王様の金のグラスの、金のワイン

2/3



 < 8 >

 翌朝モロクール邸を訪れると、彼は既に身なりを整え、客間で葉巻をふかしていた。
 カルヴィーノは、のろのろと、荷物からブランケットを引っ張り出した。
「・・・?」
「妹が編んだんだ。渡してくれと頼まれた。俺が仕事で世話になってる礼なんだと。
 すまない。メイドの誰かにでもやってくれ。妹は、あんたがどれだけ金持ちか知らないんだ」
 声がどんどん小さくなる。恥ずかしくて消え入りそうな気分だ。
「君の妹御が?」
「ショール婦人に習ってね。始めたばかりさ」
 マハーヴァが男に物を贈りたいと言うなど、青天の霹靂だった。モロクールに会ったことがないので、『男性』というより『雇い主』という意識が強いのだろう。中年の男性と聞き、自分の父親に近いイメージなのかもしれない。顔を合わせて、モロクールが若々しくてセクスアピールのある男だと知ると、びっくりして後ずさりするのかもしれないが。
 だが、マハーヴァの気持ちが外へ向くことは拍手したい。ほどいた毛糸で編んだ粗末なブランケット。この屋敷では、番犬の足拭きにだって、もっと高級品を使っているはずだ。カルヴィーノは赤面しながら、富豪に粗末な膝掛けを差し出した。
「手で編めるのか?こんなに細かく?すごいな」
 モロクールは、『礼を尽くす程度の喜び方』にしては釣りが来るほど、顔を輝かせた。指で毛糸のうねりを確認していたかと思うと、今度は窓へ向けて陽に透かして編み目を眺めた。カレイドスコープを覗く子供のように、嬉しそうに。
 この男の、創作物の愛し方は、好ましいと思う。不快な成金だと感じないのは、モロクールにこんな部分があるからだ。初めて会った夜に、スケッチブックの画用紙に描いてやった似顔絵を、額に入れて飾りたいとはしゃいでいたっけ。
 カルヴィーノはイーゼルを立て、キャンバスを置いた。昨日これと決めたポーズのスケッチを探し出し、テーブルに広げる。
「ありがたくいただくよ。事務所ででも使う」
 事務所とは、酒場の奥にあったあれでは無く、オフィス街に構える彼の会社のことだろう。モロクールが経営する飲食店や劇場の事務処理をやっているらしい。従業員の給与や雇用、店の売上や税金、劇場のチケット管理まで。モロクールが言うにはきちんとした堅気の会社だそうだ。彼も、午後には出勤し、数時間は社長業をしているという。
 昨日、スケッチでしっかりデッサンを取っておいた。その素描と同じポーズを取ってもらい、木炭で軽く下絵を始めた。左を向いて、顎を少し上げて、視線は斜め上。右腕に書籍を抱えて貰った。雄々しく知的な若社長という雰囲気だ。
 照れがあるのか、飽きるのか、時々ちらっとカルヴィーノの方を窺う。
「ちゃんと向いて!」
 叱られると、素直に言うことを聞いた。雇われ者の自分がこんなに偉そうなのも変なのだが、それを許してしまうモロクールという男も妙な奴だ。十五歳位年上のはずだが、時々、カルヴィーノより年下のような気がする。長身の彼は当然カルヴィーノを見下ろすのだが、その視線は、少年が見上げている瞳に見える時があった。
 美しい男だ。若くて華やかな青年の美しさでは無く、その年齢相応の色気のある美貌の持ち主だった。まっすぐな額と、かえって知的に見せる一本の深い皺。通った鼻筋。きつい翡翠色の瞳。疲れた皮膚は彼の魅力を半減するどころか、デカダンな色香を醸し出していた。
カルヴィーノは、何度も『本気で』描きたくなり、その度に木炭を握り直した。カルヴィーノは自分の生身の部分を信じる。マハーヴァを描いた時もそうだったように、右手の義手では無く、唇に銜えて描きたい欲望を感じていた。右手は自分では無い。口で描く方が、よっぽど、思った通りに筆を動かすことができた。
 だが、ゲイだと知っている男の前で、その行為は避けるべきだ。挑発していると取られかねない。それでなくても、モロクールは・・・。
 人の表情は、色々な事を語る。四十男が、カルヴィーノに見せる屈託の無い少年のような笑顔。カルヴィーノの絵を見る時の瞳の輝き。カルヴィーノは、それに、『友人として』誠意を以て応えるしかない。
「本・・・」
「喋るなよ」
「腕が痺れた。本を置いていいか」
 気づくと二時間以上経っていた。部屋の花皿の時計が昼近くを差した。
「あ。すまない」とカルヴィーノは笑う。
よくもこんなに我慢していたものだ。教師に立たされた生徒だってここまで律儀じゃないだろう。大抵のモデルは途中で文句を言う。
「今日は終わりにしよう。下絵はこんなものでいいかな」
 メイドに入れさせたお茶を啜りながら、「くそ。手が痙攣する」とモロクールは舌打ちした。
「悪かった。俺は描き始めると時間を忘れてしまうんだ。明日からは、メイドに一時間ごとに知らせるよう頼んでおいてくれ」
「モデルとは退屈なものだな。前の画家は、もっと、色々と面白い話をしてくれたぞ」
「だから、あんな軽薄そうに笑ってるんだ」
 モロクールはむっとして紅茶をずずっと全部飲み干す。
「メイドに蓄音機を廻させたり、本を朗読させたりするのは構わないかな?」
「別にいいさ。ただ、あまり表情は変えないでくれ。悲しい曲で泣くなよ」
 言われて、モロクールは再びカルヴィーノを睨み付けた。

 翌朝は、奴は本当に本を朗読させた。朝から朗々とシェイクスピアだ。しかもメイドは知らない綴りはすっ飛ばして読むので、カルヴィーノは吹き出しそうになった。
 下絵は昨日で終え、今日は絵の具箱からチューブと数本の瓶を取り出した。まるで薬屋のようだが、絵の具を薄く伸ばすオイルと絵の具を早く乾かす薬品だ。使い込んだささくれたパレット板に、鉛のチューブからビーチブラックが絞り落とされる。透明な液と淡い飴色の液をスポイトで少しずつ落とし、ブラシで溶いて、布に素早く擦りつけて行く。普通は淡い色から重ねていくのだが、カルヴィーノはこの男を描くのに黒から先に作って行った。そういえば、初めて会った夜。あの時に描いたモロクールも影を強調させたが。この男は、黒が基本だ。もっと言えば、黒から出来ている。黒に幾重にも色を纏い色を重ねて息づいている。
 あの夜、彼はわざと左手でワインボトルを握った。包帯の手首を見せびらかす為に、だ。彼の闇は、無邪気でわがままで甘えん坊な小悪魔の影だった。肢体をくねらせ、甘えた目で媚を売る。マハーヴァのわがままさとは質が違うものだ。
「明日からは、誰か、オフの役者でも連れて来るかな」
「何なら、ここで『ハムレット』でも上演すれば?」
 カルヴィーノの辛辣な冗談には、いつも口を継ぐんで子供のように膨れる。
 彼は、休憩の度に絵を覗き込む。本当は、完成品だけ見せたいカルヴィーノだが、そうもいかない。
「真っ黒だな」
「これから色を増やしていくんだよ。完成には一月くらいかかる。油は、絵の具が乾くのに時間がかかるから。知ってるよな、前に描いて貰っているのだから」
「一月?早いな。前の奴は三カ月かけたぞ」
「うーん、まあ、パズルみたいなところがあるんで。重ねる部分が多いところから塗ると早く完成するし、他のところを描きながら乾かしたり。重ねが多いところは、初めから、乾性油を多く混ぜる。この絵なら、黒っぽいからシッカチーフも使える」
「つまり、君の方が頭がいいってわけだ」
 カルヴィーノはそれの返答を避けた。
「前の画家は、冗談や小咄であんたを笑わせただろ。その分描くのが遅かったのじゃないか?」
「ご機嫌取りをしないのは、私に気に入られているという自信があるからか」
 カルヴィーノより長身のこの男が、何故上目使いで自分の顔を覗き込めるのか不思議だ。
「馬鹿な。完成品の質に自信があるからだよ」
 カルヴィーノは鼻で笑って挑発を黙殺した。

 その後ストリートで少し仕事をしたが、疲労を感じて夕方には切り上げて帰った。
宿の前に見たことのある黒塗りの馬車が停まった。カルヴィーノは慌てて走り寄る。馬車を降りた黒スーツのメッセンジャーは、薔薇の花束を抱えて宿の扉を開けた。
「マハーヴァ様はいらっしゃいますか?モロクール様から、ブランケットのお礼だそうです」
 黒のシルクハットの男は、受付のショール夫人に告げる。婦人は狼狽して、厨房で手伝うマハーヴァに声をかけた。
 男の背後から入って来たカルヴィーノは、黙って成り行きを見つめていた。五十本はあろうかという真紅の薔薇。あの見すぼらしいブランケットのお礼だというのか。
 髪を無造作に縛り、ドレスの袖を腕まくりして。鼻の頭にケチャップをつけたままで。汚れたエプロン姿のマハーヴァが、きょとんとした表情で玄関へと顔を出した。
「カルヴィーノ!」
 マハーヴァの姿を見たメッセンジャーが叫んだ。あまりのそっくりさに驚いたらしい。
『・・・まったく。やることが子供みたいだ』
 後ろから、カルヴィーノがシルクハットを弾き飛ばした。帽子が宙を舞い、下から現れたのは、この街の有力者、薔薇を託した本人だった。
「社長と云う仕事はよほど暇だと見える」
 カルヴィーノに厭味を言われて、嬉しそうに「まあな」と笑った。
「すてきな膝掛けをくださった妹御に直接お礼が言いたくてね。・・・ありがとう」
 モロクールは、薔薇の花束をマハーヴァに向けて差し出す。男に話しかけられて硬直するマハーヴァに、モロクールはさらに一歩進む。マハーヴァは泣きそうになって後ずさる。
「マハーヴァ。こいつはホモだ。大丈夫だ」
 カルヴィーノの言葉に「えっ?」と立ち止まる。モロクールがカルヴィーノを睨んだが、カルヴィーノは介さない。
「だから怖くない。貰っておけば?」
 マハーヴァはこくりと頷き、「ありがとう」と花束を受け取った。そして、バタバタと足音を立てて二階の自室へ逃げ帰る。
「俺はあんたの仕事をしている。だが、家族は関係無い。妹は男性恐怖症の引き籠もりなんだ。あまり構わないで欲しい」
「私は・・・ただ、礼が言いたかったんだ」
 男はうつむいた。ちょっと叱られると、こんな風にすぐに落ち込む。こういう時、カルヴィーノよりずっと大柄なこの男が、子供のように見えてしまう。
「妹御の事情を知らず・・・すまないことをした。決して嫌がらせじゃない。ほんのイタズラの気持ちだった」
 わかっている。わかっていた。マハーヴァがああだとは知らなかったのだし。きついことを言いすぎたと思う。だが、『悪気はなかった』権力者の、親切のつもりでした行動は、だいたい庶民を傷つけるものだ。
無頓着すぎる。行いの中に必ず奢りが垣間見える。こいつらは、配慮が足りない。これぐらい辛辣で丁度いいくらいだ。
「今夜は飲み過ぎないでくれよ。明朝、顔が浮腫んでいると困るんだ」
 カルヴィーノは、さらに厳しい言葉を吐いた。
「わかってるよ」と唇を尖らして。帽子を自分で拾い、深くかぶりなおすと、モロクールは出ていった。大きな肩が情けなく下がっていた。

 マハーヴァの夕食のトレイを片手に、部屋へ戻る。
 彼女は、窓から、黒い馬車が帰るのを眺めていた。ベッドの上に、花束が寝そべっている。
「すまなかった、マハーヴァ。奴に悪気はないんだ」
 カルヴィーノは食事用のブランケットを床に敷き、トレイを置いた。
「薔薇一輪で、ブランケットが一枚買えそうだわ。変わった人ね」
 振り返ったマハーヴァの表情は、柔らかい。
「あの人には、嫌らしさは無いわ。ただ、最初、びっくりしただけ」
「・・・。」
 すると、彼が発散する色気は、男性のみに向けられているらしい。マハーヴァは、少なくとも嫌悪は感じないようだ。
「食堂で夕食を食べたら、夫人に何か花瓶を借りてくるよ」
 マハーヴァは頷く。男から贈られた花束など、即座にゴミバコ行きにする娘だと思っていたが。
 

< 9 >

 翌朝のモロクールは予想通り二日酔いだった。メイド長が、「お加減が悪くて臥せっております」と伝えに来た。頼んだ事をきちんと守れない弱さに腹が立った。頭から洗面器の水をぶっ掛けてやりたかった。
 とりあえず、モデル無しでも色を重ねられるところを描いた。背景の部分だ。ここは混ざっても構わないので、隣の絵の具が乾かなくても、触れ合うことを恐れずに色を置いていった。
カルヴィーノは描くのが早い。イメージを作りながら描いていく者もいるが、カルヴィーノは最初に頭に完成図がある。だから絵の具の乾く数日がもどかしいくらいだった。淡い絵だと黄ばみが出る乾燥促進剤も怖がらずに使う。すべて計算されている。黄ばんで困るところに使わなければいいだけだ。
これを商売にしていた時は、6、7枚を同時期に並行させて描いた。注文も多かったので、乾くのを待つ時間が惜しかったのだ。

モロクールがガウン姿で顔を出したのは、正午近く、もうカルヴィーノが帰る時刻になってからだ。
「すまなかった」
 髭も剃っていない男は、謝罪すると深くソファに沈み込んだ。
「いつもその言葉をひとこと言えば済むのだろうな、あんたは。権力者だものな」
「怒っているのか」
 描いている間に、カルヴィーノの機嫌は直っていたので、「いいや」と答える。だが、その素っ気なさにかえって、彼はため息をついた。
「別に、お前に叱られたので深酒したわけじゃないぞ」
 聞いてもいないのに、子供のように言い訳する。
「・・・マハーヴァは、幾つだ?」
 カルヴィーノは、アルコールで筆を洗っていた手を止めた。驚いたのは酒の理由がマハーヴァだったらしいからで、返事をしなかったのは本当の歳を知らないからだ。
「シスコン」
 沈黙の意味を誤解して、モロクールが軽く反撃した。カルヴィーノは、苦笑する。
「女性の年齢をバラすと叱られるから」
「双子じゃないよな?」
「俺よりだいぶ若いよ」とだけ答える。
「よく似てるな。びっくりしたよ」
「あいつが男顔なんだ」
 道具箱に筆を片付け、似顔絵の道具だけをかかえる。油絵の道具はここへ置いたままにさせて貰っていた。
「言っておく。俺はトラブルは御免だ」
「・・・私が薔薇の花束を贈るのが、“トラブル”か。過保護すぎないか」
「たかがブランケットの礼に、非常識な値段だ思わないのか?」
 モロクールは黙ったままテーブルに置かれた水差しからグラスに水を注ぎ、一気に飲み干した。答えは無かった。わからないだけかもしれない。ただ憮然とソファに座っている。降ろした前髪が影を作り、瞳の表情は読めない。
 カルヴィーノは、特に挨拶もせずに、そのまま部屋を出た。

 似顔絵の仕事を終えて宿に帰ったら、部屋に蘭の鉢が置いてあった。
「昨日驚かせたお詫びだそうよ」
 今日は、本物のメッセンジャーが置いていったそうだ。狭い部屋に、薔薇を生けた大きな花瓶と、胡蝶蘭の鉢。邪魔だったらない。
 株は一つだが花が八個も付いている。50本の薔薇と張り合う値段のはずだ。詫びる気持ちなど微塵も感じられない。もっと言えば、昼にカルヴィーノに批判されたことへの当てつけに思えた。
「貰ってはいけなかった?」
『決めるのはマハーヴァだろ』、そう言おうとして言葉を飲み込んだ。この言い方では『ダメだ』と言っているようなものだ。
 男性恐怖症のマハーヴァと、ゲイのモロクール。おずおずと歩み寄る二人。こいつらは、何の茶番劇を始めようとしているのか。

 翌日宿に戻ったら、マハーヴァはルビーのイヤリングをしていた。その翌日は、真珠の髪飾りだった。ダイヤのブレスレットをしている日もあったし、華やかなカトレアが一本、カルヴィーノが捨てた画用液の空き瓶に生けられていることもあった。
 
 雨を見るのは久しぶりだった。確か、ピットアンバーに来てから初めての雨だ。一月近く乾いていたことになる。もう冬という季節に入っているのかもしれない。
 その日、宿を出たら、前で馬車が待っていた。御者は、濡れるのも構わず帽子を取って礼をする。要らないとは言ったものの、雨の日はありがたかった。素直に使わせてもらった。こういうモロクールの気配りは暖かいと思う。
 絵はもう7割以上仕上がっていた。
モデルに馬車の礼を述べると、彼は照れたように不機嫌な表情を繕い、「いや」とだけ言った。ポーズを取った腕を少し動かし、本を握り直す。
「支配人には言ってあるから。今日は『ディオニュソス』の店内を使っていいぞ」
 雨だと通行人も少ない。客足は悪いだろう。それに、このままこれを描き続けていたい気分だった。
「差し支えなければ、午後もここで続きを描いていいか?」
 揮発性の薬品の堅い栓に苦戦しながら、カルヴィーノが尋ねる。
「それはいいが・・・」
 モロクールは言い澱んだが、「熱心だな」と続けた。
「予定より、早く描き終わってしまうわけだ」
「妹に、色々ありがとう。花とか、アクセサリーとか」
 白とイエローオーカーに揮発性油を溶かしながら、顔も見ずに礼を言った。たぶん、自分は、馬車の件があって、やっと礼を言う気になれたのだ。今までは知らぬ顔を通していた。
「怒っているのか」
「いや、まさか」
 雨は、どうもよくない。ディヤー。マハーヴァの妹。カルヴィーノがディヤーを抱いたのは、こんな土砂降りの日だった。金の髪の。大きな瞳の。心を病んだ健気で愛らしい娘だった。カルヴィーノのことなど、カケラも愛していなかっただろう。彼女の握ったナイフがカルヴィーノの左目を失くさせた。

 昼過ぎには、モロクールは馬車でオフィスに出かけて行った。カルヴィーノは雨に濡れるのも厭わずバルコニーから馬車を見送った。
『こんな日には、先に去る方が勝ちだな』
 紅茶にブランデーを垂らして、カルヴィーノは続きにかかった。もう、見物人はいない。思うように描くことができる。唇に絵筆を銜えた。
 タキシードは光沢を抑えたもので正解だったろう。彼の表情に時々垣間見得る軽薄さを、艶消しの布は取り去ってくれた。筆の縁を細く立て、肩の線に白っぽい影を作る。腕にいい皺が寄っているのは、モロクールにきちんと肩の筋肉がついている為だ。二の腕も筋肉質だった。それはスーツの上からでも見て取れた。しっかりした胸板。麻のドレスシャツで正解だ。シルクだとジゴロのように見えただろう。スカーフでなく、深緑のバタフライ。少し上がった眉。知的な鋭い瞳。彼の猥雑さも弱さも乱暴さも、計算高さも純粋さも。たった数ミリの絵の具の厚みに全てが現れていた。描いているカルヴィーノが見ても、惚れ惚れするほどいい男だった。

 夕方まで仕事を続け、傘を借りて宿に戻ると、懲りずにまた例の馬車があった。
 玄関には誰もいない。走って階段を昇り、自分の部屋を開けた。
狭い床に、数着のドレスが撒き散らかされていた。ショール夫人がモロクールを説得している。マハーヴァは涙を溜めて首を横に振り続ける。
「何の騒ぎだ?」
「・・・なんでこういう時に限って遭遇するんだ」と、モロクールが悪態をついた。
「モロクールさんが、今夜のお芝居にマハーヴァを誘ってくださったんだが・・・」と、ショール夫人の語尾が消えて行く。
「随分と荒療治だな」
 カルヴィーノが厭味を言った。
「妹は、あんたのことは決して嫌ってはいないようで、プレゼントも喜んでいると思う。だが、劇場のような人の多い場所に連れ出すのは早過ぎないか?もう少し、長い目で見て欲しいんだが?」
「あたしもそう言ったんだよ。なのに、強引なんだ、この人」
 夫人も顔を顰めて抗議した。老眼鏡が低い鼻から浮いた。
「今夜が千秋楽なんだ、“ラ・トラヴィアータ”。市立劇場の。貴賓席だ。二カ月も前から予約していた」
「例の恋人と行く予定だったんだろ?それを、恋人に振られたからって、妹を代わりに誘うのか。痣を作ったら絵のモデルに支障があるから我慢するが、あんたを殴ってやりたい気持ちなんだが」
「一人で行ったら笑い物だろ。ペアシートなんだぞ?頼む、今夜一晩でいい、妹御を貸してくれ」
「トルマリンとかいうあの女優は?それから、酔った時一緒だった、あの」
「みんな、夜は自分のステージがある」
「そうか。そりゃあ、みんな、あんたみたいに暇じゃ無いよな」
「・・・。」
 モロクールはうなだれる。子供が膝を抱えた時のように小さく見えた。
「金貨3枚で・・・」
「え?」
「カルヴィーノ。金貨3枚で付き合わないか、観劇に」
 カルヴィーノは頭を抱えたくなった。この男、何でも金貨で買おうという性癖は何とかならないのか。
「その金額なら、街に立つ娼婦でも男娼でも、喜んで付いて来るだろうよ」
「貴賓席に男娼を連れて行けるか」
「同じじゃないか。俺だって道端の似顔絵描きだ。だいたい、誰が同伴したって、新しいツバメだと思われる」
「おまえが、そういう噂は気にする人間じゃないと思ったんだ」
 確かにそうだ。カルヴィーノはそんな噂などどうでもいい。だが。
「単に、あんたと二人で行くのが嫌なだけだ」
 面と向かって言うには失礼な言葉だった。少なくても雇い主に言っていいセリフじゃない。背後のショール夫人の方が飛び上がった。
 ただ、モロクールには、甘い顔をすると突け入られる。曖昧な笑顔での拒絶などは通じないだろう。
 モロクールは青ざめ、「わかった・・・」と、首を横に振った。整髪剤で後ろに撫でつけられた髪は、固まって、はらりとも揺れない。
「そんなに私を嫌うのなら、終わりにしよう。観劇の話も、そして肖像画の仕事も」
えっ?とカルヴィーノは顔をあげた。・・・肖像画を打ち切る?
「金貨は約束通り全額払う。嫌いな人間の絵を描くのは苦痛だったろう。すまなかった。明日からもう来なくていい。部屋に残してある画材は、使用人に運ばせるよ」
「ちょっと待てよ」
 まだ7割だ。あれは、いい絵になる。次にここにあの色を重ねて、あそこをああして。明日の朝一番の手際も、もう決めてある。右袖の皺が気に入らない。あのままにしておけない。髪にもう少し光も入れなければ。頬に影を付けたい。指も白っぽすぎる。
 駄目だ、あれで終わりにするなんて。

 カルヴィーノの顔色が変わったのを、モロクールは見逃さなかっただろう。厚い唇が、微かだが笑みを作ったのが見えた。彼は、カルヴィーノの弱みを握ったのだ。
 今までの関係は、絶対的に自分が有利だったのに。カルヴィーノは唇を噛む。
負けだ。カルヴィーノの負けだった。切り札は奴が握っている。
「・・・。金貨3枚はいらない、俺は男娼じゃない。『友人』として付き合おう。
ただ、正装を持っていないので、それだけ用意してくれ」
床に視線を落として、ため息混じりに答えた。
 モロクールが白い歯を見せて笑った。しっかりした大きい歯が並ぶ。歯並びのいい男だ。その丈夫そうな歯で、弱者の人生をバリバリと貪り食うのか。
「ああ、いいとも、一流の店で用意してやるよ。・・・では行こう」
 カルヴィーノの背中を押して部屋を出ていこうとする。
「このドレスは?」と、マハーヴァの代わりに夫人が尋ねた。
「妹御の為に買ったものです。気に入らなければ捨てて下さい」
 背後で、夫人の呆れたようなため息が聞こえた。

 モロクールはカルヴィーノの腕を取って馬車に走り乗った。
「急ごう。テーラーで選んでからだと、開演ギリギリだ。開演前のシャンパンを逃してしまう」
 贔屓目に見ても、モロクールははしゃいでいた。全てが、彼の思い通りに回る。オルゴールのワルツが流れ、木馬も馬車も銀のペガサスも、ゆっくり円を描く。世界は、彼が所有するメリーゴーランドだ。
「金持ちの割にケチな男だな」とカルヴィーノが力なく笑った。
「私は、あの瞬間が好きなんだよ。芝居が始まる前のワクワクした時間。鼻先で楽しげにシャンパンの炭酸が弾ける。隣には、愛する・・・」
モロクールは言いよどみ、訂正する。
「心を許せる友がいて」
 この男に心を許されても、少しも嬉しくなどない。

 タキシードなど、サイズさえ合えば何でもよかった。モロクールの好みでシャーベットブルーという悪趣味な色になった。小柄で銀髪の自分が、妙にこの色が似合うのにもむかついた。
「驚いたな。どこかの貴公子みたいだよ。タキシードに着られてない」
 試着室から出て来たカルヴィーノを見て、モロクールが口笛を吹いた。
店員も、「本当に。よくお似合いです」とほっとしたように褒める。街の有力者が見すぼらしい青年を連れて来て、「似合うのを見繕ってくれ」と言ったが、どうせどれも似合わないだろう、ご機嫌を損ねるだろうとビクビクしていたのだ。
 カルヴィーノが服装に何も注文を付けなかったので、会場には時間通りに着くことができた。
ロビーでの視線は意識した。小声で耳打ちするのも聞こえる。『モロクールの新しい恋人か』『もう新しい男か』と。
 彼がゲイなのは公然の秘密らしい。そんな奴と正装で観劇に来る。誤解されても仕方ない。覚悟はしていた。
市立劇場の貴賓席は二階席の突き出しで、個室のようになっている。骨組みに真珠を貼った優雅な二人掛けのソファはベルベットだった。貝の小さなテーブルにシャンパン・グラスが二つ並んだ。
「“ラ・トラヴィアータ”か。久しぶりだな」
 カルヴィーノは笑ってシャンパンに口をつけた。劇場に住んででもいるようにリラックスするカルヴィーノは、深くソファに腰掛け足を組み直した。
「シャンパンのお替りは?」
 モロクールが勧めると、「いや、いいよ。第1幕はけっこう長い。途中でトイレに立つのも出演者に悪いからね」と笑った。
「却って、君と来てよかったかな、君は楽しんでくれそうだ。あの男は・・・たぶん、一幕目の終わりには、飽きて、『もう帰ろう』と言い出しただろうな」
「それは、あんたと二人きりでいる方が楽しいからだろ。こういう席は、個室だし、カップルで来るといいムードになるもんだ。
俺も散々パトロン達と劇場デートしたよ。あいつら、芝居を見に来たんだか、人の体を撫で回しに来たんだか。こっちはちゃんと見たいのに」
「それは私への牽制か?ストレートの男に手出しはしないぞ。だいたい、私だって、いちゃいちゃしながらの観劇などしない、みっともない」
「別に。ただの思い出話さ」
 粉々に砕いて土に埋めて、その上に塔でも建ててしまいたいような過去だったが、時々、思い出すこともある。質のいい楽団や歌劇を特等席で堪能できたし、高級な劇場は内装もすばらしかった。肖像画を描く為に訪れた屋敷では、貴重な美術コレクションを見せてもらったこともある。
全部が全部、悪いことばかりじゃなかった。
 過去を切り捨てることなんてできない。ヴィオレッタが、娼婦であった過去を嘆き悔いても、過去は変わることなくそこにある。むしろ、過去のパーツ、どの石を積み忘れても現在の自分は存在しない。粉飾に塗れたあの馬鹿騒ぎの日々を経たから、今のカルヴィーノがいる。

 そは、かの人か。花から花へ。
 今まで知らなかった 愛の喜び。
 神秘的で 気高く 全ての鼓動となる。

 甘く切ないアリアが耳に残る。
 馬車の窓から見える街を、眺めるとも無く眺める。オペラなど見に行かなければよかったとカルヴィーノは後悔した。ピットアンバー。夜の明りに映える細い雨は、金色の髪のようだ。
 そう、雨の日はいけない。金の髪の娘。左瞼の傷が攣って痛む。
 その時、馬車が急停車した。馬が嘶く。キィと、猫のヒステリックな鳴き声。
 前の板に頭をぶつけそうになったカルヴィーノを、モロクールが支えた。
「どうした?」と、モロクールは窓から顔を出す。
「猫が飛び出して。いや、轢きやしませんけど。旦那達は大丈夫でしたか?」
 御者の声が聞こえ、馬車は何事も無く走り出した。カルヴィーノを支える、しっかりした肩の存在以外は、何事も無く。
 馬車の屋根を叩く雨音が激しく聞こえていた。それは街の音を全て掻き消した。
 カルヴィーノの前髪にモノクロールの唇が触れた。カルヴィーノは肘で彼の腕を押しのける。拒絶の意志が軽すぎた。痛いような唇が、カルヴィーノの薄い唇を覆う。
『こいつ・・・』
 油断も隙も無い。今度は両手できつくモロクールの胸を押して離れ、拳を顔に突きつけてやった。
「手は出さないんじゃなかったのか」
「すまん。君が、泣きそうに見えたから」
「・・・。」
 子供を慰めるだけのキスだったとでも言いたいのか。こいつは嘘つきだ。思いっきりムード満点だったくせに。カルヴィーノは大きなため息をつく。
「あのアリアは効くな。好きだった娘を思い出していた」
 自分に、隙が有ったのだろう。人恋しいような、切ない気持ちだった。
「どんな娘だ?」
「金髪でぱっちりした目の。グラマーな子だったよ。『ディオニュソス』に似た感じの、でももっと小さな酒場のウエイトレスだった」
「うまくいったのか?」
「いいや。ちょっとあって、すぐに振られた」
「君を振るなんて、見る目が無い娘だな」
「・・・事故で、彼女の握ったナイフが、俺の左目を裂いた」
 モロクールは、えっ?とカルヴィーノをかぶり見た。
「俺が、『責任を取って結婚してくれ』って言ったら、『わかった』って答えるんだ。俺のことなんて、愛してもいないのに」
 雨音でうるさい馬車の中、自分の声だけが響いた、『俺のことなんて、愛していないのに』。言葉はもう一度カルヴィーノの耳を通り、心地よいほど胸をざくざく切り裂く。
「カルヴィーノ。その傷は、まだ新しいようだが」
「そろそろ、五カ月かな」
「そうか。まだ、傷は生だな」
 彼が言ったのは瞼の傷のことではなかった。塞がったつもりでいても、時々血が滲む。普段は忘れているが、ふとした拍子で痛んだりするのだ。
 失恋の痛みに効く薬は、新しい恋だという。常にその薬を追い求め、薬の副作用で更に新しい痛みを抱えているようなモロクールを、愚かだと思うが、カルヴィーノには笑うことはできなかった。
 モロクールの指が、カルヴィーノの左瞼の傷を撫でた。今度の接触は性的な匂いが無く、カルヴィーノも不快さは感じなかった。


< 10 >

 食事に誘われたが、マハーヴァが待っているので断った。モロクールは宿まで馬車を廻してくれた。
 宿の前に馬車が泊まると、「妹御に挨拶して行きたいのだが」とねだった。
「今夜はやめておけよ。
 俺も、マハーヴァをマトモにしたいとは思ってる。あんたのしてくれていることには、感謝してるんだよ。でも、あまり急かさないでやってくれよ。
 だいたい、あんたは、マハーヴァをどうしたいんだ?ゲイのくせに」
「ひどい言い方だな」
 モロクールは苦笑した。
「私だって、同じなんだ。マトモになりたいと思っている。いや、正確に言うと、『ストレートだったらよかったのに』と、ずっと思って来た」
「・・・。」
「世間から後ろ指を差されない恋愛がしたい。教会に行って祈りたいし、つらい時に神の名を呼びたい時もある。子供は欲しいし、家庭だって欲しい。君が描いた、あの絹織物の商人達のような、あんな暖かくて幸せそうな家庭がね。
 私は、今までに一度も女性に心を惹かれたことは無かった。遊びで寝たことはあっても、恋をしたことは無い。また会いたいとか、もっと一緒に居たいとか、そんな風に思った女性はマハーヴァが初めてなんだ」
 その理由は。モロクールだってわかっているはずなのに。なぜ、そんな子供っぽいことをする?
「・・・妹とデートするなら、男性と絶対接しない場所を選んでくれ。女性が経営するブティックやウエイトレスしかいないレストラン」
 そのセリフは、実質、モロクールとの交際を許してしまった格好になった。いや、マハーヴァは本当の妹では無いし、実妹だったとしても、兄が交際を反対する理由なんて見当たらなかった。
「今夜は付き合ってくれてありがたかった」
「いい“トラヴィアータ”だったよ。ヴィオレッタは少し声に伸びが無かったけど」
 カルヴィーノが握手の為に手を差し出す。モロクールがその手を取って、唇に近づけようとするので、「握手だろ、握手!」と慌てて怒鳴った。
「ああ、そうか」とモロクールも笑い声をたて、手を握り返した。

 玄関にはもう人気(ひとけ)が無く、ショール夫人も受付から部屋に戻っていた。当然夕食の取り置きは無いだろう。一食くらい抜いても平気なカルヴィーノは、まっすぐ自分の部屋へ戻った。
 眠っているかもしれないので、音を抑えてノックした。
「おかえりなさい」
 不機嫌そうな声だった。ベッドに壁が迫る小さな部屋だが、その壁にボリュームのあるドレスが三着も下げられて、布の厚みで窒息しそうな狭さになっていた。マハーヴァは相変わらず床に座り、ランプも床に置いてブランケットを編んでいる。帰って来たカルヴィーノをジロリと睨みつけた。・・・行くのは怖いくせに、行って来たカルヴィーノのことは恨むわけか。
嫉妬しているとしたら、それはマハーヴァの中に産まれた新しい感情だ。モロクールに何らかの想いを抱き始めているのか。
「今度誘うのは、男性のいないレストランやブティック。彼はそう約束してくれたよ。劇場はまだマハーヴァには無理だ。だが、少しずつ慣らして、きっと行けるようになる」
 タキシードの上着を脱ぎ、膝を付いてマハーヴァの視線になって。子供を諭すように話した。
「別に、どうでもいいわ。外へ出なくたって生きていけるし」
 拗ねて視線をそらす。
 生きていけているのは、周りの誰か、今だったらカルヴィーノが負担を請け負っているからだ。以前なら妹のディヤーだったろう。言いたいことは幾つもあったが、無駄なのでやめておいた。
「でも、外へ出たら、楽しいことがあるかもしれない」
 カルヴィーノは、それだけ言った。

 湯を浴びようとバスルームに入る。バスタブに水滴が残っている。マハーヴァは、こういうことにあまり神経質で無くなった。いいことに違いない。
 だが、自分にとって。モロクールとマハーヴァの交際は、決して気持ちのいいものでは無い。『生理的に』だ。
 白い陶器に湯が溜まり、タイル張りの冷たい浴室に湯気が昇って来る。カルヴィーノは曇り始めた鏡の前で、きつい蝶ネクタイを解く。フリルのついた女々しいシャツのボタンを一つずつ外して行く。鏡の霞を拭う。こけた頬と、無愛想な瞳。うるさそうな前髪。アンダーシャツから覗く、そう胸板も厚くない平坦な筋肉。マハーヴァと同じ顔の男。
そして、鏡一枚向こうに、カルヴィーノと同じ顔の女が存在する。
あいつは、どんなつもりでマハーヴァを腕に抱く気なのだろう。

 翌朝は、雲がまだ雨を含んだような空模様だった。
 朝食を食べ終えて、厨房をトレイに置きに行くと、「カルヴィーノ」と、ショール夫人が洗い物をしたまま、彼と目を合わせないように声をかけた。
「昨夜はびっくりしたよ。あんたたち兄妹が、モロクールさんとあんなに懇意だとは」
「・・・迷惑をかけた。俺は今、彼の肖像画を描かせて貰っているもので」
「マハーヴァのことは、娘のように可愛く思う。あんたも、健気に真面目に生きてるのがわかるよ。だがね・・・。うちは、堅いのが売りの下宿屋でね。その評判だけで、宿を支えて来た。あの人は、ヤクザな水商売の男で、しかもゲイだ。神様に許されていない。その親しい友人が下宿に居るというのは・・・困るんだよ」
「・・・。」
 指先に温度など感じぬはずなのに、トレイを握る手が氷のように冷たく凍えていく気がした。
「わかった。少しまとまった金も出来たし。数日中に新しい下宿を見つけて、出て行く」
 
 部屋に戻り、画材箱を抱え、夫人から貰ったブランケットを羽織る。古びた毛糸で誠実に編まれたそれは、すぐには暖かくならない防寒着だった。マハーヴァにはまだ言えなかった。
母親のように二人を思いやってくれたショール夫人。
 編み物を教わって、少しずつ明るくなったマハーヴァだ。夫人は、暫く忘れていた暖かさを二人にくれた。彼女がほぐす毛糸玉よりもふわりと。
彼女の迷惑になるなら、出て行かねばなるまい。

 重い足取りで今朝もモロクールの屋敷へと向かう。通りでは市の女達が声を枯らす。大きな籠を持った買物客がいつもざわざわと賑やかだ。
 だが、その中に混じる声がある。
『あの男、モロクールの?』『例の絵描きだろ?昨夜劇場で見かけたよ』『金貨何枚で買われたことやら』・・・そして忍び笑い。
広場から、小走りにゆるい坂を上げる。噂など気にしては生きてはいけない。カルヴィーノは早足で住宅街へ向かった。
 モロクールの瞼は腫れていて、今日も二日酔いらしかった。だが、起きて、衣裳を着ていただけマシだ。髭は剃っていないし、髪も下ろしていた。まだ顔を洗っていないのだろう。「すまんな」と詫びた。
「今日は頭部は描かないから、髪も髭もそのままでいいよ」
「立つとくらくらする」と文句をいいつつ、モロクールは決められた場所に、いつもと同じポーズで佇んだ。
「モロクール」
 大きく息を吸い込み、改まった声で呼びかける。
 カルヴィーノはパンツのポケットから、ジャックナイフを取り出した。一応護身用だが、宿に落ち着いて荷物をほどく時くらいしか使ったことは無い。
「約束してくれ」
 画家の口調は緊迫していた。まだ寝ぼけたようなモロクールが、覚醒した表情でキャンパスを向いた。
 カルヴィーノは、キャンバスにナイフを突き立てる、数インチのところで手を留めていた。腹に力を入れる。これから、ヤクザ相手にハッタリをかますのだ。
「昨日みたいに、この絵を人質に取られても面白くないんでね。もう二度と、あんなことをしないと約束してくれ」
 昨日、絵を続けて描かせる主導権が雇い主にあるという当たり前のことを、モロクールに気付かせてしまった。いや、それがカルヴィーノの『弱み』であることを知られてしまったと言う方が正しい。このままでは、完成するまでに何度も同じ手を使うだろう。これは、賭けだった。
「バカなことを。君が自分の絵を切り裂けるわけがないだろう」
「あんたこそ、絵描きのことを何もわかってない。未完成のものを飾られたり人に見せたりされるのは我慢ならないが、絵を抹消することは厭わないんだ」
 モデルは、勝手に髪を掻き上げた。深い碧の瞳に、戸惑いと、それからたぶん悲しみが見えた。
「まいったな。・・・手を降ろしてくれよ。昨日はわるかったよ。だが、付き合ってくれて感謝してる。
 その絵の完成は私も楽しみにしている。本当にすまなかった。やめてくれ、そんなむごい仕打ちをするのは」
 モロクールは頭痛を和らげようとでもするように、こめかみを抑えた。
「君は残酷だ」
「残酷?どっちが?」
「・・・。」
 男は『一生判り合えまい』と言うように、首を振った。起き抜けの髪は額に下がり、深い皺を隠した。

 マハーヴァは、その後、モロクールと何度か外出したらしい。それが『デートと呼べる代物なのかどうか、カルヴィーノは知らない。
 モロクールが下宿の前に馬車を停めるので、ショール夫人がカルヴィーノに文句を言った。本人には言えないのだ。

 カルヴィーノはそのことをモロクールに告げるだけ告げると、何も無かったように、キャンバス上の服の仕上げにかかった。ビリジャン・グリーンとブルー・ブラックを混ぜて重ねる。平筆の縁で細かい皺の色を乗せる。
「停める度に銀貨20枚握らせてるんだが、足りなかったか」と、モロクールは首を傾げた。冗談なのか本気なのか、カルヴィーノにはわからなかった。
『あんたのせいで、下宿を出ていってくれと言われてるんだけど?』
 喉まで出かかったが、押し止めた。暇がなくて、まだ新しい下宿は探しに行けていない。

 モロクールの、書籍を握る指が、トントトンと軽く拍子を取った。既に飽きたのか、何かにじれているのか。カルヴィーノは無視して作業を続ける。
「昨夜遅く、警官が来た」
 モロクールが、意を決した口調で切り出した。
「他国の近衛隊からの要請で、男を探しているという」
 カルヴィーノの手が止まった。
「26、7歳の子爵で、サー・メダルドという宮廷画家だそうだ。背は5.7フィート、痩身、銀髪に銀の瞳。極刑の代わりに両腕を切り落とされ放免されたが、5か月ほど前にモラハという小さな街で傷害事件を起こした。病院から脱走。怪我の詳細不明。
その国の王は、死刑にしなかったことをとても後悔されているそうだ。見つけ次第その場で斬首ってことだが」
「メダルド子爵ねえ・・・」
 平民のカルヴィーノを寵愛するのに不便を感じた奴らが、勝手に与えた爵位。今聞いても慣れない。どこの誰なんだかという響きだった。
近衛兵の掴んでいる情報は曖昧だ。長袖シャツの先をブラブラ揺らす青年を探しているだろうか。今のカルヴィーノの姿を正確に知っているわけではなさそうだった。だが、注意は必要だと思った。カルヴィーノは、止めたところから再び筆を動かし始める。
 モラハでの事件は知られている。義手を手に入れて似顔絵描きをしているのもバレている可能性もある。サロス通りで店を広げていたら、見つけられて首をバッサリも有り得た。
「あと数日かかるんだ、この絵。まだ死ねないよ」
「これを完成したら死んでもいいって聞こえるぞ」とモロクールが笑うので、「それは大きな誤解だ」と答えておく。
「完成したら、街を出て行く。警官にチクるのはそれまで待ってくれ」
「君を警察に売る気は無い」
「ありがたい」
「・・・宮廷画家だったとはな。そう言えば、王妃の肖像を描いたと言ってたな。冗談だと思っていたよ。
 貴族相手、それでか」
 モロクールは、決められた姿勢のままで、視線だけを靴に落とす。
「ノンケのくせに、君の立ち居振る舞いは、男の肌を知っている者だった。ずっと不思議に思っていた。そういうことだったのか」
「そういうことだよ」と、カルヴィーノは軽く笑いながら受け流した。意識して筆を止めなかった。
「俺が男と寝たことがあるって、そんなことがわかるのか」
「わかるさ。・・・君だって、少し親しく接するようになった女性が、バージンかそこそこの経験があるか、気付くだろ?それと同じだよ」
 過去はどこまでも付いて来る。これも、積み上げられた石の一つなのか。カルヴィーノを作っているパーツの一つ。欠けたらもうカルヴィーノで無いもの。
「・・・マハーヴァを頼んでいいのか?」
 モロクールは視線を上げる。探るようにカルヴィーノの顔色を見た。
「それは、マハーヴァさえよければ。だが、兄と離れることを、彼女が承諾するのか」
「マハーヴァは妹じゃない」
 もう、言ってもいいだろう、こいつには。兵隊に追われていることまで知られているのだ。
「モラハで、首を吊ろうとしていたところを、一緒に連れて来ただけだ」
「妹じゃない?あそこまで似ていて?血は繋がっていないのか」
 驚愕にモロクールは瞳を見開く。
「全くの赤の他人さ。何の血縁も無いから、よけい怖くなる。
俺たちは、きっと、どちらかが境界を踏み越してしまったんだ。ここは、『俺』が、女性として暮らす世界で、マハーヴァはこの世界の『俺』だったんだ。ドッペンゲンガー。出会ってはいけない者だったのさ」
「マハーヴァが首を吊ろうとしてたって?」
「・・・。元々生きるのが下手みたいだが、触媒は俺だった。放ってはおけなかった。
 ついでにもう一つ伝えておく、彼女には離婚歴がある。幼なじみと結婚したが、すぐに実家に戻り、以来家から一歩も出なかったそうだよ。
 まあ、詳しいことは、本人から聞いてくれ。俺が話すことじゃない。あんたとマハーヴァの時間は、これから先もたっぷりあるんだから」
 
 今日も二日酔いのモロクールは、更に小難しい問題に頭を痛めたようで、額を抑えながらソファに座った。カルヴィーノの為に用意された水差しから、直接水をごくごくと飲んだ。喉仏が元気そうに動く。首の筋にまで色気のある男だ。
「時間が無いから、俺はまだ描くが。あんたはもう付き合わなくていいよ。
危険だと思うんで、店の似顔絵描きにはもう行かない」
「・・・ここへ二人で移って来ないか?」
 それは願ってもない申し出だったが。奴にあまり恩を売らせたくなかった。
「考えておく」とだけ答えておいた。


 ♪ 次のページへ ♪

表紙へもどる ☆ 次のページへ