クラッシュガラスの上でダンス

---人魚姫によせて---

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 第 二 章
 < 一 >

 私は疎まれて生まれてきた。愛された記憶などなかった。
 母は、私を産んですぐに亡くなったことになっていたが、それは嘘だ。二人の侍女と二人の護衛がついて、あの海の別荘で軟禁されていた。老いた父とうんと年上の兄たちは、母が狂っているから、と言った。でも、それも嘘だった。母が、ゴルゴネラ伯爵以外の男の子供を産んだからだった。
 当然私は父には愛されなかった。プライドが高い父は、折檻などの暴力は振るわなかったが、その代わり徹底的に無視した。
 すでに成人していた長兄のクラーケンが、私に鞭を振るう係だった。こっそり母に会いに別荘へ行ったり、兄に言い訳をしたりすると、たっぷりと『兄の愛情』を貰った。しなる鞭の音がするたび、歯を食いしばった。私は耐えた。這いつくばって怖がったり、泣いて許しを乞うたりすれば、兄の気も晴れたのだろうが、私はそうしなかった。腕や背のみみず腫れは夜中じゅう痛んだが、私は決して泣かなかった。
 ゴルゴネラ家では、伯爵家の令息として恥ずかしくない教育は受けさせてくれた。十三歳の時、別荘で母が息を引き取り、その後は希望どおり留学も許された。ただ、三年前のシャクティーヌの挙式で帰国をする際、まずいことをした。留学を解かれたのは痛手だったが、私は母が暮らした別荘を譲り受け、それなりにほっとできる空間を見つけた。
 あの別荘へは、子供の頃は隠れてずいぶん行ったものだ。母は体が弱く、寝たり起きたりの生活だった。私が行くと、必ず叱った。「ゴルゴネラ家の者に怒られますよ」
「またおにいさまに鞭で打たれますよ」
 最初は、私を案じてくれているのかと思った。だが、母は私を近づけたくないだけだった。私を見たくなかったのだ。それに気づいて足が遠のいた。
 私が十歳の時に、父は再婚した。もちろん母はまだ別荘で生きていた。相手は、キューロフ伯爵の未亡人。伯爵は母の実の兄上で、私が生まれた年に亡くなっていた。
 新しい母は、小さなレディを連れていた。名前はシャクティーヌ。キューロフ伯爵の娘だった。母子して艶やかな黒髪と漆黒の瞳の持ち主だった。
 三歳年上のシャクティーヌは、私には随分しっかりとした大人に見えた。たぶん年齢より成長も早く、ませた少女だったのだろう。
黒髪を縦ロールにして深い緑のリボンで飾り、同じ緑のドレスをまとっていた。それは袖の膨らみもフリルも無い、大人びた形のドレスだった。唇の紅の色が、いまだに記憶に残っている。
 それから三年後に、母は息を引き取った。 母は、父にも兄たちにも、決して私の父親を明かさなかったらしい。
 母がその恋を後悔しているのは、私を疎んだことでも明らかだった。愛しているから隠し通したわけでもなさそうだ。単に自分が悪く言われるからだったろう。
 晩年の母は、実際に少し狂っていた、と思う。私が行くと、「顔も見たくない」とグラスを投げつけることもあったし、走って抱きついてきて「会いたかったわ」とキスをしてくれることもあった。
 それは濃厚な接吻で、十三歳の私の、唇やら首筋やら額やらに紅をべたべたと塗り付けた。私の髪に指を入れて掻き上げ、背中に腕をまわした。誰かと・・・それは本当の父親だろう、間違えていたに違いなかった。
『モルガン 』と、彼女は私をそう呼んでキスした。
 モルガン・キューロフ。キューロフ伯爵。私には叔父であり、母には兄に当たる男だった。

「おはようございます。散歩していたら道に迷ってしまいました。申し訳ないけれど部屋まで案内してくださる?」
「姉上・・・!」
 朝の庭の芝生で、本を読みながら考え事をしていた私は、うとうとしていたらしい。昨夜は、別荘で溺れた娘を拾って介抱したりで、帰宅が遅くなった。床に入ったのも真夜中だったのだ。おまけに、昨夜はシャクティーヌの歓迎会を無断ですっぽかしていた。
 私は、シャクティーヌの声と覗き込む瞳に、すっかりうろたえていた。
 私は飛び起きたが、あわてたので芝に足をとられた。掴むものもなく手は空を切り、みっともなく尻餅をついて転んだ。竜に遭遇して腰を抜かした軟弱剣士のようだ。私の頬はかっと熱くなった。
 茂みの上から黒い冷たい瞳が覗き込んでいた。シャクティーヌはニコリともしない。彫像のように硬く美しいひと。
「半年留守にしていたら、庭の様子も変わりましたわね。
 昨夜の晩餐会にはいらっしゃいませんでしたけれど?」
「申し訳ありませんでした。腹の調子が悪かったもので」
 見え透いた言い訳だった。
 私は立ち上がって、服についた芝を払った。転んで打った臀部も肘も痛みがあったのだが、その事を気づかれないように努めて平気な顔をしていた。
「あら、そうでしたの。おからだ、おいとい遊ばせ」
 シャクティーヌは未亡人らしく黒絹の髪をきっちりと結い上げ、黒別珍の重そうなドレスを着ていた。この季節に、少しも暑苦しく見えないのが不思議だった。シャクティーヌが暑さや寒さを感じるかどうかも、私には疑問だが。
「部屋までお送りします」
 とりあえず型通りの挨拶は済ませた。だが、話す時もシャクティーヌの顔をまともに見ることができず、つい顔をそむけてしまう。
 この姉といる時の、居心地の悪さは何なのだろう。息がつまりそうに苦しくなる。
 以前も、私が返事をした時、声がひっくり返って恥ずかしい思いをしたことがあった。そんな時も彼女は、笑いもしないのだ。失笑でもしてくれた方が、よほど救われる気がするのに。
『<闇の黒の髪。黒水晶の瞳>、か』
 かつて、この海の王国中の男にため息をつかせた美貌のシャクティーヌ姫。男ばかりのゴルゴネラ家で唯一無二の姫。
 国中の貴族の令息が、近隣諸国の御曹司が、彼女との結婚を夢見ていた。この美しい姫を腕に抱けるのなら、どんな伝説の騎士よりも勇敢に闘おう、と誓った男もいるだろう。家中の宝石を差し出しても惜しくない、と言った金持ちもいるかもしれない。
 ただし三年前までは、だが。
 三年間で、彼女の夫になった男が三人死亡した。今では、大臣や貴族の息子たちは、ゴルゴネラ伯爵から次の相手を申しつけられないよう、必死で逃げ回っている。

「ここでよろしいでしょうか」
 城の中、食堂のところまで案内して、私は立ち止まった。だだっ広い部屋に、馬の競争でもできそうな細長いテーブルが置かれた部屋だ。末席の自分には、父の声さえ届かない。
 壁には高価で無意味な絵画や皿が、呪いの札のように飾りつけられている。
「実はこの先は・・・姉上の部屋は、私もどこにあるのか存じませんので」
 入ってきた扉と反対側に、二階へ上がる階段がある。東西南北の四つの棟に分かれていて、私もどこに何があるのかよくわかっていなかった。
「ありがとう、ここからならわかるわ」
 礼を述べているとはとても思えない堅い表情で姉が言った。
 私は、ふと思い出したように、
「シャクティーヌどのは、捨てるような不要なドレスなどお持ちじゃないです・・・よ、ね。
 いいです、なんでもありません、ごめんなさい」
 シャクティーヌの面くらった表情を見て、私はあわてて打ち消した。別荘の魔法使いに、娘の服を調達することを約束した。街へ女物の服を買いに出るのは気が重かったのだ。
 シャクティーヌはゆっくりと、初めて笑顔をみせた。唇の両端を上げて、無理やりみたいに笑ってみせた。これを笑顔と呼ぶのならば。
「お役にたてないわ、ごめんなさいね。そういうものは、お嫁に行く度に身近な侍女たちにあげてしまったの。三回ともなると、もう残っていなくて」
 自分でそう言って可笑しそうにクスクス声をたてた。何が可笑しいのか、私には理解できなかった。可笑しくないのかもしれない。黒い瞳は丸い形のまま、何の感情も映していないからだ。私は、ぼんやりと、紅い唇が動くのを見ていた。
「じゃあ、ありがとう、メシュワラーム」
 シャクティーヌは食堂の前で足を止めてドレスを摘まみ、階段の奥へと消えて行った。

 物みたいに、色々なところへ嫁がされて。『黒の花嫁』、『呪われた姫君』。今ではすっかり、忌まわしい噂話のネタにされて。
 気丈に振る舞ってはいるが、気にしていないわけはないだろう。
 最初の夫は、大臣の息子だった。死んだのは婚礼の夜だった。ベッドの上のシャンデリアの鎖が切れたのだそうだ。
 二番目は、リヴァノース国の皇族の一人だった。新婚旅行の船旅で、海に落ちた。
 そして今度は、銃の暴発。
 みんな即死だ。羨ましい限りだった。シャクティーヌと結婚すれば、私も一発で死ねるな。
 確かにそう思った。否定はしない。
 だからと言って、本気でシャクティーヌとの結婚を望んだことはなかった。彼女がただのいとこではなく、私にとってだけ『姉』であることを、私は知っていたからだ。

 だから、あの日の夕食で、長兄のコースチンがその縁談を持ち出した時、私は驚きを隠せなかった。あまりの唐突さに、面食らってしまった。
 ここ数年父は寝たきりになり、家の実権はコースチンが握っていた。長兄は、人を見下す大きな目と人を罵る大きな口を持った大人の男だった。
「メシュワラーム、おまえ、シャクティーヌと結婚してみないか?」
 ニシキヘビだってもっと暖かみのある声を出すだろう。私はその声の冷たさに背中が凍る思いがした。
 私とシャクティーヌを結婚させ、僻地にある壊れかけた城へ押し込めてしまおう、という魂胆だった。兄上たちは、よほど私の存在が目障りらしい。私が不名誉な死に方をしないかと、ひやひやしているのかもしれない。
 私と兄たちは、ずいぶんと歳が離れていた。
長兄とは二十歳も違う。まるで親子だ。三男のアルナートでも、十五も年上。話などできる年齢差ではなかった。もっとも、歳が近くても、こいつらと好んで口などききたくはなかったが。
「いいよな、メシュワラームは。自殺騒ぎで婚約者も決まらずにいたが、いい獲物を拾ったじゃないか。三人も夫のいた女性だ。夜が楽しみだよなあ」
 三男のアルナートが、にやにやと下卑た笑いをして眉をだらしなく下げた。
「やめろ、アルナート。押しつけられるメシュワラームの身にもなってみろ。まあ、こいつも自業自得ってところがあるがね」
 次男のマソルがふふっと笑った。何がおかしいんだ? おかしいのは、おまえらの脳味噌の方だ!
 シャクティーヌが、ナプキンを握る手を震わせていたのは、怒りからだったと思う。
 姉上のことにしても、嫁にやることしか考えていないのだ。彼女が傷ついている事などはお構いなしだ。
 義母は、シャクティーヌの隣の席で、ただ下を向いてうつむいていた。娘のつらい気持ちはわかっているが、何か言える立場ではないのだ。ここに嫁いだ時には、まぶしい黒髪の美しい婦人だったが、ここ三年の娘の不幸続きで白髪が増えた。すっかり老け込んで気の毒なくらいだった。
 私はといえば、断るにしても、シャクティーヌ本人の前では控えようと思っていた。私のような男にまで断られたら、自尊心が傷つくことだろう。
 私と、実は腹違いの姉であるシャクティーヌとの結婚。笑いがこみ上げてくる。兄妹から生まれた罪の子の私と、シャクティーヌとの間に生まれる赤ん坊のことを想像すると、腹をかかえて笑い転げてしまいそうだ。
 面白いかもしれない。私はふとそう思った。
神にどこまで自分が復讐できるものか、挑戦してみるのもいい。

「いやですっ!」
 シャクティーヌの叫びと、私の間の抜けた「はあ、かまいませんけど」という返事が重なった。
 シャクティーヌは「えっ?」と私の席を凝視した。
「私は別にかまいませんけど」
 シャクティーヌは、信じられないというように私の顔をしげしげと見つめていた。
「あなたも知っているでしょう、私の夫になった人達が、次々と死んでしまったことを。あなたは恐ろしくないの?」
「兄たちは、だから私を推薦したんでしょう。
自殺マニアと噂される私を、ね。
 少なくとも、私は死ぬことは怖くないんでね。人はいつか死ぬんですよ、あなたと結婚しようがしまいが」
「・・・。」
 シャクティーヌの白く美しい顔は、怒りで蒼白になっていた。
 食事の席を立ち上がり、
「わたくしは、もう二度と嫁になど行きません! 父上たちがわたくしの処置に困ってらっしゃるのなら、修道院へ入ります。それならご迷惑はかけないでしょう!」
 走って部屋を出ようとしたので、私はその手を掴んで引き止めた。
「姉上は、そんなに私ではご不満ですか?」 
その時、私は軽い痛みを感じて手を引っ込めた。見ると手の甲にカミソリで切ったような細い傷が出来て、血が出ていた。
 シャクティーヌの方がハッとひるんだ。びっくりするほど、急に蒼白になった。怒りで潤んでいた瞳が、うろたえてせわしなく動いていた。こちらが申し訳なくなるくらい、私を傷つけたことにおびえていた。
「猫か猿なみですね。爪を切ったらどうです」
 私は傷口をぺろりとなめると、軽い厭味を言った。
「私に触れられるのさえ、そんなに嫌ですか」
「そうじゃないわ、あなたは、本当に怖くないの?」
「死ぬことがですか?
 私が今生きているのは、何回試みても死ねなかったからです。どうせやっても無駄だと諦めてしまいました。でも、姉上と結婚すれば、望みが叶うかもしれない」
 頬に衝撃があった。シャクティーヌの平手が頬を打ったのだ。
「あなたは、自殺の手段としてわたくしと結婚したいと言うのですかっ!
 ひどいわっ!
 わたくしは、兄上たちの中ではあなたが一番まともな方だと思っていました。でも、それは誤解だったようです。たった今、あなたが家族中で一番大嫌いになりました。
 あなたとは絶対結婚しません。わたくしは修道院へ参ります」
 そう言うと、くるりとドレスをひるがえして部屋を出て行った。
 後に残された私は、頬を抑えたまま立ちつくした。手の甲に血が流れる感触があった。
だが、手よりも頬の方が痛みがひどかった。

 その後は、屋敷にいる気になれず、別荘へ向かって馬を走らせた。首都にあるゴルゴネラ家の屋敷からは、パラーニャ村へは馬で一刻ほど。別荘は村から三分の一刻で着いた。
別荘で魔法使い相手に憂さを晴らし、帰途についた。私が助けた娘――名をロータスといった――は、海を見に行って不在だった。

 私はロータスに会うために、馬に波打ち際を走らせた。
 月の青い夜だ。私をあざ笑うかのように、間抜けなほど丸い月だった。
 馬に驚いた何かの影が、波間でぴょんと立ち上がった。馬もそれに驚いてはっと立ち止まる。
 白い木綿の寝間着に月の青が映る。光る金の髪。
「ロータス ?」
 私に気づいたロータスは、にっこりと微笑んだ。腰まで海につかっている。泳いでいたのだろうか。
 金色の髪がなびいていた。
 かすかな記憶が心を騒がせる。
「おまえと、以前どこかで会わなかったか?」
 ただ微笑むだけのロータス。くるりと向きを変えると、さらに沖へと泳いで行った。
「あ! おい!」
 私はあわてて追いかけた。ずぶずぶと、濡れた砂浜に靴がはまった。ロータスはどんどん深いところへ泳いで行く。
「あぶないぞ、ロータス」
 波が膝を襲った。ズボンは水浸しになった。
ここまで濡れてしまえば同じ事だ。私はさらにロータスを追った。
 ロータスは、波の高さが胸を越すと、すいすいと泳ぎ始めた。金の髪が水面に広がり、ヒメジオンの花びらの様な優しい模様を作り出した。
 私は腰のあたりまで追いかけたものの、楽しそうに泳ぐロータスを見て立ち止まった。泳ぎは達者なようだし危険はないだろう。それにしても、夜に、しかも服のまま泳ぐなんて、変わった娘だ。
 少し泳いだら気がすんだのか、ロータスは戻って来て、私の横に並んで立った。
「ブルーが、ロータスは私を好きだと言ったのだが、本当か?」
 私は単刀直入に尋ねた。他にどう聞きようがあるのだ。
 ロータスは頷いた。
 はっきり言って、私はとまどっていた。生まれてからずっと、疎まれ続けてきた。愛された記憶などない。好きだと言われたのは、初めてだった。
「うれしいよ。ありがとう」
 間抜けな答えだ。だが、私にはそれが精一杯だった。流暢な感謝の言葉や、感激の美辞麗句がすらすら出てくる人間なら、もっと人に好かれていたはずだ。
 いきなりロータスにしょっぱいキスをされた。唇を奪われたのは、私の方だった。ロータスはにこにこ笑っている。
私は接吻を返した。ロータスの好意への感謝のつもりだった。けれど、ロータスはきつく私に抱きついた。
細く長い腕を私の首にからませた。私は自分の胸に、濡れた寝間着ごしのロータスの裸の胸を感じた。唇を離すと、そこには屈託のない笑顔はなかった。上目使いに私を見つめている。
 誘っているのか? まだ十七かそこらの、明るく無邪気なロータスが? だが、海の中で青い月を浴びる彼女は、別荘での子供染みた少女ではなかった。
 私は留学時代は女遊びもしたし、こちらへ戻ってからは下の兄に連れられていかがわしい場所へ行ったこともある。けれど、今まで好意を示してくれる女もいなかったし、こんな風に求められたことなどなかった。
 その時、大きな波が私たちを襲った。二人は頭から水をかぶり、暫くの間水中でもがいた。私は、あの溺れかけた時に見た夢を思い出していた。金の髪を揺らして海中に舞っていた人魚。ロータスはあの夢のようだった。 
やっとのことで水面に顔が出た。ロータスもぷかりと浮き上がり、顔を振ってきらきらと滴を飛ばした。水滴は月を映し、青いビーズのように光り輝いた。今度は私から長いキスをしかけた。そしてロータスを腕にかかえて砂浜へ戻ると、白い砂の上に彼女を横たえた。私は大事な宝箱を開くようにロータスを抱いた。
 青い月が、砂の上のロータスの青い裸体を照らしていた。波も風も雲も泣いているような夜だった。



 < 二 >

 姉上は、本当に修道院へ行くことになった。
街から馬車で丸一日かかるような田舎に、ユベーロという小さな村があるそうだ。そこの修道長と父上が知り合いなのだという。
 それが決まってからは、シャクティーヌは少しは元気そうだった。広い屋敷の中のこと、彼女の姿を見るのは夕食の時ぐらいではあったが。
 私は、縁談の言い争いからずっと、彼女とは口をきいていなかった。彼女は、明朝に出発するという。喧嘩別れのような形でこのまま一生会わないのかと思うと、不思議な感傷が襲った。まあ、その程度の縁だったのだと思う。

 曇天の昼下がり、私は雨を見越して別荘行きをあきらめ、庭の芝に座り込んで読書をしていた。私はここを気に入っていた。あずま屋よりさらに坂を下った、くちなしの灌木に囲まれた空き地だ。ここに隠れていれば、まず家人には見つからない。
 私は晴天より曇りが好きだ。晴天は、あまりに陰をくっきりと描き出して哀しい。
 空を見上げると、煤けた綿のような空が一面に広がっていた。ところどころ、澱んだ水たまりのように灰色が濃い。髑髏のようにも見えた。
 あずま屋に、シャクティーヌの姿が見えた。
何かを探してでもいるのか、きょろきょろと辺りを見回していた。私と目があった。するとこちらに向かって坂を下り始めた。
 私のそばまで来ると、会釈をして、その場で立ったまま話し出した。
「以前に偶然お会いした場所が、もうわからなくなってしまって」
「ここでいいんですよ」
 私はそっけなく言った。私と話すために、ここを探し当てたらしいが。今さら何の用があるというのだ。私は膝の本をぱたりと閉じた。
「手、大丈夫でした? あの時はごめんなさい」
 十日も前に負わせた傷の心配をしに来たのか? そう言えば、あの時も奇異なほどうろたえていたが。私は手の甲を差し出し、シャクティーヌの顔の前で振ってみせた。
「もうカサブタも取れそうです。たいした傷ではない。ご心配なく。どうせなら、爪に毒でも塗っておいてくだされば死ねたのに」
シャクティーヌは引きつりながら曖昧に微笑んだ。どう答えていいか困っていた。冗談か本気か計りかねているのだろう。
「あの・・・。お断りした時、言い過ぎましたわ。かっとして、ひどいことを言いました」
私は思わず笑い顔になった。なんだ、そんなくだらないことを謝罪しに来たのか。
「いや、私の方は全然気にしていないので。姉上が激怒するのが当たり前だ。あなたが、ご主人を亡くしたばかりということを忘れていた。
私の方は、家人への面当てみたいなところがあったな。こちらこそ、すまなかったです」
「面当てで結婚を承諾なさられては、相手のわたくしが困ります」
 私は苦笑した。
「申し訳ない」
「お家の方たちを嫌いなのですか?」
シャクティーヌは正直で率直な女だった。私は軽い驚きを覚えた。くすみの無い瞳で、まっすぐに聞いてきた。
 私は、嘘や繕いは面倒だったので、
「大嫌いです。父は横暴、長兄は冷徹、次男は皮肉屋、三男は下品」
と答えた。シャクティーヌは吹き出した。どう見ても喜んでいる。今までの上品なレディの振りは何だったんだ。
 私は初めてシャクティーヌの笑顔を見た。屋敷の中で、本当に笑ったことなどなかったからだ。ビー玉の目が楽しげに細まり、鼻の頭に皺が寄った。白い歯がこぼれ、真珠のようにきらりと光った。違う人みたいだった。そう、初めて会う女のようだった。
 笑うと瞳は二つの黒い三日月になる。
 鼻筋の美しさを崩した皺でさえ、キャンデを包んだハンカチーフのひだのように、どこかウキウキする気分にさせた。
 シャクティーヌは笑顔の中で言った。
「あなたは正直なひとね」
「姉上ほどではないと思いますが」
「あら、失礼ね」
 ぷいっとそっぽを向いた。だが、すぐに笑みが戻る。
「あなたは三人のおにいさまたちとは、違う人種のようだわ」
 私はぎくりとして、膝の本を落した。好意的な意味で言ってくれたのだろうが、私は、自分だけ父親が違うことを意識した。
 私は実の父の顔を知らない。錯乱した母が十三歳の私を父と間違えたということは、私と似ていたのかもしれない。
 目の前のこの女性は、私が会ったこともない父の、娘なのだ。そう思うと不思議な気がした。父の腕に抱かれたこともあるだろう。肩車されたこともあったかもしれない。
 私とシャクティーヌには、共通の似た部分があるだろうか。父とは、どんな男だったのだろう。
「私は、ゴルゴネラ家の父上の子供ではないので、だからでしょう」
「・・・え?」
「家人は必死に取り繕ったようです。姉上にまで内緒にしているくらいですから」
「何故今さらわたくしに?」
「ユベーロなどという僻地の、しかも修道女になるなど、死ぬのと一緒ではないですか。これから死ぬ人にどんな秘密を明かしても、たいして影響ありやしません」
 シャクティーヌは頬をかっと染めた。怒りからなのか、自分の選択を恥じたからなのかはわからない。
「自殺マニアのあなたに、私を批判する資格がおありなのっ?」
 やっぱり怒ったのか。
「批判なんてしていませんよ。それに私は別に『マニア』などではないんだがなあ。
 ユベーロ村。いいじゃないですか。この屋敷にいるよりはずっとマシですよ、きっと」
「それはわたくしもそう思います」
 シャクティーヌは素直に認めた。
 次の瞬間、私の口はとんでもないことを提案していた。
「姉上は、お父君の肖像画などはお持ちでないですか? 私はお顔を存じあげませんでした。母の兄ですし、見てみたい」
 シャクティーヌはきょとんとして私を見つめた。黒水晶の瞳がまるくなった。そして、いつもの高慢なシャクティーヌの表情になって、堅い口調で答えた。
「お義父さまに対して、そんな失礼なこと、できるわけがありません。母が嫁ぐ時にすべて処分してきました」
 私も愚かなことを言ったものだ。
 ところがシャクティーヌは、いたずらっ子のようににっと笑うと、膝を折って屈み込み、芝に座っていた私の耳元で小声で囁いた。
『小さい物でよろしければ、あなたのおかあさまと並んでいる絵があります。差し上げますわ。出発までに、誰かに託しておきます』
 では、とシャクティーヌはドレスの裾をつまんで礼をすると、あずま屋に向かって駈け上がった。意外なシャクティーヌの親切に、私はかえって呆然としていた。
 屋敷までの帰り道、今度は道に迷わないといいが。

 結局、私はその日も海の別荘へ出かけた。
 姉上と、最後に親しく話ができてよかったとは思わなかった。むしろ反対だ。高慢で他人行儀なまま行ってくれた方が、ずっと楽だった。私は屋敷で夜を過ごす気分になれなかった。雨を覚悟して馬を出した。駈けているうちに小雨がぱらつきだした。

「今夜はシャクティーヌさまのお別れ晩餐会でしょう。出なくていいのですか?」
 着いた時には土砂降りになっていた。魔法使いの差し出したタオルで、形だけ雨をぬぐった。濡れていようがいまいがどうでもよかったからだ。
「私がサボるのなんて、いつものことだ。父上たちも気にしてないさ。
 それより、姉上の送別会用の極上ワインをくすねてきたんだ」
 何本もワインの瓶の入った袋を、魔法使いに押しつけた。私は普段はあまり酒は飲まないが、たまにはいいだろう。
「何か気の効いたつまみでも作ってくれ。
 ロータスはいるか?」
「居間でグッピーと遊んでいますよ」
 私はロータスを抱きしめ、キスして、それからたくさん酒を飲んだ。ロータスはグラス一杯のワインで頬をロゼに染め、明るい笑い声をたてた。魔法使いは相変わらず、ロータスの母親のように、「もう飲んじゃダメ」とか「倒すからグラスは奥へ置いてよ」とか、口うるく世話をやいている。
「今夜はお泊まりになりますか?」
「そうだな。雨も激しいし、ワインも結構飲んだ」
 私は滅多に別荘に泊まることはなかった。いつもは夜中でも必ず屋敷に戻る。泊まり出すと、居心地がよすぎて、ずるずるとここに居ついていまいそうだったからだ。もう屋敷へは帰れなくなりそうで怖かった。
 今夜だって、帰った方がいいのだ。私は実はたいして酔ってはいなかったし、驟雨の中を馬をとばすのは、そんなに嫌なことではなかった。
 明日の朝、シャクティーヌを見送りたくなかったのだ。しこたま飲んで、浴びるほど飲んで、この海の家のベッドで目を覚ました時は、たぶん馬車は山の中だろう。
 そんな風に目覚めたかった。
 私はついに最後の一本となったワインを握って、階段を昇り、部屋のベッドに倒れ込んだ。屋根を激しく雨が叩いて、気持ちのよい音を奏でていた。風も強い。海が泣いている声が聞こえた。
 ベッドの上にあぐらをかいた私は、コルクを抜いて瓶の口から直接ワインをむさぼり飲んだ。赤ワインは血に似ている。胸にしたたった滴を手でぬぐった。
 忌まわしい生い立ちよりも、私にはシャクティーヌと姉弟だったことの方が痛みは大きかった。知るのより、恋の方が先だった。あの十三歳の気取った深緑のレディに、私は強烈に心を奪われたのだ。
 シャクティーヌの結婚の度に私は絶望と悲しみの縁に立ち、いつも踏みとどまることができなかった。もともと生きることへの執着はない。転がる石のように、死に惹かれた。
 私はいつも助かってしまった。それは、神が、まだ私の死ぬべき時ではないと判断しているのだそうだ。神なんか、クソ食らえだ。 
しかし、神を呪いながらも、私はどこかで気づいていた。たとえ血が繋がっていなくても、シャクティーヌは決して私のものにはならなかったことを。気難しそうな美しいシャクティーヌは、私などを見向きもしないだろう。
 不幸な事故が続いた。帰って来る度に、シャクティーヌは悲しみのベールの似合う頑な聖女になっていくように見えた。下世話な世間話にも背筋を延ばし、下卑た中傷にも唇を真一文字に結んで耐えていた。私は、シャクティーヌの夫が亡くなって嬉しい等と思ったことはなかった。ただ、彼らをどうしようもなく憎んでしまったことはあったが。
 怯えたことさえあった。私はシャクティーヌの夫を呪い、そのために殺してしまっているのではないかと。しかしすぐに、私にそんな力があればとっくに父と兄を呪い殺していると気づき、苦笑した。

 カーテンを開けると、窓に叩きつけられた雨粒が、いく筋も線を描いていた。ガラスを引き掻いてもこんな凶悪な模様にはなるまい。
海は、雨と風に犯されて怒り狂っていた。自分ではどうしようもない出来事に、両手で床を叩き泣き崩れているようだった。
 私は残りのワインを飲み干し、空の瓶をテーブルに置いた。
 扉の前に、白い人影が立っていた。
「ロータス?」
 純白の寝間着がぼうと闇に浮かんでいる。
「私が心配か?」
 頷くと金の髪が波うった。
「おいで。
 大丈夫だ、私はもう死なない。おまえがいてくれるから」
 私は、愛してくれるものを得たから。
 嵐の音を聞きながら、私はロータスを抱いた。何度も口づけし、何度も髪を撫でた。疲れて泥のように眠ってしまいたかった。



 < 三 >

 朝は嫌いだ。一日が産まれ出る時刻。生き生きした命の匂いがして、私は隅に追いやられる気がする。
 雨は嘘のように止んでた。窓からは情けないほど澄んだ青空と、目も潰さんばかりに輝く海が見えた。朝というより、もう昼に近いのかもしれない。
 痛む頭とけだるい体を抱え、階下へ降りた。
「おはようございます。今日はいい天気ですよ」
 魔法使いが、台所で炒めものをしながら明るく声をかけてきた。この油っこい匂いで気分が悪くなりそうだった。
「二日酔いですかー? 昨夜は随分召し上がっていましたね」
 わかっていたら、そばで大声を出すな。
「ロータスは?」
「もう海へ出かけましたよ」
「おまえ、今日は店はいいのか」
「これから行きます。メシュワラームさまが二階で眠っておられるのに、ほって出かけるわけにいかないでしょう」
 こいつは不思議な男だった。私に心を許しているわけでもなさそうなのに、何かとお節介を焼く。人がいいのか、単なる世話好きなのか。家を整えてくれる報酬は与えていたが、どう見てもそれ以上に働いている。
 私より若く見えるが、八十二歳だという。ある年齢以上生きると、人はみんな中年の婦人に似た性格になっていくのだろうか。
 魔法使いは、台所のテーブルに食事を並べながら、
「それで、ロータスとの結婚式のことなんですけど」
と言った。あまりにさりげないので、「今日のおかずは野菜の炒め物です」と言ったようだった。
「・・・え?」
「まさか、結婚しないつもりだったんですかっ。あんなことしておいてっ!」
 声が頭にびんびん響いた。こいつはやっぱりおばさんな性格なのだ。
 それにしても、『あんなこと』という言い方はないと思うぞ。
「ロータスが結婚したいって?」
「そりゃあ。ロータスはメシュワラームさまのことが大好きですから」
 おまえだって、ロータスを好きなくせに。何故そんなに一生懸命私とロータスを結びつけようとする?
 これが『好きな人の幸せを願う』ということなのだろうか。それとも、私と同じ、とっとと目の前から消えてくれという気持ちと似ているのか。
「わかった。いいよ」
「ほ、ほんとうですか?!あ、ありがとうございますっ!」
なんでこいつが礼を言うのだ?すっかり保護者きどりだな。
 私は、結婚とか、結婚式とか、別にどうでもよかった。もっと言えば、相手がロータスで無くても・・・初めて名を聞く侍女でも『いいよ』と言ったろう。
「明日結婚式を挙げよう。パラーニャ村に教会があったな。神父を頼んでおけ。立会人はおまえでいいだろう」
「村の教会、ですか。メシュワラームさまは一応名家の御曹司でしょう。お家の方は呼ばなくていいのですか」
「私の家族がロータスとの結婚を許すはずがないだろう。こっそり式を挙げて、その後で報告する。 ・・・勘当されるかな」
「あ、ありがとうございます! そこまでのご覚悟がおありでしたか」
 魔法使いは深々と頭を下げた。
「おまえが礼を言うなよ。おまえと結婚するわけではないぞ。
 勘当されたら、おまえの店ででも雇ってくれ」
「冗談はやめてくださいよ。給金なんてお払いできませんよ。それに、あの狭い店に店員が二人もいたら、客が入って来れません。
 もしかして、生活の目処とか、何も考えてないでしょう?」
 考えているわけ、ないじゃないか。今、結婚しろって言われたのだから。

 その後、魔法使いを馬の前に乗せて、パラーニャ村経由で帰った。
 彼が小柄だとは言っても、炎天下、男と密着して馬に乗るのはうっとおしかった。お互いに「離れろ」「もっと後ろに座ってください」と罵り合いながら進んだ。
 村に着いて、二人で教会を見に行った。
「花嫁はこちらの方ですか?」
 神父に聞かれて魔法使いは激怒した。
「僕はオトコですーっ」
 私がクスリと笑ったのも見逃さず、「今笑いましたね」と睨んでみせた。
 明日の昼に、この教会で落ち合う約束をした。
 これが、この愛すべき魔法使いとの、最後の楽しい時間だった。

 屋敷へは昼過ぎに着いた。シャクティーヌを見送らなかったことなど、誰も責めはしない。私はこの家では野放し状態だった。
 侍女の一人が私に、シャクティーヌからの頼まれ物だと言って包みを手渡した。父の肖像画だろう。両の掌にすっぽり納まるくらいの小さな包みだった。私は自室へ戻って開いた。
 絵は二重に梱包され、手紙が添えてあった。
『父と叔母の肖像画を贈ります。
 実は、修道院へ持っていくつもりの両親とわたくし三人で描いてもらったもの以外は、今夜すべて処分するつもりでいました。メシュワラームさまのおかあさまが描かれている、これもです。ですから、申し出ていただいて、
本当によかったと思います。絵は、叔母が嫁ぐ少し前に描かれたものだそうです。

 わたくしはメシュワラームさまを誤解していました。三人のおにいさまたちは大嫌いでした。あなたも同じ種類の人だと思い込んでいました。でも、お話してみたら、違いました。最後に親しくお話できて、よかったと思っています。
 行くわたくしが、こんなことを申し上げても今さら仕方ありませんが、もっと早くメシュワラームさまと心を割ってお話しできていたら、違う選択もできたのに、と苦い気持ちです。あなたも、お屋敷の中で苦しんでいらっしゃったのですね。あなたのような方がいるとわかっていれば、わたくしももう少し楽に息ができたのにと思います。
 命をご大切になどと、聖女のようなことを申し上げるつもりはございません。縁に立った者の苦しみは、その人にしかわからないからです。ただ、もう二度と、メシュワラームさまにつらい出来事がありませんようにと、遠く修道院でお祈りしております』
 私は手紙を置いた。何故か涙が頬を流れ落ちていた。止まらなかった。涙が出る理由もわからないのに、止める方法などわかるはずもなかった。
・・・シャクティーヌを誤解していたのは私の方だった。
シャクティーヌは、弱くて臆病な、普通の娘だった。可憐で傷つきやすい、ごく当たり前の心を持った・・・。
 シャクティーヌの言葉は率直だ。嘘やおためごかしは感じられない。
 もっと話したかった。もっと笑うところを見たかった。あの二つの黒い三日月を、もう一度見たかった。

 私は涙を拭いて、絵を包む油紙を引き剥がした。シャクティーヌが私に贈ってくれた、最初で最後のものだ。
「これは・・・」
 私は茫然とキャンバスを掴んだ。
 包装を解かれて現れた絵画は、シャクティーヌが言っていたものではなかった。私の母ではなく、若い頃の義母と少女のシャクティーヌが一緒に描かれている。彼女は間違えて入れたのだ。それも、彼女が大切に修道院にまで持っていく予定だった絵と!
 キューロフ伯爵は、記憶に残る母の顔と少し似ている気がした。雄々しいというよりは女性的な顔だちで、確かに私とも似ているかもしれない。
 一目でシャクティーヌとわかる黒髪の少女は、おすまししているが笑みをかみ殺しているようだ。お茶目な丸い瞳。義母もまだ若く、頬もふっくらして幸せそうだ。
 大切なものに決まっている。
 私は紙に包み直すと、急いで庭へ出た。そしてさっき降りたばかりの栗毛に、再び飛び乗った。
 まだ間に合うかもしれない。いや、間に合わなくても修道院まで届けてやればいい。
 結婚式のことを忘れたわけではなかったが、明日の昼までなら、夜中も馬を飛ばせば帰って来られるはずだ。
 これは、神が、もう一度シャクティーヌに会える機会を与えてくれたに違いない。
ああ、私は神は信じていなかったのじゃないか?
それならば、悪魔が手引きしてくれたのか。 
私はブーツの踵で馬の腹を蹴り、ユーベロ村への道を急いだ。

 休みなく馬を走らせ、夕方には村近くの森へ入った。真昼でも陽の光が届かぬような森なのだろう。日暮れ間近ではその暗さも増した。日が落ち切る前に通り抜けたい。
「あと少しで村だぞ。がんばってくれよ」
 私は馬をさらに急がせた。
 嘶いて彼女が止まったのは、行く手を阻むように倒れた人の姿を見たからだった。最初それは、緑繁る枝の隙間からの光では、狼か狐のように見えた。目を凝らすと、衣服を纏っていた。女だ。私は馬から降りて駆け寄った。
 うつ伏せに倒れた女の、背中には刀で斬りつけられた跡があった。しかも逃げようとしてやられている。女を後ろから斬るなど、ろくな人間の仕業ではない。
「う・・・ 」
 女が動いた。まだ息があるのか。
「喋るな。ユベーロ村まで運んでやる。村にも医者くらいいるだろう」
 私は女を助け起こした。顔に見覚えがあり、全身を震えが走った。
「おまえは、姉上の侍女!」
 では、シャクティーヌの身に何か起こったと言うのか!
 女はうっすらと目を開けた。私の存在を確認したように見えた。
「と・・・うぞく。しゅ・・・ どういんは、盗賊の・・・」
「もう口をきくな。傷が開くぞ」
 女は首を力なく振った。がくりと顎が垂れた。
「おい!」
 軽く頬を叩いたが反応はない。手首と、耳の下に手を当ててみた。魔法使いに聞いた、生死を計る方法だ。両方とももう動いていなかった。
『シャクティーヌはどうなったのだ?』
 血が下がっていく。背を裂かれた女の顔がシャクティーヌと同化する。めまいに襲われながら、捜さなければと拳を握って言い聞かせた。
 よろめく足取りで木々の間へ入り込んだ。寒さで凍えたように手足がうまく動かない。苔むした足場に、何度かブーツの底をすべらせた。
 御者の屍を見つけた。土から這い出した根と根の間に、猫がうずくまるようにして死んでいた。
 御者には申し訳なく思いながら、屍がシャクティーヌでなかったことに安堵した。
 微かだが冷静さを取り戻した私は、ここを捜すより村へ急ぐことに決めた。侍女の最後の言葉がひっかかっていた。
『修道院は盗賊の・・・』隠れ家、か?

 私は急いだ。必要以上に栗毛の腹を蹴った。
手綱を握る手に力を込めた。悲観的な想像をして震えている暇はない。
 夜が追って来る。闇が迫って来る。そして、もし悲惨な出来事が起ころうとしているとしたら、私は運命を追い越さなくてはいけないのだ。
 急げ! 悲劇より先に辿り着け。
 私は馬をさらに早めた。

 私は直接村へは入らず、山道を迂回して修道院を見下ろせるすぐ背後の高台を目指した。
村がどういう状態かかわからない。修道院が盗賊の根城だとすると、村人も絡んでいるかもしれない。
 馬は高台の手前で待たせた。急な崖だがさほど高くない。雑草を握り小岩を足がかりに這いつくばって登った。気が急いていたので、一気に登ろうとして一度落ちかけた。握った草が千切れ、ずりずりと胸も腹も岩場と擦れた。慌てて足でさぐり、足場を見つけて事なきを得た。
 登り切ると、完全に日は落ち、あたりは闇だった。昼なら身を隠すのに都合のいい木々の枝も、夜は邪魔なだけだ。知らずに頬や腕を打ち皮膚を切る。
 修道院の建物は、民家より少し大きい程度だ。玄関に松明が灯り、白っぽいレンガ造りの建物がぼんやり浮かび上がっている。平屋の建物で、隣に三階建てのチャペルがあった。塔のてっぺんにお義理のように鐘がぶら下がっていた。
 平屋の建物、一番大きな窓に明かりが点いていた。広い部屋なのだろう。食堂か何かだろうか。天窓があって、そこからも明かりが漏れた。
 周りには特に見張りはいない。
 庭に、黒塗りの馬車が放置されていた。暗くて確認できないが、たぶんゴルゴネラ家のものだろう。ぞっとした。扉が斧のようなもので叩き壊されているのが見えた。
 馬は一緒ではなかった。反対側に厩があるのかもしれない。
 私は腰を落した格好で、修道院側のゆるい崖を滑り降りて行った。ゴルゴネラ家の令嬢と知っていれば、身代金目当てだろう。きっとまだ生きている。私は自分にそう言い聞かせた。
 途中、太いヤーチャオの木が、屋根へと枝を延ばしているのに気づいた。根も太く地面にしっかり食い込んでいる。私は枝を掴んで木へと移った。葉や小枝を落さぬよう静かに枝を伝う。爪先で屋根に降りた。
 武器など持っていない。シャクティーヌに絵を返しに来ただけだ。携えているのは、せいぜい紐が切れる程度のお飾りナイフくらいだ。
 シャクティーヌさえ助ければいい。盗賊を倒す必要はなかった。私は天窓から様子を覗く為に、そろりと屋根を進んだ。
 貴族としてのたしなみ程度の武術訓練と、平均的な体格。武器があっても、私が何人もの盗賊を倒せるとも思えない。運動神経は悪くはないと思うが、腕力はたいしたことはない。
 奇跡を起こせるこしたら、死を恐れていないこと。このことに頼るしかなかった。

 屋根に這いつくばるように体を低くして、天窓の中を覗いた。
 何も動きがない。誰もいないのか。食堂でないにしても、人がいたら何かの気配がありそうなものだが。
 私は思い切って頭を出し、ガラスに顔を近づけた。
『こ、これは・・・』
 私は思わず目を見開いた。
 床も壁も赤く染まっていた。血まみれだった。何人もの男たちが倒れていた。ピクリとも動かなかった。
 何があったのだ? 仲間割れだろうか。それとも、誰かがすでにシャクティーヌを助けに入り、盗賊を倒したのか?
『これで全員だろうか? どこかに隠れていないか』
 私は耳を澄ましたが、少なくても覚醒している人間の意識は感じなかった。
 私はそれでも用心して、音がしないように窓を開いた。逆さ吊りで部屋を見回し、縁にぶら下がってからすとんと小屋に降りた。
 血の匂いにむっとした。
 死臭はまだしないが、床の血痕に触れるともう乾いていた。
 死体を近くで見て、その殺られ方の異常さ残忍さに、背中を冷たい汗が流れた。
 一人は、腹の皮膚が爆発でもしたように内蔵を飛び出させ、腸の一部を床にばらまかせていた。一人は、頭が体からねじきられたかと思うような死に方だった。首なし死体から体ひとつ分離れた床の上に、そいつの物と思われる頭が、目を見開いたまま転がっていた。
 他の男たちの死に方も普通ではなかった。
片腕を吹っ飛ばされた者。しかも、吹き飛んだ腕にはまだ大剣が握られたままだ。胸に大きな穴が開いて向こうが見通せる者。腰からねじれて下半身は上向き上半身はうつ伏せで死んでいる者。
 動くものの気配はない。室内にいる盗賊の一味は全員死んでいるようだ。
『五人、か』
 刀で切った傷や撃たれた傷ではない。まるで怪物が大暴れでもして殺したような。呪いか召喚魔法にでもやられたような死に方だった。
『そうだ、姉上は 』
 部屋の隅にうずくまる青いドレス姿が目に入った。
「シャクティーヌどの!」
 シャクティーヌは閉じた瞳をかすかに開いた。気絶していただけらしい。手足、体、とりあえず外傷はないようだった。そして、私をぼんやり見つめた後、再び気を失った。
 仲間が外から帰って来るかもしれない。ここに長居はしない方がいいだろう。私はシャクティーヌを抱きかかえ、立ち上がった。
 この分なら玄関から出ても大丈夫だろう。
 しかし、いったい、何が起きたのだ。私の頭は混乱していた。
 目を開けたままの首と視線が合い、私は顔をそむけた。そいつの体は、左手にクルミの殻を握っていた。右手の指の先に黒ずんだ実が落ちている。クルミを食べようと摘んだ瞬間に死んだのだろう。まさか、口に手が届かなくなるほど遠く首が吹き飛ぶなんて、考えもしなかったろう。
 死とはこういうものか。前触れも無く予感も許さず、突然に心臓を止める。

「これは・・・」
 私は、体と離れた腕が握った剣に目を止めた。柄に海蛇の紋章が刻まれていたのだ。
 ゴルゴネラ家の紋章。なぜ。



 < 四 >

 海蛇の紋章は私を嫌な気分にさせた。ゴルゴネラ家が絡んでいるとしたら、面倒なことになる。念には念を入れて行動しよう。私はすべてを焼き払うことを決意した。修道院にランプの油を撒いて火をつけた。そして厩の馬を逃がしてやった。
 風はない。建物はレンガなので、山火事にはならないだろう。村人に迷惑がかからないことを祈った。
 私の方は、火の勢いに追われながら、シャクティーヌを抱いてゆるい崖を登り、馬を止めた場所まで座ったままで滑り降りた。気を失ったシャクティーヌの体はだらりと重く、腕は疲労でぱんぱんに腫れて痛んだ。
 栗毛が、私を見つけて声を上げた。
「しっ。歓迎してくれるのは嬉しいが、静かに頼む」
 夜はまだ浅い。山を戻って、一つ手前の村まで行けるだろう。
「もうひと頑張りしてもらうよ」
 シャクティーヌを前に乗せると、馬にそうお願いした。もしかしたら自分の体に言ったのかもしれなかった。

 カミューというその村は意外に大きな村で、宿屋だけでも五、六軒あった。人口も多いようだし、店屋も多い。行商人が頻繁に訪れるということは、目立ちたくないよそ者にはありがたかった。
 泊まった宿のベッドでもシャクティーヌは昏々と眠り続けた。呼んだ医者はただの疲れだと言った。
 果たして盗賊からの危険は去ったのだろうか。私にはわからなかった。しかし、仲間が残っていたとしても、カミューのような大きな村に攻め入るような無謀はしまい。
 それに、シャクティーヌを連れて夜通し馬を走らせるのは無理だ。馬は疲労していたし、私も限界だった。
 宿は、目立つのを避けて中堅どころを選び、三、四番目程度の部屋を頼んだ。
 くつろぐには狭すぎる居間と、壁にぴたりとベッドを付けて無理矢理二つのベッドの間に隙間を作ったような寝室と。それから一応清潔なバスルームがついていた。湯を浴びると、腕や脛が滲みた。知らぬ間に、ずいぶんと掻き傷や擦り傷を作っていた。
 私は髪を拭きながら、自分のベッドの上であぐらをかいた。隣のベッドでは、シャクティーヌが眠っている。医者は朝には目覚めるだろうと言っていたが・・・。
 何が起こったのか、揺り起こしてでも尋ねた方がいいのだろうか。事件の内容を知っていた方が、対応もしやすい。しかし、安らかな寝顔を見ると、その気も失せた。何か起こったら、私が『何とか』すればいいだけのことだ。
 シャクティーヌは、長い睫毛も形のよい眉もぴくとも動かさず、静かな寝息をたてていた。
 シャクティーヌの寝顔を初めて見る。いつもは眉を上げてきつい表情を作っているが、寝顔は無防備な子供みたいだった。
 いや、寝顔どころか、この腕でシャクティーヌの体を抱いて運んだのだし、馬では体を密着させて相乗りさえした。シャクティーヌに意識が無かったとはいえ、あんなにも長い時間、体に触れていたのだ。
 腕にシャクティーヌの重みが蘇り、今ごろ顔が熱くなってきた。あの時は必死だったから、全然恥ずかしいとも思わなかったが。一度意識したら、止まらなくなるな。明日が思いやられる。

 目が覚めた時、一瞬ここがどこだかわからなかった。私はベッドにあぐら座りしたまま、壁に寄りかかって眠ってしまったらしい。
 お義理でついているような小さな窓から、陽が差し込んでいる。もう朝なのだ。
「いたた・・・」
 腕を曲げ延ばすと、軽い筋肉痛があった。足も延ばしてみる。ふくらはぎが痛んだ。
「姉上?」
 声をかけてみる。シャクティーヌはまだ眠っていたが、陽に時々眉をしかめていた。
「シャクティーヌどの?」
 私は覗き込んで、軽く肩を揺すった。
 睫毛がしばたいて、やがて目を開けた。と思うと、がばっと起き上がった。頭を覆い小さく恐怖の叫びを漏らした。
「もう大丈夫ですよ、姉上。たぶん」
 両手で頭を覆ったまま、シャクティーヌは私を振り返った。
 瞳が炎のように赤かった。
「シャクティーヌ?」
 びゅん、と私の横を鎌イタチのような旋風が通りすぎた。頬につんと痛みを感じ、触れてみると血が出ていた。 あの時の手の甲と同じように。
「姉上、しっかりしてください!」
 私は両手で肩を揺すった。
「わたくしに触れるなっ」
 ルビーの目が私を射抜くかと思った。私は強い力で吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
シャクティーヌが押したわけではない。彼女は手も触れていなかった。押したとしても、こんな力があるわけがなかった。
 何か凶悪なものが乗り移っているのか?
修道院での惨状が脳裏をかすめた。だが、シャクティーヌの容姿に変わりは無い。
 私は怯まずに起き上がると、シャクティーヌの腕をつかんだ。今度は手首が吹き飛ぶかも、と覚悟しながら。
「姉上、私です。義弟のメシュワラームです。わかりますか?」
 燃えるように赤かった瞳の色が、少し鎮火していた。見る見る赤味が薄れ、やがて茶褐色程度に落ち着いた。シャクティーヌは幾度もまばたきをした。正気を取り戻していた。
「メシュワラーム? なぜここに?」
 そして辺りを見回した。
「ここはどこ?」

 宿の者に、部屋に朝食を持って来させた。シャクティーヌは空腹だったらしく、パンもソーセージもあっという間にたいらげた。
「よかったら、私の分もどうぞ」
「あら、ありがとう」
 遠慮もなく、私の皿を引き寄せると、サラダもボイルドエッグも、食べかけのハムステーキまで食べてしまった。
 シャクティーヌがお茶のカップに口をつけるのを待って、私は、私の見たものとその後の処置を説明し始めた。シャクティーヌは白いティーポットに視線を落とし、おとなしく聞いていた。
「宿の者と医者には、夫婦だと言ってあります。義理の姉と弟が、二人きりで旅をしているのも妙だと思ったので」
「あなたの方からは何も聞かないの?」
 私は肩をすくめた。
「言いたいなら聞く準備はありますが?」
「わたくしが怖くないの? さっきあんな目に会ったくせに」
「・・・ああ」
 私は笑って頬に手をやった。血はもう乾いていた。
「たいした傷ではありません。もう痛みも無いですし」
「たった一人で助け出そうだなんて、無謀だとは思わなかったの?」
「思いましたよ」
「また、自殺しようと思ったの? これで死ねる、って」
 これは少し痛かった。私は苦笑した。
「死ぬ気はありませんでしたね、あなたを助けなければならなかったので。でも侵入した時は覚悟はしていましたが」
「・・・。」
「まるで尋問ですね。まだ質問はありますか」
「ごめんなさい。助けていただいたのに、失礼よね」
 シャクティーヌは下を向いた。
「いえ。私は何もしていませんよ。盗賊を倒したのは姉上ではないのですか」
「・・・。わかりません。気を失っていたので、何が起こったか本当に知らないの。
 でも、あの場所がそんな無残な状態になっていたなんて」
 両手で顔を覆った。肩が震えていた。
 私は、カップのへりに唇をあてて考え込んだ。さっき私を吹き飛ばしたチカラ。あれが盗賊を血祭りにあげた事に間違いはないだろう。腕のたつ騎士がやってきて盗賊を倒し、シャクティーヌを置いたまま名乗らずに去って行った、などとは考えにくい。あれは、刀でも斧でもない、不自然な傷だった。まるで伝説のゴーレムにでも引きちぎられたような死体たち。
「瞳が赤い状態の時のことは、何も記憶にないわけですね」
「瞳が赤い?」
「いや。いいんです」
どういう時に発動するのだろう。身の危険を感じた時、自動的にトランス状態になるのだろうか。
 ある考えに思い当たり、私はカップをあわてて置いた。テーブルに身を乗り出した。
「シャクティーヌどの、もしや今まで亡くなった三人のご主人は・・・」
 シャクティーヌは寒さに震えるように体を腕で抱きしめた。確かに恐怖で震えているように見えた。
「わからない・・・。でも、たぶんわたくしのやったことなのだと思います」
 シャクティーヌは静かに肯定した。私は黙った。これ以上何か聞くのは酷だと思った。
 ただ、覚悟だけはしておこう。シャクティーヌの目が赤く輝いたら、次の瞬間、私の頭が吹き飛んでいるかもしれないということを。

 私たちは宿を発った。栗毛にシャクティーヌを乗せて、後ろに私が座った。シャクティーヌを後ろから抱きすくめるような格好になる。動揺している場合ではないと自分に言い聞かすのだが、心臓が早くなるのを抑えることはできなかった。
 おまけに、少し走ったところで、シャクティーヌは馬をまたぐのにドレスが邪魔だと言い、私からナイフを借りてびりりと裾を縦に切った。スリットから綺麗な足がむき出しになり、私は目のやり場に困った。
「せめて膝にこれでも掛けていてください」
 私は着ていた上着を脱いで渡した。
「気を失った姉上を横抱きにして乗るよりは、起きていてきちんと乗馬してくださる方が楽ですが、でもその足は目の毒です」
「ずっと横抱きでわたくしを運んで来てくださったの。重かったでしょうに」
「いいえ。まるで小鳥のようにお軽かったですよ」
 私は笑って続けた。
「おかげてひどい筋肉痛だ」
「まあ、意地悪なひとね」
 栗毛は回りの景色も飛ばし、私たちの笑い声も後ろへ瞬時に去っていった。
「あら? これ、わたくしが差し上げた絵ですわよね?」
 上着の内ポケットに入った包みに気づく。
「あ、そうだ、すっかり忘れていました。シャクティーヌどの、これはご自分のご家族のものでしたよ。修道院にも持っていくつもりだと手紙に書いてあった。それで、お届けしようと馬を走らせて、ああいう場面に出くわしたわけです」
「この絵画を届けるために、わざわざあんな僻地まで?」
「だって大切なものなのでしょう?」
「ありがとう」
 その時、シャクティーヌの瞳が少しだけ柔らかくなった気がした、私の気のせいかもしれないが。
 陽は高く、時刻は正午くらいかと思われた。
 荒れ野に囲まれた道を走りながら、結婚式に間に合わなかったことを苦く思った。ロータスは怒っているだろうか。いや、あの娘はきっとただ悲しむだけだ。胸がきりりと痛んだ。
 あの優しい娘に悲しい想いをさせてしまった。
 三日間延期、いや一日延期で許してくれるだろうか。家から母の形見の真珠のネックレスを持ちだそう。きっとロータスに似合う。

 シャクティーヌを乗せては疾走はできない。
この分ではパラーニャ村に着くのは夕方になってしまうだろう。
 そしてふと問題に突き当たった。シャクティーヌをゴルゴネラ家の屋敷に連れて帰っていいものだろうか。シャクティーヌも今さら帰りたくないだろうし、何より盗賊が海蛇の紋章の剣を持っていたことが引っかかっていた。
「シャクティーヌどの。このままゴルゴネラ家の屋敷へ向かってよろしいのでしょうか」
「・・・。」
 シャクティーヌは黙ってしまった。帰りたいはずはない、だが行く当てもないのだろう。
「姉上、よろしかったら、ほとぼりが醒めるまで私の別荘へいらっしゃいませんか。姉上をお招きするには質素すぎる家ですが、窓からは海が臨めます」
「別荘? あなたの?」
「母が暮らした家です。私を産みすぐに没したことになっていましたが、私が十三の歳までそこで生きていました」
「では、わたくしの母が嫁いだ時にも、生きていらしたの?」
「そうです。母の死後、私がその家を貰いました。無理にとはお誘いしません。母を押し退けて妻になった女性の連れ子を、母の亡霊が歓迎するとは思いませんので」
「・・・!」
 シャクティーヌは一瞬息を止めた。少し冗談がきつかったかもしれない。
「ははは、嘘ですよ。母はお義母さまを恨んでいませんでした。父上のことなど、微塵も愛していなかったはずですから」
 シャクティーヌはまだ黙っていた。首を延ばして顔を覗き込むと、涙ぐんでいた。
 私はうろたえた。
 いつも自分の中で自分に語られる言葉は、もっと辛辣でもっと冷酷だった。心に突き刺さる刺は快感であり、私はその痛みを笑い飛ばし生きてきた。しかし、シャクティーヌには私の刺はただの痛みでしかない。
「たとえ本当に叔母さまの亡霊が出る館でも、わたくしには他に行くところがありません」 
シャクティーヌはうつむいて手の甲にぽとりと涙をこぼした。
 私は馬を止めた。後ろからシャクティーヌを抱きしめた。
「申し訳ありません。ひどいことを言った」
「なぜ助けに来たの? わたくしのことなど、なぜ助けたの? 放っておいてくださればよかったのに」
 私も何度か口にした言葉だ。死にきれなかった後に。なぜ助けたか、と。医者や侍女を責めて罵った。放っておいてくれと泣きわめいた。
「悪かった。シャクティーヌ。すまない。だから泣かないでくれ」
 涙が零れそうなのは私の方だった。

 夕暮れが近づき、下弦の月が出ていた。私はパラーニャ村に入らず、直接別荘に向かった。暗い海が鏡のように、猫爪の月を映し出した。月はこんな暗さがいい。
 あのあと、シャクティーヌはずっと口をきいてくれなかった。私が悪いのだから仕方ない。
 私が、女性の機嫌を回復させる、美しい言葉など知るわけがなかった。
「もうすぐ着きます」
「・・・。」
 まだだんまりだ。
「屋敷には、魔法使いのブルーという青年と、ロータスという娘と、それから子猫と犬と鑑賞魚と。足の悪い馬が一頭。それだけ住んでいます。こうして並べてみると、結構大所帯だな」
「他にも人がいるのね。もしわたくしがまたおかしくなったら、その方たちを傷つけたりしないかしら・・・」
 やっと喋ってくれたと思ったら。悲観的なことばかり考えている。
「事件が起こったのは、どんな時でした?
 無理にとは言いません。話す気持ちになったら、教えていただけませんか。姉上が暴走するのを止められれば、家族に危険が及ぶこともないでしょう」
「・・・。事件が起こるのはいつも、嫌悪感を強く感じた時だったわ。『いやっ!』と思った瞬間、気が遠くなって。そう、最初視界がきかなくなるの。目の前が真っ暗になって、すぐに金縛りが起こる。手足が冷たく、氷漬けにされたように体が堅くなる。覚えているのはいつもそんな感じ。
 そうね、たいてい性的な嫌悪感だった。盗賊はわたくしに乱暴しようとした。夫たちは・・・、たぶん似たようなことだわ。二番目の夫は、わたくしの肩を抱いただけで殺されてしまったことになるわね。
 おかしいでしょう。わたくしは、狂っているに違いない。男の人に触れられるのが嫌なの。たまらなく嫌なの。
 きっと私の体の中には、男を憎む凶悪な怪物が褄んでいるのだわ」
「確かにおかしいですね」
 私は言った。
「そうでしょう? わたくしの中には悪魔がいるんだわ!」
 シャクティーヌはそう言って、白い手で口を覆い嗚咽を漏らした。口から悪魔が飛び出すのを防ごうとしているようにも見えた。
 馬を止めて「いえ、そうでなくて」と私は続けた。
「私たち、こんなに体を密着させているのですが?」
「・・・!」
 シャクティーヌが振り向いた。私の前髪がその風で揺れるほど顔が近い。実際シャクティーヌの耳が私の鼻に触れたほどだ。
「カミュー村から、ずっとこうして来ましたが、あなたには別に変化はなかった」
 シャクティーヌは急に赤くなって「降ります!」と叫んだ。私に言われて初めて気づいたようだった。
「あとは歩いて行きます!」
 シャクティーヌは狭い馬の上でもがいた。
「私と体を寄せるのが嫌なら、私が降りますから。姉上はそのまま乗っていてください」
「いいのよ、今まで助けてもらったのだし。わたくしが歩くわ」
 シャクティーヌはあわてて降りようとして、体のバランスを崩した。
「危ないっ!」
 私はシャクティーヌを受け止めて落馬した。
仰向けに倒れた。下が砂浜で助かった。
 栗毛が『私のせいではありませんよ』と言うように、小さく嘶いた。
「ご、ごめんなさいっ」
「・・・。まだ目は赤くなっていないな」
「えっ?」
 私はシャクティーヌを抱きすくめるかたちで砂に倒れていた。私の体の上にシャクティーヌがいた。私の腕は彼女の腰のくびれに巻きついていたし、彼女の顔は私の胸にあった。
「それとも、私のことは、男だと思っていないのか」
「そ、そんなことはありません。離してください」
 起き上がろうともがくシャクティーヌの頬は火のように赤かったが、瞳は漆黒のままだ。
「離して。あなたを傷つけてしまう前に、手を離して」
 ほとんど泣きそうな声だ。
 私は手をほどき、その代わりに両手でシャクティーヌの頬を包んだ。そしてしっかりと口づけした。
・・・私の首はまだある。吹っ飛んではいないようだった。
 しかし私は平手打ちをくった。
「あなたは頭がおかしいわ! 死ぬのが怖くないの?」
 ベソ顔でそう言ってから、シャクティーヌははっと表情を変えた。
 そう、怖くないのですよ、姉上。
 私は微笑んだ。

 シャクティーヌはもう抵抗しなかった。私がドレスの背中のボタンを丁寧に外している時も、結い上げた髪のピンを一本ずつ抜いている間も、少しも動かなかった。肩だけが震えていた。
 シャクティーヌは何を考えていたのだろう。
触れても大丈夫そうな男がいたから、試してみようと思ったのか。都合のいいことに、死ぬのは平気だと言っている。もしなぶり殺してしまったとしても、恨んだりしないだろう。
殺してしまっても、少し気が楽。・・・そんなところだろうか。私も自虐的だな。
三日月の明かりは暗く、シャクティーヌの髪は闇の中に溶けて甘い香りを放った。波はうるさく騒いでいた。
シャクティーヌを救おうという殊勝な気持ちは微塵もなかった。私は彼女を好きだった。ただそれだけだった。
私はシャクティーヌを抱きながら、ロシアンルーレットのような甘美さを感じていた。
首筋にキス。カチャリ。大丈夫。
白い胸に触れる。カチャリ。今度も大丈夫。
シャクティーヌは死の女神のように白い砂に横たわり、私を誘う。夜の闇の渦が私をむこうの世界へ牽引しようとしている。くるくると弾倉が楽しげに音をたてる。

結ばれた時、シャクティーヌは涙をこぼした。黒い瞳から一粒、月の滴のように。
力は発動しなかった。私は死ななかった。
「あなたを失わずにすんで、よかった」
シャクティーヌは自分の言った言葉に声を詰まらせた。私は軽く唇に口づけた。
私は、たぶんシャクティーヌの瞳が燃えるのを待っていたのだ。
暗い海は夜空との境界線を失い、すべてを呑み込んでしまったように見えた。
赤い下弦の月だけが空の場所を教えた。

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