた。
 階段を降りきり、重い扉を開けた。紫煙がふわりと外へと逃げ出す。キャンドルだけが頼りの明るさだ。中は7人も座れば肩がきつくなるバー。カウンターには、見覚えのあるバーテンがいた。
 客の中に、モロクールも女も居なかった。バーテンが「オーナーなら奥の事務所だ。ひどく酔ってたんで、ソファに寝かせた」と、奥の扉を親指で差した。

 扉を開けると狭い廊下があって、横の扉はトイレらしい。トイレの横の扉は半開きになって、バーテンの更衣室とロッカーを兼ねているのが見えた。目的のドアはもっと先で、一度廊下を左に折れた突き当たりの木製の扉だった。さっきの女といちゃついているかもしれず、一応ノックをして返事を待つ。
 少し待ったが何の反応も無い。もう一度ノック。だが無視だ。仕方ないのでゆっくりと扉を押した。

 部屋にはモロクール一人だった。彼はソファの背に体ごともたれかかり、ドアを開けたカルヴィーノをちらりと見やった。指からは葉巻の白い煙が立ち昇った。店と同じくらい狭いオフィスだった。大理石のソファテーブルがデスクの代りらしく、乱雑に書類が積み重なっている。ぐるりと棚が壁を取り囲む。
「起きてたなら返事くらいしてくれ。・・・ここに置いておく」
 ソファテーブルに依頼品を置いた。時計も一緒だ。
「来ると思わなかったよ。持って逃げると思っていたから。なにせ金貨120枚だしな」
『全ての人間が、自分の財布目当てで笑いかけている』
成功者はすれ違う全員を疑い続ける。みんな、金で動く。金で動かない人間はいない。・・・誰も自分など愛していない。
 かつて、カルヴィーノも取り込まれた呪いのような想いだ。
 モロクールは、失恋のせいなのか、今までもそんな想いに取り憑かれていたのか。持ち過ぎている、可哀相な男だった。
「この時計にそんな金銭価値があるものか。金メッキじゃないか」
「70枚の価値はある」
「30枚だな」
「・・・50枚だ」
「30枚だってば。まあ、俺にとっては大変な大金には違いないが。来る途中はビビったよ。この辺りはヤバそうな通りだし、物取りにでも遭ったら俺には弁償できない」
「・・・。」
「見てくれないのか、絵」
 男はのろくさと起き上がると、葉巻を消して、画用紙を手に取った。蔓草の細工も飾り文字の文字盤も。鎖の細かい影や傷までも。本物と生き写しに描かれた懐中時計だった。
「・・・あんたほどの絵描きが、なぜ街で似顔絵など描いて暮らす?」
「基本的に、俺は、描ければいいんだ。ただ、似顔絵描きは、目の前の笑顔に触れることができる。それが楽しかった」
「名声は欲しくないのか?」
「別に。それに、俺は、あんまりおおっぴらに描くわけにいかない」
「・・・?」
「まあ、よその国の話だけどね」
 カルヴィーノは、右手のネルシャツの袖を幾重にも折り返した。肘の金具が覗いた。
「絵描きにとって、手を斬られるのは死刑より酷い罰なわけさ。こんな性能のいい義手を手に入れてのうのうと描き続けてるなんて知られたら、暗殺者が来るかもしれない」
「死刑囚、か。何をした」
 酔いに澱んでいたモロクールの瞳が急に覚醒し、大きく見開かれた。
「容疑は、王妃との姦通。俺の描いた王妃の目付きが色っぽすぎたそうだ。天才には天才なりの大変さがあるもんさ」
 人ごとのように肩をすくめてみせる。カルヴィーノがあまりに軽く言い放ち笑顔を見せるので、モロクールは当惑しながらため息をついた。
「・・・油絵の肖像も描くのか?」
「どっちかというとそっちが本職。でも、今は旅から旅でそんな余裕も無くて。描くのに広い場所がいるし、絵の具が乾くのに時間もかかる」
「描いてくれないか?・・・以前、しょうもない肖像画に金貨500枚出した話をしたよな?あれが私の死後も残るのはたまらん。あんたの絵ならプラチナ金貨5枚出す」
「プ・・・馬鹿じゃないか、そんな大金!家が買えるぞ、家が」
「そうしてこの街に住めばいい。ずっとこの街で絵を描き続ければ」
「そんなのはあんたの決めることじゃない。・・・金貨500枚が妥当な値段だ。絵の依頼は了解した。描く場所を提供してくれ」
「うちの屋敷でいいかな。毎朝、君が通りへ出る前の、午前中3時間くらいずつで。夜は忙しくて時間が取れないんだ」
「いや、いいよ。俺も、夜は妹と居ないといけないし。・・・おっと、何時だ?」
 カルヴィーノは、テーブルに置かれた懐中時計を開いて時間を確認した。
「アンティーク時計は、時間を見る物じゃないぞ」
「帰らないと。妹が待ってる」
 カルヴィーノはモロクールの抗議を無視した。
「シスコン・・・」
 モロクールが拗ねたように言うのが可笑しかった。どっちが年上かわからない。
 人恋しくて、寂しくて、もっとここに居て欲しいのだろう。恋人に去られた寂しさだけでなく、カルヴィーノが、彼を金持ち然として扱わないところが嬉しいのかもしれない。気持ちは理解できた。だが、マハーヴァはもっとじれた気持ちで、もっと切羽詰まって待っているかもしれないのだ。

 画材を抱えて薄暗い通りを小走りで出た。この辺りは細い道が網の目のように張り巡らされている。何かを罠にかけるトラップのように。編タイツで立つ女も、酔っぱらいから鞄を取り上げる男も、もうこの迷路から出ることはできない。
 大通りに出た時には息が切れていた。一度『ディオニュソス』の前に戻らないと、宿への道がわからないのだ。適当に歩いて目的地に辿り着けるとは、カルヴィーノは思っていない。そんなのは、一部の運のいい人間のみに出来る技だ。そして彼は、神に愛されていないことは十分承知だった。
 宿に着いた時には、決められた夕食の時刻は過ぎていた。マハーヴァはどうしただろうか。自分でトレイを貰い受けになど行けるはずがない。腹が減ったと、部屋で膝を抱えてベソをかいているのだろうか。それとも、カルヴィーノへの怒りで、部屋中を苛々と歩き回っているのか。
 もどかしい思いでドアを開けると・・・受付にショール夫人はおらず、食堂から笑い声が聞こえた。夫人の声に混じって、確かにマハーヴァの声がした。
 覗くと、二人で、食後の紅茶を楽しんでいるところだった。今夜は他の客がいなかったのか、それともみんなが食べ終わってから夫人がマハーヴァを呼んでくれたのか。
 だが、いつ男性が入ってくるかわからない食堂で、マハーヴァが食事を楽しむなんて。
「ただいま。遅くなってすまない」
 男の声に驚いて一瞬背中を堅くしたマハーヴァだが、カルヴィーノと気づいて振り向く。声を出さずに唇が『おかえり』とだけ動いた。夫人がゆっくりと席を立って「夕食は暖め直すかい?」と尋ねた。
「お願いします」と告げ、マハーヴァと椅子一個置いた隣に座る。それでもマハーヴァは「煙草くさい」と言って眉を顰めた。この家の清浄な空気の中では、シャツと肩掛けに染みついた葉巻の匂いはカルヴィーノ自身でも感じ取れた。
「客に、絵を届けに行ったんだよ。呑み屋で待つと言われて」
 聞かれてもいないのに言い訳する。今まで酒場で遊んでいたと思われたら心外だ。
 その後、マハーヴァは自分が紅茶を飲み終えると、カルヴィーノの食事が途中だろうが、さっさと部屋へ戻ってしまった。夫人は洗い物で厨房へ立ち、カルヴィーノは長い食堂のテーブルに一人だった。
 暖め直して堅くなったパンは、かみ砕くと口の中が痛んだ。沸騰させただろうかという熱過ぎるスープで無理矢理流し込む。
 もう少し、一緒にいてやってもよかったかもしれない。
 侘しい事務所で、高価なウイスキーを汚れたグラスですする。そんなモロクールの背が見える気がした。


< 7 >

 部屋に戻ると、そう明るくも無いランプで、マハーヴァは編み物の続きをしていた。最初に編んだものを床に敷き、床に座り込んでいる。
「それは・・・3枚目?」
 マハーヴァは頷く。とりあえずマハーヴァは楽しそうだ。暫くは毛糸を与えておけば大丈夫そうだった。
「大きい仕事が入ったんで、明日からは昼で無く、朝から出て行くよ」
 編み棒を止め、一瞬、不安そうにカルヴィーノを見上げたが。頷いて、また作業に戻った。マハーヴァの髪は後ろで三つ編みに結われてあり、紺色の細いリボンが飾られていた。
「髪・・・ショールさんに?」
「ええ」とだけ答えが返って来た。娘が嫁いでしまって寂しい老婦人と、母親に早く死なれた娘と。母子ごっこというところか。
『俺は暫くしたらこの街を出るが、あんたは・・・』
 いや、それはまだまだ先の話だ。口に出すのは早過ぎるだろう。

 朝食の後で、慌ただしく荷物を集め、宿を出た。モロクールの屋敷は、高級住宅街の丘の上にあると聞いている。細かい道筋は近所に行ってからでも聞こうと思って、扉を開けたのだが。
 宿の前に、黒塗りの馬車が停まっていた。いつから待って立っていたのか、御者が帽子を取って「お迎えに参りました」と深く礼をした。面食らうカルヴィーノに、「どうぞ」と馬車の扉を開ける。
 貴族達にとっても、肖像を描いてくださる画家は『先生』という意識があり、かつて、まだ年端もいかぬ自分も『カルヴィーノ先生』などと呼ばれた。美しい肖像画や銅像が未来に残ることは彼らの夢で、その作品を作り出す芸術家達は大切に扱われた。仕事で行った屋敷では貴賓並みの扱いだ。食傷気味になるほどの晩餐と、扉を叩く夜伽の女と、そして欠かさぬテーブルの上の飴細工。その頃は、馬車の送迎は当たり前だった。
 だが、まさか、街の似顔絵屋の為に、馬車を廻してくれる奴がいようとは。
 馬車の窓は開閉が出来るものだったので、外が眺められた。仕事に出かける人々の急ぐ背中を追い越して、馬車は大通りを進んだ。道の中央にはもう花や野菜の市が立つ。洗いざらしのエプロンをかけた女が、大きな声で自分のキャベツを自慢して売っている。石畳は朝陽にきらめく。

 モロクールの屋敷は予想通り悪趣味なものだった。大理石の門の中は、何人庭師が必要かわからない広い庭(整えられてはいたが)、しかも田舎街の公園の花壇のように色分けして花が植えられていた。右手には、白い石で縁取られた大きなプールも見えた。水面には枯葉が重なり合っている。たぶん底には亀が住み着いていることだろう。
 御者が屋敷の扉を開けると、メイド長と名乗る女が慌てて出迎えた。堅い口調で、居間で少しお待ちくださいと告げる。玄関から広間へと敷かれた青い絨毯は凝った織りの高価そうなものだが、床の木目の色や壁の白っぽさと全然合っていない。玄関に置かれたガラのランプも贋作だ。西洋風の彫刻に東洋の壺、猛獣の頭部の剥製。調度品のバランスも目茶苦茶で、ヤケクソになって金をばら撒いて購入した印象があった。金持ちだって、普通は自分の好みの物を買う。だから、目利きで無いにしろ、ここまで分裂した酷いコーディネイトは見たことは無かった。
 玄関正面に、噂の肖像画があって、吹き出しそうになった。緑の瞳に合わせて、深緑のタキシード。それはいい。だが緑の布に深みが感じられず、てらてらと光る安っぽい裏生地のようだ。肩の位置も少し変だ。妙に肩が細くて女みたいだった。そして、極めつけはモロクールの『笑顔』。真珠のような白い歯をほころばせ、『爽やかに』笑っている。三文役者のポートレートのような肖像画だった。確かにこれが後世に残るのは厭に違いない。
 メイド長に付いて廊下を進み、居間に通された。珈琲の用意がされていたので、戴いた。これはいい茶器だ。だが、紅茶の飴色にこそ合うものだった。まあ、出てくるのが紅茶で無く珈琲だというのが、貴族でなく実業家らしい。
 居間の調度品も玄関と大差ない酷い趣味だったが、一点、目を引く絵画があった。似ていないのでモロクール縁りの家族では無いだろう。幼女を膝に抱いた母と夫と。三人の幸福そうな表情をうまく捉えている。技術も確かで、母親の衿レースの繊細さは、まるでカルヴィーノが描いたのと似たような・・・。
『・・・。』
 ソファを立ち、絵画に近づいて見ていた時に、背後でドアが開いた。
「待たせたな。・・・いい絵だろう?プラチナ金貨2枚で落としたんだ」
 モロクールは今起きたのだろう。寝間着にガウンを羽織って、足も素足にスリッパ履きだ。髭も剃っていず、髪は寝起きのままで前髪が降りている。
 カルヴィーノは笑い出した。プラチナ金貨2枚だと?
「あんたは大馬鹿だ。こんな絵にプラチナ金貨2枚だなんて。この絵の価値はせいぜい金貨600枚だな」
「いいや。この絵は今でも価値が上がっているはずさ。なんでも、作者が他界したんで、値段が釣り上がったって話だ」
「他界・・・なるほどね」
 カルヴィーノは鼻で笑った。
「正確には、手首を斬られて描けなくなったんだ。
 俺の作品は、こんな風に値段が上がっているのか。描いて貰った奴らは、俺の刑が決まって喜んだのだろうな」
「カルヴィーノ・・・」
「この絵は確か金貨300枚の仕事だった。この家族は貴族じゃなくて・・・絹織物の豪商だったかな。娘が、ちっともじっとしてなくて。殆どの絵の具にシッカチーフ混ぜて、速攻で描いたっけ。
絵を売りに出したってことは、破産でもしたか」
「噂だが・・・。事業に失敗して首をくくったそうだ。女房と娘のことは知らん」
「そう・・・。
 不思議だ。俺の絵の中の家族は、まだこんなに幸せそうなのに」
「・・・。」
「これから俺が描くことになるあんたの絵も。
 あんたの死後も、競売にかけられて、色々な金持ちの間を渡り歩くことだろうよ。
『ピットアンバーでは一、二を争う有力者だったが、ヤクザの抗争で刺されて死んだよ』なんて噂されながら」
「勝手に刺し殺すな」
「じゃあ、『若い頃はこんなにいい男だったのにねえ。晩年は、ヨボヨボで車椅子でボケ老人でつるっぱげで総入れ歯で垂れ流しで』」
「ふん。きちんと『こんなにいい男』に描き上げてから言えよ」

 モロクールの気が遠くなるような数のワードローブから、肖像画のモデル用の衣裳を一着選び出した。シンプルな黒のタキシード。シルクでもあまり光沢の無いものをカルヴィーノは選ばせた。
「チーフは、アイボリーレースくらいにしておけ。色の物は軽薄に見える」
 後ろで若いメイドが二人、スーツを受け取る役で控えていたが、カルヴィーノの偉そうな物の言い方に、おどおどして旦那様の顔色を窺っていた。
 アトリエ用に、客間を一つあてがわれた。二階のその部屋は、バルコニーから庭が見渡せた。
「屋敷中で、一番いい部屋だ。あいつが暮らしていた部屋さ」
 ソファ・テーブルには茶器が出したままになっていた。部屋は、恋人が去ったそのままのようだ。
「布は敷くが、床が汚れても知らないぞ。それに薬品臭くなる。カーテンにもソファにもクッションにも。布に臭いが滲み付く」
「構わん。もう、この部屋に客を入れることは無いだろうから」
「・・・あんたほどの男をここまで落ち込ませるなんて。よっぽどいい女だったんだろうな」
 モロクールは視線だけ上げ、だが沈黙した。二人のメイドは顔を見合わせた。
 カルヴィーノは画材を床に降ろし、素描用のスケッチブックを取り出す。
「今日中にポーズだけでも決めちまうか」
「あの・・・。タキシードはいかがしますか。クローゼットに掛けておきます?」
 メイドがおずおずと切り出す。柔らかいシルクは、娘達が抱えるだけで皺が出来そうだった。
 モロクールが頷き、メイドが白い家具の扉を開けた。
「・・・。」
 画材箱から木炭を何本も取り出していたカルヴィーノにも、それは視界に入って来た。カルヴィーノの手が止まった。クローゼットの中身。『前の恋人』がそのままにしていった衣裳は、何着もの男物のスーツだった。
「隠すつもりは無かったんだが。言いそびれていた」
「あんた、ゲイだったのか」
「ストレートの男に手出しするつもりは無い。と言っても、よそよそしくされるのが普通だがな」
「気の毒な趣味だな。で、立つか座るか?」
「・・・。」
「ポーズだよ。ああ、そうだ、まず、全身か腰から上か。女性ならドレスを見せるってのも有りだが、男性一人の肖像画なら、腰から上がいいと思うが」
「あ、ああ。任せる」
「立った状態での腰から上。いいか?」
「ああ」
「モデルは立ちっ放しになるわけだが、後で文句言うなよ」
「・・・カルヴィーノ」
「右向き、正面、左向き。手の位置や首の角度や。細かいポーズ付けは、何枚か描いてからで無いと決められないんだ。できれば、髭を剃って衣裳を着て、髪も整えてくれるとありがたい。二日酔いで顔が浮腫んでるみたいだが。明日にしてもいいが・・・」
「このまま依頼を受けてくれるのか?」
「別に断る理由も無いだろう?俺の方も、気づかなくて失礼があったかもしれない。気安く体などに触れた記憶は無いが、もし」
「いや、君の、人との距離の取り方は好きだよ。あ、変な意味では無い。今、髭を剃って来るよ」
 モロクールは子供のような笑顔を見せると、部屋を飛び出して行った。メイド達も慌てて後を追う。

 昼までの小一時間で、数枚のラフを取り、だいたいのアングルとポーズを決めた。明日からはイーゼルを立てて下描きが出来そうだ。
 似顔絵描きに必要なものだけ抱えて屋敷を出た。馬車で送ると言われたが、断った。
「明日から、迎えの馬車もいらないから」
 モロクールは不満そうだったが「わかった」と不承不承頷いた。

『ディオニュソス』に着いた時には昼過ぎていた。店の外で待つ娘二人連れが見えた。ランチタイムで店が混んでいるのかと思ったが。
「あ、来た来た!」
 カルヴィーノを見て叫ぶ。似顔絵目当てに訪れた客だった。
「ビッキーに聞いたの。あ、そこのキャンディ屋のコよ」
「私達も、ビッキーのあの絵みたいに、かわいく描いてね!」
 
 もちろん、こんな楽しい客ばかりでは無い。
「モロクールさんに言われて来たんだが。かわいこちゃんに描いてやってくれよ」
 彼のヤバイ系酒場の用心棒だろうか、見るからに柄の悪い青年が、娼婦のようなコスチュームの女を連れて来ることもあった。
「あんたも描いてもらえば?」
 女を二割増し美女に描いて銀貨20枚を戴いた後、モデルが余計な提案をする。
「おう。時間もあるし、そうするか」
 右の眉から頬骨にかけて。目立つ刀傷があった。顔に、傷や痣がある客の時は、迷う。相手の様子・・・性格や生きざまを判断し、見えるままに描くこともあるし、省略することもある。『パクトロス』のバーテンは、傷も含めて格好のいい中年だったので、臆せず描いた。彼もそれで満足だったようだ。大きな傷や痣は、描かないと却って怒らせる場合もある。気にしない振りをしているからこそ似顔絵などを依頼しに来る。だが、もちろん、描いて欲しく無い者もいる。
 見栄えを気にする色男を気取った若者なのか、顔の傷をひけらかす喧嘩好きのヤクザなのか。カルヴィーノは、そっと、銀貨を投げて手の甲で受け取る。指を離す。裏。「おい、何してる。早く描け!」喧嘩好きのヤクザだ。

 しかし、カルヴィーノは、たいてい、運が悪い。
 絵を手渡したら、襟首を掴まれた。
「人様の顔の傷を丁寧に描いて、楽しいかよ?」
「・・・。」
 殴られたく無いので、とりあえず黙っている。
「自分も片目のくせに。人の痛みがわからねえ奴だ」
「すみません。お代は要りません」
 きつい喉から、やっと声を絞り出す。
「当たり前だ。こんな絵に金を払えるか」
 青年は、カルヴィーノが描き上げた似顔絵を目の前でぐちゃぐちゃと握り潰し、石畳に捨てると、更に踏み潰して去って行った。
 実は、傷を描くのは結構楽しい。時々、自分の顔の傷も描く。以前、鏡を見ながら自分の傷を克明に描写していたら、マハーヴァに『ヘンタイ』と言われたが。縫った傷のうねりや影を描く作業には、つい夢中になってしまう。
「大丈夫か?」
 窓が開いて、『ディオニュソス』のウエイターが顔を覗かせた。カルヴィーノは笑って肩をすくめてみせた。


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