隠れ家でコーヒーブレイク  前編




☆ はじめに ☆

都の商業統計調査(平成4年10月調査分)によると、都内の喫茶店は10年間で半分の店舗数に減少したそうです。
昭和57年には20,241店あった喫茶店が、今回の調査では10,651店に。新聞には、地価高騰が直接の原因であるらしいと書かれていました。
でも、間接的には、人々が「お茶しに行く」という精神的なゆとりを無くしてきていることも一つの原因ではないかと私は思います。
喫茶店で待ち合わせしてから食事に行くとか映画に行くとかいうのって、今の感覚では無くなっている気がします。直接目的地で待ち合わせするみたいネ。その方が、時間もお金もかからなくてすむ。合理的で経済的。きっとそんな感じでしょう。

深野義和さんの「ガラスの隠れ家」という曲は、死んだ恋人とよく待ち合わせをした店が無くなってしまう話でした。喫茶店が半分に減ったということは、自分の好きだった喫茶店の2分の1は無くなっているってことです。うーん。

ところで、皆さんは、自分が初めて一人で喫茶店に入った時の事を覚えていますか?女性で、一人で喫茶店に入る人種と入らない人種がいる。人種、という少し差別的な言葉を使ってしまったけれど、それほど違うタイプの女性であると私は思います。
たぶん、一生一人で喫茶店に入ることなんて経験しない女性がいるんです。理由は、「一人で喫茶店になんか入れない」から。
それですんでしまう人生を、少しうらやましいと思う時があります。
すぐに考え直しますけどね。

この小説は、主人公の少女が、初めて一人で喫茶店に入るところから始まります。
さあ、あなたもこの物語の扉をあけて、店の中へ入ってみてください。


< 1 >

街は、黄昏につつまれていた。
雨が降りそうで降らない空。
地元の駅に降り立った歩勇美(ふゆみ)は、大きな紙袋を置いて、ふーっとため息ついた。履き慣れないパンプスの、爪先も痛い。
−− ああ、もう、足の指が潰れそう。手の指がちぎれそうっ。なんて重いのっ。−−

いっそ、ちぎれてしまえばいい。そしたら自分のみじめさにもっと拍車がかかる。

風が、シャンパンでほてった歩勇美の頬をなでた。
−− 少しお酒醒まして帰らなきゃ。−−

肩につくオカッパは、今日は紺のレースのリボンで束ねられていた。
白いレースの襟に水色のフォーマルワンピース。白いハイヒール。
パール系のアイシャドウとピンクの口紅。目のぱっちりした綺麗な顔立ちなのだが、垢抜けてないというか、まだ色気がないと言うか。
少女っぽさの残る彼女には、あまり似合っていなかった。
風でジョゼットの布地が、汗ばんだ肌にぺたっとくっついて不快だった。
本当なら、5月のこの時期は、一番好きな季節だったのに。
本当なら、この風をどんなに気持ち良く受けていたことか。
自虐的になっていた歩勇美は、駅を出ると家とは反対の方向へ歩き出した。

2人でよく行った思い出の店へ。
−−もっとみじめになればいい。なんて可愛そうな私。−−

駅からそう遠くない、そこそこの規模の商店街の、店舗と店舗の間に間口の狭い喫茶店がある。気をつけて歩かないと通り過ぎてしまうほどだ。
地味な茶の木枠の曇りガラスのドア。
『珈琲画廊』と目立たないように出された看板。
あんなに通ったこの店も、秋から来ていなかった。半年以上になる。
−−ひとりで入るのなんて、初めてねえ。−−

唇の端で笑うと、ゆっくりドアを押した。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
チャリン。
ドアを開けると、風鈴の音がした。
暗くなく、明るすぎることもなく、広くないが圧迫感がある狭さではなく、雰囲気のいい店だった。
「やった。正解だったな。 ここでいいだろ?」
明彦の言葉に歩勇美もうなずき、2人向かい合わせにテーブルについた。
中3の歩勇美は、母親とパーラーでお茶を飲んだことはあっても、喫茶店に入るのなんて初めてだった。首を動かさないようにして、目だけをきょろきょろと動かしていた。
ドアをあけると正面にカウンター。5つほど席がある。壁に沿ってテーブル席が4つ。
白木の壁、黒のテーブルと椅子。
壁には何点かモノトーンの精密なペン描きのイラスト画が飾られていた。
「いらっしゃいませ。」
マスターひとりでやっている店らしく、カウンターに居た彼がメニューと水を持ってきた。口髭と黒縁のメガネのせいで年配だと思ったが、近くで見ると若いのがわかった。大学生の明彦より少し上くらいだろう。生成りのシャツに無造作にジャガード織りのベストを羽織っいた。
左手でグラスを置いて、左手でメニューを差し出した。
「アメリカンと 歩勇美ちゃんは?」
「あ、私も。」
「じゃあ、アメリカン2つ。」
「かしこまりました。」と、メニューを受け取った右手の動きに、歩勇美ははっとした。肘が普通に曲がらないのだ。手首と指の動きも不自然だった。
−− この人、右手が不自由なんだ。−−
明彦も気づいたようだったが、それには触れずに、
「オレも初めて来たけど、歩勇美ちゃんが初めてのデートで入った店として、合格だったろ?」
と笑った。彼は、クリーム色のトレーナーがよく似合う、さらさらの髪のさわやかな青年だった。率直そうな瞳と、意志の強そうな唇を持っていた。
「うん、明彦先生、センスいい。
 このイラストもすごく素敵だね。『珈琲画廊』って店の名前も素敵。」
本当はどんな店でも構いはしなかった。明彦にどこかに連れて来てもらえるなんて夢のようだった。
コーヒーが運ばれて来ると、明彦は、
「大学に受かった時は、ビールにしような。でも今回はコーヒーで乾杯。
 希望高校合格おめでとう。」
と言ってカチンと軽くカップを合わせた。
「家庭教師様のおかげですだー。」と拝む真似した歩勇美。
歩勇美の家は病院だった。一人っ子の歩勇美は、医者になるか、医者の婿をとるかしなくてはならなかった。
しかし、そう言われる前から、父親を見て尊敬していた歩勇美は、自分も医者になれればなあと思ってはいた。ただ、無理だろうなと諦めてもいた。
でも、初めから恋愛や結婚の相手をせばめてしまうのは、中学生の歩勇美にとってもあまりにも悲しかった。たとえ無理だったとしても、トライしないで諦めてしまうのはイヤだった。
家庭教師として歩勇美の前に現れた明彦は、特別のひとのように見えた。
医大生の明彦は、かなり親身になって勉強を見てくれた。
半信半疑で勉強していた歩勇美に『意志の力で夢は叶うよ』と熱心に説いた。
勉強以外でも、友達との喧嘩や母親とのトラブル等に関しても、心のこもった的確なアドバイスをくれた。
一人っ子の歩勇美にとって、兄のような存在だった。

「この店、気に入ったな。これからは、気分を変える為に、月に1,2回はサテンで勉強しようか。」
「やっと受かったのに、もう大学の受験勉強の話ですかー、センセイー。」
「今回のは単なるステップだろ。目的は医学部合格!いや、ほんとのゴールは国家試
験だけどな。 オレさえもまだゴールは先だ。はあっ。」
「私が高3の時、先生はもうお医者さんになってるよ。まだ家庭教師のバイト続けてる気なのぉ?」
「ははは、そうだな。でも、状況が許せば最後まで面倒見てやりたいよな。
 歩勇美ちゃんが合格した時の感激をまた一緒に味わいたいしなあ。
 なんとか頑張ってみるよ。無理だったら信頼できる後輩を紹介するけどさ。」
温かい明彦の一言一言が、歩勇美の心にしみた。歩勇美は幸せだった。

チャリン。
ドアを開けると、懐かしい風鈴の音がした。
「いらっしゃい。」
他に客はいなかった。歩勇美がいつものテーブルに着くと、マスターが水を置きに来た。
マスターは、歩勇美達とは個人的な話を交わしたことはなかったが、2人の会話からある程度のことは知っていた。秋からずっと来なかったのは、本格的に受験勉強に専念し出したのだろうと思っていた。しかし5月になっても来ないってことは、落ちたのかもしれないとも思っていた。
このへんに住んでいる歩勇美はいつも普段着でここへ来たし、高校生だったからすっぴんだったが、今日は水色のフォーマルワンピースを着て、少し化粧もしている。
「アイスコーヒー。シャンパン醒まして帰ろ。」
椅子の脇に置かれた、結婚式場の大きな紙袋。
「おめかしして、どなたかの結婚式ですか?」
マスターが話をしかけて来たのなんて初めてだったので、歩勇美は少し驚いた。
しかし、考えてみれば、3年間いつも明彦と一緒に訪れていた。連れのある客には遠慮し、ひとりで来た常連には話かけるのはセオリーだろう。
「明彦先生の。大きな総合病院のお嬢さんと、めでたくゴールインしたの。」
歩勇美は、マスターの顔を見ずに、グラスの氷を見つめたまま言った。
「えっ  。」
マスターは思わず歩勇美の顔を見た。歩勇美が明彦を好きなのは、はたで見ていてもわかった。(もちろん明彦本人も知っていたに違いない。)
歩勇美は無理に笑顔を作って微笑んでいた。
「超逆タマよね。将来はあの病院の院長先生よ。すごいなあ。
 お嫁さん、綺麗だった。大人の女って感じで。」

歩勇美が、兄のように思っていた明彦を「好きだ」と感じたのは、彼が故郷の話をした時だった。
「オレの故郷は九州のド田舎でさー、ガキの頃は病院へ行くのにクルマで1時間位かかった。妹がいたんだけどさ、小さい時病気で死んじまった。一瞬を争う病気じゃなかったんだけど、ちょっと具合悪いって言っても、遠いから気軽に病院へ行くなんて出来なかったんだ。クスリ飲んで寝てれば治るよ、みたいなね。それで倒れた時はもう手遅れ。
 オレは、医者になって故郷で開業するのが夢さ。まあ開業なんて金かかるから、夢のまた夢だけどなあ。」

「そうかあ。 でも、若い結婚ですね。明彦さんって、いくつでしたっけ。」
「そうでもないわよ、26だもん。」
「えっ、そうか。初めて来た時は大学生だったのに 。
 私がトシをとるはずだ。」
とマスターは軽く微笑んだ。
アイスコーヒーをテーブルに置いたマスターに、今度は歩勇美が「マスターって何歳なの?」と尋ねた。ある時期から髭は無くなっていた。年上に見せる為にはやしていたのだろうが、もう必要がなくなったに違いない。
「えーっ。私の歳なんてどうだっていいでしょう。ふゆみさんから見たらオジサンですよー。」
そう言って笑う、黒縁のメガネの奥の目はまだ青年である。
「私、大学落ちちゃったんだー。それもぜーんぶ。
 あまりの頭の悪さに、自分にアイソがつきたわ、あはは。」
「ふゆみさん 。」
明彦が婚約してからは、勉強どころではなかった。立っているだけでやっとだった。
「そんな自分を卑しめちゃダメですよ。
 医学部なんて、何浪もしてやっと入る人だって多いんだから、1年目に失敗したからってそんなに苦にすることはないでしょう。」
「うん。 でも、もうやめたの、医者になるのは。
 花嫁修行するんだ。お医者の婿もらうことにしたの。エステ行って綺麗になって、 料理やマナーの学校行って。
 お洒落もせず恋もせずに、ガリガリ勉強すんの、バカらしくなっちゃって。」
歩勇美はそう言ってふふっと笑った。マスターの目を見ずに。

「ふゆみさん達が来始めた頃、私はこの店をまかされて2ケ月くらい 新米マスターでした。まだ若かったし、接客業なんてしたこともないし。自分では今でも苦手な方だと思いますけど。」
ぼそっとマスターが話始めた。店に流れる静かなバラードのように、自然だった。
「私の右手が普通でないことはお気づきですよね。
 当時、右手はリハビリのおかげで日常生活に不自由ない程度には動くようになっていたけど、カップの手を握るとかスプーンを洗うとか、細かい作業に信じられないほど時間がかかって 。うまく持てなくてカップもよく割ってしまいました。
 苛立ったり悲しんだり。まさに悪戦苦闘の毎日でしたよ。」
そう言って静かに微笑んだ。
彼自身、お客の誰かに、いや他の誰かにこの腕のことを話すのは初めてだった。
「その手は、事故か何かで?」
マスターはうなずいた。
「バイクの事故でネ。右手の神経がいかれて、最初は肘も肩から上に上がりませんでした。手首も指も曲がらなかった。
 当時私はイラストの仕事をしていたので、職を無くしてしまいました。」
歩勇美は「遠井晴臣っ !? 」とマスターを指差して身を乗り出した。
「そうだわ、この店の壁の絵 。どっかで見たことあると思ってた。」
「 私をご存じでしたか?」
マスターは、目を細めて微かに苦笑した。まさかまだ自分を覚えている人間がいるとは思っていなかったとでもいう微笑みだった。
綿密で繊細なペン描きのモノトーンのイラスト。よくお洒落な雑誌の表紙を飾っていた。若手の新進イラストレイターだった。一時期よく彼の絵を目にしたが、そう言えばここ2,3年雑誌等でも見ることがなくなっていた。
「ケガした頃は、とてもすさんでいました。やっと食べていくメドがついて道が開けて来た矢先だったし、何より絵を描くことが好きでしたから。」
「マスター 。」
穏やかで静かなこの人が、すさんでいたなんて信じられない。どんなにつらかったことだろう。歩勇美の瞳にはみるみる涙があふれた。
「やだな、泣かないでくださいよ。」
マスターは今度は本当に微笑して、歩勇美に紙ナプキンを差し出した。
「今はね、この店で私の入れたコーヒーを飲んでなごんでいく人達の表情を見るとうれしくなるんです。
 人生の目標はひとつじゃないよね。」
言葉が、初めて、客への敬語から普通の話言葉になっていた。


< 2 >

それ以来、歩勇美はひとりでも時々『珈琲画廊』に足を運ぶようになった。
駅の向こう側。2,3分歩いた商店街の中の、小さな喫茶店。
チリリンと風鈴の音をさせて、歩勇美はいつも笑顔で入ってきた。
今まで受験のせいで外見に気を配れなかったせいか、ほんとにエステに通っているのか、それともそろそろそういう年齢だったせいか、来るたびに綺麗になっていくようだった。
友達の大学のコンパに出たり、テニスサークルに入ったりして、何人かBFも出来たらしい。
その日は、明彦の結婚式の写真を見せに来た。
「昨日家に郵送されてた。お嫁さん、綺麗な人でしょ。」
マスターの晴臣は、ミニアルバムをめくりながら、ひきつって笑顔を作る歩勇美の表情を痛々しく眺めていた。
「綺麗だけど、花嫁さんにしちゃ、少しキャバくない?ふゆみちゃんの方が清楚で可愛いよ。」
晴臣はもう、歩勇美に普通の話し言葉で話すようになった。歩勇美が友達のように話すのでつられてしまうせいもあるが、どうも気が合うらしいというのが大きかった。
「あーっ、私の写ってるの見た !? きゃーっ、やめて!すごいブスに写ってるのに。」
「可愛いよ。特にこれなんか。」
「 これ、後ろ姿じゃない。ふん、マスターの意地悪。」
「ははは。
 新郎のご友人達をしっかりチェックしてきたか?ほとんどが医者だろ?」
「あ、そうだった。しまった、すっかり忘れてた。
 親と一緒でなく結婚式に出るなんて初めてで、すごーく緊張してたのよぉ。」
帰りにこの店に寄った時は泣きそうな顔をしていた。どの写真も、明彦のために一生懸命笑おうとしていて健気だった。
「今からでも遅くない、この写真の中でいいのを目ぇつけてみれば?」
「そ、そうよね。」
「この人なんて、どう?」
「どれどれ。」と身を乗り出す歩勇美。
つるっぱげのじじいである。
「もーう、マスターったら!」
「あははは。」

家に帰ると実際に見合いの写真が積まれていることがあった。
「歩勇美、いいお話なのよ。会うだけでも。」
「ごめん、ママ、もう少し自由にさせて。」
と歩勇美は部屋に逃げ込んだ。
部屋で、明彦の結婚式の写真をもう1回開いてみる。
『妹以上恋人未満』かあ。

歩勇美が高3になる時、明彦は家庭教師をやめたいと言った。春から医師として大学病院に勤務し始める。今までもインターンの忙しい身で無理してくれていたのだ。
「うん、わかった。今までありがとうございました。」
歩勇美は泣きながらやっと言った。
「代わりの家庭教師に後輩を紹介するから。」
「ううん、先生は明彦先生しか考えられない。3年からはゼミに行きます。」
「ゴメンな。」
「先生も忙しくなるだろうけど、歩勇美の気晴らしに時々は付き合ってね。また、お茶くらいはご一緒してください。」
「よしよし、泣くなよぉ。」
明彦は歩勇美の髪をなでながら、額にキスをした。
あいまいで、残酷で、そして優しいキスだった。
せめて、ただの失恋だったなら、こんなに傷つかなかったのに。
死んだ妹の話。故郷の病院開業の夢。あれを語った時の瞳はウソだったの?
ただ好きだったわけではない。明彦を尊敬していた。後ろをついて行きたいと思って
いた。なのに 。

大病院の娘婿かあ。未来の院長先生ねえ。うまいことやったわよね。
お嫁さんも、派手な感じで遊んでそうな人だった。あんな人、先生が本気で好きになるなんて信じない。

チャリン。
「いらっしゃい。 うわ、まっくろ。」
晴臣は、『珈琲画廊』のドアを開けた歩勇美の顔を見るなりゲラゲラ笑い出した。
顔も、ノースリーブからのぞく両肩も首も、真っ黒に日焼けしていた。
「失礼ねえ。昨日沖縄から帰って来たのよ。
 はい、おみやげ。」
「えっ、ボクに?へえ、うれしいな。」
晴臣は営業用の『私』という言葉も使わなくなった。
彼はあまり愛想のある人物ではなかったが、話すと話す。そして結構面白い。歩勇美も人見知りするのだが、珍しく会話のはずむ相手だった。
それに、うんと年上の振りをしているが、たぶん明彦と同じか少し上くらい。歳が若いのがわかると、そんなに構えないですんだ。
「 なにこれ。ハブ酒 !? 」
「マスター、顔色悪くて不健康だからさあ。」
「悪かったね。今は梅雨時だから、本土の人はみーんな色白なのっ。
 ちぇっ、いいよな、プー太郎はさあ。
 誰と行ったんですかねえ。親にバラすよ。」
「女友達と3人で行ったんだよー。ほんとだよっ。
 でも、帰りの飛行機では何故か男女6人になってたけど。」
「まったく、今時の若い娘は。
 そう言えば、海なんて、もう何年も行ってないなあ。」
「この店って夏休みないの?」
「あるけど海なんて行かないよ。
 自慢じゃないけど、ボクは腕が動かないんだぞっ。片手じゃ泳げないんだ。」
晴臣は笑いながら茶化していた。
「威張ってどうする。」と歩勇美も笑った。
晴臣はもう右手のことは気にしていないようだった。乗り越えた人間だけが持つ包容力を、彼に感じることがあった。

それから数日後、歩勇美が珍しく友達を連れて来た。珍しくと言うより、初めてだ。それも女2人男3人計5人も。全員真っ黒に焼けている。
--例の沖縄のメンツだな。--
「いらっしゃい。 椅子が足りないですね、今お持ちします。」
最近歩勇美には使わなくなった接客用の丁寧な言葉を使い、晴臣はゆっくりとテーブルに水を置いて行った。
「あ、ボクらでやります。手がご不自由なようですね。」
青年の1人が立ち上がって手伝おうとすると、晴臣がむっとしたのがわかった。
「お気づかいなく。男ですから椅子くらい持ちあがります。」
やわらかい口調だったが、トゲがあった。
青年は気づかなかったようだが、歩勇美にはわかった。
五体満足な同世代の青年に対して、晴臣が何も劣等感を感じないわけがない。しかも歩勇美の連れは、親切を装ってかなり無神経だったと思う。たぶん、女性陣に対して『優しくて親切な男』をアピールしようとしたのだ。
6人はひとしきりお喋りして帰って行った。
「ありがとうございました。」

チリリンと風鈴が鳴った。5分とたたずに歩勇美だけ戻って来た。
「なに、忘れ物?」
晴臣の口調はもういつもの友達口調にもどっている。
「みんなを駅まで送って来たの。
 あーあ、疲れた。アイスコーヒーひとつ。
 ごめんね、騒がしかったでしょ。でもこの店いつも閑古鳥だから、少し協力しようと思ったんだよー。」
晴臣は吹き出した。
「そりゃあ、どうも。でもボクは雇われマスターでお給料制だから、売上はあんまり関係ないんだ。
 ふうん、常連さんにそんな心配させてたのか。ははは。」
晴臣はほんとにおかしそうに笑っていた。
「一緒に沖縄から帰ってきたメンバーなの。」
「そうだと思った。みんな真っ黒なんだもん。男性組がナンパしてきた奴らか。3人ともルックスよかったけど、ふゆみちゃんの本命はどれ?」
「 ん、もう会わないと思う。ルックスだけなんだもん。
 ごめんね。ちょっと感じ悪かったでしょ?」
「えっ 。いや、別に、ボクはお客さんに対して、そんな 。」
晴臣は少し赤くなり、うろたえてしどろもどろになっている。
そして、舌を出して「気づかれたかぁ。 未熟者です。」と笑った。

「ハブ酒、飲んでる?」
「おかげで、『健康増進・精力倍増、彼女も毎晩大満足』。」
「なに、それ。」
「パッケージに書いてあったろ。うちの彼女は毎晩かまうとうっとおしがるけど。」
晴臣が自分の彼女の話をしたのは初めてだ。
「マスターの彼女ってどんな感じ?」
「可愛いよー。色が白くて髪が長くて小柄で。」
メガネの奥の瞳が、いつもよりさらに優しそうに笑った。
「いいなぁ。 結婚するつもりなの?」
「今、一緒に暮らしてる。」
「ふうん。あーあ、うらやましい。私も恋したいよぉ。」
「恋なんて、したいと思ってするもんじゃないだろ。気がつかないうちにしてるもんですよっ。君はまだまだ子供だねえ。」
「ふん、だ。」と歩勇美はふくれた。

家に帰ると、明彦から暑中見舞いが来ていた。
『元気ですか?勉強してますか?
 僕達の新居へぜひ遊びに来てください。
 奈津子も歩勇美ちゃんと会うのを楽しみにしています。』
『勉強していますか?』だなんて 。そんなこと聞かないでよ。
-- あなたにとって、私は一生小さな生徒でしかないのね。--
新しい恋なんて、まだまだできそうになかった。


< 3 >

梅雨も明けた夏のある日、歩勇美は友達に誘われて『珈琲画廊』を訪れた。
チリリン。
「いらっしゃいませ。」
「こんにちわー。」
例の沖縄旅行の女友達と一緒だった。
「感じのいい店だったから、また連れて行ってって言われて。」
「そりゃあ嬉しいな。これからもごひいきに。
 常連のあるお客に言わせると、なにせこの店はいつも閑古鳥が鳴いてるそうなんで ねえ。」
歩勇美は吹き出した。
「 ヤな奴。店は雰囲気いいけどマスターはヤな奴よぉ。」
「早くご注文をどうぞっ。」と晴臣も笑っている。
「歩勇美、マスターと仲いいのね。」
「えっ、そう?」
晴臣には自分の1番深い傷を見られている。だから安心しているのかもしれない。他の男性に対する時のような構えが全くなかった。
「ここへ連れて来てもらったのって、あのマスターを紹介してもらいたかったからなんだ。」
「えーっ !? 由紀絵ちゃん、本気なのぉ?」
「だって、かっこいいじゃん、あのひと。」
「 そうか。そうかもね。」
身長はさほど高くないが、すらりと痩せていて、服の着こなしもかなりお洒落だ。
ちょっと女性的だが、端正な顔をしている ような気もする。メガネをとった顔は見たことないので、ほんとはどんな顔かは知らないけど。
そう、4年半も顔見知りやってて、どんな顔か知らないんだ。
「はい、コーヒーフロート2つ。お待たせしました。」
「ねえ、マスター。ちょっとメガネとってみてよ。」
「えっ?な、なんだよ、いきなり。」
「だって、顔も知らないのに、由紀絵ちゃんに相槌打ってあげれないじゃん。」
「な、なんなんだ、それはっ。 ダメっ、絶対とらないっ。」
晴臣はムキになってメガネを押さえた。
「由紀絵ちゃん、この人はやめなよー。きっと顔に目がなくて、メガネに目の絵が書いてあるに違いないよ。」
「こいつーっ。」
晴臣がカウンターで他の客の相手をしだすのを待って、歩勇美は小声で囁いた。
「あのね、マスターって恋人いるんだよ。同棲してるんだって。」
「 えーっ。そうなの。がっかり。」

ところがあんなにメガネをはずすのを嫌がっていた晴臣なのに、次に歩勇美が訪れた時は『すっぴん』だった。
そういえば、時々雑誌に載っていた『遠井晴臣』の写真は、こんな顔だったっけ。
歩勇美は「あれがそうだったのね」と思い出していた。
「いらっしゃいませ。」
よく見ると右目のまわりがアザになっている。
「どうしたのぉ?」
「彼女がエキサイトしてねえ。メガネしてる時に顔に飛びついて来やがんの。
 メガネのフレームはひしゃげる、メガネが当たってアザはできる。さんざんさ。」
「 マスターの彼女って 。」
「ペルシャのメス、3歳。超美人。今、友達から1ケ月預かってるんだ。」
歩勇美はすごい勢いでふくれた。
「ちょっとー!本気で『うらやましいなあ』って思ってたのにい!
 それに、マスターのことかっこいいって言ってた友達に、彼女がいるから諦めろって言っちゃったわよっ!」
「いいよ、この前の子だろ。実は、ボク、女に興味ないんだ。」
「えっ、そうなんだ。そんな感じはしてたんだー。やっぱりねえ。」
「 わかっちゃってた?」
「だって、私、男の人って苦手なのに、マスターだと平気で喋れたし。
 それに 。」
メガネをはずした晴臣は、想像通り華奢な輪郭の綺麗な顔をしていた。
「綺麗な顔してるから。」
「はははは。」
晴臣は大声で笑った。
「ふゆみちゃんにはまいったな。これもウソだって言ったら怒る?」
「初めっからバレてるわよ。ほんとにもう。」
歩勇美の言葉に晴臣は頭をかいた。

「いらっしゃいませ。」
「ブレンド。」
「私はアメリカン。 あら?」
流しの2人組の若い女性客が、晴臣に気づいた。
小声で「遠井晴臣じゃない?」「え、誰?」「イラストレイターの。」と囁いているのが聞こえる。
晴臣の表情がピリピリし出した。
あの当時、イラストレイター・遠井晴臣は随分色々なメディアにも放出していた。
ルックスがよかったのも手伝って、ファッション雑誌の対談やインタビュー、TVのトーク番組。
「マスター、今、コンタクトしてるの?」
「伊達なんだ、あれ。ただブランドもんだから、直しに出してるけど。」
「あきれた。」
そんな気はしていた。
若い晴臣が貫祿をつけるためだけではなく、変装道具としてかけていたのだ。
「ちょっと出てくる。バッグ置いておくから。すぐ帰って来るネ。」
歩勇美はサイフだけ持って、駅へ走った。ステーションビルの小物売り場に並ぶ、千円均一のファッショングラス。
こんな感じのだったっよな。急場しのぎだから、何でもいいけどさ。
「はい。お誕生日おめでとう、なんちって。」
歩勇美が手渡した包みを、「?」って顔しながら開いた晴臣は、中身を知って苦笑した。
「 ありがとう、助かったよ。ボク、随分情け無い顔してた?」
「先生の結婚式の帰りの私ほどではなかったと思うけど?」
と歩勇美は微笑んだ。晴臣はまた苦笑した。
メガネをかけながら「金、払うから。」
食器棚のガラスに自分の顔を映して見ていた。ほっとした表情になっている。
「いいわよぉ。安物だし。
 自分のブランドもんのたかーいフレームが直ったら、それ返して。」
晴臣は笑って「ヤな女。」と言った。
「伊達メガネは変装用?マスターにとっても、ここは隠れ家だったんだね。」
「 ・・・。あの頃あんなにマスコミに出るんじゃなかったな。
 でもまだ覚えてる人がいるなんてなあ。事故って引退してから5年もたったのに。」
晴臣はふうっとため息ついた。
歩勇美に軽口を叩くいつものマスターの表情ではなく、挫折を経た大人の男の顔をしていた。

大人の男のカオした晴臣を、もう一度見る機会があった。
街はもうすっかり秋になっていた。
チリリン。
「こんにちわー。」
歩勇美が挨拶しながら入って来ても、いつもの「いらっしゃい」の声はしなかった。歩勇美がいつも座るカウンターのはじの席には、髪の長いスーツ姿の女性が座っていた。晴臣は無表情にカウンターの向こう側に立ち尽くしている。
歩勇美が入って来たのにやっと気づき、視線を上げた。
「いらっしゃい。 あ、席、テーブルでいいですか?」
よそよそしい言葉使いをして、カウンターから出て来て水を置いた。
「 私、出直して来ましょうか?」
つられて歩勇美もていねいな言葉になった。
「いや、いいよ。彼女、もう帰るところだから。」
わけありそうな2人ねえ。
  -- 恋人? にしては、ムードが違うな。
「私、あきらめないわ。いつかあなたにもう一度ペンを持たせてみせる。」
「無理言わないでよ。知ってるだろ、あの頃ボクがどんなに努力して、そしてダメだったかを。」
「ドイツに、いい先生がいるんですって。もう一度手術すれば 。」
「そんな金、どこにあるのさ。それに成功率を知ってるのか?」
「だって、いつまでこんな生活してるの !?
 雇われマスターだなんて、こんなヒモみたいな生活。
 あなたは絵を描かなきゃダメになっちゃう人なのに。」
「 人聞き悪いこと言わないでよ。ボクはここのオーナーから雇われて、ちゃんと働いて月給をいただいています。
 絵のことは忘れて、他のことに喜びを見つけて、ささやかに幸せに生きてますよ。」
「ウソだわ。晴臣が絵以外に幸せを見つけられるなんて。あなたはそんなに器用な人じゃないでしょう。自分を騙してるだけよ。」
晴臣は、ドン!とカウンターにカップを置いた。
見ないようにしていた歩勇美も、その音に晴臣を見た。
表情は怒っていたが、ほんとは晴臣が胸がえぐられるくらい悲しんでいるのがわかった。たぶん彼女の言ったことは全部当たっている。だけどもう指が動かないことに変わりもなかった。
「見せてやるよ。ボクの指がどれだけ言うこときかないかを。」
唇をかんで、伝票の用紙を裏返した。
いつも伝票は左手で記入していた。晴臣はゆっくりと右手でボールペンを握った。
紙の上に手を持ってくると、するりとペンが抜けた。指に力が入らないから、きっちりと握れないのだ。もう一度ゆっくり握り直す。落ちないよう、掌で支えて持つ。
「露 子、と。
 ほら、見ろよ。絵どころか、おまえの名前だって、ろくに書けやしないんだ。」
露子と呼ばれた女性は、伝票の上の字を見て涙ぐんだ。
「ふゆみちゃん。 君の字は、冬に美しいでいいの?」
「えっ? あ、ううん。将棋の『歩』に勇ましい、で美しい。変な名でしょ。」
急に振られて、歩勇美はどぎまぎした。
こんな大人の男女の修羅場に、私に振らないでよっ。
「へえ、男みたいな名だな。 『歩』 『勇』 『美』。
 『晴』 『臣』。自分の名前書くのだって、昔の2倍時間がかかるんだ。
 ボクに復帰してほしいのは、君が罪悪感から開放されて、楽になりたいからだろ。
 ボクは誰も 運命さえも恨んでないし、今の生活が結構気にいってる。君に、今のボクが不幸だなんて、どうして決めつけることができるの?
 帰ってよ。もう2度と来ないでよ。」
「 ・・・わかったわ。ごめんなさい。さようなら。」
露子と呼ばれた女性はそう言うと、席を立ち上がった。
帰り際、歩勇美の方をちらっと見て行った。
歩勇美もその時相手を見た。キャリア風の、はっきりした顔立ちのとても綺麗なひとだった。

「マスター 。」
「ゴメン、変なことに巻き込んじゃって。」
「 ・・・ねえ、料理学校で栗御飯炊いたの。ヤじゃなかったら食べて?」
歩勇美は話題を変えて、タッパーの包みをテーブルに置いた。
「わあ、ほんと、いいの?ありがとう。
 でも、他に持っていく相手はいないのか?」
「作りすぎちゃって、マスターで5人目。」
晴臣は笑い出した。「ちぇっ、ボクは5番目の男かあ。」
さっきの表情とは別の人みたいだった。
「じゃあ早速いただきまーす。」
スプーンとタッパーを持って、カウンターの下へ潜った。これで客が来ても見られる心配はない。風鈴の音がしたら、その場を繕って立ち上がればいい。
「おいしいね!」
カウンターの下から声がした。歩勇美は苦笑した。
「 イラスト描いてた頃の、雑誌の編集の人なんだぁ。今の。」
「 別に、聞いてないってば。」
「事故った時、一緒にバイクに乗ってた。」
「 えっ。 」
「綺麗な足してたのに、彼女にも一生ものの傷が残った。
 でもまあ、そんなつまんないこと気にしない、いい男見つけて結婚したよ。
 ボクの手がこんなになって描けなくなったら、すぐ別れが来たんだ。
 あいつが愛していたのは、ボクのイラストレイターとしての才能で、ひとりの男としてのボクじゃなかったのサ。」
「 マスター。」
チリリン。
風鈴の音に、晴臣はあわてて御飯を呑み込み、立ち上がった。
「 ・・・あれ?お客は?」
「えへへ。」歩勇美がドアのそばに立っている。いたずらでドアを開けたのだ。
「くそ、こいつ。よくもやったな。」
「お客にこいつよばわりしたなー。」
そして、2人は顔を見合わせた。
晴臣は泣きそうな顔をして笑っていた。歩勇美は、今自分が出来る限りの満面の笑顔を返した。歩勇美ができるのはそれくらいだったから。


< 4 >

秋の風が、そろそろ木枯らしと呼ばれる季節になった。
『受験本番』『最後の追い込み』等という言葉を耳にすると、歩勇美の胸はきゅんと痛んだ。本当なら、「もう私は解放されたんだ。」と晴れやかな気分で聞く言葉のはずだ。彼女のシーズンはもう終わったのだから。
なのに、こうして、街の本屋の大学受験の資料や参考書のコーナーに立っている。
-- 未練なんかないわよ。医者になんて、なれるわけないでしょ。
まあとにかく、医者の婿を取るにしても、短大か専門学校くらいは出ないと見合いの話も来ないだろう。どこでもいいから受験しよう。しばらく勉強してなかったから、少しキツイかなあ。
そんなことをぼんやり考えながら、専門学校の本を見ていて、デザイン関係の学校紹介の本を開いた。
プロで活躍する卒業生の中に、晴臣の名前を見つけた。
「へえ。写真入りで載ってる。昔って今よりコワイ顔してるわ。」
今の晴臣と全然違う。今の彼には、暖かくて、もっとほっとする雰囲気がある。
この頃から端整な顔をしていた。マスコミに目をつけられるわけだ。
しかし、晴臣の経歴を見て、歩勇美は驚いた。
在学中から、出品したコンクール関係は総ナメで賞を取っている。
デパート資本、出版社資本のかなり大きな賞の名前もあった。
カオが綺麗だから売れっ子だったわけではないのだ。
-- 私なんかの挫折とは、規模が違うわね。
紹介文には、晴臣が何冊かのイラスト集を出している旨が書いてあったので、ついでに美術関係のコーナーで、それも捜してみた。
「あ、あった。1種類だけだけど。」
『珈琲画廊』に飾ってあるのと同じ人の絵なのは明らかだ。細く繊細なペンの線。緻密なデッサン。モノトーンの光と影。まるで製図のような硬い美しい絵だった。
風景や建物の絵が多かった。立ち並ぶビルや、人混みの街。朝の港の船。高原の丸木
小屋や水車。 ちょっと冷たい、透明感のある都会的な絵ばかりだ。
すごい才能だったんだなあ。元彼女がもったいながるのもわかるわぁ。

家に帰ると、玄関には見慣れないハイヒールと男物の靴が並んでいた。
「お客さんかあ。部屋で静かにしてよ。」
「あら、歩勇美、帰ったの。あんたにお客さんよ。」
「えっ?」 ・・・イヤな予感がした。まさか 。
「明彦先生と奥様がいらしてるわ。あんたを待ってたのよ。」
「あ、私、サテンに忘れものしちゃった!取りに行って来る。」
「何言ってるの、先生をお待たせして。店に電話入れて保管しといてもらえばいいでしょ。」
「でも大切なものだから。」
「歩勇美ちゃん、久し振り。」
歩勇美の声が聞こえたので、明彦が応接間のドアをあけて廊下を歩いて来た。
忘れかけていた明彦の顔が目の前に現れ、歩勇美は動揺を隠せなかった。
もう記憶の外に追いやったつもりでいたのに、心はこんなに痛みを訴える。
「あ。 じゃ、取りに行って来る。
 明彦先生、すぐ帰ります、すみません。」
歩勇美はあわてて靴を履いて玄関を飛び出した。

外へ出たら別にもう走る必要もなかったが、なんとなく小走りのまま『珈琲画廊』への道をたどった。明彦があきらめて帰るまで、何時間サテンでつぶせばいいだろう。
チリリン。
「やあ、いらっしゃい。 ・・・びっくりした。懐かしい人を連れて来たね。」
晴臣の言葉にえっと振り向くと、明彦がドアを開けようとしているところだった。
「先生 。」
「追いかけて行かないと逃げられそうだったんでね。」
「別に、逃げるなんて 。」
「伊達に3年間も君の先生やってたわけじゃない。性格も行動パターンも全部つかんでる。」
「 ・・・。全部わかってるなら、追いかけてなんて、来ないでください。」
「歩勇美ちゃん 。」
「この店は私の隠れ家です。ここで私は傷をいやしてきた。先生はここへ入ってこないで!」
「随分嫌われちゃったみたいだな。
医学部受験、やめちゃったんだってね。さっきお母さんから聞いたよ。そろそろ追い込みだと思って励ましに来たんだけど、聞いて驚いてしまった。
 一度の失敗くらいであきらめちまうのかい?4年間あんなに頑張って来たのに。」
「 ・・・。」
歩勇美は何も答えるすべがなくただ下を向いた。
明彦の意見は正しい。言訳も反論もする気にはなれないほど。でも、そこに傷ついた歩勇美の心は存在していない。

「本人の痛手は、本人にしかわからないでしょう。」
カウンターの中で、晴臣が洗ってるコーヒーカップを見たまま言った。
「他人から見たら『たった1回の失敗』かもしれないけど、よくある出来事かもしれないけど、当事者の受ける衝撃には個人差があると思いますよ。
 傷が癒える時間だって人によって違うと思うし。
 今はまだ、歩勇美さんが外へ出ていこうと思える時期ではないのでしょう。無理に手を引いて外へひっぱりだす方がよくないんじゃないですか。
・・・ごめんなさい、余計な口をはさんで。」
「マスター。」
歩勇美は晴臣を見上げた。顔を上げたら涙が頬をつたった。
「そうか。 確かにそうだね。
 歩勇美ちゃんには、もうオレって兄貴の手が必要ないような、ちゃんと支えてくれてる人もいるみたいで 。」
明彦はちらっと晴臣を見て微笑んだ。
「すごく安心した。オレ、春から外国へ行くんだ。お別れに来たんだよ。」
「えっ。」
歩勇美の表情が氷ついた。
「前、故郷の無医村で病院を開業したいって話したろ?まあ今はあそこにもちゃんとした総合病院が建ってるけどね。
 今回は、タイのバンコックへ、日本資本の企業の医者として行くんだ。でも、少しして慣れたら、一般の患者を診察する普通の病院をやる つもり。まだ企業には内緒だけど、機会を利用させてもらう。」
明彦はそう言って笑った。
歩勇美はあっけにとられていた。
「バンコックって 。奥さんは日本に残していくの?」
「いや、ついて来るよ。実は、この案もうちの奥さんの悪知恵。」
「 へえ。そうなんだあ。」
派手で遊んでそうに見えた人だったけど。そういう女性だったんだ、と歩勇美は初めて知った。
「せっかく大病院のお嬢さんとゴールインして、未来の院長の切符を手にしたのに。」
「やだよ、大病院の院長なんて。つまんなそうじゃん。」
「先生ったらー。」歩勇美は笑いながら涙をぽろぽろこぼしていた。
先生は、やっぱり私が好きだった先生だ。

「私、先生の結婚のこと、誤解してた。ごめんなさい。」
晴臣は笑顔で歩勇美の頭をなでた。
「うん。当たり前だと思うよ。確かに少しは計算もあったしね。企業の医師としてバンコックへ行けるのも彼女の父親のおかげだしさ。
 きれいごとだけじゃ、やりたい事をまっとうすることはできない。現実にはね。
 オレは、まっさらで純粋な君から見たら汚いかもしれない。でも、これがオレにとっての『純粋』ってことだったんだ。言訳、かなあ?」
ううん、と歩勇美は首を振った。涙の粒がまわりに散った。
「バッコックは観光しに来る女の子も多いそうだよ。今度こそ、新居に遊びにおいで。 悪戦苦闘してる明彦先生を茶化しに。」
歩勇美は今度はうん、とうなずいた。

明彦が帰ったあとも、歩勇美はしばらくぼうっとしてコーヒーを飲んでいた。昔、明彦と来てた頃に座ってたテーブル席。ここから明彦を通して見えた店の景色。
白い壁と、茶色の木のフレームに飾られたモノトーンの洒落たイラスト。木枠の曇りガラスの扉。ガラスの風鈴が釣り下がっていて、扉が開くたびに優しい音が響く。
黒いテーブルカウンターと、その後ろの木の棚に並んだ白い食器たち。
今また、こんな風に優しい気持ちで、この景色を見ることができるようになるなんて。
「ほら、歩勇美ちゃん。 泣き虫。」
晴臣がタオルと、そして自分のカップに入れたコーヒーを持って前の席に座った。
「泣き虫じゃないもん。」
「 遠くへ行ってしまうね。気持ちを伝えないでもよかったの?」
晴臣の言葉に、小さくうなずく歩勇美。
「 このままの、尊敬する先生と、ひたむきな生徒のままで。」
晴臣は『とっくに彼は知ってたと思うけど。そのことは歩勇美ちゃんは知らない方がいいな。』と思って黙っていた。
「 マスターが助け舟出してくれたの、うれしかった。」
「いや、でしゃばってごめん。
 先生が、歩勇美ちゃんの尊敬してたとおりの人でよかったね。」
「私、世間の人の声を真に受けて、逆タマだなんてひどいこと思ってた。なんで信じてあげれなかったんだろう。すごく悔しい。きっと、私にまで誤解されるなんて思ってなかったろうなあ。」
「歩勇美ちゃん 。」
「今まで信じてたものが、ガラガラと崩れ落ちた気がしたの。尊敬してた明彦先生の像が崩れて、一緒に目指してた医学部受験も、医者になる夢も、全部意味がなくなっちゃった気がしたの。
 でも、それは失恋した私の甘えに過ぎなかったんだ って、今はわかる。
 だって、私の家より奈津子さんちの病院が大きいから失恋したわけじゃないもん。 私は先生にとって、生徒でしかなくて、『女性』として愛してはもらえなかったってことを、認めたくなかったんだと思う。それで『先生は汚い』とか『ズルイ』とか思い込んでキライになろうとしてた。
 エステ通って綺麗になって医者の婿取るなんて言ったのも、先生へのつらあて。
 私、今、自分がすごく恥ずかしい 。」
「 君は、もう大丈夫だね。」
「マスター。」
「歩勇美ちゃんには、もう、隠れ家はなくても大丈夫だね。
安心した。
 この店、今月いっぱいで無くなるんだ。
 歩勇美ちゃんに言えなくて、黙っててゴメン。」



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