鏡あわせのフーガ

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 < 一 > 

 男は部屋に足を踏み入れた。煌々と幾つもランプが灯る室内にいてもなお、少年は混沌という闇の中で、憔悴という名のソファに腰をおろしているように見えた。男に気づき、少年はかすかに肩を動かした。
「気分はどうだね?」
 少年は男のまとう空気でさえ見たくないというように、ぷいと横を向いた。肩にかかりそうな長い髪がふわりと揺れ、まだ幼さの残る頬を隠す。柔らかな布が包む肩はまだ細く、若さを感じさせた。
 ソファの両脇に立った兵士たちの敬礼に対し、男は肩にかかるマントをひるがえすと、黒い皮手袋の指を揃えて応えた。そして少年の前のソファに音をたてて座った。軍帽を目深に被ったままなので目の動きは見えない。足を組んだブーツの爪先が少年の膝に届きそうになって、少年は顔をしかめて深く座り直す。
「なぜ僕だけ軟禁なのですか。みんなは牢に入れられたそうじゃないですか」
 横を向いたまま、少年が言った。質問というより非難の口調だった。率直そうな黒い瞳は、涙ぐんでいるようにさえ見えた。
「君も牢に入れてほしかったか? 私のプライベート・ルームを特別に提供しているのだが、お気に召さないとは残念だね」
「…。少なくともここでは、みんながどうしているか知ることができません」
「別に拷問などされていないよ」
 男が肩をすくめてみせると、強い視線で睨み返してきた。男の言葉の中に『されていれば楽しいがね』というニュアンスがあるのを感じ取ったのだろう。
「君は『みんな』と言うが、気にしているのは女王どののことだろう。
 彼女はとても元気だ。元気すぎるほどで、看守が胸を触った触らないので頬を一発殴ったそうだ。
 牢の中でも背筋を伸ばして、ちゃんと女王様を気取っている」
「気取っているだなんて! ドーナは正真正銘の女王だ! カサルの気高い女王!」
 少年はムキになって身を乗り出した。
「そう。彼女はカサル星の女王。君は地球の人間だ。
 裁判は終わった。君は地球へ強制送還される」
「・・・・・・。」
 黒い瞳の瞳孔が絶望の色に染められた。少年は息を止めた。だが、再び顔を上げると男を睨み直し、言葉をほとばしらせた。
「イヤだ! 見届ける! ドーナのことを僕は見届けるんだ!」
 少年は拳を握って何回もソファのクッションを叩いた。髪が波うってなびいた。拳には焦りの証しのように、静脈の膨らみが幾筋も浮きでていた。
 男は、甲に浮きでた筋と一緒に、左手の小指の根元に踊る蝶に似たホクロを認めた。
『サトウ・ナオヤ。十五歳、か。愚かな少年だ』
 男は、少年が駄々をこねるようにソファを叩くのを、黙って眺めていた。

  
 < 二 >

 また先発イレブンには入れなかった。練習試合とは言え、あしたは三年生にとって最後の試合なのに。またベンチを暖めたまま九十分が終わるのだろうか。
 バッグに汗と憂鬱で重たくなった練習着を詰め込み、僕は家のドアを開けた。
「ナオちゃーん? ごはんの前にお風呂に入ってよね」
 廊下の向こう、台所方面から母親のお気楽な声が聞こえてきた。練習あとの息子のことは、彼女は泥の固まりとしか思っていないようだ。
 一人息子が、どんなつらい練習に耐えているか、とか。監督の指示どおりできた時は喜び、叱咤された時には唇を噛み、とか。そのような事は、全く理解しようとしない。
 それに、十五歳の立派な男をつかまえて 『ナオちゃん』はやめてくれ。
 
 シャワーを終えて脱衣場の鏡の前に立ち、見ると、まだ母親が『ナオちゃん』をやめないわけもなんとなくわかって、僕は自分の顔から視線をそらした。
 大きな目の回りの睫毛は僕の意志とは関係なくカールしているし、鼻は低くないとは思うが少し上を向いてる。頬もぽちゃりとしていて、つまり、女の子みたいな顔立ちなのだ。
 スーパーサブ(単なるベンチウォーマーともいう)の僕としては、ワールドカップ予選で途中出場して決勝点を決めたオカノを真似て、髪も長くしていた。オカノは野性的でかっこいいのだが、僕が伸ばすとまるでマンガのアラレちゃんみたいだった。
 背も、もう少しあればいいのに。鏡に立つと、顔が真ん中にくる。頭の先が早く鏡に納まり切れなくなればいい。ジーコもリトバルスキーもマラドーナも小柄だから、サッカーに背は関係ないとは思うけれど、隣のクラスの湯田綾菜の好きな人が、百八十センチあるバスケ部の槙村だという噂を聞くと、やっぱり背があればなあ、と思ってしまう。だって槙村はそんなに顔がいいわけでもないし、成績だって僕と変わらないんだ。
 ぼくがため息をついた時。その時のことだった。鏡から、にゅるると手が伸びた。
『えっ?』
 筋肉質なその手の甲は、指をぴんと伸ばし、宙に向かって広げられた。そして上着の袖が現れ、首を亀みたいに曲げた顔が現れ、続いて上半身が現れた。ロックバンドみたいな緑色のロングヘアーの青年で、ほんとにバンドの衣装みたいな服を着ていた。銀色のミニタリールック。肩のところと高い襟に、それっぽい階級章が貼りついている。
 青年は、リレーフの像かライオンの首の剥製のように、鏡から上半身だけ飛び出させていた。
「あわわわわ・・・・・・」
 僕は歯が噛みあわなかった。こんな時は悲鳴も出ないもんだ。手の力が抜けて、すとんとタオルが落ちた。
 青年がタオルを指さした。僕はあわてて拾い、腰に巻いた。って、そんなこと心配している場合じゃないぞ!
「サトウ・ナオヤ?」
 再び僕を指さす。外国人が日本名前を発音するような響きだ。
「イエース」
 思わず外人に答えるみたいに言ってしまった。見ると彼は片手にノートみたいなのを持っていて、それを見ながら尋ねている。
「オオノチュウガク三ネンBグミ二十七バン?」
「イエース」
 なんでリレーフのロック青年に、こんなこと答えなくちゃいけないんだ? それも腰にタオルを巻いただけのかっこで。
「一九八四ネン、五ガツ2カ生マレ?」
「イエース、イエース」
 でも答えてしまう僕だった。
「迎エニ来マシタ。アナタガ僕タチノ星ノ救世主デス」
「はあ?」
「一緒ニ来テクダサイ」
 ロック青年は僕の腕をむんずと掴んだ。
「や、やめろ!」
 かなりの腕力だった。僕は抵抗むなしく、引き上げられた。足が宙に浮いている。
『な、なんなんだ、これは・・・』
 そのまま引っ張られ、僕は鏡に激突し…た、と思った瞬間。
 それは、プールに飛び込む時に似ていた。
 指の先や顔の表面に『当たった』って感覚があって、でも痛くはなくてそのままつるんと吸い込まれていくかんじ。音の聞こえ方が『もわぁぁぁ』と変わって、体の重みやら皮膚への感触やらが変わって。
『早く出ないとヤバイぞ』って、頭の中でもう一人の自分が言うような、あの感じまで同じだった。
 僕は浮上しようとバタバタ手足をもがく。片手を繋がれているので、思うように動けなかった。
『ええい、離せ!』
 僕は手を振り払った。急に手が自由になったかと思うと、耳の『もわぁぁ』が消えて、僕は両手をはいつくばってしゃがみこんでいた。床にはふかふかと毛足の長い赤い絨毯がひかれている。僕はゆっくりと顔を上げ、あたりを見回した。
「カサルへようこそ」
 音楽の授業で『チェンバロ』という楽器の音を聞いたことがある。形はピアノに似ているが、音は鉄琴に近い。そんな感じの声だった。
 僕は恐る恐る声の方を振り返った。
 流暢な日本語。
 なのに、そのひとの髪はブロンドだった。いや、金というより、カナリヤ・イエロー。ブラジルチームのユニフォームの色だ。
 ひまわり色の髪と、ひまわりの笑み。
 美人なのにそんなこと気にもとめず、大きく口を開いて満面の笑みで立っている。長い睫毛の瞳を細め、鼻の頭に皺を寄せて。
「サトウ・ナオヤですね?」
 僕は頷いた。隣に突っ立った、僕をひっぱりこんだロック青年とは、比べ物にならないくらいきれいな発音だった。
 明るい色の髪は、顔のまわりはふわりとウエーブを作り、顎のあたりからたくさんの細い三つ編みに変わっている。透明な光る布をかぶり、それが小さな肩を隠していた。上半身には、赤や緑や紺色の布が幾枚もきつく巻き付けられている。インドのサリーに似ていた。スカート部分は柔らかそうな薄い布が何枚も重ねられているようだ。民族衣装のように見えたが、どこの国のものか見当もつかなかった。
 整った卵型の輪郭、優雅に細めた瞳。赤い唇。
 歳は十八、九歳ってとこか。でも、外国人の年齢はよくわからない。
「それは、私たちが調べた、日本の服とだいぶ違うわ。そういう服は、もっと南の国のものかと思っていました」
 黄色い髪の美女は、大きい瞳を見開いて僕の腰を見た。・・・そうだ、僕はタオルを巻いただけでハダカだった!
「風呂から出たばかりで、まだ服は着ていなかったんで」
 恥ずかしさから、僕がぶっきらぼうに答えると、彼女は頬を染めた。
「ご、ごめんなさいっ」
 まるで少女のように、白い頬をかっと上気させていた。たくさん瞬きしながら、慌ててロック青年に何か言った。叱っているようだが、全く聞き取れない。何語だろう。少なくても英語じゃあない。
 慌てて赤面した時の表情が、湯田綾菜に似ていた。目がまんまるくなって、唇をすぼめる、その表情。彼女は年上なのだろうが、可愛らしい感じだった。少なくても、この人から悪意は感じられない。僕は少しだけほっとしていた。
「失礼しました。今、服をお持ちしますわ。カサルの服がお気に召すといいのですが」
「あの・・・」
 重要なことは何も聞いていなかった。
 ここはどこなのか。何故僕は連れて来られたのか。あなたは誰なのか。
 しかも、連れて来られ方が普通ではなかった。何せ風呂場の『鏡』を通って来たのだ。こうして言葉にしてみても、まだどこかで信じられないでいる。これは夢かもしれない。こんな異常な体験をしても、心臓の早さは普通と変わらないし、パニクっているわけでもない。それとも、僕って、意外と腹がすわっている男だったのだろうか。
 僕はぐるりと部屋を見回してみた。
 壁で一番目立つのは、一面が一枚ガラスになった窓で、空だけをスクリーンのように映し出していた。ここは随分高いところにあるらしい。
 残りの三方は、ごつごつした岩肌みたいな、洞窟に似た壁だった。派手な色合いのタペストリーが、何枚も壁を飾っている。オレンジ・緑・赤・藍。長く伸びた房にはガラス玉や木のビーズがくくりつけられ、サカナみたいな金属の飾りがぶら下がっていたりして、ちょっと宗教がかった感じだ。雑貨屋で売っているインドとか中近東とかの小物みたいだった。
 僕の背後に、足付きの大きな鏡が立っていた。高さは二メートル近くある。僕はここから吐き出されたに違いない。
 艶のある木彫りで縁取られたそれは、ごく普通の鏡に見えた。やせた体にチェックのバスタオル一枚を巻き付けた僕の情けない姿が、そのままに映っている。
 侍女だろうか、割烹着に似た服を着た緑の髪の女性が、僕に着物を渡した。
「ありがとう」
 侍女に言葉は通じなかったらしく、何の返事もせず、体を横に曲げて(これがこの国の礼なのか)そのまま室外へ去っていった。
 手渡された服は和服に似ていた。長めの柔道着という感じ。つるつるした光沢のある布で、幾何学模様が刺繍してある。帯は紐に近い。見よう見まねで羽織って結んでみた。
 ボトムには、緩めのスパッツのような紺の短いズボンが用意されていた。着物の丈が長いので、ズボンは穿いても隠れてしまう。これが下着に当たるのかもしれない。
「普段は男性はこういう服を着ます。♂#£Xは軍人なので、こうですけれど」
 黄色い髪のひとは、ロック青年に視線をやって説明した。・・・え、誰って?
「誰っていいました?」
「彼の名は♂#£X。
 そうね、私もまだ名乗っていませんでしたわね。
 私はこの星の女王で、♀∞∫∀といいます。
突然あなたをお連れした失礼をお許しください」
「・・・は? もう一度、名前を言ってください」
「♀∞∫∀です。『神に愛された女』という意味を持ちます」
「・・・・・・。」
 お手上げだった。もともと英語のヒアリングも得意な方じゃない。全然名前が聞き取れなかった。
 彼女は微笑むと、
「あなたの言いやすい名前で呼んでください。何か好きな名前をつけてくれればいいわ」
 好きな名前。ジーコ・スキラッチ・オカノ・マラドーナ・・・。
 ドーナ。女の子らしくて、可愛いかも。
「ドーナ、でいいですか?」
 笑顔で頷く彼女。細めた瞳はルビーみたいに赤くきらきら輝いている。
 赤く? ・・・・・・瞳が?
 この『星』の、『女王』?
 僕は初めて、一番重大なことに気づいて呆然とした。
 背中を一筋、冷たい汗が流れた。

  
 < 三 >

  そして僕はドーナから目茶苦茶破天荒な説明を受けた。
 つまり、ここは、地球ではなく、カサルという星なのだそうだ。太陽系とか銀河系とは別の次元を周回しているのだと言う。地球的な言葉で言うと、『異次元』の宇宙にある星なのだ。しかもカサルはその次元さえも時々トリップして、およそ一千年に一度、別の次元に移動するのだという。
「でもそれって。移動先に障害物があったら大変じゃないですか。軌道上に他の惑星があったら、やがて衝突するだろうし」
「私たちには二つの鏡が有ります。それらのおかげで、たいていのことは回避してきました」
 僕の前で微笑むドーナは、『女王』だと告げられたからなのか、支配者の風格を備えた優美な女性に見えた。笑顔が消え、真剣に説明する瞳には、威厳と強さが宿っていた。
 背後にはロック青年が控えている。彼はドーナの警護をしているのだろう。彫りの深い冷たく整った顔立ちの男で、長身で肩幅が広く、体格がいい。軍人だと言っていたっけ。まだ若いみたいで、二十歳くらいにしか見えない。
 襟が高く、肩を強調した軍服の丈は長めで、腰はガンホルダー付きの太いベルトで絞ってあった。乗馬ズボンに似たボトムと、編み上げのハーフブーツ。僕が借りた服に比べると数段かっこよかった。
「二つの鏡って? 僕が通って来たこれ?」 僕は背後の足つき鏡を振り返った。
「あれは『行き来の鏡』と言います。あなたたちの言葉だと『どこでもドア』というのでしょう?」
「ど、どこでもドアー?」
 眉をしかめ頓狂声を挙げた僕に、ドーナはあら? と両手で頬を覆った。
「あ、えーと、違ったかしら。そうだ、テレポテーションでしたっけ」
「・・・・・・。」
 威厳があると思ったのは一瞬だった。ドーナはなんだかお茶目でチャーミングな女性みたいだ。
 それにしても、『どこでもドア』とは。この、僕らの文化への知識はどこから来るのだろう。同じ次元の星からでさえ、まだ僕らは生物の文明らしきものを発見できずにいる。異次元の星の住人である彼女たちの、地球に対する豊富な知識はなんなんだ? 
 答えは、彼女の次の言葉にあった。
「二つ目は『映しの鏡』。未来の出来事も、過去に起きたことも、今別の場所で起こっていることも、映し出すことができます。過去、これで私たちは、移動する先が危険かどうかを知ることができました。あなたたちの言語も文化も生活習慣も調べることができます」
「なるほど。それでドラえもんも知っているってわけか」
「女王の特権を乱用して、時々テレビを見ていました」
 ドーナは鼻の頭に皺を寄せて笑った。
「でも、日本語の勉強のためでもあったのですよ。♂#£Xはまだ下手くそだったでしょう? 私はがんばったと思いませんか?」
「あ、はあ。とてもお上手です」
 下手くそと言われたロック青年は、フン、と横を向いてしまった。
「でも何故? 地球と、まして日本と文化交流したいなんてわけじゃなさそうだし」
 そう尋ねて、風呂場でロック青年が最初に告げたことを思い出した。僕がこの星の『救世主』だと言った。確かに言った。
 ドーナは胸の上で指を組むと、爪に視線を落して話し始めた。
「次の移動は、約十五年後です。私たちは新しい次元で出会う星と戦争になり、全滅します」
「ぜ、全滅っ?」
 僕の喉がぐっと鳴った。
「絶対に回避しなくてはならない」
 ドーナは厳しい口調で、自分に言い聞かせるように言った。
「次元の移動は避けられません。長老や大臣、軍の指令、学者たちが集まって、何度も会議しました。一番安全で確率の高い回避方法を探す為に。
 移動前に戦争をやめさせます」
「やめさせる、って、よその星のことだろう、そんなことできるの?」
「アンドロメダ星雲にその星はあります。私たちが『アム』と呼ぶ、その好戦的な星はヒューマノイドです。星の環境も地球に似ているようですね。
『アム』は、ひとりの君主の独裁政治です。降伏ではなく全滅を目標にして、攻撃をしかけてくるようです。
 戦争が始まる前に君主を暗殺します」
「・・・・・・!」
 ひまわりの髪の乙女に、一番似つかわしくない言葉に思えた。暗殺・・・・・・。
「でも、なぜ僕が呼ばれたんだ?」
「皇太子があなたに瓜二つだと言ったら?」
「皇太子?」
「火の歳と三つ。雄。黒い髪と黒い目。顔もそっくりだし、身長体重体脂肪率、肩幅、座高、足のサイズ、指の長さ。それから声までも。『映しの鏡』で見ることのできるあらゆる次元のあらゆる星の生命体で、あなたより似た者はいなかった。それも十五歳と二カ月の、今のあなたが一番近い」
「・・・・・・。」
 僕は瞬きを忘れ、口を閉じるのも忘れていたかもしれない。
 どこかに通気口でもあるのか、風でドーナの前髪が涼しげに揺れている。
「暗殺は、♂#£Xたちがします。あなたには、血にまみれるようなことはさせません。潜入に協力してくれればいい。ただそれだけです」
 頭が混乱して声も出なかった。
「協力してくださいますか?」
 ドーナは僕の手を取った。ふんわり暖かい感触に僕は驚き、思わず振りほどいた。ドーナは眉を寄せ、ルビーの瞳に困惑を浮かべた。
 僕は赤くなって、手を元に戻した。手を払ったのは、依頼の拒否ではなく、単に女のひとに手を握られてびっくりしたからだった。でも、すんなり受けていいのかどうかも、僕にはわからなかった。
「例えば、僕が断ったら、二番目に似た人が呼ばれるんですか?」
 ドーナはロック青年を振り仰いだ。男は肩をすくめている。向き直ったドーナの瞳に浮かぶ色は悲しみだった。
「残念ながら、二番目の候補は、君主の侍従や兵士を騙せるほどには似ていません。次の計画を実行することになります」
「次の計画って?」
「我々ノ軍デ突入スル」
 今まで黙っていたロック青年が、たどたどしい日本語で答えた。
「これだと、私たちにもかなり被害が出ます。君主だけ殺す予定だったのが、『アム』の多くの兵士たちも殺すことになるでしょう」
 受けるしか道はないように思えた。
 だが、星の命運を僕が背負う。そんな重いこと、僕ができるのだろうか。クラス委員だってやったことのない、責任と無縁に生きて来た僕に。それに、僕が協力することで、 『アム』という星の君主が殺されるのだ。僕は殺人に加担することになる。
 そいつは悪い奴らしい。だけど殺していいものなのか? よその星に対して、この星が異次元から介入してきて未来を変えることは許されるのか? いや、そもそも滅びる予定のこの星が、勝手に未来を改竄することが許されるのか?
 僕は頭痛に襲われ、頭をかかえた。こんなに真剣に何かを考えたのは初めてだった。難しすぎて、めまいがしてきた。
「少し、考えさせてもらえませんか?」
 情けない。答えを先に伸ばすこと。それが僕にできた最良の方法だった。


< 四 > 

「こちらこそ、無理にお連れしてごめんなさい。お詫びに、食事の席を用意しました。せっかくいらしたのだから、楽しんでいらしてください」
 僕はドーナに導かれ、建物の外へ出た。ここは高い塔だったらしく、エレベーターで階下へ降りた。エレベーターというのはドーナが言った言葉で、壁に貼りついた鏡の破片に指を触れると、下に着いているという代物だった。乗り心地(?)は『行き来の鏡』と同じだ。聞くと、あの鏡の破片を使って移動できるようにしてあるらしい。
 今出て来た方を振り仰ぐと、大きな岩、いや山が浸食されて塔の形に残ったような建物だった。
 外は薄明るい。塔の前にはいきなり野原が広がっていた。水平線は草の緑だ。空には丸い月が三つ浮かんでいた。オレンジ色に近い色。一つは赤と言っていいほどだった。月ではなくて、『太陽』に代わるものかもしれない。
「今は昼なんですか、夜なんですか」
「夕方に近い時刻かしら。寒くない?」
「大丈夫です」
 確かに風は少し冷たかったが、ぼうっとした頭には心地よかった。風は足元の草たちを揺らし、くるぶしを撫でた。湿った草を裸足の足で踏むのは、くすぐったいような懐かしいような気分だった。
 用意された服の包みの中に靴はなかった。そういえばドーナも細い足首を惜しげもなくさらして、素足で草の上を歩いている。ロック青年だけがブーツを履いていた。
「この星はハダシが普通なの?」
「あ、ごめんなさい。忘れていました。あなたには靴を用意しますね」
 ドーナは振り向きながら言った。風でベールと一緒に細い三つ編みがなびいた。
「地の息吹を感じる為に、私たちはハダシでいることが多いです」
 見渡す限りの草が、さらさらと風になびいていた。あまりの美しさに僕は立ち止まった。緑の海。草の海原だった。
 ドーナとロック青年も付き合いで立ち止まってくれた。しばらく僕はその景色にみとれた。
 
 ドーナは水平線の手前に建った屋敷を指さして「あれが私のすみかです」と言った。宮殿のようなお屋敷を想像していた僕は拍子抜けした。
「普通の家ですね」
「暮らしているのは、私と、身の回りのことをしてくれる侍女がひとり。あと常駐の警備兵が二人。大きな屋敷はいりません」
 屋敷に向かう途中に、数匹の家畜と出会った。クリーム色の体毛とヒイラギみたいな角以外は、牛とよく似た動物で、草のはみ方もそっくりだ。
「女王の牛なの?」
「ああ、牛に似ていますね。なるほど」
と、ドーナは目を細めて笑った。
「あれは民のものです。みんな、よくここに散歩させに来ます。ほら、白い服の人が付いているわ。きっとあの人のよ」
「・・・・・・ここって、女王の敷地ではないの?」
「この星で、私のものは、あの家くらい。あとはすべて民のものです」
 風がドーナの髪と透明なベールをなびかせていた。牛も、風に心地よさそうに目を細めた。白い服の男が、ドーナを見つけて体を横に倒す礼をした。
 美しい星だ。そして幸福な星。僕の体は痺れたみたいに震えた。
 
 屋敷の門の前には、ロック青年と同じ銀色の軍服を着た女性が立っていて、ドーナを見て体を横に倒した。門と言っても蔦のからまったアーチは、防犯には役立ちそうにない。女性の警備兵は髪は同じ緑だが、首すじが見えるくらいのショートヘアだった。僕が女性だと思ったのは化粧をしていたからだが、身長や体格はロック青年と変わらない。年はもう少し上に見えた。
 通された部屋は、板張りの床に派手な色の敷物が敷かれていた。家具は背の低いテーブルだけ。ここの星は椅子は使わず、床にぺたりと座ってくつろぐ習慣のようだ。魚に似た食べ物や果実や野菜。大皿にたくさんの料理が用意された。『魚に似た』というのは、そいつにはカエルに成りかけのオタマジャクシみたいな、足らしきものが四本ついていたからだ。皮がパリパリに焼けて少し焦げたそれは、おいしそうな匂いがした。そういえば、連れて来られたのは、風呂から出てこれから食事ってタイミングだったっけ。ちょっと不気味な形だが、空腹には勝てなかった。僕はフォークらしき銛みたいな道具を握り、身を剥がしにかかった。白いほかほかの肉は、少し塩見が濃いがうまかった。
「おーいしーい☆」
「ほっぺが落ちます?」
 ドーナは笑いながら、器に飲み物を注いだ。器は大きな果実の殻のようだ。皿は木製だった。陶器やグラスを作る技術はないらしい。窓にはガラスらしきものがついているので、一枚ガラスは作れるのだろう。照明器具はランプに似ているが、ガラス部分に丸みはなく、直方体の中で炎が揺れていた。
「・・・このジュース・・・」
 僕はオレンジ色の飲み物をぐびりと飲んでから、手を止めた。
 さ、酒じゃないかーっ。
 ま、いいかと僕は残りを飲み干した。
「あまり上手でないので恥ずかしいのだけれど。この星に古くから伝わる歌です」
 ドーナは、竪琴とギターの親戚みたいな楽器を膝に置いた。竪琴の後ろに箱がついていて、穴が開いて反響するようになってる。
 ドーナはチェンバロのような高くて澄んだ声で歌いだした。楽器はやはりギターに似た音色だった。暖かく優しい音を奏でた。
 さっき見た、行く風と、草の海を思わせるメロディだった。大きくて広々して。気持ちがいい。
 優しい曲なのに、歌詞もわからないのに、なんだか悲しくなって泣きそうになった。アルコールのせいなのだろうか。僕って泣き上戸だったのかぁ?
「ナオヤ?」
 ドーナは歌をやめて僕の名を呼んだ。歌う時と同じ綺麗な声で名前を呼んだ。
「泣いている? 悲しいのですか?」
 悲しかったのかもしれない。
 幸福そうなカサルの星。平和に暮らす人々。愛らしい女王。
 この星が滅びるかもしれない。僕は助けることができるかもしれないのに、勇気が無くておたおた震えている。何かを背負うことが怖くて逃げ腰でいる。
「僕で力になれるなら・・・・・・」
「えっ?」
「僕は必要とされたのは初めてだよ」
「・・・受けてくれるってことですか?」
 頷いた僕に、ドーナは楽器を放り出して抱きついてきた。
「ありがとう。ありがとう、ナオヤ」
「うわっ」
「ホントにありがとう」
 僕の唇に、ドーナの赤い唇が押しつけられた。ちょ、ちょっと待ってよー。
「地球で、『アイ』を表す行為なのでしょ? 私、ナオヤを『アイ』しています。感謝します」
「・・・・・・。」
 説明とか反論とか異議とかが頭の中をドタバタと右往左往していた。でもドーナの柔らかな唇の感触が強烈すぎて、言葉はバラバラの文字になって砕け散った。ちらと部屋の入り口に立つ警備の二人を窺う。部屋に背を向けて立つ二人は、同時に目をそらした。ロック青年は憮然としているが、女性の方はどう見ても笑いをこらえている。
「カサルでは、どうやるの? そういう気持ちを伝える時」
 僕の質問にドーナは赤くなった。
「膝に、頬を擦りつけます。布の上からでもいいし、腰をかがめて触れるだけでもいいけれど、自分もひざまずいて、直接膝に頬ずり…するのが…最高の愛の告白…になります」
 言いながら声が小さくなっていく。頬をさらに赤くして、下を向いた。僕にキスするのは全然平気だったくせに、説明するだけで恥ずかしいらしい。
「それより、ナオヤも一曲歌いませんか? ナオヤの歌、聞きたいです」
「えっ、ぼ、僕、オンチだよ。歌える歌もないしー」
「カラオケとか、バンドとかはやっていないの?」
 えーっ? 僕は部活一筋のサッカー小僧だからなあ。
「バンドやって、シャズナとかグレイみたいにすればかっこいいのに」
「・・・・・・。」
 女王様。あなたはテレビを見過ぎです。
「あのさ、もしかして警備の二人の髪型と化粧って、君の趣味?」
「アドバイスはしました。こうしたら素敵よって」
 にこにこと屈託なく笑う。化粧してたのは男だったわけか。どうりで体格がいいと思った。

 
< 五 >

  真夜中というのに、窓から覗く空は明るかった。三つの月のせいだろうか。僕は興奮でなかなか寝つけなかった。
 小さな家だから、特に客用寝室などはないらしい。宴会をした部屋に、獣の毛皮を敷いてくれた。派手な刺繍の布を上掛けにして横になった。
 まだ宙を浮いているような気がする。現実だという感覚が無い。目が覚めたら僕は脱衣場で倒れているんじゃないだろうか。
 ふと人の気配で入り口へ首を向けた。この星の建物には扉が無いのだ。シルエットでドーナだとわかった。彼女はすたすたと部屋に入ると、僕が唖然としている間に、するりと寝床に滑り込んだ。
「ド、ドーナ!」
「あら、起こしてしまいました?」
「な、な、何? どうしたの?」
「地球では、女性が客人をこうしてもてなすのではないの?」
 キス攻撃より強力だ。
「ちがーうー! 君は見るテレビを選びなさいっ!」
 細かい説明は面倒だった。実際にはそういうこともあるんだろう。でも『僕は』違う、と言いたかった。
「ごめんなさい」
 僕の剣幕に、ドーナはしゅんとなってしまった。たぶんドーナは意味がわからずしたのだ。テレビじゃHまではやらないし。それにキスがドーナにとって何でもないことだったように、愛の行為も生殖の行為もここでは違うのかもしれない。
「僕こそ怒鳴ってごめん。食事や歌で、もてなしは十分受けたよ。協力する決意も変わらないから。
 ねえ、君たちはどうやって子供を作るの?」
 女性に面と向かって聞く質問じゃないかもしれない。でも知らないと、僕が反対にここの星の人に恥ずかしい思いをさせるかもしれないし、それに純粋に興味もあった。
「子供は、死んだ人の細胞から作ります。一人が死ぬと、その人と同じ人を作る。一人からは一人しか作らない」
「クローンで子孫を? 生殖行為はしないの?」
「生殖行為って?」
「・・・・・・。」
 僕はぽりぽりと頬をかいてごまかした。この星のヒューマノイドは、セックスもしないし、妊娠も出産もしないらしい。
「もしかして、動物も? 果物や野菜も?」
「細胞を使って増やします」
 そして、人口は常に一億人を保っていることや、女王もずっと『自分』がやっていることなどを教えてくれた。
  クシュン、と小さなくしゃみをして、ジーナは肩をすぼめた。肩の出た薄い寝間着は寒そうだ。白い肩が赤い月に照らされていた。
  「僕は逃げないから。どうぞ女王様はお休みになってくださいませ」
 僕がおどけて言うと、ドーナは頷いて部屋を出ていった。白い寝間着が赤いライトを浴びているように見えた。
 
 朝。
 といっても、夕刻にくらべてすごく明るいというわけではなかった。月は四コに増えていて、それの分くらいだ。
 朝食後、僕らは四人でぞろぞろと塔へ向かった。この星には、クルマとは言わないが、馬車や牛車のような乗り物はないのか。…などと不服に思っていたら、塔の前にセスナに似た乗り物が止まっていた。
「司令官殿はもういらしているのね」
 ドーナは塔に向かって小走りになった。
「飛行機に見えますが、あれ」
「ええ」
「そんな文明が発達してたんですか。電気も通じてないくせに」
「私たちには神の山があります。金色の鉱物があって、地を走るもの空を飛ぶものに力をくれます。でも、使えば山は小さくなる。軍事用と医療用にしか使いません。日常には必要ありませんから」
「オリハルコン…?」
 力をくれる金色の鉱物…。地球でも、古代文明に関係していたというエネルギーの源。それがこの星にもあるというのか。
 しかし、便利だからといって日常に乱雑に使用しないのは、地球、見習えよって感じだ。使えば山も小さくなる。ごもっとも。
 上にあがり、鏡のあった部屋で、すでに来ていたカサル軍の最高指令長官と会った。地球人だったら四十代前半という感じの、体育会系のおっさんだった。銀の軍服を腹まわりに皺を作って着込み、派手な赤いマントをなびかせている。角刈り(一応髪は緑)のせいか、四角い顔と極太眉のせいか。ロック青年たちみたいなかっこよさはない。でも、僕を見て人なつっこく歯を見せて笑った顔は、本当にうちの部の監督(体育教師)みたいな感じだ。
 彼がテーブルに見通り図を広げ、カサルの言葉で説明を始めた。ロック青年と化粧男は体を乗り出して聞き入っている。空気がぴりりと切れそうなほどに真剣な雰囲気だ。
 化粧男はもともと寡黙で、殆ど口をきかない。きびきびとした軍人然とした男だ。でも、下がり気味の目のせいで怖い雰囲気はない。だいたいが、ドーナに言われるままに化粧をしている男だからなあ。
 ロック青年の方はいつも口を真一文字に結び、きりりと見せようとしている。でも、それが拗ねているように見えるのは、若さのせいかもしれない。彼の赤い瞳は、まだ僕とそう違わぬ夢を追っていそうに見えた。
 ドーナは一通りの説明が終わったあと、僕に日本語で通訳してくれた。
『アム』の君主の寝所へ忍び込み、寝込みを襲う。侵入するのは僕とロック青年と化粧男の三人。少人数で目立たないように忍び込むのだそうだ。寝室に鏡がないので、廊下の端の応接室の鏡から出る。正門裏門、建物の入り口には見張り兵士がいるが、室内にはいない。ただし監視カメラとセキュリティで守られている。各部屋の扉を開けられるのは本人と家族だけで、家族は息子しかいない。
 暗殺は二人だけで行い、僕は手出ししなくていいそうだ。問題は事を成し遂げた後で、警備兵が突入してくる前に速やかに応接室の鏡に辿り着けるかどうかだった。鏡からはおっさん(司令長官)が手を伸ばして引っ張り上げてくれるそうだ。
 この時初めて知ったが、鏡から体が完全に出てしまうと、自力では鏡には戻れないのだそうだ。塔の側はドーナの能力で意識した場所に飛ばすことができるが、向こう側の鏡からは戻ることができない。だからおっさんが僕ら三人を引き戻すことになっていた。
「だからロック青年は風呂場の鏡でリレーフになってたわけか。もし地球側に落ちてたら、彼は帰れなかったの?」
 ドーナは笑った。「それは大丈夫よ」
「こちら側から、また誰かが手を伸ばせばいいの。そうね、でもあの時は腕力のない私しかいなかったから、無理だったかも。
 そういう時は、誰かを呼んで、彼を地球へ送る数分前のこの場所へ飛ばすの。『計画は失敗するから別の方法を取りなさい』と警告するのよ」
 この星では、都合の悪いことはすべて、そうして書き変えて来たのだろうか。
 過去や未来を変えるのがいけないっていうのは、地球のSF作家たちが言っただけのこと。ほんとにタイムパトローラーがいるわけでもないし、現実にタイムパラドックスで地球が爆発するわけじゃない。
 ドーナたちのしていることが悪いことかどうかは僕にはわからなかった。僕にだって、十五年間の中にはやり直したいことがたくさんあった。『チャンスは一回だけだから挑む価値がある』なんて、成功したやつが言ったに決まっている。その言葉には敗者への痛みは感じられない。


< 六 >

  僕は見通り図を頭にたたき込んだ。普段こんな集中力があれば、試験も楽勝なのにな。『アム』の警備兵の服に似せたものが用意されていて、ロック青年たちはそれを身につけた。僕は靴だけ用意してもらった。彼らと同じ黒い編み上げブーツだ。僕は昨日からずっと裸足だったのだ。
「気をつけてね、ナオヤ」
 それから二人にも。
「*%$#∂ΣΨ#・・・・・・」
 この星の言葉でドーナは声をかけた。
 化粧男は頷いて礼を返すだけだったが、ロック青年はひざまずいた。そしてドーナの揺れるドレスに頬を触れた。
 こ、これって、『膝に頬を寄せる』ってやつ? 愛の告白じゃないか。
 ドーナは瞳を見開いて彼を見つめていた。ロック青年の結んだ唇とまっすぐ見上げる視線が本気なのを告げていた。
 若そうなロック青年の、階級が高いとは思えない。女王に愛の告白をするなんて、この星でもやっぱり無謀なことなのだろう。
 ってことは、危険なのだ。
 この作戦は、かなり危険が伴うのだ。少なくても彼は死ぬ可能性があると覚悟している。 僕が昨日最初に説明を受けた時には、僕さえ協力すればさくさく進んで大団円って感じのことを言っていたし、今もドーナは危なさについては一言も言わなかった。だが、危険に決まっている。たった三人で敵の大将の寝所に侵入するのだから。
 隠していたドーナに対しては淋しさを覚えたが、でも協力者でしかない僕に『死ぬかもしれないけど、いいですか?』なんて言うバカはいないだろう。気づかなかった僕はバカだけど。
 不思議なことに、恐怖よりも、『やってやる!』って気持ちの方が強い。頭がすうっと晴れて、覚醒していくのがわかった。目を凝らすと、今までより物の輪郭がくっきり見える気がした。僕の唇は笑みの形を作っていたかもしれない。
 一番にロック青年、次に化粧男が鏡に入った。応接室の安全を確認してから僕を呼んでくれた。
 床に膝をついて着地すると、カツンとヒールの音が響いた。フローリングの床に、ありきたりのソファとテーブル。棚に酒のボトルらしいものが飾ってあるが、それ以外は装飾品がほとんどない。ドーナも地味だったが、この星の君主も随分質素なんだな。振り返ると、鏡はどこにでもありそうな、桜みたいな花が彫刻された木製フレームの姿見だった。
 三人とも無事にこの鏡の前に帰って来れますように。僕はそう願って、二人の軍人の背中を仰いだ。
 
 僕が手の形の把手に掌を押し当てると、応接室の扉がひとりでに開いた。こんなキイだなんて知らなかった。指紋照合だろうか。なぜ開くのだろう、僕の掌で。
 僕らは廊下へ飛び出す。左。左の奥の部屋だ。監視カメラに映った僕は、君主の息子に見えているだろうか。
 今度はアイセンサー。アイマスクみたいな鍵に、僕は顔を近づけた。角膜を照合するんだろう。静かに寝室のドアが開いた。
 僕らは暗い部屋へ静かに足を踏み入れた。「ココデ待ッテイロ」
 背後からロック青年が言った。僕は扉の近くで立ち止まった。彼らは銃らしき武器を腰から引き抜くと、足音をさせずに奥へ入っていく。
 同一人物並みに外見が似ているからと言って、指紋や角膜まで酷似しているなんてことがあるのだろうか? 灰色の不安が僕の胸を押し上げ、呼吸を苦しくさせた。
 ガチャンと何かの割れる音がした。虹色の光が闇の中を一筋走った。カサルの銃かアムの銃かわからない。男の太い厳しい声がしたかと思うと、今度は赤い光の線が壁を直撃した。声が「ダレダ」と聞こえたのは、僕の気のせいだったのだろうか。
 ロック青年たちの声も聞こえ、闇の中では銃撃戦になっていた。的をはずれた光が僕のすぐそばの棚にも当たり、花瓶を割った。チューリップに似たその花は、花束のリボンも解かれぬまま花瓶に放り込まれていたらしい。開いた花びらは床で無残に散っていた。
「ナオヤ、終ワッタ」
 ロック青年はそれだけを言った。僕はこわごわと奥の寝室を覗いた。闇に目が慣れて来たのもあるが、奥には窓があって外の方が明るかったのだ。
 彼の亡骸がはっきりと見えた。
 四十歳くらいかと思っていたが、もっとずっと若いようだった。床に体を投げ出されたようにして倒れていた。黒い長い髪を床で踊らせて、むこうに顔をそむけたままだ。その不自然な首の曲げ方から、僕は二人のうちのどちらかが顔をむこうに向けたのかもしれないと思った。僕が顔を見ないように、と。
 寝間着の腕から血が流れ、床を汚していた。左手の肘の当たりから、手の甲、指にかけて線のような血の跡があった。
「早ク行コウ」
 彼が僕の背を押して急かしたのは、男の死体を僕にしげしげと見せないためじゃなかったのか?
 だが、僕は見つけてしまった。小指の付け根に小さい蝶の形のホクロがあるのを。
 僕は自分の左手の小指を反対の手でそっと握ると、彼らの後に続いた。
 耳の後ろがグァングァン鳴っていた。脈が倍の早さで打つ。顔はかっかと熱いのに、握りしめた小指はガラスみたいに固くて冷たかった。目が回って、立って歩くのがやっとだった。
 今は。とにかくここを逃げきることが大切なんだ。それだけに集中しろ。
 
 廊下には既に警備兵が繰り出していた。二人の軍人はレーザー光線らしい銃を撃ちまくった。帰るのは簡単ではないのだ。僕がここで撃たれて死んだら、さっきの部屋で倒れて死んでいる男は誰になるんだろう。キャストが入れ代わるのだろうか。そんなことを考えていると、赤い光が近くをかすめた。
「うわっ」
 左肩に熱を感じて、見ると服の肩が焼け焦げ、むき出しになった肌が赤くなっていた。ぼんやりした気分はそれで吹き飛んだ。
「ナオヤ、大丈夫カ?」
 廊下の前方で応戦するロック青年が振り返った。その時、敵兵士の銃の赤い光が、彼の銃を弾き飛ばした。銃はブーメランのように弧を描きながら、応接室の扉の前まで飛んだ。
 敵兵は六、七人ってところか。奴らは狭い廊下で大きな体をもてあましているように見えた。それに、あっちの銃は、引き金をひいてから赤い光が出るのに時間がかかる。十分かわせる速度だ。
 よっしゃっ! 僕はふくらはぎに力を込めると飛び出した。
最初の兵士の脇を抜ける。次の兵士が銃を放った。右へターン。フェイントをかけて、再び左へ。三人目の兵士がつられてすっ転んだ。あとは全力で転がった銃へと走り込む。体を反転。ロック青年の位置を確認する。反転させたままで右足を蹴り上げた。銃は床をまっすぐに彼に向かって滑っていく。一人の股を抜き、足元を抜き、倒れた兵士の腕のそばを抜いた。床に膝をついていたロック青年の手元へ。
 銃はピンポイントで届いた。
 こんな必殺キラーパス、この先二度と蹴れないだろう。
「アリガトウ」
 初めて彼の笑顔を見た。ロック青年は銃を握ると立ち上がった。
 化粧男は壁を背にしたまま、ひたすら撃ち続けている。前へ進めずにいるのだ。汗で化粧が崩れ、目の下に青いクマを作ってやつれて見せていた。
 二人とも、早く来い! 絶対死ぬなよっ。 僕は再び掌で応接室を開けた。
 姿見から、にょきりと、悪魔的なオブジェのように腕が伸びていた。窓から差し込む月の明かりに照らされ、この世の終わりを掴み取ろうとするかのように、大きく手を広げていた。
 明るいのは、赤い月のせいだ。いや、あれは『太陽』じゃないのか?
 太陽系?
 ここは本当にアンドロメダの『アム』って星なのか?
 はっきりわかっていることは、ここは『地球人』の何かの施設だってことだ。僕は地球人で、あの死体はオトナの『僕』だったのだから。
 それでも僕は鏡の腕に手を差しだしていた。今とにかく生きのびるには、この方法しかなさそうだった。

 
 < 七 >

  僕は、おっさんに抱きかかえられるように塔の絨毯の上に倒れこんだ。ほっとしてている暇はない。おっさんは僕を放り投げると、次の救出者の為に鏡に腕を突っ込んだ。床に大の字のなった僕を、心配そうなドーナの顔が覗き込んだ。
「無事でよかったです」
 僕は体を起こしあぐらをかくと、目をそらした。僕の変化に気づいたかもしれない。ドーナの表情がとたんに堅くなった。
「僕がむこうで死んだら、どうする予定だったのですか?」
「ごめんなさい。彼らには命を張ってナオヤを守るように命じてはいましたが。危険が大きいこと、言いだせずにいました」
「僕の質問に答えていないな」
「・・・・・・。」
 ドーナのルビーの瞳が僕を見た。僕は唇の端を上げたまま微笑む真似をしていた。
「突入の直前のこの場所に『行き来の鏡』で伝令を出したでしょう。ナオヤにとって危険だから中止せよ、と」
 今度はドーナが目をそらして答えた。
 そうしてカサルの歴史は都合よく回る。でも、僕は死んだままだろう。むこうにいた二十分間、走ったり銃を蹴飛ばしたり、ひるんだり奮い立ったり。必死になって頑張った、『僕』は死んだままで放置される。
 ばさりと切り捨てられた庭の木の枝のように。
 『次の』僕は、ここで感じ生きている僕じゃない。ドーナにとって同じサトウ・ナオヤであっても、絶対違う。
 そうしているうちに、ロック青年が戻り、腕を撃たれたらしい化粧男も二人がかりで引き上げられた。星の言葉でねぎらいを言っただけで、ドーナも指令長官も結果について何も尋ねなかった。不思議に思ったが、テーブルにおかれた手鏡を見て納得した。
 銀の縁取り、握り部分にまで花の細工がされた豪華なそれは、鏡の部分がスクリーンのように、あっちの世界を映し出していた。応接室に入れなかった兵士たちが、セキュリティをやっと解除して突入したところらしい。だが、もぬけの空なのでとまどっているようだ。窓の鍵をチェックする者、棚を開けて中を確認している者、途方にくれる者。
 ドーナはこれで、初めから終わりまでを残らず見ていたのだろう。これが『映しの鏡』なのか。
「ナオヤ、疲れたでしょう。休みますか。ゆうげは祝宴を予定しています」
 僕は首を横に振った。
「帰してください」
 ドーナは悲しそうに眉根を上げた。声はなく、ただ黙っていた。
「まさか、帰さないつもりで呼んだんじゃないでしょうね」
 知らず、僕の声には棘が混じる。
「そんなことはありません。連れて来た時間と一分の狂いもなく、戻すつもりです。
 でも今むこうから帰ったばかりです。この星は英雄のあなたにまだ何も感謝を表していません」
「英雄ですって?」
 僕は鼻で笑った。
 英雄? 将来あなたたちが躍起になって消そうとする存在になる、この僕が?
「感謝なら二人の軍人さんにどうぞ。鏡でご覧になっていたでしょうが、すばらしい活躍でしたよ。
 今すぐ、僕を帰してください。地球に」
 僕は何に腹をたてているのだろう。
 ドーナが僕を騙していたこと? 嘘をついて利用したこと? まんまと騙されて、おだてに乗った自分? 
「わかりました。鏡の前に立ってください」 ドーナは胸の前で指をからませ、祈りに似たポーズを取った。
「♂#£Xがあなたを連れ出した直後。あなたの家のバスルームの鏡の前へ。お帰しします。
 ナオヤ。あなたには心から感謝しています。ありがとう」
「もう、やめてください」
 僕は鏡の前に立つと無愛想に言った。
「飛び込めば、そこは元のあなたの世界です。 さようなら、ナオヤ」
「・・・・・・。」
 僕は別れの言葉も告げず、鏡に飛び込んだ。
 どぉぉん、と、僕は反対側の壁に激突した。勢いよく飛び込みすぎたらしい。頬に張り付く水色のビニールの壁。懐かしい我が家の脱衣場の壁だった。
「ナオちゃーん、どうしたの。すごい音がしたけど?」
 母がドアを叩いた。『ナオちゃん』扱いはしていても、さすがに息子の着替え中にドアを開けない常識はあるとみえる。
「大丈夫。滑っただけ」
 起き上がりながら僕は答えた。ハダカを見られた方がまだマシだ。僕は服も靴もあの星で借りたままだった。ごまかす為に嘘を考えるのは面倒だ。
「ごはん出来てるわよ」
「今いく」
 スリッパの音が遠ざかる。ほっと安堵し、僕は靴と服を脱ぎ捨てた。柔道着に派手な刺繍をしたみたいな変な服だ。自分の部屋のどこに隠しても、きっと母親は見つけ出すだろうし、不審に思うに違いない。靴だって同じだ。これらは処分した方がよさそうだった。
 再びハダカで鏡の前に立った。
 ドーナは一分とたっていないと言った。風呂場を横目で見ると、まだ湯気がこもっていたし、タイルは水びたしだった。脱衣場の床も、僕がこぼした水滴がそのままで、裸足の足を濡らした。
 なのに、顔つきが変わっていた。
 背はもちろんそのまま。相変わらず顔は鏡の中央までしか来ない。肩幅も筋肉も、まだまだ子供だとため息ついた一分前と変わりなく貧弱だった。・・・面構えだけが明らかに変わっていた。
 むこうにいたのはたった一日。一年も滞在したわけじゃない。なのに一歳も二歳も年をとったような顔をしていた。
 無意識なのに眉を上げて、険しい表情をしていた。同じように大きくて丸い目なのに、ガラス玉みたいに冷たい光に見えた。
 世界中を信じていないような顔だった。
 僕は前ののほほんとした顔が大嫌いだったが。今の顔の方が嫌いだと思った。
 左肩がひりひりする。レーザーがかすったところが火ぶくれになっていた。涙が出て来た。
 喉の奥から悲しみがこみ上げて来た。
 頼られて、うれしかったのに。
 人の役に立てるのが、うれしかった。逃げずに立ち向かえたと思った。僕でもやれるんだと思った。
 全部嘘だったなんて。
 綺麗なドーナ。可愛くてお茶目なドーナ。でも彼女は生まれてからずっと女王で、彼女の肩に星と民の運命がかかっていて。だから平気で人を騙せて。
 いや、初めから。僕は初めから憎むべき相手だったのかもしれない。いつか『敵』となる少年。
 笑顔を向けてくれたことも、澄んだ声で歌ってくれたことも、赤い唇を僕に押しつけたことも。すべて、僕を憎みながらのことだったのかも。
 僕はうずくまると、膝をかかえて嗚咽をかみ殺した。喉がきりきり痛かった。声を殺して泣くと、こんな風に喉が痛いなんて初めて知った。目からはぼろぼろと大粒の涙がこぼれた。
 
 問題は山積みだ。
 僕のしたことは、どんな重さで二つの星に関わってくるのだろう。この先、僕はその重さに立ち向かわねばならない。
 だけど。
 僕は今はまだ泣きたかった。膝をかかえたまま、思う存分泣いていたかった。たった一畳の脱衣場にうずくまった僕は、もうここから一歩も外に出ていきたくなかった。涙が手首にぽたぽたと落ち、手の甲をつたい、小指の根元のホクロを濡らしていた。


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