ウォーターウラウン フラワーティアラ  3




☆ 十四 ☆

 バージルは、ほっておかれた子供だった。
 国王の息子とは言っても、正式な妻の子供でないので、王位継承の順位は低くなる。利用価値がないと思うと、みんなバージルを相手にしなかった。
 母とバージルは、城の離れでひっそりと暮らしていた。
 それはそれで幸せだったが、早くに母が亡くなり、本当にひとりぼっちになった。
 義務で身の回りの世話をするメイド、仕事で勉強を教える家庭教師。
 冷え冷えした毎日だった。
 国王だけはさすがに、会えば笑いかけ可愛がってくれたが、政務に追われ忙しい身なので会いに来てくれるのはたまにだった。
 国王が隣の国のお姫様を正室に迎えたら、もっと機会が減るだろう。華やかな婚礼の儀式に出席しながら、義母のローズマリーに敵対心を抱いた。

 「こんにちわ。あなたがバージルね。
 私が新しいおかあさんのローズマリーよ」 
『新しいおかあさん』?
父上の奥方でしかないと思っていたのに。
 ローズマリーは、屈託のない笑顔でにこにこ笑っている。鼻の上にはソバカスがあった。
 「あなたのおかあさまは素敵な方だったそうだから、とても及ばないとは思うけど、いいおかあさんになれるように、努力するわ。 握手!」
 こわごわと握ったその手は暖かく、ふわりと柔らかかった。
 バージルが七歳の時のことだった。
 ローズマリーは、国王に頼んでバージルと城の中で一緒に暮らせるようにしてくれた。

 読んでくれた童話。
 歌ってくれた歌。
 秋の日の枯れ葉踏みの遊び。夏の水遊び。 夢のような日々だった。
 そして五年。
 ローズマリーが男の子を出産した。
 男児出産に、国中が喜びにわいた。カーニバルだった。
 再びバージルは宴の外に追いやられた気がした。
 「赤ちゃんに手がかかるから、しばらく一緒に遊べないの。ごめんね。
 でも、この子が大きくなったら、私なんかよりバージルのいい遊び相手になるわね」
 ローズマリーの態度は少しも変わらない。たぶん、分け隔てなく接してくれるだろう。このひとは、そういうひとだ。
 「バージルの弟よ、可愛がってね」
 バージルは強くうなずく。
『可愛がるから。ボクの弟だから』
 この頃から、もともと体の弱かった王が病気で伏せることが多くなった。
 正室の男児が大きくなるまで、第一王位継承権をバージルに一時的に与えるという話が持ち上がり、宰相や大臣や王の叔父たちの間でもめていたようだった。
 そして、放たれた刺客。恐怖で眠れぬ夜。 
「ソルト、誰がボクを狙っているの?」
 「バージルさまを邪魔にするとしたら、ローズマリーさまの手のもの」
 「そんな・・・」
 バージルは信じなかった。
 だが、海軍大佐との不義の疑い。
 子供も彼との間にできた子ではないかと疑われた。
 投獄され裁判を待つ間に、ローズマリーは赤ん坊を連れて大佐と脱走した。
 夫である国王を裏切り、実の母のようにローズマリーを慕っていたバージルを捨てた。

 あの屈託のない笑顔で。
 よく笑いよく喋るあの唇で。
 父上を裏切り、私を捨てた。
『私は、あのひとのことは絶対に許さない』
 ローズマリーによく似た、明るく可愛いキャラウェイ。
 頼む、私を裏切るな。

 馬車がキャラウェイの屋敷に着いた。
 マスタード少佐に手を引かれて降りて、
 「あの・・・ ごめんなさい。ムチのケガ、大丈夫?」
 すまなそうに縮こまっていた。
 少佐の喉の当たりが赤く血が滲んでいる。 
「私が勝手にやったことです。王子が女性に手を上げるのが嫌だったので。
 それに、ケガが怖くては軍人はできませんよ」
 「貴族なんて前線に出ないくせに」
 「それもそうだ」
 少佐はクスッと笑った。
 「だが、今回は王子の反感を買ったかもしれないから。前線か辺境に飛ばされるかもしれませんけど」
 「そうしたら、私のせいね・・・」
 「邪邪馬のお姫様のお守りより、屈強な敵兵士相手の方がラクかもしれない」
 「まあ、ひどいわ!」
 「もう、王子を相手に、あんなことはやめてくださいよ。証拠もないのに首謀者扱いして。ヘタすると処刑ものですよ」
 「だって・・・ハラがたったんだもの。
 刺客がバージルの名前を言った時、ショックで、それでスキができてしまった。それで逃げられてしまったのよ。悔しくて・・・。
 冷たくてヤな奴だと思ってたのに、彼が自分を殺そうとしたのだと思ったら悲しかったの。
 そんな自分にハラがたってしょうがなかったわ」
 「キャラウェイ姫・・・」
「バージルは、私が襲われたと聞いても、ケガの心配ひとつしてくれなかった。そういうヤツよね、あいつは」
 「ピンピンして王子の部屋に入ってきたからでしょう?あれだけ強ければ、われわれの護衛も必要ないですね。
・・・と言いたいけど、王子の命令どおり、明日から護衛の人数を増やします。
 それから外出もしばらくお控えください」 
「えーっ!そんなぁ。一日中家にいろっていうの?」
「ローズヒップ女史が喜ぶでしょうね、宿題がはかどるって。
 では、お気をつけて」
 少佐は馬車をひいていく。
 「食えないヤツ。せっかくムチからかばってくれて感謝したのにー!」
『喉元のムチの跡の痛々しさに、胸がきゅんってしたのに ・・・』
 後ろ姿にアカンベーすると、少佐は振り向いてクスッと笑った。
 赤くなるキャラウェイ。
『私は・・・』
 このひとが好きなんだわ、と思った。
 ジンジャーであってもなくても、このジャスミン・マスタード少佐が。
 冷徹で冷静な軍人のフリをした、情けの深い優しいこの青年が。

 何日か後、少佐の学生時代の情報が届いていた。キャラウェイはパセリから報告書を受け取った。
 ジャスミン・マスタードは、成績は優秀だったが、かなり病弱で入院と復学を繰り返していたようだ。剣や乗馬を練習する時間も体力もなかっただろう。
 少佐のからだの作りや骨格は、子供の頃から病弱だったとは考えられない。からだを作るのは日々の鍛練の積み重ねなのだ。
 人相も、確かに黒髪で痩せぎすの美少年らしいが、髪なんて染められる。
 だが、少佐とは違う人物だという決定的な証拠もなかった。怪しいという疑問だけが深くなるばかりだ。

 その日は、珍しくキャラウェイの部屋から女の子らしい笑い声が響いていた。
 キャラウェイは、屋敷でおとなしくしていると、退屈で死にそうになった。それでブルーベリーに遊びに来てもらったのだ。
 「バージルったら、私が血まみれのドレスで部屋に入っていったら、『何の余興だ』って言ったのよ!」
 キャラウェイの言葉に、ブルーベリーはまたケタケタ笑った。
 「そのバージルの顔、想像がついておかしいわ」
 「彼は、絨毯の心配してたわよ。血のシミをつけるなって」
 キャラウェイは肩をすくめる。
 「素直じゃないのよ、バージルは」とブルーベリーは笑う。
 「私には、刺客に襲われたと聞いてバージルの心臓が凍りついたことや、自分が疑われたので依怙地になってしまったことが、手にとるようにわかるわ。
 疑われて、かっとなってしまったのね、きっと。
 あなたを大事に思ってるのに、なぜそんな風に疑われなきゃいけないんだ、って。自分の気持ちが全然伝わってないのにもハラがたったのじゃない?」
 「バージルが私を? そうかなあ。
 確かに、子供の頃は可愛がってくれたとは思うけど」
 『ほら、敵はこっちだ、オテンバさん』
 おもちゃの剣を持って、騎士と盗賊ごっこにつきあってくれたバージル。
 年齢はもう大人だった彼だが、ローリエ城の庭の中、子供みたいに汗をかいて。
 『やられたー!
 キャリー、腕がいいな。君が男の子だったらなあ、いい弟になったのに』
 『そのかわり、オトナになったらいい妻になってあげる』
 バージルはあはははと大声で笑った。
 キャラウェイの頭をなでて、『期待しないで待ってるよ』

 「キャリー、バージルはいいひとよ。信じてあげて。
 ただ、いろいろ、不器用なのよ。精神もアンバランスで。
 男のひとなんて、いくつになっても子供なの。そう思って、ね?」
 キャラウェイはうなずいた。
 「ありがとう、ブルーベリー。 私、努力してみるネ」

 キャラウェイは、門までブルーベリーの馬車を見送った。
 そして、部屋に戻ろうと庭を通ると・・・。
 ミモザの茂みの横に、バージルが立っていた。


☆ 十五 ☆

 「お忍びでいらしたの?ひとりで?」
 「ひとりの方が目立たないので安全だ。
 ブルーベリーを呼び寄せて何の話をしたんだ。
 彼女の日常のことか?家族のことか?何をさぐろうとした?」
 「さぐるなんて。
 外出禁止命令が出ちゃって退屈だから、遊びに来てもらったのよ」

 ミモザの木陰で寝転がって本を読んでいたマスタード少佐は、声に気づいてページから顔を上げた。茂みの横に昇りの階段があり、声はその上から聞こえた。
 たぶん王子が心配しているのは、ブルーベリーの子供のことを知られたのではないか、というところだろうか。彼女の屋敷にまだ通っていることも、キャラウェイには知られたくないのだろう。キャラウェイが両方知っているとは思わないだろうし。
 「マスタード少佐の提案で、だと?
 ふん、何の為の警備かね。
 いったいどうやって君を誘惑したのやら」
『おっと。立ち聞きするつもりはなかったが、出て行きづらい話題になったな』
「聞きずてならないわ。誘惑などされておりません」
「奴は有名な女たらしだ」
『そんなにオレは有名だったのか』
「君の少佐を見る目は、ただの護衛兵士へのものじゃない。
 潔癖な君はああいうタイプが大嫌いだと思って、それで側につけたのだが、男免疫がないことを考慮に入れなかったな。あの男にとっては、君をものにするなど、赤子の手をひねるようなものだったろう」
 バージルの陰険で陰湿なもの言いに、キャラウェイはかっとなって爆発した。
「男免疫がなくて悪かったわね!
 えーえ、大好きよ。優しくて。頼り甲斐があって。
 嫉妬深くてグチグチ文句言う、どっかの王子よりずーっとかっこいいわよ!」
『おいおい・・・。まるで子供の喧嘩・・・。』
「キャラウェイ!口を慎め!」
 「私のことなんて、愛してないくせに。ブルーベリーがいるくせに。
 自分のものだと思ってたものが取られそうになると、悔しいんでしょ。
 婚約者の私のことも、自分の兵士のことも、全然信じていないのね。
少佐は、この屋敷の若い女の子は食いつくしたらしいけど、私に対してだけは紳士だったわ」
『それは、どうも・・・』
「信じていないって?
私は自分に仕える者達を、一度たりとも信じたことなどない。どんな者でも。
 まして、ローズマリーそっくりの君のことなど。
 だが、私が愛していようと憎んでいようと、
君は私の妻になる女だ。私のものだ!」 
「きゃあ!」
 パシーン!と平手打ちの音に、少佐ははっと身構えた。王子はキャラウェイに手を挙げたのだ。
 ドレスが引き裂かれる音、キャラウェイが押し倒された音。
 「やめてよ!いやらしいわね!」
 再び平手打ち。キャラウェイの悲鳴。
 そして、揉み合っているうちに、キャラウェイが庭へ降りる階段を転げ落ちてきた。少佐の茂みのかなり近くに落ちたようだ。
『しかたない、助けるかあ?』
 少佐は、ミモザの茂みの中からのっそりと立ち上がった。
 「マスタード少佐・・・」
 キャラウェイは、階段で上下反対になって磔みたいに引っ掛かったまま、目をぱちくりさせていた。縦ロールの髪が、最下段の石だたみに触れそうな位置でギリギリ止まって揺れていた。
 少佐は、キャラウェイに手を差し延べ、助け起こした。
 「キャラウェイさまが、上から落ちて来るとは思いませんでした。おケガは?」
 「ずっとここにいたの?」
 「『ずっと』というわけでは・・・」
 「見てて助けてくれなかったの!?」
 バージルにドレスを破られたのだろう、あちこち下着や肌が露出して、ひどい格好だった。だが、少佐は肩をすくめて、
 「だって、任務外でしょう、こんなの。
 婚約者同志の痴話喧嘩じゃないですか」
 そして、階段の上で見下ろしている王子にちらと視線を移した。
 「王子も、挙式が終われば姫はあなたのものなんだから、こんなところであせって妻にしようとなさらなくても。いとしくて、早く抱きたいのはわかりますけどね」
 マスタード少佐はおどけた口調で、バージルの気に触らないよう気をつけて言った。
 バージルは、少佐をにらみつけた。
 「私の意志ではないが、本当に早く妻になってもらうことになった」
 「えっ?」
 キャラウェイも階段の上の王子を見上げた。
 「その事を告げに来たんだ。
 父上の容体が悪い。
 手遅れにならないうちに・・・。一週間後に挙式を行う」
 「一週間!
 そんな・・・ 。そんなに急に 。
 まだ、心の準備だって 」
「何の準備だ、駆け落ちのか。
 ふん、その少佐と手に手を取って逃げるか。
 あのローズマリーのように」
『えっ!?』
 「今、なんて?おばさまは、駆け落ちしたの?」
 「王子!言葉をお慎みください!」
 少佐の制する声に、バージルは睨み返した。
 「マスタード少佐、君は私に対して意見が過ぎるようだね。
 出すぎたマネはしないことだ。
 しばらく国境警備の兵隊の指揮をしてみないかね?」
 「それは・・・今の任務を解くということですか?」
 「三日以内に出発しろ。これからキャラウェイには第二騎士団の護衛をつける。
 二度と、キャラウェイに近づくな!」
 「・・・了解しました」
 少佐は、反論することもなく、胸に片腕を当てて最敬礼した。
 「帰る」
 ぷいっと、王子は立ち去った。一人で来たそうだから、一人で馬に乗って帰ることだろう。

 バージルが立ち去ると、キャラウェイの張っていた気持ちがプツンと切れた。
 キャラウェイは、その場にへたりこんだ。 
「階段から落ちたケガは?顔も殴られていたようですけど?」
 唇が切れて、血が出ていた。手加減せずに殴ったようだ。冷やさないと腫れるだろう。ドレスも破れ、擦り傷の中には血がにじんでいるものもあった。
 「別にケガなんてどうでもいいわよ。
 階段から落ちて死んでしまえばよかった」
 「キャラウェイさま」
 「バージルにこんなに憎まれているなんて、思ってもみなかった。
 もう、だめね。
 結婚しても、城の中で傷つけ合いながら暮らすのかしら」
 「・・・。」
 少佐は、かけてあげる言葉をみつけられずに、ただ黙っていた。
 「ローズマリーおばさまは、この国で何をしたの?なぜバージルにあんなに憎まれているの?駆け落ちって、なに?病気で亡くなったのじゃなかったの?」
 「その話は、ここでは」
 少佐は声をひそめた。
 目だけでまわりを見回し、
 「部屋へ来てください。 部屋で傷の手当てもしましょう、血が出ていますから」
 少佐はキャラウェイの手を引いて、離れの自分の部屋へ向かった。

 「さて、と。とりあえず座ってください。 話の前に、まず治療だな」
 マスタード少佐はキャラウェイに椅子を勧めて座らせた。そして顔の傷と裂傷の治療を手際よくしてくれた。
 「濡れタオルです。顔を冷やした方がいいでしょう。結婚式までには腫れがひくといいのですが」
 「式なんて、どうだっていいわ。思いっきりブスになって出席してやるわ」
 キャラウェイはそう言うと、悔しくて涙があふれてきた。
 「女性にひどいことをするひとだ。
 嫉妬というより、精神状態が危うくなってるのじゃないかな。
 王子に何と言われても、あなたはレディですよ、毅然としてなさい。
 あとでパセリどのに言って、ドレスをもらってきてあげます」
 少佐は、洗いたての自分のシャツを引っ張り出し、キャラウェイの肩にかけた。王子にドレスをあちこち破かれて、肌が露出していたのだ。
 「ありがとう。
 あなたには、何回も服を借りるわね」
 キャラウェイはシャツを羽織り直すと、そう言ってかすかに笑った。
 今日のこのシャツ。それから、港へ出る時には、昔の軍服を借りた。嵐の後に水夫の服を貸してくれたのは・・・。この人ではなかっただろうか?
 「さてと。どこから話しましょうか。
 気持ちは少し落ち着きましたか?」
キャラウェイはうなずいた。
 「どんな話でも、気をしっかり持って聞くから、話して?
 この国のこと。バージルのこと。そして叔母のしたことを」

 少佐は自分の椅子を窓辺において、屋敷の庭に目を落とした。
 そして、ぽつりぽつりと語り始めた。


☆ 十六 ☆

 ローズマリーさまは男児を出産し、王子の誕生に国中がわきかえりました。正式な王位継承者の王子でした。
 その頃から王は体をこわし、寝たり起きたりの状態でした。もし、王に何かあった時の為にと、王子が大きくなるまで一時的にバージルさまを第一王位継承者にしようという話が持ち上がり、かなりもめたようです。
 しかし、そのすったもんだの最中に、ローズマリーさまの不倫事件が発覚しました。ローズマリーさまの筆跡の恋文が、時の海軍大佐の部屋で見つかるという事件が起こったのです。それには、王子も実は大佐の子供であるようなことが書かれていました。
 二人は濡れぎぬだと否定しましたが、調査が終わるまで、城の中に投獄されました。
 二人は、取り調べの結果が出るのを待たずに脱獄しました。幼い王子も連れて。
 そして二人とも相次いで追手に殺されたと聞いています。その時に子供も死んだとのことです。
 国民には明かされずに、一部の宰相や大臣しか知らない出来事です。

 「私が聞いている話は、以上です。
 バージル王子はその事件の為に第一継承者となりました。彼は、父を裏切り自分を捨てたローズマリー王妃を恨んでいるようです。愛していた裏返しでしょうね」
 「おばさまがそんな大問題を起こしているのに、のこのことお嫁に来てしまった私って、いったい 。
 バージルが私を嫌うわけよね」
 キャラウェイは顔をおおった。少佐は髪をなでて、
 「バージルさまは、あなたを嫌っているわけではないと思いますよ。
 ただ、王妃とイメージを重ねてしまって苦しんでいるのでしょう」
 「叔母は、本当に国王を裏切ったのでしょうか?あの、優しく暖かいおじさまのことを」
 「王妃の心が誰にあったかまではわかりません。でも・・・。
 王妃も・・・ 誰かにはめられたのです。
 バージルさまが王になった方が都合のいいひとに」
 はっ とキャラウェイは手をほどいて顔をあげた。
 まじまじと少佐の顔を見た。少佐は微かに笑って、
 「と、私は思っています。
 疑うとしたら、宰相のソルト、私の父のマスタード伯、海軍大佐の失脚で出世した今の大臣、それから王子自身 まあ、挙げていけばキリがないですが」
 「死んだ王子・・・第一王位継承者だった、その子供の名前は・・・ジンジャーというのではないの?」
 「・・・そうです」
 少佐は、また窓の外に目をやった。
 「少佐は、王子が生きていたらどうすると思う?」
 「さあ。そうですね、母の汚名を晴らして、奴らに復讐する」
 「・・・。」
 「ってところだと思いますけど? 姫ならどう思いますか?」
 「海賊になって海を放浪しながら、王位とは無縁にきままに気楽に生きる」
 「いいですね、それ。
 それの方がずっと素敵だ。獲物の商船に乗った金持商人の娘とでも恋に落ちて」
 キャラウェイは、緊張で体を固くした。
『ジンジャーなの?ジンジャーなのね?』
 少佐は遠い目で庭のもっとむこうを見ていた。彼の深い青い瞳は、遙か遠い海を映し出していた。
 あの時のまま、時がとまってしまったら、どんなによかっただろう。
 だが、もう引き返せない。幕はあがってしまった。
 「ジンジャー?」
 昔の名で呼ばれて、少佐は、窓の外を見ていた視線をキャラウェイに移した。
 「やっぱり、あなたはジンジャーなのね? 生きていたのね?」
 キャラウェイは涙のたまった瞳で見つめ返した。
 少佐は目をそらして、
 「きままに気楽に生きるなんて、無理でしょう。港の宿で刺客に襲われたり、船に火をつけられたり。どこまで逃げても殺し屋が追ってくる。まだ子供の時に、まだ暖かい母親の死体と対面するハメにもなる」
 「・・・。」
 「私はあの火事の晩、背中の傷が悪化して入院させられていました。そのために助かってしまったわけです。
 海賊船のみんなは死にましたから。ワイルドヒースも例にもれず」
 ワイルドヒース。優しくて力づよい、海の男。暖かく厳しいひとだった。
 キャラウェイは彼の為に涙を流した。
 「育ててくれたワイルドヒースを失い、仲間も失った私は、敵の中に飛び込んで真相を究明する決心をしました。
 私は、マスタード伯爵に、『ジンジャー』であることを武器にして近づきました。ソルト宰相を疑っている振りをして。復讐したいので手を貸してほしいと持ち掛けたのです。 伯爵はソルトと敵対しています。彼は私を掲げて王位を奪い取る計画を企てました。彼は宰相として、この国を動かしたがっています。
 ま、本音は、私にソルトと王子を殺させて、私のことも『自分を王子だと思い込んでいるイカレた男』として処分し、自分が王位につくつもりかもしれませんけど」
 そう言って少佐は笑った。
 ジンジャーだって、船の上でもお陽さまだけを浴びている青年ではなかった。海には夜もやってくる。しかし、彼は真っ直ぐで前向きで純粋で・・・復讐や陰謀等ということには一番遠いところにいる青年だった。
 この四年の月日は、ジンジャーの表情に暗い翳りを作っていた。
 キャラウェイは、四年の間に何度も考えた。
もし、ジンジャーが生きていたら。もし、もう一度会えたら。
 今度こそ、もう腕は離さない。平民の娘になって、何もかも捨ててついていこう。また『遊びだった』、『嫌いなんだ』と言われるかもしれない。でも、自分がジンジャーを好きだという気持ちは変わらない。しがみついて、もう離れない。
 なのに。
 今、目の前にジンジャーがいる。しがみついて離れないどころか、キャラウェイはその肩に触れることもできなかった。全然違う人のように見えた。
 「見ず知らずの青年を、伯爵がよく信じたわね。あなたがジンジャー王子だってこと」 
「このアザを見せましたから」
 キャラウェイの疑問に、彼は自分のシャツを脱いでみせた。背中には、十五針の大きな傷痕。そして、左の下に鷹の形のアザがあった。
 誰との情事の時にも決して明かさなかった、少佐の背中の秘密だった。
 「でも、伯爵が信じたかどうかはわかりません。使い捨ての駒と思っているだけかもしれない。この計画の為に、病弱な自分の息子を処分するような冷徹な男ですからね」
 「処分・・・ ?」
 「伯爵からは、本物のジャスミンは学校で死んだと聞きました。でも、私を息子になりすませるために、彼を始末したんでしょう」 
キャラウェイはぞっとした。
自分の子供を、野心の為に殺すなんて。
「そんな男と手を組んで あなたは、悪魔に魂を売り渡したとでも言うの?
 私の知っているジンジャーは・・・好きだったジンジャーは、そんな人じゃなかった」
 キャラウェイの言葉に、少佐は眉を寄せて微かに笑った。
 「あなたジンジャーは火事で死にました。今の私はもう別の人間です。
 そう。そのつもりで生きてきました。
 王子のところに、あなたがいつか嫁いで来るのはわかっていた。できれば、結婚式の前に全部終わらせていたかった。でも、国王の病状のせいであなたは早く入国し、再会することになった。ジンジャーだった私を知っているのはあなただけだ。
 でも、自信はあったんです、絶対バレないって。
 四年もたっていたし、一緒にいたのはたった三日間だ。人の顔なんて、さほど鮮明に覚えているものではない。それに、私は成人してだいぶ顔が変わったし、顔も変えていたので。
 奥歯を左右上下四本抜いて、骨格を変えました。髪は、染め粉で黒く染めてるんです。眉も黒く描いてます。
 絶対わからないと思っていたのに。いえ、あなたが私のことを覚えているとさえ思っちゃいませんでした」
 少佐はそう言ってため息をついた。
 「ジンジャーに似てるなあと思っていただけよ。確証なんてなかった。今、背中を見るまでは」
 ジンジャーに似ているから少佐に魅かれたのか、少佐自身に魅かれたのか、キャラウェイにもわからなかった。ただ、今ここで訥々と喋るこの男を見ていると悲しくなった。
 「もっと早く話していればよかったと後悔しています。
 あなたが不審に思って私のことを調べたりしなければ、マスタード伯はあなたを殺そうなんてしなかったでしょうからね」
 「あの刺客は、伯爵の手のものだったの!?」
 刺客の言葉を鵜呑みにして、バージルの部屋に怒鳴り込んだ。ご丁寧に、彼がキャラウェイを殺そうとする理由まで挙げてみせた。彼が激怒するはずだ。
 「バージルに悪いことしちゃった」
 「だから止めたのに」
 キャラウェイは、むっとして少佐をにらんだ。だが、すぐにスクスク笑い出した。
 「バージルと私は、よほど相性が悪いんだわ」
 「私と王子も、悪そうです」
 「バージルに、国境付近の辺境地帯に飛ばされちゃったのよね」
 「仕方ないですよ、任務ですから。
 三日以内に出ていけって言ってましたね。キャラウェイさまの結婚式、見たかったですけどね。母も着たウエディングドレスを着るんですね」
 母・・・。
『そうか、ジンジャーは私のいとこになるのね。おばさまの息子だもの』
 結婚式。
 覚悟はしていたけれど 。
 あのバージルの妃になるのだ。
 「私、こわい。バージルと結婚するの。
 結婚したあとも、ちょっとしたことでムチで打ったり殴ったりするのかしら」
 「キャラウェイさま 」
 「結婚式にはさらってくれるって言ってたくせに」
 キャラウェイはジンジャーをにらんだ。
 ジンジャーは肩をすくめて、
 「王子の妃をさらったら重犯罪ですよー。極刑でしょうねえ。
 でも、言わせてもらえば、商人の娘だなんて、最初に嘘をついたのは姫の方です。バージルのいいなずけだと知っていたら・・・」
 そこまで言って少佐は言葉を止めた。好きにならずにすんだとでも言うつもりなのか。この鮮やかな娘を。
 だったら、今はどうなんだ。王子の妃になる女とわかっているのに。なぜこんな関わり方をする?なぜ放っておかない?
 「私が王になったら、あなたを妻にと望むことは許されるかもしれないが・・・ 。
 でも、私は、バージルを殺して王位に着きたいとは思わないし。
だいたい、バージルが殺されるのを、姫が望むとも思いません」
「当たり前だわ。
・・・そうね。ジンジャーは死んだと思っていたのですものね。
 また会えてうれしかった。
 生きていてくれた。それだけでいいわ。
そう、思うことにする。
 今はまだちょっと無理だけど、近いうち、そんな風に思えるように」
 「・・・キャリー」
 少佐は懐かしい呼び名でキャラウェイを呼んだ。その響きにキャラウェイの胸は熱くなった。
 「あなたは辺境へ発ち、私はバージルの妃になる。
 お別れね。
 力を尽くして私を守ってくれた。御苦労でした。心から感謝しています」
 本当は、泣いてすがりつきたかった。だけど、そんなのはジンジャーを困らすだけだ。キャラウェイは毅然とした態度で礼を述べた。
 彼もマスタード少佐の口調を崩すことなく、淡々と言った。
「挙式の時に護衛ができないのが、心残りです。
 ドレスの下に鎧なんてつけるわけにいかないし。心配なんですけどね。
 短刀くらいは隠して持っていた方がいいかもしれません」
「式の時に、何かが起こるっていうの?」 
「わかりません。
 ただ、人が多くて警備がしづらい。狙われるのはそういう時です」
 「・・・。」
 「どうか、ご無事で。
 辺境から姫の幸せを祈っています」
 キャラウェイは手の甲を差し出した。ジンジャーはひざまづいてくちづけした。
 「ジンジャー・・・ 」
 「さて。パセリどのにドレスを持ってきてもらいます。おとなしく待っていてくださいよ」
 「ジンジャー、あなた危険なことを計画してるんじゃないわね?」
 「私は生まれた時から危険だらけでしたよ。
 さ、これから後は、ちゃんと『マスタード少佐』と呼んでくださいよ」
 「でもジンジャー、命を粗末にしないと約束して」
 「・・・『マスタード少佐』!」
そう指摘して口許だけで笑うと、ジンジャーは部屋から出て行った。廊下の床が軋む音が、キャラウェイの耳に悲しく響いた。


☆ 十七 ☆

 ドレスを着替えたキャラウェイが部屋を出ていくと、ギギッ・・・と寝室のドアが開いた。
「キャラウェイは帰ったよ。出てきていいよ」
 ジンジャーの言葉に、姿を現した男。顔の半分に火傷の跡。首から肩にかけても無残な跡が残っている。
 だが、トレードマークのこのシャツ。白と黒のゼブラプリント。
 「あの時の娘がキャラウェイ姫だったなんてねえ。ま、年月がたって少し色っぽくなったんじゃないの」
 「そうかなあ、オレにはあまり変わらない気がするがなあ」
 「坊やが色々言うようになったもんだわと思って聞かせてもらってたわよ」
 女言葉のゼブラは、くくっと笑いながら勝手に椅子に腰かけた。ジンジャーは赤くなって、何か反論しようと口を開いたが、やめた。無愛想な口調でいきなり本題に入った。
 「で、頼んだ、パブリカ医師が出している薬の中身はどうだった?」
 ジンジャーが身を乗り出すと、ゼブラも声をひそめて、
 「まず、バージルがもらってる精神安定剤なんだけど。
 大量のカフェインとあと麻薬が少量含まれていたわ。彼のイラつきがひどいのは、この薬のせいでしょうね。
 バージルは中毒一歩手前ってとこじゃないかな?
 王の薬は、カフェインとビタミン剤だったわ。毒薬のたぐいではないけれど、心臓が弱っている人に適さないビタミンもあるのよ。カフェインはもちろん、いいわけないわね」
 「そうか、やっぱり」
「それから、ローズマリー王妃の家庭教師は、キャラウェイのと同じ、ローズヒップって貴族のインテリ女がやっていたの。例の手紙の筆跡を王妃のものだと鑑定した女。
 今、人を使って彼女のことを調べているわ」
 「人に知られないよう、慎重に頼むよ」
 「まあね。でも、時間もそうそうは無いのよ」
 「マスタード伯と側近のオルガノに何か変わったことは?」
 「まだ動きはないわ」
 「何かやらかすとしたら、オルガノの指揮によるだろう。要注意だな。
 オルガノはマスタード伯の片腕だ。悪事の影に彼の姿がある」
 「あたいがあいつを初めて見たのは、港でだった。あの火事の後。
 船の修繕の為に、港で水夫を数人頼んだのよ。そいつらが火をつけたのをあたいは見たわ。命からがら逃げて助かった後、あの水夫たちと酒場でいるところを見たの。
 水夫が受け取っていたのは礼金だったのでしょうね。
 あたいは水夫たちをつけたのだけど、人気のない街角に来ると、彼らはさっきの男に刺されて殺された。礼金も取り戻されていた。あたいが物陰で見ているとは知らずにね」
「火事がただの事故ではないと思っていた。
オレの為に、罪のない仲間たちも巻き添えを食ってしまった」
 ジンジャーは、肩を落としてうつむいた。 
「オレがもっと早く殺されていれば、シルバーブルー号を巻き込まないでもすんだだろう。赤ん坊の時、獄中の生活で衰弱して死んでてもおかしくないのに。
 なんで、ここまで生き残ってしまったのかな」
 ゼプラは、ぽん、とジンジャーの肩を叩いた。
 「おかしらに、まだやるべき事が残っているからに決まってるでしょ。
 ほら、うじうじ悩まないの」
 ジンジャーは「別にうじうじなんて」と口をとがらした。
 「ふふ、そうして拗ねていると、子供の頃のまんまだわね。初めてワイルドヒースに連れられて、船に乗り込んできた、あの時のまま。
 で、王子に辺境に飛ばされたわけだけど、どうすんの?」
 「とりあえず明日ここを引き払い、辺境に向かうフリをする。
 挙式までは、ゼブラの隠れ家に居させてくれないか?」
「OK」

 次の日の夕方に、ジンジャーは屋敷を出ていった。
 「この足で城に行って辞令をもらって、そのまま行きます。
 未熟な護衛隊長でありましたが、何事もなく任務を終えられましたのは、キャラウェイさまのご協力のおかげと感謝しております。 バージルさまと末永くお幸せに」
 キャラウェイに型通りの挨拶を残して、さっさと出て行ってしまった。
 メイドたちは門まで見送って、泣いたり抱きしめてもらったり、別れを惜しんでいるようだった。キャラウェイは、部屋の窓からその様子をぼんやり見ていた。
『お姫さまなんかに生まれて、ソンしちゃったな』
 明日はドレスのお直しとベールの試着、それから式次第の説明を受けて、あさっては式のリハーサルと式辞の暗記。しあさっては・・・ 。
『 あーあ。』
 結婚式まであと五日。

 バージルは、人の気配で目を覚ました。
 ここ一、二ケ月寝付きが悪く、段々ひどくなっていた。眠りが浅いので、微かな気配でも目が覚めたのだった。
 ベッドの上で目だけ動かし、体を動かさずに部屋の様子をうかがう。
 部屋の隅の椅子に、誰かが座っているのがわかった。人影は、バージルに危害を加える様子も、部屋のものを漁るようすもなく、椅子に座ったまま動かない。
 バージルは枕の下に隠してある短剣にゆっくり手を伸ばし、それを掴んだ後、
 「何者だ?」
 と、静かに声をかけた。影はゆっくりと立ち上がり、バージルのベッドへと歩み寄った。
バージルも上半身起き上がり、燭台に灯りをともした。
 「こんな形でお伺いした無礼をお許しください。私は丸腰です。武器は持っておりません」
 灯りが影を照らし出す。
 「マスタード少佐。もうとっくに国境へ出発したはずでは」
 マスタード少佐は、バージルを護衛する兵隊の制服を着ていた。それも一番下っ端の。 
「実は、こうして城に紛れ込んでおりました。別の隊の下の者は、私の顔など知りませんからね」
 白っぽい金髪と眉。黒髪と黒くりりしい眉の時とは随分印象も変わる。
 「王子にどうしても聞いていただきたい話があって参上しました」
 少佐は、マスタード伯爵が、バージル王子とソルト宰相を裏切ろうとしている計画を話した。
 「確かに、それは無いことでいあるまい。しかし、息子であるおまえが、わざわざ危険を侵して父親の謀略を伝えに来るかね。
 どこまで信じていいものやら」
 「父に罪を侵させたくないので 等と言ってもますます嘘くさいですね。
 彼は本当の父ではありません。もっと言えば、育ての父親の仇であります」
 「・・・?」
 バージルは疑わしそうな目でマスタード少佐を見ていた。手にした短刀を握り直し、いつでも鞘から取り出し、切りつけることが可能なように準備した。
 「仇討ちのために、マスタード伯の陰謀をバラして失脚させようというのか。
 そこまで策を弄さなくても、今まで親子として側にいたのだから、寝首をかくくらい簡単だったろう。
 いや、なんで、マスタード伯はおまえを息子と偽っていたのだ?」
 「伯爵が私を息子にしたのは、駒として利用できると思ったからです。私の背中には、鷹の形のアザがありますから」
 バージルは絶句した。
 マスタード少佐は、軍服を脱いで、王子に背中を向けた。
 背中に大きな傷、そしてその下 背中というより脇腹ちかくに、確かにローリエ家の紋章である鷹の形のアザがあった。
 「おまえは ジンジャーか。生きていたのか」
 「母もワイルドヒース海軍大佐も無実です。
私は間違いなく国王の息子。二人は無実の疑いで殺されたのです」
 「今までにも、贋物のジンジャーがたくさん現れたよ。焼印や入れ墨で鷹のアザまがいを作ってね。彼らはすぐウソがばれて処刑されたがね」
 「王子、これに見覚えは?」
 少佐は、大きなエメラルドのはめこまれたブレスレットを差し出した。王子はそれを手に取ると動揺した。
 「これは、死んだ母の形見の。そうだ、ローズマリーにあげたんだ」
 バージルの記憶が蘇る。
 『おかあさま、もうすぐ赤ちゃんをお産みになるの』
 『そうよ、バージルの妹か弟ができるのよ。
 今は安静にしていなきゃならなくて、バージルと遊べないの。ごめんね』
 『ううん、おかあさまこそ、大変なのでしょう?
 これを差し上げます。私の母のものです。母の国の言い伝えで、この宝石を身につけると、無事に子供が産めるのだそうです』
 『まあ、ありがとう。出産まで借りておくわ』
 『いえ、さしあげます。私が持っていても仕方ない。出産のお守りなんて』
 バージルは笑って言った。
 ローズマリーはブレスレットを押し戻し、『でも、おかあさまの形見なのでしょう? 早く亡くなって、あまり思い出も残っていないと聞きました。大切になさい』
 『いえ、もらってください。今はもう、私のおかあさまはローズマリーひとりだと思っていますから』
 涙ぐんだローズマリーの顔を、今も覚えている。
 大好きだった。だから、裏切られた怒りも大きかった。
 「こんなもの、汚らわしい!」
 バージルは、ブレスレットを床に投げつけた。
 「ひどいことするなあ。私にとっても、母の形見なんですけど」
 少佐はかがんで拾い上げると、制服をまとい、ポケットにそれをしまった。
 「で、おまえの望みはなんだ。第一王位継承権のある正室の王子の座か。
 閣議は認めんぞ。
 ローズマリーは不義密通で投獄され、裁判の前に脱獄して逃げたのだ。罪を認めたようなものだ。妃として不適当な女として、あの結婚は無効とされている。おまえがたとえ本当に国王の息子だとしても、正室の息子ではなくなっているのだ。立場としては、私と変わらん。正式な妻でない女から産まれた息子だ」
 「私の望みは、母の濡れぎぬを晴らすこと。王位になど興味はありません」
 「濡れぎぬだと?では、申し開きもせずに、なぜ逃げた?」
 「投獄中、食事は毒入り、窓からは毒矢が吹き込まれ、天井からはポタリと毒グモが落ちてくる、という状態だったそうです。ワイルドヒースの方も同じでした。
彼は陰謀の匂いを感じとり、母を連れて逃げ出したのです。今は逃げても、いつか汚名を晴らすつもりで」
 「ふざけるな。そんな話を信じると思うか。いったい誰が、そんな陰謀を企てる必要が・・・!」
 少佐は黙っていた。沈黙して、王子が自分で答えを見つけるのを待っていた。
『私が王位についた方が得な人々、か・・・』
 ローズマリーが何人か男児を産めば、バージルが王位を継ぐ可能性は無くなる。
 「母はずっと気にしていました。大きな城でひとりぼっちになってしまった、黒髪の男の子の事を。
 『ジンジャーにも、ほんとなら兄さまがいたのにね』と、遠い目をして」
 バージルは胸がつまり、ひるんだが、それを少佐に悟られたくなかった。
 「おまえの話は面白かったが、すべて『お話』にすぎん。証拠がない。
 そのブレスレットだって似たものが作れるだろう」
 そうは言いながら、バージルは覚えていた、
これが二人の『秘密』だったことを。
 側室のアクセサリーを正室がもらうなんて、顰蹙を買うのがわかっていたからだ。
『こいつの話を鵜呑みにはできんが、調べてみる必要はありそうだ』
「とにかく、おまえは辞令にそむき、まだ街にとどまっている。おまけに、王子の寝室に忍び込むという犯罪まで犯した。
 結婚式の日は恩赦があるから、捕まっても釈放されるだろうがな」
 バージルは立ち上がって、
 「出合えーっ!見張りは何をしている! 私の部屋に怪しい者が進入したぞ!」
と大声で叫んだ。
 少佐は肩をすくめて、出口のドアに向かった。
 「今は捕まるわけにはいきません、挙式までにやることがたくさんあるんで。
 バージルさまも、挙式の時はお気をつけください。祝いのシャンパンにだって何が入っているかわかりませんよ」
 ドアノブに手をかけながら、振り向いて言った。
 「私を脅かすのか」
 「いえ、御身の安全をお考えいただきたいだけです。
 それから、王の主治医・パプリカからもらっている薬、あれを調べた方がいいです。
 では、ご無事を祈っています」
 ぱらぱらと兵士達の足音が聞こえた。ジンジャーは急いで走り去った。
 バージルの頭は混乱していた。
 「バージルさま、おケガは?侵入者があったとのことですが!」
 ソルトが部屋に飛んできた。
 「いや、すまん、寝ぼけていた。兵士をもどせ。すまなかった」
 ため息をついてベッドに腰かけた。
 「婚礼が近いので、お気持ちが高ぶっていらっしゃるのでしょう。
 ワインでも持って来させましょう」
 「ああ、頼む」
 バージルは力なくうなずいていた。
『例の陰謀に、このソルトもからんでいたとしたら?』
 頭を振る。
『マスタード少佐の言ったことに影響されてるな。忘れなければ・・・』
 だが、枕元に置かれた粉薬。
『まあ、調べるだけはやってみるか』
 バージルは薬の包みを手に取った。
 結婚式まであと三日。


☆ 十八 ☆

 その日は、朝から、悲しくなるくらいの快晴だった。キャラウェイはため息ついた。
『教会での挙式の後、幌をオープンにした馬車で街をパレードして城へ向かうそうだから、晴れててよかったんだけどね』
 教会でドレスに着替え、時間を待っていると、バージルが控室に様子を見に来た。
 「やあ、綺麗だ。とてもいつものオテンバには見えない」
 喧嘩して階段から突き落とされて以来、バージルとは、ろくに口もきいていなかった。城で結婚式の練習をしている時も、必要最小限しか話さなかった。
 今も気まずい空気が流れている。
 おつきのパセリも、キャラウェイの顔の傷を作ったのがバージルだと聞いて、反感を抱いていた。部屋の空気は緊張していた。
 「おしろいを濃くしてもらいましたの。口許の青アザが目立たないように。いつもより厚塗りだから綺麗に見えるんでしょ」
 キャラウェイの棘のある言葉にバージルはむっとしながら、
 「そうそう、あなたのお気に入りのマスタード少佐のことで、面白い情報が入りましたよ。
 以前城で姫を襲った刺客。あなたが私の仕業だと言ってののしった、あの事件 」
 キャラウェイは気まずくてそっぽを向いた。
今は自分の早とちりだとわかっていたので。 
「彼らはマスタード家の紋がついた剣を使っていました。伯爵は、ジャスミンのしわざとして、彼を捜させているようですよ」
「捜させているって。彼は辺境へ 」
「派遣された土地が気に入らなかったのでしょうかね、いなくなってしまったんです。 王子の命令を無視して失踪するなんて、もってのほか」
「いなくなった?」
「しかも、姫を襲った疑い。ますます怪しい。
 伯爵は、こんな不祥事を起こした息子は家の恥だ、息子を捕らえて自分の手で自害させるとまで言っています」
 「マスタード少佐が、私を襲った犯人のわけないでしょう。そんなことして何の得があるのですか?」
 「助けて信頼を得ようとしたかもしれません。
 現に、彼は部屋へあなたを助けようとやってきた。なぜ、襲われていることがわかったのです?」
「それは・・・ 」
 キャラウェイに口ごもった。ここで伯爵の陰謀のことまで言及するわけにはいかない。 
バージルは肩をすくめる。
 「それとも、あなたはまだ私の仕業だと思っているのでしょうか?」
 「あ、あれは間違いです。疑ってごめんなさい」
 キャラウェイは素直に頭をさげた。バージルはふんとそっぽを向き、
 「私もそろそろ着替えをしますので、失礼します。
 では、会場の祭壇の前で会いましょう。
 練習の時のように、バージンロードで転ばないように」
 そう言い捨てて扉をしめた。
 キャラウェイはブーケを扉に向かって投げつけた。
 「バカヤロウッ!」
 「お姫さま」
パセリは困った顔をしてブーケを拾いあげた。国の為とは言え、こんなにも仲が険悪なのに、バージル王子に嫁がなければならない姫が不憫だった。姫がマスタード少佐に魅かれていることにも気づいていた。
キャラウェイは、別のことで頭がいっぱいだったが。
『マスタード伯が、ジンジャーの口を封じようとしている。
 ジンジャー、まだ街にいるの?お願い、気をつけて!』
――姫も、ご無事で――
 護身用の短刀くらいドレスに隠しておけと言っていたっけ。キャラウェイにも、何か危ないことが起きると予想しているのだろうか。

 厳粛なパイプオルガンの音が響きわたった。
 目の前の扉が開かれ、正面にみごとなステンドグラス。祭壇まで敷き詰められたふかふかのバージンロード。
 祭壇の後ろに立つ、大司教。前に立ってこちらを振り返っているバージル。
 バージンロードの両脇に立った、国の要人たちの視線の中、キャラウェイは少しずつ歩を進めた。
 『やっぱり似てるな、亡くなった王妃に』 『姪ごさんなのよね、そっくりね』
 そんな囁き声が耳に入る。
『ああ、ここの人たちは、叔母に似た私をどう見ているのかしら』
 事件を知っているのはわずかだと言う。
 だが、そのわずかな人たちは、苦々しい想いで自分を見ているのだろうか。
『おじさまは・・・?』
 祭壇の右側の高い場所に、王の玉座があった。国王は、満面の笑顔でキャラウェイを見つめていてくれた。目が合うと、頷いてくれた。
『大丈夫、おじさまが暖かい目で見ていてくださるんだもの』
 バージルの隣に立つと、大司教が二人の名前を確認し、最初の祈りを行った。
 流れとしては、祝いのシャンパンを飲み干し、誓いの言葉を二人で述べ、長めの祈りの後にキャラウェイの顔にかかったベールをはずす。最後の祈りが完了すれば、式は終了だ。
時間にして三十分くらい。
 この短い間に、ジンジャーは何が起こると心配していたのか。
 それとも、ジンジャーが言っていたのは、街のパレードのことだろうか。あれは、矢の名手なら簡単に二人を襲うことができる。

 目の前に、グラスが運ばれてきた。
 まず、バージルが手に取る。それをキャラウェイに渡す。反対の手でキャラウェイがもう一個を取る。それをバージルに渡す。
『キャラウェイ、私から少し離れていろ』 前を見たまま、キャラウェイにしか聞こえない小さな声でバージルは囁いた。
『えっ!?』
 大司教がシャンパンをあけた。
 パーン!
 明るい高らかな音。
 「バージルーッ!」
 バージルは祭壇に倒れ込んだ。背中に矢がささっていた。
 バージルの手からグラスが落ちて、粉々にくだけた。

 物音ひとつしなかった式最中の教会に、大勢の悲鳴が響いた。
 駆け寄る宰相と大臣たち、警備兵士。貴族たちは立ち上がって悲鳴をあげ、騒いだ。
 キャラウェイもドレスをまくり上げ、護身用の短刀を引き抜いて次の攻撃に備えた。
 ソルトが叫んだ。
 「犯人を捕らえろ、まだ教会内にいるはずだ。扉を閉鎖させて。
 警備兵、医師のパブリカを呼んで来い!」 さすがにてきぱきとした処置だった。
 その時、国王が、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
 「なんてことだ。バージル」
 そして更にゆっくりと床に崩れ落ちた。
 「王が倒れた!早く医者を!」

 二階の柱の影に弓矢を携えた暗殺者がいるはずだった。マスタード伯は、彼を逃がす為にこっそり二階へ上がった。この場所へ招き入れたのも伯爵だ。警備が厳重で普通なら入れない。マスタード少佐に顔と背恰好のよく似た暗殺者を仮面を付けて待機させた。大勢の人間に目撃させてから逃げてもらうことになっている。
 「さあ、こっちだ。なるべくみんなの目に止まるように、派手に逃げるんだぞ。
 私が、『ジャスミン』と名前を呼んだらスタートだ」
 暗殺者の後ろを向いて退路を指差すマスタード伯。その背中に、チクリと矢先の感触が走った。
 「父上、これは本物の矢です。手を挙げてください。むやみに動かないように。
 王子に撃ったのは、先に粘土のついた贋物ですけど」
 「なに?」
 マスタード伯は背中のジンジャーの声に硬直した。
 バージルは、ゆっくり立ち上がると、自分で背中の矢を抜いた。
「念のため、正装の下に防具をつけてもら
いましたけどね。当たったら血が出るように、ブタの血がしこんであるんです。父上に、暗殺が成功したと思わせておくために。
 そうして暗殺者のいる場所に一目散にいらっしゃったのは、あなたが誘導したからですね。しかも、逃がそうとしていた。あなたが王子の暗殺未遂の首謀者だ」
 マスタード伯はがっくりと肩をおとし、その場にへたりこんだ。
 「バージル!無事だったのねっ!」
 「キャラウェイ、君にはその短刀が似合いすぎる。頼むから、振り回さないで早くしまってくれ。
 わが兵士たちよ、側近のオルガノを捕らえよ!医師のパブリカを連れて来た兵士、彼を拘束しろ! いや、その前に、最後の仕事をさせよう。
 父上を診察してやってくれ」

 マスタード伯は、ジンジャーに外見が似た暗殺者を雇い、たくさんの人に目撃させて、ジンジャーを犯人にしたてあげるはずだった。
そして乱心した息子は、『自害』するか、父の部下によって処刑されるのだ。ジンジャーは口封じの為に殺されることになっていた。 そのそっくりさんは、当の本人に当て身をくらわされて柱の影でのびていた。意識を取り戻すと彼は依頼人が伯爵であることを簡単に白状した。

 「あの恋文は、『国王に向けて』書かれた文章です」
 裁判が開廷され、ローズヒップ女史が証言台に立った。
 「授業で、正式な手紙の練習をした時書かせました。わざと曖昧になるよう添削して、王妃の便箋に清書させて。それをマスタード伯に渡しました。
 マスタード伯に脅迫されていたんです。父母を人質にとられて・・・。
 でも、その手紙が、陸軍と折り合いの悪い海軍大佐・ワイルドヒースの部屋で見つかった時、彼の企みがわかって。でももう、後にはひけませんでした」
 マスタード伯は、ローズマリーと彼女の息子を排除することによって、王の叔父である自分が第一王位継承権を得れると確信していた。そこでこの計画を実行したのだ。
 しかし、ソルトの働きによって、バージルの若さと頭脳が認められ、彼が次の王になることに決まってしまった。
 そして十数年。彼は、起死回生のチャンスをうかがっていた。
 ある時、思わぬことに、始末したはずの王子のジンジャーがマスタード伯の前に現れる。
ジンジャーは、自分たちをはめたのは、バージル王子と宰相ソルトたちだと思い込んでいた。彼の頭の中には復讐のことしかないようだった。
 この駒は利用できる。そう思い、飛びついた。ジンジャーの罠とも知らずに。
 「マスタード少佐は、確かにジンジャー王子だ。
 鷹の形のアザと、王子しか所有しえないアクセサリーを確認している」
 バージルが証言した。
 マスタード伯は、バージルが結婚して世継ぎを得る前に、暗殺することを考えていた。そして、今日、この計画を実行しようとしたのだった。また、マスタード伯はパブリカ医師を使って、王や王子の薬に健康や精神に悪い影響を及ぼすものを処方させていた。国王には、毒を盛らなくても、偏った栄養剤を与えればよかった。そうして王はかなり弱っていったのだ。

 「バージル。おじさまは、あなたを愛していたからショックだったのよ。
 一命はとりとめたのだから、そんなに自分を責めないで」
 キャラウェイの言葉に、バージルは唇をかんだ。
 王は、もう寝たきりの病状になってしまった。王位も退位し、バージルに譲って引退することになった。南の気候のよいところで静養するため、近々城を出ていく。
 「あんな芝居を計画したために、父上は倒れられた・・・」
 「バージル 」
 冷たくて無愛想だけど、本当は寂しがり屋で愛に飢えているバージル。
 キャラウェイは持っていたハンカチをバージルに手渡し、そっと手を握った。
 「ありがとう」
 かすかに彼が笑った。
 『首謀のマスタード伯、死刑。共犯の側近のとオルガノとパブリカ医師、無期懲役。ローズヒップ女史、無罪。王子を狙った暗殺者には、二十年の島流しを命ずる。
 以上!」
 裁判長の判決がくだされた。
 傍聴人たちから拍手が沸き起こった。


☆ 十九 ☆

 「バージル王子・・・ じゃなかった、もう国王さまなのね。
 挙式はやりなおさないのですか?」
 ブルーベリーの屋敷でくつろぎながら、バージルは恋人の質問を受けた。
 彼はニヤニヤ笑っている。
 「やりなおすさ。だけど、今度の花嫁は君だ。
 私はもう王だからね。結婚相手は自分の愛するひとを選ぶ」
 「あら、キャリーのこと、かなり気に入っていたくせに。
 わかるのよ。バージルとは長い付き合いですから」
 ブルーベリーはふふふっと笑った。
 バージルは困った顔をしたが、
 「残念ながら、キャラウェイの心は私にはないのでね」
と肩をすくめた。
 「彼女は、来週、ターメリックへ帰国することになったよ」

 バージルの戴冠式も無事行われ、マスタード伯の処刑もすんだ。
 閣議で問題にされたのは、マスタード少佐・・・ジンジャー王子の存在だった。
 彼は、王の正室の息子。当然バージルより継承権は上だ。
 ところが、老人達がもめている間に、「オレ、王様なんて、ヤだからね」と言い残してどこかへ消えてしまった。
 キャラウェイにも、一言も何も言い残さずに。どこへ行くとも。これからどうするとも告げずに。
『どうせ、私なんて、そんな存在だったんだわ・・・』
 
 元国王は、今、南地方の気候のよい病院で静養している。
 「私は傀儡の王だった。ローズマリーの無実を信じながら、何も反論できずにいた。
 彼女の無実が証明され、ジンジャーも生きていたことはとても嬉しい。
 王位になど未練はない、引退して静かに暮らすのが合っているよ」
 出発する時、王はバージルにそう言い残した。

 港の風は心地好かった。
 銅鑼が鳴る。船が動き出した。
 甲板の上にキャラウェイは立っていた。少女のように髪を下ろして、風になびかさせていた。
 「キャラウェイさま。
 奇遇ですね。お帰りもまた、私が指揮する船になるとは」
 「言わないでよ、タバスコ少佐。帰りなんて無いはずだったんだから」
 キャラウェイは子供みたいにふくれた。
 「バージルとブルーベリーは愛し合っていて子供までいるんだし、私が引くのが一番いいでしょ。でも、別に、そのことで落ち込んでるわけじゃないのよ」
 消えてしまったジンジャー。身勝手な奴。 やっぱり私のことなんて、なんとも思ってやしなかったんだ。
 ターメリックへ帰ったら、二度と会える機会はないだろう。
 いや、国へ戻ったら、出戻りと後ろ指さされながらずっと城にいて歳を取っていくか、再び政略結婚させられるかのどちらかだろう。修道院に入るという道もあるが。どれもぞっとしない。
 「ねえ、タバスコ少佐、ローリエ国の海軍は女は入れないの?」
 「ダメですよ。妙なこと考えてないで、おとなしく国に帰ってくださいよ。姫を無事に送り届けるのが私の仕事ですから」
 「あーあ、ここの国の軍人は、みんな任務一筋の唐変木ばかりね」とキャラウェイはため息をつく。

 船首の方が少し騒がしい。若い水夫たちが仕事を指示され、はしゃいでいるようだ。
 「新しい水夫たちが何人も入ったのね」
 「海賊との戦いで、亡くなった者もいますし、怖じ気づいて退軍した者もいます。
 人数不足だったので少し補充しました。
 まだ、教育が行き届いてないので、姫に失礼があったら申し訳ありません」
 新米たちが、甲板のモップ掃除をやらされていた。
 ぶつぶつ言いながらモップを握る者が多い中、
 「そうれ、行くぞ!」
 一人だけが元気に走り出して、甲板のモップがけを始めた。
 「少佐もお姫さんも邪魔だよーん」
 「きゃあ!」
 モップの水がキャラウェイのドレスにはねた。
 「こらこら、姫に失礼があってはなら・・・ん・・・」
 叱るタバスコ少佐の声が止まった。
 キャラウェイの瞳はもう涙でいっぱいになっていた。
 「へへ、ごめん。綺麗なドレスが汚れちまったかな」
 後ろに結んだ銀色の髪。海より深いブルーの目。何よりこの笑顔、この口調。
 クールな陸軍少佐の面影はない。キャラウェイのよく知っている、懐かしい海の男だった。
 「ジンジャー!」
 キャラウェイは水夫に抱きついた。わんわん子供のように泣いていた。
 「困ったな。海軍少佐さま、なんとかしてくれよ」
 タバスコ少佐は苦笑して、
 「知るか。自分でなんとかしろ。いったい誰がこんな奴を雇ったんだぁ?」と、肩をすくめて船室へ降りて行ってしまった。気を効かせたつもりなのだろう。
 「キャリー、ほら、苦しいから離れてってば。
 オレを殺す気かぁ。
 オレは殺されそうになるのは、もうこりごりなんだから」
 キャラウェイは吹き出した。
 そして、少し離れてジンジャーをまじまじと見つめた。
 「本物、よね?」
 「背中の証拠を見せましょうか、夜になったら寝室で」
 「相変わらずね」
 キャラウェイはまた笑った。
 「キャリーは船の上の方が綺麗だな。城の中よりお陽さまに照らされてる方が」
 それはジンジャーも同じだった。肩の荷が降りたせいもあるだろうが、船での方が十倍も生き生きして見えた。
ジンジャーは、片手でモップを持ったまま、もう片方の手でキャラウェイを引き寄せてくちづけした。
「ジンジャー・・・」
「今は新米水夫だけど、オレは出世してみせるよ。
 平民の肩書のままで、ジャスミン・マスタード少佐を演じてた時の年齢になったら、ほんとに少佐になっててやるから。
 オレにさらわれてみませんか、お姫さま?」
 キャラウェイは、涙の粒を飛ばしながら、何回も何回もうなづいた。

 「こらー、新米!何さぼってるーっ!」
 水夫長が怒鳴っている。
 「いけね。・・・じゃあな」
 ジンジャーはモップを抱いて走り出した。
 背景には百八十度の海と、広くひろがる空。
強い日射しにジンジャーの髪がまぶしく光っていた。
 鴎がマストのそばを横切る。
 この、揺れ。わくわく心踊る、ゆらぎ。
 囁くような波の音。
 キャラウェイは海にいることに、幸せを感じていた。
 海の腕の中に、自分が抱かれていることに。

< END >

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