クラッシュガラスの上でダンス

---人魚姫によせて---

1/3



 第 一 章
 < 一 >

「私だ。開けてくれ」
 手ではなく、靴でノックしているような乱暴で大きな音だった。
 ブルーは舌打ちすると、しおりを挿んで魔法辞典を閉じた。解毒作用のある薬草について調べているところだったが、邪魔が入ってしまった。
「はいはいはいはい」
 いい加減な返事をしながら机から立ち上がり、自分の部屋を離れた。廊下へ出ると、来客の声を聞いた子猫のグッピーが、台所からころころと毛糸玉のように飛び出して来た。ふわりと白い毛糸玉は、ブルーに見向きもせずに一目散に玄関へ走っていく。ブルーも小走りで玄関へ向かった。
 メシュワラームさまにも困ったものだ。確かに夜はまだ浅いし、ここは海辺の一軒家だから近所迷惑にはならないが、だからと言って、そんなにドンドコ叩くと扉が壊れるじゃないかっ。どうせ直すのは僕なんだから。
 ブルーがぶつぶつ不平を言いながら扉を開けると、メシュワラームは腕に娘を抱いて立っていた。
 マントに包まれた娘は、体も髪もずぶ濡れで、ぐったりしていた。気を失っているのかもしれない。
 むきだしになった肩は抜けるような白さだった。顔色は蒼白だが、彫りの深い整った顔だちをしていた。まだ十七歳くらいだろう、鼻の頭の丸みが幼さを感じさせた。
「ど、どうなさったんですか、それ」
「浜辺に落ちていた」
「落ちていたって・・・」
「拾ったから私のものだ。
 溺れたらしい。息はある。手当てしてやってくれ」
 ブルーは娘の首筋に手を当てた。気を失っているだけだろう。だが体が冷えきって、筋肉が硬くなっていた。
「二階の客室に運んでください。僕は薬を持って上へ行きます。部屋は、暖炉に火をくべておいてください」
「わかった」
 メシュワラームは、娘を抱えたマントから滴をしたたらせて階段を駆け上がっていった。
グッピーもにゃあにゃあとメシュワラームの後を追った。右の客室に入ったようだ。
 拾ったからといってヒトは拾い主のものにはならないんだぞ。あのお坊っちゃまはそれをご存じないのかぁ?

 ブルーは、赤い液体の入ったガラス瓶とスプーンを手に階段を昇った。部屋を覗くと、娘はベッドの上でマントにくるまれたままだった。
「濡れたマントは外しておいてくださいよ。このままでは体が冷えるでしょう? 足元にあるブランケットを取ってください。それをかけましょう」
「いやなに、ひとりでやるのは申し訳ないかと思ってな。ブルー、マントのそちらの端を持て。片方しかないその目でしっかり見ておけよ」
「?・・・わっ!」
 ブルーは半歩飛びのいた。娘は一糸まとわぬ裸体だったのだ。
「は、だだだだ、かかかか 」
 全身の血が顔に集中したかと思うほど、かっと熱くなった。
 見てはいけないと手で顔を覆った。左目しか見えないくせに、つい両手で覆っていた。無意識に瓶とスプーンを放り投げたので、それらはころんと絨毯の上に落ちた。
 まだ燃え始めたばかりの暖炉の前でうずくまった子猫が、落下物を見て不思議そうに顔を上げた。
「待っててやってよかっただろう? それっ」
 メシュワラームはマントを引っ張って抜き取ると、白い裸体にふわりとブランケットをかけた。ブルーが見てしまったのは一瞬だったのだが、それでも形のいい胸の丸さや折れそうな腰のくびれは目に焼きついていた。
 それから×××や△△△も。
『うわーっ!』ブルーは記憶を押しやるように首を横に振った。
 メシュワラームには何でもないことらしく、冷静に説明を始めた。
「浜辺に打ち上げられていたんだ。パラーニャ村からここへ来る途中・・・丁度半分くらいの場所だったかな。
 何故衣服を着けていないのかは知らん。落ちたのでなければ、ハダカで泳いでいて足でもつったのか」
 ブルーはまだ顔がほてっていた。冷えた掌を頬にあてた。
「大丈夫か、純情魔法使い。鼻血など出すなよ」
 メシュワラームは壁にもたれて腕組みしたままにやにや笑っている。肩を強調した上着のせいで、よけいに偉そうに見えた。
「ほ、ほっといてくださいっ!」
 まだ二十歳かそこらのくせに、馬鹿にしやがって。僕は八十二歳だぞ。外見は十八くらいにしか見えないだろうけれど、本当は六十歳以上も年上なんだぞっ!・・・って、自慢にもならないな。
「メシュワラームさま。彼女の体、少しだけ起こせますか」
 ブルーは瓶を拾うと、コルクをあけて中の液体をスプーンに注いだ。娘の頬をつまんで口を開かせ、紫色に凍えた唇の上に赤い液体を乗せた。
 飲み込む力がないのか、それは血のように顎を流れシーツに染みを作った。
「・・・だめか」
 ため息ついたブルーの背を、メシュワラームの肘がこづいた。
「ほらほら。口うつしって手があるだろう」 
ブルーを横目で見ながら、からかい気味に笑っていた。むっとしてブルーは薬瓶をメシュワラームに押しつけた。
「メシュワラームさまがやればいいでしょう」
「薬品は、くすり師以外の者が飲ませてはいけない法律ではなかったのか?」
「別に構いませんよ。量は計らなくていいですからね、適当で」
「そんなことで本当にいいのか? 結構いい加減なんだな」
 メシュワラームは瓶から直接薬を口に含むと、娘の頬を抑えて唇に流し込んだ。首の後ろに手を入れて体をそらせてやると、娘の喉をゆっくりと液体が通りすぎた。
 メシュワラームが手を差し出した時に、彼の上着の袖口から手首の無残な傷が覗いた。二年前に、手首を切った時のものだ。入水自殺で留学を取り消された後も、メシュワラームは懲りずに何回か自殺未遂事件を起こしていた。
 去年は、別荘の庭でブルーが育てていた薬草を勝手に全部引っこ抜き、適当に煎じて全部飲んだ。毒も薬もあったが、全部飲めば確かに害にはなる。ただし腹をこわして寝込んだだけだったが。
 以来ブルーは庭で葉を育てるのを辞めた。メシュワラームが死のうが下痢しようが勝手だが、せっかく育てた薬草をむしり取られてはたまらないからだ。

「これでいいだろう」
 娘に薬を飲ませたメシュワラームは、ブルーを振り返りながら、ぺろりと自分の唇をなめた。
「これは、ワインではないのか?」
「そうですよ」
 ブルーも平然として答える。
「ただの赤ワインです。体を暖めるのが目的ですから」
「なんだ。それならもっとよこせ」
 メシュワラームは瓶に入ったワインをごくごくと飲み干した。
「あなたのワインだからいいですけれどね」 
ワインだけでない。この家の中で、ブルーの部屋にある物以外は、すべてメシュワラームのものだった。屋敷も、家具も、飼っている動物も。この屋敷は、メシュワラームの持ち物なのだ。
 住んでいるのはブルーだが、ここは、カルボラ王国の首都に居を構える名門・ゴルゴネラ伯爵の末息子メシュワラーム・ゴルゴネラの、言わば『秘密の別荘』だった。
 ここから浜辺を通って着く一番近い村、パラーニャ。そこでくすり師の店を出すブルーは、街からふらりと薬を買いに来たメシュワラームと知り合い、仲良くなり、無料でここに住まわせてもらっていた。いや、正確に言うと、家を常に整えておくという条件で、報酬さえ戴いていた。ここはまわりに家がないので、ちょっと危険な実験や調合も気兼ねせずにできた。人と接する必要も無い。
 それに、窓から海が見える。庭からすぐ浜辺へ出られることも気に入っていた。
 ただし。
 メシュワラームは我儘な男だった。ブルーはまるでメイドのように、いつメシュワラームが訪れても快適に過ごせるよう命じられていた。部屋の掃除や料理・酒の準備を怠ることは許されない。これではまるで囲われた愛人だ。恋人がいつ来てもいいように待つ愛人。
 そして、ここはメシュワラームの隠れ家だった。伯爵家で面倒なことがあると、すぐにここに逃げ込む。重要な行事に出席したくないときもそうだ。親戚の葬式だとか、姉の結婚式だとか、甥っ子の十歳の誕生会だとか。そういう時はたいてい機嫌が悪く、ブルーに当たり散らすことが多かった。
「今夜は晩餐会でしたね。おねえさまが帰国なさった歓迎の会ではなかったんですか?」
「私は歓迎していないから、出なくていいんだ」
 そんな理屈あるものか。しかし、この話題に嫌悪感を感じているらしい、メシュワラームの口調は厳しい。表情が堅くなり、怒り出したようにさえ見えた。
「シャクティーヌのやつ、また出戻って来やがった。これで三度目だぞ。父上ももうさすがに同情する気も起こらないようだ」
 ひどい言い様だ。メシュワラームの義姉・シャクティーヌは、確か彼より三歳年上の二十三。黒絹の髪に漆黒の瞳のすばらしい美姫だと聞いている。
 しかし、薄幸の美女だった。嫁いだ先々で、必ず夫が不慮の事故で死んでしまうのだ。今回は隣国の貴族に嫁いだが、新郎は狩りで銃を暴発させて死んだ。これでもう三度目だった。彼女はまた未亡人となって帰ってきたのだ。
 メシュワラームは姉の話題を避けた。ブルーが色々尋ねても、あいまいな答えが返ってくることが多い。話題をそらすこともある。二度目の母の娘である、シャクティーヌへの確執があるのかもしれない。それとも、血が繋がっていないことで、妙に異性として意識しているのだろうか。少なくとも、村で住民の噂話を聞く限りでは、先妻の王子たちはシャクティーヌとは仲が悪いらしい。

 娘がワインを飲み込んでから、十分もたっただろうか。暖炉で燃える薪の一本がパリンと音をたて、寝ていたかと思ったグッピーがその音に驚いて飛び跳ねた。
 やっと、娘の唇に赤味が戻ってきていた。頬もほんのり薔薇の色に染まった。
「う、う ん・・・」
 微かに娘が顔を揺らした。意識を取り戻したようだ。
「気がついたようですね」
 ブルーたちは娘の顔を覗きこんだ。
 瞼を開いた娘の瞳は、朝の海の水に似た青。
銀のサカナがちょろちょろと安心して泳ぎ回る浜辺の透き通った水のような。一日の始まりの祈りのこもった、美しい色をしていた。 意識がはっきりしてきたのか、長い睫毛を何度もしばたかせた。視線が定まらず、おどおどと戸惑った表情になった。
 娘が脅えていたからだろうか、普段人に優しさなど見せないメシュワラームが珍しく、つとめて穏やかな声を出した。
「おまえは海で溺れたのか? 浜辺で倒れていたんだよ。覚えていないか?」
 娘は、困った表情で、メシュワラームとブルーを交互に見上げている。
「この方がおまえを助けてくださったんだよ」
 後ろで、客室の茶器をいじりながら、ブルーも穏やかな声をかけた。
 娘は礼も言わず、まだ黙ったままだ。何に脅えているのだろう。怖い思いをしたせいなのか。それとも、メシュワラームの身分が高そうなのに気づいて畏れているのかもしれない。
「お前はこの村の娘か? 家族が心配しているといけない。連絡しておいてやろう、名前は何というのだ?」
 娘は口を開いた。
「ああ、ううう・・・」
 ブルーたちは顔を見合わせた。
「口がきけないのか?」
 娘は頷く。
 ブルーとメシュワラームは再び困惑して顔を見合わせる。お互い、面倒な拾いものをしたという気持ちだった。
「こうして、命に別状無く浜に打ち上げられたわけですから、遠くで溺れたわけではないと思います。近所の村の娘だと思いますよ。明日パリスにでも届けておきます。
 さ、スィーラム・ティーだ。体が暖まるお茶だよ」
 ブルーは、まだ茫然としている娘に、笑顔でカップを差し出した。娘はこわごわと手をさし出し、カップを受け取った。その時、微かに指が触れ合い、ブルーの指輪がぱっと一瞬光った。
 娘は驚いて手を引っ込めた。
 ブルーもカップを持ったまま動作が止まってしまった。指輪が反応するなんて、この少女は何者なのだ? それとも、溺れかけたことで、水の精霊や死の精霊の奴らがしつこくまとわりついているのだろうか。
 右手の人指し指にはめられた金紫の水晶玉は、過去と未来を見ることのできる石だった。
ブルーにはまだ未来を見る能力は無く、過去を見るのにもたいしたことはできない。ただこの石は他にも不思議な力があるらしく、時々妙な反応をする。
 娘はブルーとカップを交互に見つめていた。
手を出そうとしない。
「ごめん。魔法の指輪なんだ。驚かせちゃったかな。もう大丈夫だから」
 ブルーは指輪を外してシャツの胸ポケットに滑り込ませると、両手でカップを娘の手に握らせた。
 僕のこと、怖いのかな。
 ブルーは少し不安になった。ブルーには右目が無い。堅くとじた瞼は開くことはないのだ。その瞳は、左耳に刺さる透き通った青い石の耳飾りに変わったから。この耳飾りは、魔力を増幅するためのもの。ブルーのような下級魔法使いには、あると無いでは大違いの代物だ。
 そのことは、後悔してはいないけれど。でも、長い前髪で片目を隠したこの風貌は、気味が悪いに違いない。
 片目である以外は、ごく普通の青年だと自負していたが。
 背中にかかるほどの銀の髪は後ろでゆるくひとつに束ね、前髪は右目と右の眉を隠していた。隠れていない方の、左の瞳は、サファイヤ色のブルー。見え隠れする耳飾りの石と同じ色だった。
「さあ、お茶を飲んだら、今夜はゆっくり休んだ方がいい。 明日のことは、明日になってからだ」
 ブルーは娘が飲み干したカップを受け取り、ブランケットをかけ直した。
 メシュワラームも、娘が一息ついたのを見て安心したらしい。
「ブルーをちょっとからかいに来ただけだったが、すっかり遅くなってしまった。そろそろ屋敷へ帰るとするか。
 今夜は彼女に付いていてやるといい。明日また様子を見に来るよ」
「あ、メシュワラーム様、マントは 」
 メシュワラームのマントは、海水に濡れて皺だらけのまま床に転がっている。
「別に無くても構わないさ。
 それより、明日来る時、何かこの娘の着るものを調達して来よう」
 そう約束すると、メシュワラームは街の屋敷へ帰って行った。
 ブルーは、玄関までメシュワラームを見送りながら、
『自殺癖があると噂されるメシュワラームさまが、死にかけた娘を助けるなんて。不思議な出来事もあるものだ』
とにが笑いしていた。

 メシュワラームとのつきあいは、三年前から始まる。
 入水自殺未遂を起こした四男坊は、家から留学を解かれた。屋敷へ家庭教師を呼ぶことになり、要するに監視付きという立場になった。
 そんな頃だった。彼は、パラーニャ村でくすり師を営むブルーの店に、一人でやって来た。今思うと、監視の目をかすめ、こっそり抜け出して来たのだろう。

 あからさまに怪しい男だった。
 小さな戸口、赤や青のビーズの暖簾をじゃらじゃら鳴らして入ってきた青年。
 身分が高いのは明らかだ。服は街の男が着そうな普通のシャツとズボンだが、素材は高価なカルサス・コットン。仕立てはかっちりして隙が無い。どう見ても既製服ではない。しかもかなりの高級品だ。
『上客だ』
 細長い店、奥のカウンターに頬杖ついて魔法書をめくっていたブルーは、ほくそえんで本を閉じた。
 どうせ媚薬か精力剤か。金持ちのぼんぼんが欲しがるのはそんなところだ。思いっきり吹っかけてやろう。
 青年は、手入れの行き届いた指と爪で、狭い店の壁いっぱいに並べられた棚のガラス瓶を、面白そうに一つ一つ手に取った。整えられた栗色の髪は、櫛を通す専任の者がいるのだろう、絹のように艶やかだ。何かに怒っているようにずっとひそめられたままの眉と、色の無いグレイの瞳は、神経質そうな印象を与えた。だが、滅多にいない美しい青年だった。
「死ねる薬はないのか。ひとくち飲めば、苦しまず怪しまれずにコロッと死ぬような」
 首だけで振り返って、ブルーに尋ねた。薄い唇が笑みを作っていた。

 こいつ、からかってるのか。
 むっとしたブルーは、カウンターの下から幾つかの布の袋を取り出して並べた。
「この黄色い袋は、伝説の毒蛇のエキスを抽出して乾燥させたもの。耳掻き一杯をお茶に混ぜ続ければ、一年で衰弱死します。
 真ん中の袋は、一応薬草ですが、大量に取ると心臓麻痺とほとんど見分けがつかない死に方をするでしょう。
 左の青い袋は」
「それでいい。真ん中の茶色の袋。それを買いたい。金はこれで足りるか?」
 青年は、ずうんと音をさせてカウンターに金貨の袋を投げ出した。
「この金貨で買える分だけくれ」
 薬草ひと袋の相場は、金貨一枚でも釣りが来るような値段だった。ぼったくるにしたって、ブルーにも良識というものがあった。
「その金貨の量だと、古今東西、未来永劫、この国で採取されるその草を買い占めることができますよ」
 料金が多すぎることを教えたのだが、彼は肩をすくめた後に負け惜しみを言った。
「買い占めれば、私以外の誰も、その薬を悪用することはなくなるだろう。この薬での暗殺もなくなるぞ」
 あんたが一番悪用しそうだ、とブルーは思ったが口には出さなかった。営業用の笑顔で続ける。
「毒は他にもたくさんございますからねえ、あまり意味はないでしょう。それに、こちらの薬は決して毒なわけではなく、鎮痛剤です。頭痛・歯痛・生理痛、たいていの痛みに効きます。
 これが正しい量と煎じ方のメモです。必ず守ってくださいね」
 これを手渡せば、何があってもブルーに罪は無い(という法律になっている)。この男がこの薬で何人殺しても、悪用した奴が悪いということになる。
 青年はメモを見つめたまま、
「面倒なんだな」
と、憂鬱そうにつぶやいた。
「おまけに字が細かすぎて、読んでいてイライラしてくる」
「そんなことはないと思いますが 」
 やれやれ、我儘な人だ。ブルーは店のカウンターから乗り出し、メモを覗き込むために前髪を掻き上げた。
「おまえ、右の目が・・・ 」
「え。ああ」
 前髪がなびいた時、顔の右側の部分、つむったままの右目が垣間見えたのだろう。
「へええ」
 青年は好奇心にかられた声を発し、勝手にブルーの前髪を握った。そして髪をめくり上げた。閉じられた瞼があらわになる。
「なにするんですかっ」
「綺麗じゃないか。隠す必要などないだろうに」
青年の表情に、からかいは無かった。真剣に言っているのだろう。悪気は感じられない。
だが、傍若無人な振る舞いであることに変わりはなかった。
「・・・ 離して下さい。
 一応接客業なんでね。店に来たお客様が、この目を見てぎょっとして帰ってしまうと困るんですよ」
 そして、その後、ブルーにとって幸運な依頼が舞い込む。青年はメモを睨みながら言った。
「これ、おまえが作ってくれないか。報酬は与えよう。施設も そうだ、屋敷をひとつ貸し与えてやるぞ」
 それがメシュワラームとの出会いだった。

 鎮痛剤を作る仕事が終わった後も、ブルーのどこを気に入ったのかは知らないが、急に友達扱いし始めて、ずっと別荘に住まわせてくれた。
 実は、友達というにはメシュワラームの権限が強すぎる。パトロン、従者、まるで囲われた愛人。ブルーはいつもきまぐれなメシュワラームに振り回されている気がする。
 もちろん、恋人ではない。少なくともブルーは男性嗜好者ではない。
 華奢な体つき。銀の髪で碧眼の彼は、男にくどかれることも少なくはないが、絶対的に圧倒的に女性嗜好者だった。メシュワラームにも、その種の趣味を感じたことはない。彼は、ブルーを面白いペットくらいに思っているだけだろう。

 娘が休んでいる部屋に様子を見に入る。彼女は静かに寝息をたてて眠っていた。
 海水と砂にまみれてうす汚れているが、髪はブロンドのようだ。色白で整った顔は、暖炉の炎が映し出されて、血かペンキでも浴びた様に赤かった。
 新しいペット。美しいこの娘も、メシュワラームの愛玩具となるのだろうか。



 < 二 >

 ロータスは、暖かいベッドの中で夢を見ていた。メシュワラームの姿を見て安心したのかもしれない。三年前の出来事が夢の中で蘇っていた。

 月の女神が青い衣をまとい、海を照らし出していた。
 今夜はフルムーン。
 ゆるやかに揺れる波が、岩にぶつかり白いしぶきをあげる。
 このあたりは、人の住む浜辺からは遠く、船もほとんど通ることはない。おだやかな海は、人魚たちのかっこうの遊び場となっていた。
 ロータスは、岩場で金の鱗の尻尾をゆったりと延ばして岩に寝そべっていたが、
「船だわ」
 あわてて身をひるがえして水の中に隠れた。
「夜の航海だなんて、よっぽど急いでるのかしら。立派な帆船だけど」
 ロータスは、おそるおそる顔を水面から出して船の様子をうかがった。華やかな朱色の柄の帆と、波頭の形を派手な構図で彫り飾った船体。そして側面に彫られた海蛇の紋章。
「どこか名門のおうちの船ね」
 ロータス姫は、ますます興味をひかれて船に近づいていった。

「メシュワラームさま、夜の海は冷えますから、中へお入りください」
 供の者の声に、甲板の手すりにもたれていた人物が、ゆっくりと顔を上げた。柔らかそうな栗色の髪を、潮風になびかせた色白の青年。
 ロータスより少し年上だろう。細い気弱そうな眉の下の、闇を染め出したような哀しみのガラス玉は、グレイの瞳。氷より冷たそうな薄い唇。
 美しい顔立ちの青年だった。ブラウスのフリルは風に揺れ、光沢のある布地は月にきらりときらめいた。マントにも金や銀の糸で草木の凝った刺繍がほどこされていた。
 ロータスは目を見張った。こんな美しい男の人・・・しかも、こんな綺麗な服を着たひとを見たことがなかった。
 無理もない。ロータスが今まで目にしたことがある人間の男は、漁に出てきた漁師や、あらくれの海賊たちばかり。みんな、真っ黒に日焼けして髪も痛んで茶っけた、ごつい体格の男ばかりだった。
「放っておいてくれ。もう少し海を見ていたい」
 不機嫌そうに返事をした声は、しゃがれた海の男たちとは比べものにならないほど、なめらかで繊細だった。
「しかし、メシュワラームさま。
 風邪など召されますと、姉君の結婚式にさしつかえますし」
「うるさいな! ほっておいてくれと言っているだろう!」
 メシュワラームと呼ばれた青年は、ムキになって声をあらげた。怒りで白い頬が薔薇色に紅潮していた。供は肩をすくめ、船室へと入ってしまった。
『メシュワラームさま? あなたはメシュワラームさまとおっしゃるのですか?』

 メシュワラーム・ゴルゴネラ。
 この国の名門貴族・ゴルゴネラ伯爵の御曹司、末っ子の四男坊だ。隣国のリヴァノース国の学校へ留学して勉強中だが、三日後に行われる義姉・シャクティーヌの結婚式の為に帰国中だった。
 船は、結婚式が行われる聖地・ベナルへ向かっているのだろう。大臣の跡取り息子と伯爵令嬢との挙式だ。さぞ豪華で美しいことだろう。ロータスはふうっとあこがれのため息をついた。
 甲板の少し離れた場所に、一人の女性が立っているのが見えた。ロータスが今まで気づかなかったのは、メシュワラームに気を取られていたせいもあるが、彼女の濃紺のドレスと黒い髪が闇に溶けていたからだろう。
 メシュワラームからは近い。暗いからといって見えない距離ではない。いや、彼はずっと前から気づいていたに違いない。その証拠に、彼女がしゃがみこむと、
「姉上! どうしましたか?」
と、駆け寄ったからだ。
「・・・少し船に酔ったようです」
 姉上。この女性が義姉のシャクティーヌだろうか。気分が悪いせいかブルームーンのせいか、白い横顔がさらに青白く不健康に見えていた。しかし整った額と眉、闇に光る黒ダイヤの瞳。造り物の像のように麗しい女性だった。
 ロータスは、自分が美しい少女だと知っていた。波うつ金の髪、紺碧の瞳、均整の取れたからだ。人魚の国の青年たちは、いや女性でさえも、ロータスを褒めたたえた。ロータスが一度ほほえめば、彼女に恋しない男はいなかったくらいだ。
 だが、あのシャクティーヌの美しさはどうだろう。自分とは違う、凛とした冷たい美貌の女性。しゃがみこんだだけで、メシュワラームさまに駆け寄って気づかってもらえる羨ましいひと。
「大丈夫ですか? 肩を貸します。船室にお送りします」
「いいのっ。触らないでっ!」
 ヒステリックな声に、メシュワラームはぴくりと退いた。拒否されてひるんだ彼は、姉から一歩遠ざかった。
「一人で戻れます。お気遣いありがとう」
 シャクティーヌの声は、少しも礼を述べているようには聞こえなかった。白いレースのハンカチーフで口許を抑えながら、ゆっくりと立ち上がった。そして、誰をも寄せつけぬ堅い背中で船室へ戻っていった。
『なんだか冷たそうなひと。
 それに、高慢だわ。せっかくメシュワラームさまが親切にお声をかけているのに』

 一人になったメシュワラームは大きなため息をつくと月を見上げた。
『なみだ?』
 ロータスは、彼の頬を流れるきらめく水を見た。
 彼は手すりに顔を埋めた。肩が震えているのは寒いからではないだろう。
『どうしたの? こんな綺麗なひとになんでそんな悲しいことがあるの?
 ねえ、泣かないで、メシュワラームさま』 
思わずロータスの唇から歌がこぼれ出た。 
船乗りたちが伝説に残す人魚の歌。母の腕(かいな)のように優しく、目覚めの刹那のように甘く、こころ慰めてくれるその声。
船の暮らしが長びいた海の男たちが、家族や恋人に会えない寂しさを癒されるという、心にしみいる旋律。
『泣かないで。お綺麗なメシュワラームさま、
ねえ、泣かないでちょうだい?』
 ロータスの心は通じなかった。
 大きな水音がした。水しぶきが高く上がった。
身を投げたのだ、彼は。

『メシュワラームさま、私につかまって。ほら、この手に』
『よけいなことをするな。私は海の泡になるのだ。助けなどいらない。
・・・おまえは何者だ? なぜこんなところまで助けに来られる? いや、声に出したわけでもないのに、なぜに私の言葉が聞き取れるのだ?』
 メシュワラームは、きつくつむっていた瞳を、水中でかすかにあけた。
 不思議な光景を見た。
 暗い海の中、ゆらゆら揺れる藻や海草の間に、金色の髪の少女の姿があった。しかも、その少女に足は無く、細くくびれた腰の先には黄金色に輝く尾がついていたのだ。
『おまえは・・・人魚?』
 少女はそれには答えずに話しかけた。
『私は、海の男が死んでいくところを何回も見ました。嵐に巻き込まれたり、難破や漂流による渇きのために。
 みんな、陸に家族や恋人を残して来た、死にたくないひとばかりでした。
 生きて陸に帰れば、産まれているはずの子供と初めて会える男。結婚式を挙げる予定だった男。みんな、みんな、もっと生きていたかったのに。
 あなたは、今ここで・・・海で命を絶つべきではありません』
 その声は、メシュワラームの耳に聞こえたのでなく、頭の中に直接響いているようだった。まるで教師の与える退屈な本のようなことを言う娘だ。こんなに美しいのに。
 その不似合いさに、笑みを漏らしそうになった。その後は覚えていない。意識を失ったのだ。メシュワラームはこのまま死ねるのだと甘い思いに酔った。

 目が醒めたのは、ベッドの上だった。聖地ベナルへ向かう船 。自分の船室のベッドの上。
 何人もの医者や侍女が忙しそうに周りを動きまわっていた。
「せ、せんせい! メシュワラームさまがお目を覚ましました!」
 医者や侍女たちの歓声。またさらに騒がしくなった人声。
 体が冷えていった感覚はもうない。ベッドの中はふんわり暖かい。たまらないだるさだけが体中に残っていた。
『助かってしまったらしい』
 メシュワラームは力なくまた瞼を閉じた。

 屋敷のベッドの上で、メシュワラームは目を覚ました。あれから三年もたっているのに何故急にまたあれを夢に見たのだろう。
『三年・・・』
 随分昔の出来事の気がした。あれからシャクティーヌはもう二回も嫁いだ。


 < 三 >

 ブルーは大きく窓を開いた。遠くカモメの騒ぐ声が聞こえた。潮の香りと新鮮な風が部屋に飛びこんで来る。日差しが強い。いい天気になりそうだった。
 灰だらけの暖炉はもう火が消えていた。もう次の年まで使うことはないだろう。
「やあ、目がさめたね。おはよう」
 ブルーの声に、ベッドの娘は瞬きを繰り返した。
「昨夜のこと、覚えてるかな? 浜辺からここに運ばれて」
 潮の香り。波の音。一段と騒がしいカモメの声。
 カーテンが風に舞い上がった。
 娘はコクンと首を動かした。
「気分はどう? 朝食は食べれそうかな?」 
うなずく前にぐうっとお腹が鳴って、娘は赤面した。
 ブルーはくすっと笑って、
「わかった。準備してくるね」
 陽の光の下で見ると、娘は昨夜より幼く可憐に見えた。ふっくらした頬。口角の緩やかな唇も、まだあどけなさが残っていた。
「待ってる間、湯浴みするといい。部屋には風呂がついてるから。海につかって髪も体もそのままだろ。
 はい、タオルと服。服は僕のだけど、とりあえずね」
 ブルーは、部屋のドアとは別の扉を指さして、風呂の位置を教えた。タオルと着替えを、ベッド脇のテーブルに置いた。
 娘は無造作に起き上がると、不思議そうな顔でタオルと着替えをつまんで広げた。ブランケットからはずれた娘のからだが白く陽に映えた。
「うわっ! 僕の前では何か巻いていてくれよ〜」
 ブルーが慌ててタオルをかぶせた。ブルーの狼狽ぶりが可笑しかったのか、娘は声をたててクスクス笑った。喋れなくても笑うことはできるらしい。赤ん坊の笑い声のように、無邪気で高らかな声だった。
 赤ん坊。ブルーは嫌な予感がした。娘が服を広げて見ている様子は、赤ちゃんが服をもて遊ぶのに似ていた。好奇心旺盛なきらきらした目で、どこに手を入れるのか首を入れるのか、手さぐりで探究しているのだ。
 口がきけないのではなく、『まだ』喋れないのじゃないか?
 知的障害。幼児並みの頭脳。そんな言葉があたまをかすめた。
 もしかすると、何から何まで世話を焼いてあげなきゃならないのか?

「バスルームの使い方を教えよう」
 タイル貼りの狭い部屋に、ブルーの声が反響した。その声が面白いのか、バスルームが珍しいのか、娘はきょろきょろ部屋を見回していた。手がおろそかになって、体に巻き付けたタオルを落っことしやしないかと、ブルーは気が気ではない。
「湯は沸かして、バスタブに運んでおいた。少し熱めにしてある。こっちの蛇口から水が出るから、ぬるめながら使うんだよ」
 娘は頷いた。
 ほんとにわかっているのかなあ。僕が言ったことにただ頷いてるだけなのかなあ。
「これが髪用の石鹸。こっちが体を洗う用の石鹸。石鹸ってわかる? こうして泡立てて使うんだ」
 ブルーが灰色の石に水をつけ、布でこすってみせた。蟹の泡のようにぶくぶくと次々にわき出るシャボンに、娘は目を丸くした。
 手で掬おうとしたが、空を切った。シャボンの一つが、ふわりと舞った。周りの色を映しながらキラキラと輝くそれを、ぽかんと口を開けてながめている。
 ブルーは大きくため息をついた。赤ん坊に石鹸の使い方を説明したところで、自分で洗えるようになるわけがない。ブルーは腹をくくった。
「君、むこう向いて、この椅子に座って。タオルは巻いたままでいい。髪は僕が洗ってあげるから」
 不思議なことに、言葉は理解しているのだ。
娘は背中を向けて腰を下ろした。
 髪は腰の長さまであった。潮の汚れで絡み合い縺れ合っていた。ブルーは髪にぬるめの湯をかけた。金の糸が娘の白い肩や細い首にまとわりついた。
『見るな見るな見るな! 余計なものは一切見るなよーっ! 洗髪だけに集中しろ!』
 ゴシゴシと乱暴に泡立てた石鹸で、一気に髪をこすった。娘は何をされているのかわからず不安なのか、肩をすぼめている。ちらちら振り返り気味にブルーを横目で盗み見ていた。
「流すぞー! 手で耳を塞いで、目を閉じていろよ」
 バスタブから杓で湯を掬い、繰り返し流した。湯の流れが、金色の髪で娘の背中に縦縞の模様を作り出す。娘はずっと耳を塞いだままで、湯を含んだタオルは重さで下にずり落ちていた。
 ブルーもいちいち動揺するのに疲れてしまった。自分のシャツとズボンも、泡だらけの水びたしだ。とっとと終わらせて、朝食にしたかった。
 もう怖いものなんてあるもんかっ。娘の洗い終えた髪を紐で結んで、邪魔にならないように上げた後、今度は腕と背中を洗った。
「僕がしたように、体の他の部分を自分で洗ってごらん。で、終わったら湯で流す。できるかな?」
 娘は頷き、泡々の布を受け取った。そして、ブルーの腕をこすり出した、『シャツ』の上から!
「ぼ、僕じゃなくて、自分を洗うの!」
 うーむ、『僕がしたように』の意味を誤解したようだ。ブルーが洗ってあげたから、同じように洗い返してくれたってわけだ。

 そしてブルーの悪戦苦闘の末、娘のバスタイムは終了した。四枚のバスタオル ・・・風呂で濡れた分と、風呂上がりに娘が髪に一枚、体に一枚使った分と、それからブルーが使った分。そして、ブルーがさっき着たばかりだったシャツとズボンの洗濯物を増やして。
 服の着替えは、ブルーが着方の見本を示すと、すぐに覚えた。シャツは、ここに腕を通し、こうしてボタンをとめる。娘は細い指で器用にボタンホールにボタンをくぐらせた。
 ズボンは片方ずつ、こうして足を通す。これはバランスを崩して一回転んだ。娘は照れくさそうにブルーに笑いかけると、ぺろっと舌を出した。
 ブルーは小柄なので、娘が着ても、服が大きすぎて見苦しいということはなかった。袖や裾を折れば何とか形になる。ただ、ゆるめのシャツの中で娘の体が泳ぐのがわかった。下着を用意する暇はなかったのだ。風呂でヌードを見ているくせに、ブルーはシャツに体の線が出る度に赤面していた。
 メシュワラームさまは、服は調達して来ると言ったけれど。下着にまで気がまわるわけ、ないだろうな。僕が買いに行くハメになるのかなあ。
 そんなことより、こうして付きっきりでは、村のパリスに届けに行くどころか、仕事をしに出かけることさえできない。

 食事は意外に簡単だった。娘は、食堂の椅子に行儀よく腰かけ、パンは千切って口に入れたし、ナイフとフォークでハムエッグもサラダも上手に食べた。
 何故、湯浴みと着衣ができないくせに、ナイフとフォークが使えるんだ。風呂に入る習慣がない村から来た、とか。でも服を着る習慣がないっていうのか?
「おいしいかい?」
 ブルーがレモンバームのお茶を注ぎながら尋ねた。白く薄いカップから、甘酸っぱいいい香りが漂ってくる。
『トッテモ』
 娘は、トマトを頬張ったまま頷いた。
 生まれたての赤ん坊のような娘。細くて可憐な容姿とは逆に、生きる輝きに満ちていた。
くるくるとよく動く瞳、何でもおいしそうに呑み込む唇。洗いたての髪は、夜明けの海に映る太陽の金色だった。

 朝食の後は、娘を連れて、ざっと屋敷の中を案内して回った。
「二階には、君が使ってる部屋を含め客室が二つと、メシュワラームさまの部屋がある。この真ん中がメシュワラームさまの部屋だから、ここだけは勝手に入っては駄目だよ」
 娘は頷き、ブルーに続いてゆっくり階段を降りた。
「一階は、食堂と台所、居間。それからこのドアが僕の部屋。困ったことがあったら、夜中でも何でも呼びに来ていいからね」
 彼女は了解のしるしに頷いて見せた。
 不便なものだ、言葉が喋れないというのは。
彼女は、ブルーの話す言葉の殆どを理解はしているようだ。知能が幼児並という不安は解消されたが、彼女が意思を伝えるには、頷く、首を振る等の方法しかなかった。
 彼女は地図はわかるだろうか。自分の住んでいた場所を指さすことができれば。だが、この国の村で暮らす人々は、殆どが学校へ行った事がない。地図を読むどころか、文字さえ読めない人ばかりだ。
 まあ、駄目でもともと。あとで地図を引っ張り出してみよう。自分の部屋にあったはずだ。
 ため息まじりに廊下を歩くブルーの後ろを、娘はぺタぺタ音をさせて付いて来る。靴だけは、さすがにブルーのでは大きすぎて無理だったので、裸足になっていた。
 居間のドアをあけたら、グッピーが飛び出して、にゃあにゃあとブルーの足にじゃれついた。
「グッピー、おはよう。台所に朝飯を用意してあるよ」
「・・・!」
 娘はブルーに向かって笑顔になると、しゃがんで白い子猫を抱きあげた。声を発していなくとも、『可愛イ!』と言ったのが伝わった。
 グッピーは兎ほどの短い尾しかない。その先は無残に切り取られ、ソーセージの切り口のように皮膚が覗いた。狼か狐にでも襲われたのか、心ない子供にいたずらされたのか、それとも悲しい事故に遭ったのか。
 春の初めにメシュワラームが拾って来た子猫だった。最初は怯えていて彼にしかなつかなかったが、今ではブルーにも抱かれるし、すっかり人なつっこくなっていた。
 娘は猫を抱いて、ブルーを追って玄関を出て来た。裸足のままだ。
 屋敷の庭は、庭園と呼べる代物ではない。黄ばんだ色の竹を地面に突き刺して隙間なく並べた塀は、ただ風と砂を防ぐのが目的だった。それも、強風のせいか歪んで所々隙間が空き、外に続く砂浜の白と海の青がちらちらと目に入る。鉄の門扉は錆びて赤く変色し、汗ばんだ手で握ると、掌に血痕のような赤い斑点がこびりつくのだった。
 花のような色味は全く無く、草と木だけが生え放題だった。高い木も灌木も煩雑に植えられ、雑草なのか観葉植物なのか訳のわからない草(たぶん殆どが雑草だろう)が、ぼうぼうと生えていた。しかも、潮にやられ大部分がしおれ、枯れかけている。葉先が土色に変色し、枝も細いものは風で折れっぱなしで放置されていた。
 ここは死んだ庭だった。持ち主の気分そのままに。
 メシュワラームはこの屋敷を秘密にしている。庭師など呼ぶわけもない。しかし、それ以前に、彼はこの『荒れた庭』を気に入っているのだ。なにせ、三年前に初めてここを訪れたブルーに、『美しいだろう?』と言ってこの庭を見せたのだから。
 娘は、枯れて茶っけた芝生に裸足で立っていた。抱いた子猫はだらりと眠りこけ、息づくものは、黄金色の娘だけだった。彼女のまわりだけが、色づいて輝いて見えた。

 門の前で人声が聞こえた。うちの馬ではない、聞き慣れぬいななき。それも複数の。
 番犬のアロワナが激しく吠え立てた。
「ちょっと待っていて」
 ブルーは娘に言い残し、門扉から外を恐る恐る窺った。見慣れぬ黒塗りの馬車。車輪が砂に埋まって立ち往生しているらしく、御者が必死に引き出そうとしていた。
 御者の横では、黒レースのドレスを纏った女が立っていた。赤毛の髪をまとめ黒チュールの帽子を斜めに髪に止めていた。葬式にでも出かけるような格好だった。ただし、この辺りにはこの屋敷以外の建物は無く、ここを訪ねて来たことに間違いないだろう。ここを教会か墓場と勘違いしている可能性はあるかもしれないが。
「手をお貸ししましょうか」
 ブルーは声をかけた。親切心からではなく、反応を見るためだった。
 振り返った女は、三十代後半くらいだろうか。赤い口紅が、女の口をさらに大きく見せた。眉と同じくらい太いアイラインで、目の下をくっきり描いていた。
 青か緑の血液でも流れていそうだ。ブルーを見たその顔も、サカナのように無表情だった。
「あなたがここのご主人? ・・・ではないようね。あなたは魔法使いね。微力ではあるけれど魔力があるものね」
 微力で悪かったな。何者だ、この女。
 それに、この馬車は一体どこからやって来たんだ? 砂浜には、馬の蹄の跡も馬車の車輪の跡も残っていない。この場所に降って沸いたとでもいうのか?
 その時、グッピーが腕に押しつけられた。娘がブルーに手渡したのだ。彼女はそのまま走って門の外に飛び出し、黒いドレスの女の胸に飛び込んだ。
「ロータスさま!」
 女も娘をしっかりと抱きしめ返す。
「ご無事で辿り着きましたか。ようございました。このスカーレット、心配で夜も眠れませんでした」
 娘の知り合い?
 ブルーは、グッピーを抱いたまま惚けて二人を見つめていた。

 居間に女を通し、二番目にいい青い小花の茶器でお茶を入れた。四人分用意したのだが、御者は屋敷へは上がらずに、庭で控えていた。
「御者の方はよろしいんですか?」
 ブルーが尋ねると、女は表情を変えず、
「ええ。どうせイワシですから」
と答えた。意味不明。
「・・・彼女のお身内の方ですか?」
「いえ、わたくしはただの雇われ者です」
 女はぐびりとお茶をすすった。カップにべったりと紅がついたのが見え、ブルーはため息をついた。口紅は落ちにくいのだ。
「その前に、ロータスさまをお助けくださいまして、本当にありがとうございました。浜までの距離は計算済みだったのですが、海が荒れたことと、人間の体温調整の機能が意外に役立たずだったことで、姫は危険な状態だったのでございます。
 ここでもし死んでしまわれるようなことがあったら、三年も人間になることを願い続けた姫が、あまりにもお気の毒です。適切な処置、ありがとうございました」
「・・・?」
 早口でよく喋る女だったが、言っていることがよく呑み込めなかった。いや、わかっているのだが、信じられないというか、信じたくないというか。
 つまり、この娘は『ロータス』という名前で、どこぞの姫君らしい。それも、『人間界以外』の世界の。
 娘の顔を見ると、頷きながらにこにこ笑っている。『ソウナンデス』と言っているように見えた。
「あなたが魔法使いで丁度ようございました。
ロータスさまのために、お願いしてもよろしいでしょうか。このことは、メシュワラームさまにはご内密にお願いいたします」
 ブルーの同意も待たずに、女は続きを話し始めた。
「実は、姫さまは、メシュワラームさまを一目見て、恋をなさいまして。三年間、人間にしてくれとわたくしのところへ頼みにいらっしゃいましたの。
 あ、申し遅れました、わたくし、姫さまの世界で専任魔法使いをさせていただいています、スカーレットと申します」
 スカーレットは深々とおじぎをした。
「あ、ぼ、僕はブルー・スターシャインです。下級魔法使いなんですけど」
 ブルーもぺこりと頭を下げた。
「・・・ブルー・スターシャインさま? はて、・・・どこかでお名前を」
「いえいえ、そんな。僕、ほんとに下っ端ですから」
 あわてて首を振る。しまった、この女、年齢が若いわりに階級が高い。思ったより魔法界の知識が豊富そうだ。
「右の目を、魔力の石に変換なさったのですね?」
 顔を振ったせいで、前髪で隠した右の瞼を見られてしまったらしい。うー、やっぱり僕はバカだあ!
「そう。スターシャインさま。・・・おかあさまは、本当にお綺麗なかたでしたわね。お気の毒でした。
 でも、ブルーさまなら、おかあさまと同じ立場の、姫さまのお気持ちをご理解くださると思うのですが?」
「・・・。」
 バレてしまったか。
 だが、母親が魔王の孫だったと言っても、もうブルーには関係なかった。母は人間と恋をしたせいで追放された。あの一族との関係は切れている。今さら連れ戻そうとする者もいないだろう。
 両親の死後も、ブルーは人間世界で気ままに魔法使いをやっていたし、この暮らしが気に入っていた。
 それに、ブルーには半分人間の血が流れているので、魔力も弱く、寿命もふつうの魔法使いより短い。魔力ランクは『D』。村で、くすり師か占い師を営める程度だ。
『・・・?』
 ロータスが、不思議そうに首をかしげた。事情を知らないので、ブルーたちの会話の内容がわからないのだ。
「昔ね、ブルーさまのおかあさまも、あなたのような恋をしたのですよ」
 彼女は簡単にそう説明した。
 そう、恋!
 彼女は、ロータスがメシュワラームに恋をしたと言った。そして『人間にしてくれ』と頼んだ、だと?
 つまり、『人間でないもの』なわけだ。
 ブルーの背中を悪寒が走った。ドラゴンやヒドラ、ってことはないよな?
 ちらとロータスを盗み見た。目が合うと、娘はブルーに微笑み返した。瞳には暖かな光が宿り、口許からは小鳥のさえずりが聞こえてきそうだ。どうか、恐ろしいものではありませんように。
『美しくて異形のもの』。
「ロータスは、人魚ですか?」
 それ以外、思いつかなかった。視線で石化させるゴーゴンや泣き声で発狂させるバンシーなどの、あまり凶悪なやつは、ロータスからは想像できなかったのだ。

 ロータスは、声と引き換えに足をもらったのだそうだ。その交換条件でさえ厳しいのに、メシュワラームと結ばれなければ、海の泡になって消えてしまうのだと言う。それってあんまりじゃないか。
「ですから、そばに魔法使いがいてよかったと申し上げたのよ。こうして事情を説明して協力を仰ぐことができますもの。わたくしがこちらに頻繁にお伺いできればいいのですが、あまり長く地上にいられませんの。
 ぜひとも、姫さまがメシュワラームさまのお心を掴めるよう、力を貸してくださいませ」
「本当に、メシュワラームさまでいいんですか? 愛してるって?・・・あんな性格の、あんな人を?」
 二人とも、知らないんだ。メシュワラームがどんなヤツか。あの人が恋をして結婚し、幸せな家庭を築く図なんて思い描くことができない。彼は、破滅と頽廃を愛し、自分の死を夢見ている男だ。
 ロータスが素直でいい娘なのは、短時間で感じ取れた。こんないい子が、みすみす不幸になるってわかっているのに。
「ブルーさま、恋をしたことがお有り?」
 上級魔法使いの突然の質問に、ブルーはうろたえた。
「えっ。い、いえ。生きていくのに、それどころではなかったし・・・」
 スカーレットは、赤い口を大きく開けて、ほほほと笑った。
「恋は、割れたガラスの上でダンスを踊るようなもの。楽しさも痛みも、踊った者にしかわからないことでしょう」
 返す言葉がなかった。
 確かに、ロータスが、痛みも苦しみもすべて覚悟していてメシュワラームを好きだと言うのなら、仕方ないじゃないか。
 メシュワラームがあの庭を美しいと言ったように、ロータスはメシュワラームをいとおしいと思ったのだ。ブルーがとやかく言うことではない。
 でも、それにしても、条件が過酷すぎる。
「考えたくはないが、もし結婚できなかった場合、他に方法はないのですか? これではロータスが可愛相すぎます」
 スカーレットの表情がくもった。
「一つだけ、無い事もないですが。でもそれは、最悪の場合ということで、お話するのは差し控えておきますわ。メシュワラームさまの心を掴むことだけ考えてくだされば、きっとうまくいきます」
「でも、結婚と言っても。メシュワラームさまは四男とはいえ、名家の御曹司ですよ。愛し合っていても、身元のわからない娘との結婚は許してもらえないんじゃないかな」
「それもぬかりはございません」
 彼女は、ブルーに『ロータス嬢の身の上』なる偽の設定をたたき込んで帰って行った。メシュワラームが訪れたら、その設定をブルーがまことしやかに話して聞かせることになってしまった。

 スカーレットたちは、海から来たのだそうだ。だから砂浜に痕跡がなかったのだ。馬車は、海へと戻って行った。御者がイワシというのは、スカーレットが魔法で一時イワシを人間に変えたからだった。馬車はイソギンチャクなのだそうだ。彼女自身が普段は何なのか聞かなかったが、どうせ可愛らしいものでないのは確かだ。あまり想像したくはなかった。
 妙にテンションの高い婦人だった。魔力が高いせいなのだろうか。ブルーはすっかり疲れてしまった。
 ロータスはといえば、洗い髪に暖かな日差しが心地よかったのか、居間のソファでうとうとしていた。こっくりと舟を漕ぐ度に豊かな金の髪が揺れた。
『人魚、ねえ』
 ブルーが貸したズボンの裾から覗く、白く小さな足。丸い指には貝の爪。ブルーにはまだ信じられなかった。
 だが、ドラゴンでなくてまだマシだった。自分にそう言い聞かせた。


< 四 >

 太陽が真上を通りすぎ、けだるい風が海から吹き始めた時刻に、メシュワラームがやってきた。馬を庭につけた彼は、カルボラ王国陸軍の制服を着込み、口髭まで蓄えた妙な変装をしていた。
「どうしたんですか、メシュワラーム様、その髭は。それにその軍服」
 ブルーは馬を繋ぎながら尋ねた。質問というよりは、『どうかしちゃったんですか』というニュアンスの方が強かった。
 陸軍の制服は、品のよいスモーキィー・グレイの地に紺のパイピングが施してある。襟はさほど高くない。階級章とじゃらじゃらしたアクセサリー(勲章なのか?)がくっついていた。
「軍服は私のだよ。我がゴルゴネラ家は、グランシール国との戦争で手柄をたてた騎士の名家。私たち兄弟が生まれてから戦争は無いが、戦争に出る為のものはひと揃い与えられているんだ。
 この格好で、街へ娘の服を買いに行ったんだ。これなら私だとわからないだろう」
 メシュワラームは楽しそうに説明した。彼がこの変装を楽しんでいるのは明らかだった。
だが、若いメシュワラームの髭は全然似合っていなかったし、軍服っていうの軍隊での鍛練と精神修行の日々の中で似合う様になっていくものだろう。のほほんとした御曹司は、軍服に完全に着られていた。こんな格好、浮いていてかえって目立ちそうだった。
『変装なんてしなくても、街のひとがゴルゴネラ家の四男坊なんかの顔まで、ちゃんと覚えてるとは思わないけどなあ』
 実際、ブルーも、メシュワラームと初めて会った時には知らなかったのだ。
「娘の様子はどうだ? 彼女は部屋にいるのか?」
 メシュワラームはつけ髭をむしり取ると、大きな包みを抱えて馬から飛び降り、屋敷の扉を開けた。
「メシュワラームさま、実はその娘のことなのですが。娘の身元がわかりました」
 ブルーもメシュワラームの後ろに続いて家に入った。
「そうか。仕事が早いな」
 居間では、ロータスが床にはいつくばって、
グッピー相手にじゃれて遊んでいた。ロータスはメシュワラームの姿を見て、顔を輝かせた。
「服、ブルーの物を借りたのか?」
「サイズが同じくらいだったので」
 ブルーが追いついて答えた。残りの買い物包みを抱えている。
「メシュワラームさまってば、ずいぶん買い込んだものですね」
「女の服なんて、どれがいいのかわからなくて。彼女が気に入るものがあればいいのだが」
 メシュワラームは、つぎつぎに紙包みを破って、ドレスをロータスに投げ渡していった。目を丸くするロータス。
 レースやスパンコールで飾られた真紅のパーティー用のドレスや、紺のビロードに白いレース襟の礼服用ドレス。布中に銀の刺繍がほどこされたエメラルド色のドレス。フリルがいっぱいのピンクの絹のドレス。
『ミンナ綺麗。ナンテ素敵!』
 ブルーには、ロータスの嬉しそうな声が聞こえる気がした。ロータスは瞳を輝かせ頬を紅潮させて喜んでいた。
 それはメシュワラームにも伝わったようで、彼も嬉しそうに微笑んでいた。
「気にいってくれたみたいだな。よかった」
 白い子猫も破れた包装紙が気に入り、ガサゴソと引っ掻いてじゃれている。ブルーはグッピーをつまみあげ膝に乗せた。
「でもー、メシュワラームさま、普段に着られるものがないんですけど。それに下着は買ってこなかったんですか?」
「女物の下着を買うなんて、恥ずかしくてできるか。服でさえ、冷汗かいて買ってきたんだ」
『そのわりにたくさん買って来たよなあ。絶対、楽しんでた、絶対!』
 ブルーはそれは言葉に出さなかった。
「それに、普段に着る服って・・・ 何だ?」
 やはり、御曹司であらせられるメシュワラームさまに、普通の買い物を期待するのが間違いだった。
「わかりました、あとで私が買ってきますから。お金は請求しますからね」
「これで足りるか?」
 メシュワラームは、ポケットから無造作に金貨を三枚取り出した。
「一枚で結構です。これ一枚でも百人分の下着が買えますよ」
「百人分も女の下着を買うと、店員に変な目で見られるぞ?」
「・・・。」
 この人には、皮肉も厭味も当てつけも、なーんにも通じないのだから!
「女装して買いに行ったらどうだ? きっと誰も不審に思わない」
「どうせ僕は女の子みたいですよっ、人が気にしてることをーっ!」
「お前の気を楽にしてやるために、提案してやったのに。変装して買い物をするっていうのは、結構面白いぞ」
「やっぱり楽しんで行ってたんじゃないですかー!」
 二人のやりとりに、ロータスはクスクス笑い声をたてた。ブルーは赤くなって黙ってしまった。
メシュワラームは、フリルをつまみ上げて、
「このピンクのドレス、彼女に貸してもらって着て行ったらどうだ? サイズもぴったりだろう」
とまだ続けている。
『ちくしょー!』
 ブルーは気を取り直して、ロータスにドレスを手渡した。
「ロータス、着てみてごらん。あ、ここで着替えずに自分の部屋で着替えておいで」
 ロータスは嬉しそうに立ち上がって居間を出て行った。グッピーも後を付いて行った。
「ブルー、今、娘を『ロータス』と呼ばなかったか?」
「・・・メシュワラームさま、彼女の身元のことなんですが」
 ブルーは必要もないのについ小声になった。
「そうだったな。早々と判明したそうだが」
メシュワラームもつられて小声になる。
「この海の先に、ニクシー島という島国があるそうです。その国のさる名家のご令嬢で、お家騒動で暗殺されかけ、逃げたらしい。
 一緒に舟で逃げた侍女が、この辺りを捜し回っていました。嵐で難破し、別れ別れになったとのことでした。ロータスは先妻の娘でして、後妻が自分の娘を跡取りにしたいがために殺そうと画策していたとか。ロータスが喋れないのも、以前に毒を盛られた後遺症だそうです。
 ロータスは、相続権よりも平穏で自由な暮らしを選んで逃げ出しました」
 包み紙を丁寧にたたみながら、スカーレットが作った設定をなぞる。彼女はもっと、ロータスがいかに可哀相かを延々と描写したが(ブルーには、どうせ嘘だとわかっているのにも関わらず)、それは省かせてもらった。
「羨ましい境遇だな。シャクティーヌの母上は、わたしを殺そうなどとはしてくれない」
どうせメシュワラームが同情なんかしやしないのが、わかっていたからだ。
「シャクティーヌさまのおかあさまの方が常識的なんですよっ。それに、四男なんて殺して、何のメリットがあるんですか」
「・・・四男『なんて』と言ったな」
 メシュワラームがジロリと睨んだ。ブルーは気にせずに続けた。
「侍女どのは、先妻派の協力を仰ぎ、ロータスが安全に家に戻れるよう、努力をするとおっしゃられていました。それで、メシュワラームさまにお願いなのですが」
「ロータスをここで預かれというのか」
「しばらくの間ですよ。三カ月くらい・・・ 夏が終わるまでには決着が着くと言っていました」
 昼の長さが、夜の長さより短くなる前に。それまでにロータスが結婚できなければ、彼女の体はあぶくと化すという。
『ご協力いただけますわね? 成功報酬として、<精霊呼びの笛>を差し上げますわ』
 帰り際、スカーレットがブルーに耳打ちした言葉だ。
 精霊呼びの笛。
 魔法は自然界の精霊の力を借りて行う。風の精霊を使い敵を切り裂き、光の精霊の力を借りて傷を癒す。時の精霊のおかげで過去と未来を覗くこともできる。まわりに精霊が多くいればいるほど、魔法の力は強くなる。
 その笛は、高価なだけでなく、上級魔法使いでないと購入さえも許されない代物だった。
それがあればブルーでも一気に中級ランクに出世できるだろう。
「それに、昨夜、『私が拾ったんだから私のものだ』とおっしゃったじゃありませんか。拾った以上はメシュワラームさまにも責任がありますよ」
「私のもので、いいのか?」
 メシュワラームはにやりとブルーの顔を覗き込んだ。ブルーはむっとして、
「僕は人間の女には興味ありません」
「なんだ、そうだったのか」
 パタン、とドアをあけて、ピンクフリルのドレスを着たロータスが入って来た。初夏の庭に咲き誇る薔薇でさえ、こんなに可憐で愛らしくはないだろう。髪は洗ったままだし、化粧もなく、足は素足だが、それでも充分美しかった。柔らかな布のラインが、ロータスの優しい顔だちとよく似合っていた。これですべてを整えたら、どんなにすばらしいレディに見えることだろう。
「メシュワラームさまの見立てがよかったのでしょう、よく似合ってますね。
 綺麗だよ、ロータス」
 ブルーの言葉ににこっと微笑むロータス。そして、うかがうようにメシュワラームの顔を覗きこんだ。やはりメシュワラームがどう思っているのか知りたい。
 メシュワラームも満足そうに微笑んでいたが、本人に面と向かって『綺麗だ』と言う感性は彼にはなかった。照れ屋なのではない、単に気が利かないのだ。
「ほら、メシュワラームさま。ロータス、綺麗ですよね?」
 ブルーが促すとやっと「ああ、うん、綺麗だ」とうなずいた。
 それでもロータスは嬉しくて、薔薇色に頬を染めた。
「ロータス、という名前だそうだね」
 メシュワラームがあらたまった口調で名前を呼んだ。
「私はゴルゴネラ家の息子でメシュワラームという者だ。ここは私の別荘で、好意でブルーを住まわせている」
 不思議そうにうなずくロータス。何故急にそんなこと?
「事情はブルーから聞いた。つらい思いをしたんだね、可哀相に。
 よかったら、おまえもこの屋敷で暮らさないか。
 誤解しないでくれ。ロータスを愛妾として囲おうという意味じゃないんだ。おまえはこの屋敷で自由にしてくれていい。
 娘ひとりで、しかも言葉が話せないのに、生活していくのには苦労が多いだろう。ここは、ブルーしか知らない私の隠れ家だ。ロータスを傷つけるものから守ってくれることだろう」
 メシュワラームがロータスに言い聞かせるのを聞きながら、ブルーは思っていた。
『あなたが傷つけないことを、一番祈っていますよ』
 ブルーの不安も知らずに、嬉しくてうなずくロータスだった。メシュワラームのために、ここまで来たのだ。メシュワラームのそばにいるために。
「そうか、いてくれるか」
 メシュワラームも嬉しそうにロータスの手をとった。
「これで安心して屋敷に帰れる。
 ブルー、あとは任せたよ。ロータスが暮らしやすいように気づかってやってくれ」

 庭で馬を出したブルーは、メシュワラームに手綱を渡し、
「またコレクションが増えましたね」
と小声でつぶやいた。
「ん? 何か言ったか?」
「いえ。ロータスは幸せになれるといいですね」
「ああ、ほんとにそうだな」
 そう答えるとメシュワラームは城に向けて馬を出した。



 < 五 >

 結局、その日のうちにブルーは村へ買い物に出かけた。
 屋敷にロータス一人を残しておくのは心配だったが、番犬のアロワナにもよく頼んでおいた。
 好奇心旺盛なロータスは、一緒に村へ行きたがったが、まだ体力も回復していないし、何より人間界のことがよくわかっていない。人混みに連れていくのは不安だった。何せ昨日人間になったばかりなのだから。
 パラーニャ村では、普段に着る木綿のワンピース数着と、仕方無いので下着も買った。他に頼める人などいない。
 聞かれもいないのに、店員に「田舎から妹が出てきて」と言い訳していた。
 それから靴も買った。
 今ロータスは、屋敷の床をぺたぺたと素足で歩きまわっているけれど。靴は必要だし、何より、
『あの白くて細い足首は、僕には目の毒だよな』
 村娘が履く軽くて動きやすい布の靴と、メシュワラームが揃えたドレスに合いそうな、銀色に光るエナメルのピンヒールを選んだ。

 荷物を抱えて砂浜を歩くのはきついが、ロータスの笑顔を想像して歩を早めた。夕方になりだいぶ陽は落ち、海は金に染まり始めた。
 赤茶けた門扉の前に、シャツとズボン姿のロータスがぺたんと腰を降ろしていた。ブルーを見つけて、思いっきり手を振った。荷物で手がいっぱいのブルーは、手を振り返すことはできないが、小走りになった。
「ただいま。一人で心細かったのかな?」
 人魚のお姫さまだと聞いたので、本当なら敬語で話すべきなのだろうが、屈託のない笑顔のせいで、つい親しげな口調になってしまう。だが、ロータスも別に気にするようすもなかった。
 ブルーの問いには、首を横に振ると、海を指さした。
「海を見ていたのか」
 頷くロータス。
「そうだ、庭に出たついでに、他の家族を紹介するよ。グッピーとはもう仲良しみたいだが、他にもメシュワラームさまは色々飼っていらっしゃるんだ」
 ブルーは、門を入ると玄関とは反対側に建っている、厩と大きい犬小屋へ娘を導いた。枯れながらも一応芝もひいてあり、馬と猟犬がつながれていた。
 まぶしく陽に輝く純白の馬は、賢そうな目をしていた。美しい馬だ。
 ロータスは手綱を取る真似をして、ブルーの服を引っぱった。そして門の外を指さす。乗って見せてと言っているのか、乗りたいと言っているのか。だが、どちらにしろ無理だった。
「・・・この馬は走れないんだよ、ほら」
 ブルーが軽く手綱を引くと、片足をひきずった。右の前足が悪いらしい。
「お屋敷の馬が骨折して殺されかけてるところを、メシュワラームさまが貰い受けて来たらしい。
 ケガは完治したけど、もう走れない。運動のための散歩くらいは平気なんだけどね」
 ロータスの瞳も、困惑と哀しみの色に変わった。
「君は、骨折した馬を殺してしまうことを知っている? そうさ、走れないストレスでおかしくなるんだ。
 凶暴になって暴れたり、反対に餌を食べなくなって餓死したり。馬にとってそれだけ走れないことがつらいんだ。楽にしてやるために殺すんだよ。
 メシュワラームさまだって、そういうことを知っているはずなのに・・・。
 コイツも来た頃はすさんでいて、とても凶暴だったんだ。塀に頭を打ちつけてひどい怪我をしたこともある。
 今は 僕の薬で調教してあるんだ。ストレスも無い代わりに、何も感じていないはずだ。エサを食べておいしいとか、風が気持ちいいとか、もう何も感じない」
 ブルーは淡々と言うと馬の背を撫でた。ブルーが一番悲しそうだった。
「ほら、こいつだって」
 ブルーは犬小屋の前に繋がれた、アロワナの首を撫でた。アロワナは、ヘルハウンドだった。王家や名門貴族がこぞって猟犬として使いたがる、貴重で優秀な種だ。短い毛足は茨に毛をからませることはなく、長い耳を立てれば他の犬より遠くの音が聞き取れた。鋭い牙と強靱な脚力。昔は戦争に駆り出されたほどだ。
 ロータスはすぐにアロワナの右耳に気づき、千切り取られ短くなった傷跡に、そっと指をふれた。犬はくうんと哀しげに鳴いた。
「この耳ではもう、遠くの笛の位置を正確に知ることができない。
 でも、まだまだ番犬としては優秀だよ。メシュワラームさまが命令すれば侵入者の喉を噛み切るくらいお手のものだ。アロワナはまだ幸せな方かもしれないなあ。
 グッピーの尻尾には気づいているよね。あの子は、尻尾が千切れた状態でメシュワラームさまに拾われて来た。
 もう一個の客室の窓辺には水槽があって、エンペラーズフィッシュが飼われている。君の顔ほども大きさのあるそれは、片鰭がなくてまっすぐに泳げない。
 僕が、メシュワラームさまに気に入られてここに住まわせてもらっているのも・・・」
 ブルーは顔の右側にかかった前髪を掻き上げた。
 瞳はかたく閉じられたまま、永遠に開かぬ呪いをかけられたようだった。縁取られた銀色の長い睫毛だけが、左目のまばたきと同時に、ひきつったように微かに動いた。
「この目のおかげ、かな」
 ロータスの瞳が揺れている。ブルーに同情したのか、メシュワラームの性格を知って自分自身に同情したのかはわからない。
「今は、まだ君もコレクションのひとつにすぎないだろう。口のきけない気の毒な令嬢、というね。
 あのひとは、病んでいる。覚悟しておきなよ。彼の愛を得るのは、大変だと思うよ」
 だいたい、あのひとは、人を愛することができるのだろうか。どこかに、そういう感情はあるだろうか。
 でも、ブルーは信じたいと思った。ロータスのハッピーエンドを祈りたかったのと、自分でもこかでメシュワラームに愛情を・・・それは、単に『放っておけない』程度のものだとしても、いだいているからかもしれない。
「風が出てきた。部屋に戻ろう。
 君に靴を買って来たんだよ。
 おなかは空いていない? 今日はなんだか疲れたよ。夕食を作る気力がなくて、村で買って来た。食べる?」
 ロータスは元気よく頷いた。
 ブルーは、風で前髪が煽られて瞼がさらされるのも気にせず、荷物を抱え直した。ロータスが先に立って玄関の扉を開けてくれた。

 食事がすむと、ロータスは、食堂の床にグッピーと一緒にはいつくばって箱を開いた。 
銀のハイヒール。きらきらと宝石のように輝いていた。ロータスは、ダイヤモンドの王冠でも手にするように、そっと、大切そうに掌において眺めた。食い入るように見つめている。
「履いてごらんよ」
 洗い物をしながら、ブルーはつい笑顔になって言った。
 他のものはともかく、この銀のハイヒールだけはやたら高かったが、買ってよかった。メシュワラームがくれた金貨でも足りなかった。自腹を切って半年の分割払い。少なくてもあと半年は、パラーニャ村でくすり師を続けなくてはならない。
 三年間も人間になることを願い続けた人魚姫にとって、たぶん、ドレスより靴への方が想い入れが強い気がしたのだ。だから初めての靴はいいものを贈ってあげたかった。
 ロータスは、恐る恐る爪先を入れた。
『・・・。』
「どうしたの?」
 哀しそうに眉をしかめる。
「痛いのか」
 頷くロータス。だが、すぐに立ち上がると、とんとんと靴で床を鳴らした。
「無理するなよ。布の靴から慣らしていきなよ。
 街のレディはそんな高い靴を履いても、みんなエレガントに歩くものな。慣れればロータスも素敵に歩けるようになるさ」
 ブルーの言葉に、嬉しそうに飛び回るロータス。彼女はまだ、慣れることのない痛みがあるのを知らない。



 < 六 >

 ロータスは、カンもよく、もの覚えのいい少女だった。ブルーの教える日常のことをあっという間に吸収していった。洗濯物を干したり、水を汲んだり、簡単な家の仕事も手伝えるまでになった。
 人魚とは言え『お姫さま』に、こんなことやらせていいのかなあと思いながらも、助かるので頼んでしまうブルーだ。あの魔女に知れたら怒られるかもしれないが。

 メシュワラームはと言えば、その後、海の別荘を訪れる度に、新しいリボンだのアクセサリーだのを持って来た。娘に毎晩おみやげを買ってくる親馬鹿な父親のようだ、とブルーは思った。
「また変装して買いに行ったんですか。あまり度々だと見破られても知りませんよ。愛妾でも出来たかって噂されますよ」
「前から持っていたんだよ。それを持って来ただけだ」
 メシュワラームは居間のソファに深く腰かけると、そう言い返した。そして、ブラウスのポケットを探って、イヤリングやネックレスを無造作に取り出し、次々とテーブルに置いていった。
 ロータスはきらきらした物が大好きなので、わあっと笑顔で身を乗り出した。今夜はワインカラーの総レースのドレス。膨らんだ袖が可愛らしい。
 入れたてのすみれのお茶が香るカップをメシュワラームの前に置きながら、ブルーは怪訝そうに眉をひそめた。
「持ってたぁ?」
「・・・いつか、私にもあげるひとができるかと思って、気に入ったのを見つけると、時々買ったりしていたのさ」
「それが、こんなにたまってしまったわけですかー」
 随分永い間、あげるひとが見つからなかったとみえる。
 殆ど全部が、黒髪や黒い瞳に似合うといわれる石ばかりだった。ターコイズに、ラピスにエメラルド。情熱のルビー。神秘のキャッツアイ。ブロンドでブルーアイのロータスとは相性は良くない。
『誰の為に選んでいたのやら』
 メシュワラームは、たぶん、シャクティーヌをとても意識している。彼本人が気づいているのかいないのかは、ブルーにはわかならないが、シャクティーヌのことを話す時のメシュワラームの瞳には、澱んだ諦めにも似た悲しみが漂っていた。
 メシュワラームの口からは「お高く止まった女性」であるとか、「ろくに口もきいたことのない義姉」であるとか、嫌悪をあらわにする言葉ばかりで語られるシャクティーヌだが、それは彼が相手にされない寂しさからではないかとブルーは感じていた。
 しかし今はそばにロータスがいる。メシュワラームを愛する美しい娘が。他の女性に合わせて買っていたアクセサリーであろうと、今はロータスのものとなったのだ。
 似合わなくたっていいじゃないか、メシュワラームが持ってきたラピスのイヤリング一個で、ブルーが買った銀のヒールが十足揃うに違いないのだ。
「そうだ、あと、これをロータスに渡しておこうと思って」
 メシュワラームは、一丁の短銃をロータスの掌に握らせた。ゴルゴネラ家の紋の海蛇や草花の飾り彫りのしてある装飾的なものだが、本物だった。
「メシュワラームさま、こんなものをロータスに持たせるんですか!」
「ブルーがくすり師の店に出ている昼間は、ロータスはここにひとりでいるんだ。いくらアロワナが優秀な番犬でも、やはり危険だろう。特に、助けを呼べないハンデのある身だしね。
 いいかロータス、万が一の時は、相手を撃つことではなく、窓から空へ撃って助けを呼ぶことを考えるんだ。少なくともブルーが村から飛んで来るだろう」
 そう言って、銃ごとロータスの手を握った。 
確かにメシュワラームの言う通りだ。強盗、事故、何があるかわからない。ブルーもちょっとメシュワラームを見直した。

 メシュワラームは、別荘でも、ずっと海を見ているか本ばかり読んでいた。そして、そんな時間に、黙って隣にロータスがいることを好んだ。
 時々は、天気のよい日に魚を釣ったり、夜はブルーと三人でカードをしたりもした。
「ロータスといると、心が安らぐんだ。屋敷に戻らず、一生ここで暮らしたいよ」
 誰とも接することもなく、辛いこともなく、ただ静かな時間だけが過ぎていくような暮らし。
 ロータスには、それはとても嬉しい言葉に聞こえたに違いない。

 ブルーは、何故自分が眉をひそめるのか、自分でもわからなかった。
 何かから逃げているだけのメシュワラーム。
 ブルーは暗い店のカウンターに肘をついて考えに耽っていたが、片付けを始める為にゆっくりと立ち上がった。
 今、ブルーも逃げている。自分の気持ちを見ないようにしていた。家に戻ると笑顔が迎えてくれる日常は楽しい。たとえそれが、メシュワラームを愛している娘の笑顔でも。
 ブルーが仕事から帰ると、居間でロータスがうずくまっていた。
「ロータス! どうしたんだっ! 気分が悪いのか? どこか悪いのか?」
 ブルーがかけ寄ると、ロータスは首を横に振って、足を指さした。ロータスはサックスブルーの綿のワンピースに、銀のハイヒールを履いていた。靴に慣れて颯爽と歩きたいロータスは、普段もハイヒールを履いて練習していたのだ。
 ハイヒールを脱がすと、小さな踵が赤くすれて、血が出ていた。ひどい靴ずれだ。小指の爪も割れて血が出ていた。
「何故、こんなになるまで我慢していたんだ!
 楽な布の靴を履けばいいのに。いや、裸足でいればいい。君が初めて床を歩いた時、僕には、裸足の足の裏で床の感触を楽しんでいるように見えたよ。
 掃除をまめにして、砂でざらつかないようにするから。
 いや、こんなになるまで気づいてあげれなくて、僕が悪かった・・・」
 ブルーは唇を噛んだ。僕は何をやっていたんだろう。くすり師のくせに、同居人のくせに、気づかないなんて!
 ロータスは首を横に振ると、掌でブルーの頬に触れた。それはロータスの、『私ハ大丈夫ヨ』や『気ニシナイデネ』の合図なのだった。ロータスの慈悲の心が、指先から頬に染みてくる。
「治療するからね。少し滲みるけど我慢するんだよ」
 ブルーはロータスを抱きかかえて、自分の部屋へ運んだ。そして静かにベッドに座らせた。
 ブルーの部屋は狭く、おまけにガラスの瓶を並べた棚が壁を占領していた。薬草の原料の草が机の上に無造作に置かれ、部屋は苦そうな匂いで満ちていた。魔法や薬草の辞典は床に積み重ねられている。木のベッドは、ロータスがきょろきょろと部屋をながめまわすたびに軋んだ。
 裏庭に面した窓。日が当たらないから、部屋は余計に暗い感じがする。
「ほら、足を出して」
 ブルーはピンセットでコットンをつかみ、薬を傷に塗り付けた。
『!』
 痛くて足をぱたぱたさせるロータス。
「こらこら。せめて、スカートを手で抑えてくださいなっ!」
 赤くなって怒った振りするブルー。
 するとロータスはひらりと一瞬スカートの裾をめくってみせた。
 うわっ、ぴんくのぱんつ。
「こらっ!」
 ロータスはきゃっきゃと笑う。最近、ブルーをこうしてからかうようになった。ブルーも平静を装えずに、いちいち動揺してしまう。
ロータスはブルーの反応が面白いらしい。
「こいつっ。そうやって人をからかってると、包帯でミイラにしてやるからなっ!」
 そう言いながらブルーは器用に手早く両方の踵に包帯を巻いた。ロータスは、くすぐったいらしくて笑い声をたてた。
「しばらくは、靴ははかずに裸足でいた方がいいな。その包帯じゃ履こうとしても履けないだろうけど」
 ロータスはぺこりと頭を下げた、『アリガトウ』
「いいえ、どういたしまして。もう無理しちゃダメだぞ」
 ロータスは、ベッドの脇に置かれた手風琴に気づき、指さした。
 また足をぱたぱたさせる。これは、おねだりのポーズ。
「ただの飾りさ。あんまりうまくないし」
『聞キタイ、聞キタイ、聞キタイ!』
 ロータスはさらに足をばたつかせた。
「いいけど、本当にあんまり上手じゃないんだよ」
 ブルーは手風琴を身につけると、物哀しいメロディを奏で始めた。小柄なブルーにはその楽器は大きく、ゴリラでも抱いているように見えた。しかし、鍵盤を動く指はしなやかで、規則正しい。細い指が、茶けた白いキーを優しく撫でた。
 曲は切ない恋の歌。夜のメロディ。涙を誘う旋律。
 だがその音色は、ロータスを優しく包み込んだ。両親や姉たちのことを思い出した。深い海の底の風景が見えた。青い月の夜に、ロータスの歌声で涙する船乗りたちのことも思い出した。ロータスの瞳はうるんでいた。
 曲に聞き入りながら、瞳をしばたかせた。後ろを向いてそっと涙をぬぐった。
 ブルーは、ロータスが泣くのを初めて見た。
一人で異世界に来て心細いはずなのに、今まで決して涙をみせたことはなかったのだ。いつも、好奇心いっぱいの瞳をきらきらと輝かせ、笑っていた。
「君が歌えないのに、楽器なんか弾いて悪かったかな。
 僕が無神経だったかも。ごめん」
 ロータスは顔を両手で覆うと、激しく首を横に振った。
『違ウノ』『アナタノセイジャナイ』
 でも、泣き続けている。
 ブルーは手風琴を抱いたまま、途方に暮れた。
 何故泣いているのかわからない。どうしたらいいかわからなかった。
「・・・ちょっと待っていて」
 ブルーは部屋を出ると、カップにいい香りのお茶を入れて戻ってきた。
「むらさき蘭のお茶だ。気分が落ち着く」
 ロータスは、手をほどいてカップを見下ろした。ブルーが掌で包んだカップの中に、うす紫の透明な液体が湯気をたてていた。
「きれいな色だろ?とっておきだよ」
 ロータスの瞳は、濡れた睫毛のせいだけでなく、すでに好奇心で輝き始めた。うれしそうに手を伸ばした。
「熱いから、気をつけて」
 ブルーの言葉に頷き、愛らしい唇をカップにつける。

 落ち着いたロータスは、空のカップを机に置いた。そして窓を指さした。たぶんさっきからずっと気になっていたのだろう。
『何があるの?』
「この窓? 裏庭が見えるだけさ。開けてごらん」
 ブルーの言葉を聞き終わらないうちに、ロータスは窓をあけ放していた。裏庭には小さな十字架が三本たっていた。
「ペットのお墓らしいよ。僕が来た時にはもうあったんだ。
 片耳のウサギと片足のオオカミと喉を傷めたカナリヤだって聞いた。
 僕も死んだらあの隣に並ぶのかな。片目の魔法使い、なんてさ」
「おまえが望むのなら、そうしてやろう」
「・・・!」
 ブルーは背後から冷水を浴びせかけられたかと思った。恐る恐る後ろを振り向いた。
 ドアに寄りかかってメシュワラームが立っていた。口許は笑顔だが、瞳は氷のように冷やかだった。
「忘れ物を取りに来たんだ。ロータスを助けた時のマントを、ずっとここに忘れて置いてあっただろう」
「・・・マントは洗って用意してあります。こちらです」
 ブルーは血の気の引いた唇を噛みしめた。凍りついた表情で、部屋にロータスを残したままメシュワラームの先に立って部屋を出た。ロータスは二人の険悪な雰囲気を感じとって、心配そうに見送っていた。

 ブルーは居間の棚の中から、用意してあったマントを取り出して差し出した。
 メシュワラームは黙ってそれを受け取った。
何も喋らない。返事さえもしない。怒っているに決まっている。
 ブルーは上目使いでメシュワラームを眺めた。
 こっちから謝った方がいいだろうか。だが、ブルーが怖かったのは、ロータスへの淡い恋をメシュワラームに気づかれたのではないかということだった。下手に何か言うと、墓穴を掘りそうだ。
「あの時、尋ねたな?」
「はい?」
「拾ったのは私だけれどな。本当に私のものでいいのか、と。おまえがロータスを気に入ったようだったから尋ねたのだが。
 拾い主に遠慮はいらんぞ。
 ここは私の別荘だが、おまえらが愛の巣にしようと一向に構わん。ロータスは国から追われているそうだし、いっそのこと妻にしたらどうだ?
 私は、ここを訪れた時に気分よく過ごさせてもらえれば文句はないぞ?」
「・・・あ」
 ブルーは下を向いた。
 僕の存在が邪魔になる。僕の想いが邪魔をしている。ロータスの恋の為に。ロータスの存命の為に。
 握った拳が震えた。
 おまけに、なんで時々こんな風に優しさを垣間見せるのか、この人は。僕は少しでもメシュワラームに愛されているのだろうか?
それとも、ペットが番いになったところを見たいだけなのか?
「僕は・・・」
 きっと顔を上げた。
「僕は恋はしません。そう決めています。
 ロータスは・・・目障りです。早く僕の目の前から攫っていってくれれば助かるのに」
 それは、ある種本音でもあった。さっさとメシュワラームと結婚して視界から消えてくれれば、今までの心穏やかな生活に戻れるという思いはあった。
「目障り、か」
 メシュワラームは、ブルーの肩に手を置いた。
「それはわかる気分だな。
 ヒツジは、いくら可愛い兎が目の前をちょろちょろしても、捕らえて喰らうことはできない。それならばいっそ、狼が食ってくれれば諦めがつくんだろう?」
 狼の目をしたメシュワラームがにやりと笑って、ブルーは背筋が寒くなった。だが、妙に説得力のある例えだった。
 ヒツジ 。確かに自分はそんなもんかもしれない。
「それなのに、するりと狼の牙を抜けて、何度も舞い戻る兎にも困ったもんだがな」
「え?」
「邪魔したな。おやすみ」
 メシュワラームはくるりと背を向け別荘を出ると、愛馬の栗毛を走らせて帰って行った。
 結局、ブルーの失言に対しては怒りもしなかったし、反論もしなかった。鞭で打たれるくらいは覚悟したのだが。
 それとも、本当にあの墓場に埋めるつもりなのかもしれない。
 あのひとの考えていることは、まだまだよくわからなかった。



 < 七 >

 月は満月だった。
 ブルーはキッチンにいた。薬草を熱湯に放り込むと、鍋の中は血のような赤い色に変わった。台所の窓からも、丸い月が覗いた。
 自分の店で売ってはいるものの、『媚薬』の効果なんぞ、ブルーは微塵も信じてはいなかった。効果があるとしても、せいぜい甘い香水や、おおらかになるアルコールや、それと同程度のものだろう。
 ロータスとメシュワラームの仲は、進展しなかった。
進展。寡黙なメシュワラームと、口のきけないロータス。どう進展しろというのだ。
 無邪気な彼女に、メシュワラームを誘惑しろとも言えないし。それに、具体的に『誘惑』なんて、何をすればいいかブルーにはわからない。指示を出さなければロータスだって何もできないだろう。
で、最終兵器・媚薬、である。
これをメシュワラームの飲み物に混ぜる。
あんまり効果はなさそうだが、何もしないよりはマシだ。
 鍋の中身は、ぼこぼこと赤い泡を吐き出して煮えたぎった。どろりとした状態になったら出来上がりだ。ブルーは鍋を火から降ろした。
 ロータスは、海へ行った。
 時々恋しくなるらしい。一人でよく海を見に行った。今夜は満月で明るいし、ブルーも夜だからとは止めなかった。
「私だ! 眠ってしまったか?」
 せっかちなノッカーの音。メシュワラームだ。
「どうなさいました」
 居間にお通ししてお茶の用意をする。
 就寝時間近くに屋敷へ来るのは珍しいことだった。何かあったのだろう。屋敷からここへと逃げ込みたい何かが。
 ブルーはカップをテーブルに置きながらメシュワラームの顔色を窺った。
 メシュワラームの唇が一文字に結ばれている。何度か唇を噛んだのか、うっすら血が滲んでいた。眉間に皺が寄り、瞳は冷たい怒りを浮かべていた。
 今夜の機嫌は最悪のようだ。
「別に何も。ただ、ロータスの顔を見たくなったから」
「ロータスは、海を見に行っています。今夜は綺麗なフルムーンなので、散歩しに行きました。メシュワラームさまの命令でしたら呼んで参りますけれども」
「いや、それには及ばん。そうか。いないのか」
 怒りの表情は解け、いくぶんがっかりした顔つきになった。それでも眉根はまだ上がったままだ。
 メシュワラームはため息をつくと、ソファの背に深くもたれた。手を額にあてて、何か考え込んでいる。
 手の甲に、血が乾いたばかりの傷があった。
引っ掻き傷のようなそれは、手の甲を斜めに横切る長いものだった。流れて固まった血の跡を見ると、血が滲んだ程度の傷ではなかったようだ。
「手、どうなさったんですか?」
「えっ? ああ、これか」
 メシュワラームは自分の手を膝に乗せ、まじまじと見つめていた。そして吐き捨てるように言った。
「姉上に引っ掻かれたんだ。まるで獣のように野蛮な女だ」
 引っ掻かれた? なんでまた。それもこんな、血が出るほどに?
「手当てしましょうか」
「いや、いいよ。
 なんだ、その、怪しいものを見るような目は。別に私が、姉上に失礼なことをして引っ掻かれたわけではないぞ。
 夕食の席で、結婚話が出たんだ。
 兄上たちは、シャクティーヌの四人目の結婚相手を画策なさっていた。結婚するたびに新郎が事故死する呪われたシャクティーヌのことは、すでに国中で有名だ。承諾する男などいない。
 兄たちは、私と結婚させようとした。自殺癖のある私と、呪われたシャクティーヌとを結婚させて、田舎の古城でも与えて追いやろうとしたわけだ」
「そんなの困りますよっ!」
 ブルーは両手でテーブルを叩いた。カップがガチャンとソーサーの中で泳ぎ、飴色の紅茶がこぼれた。
 メシュワラームは不思議そうにブルーを眺めた。
「なぜおまえが困る?」
「い、いえ。メシュワラームの好意で、ここに住まわさせてもらっているのに」
 あわててごまかす。
「大丈夫だよ、縁談はその場で御破算になったから。
 姉上は、私のことは『だいっきらい!』だそうだから。で、引っ掻かれたわけさ。この傷を見れば、どんなに自分が嫌われているかわかるというものだ」
 メシュワラームはそこまで言うと、ブルーから顔をそむけてソファの背もたれに頬杖をついた。窓から漏れる月の青い光が、メシュワラームを憂鬱の色に染めていた。整った横顔は、彫像のように堅く冷たかった。
 たぶん、このひとはシャクティーヌに想いを寄せているのだろう。ロータスのことを考えると、メシュワラームが冷たくあしらわれることは喜ばしいのだが、ブルーにも痛みが伝わってきてしまうのだ。悲しみが伝染しそうだった。
「今まで同じ屋敷にいても、殆ど接したことのない方なのでしょう? なぜそんな、根拠もなく嫌ったりするのか僕にはわかりませんが・・・」
 慰めるつもりでブルーは言った。
「メシュワラームさまのことを、何か誤解しているのじゃないですか?」
 言っていても、全然説得力が無いと、自分で思った。何度も自殺を繰り返す男なんて、普通は不気味だろう。シャクティーヌが、メシュワラームの心の病んだ部分を感じ取っているとしたら、忌み嫌って当然なのだ。
「さあね」と、メシュワラームは肩をすくめる。
「私の方は、血が近いのはどうかとは思ったのだが、シャクティーヌ本人の前で断るのは失礼だろう。意見は言わずに沈黙していたんだがなあ」
「血が近いって。シャクティーヌさまは、今の奥方さまの連れ子ですよね?」
「義母はキューロフ伯爵の未亡人だ。伯爵は私たちの実母の兄。シャクティーヌとはいとこにあたる」
「へえ、そうだったんですか。全然知らなかった」
 メシュワラームは、家族の話をするのがよほど嫌いらしい。苦虫を噛みつぶしたような顔で、いやそうに説明してくれた。彼が家族の話をすることは滅多になく、ブルーもゴルゴネラ家のことは詳しくは知らなかった。
「シャクティーヌは、急に怒り出したんだ、私が『死ぬことは怖くない』と言ったら」
「・・・え?」
「前に三人死んでいるだろう? 『自分と結婚すると死ぬかもしれないのに、何故断らないのか。怖くないのか』ってシャクティーヌが問うから・・・。そう答えたのだ。そうしたら、怒り出した。
 自殺の手段のひとつとして、自分との結婚を承諾したと思ったようだ」
 ブルーは吹き出してしまった。じろりとメシュワラームが睨む。
「す、すみません、でも」
 ブルーは背中を向けて、くっと笑いを堪えた。
 メシュワラームが言ったのでなければ、すばらしい愛の言葉だろう。『あなたと結婚して死ぬとしたら怖くない』。こんなことを言われたら、夢見る瞳をうるませる乙女も少なくないはずだ。
「怒る奴、笑う奴、反応は様々だな」
 メシュワラームはため息まじりに呟いた。ブルーは笑いを呑み込んでメシュワラームに向き直ると、
「でもそれ、意外に図星だったんじゃないですか?」と指摘した。
「シャクティーヌさまと結婚したら、死ねるかもしれないって思って、ちょっといいなとか思ったんでしょう?」
「うっ・・・。そんなことはないっ」
 メシュワラームは赤くなってそっぽを向いた。
 そういえば、ここのところ、メシュワラームはその件に関してはおとなしくしていた。今は逃げ込めるこの家があるので、楽なのかもしれない。
「そういえば、シャクティーヌの奴、『わたくしは修道院へ参ります!』とわめいていたな。本気だとしたら、とっとと行ってしまって欲しいものだ」
 目障りな兎。ちょろちょろと無邪気に走り回る。
 ブルーははっとメシュワラームを見た。この前のメシュワラームの言葉を思い出したのだ。

 メシュワラームは、ゆっくりと立ち上がった。
「やはりロータスがいないとつまらん。
・・・帰る」
「ロータスは浜にいますよ。会っていかれたらどうです。メシュワラームさまがいらしたのに会えなかったと知ると、ロータスは残念がるでしょう」
「何故?」
 ブルーは言葉につまった。メシュワラームに他意はなく、何も考えていない目をしていた。もしかして、このひとは、何もわかっていないのじゃないか?
「ロータスがあなたを好きだからに決まっているでしょうが!」
 知らず、声が大きくなった。メシュワラームは何度も瞬きをした。
「・・・気づかなかったんですか?」
「こんな私を? ロータスが? 嘘だろう。 だいだい、ロータスは口がきけないのに、おまえになぜそんなことがわかるのだ」
「・・・。」
 僕はなんてバカだったんだ。
 ロータスの気持ちは、表情や態度で充分メシュワラームに伝わっていると思っていた。でも、相手はメシュワラームだ。自分勝手で子供みたいなこの男に、相手の様子で気持ちを思いやる芸当など、できるはずがなかったのだ。
「大好きですよ。メシュワラームさまのことが、好きで好きでたまらないんですよ。本当に気づかなかったんですかーっ?
 メシュワラームさまを見つめる瞳や、薔薇色に染める頬を見たでしょう。あなたに向ける極上の笑顔を見たでしょう?」
 メシュワラームは、ぽかんと口を開けて立っていた。
「信じられないな 。私は誰かに愛されたことなどないんだ」

 メシュワラームは居間を出て玄関に立つと、
「本当は、眠り薬を貰いに来たんだ」
とぽつんと言った。
「今夜は眠れそうになかったんでね。いちいち訪れるのも面倒だったので、十日分ほど貰おうかと思っていた」
「・・・。」
「そんな顔するな。自殺に使うわけではないぞ」
「十日分の睡眠薬ごときでは死ねません」
 ブルーがきっぱり言うと、
「そうなのか?」と尋ね返した。
 やっぱり悪用するつもりだったくせに!
「だが、もういいよ」
そう言うと、微かだが笑顔になった気がした。
 ぱたんと扉が閉まった。
 メシュワラームは、浜辺へ降りて、ロータスに会いにいくだろう。ロータスの気持ちを確かめるために。
 ブルーは、ささくれた木の扉を見つめていた。錆びたノブ、潮で焼けた木目。
 今夜、ロータスの夢が叶うかもしれない。ブルーはきつく拳を握った。爪が掌に食い込んだ。ロータスへの想いを握り潰そうとでもするように、ブルーは腕に力を込めた。細い腕にも筋が浮き出した。
 今夜はフルムーン。青い月が海を照らすだろう。

「無駄になったかな。まあいいか。店で売ればいいんだ」
 荒熱の取れた媚薬を、杓で大きめの壺にすくっていく。ロータスの帰りを、ブルーは台所で待っていた。
 夜の浜辺は冷えただろう。帰ったら暖かいお茶を入れてあげよう。
 ガチャリと玄関のドアが開いた。
「おかえり」
 ブルーが声をかけると、ロータスは、髪も寝間着も生がわきの砂まみれでキッチンに入ってきた。むき出しの足からパラパラと砂がこぼれて落ちた。
「ロータス! また海で泳いだだろ。夜は寒いし危ないと言ったのに。溺れたらどうするんだ、もう人魚じゃないんだぞ!」
『ゴメンナサイ。デモ、大丈夫ヨ』
 にこっと微笑む。極上の微笑みに、叱る気も失せてしまうブルーだ。
「浜でメシュワラームさまに会えた? ロータスに会いたいって言って、そっちから帰ったのだけど」
 コクリとうなずくロータス。髪がさらりと動くと、白い首筋に痣が覗いた。ブルーには痣でないことはわかっていたが。ちくりと胸が痛んだ。
 メシュワラームの名が出ると、ロータスは頬を染めた。はにかんだ表情に見えた。
 なるべく何でもないように尋ねる。声の調子を整え、ボリュームにも気をつけて。
「・・・君の夢は叶ったの?」
 ロータスは、甘えたような上目使いでブルーを見上げる。そして、小鳥のような笑い声をたてた。
「君の部屋のバスに湯をはっておいたよ。砂を落としておいで。
 僕はもう休むけど、お茶を入れておいてあげる。今夜は一番いいリーフティーにしようか。少しブランデーもたらそう。
 ロータスの特別な夜だもんな」
 ロータスはいたずらっぽく頷くと、台所を出て行った。
「じゃあ、僕は先に休むからね。おやすみ」 
ブルーはロータスの背中に声をかけた。そして茶器を揃え始めた。
 手が滑ってポットが床に落ちた。ブルーの心のように粉々に砕けた。ブルーは這いつくばって破片を拾った。みっともない格好だ。『グッピーが台所にいなくてよかった。じゃれついて怪我しかねない』
 ロータスは裸足で降りてくるだろう。ブルーは丹念に破片を拾った。
「いつっ!」
 切った爪より小さい破片なのに、それはブルーの指先を傷つけた。傷口から盛り上がった血は、指先から掌へと流れ、赤い線を描いた。

 茶の用意を済ますと、ブルーは、逃げるように自室へ戻った。
 怪我をした指に軽く包帯を施したが、ぎゅっと握るとまだ血が滲んだ。ロータスは、メシュワラームに抱かれた美しい裸体を、温かい湯の中でゆったりと延ばしていることだろう。広い海で尾を使って自由に泳いでいた時のように。
 ロータスは彼に会いに来たのだ。三年も想い続けていたのだ。ブルー、なぜ喜んであげられない?
 そして、手風琴を抱えて屋敷を飛び出した。
ブルーの哀しみが、海でなく裏庭の墓場を選ばせた。
 彼は手風琴を弾いた。激しい曲を早い指使いで弾きまくった。
 包帯にはうっすら血がにじんできた。それでもブルーは止めなかった、止めることができなかった。汗が額を流れ始める。鍵盤が血で染まった。
 バスで湯浴みするロータスにもその音色は届いた。
 今のロータスには、その切ないメロディも甘美なものに聞こえた。バスのへりに頬づえついて、うっとりと目を閉じる。
 青い満月の下、銀の髪の魔法使いは、墓場で手風琴を奏で続ける。

 ♪ 次のページへ ♪

表紙へもどる ☆ 次のページへ