鏡の中のさくら 前編 |
< 1 > 散り始めた桜の花びらが、大空(だいくう)の髪にセーターの肩に止まっていた。待ちくたびれて、もう振り払う気力もない。 隣の家の住人・幼なじみの山野桜の大学の校門で待ち合わせをした。校門の白い壁に寄りかかって、かれこれ、もう三十分も待っている。授業はとっくに終わったはずだ。その証拠に、既にかなりの生徒たちが横をすり抜けて出て行った。どうせ教室に残って、新しい友達と盛り上がってでもいるんだろう。 『あーあ、これだから女ってえのは!』 大空はため息ついて、画材の入った黒い大きなバッグを肩にかけなおした。 ・・・あ、やっと出てきた 「さくらー、おそいぞ。あれ、髪切ったのか!」 えっ?と大空を怪訝な顔で見る。視線が強い。切れるような強さ。 桜じゃない 「あ す、すいません。知り合いに似てたもんで」 桜の瓜二つはクスッと笑った。間違われたことを面白がっている笑いだった。 「また女の子と間違われちゃった」 「えっ?」 お、おとこー!?う、うそだろ! 華奢な体、白い肌。細い眉。通った鼻筋と薄い唇。繊細なあごの線。そして黒くて大きな瞳。 どれをとっても、少女のものだった。そして、すべてが隣の桜と同じ作りだった。桜が隣にやって来てから十一年、ずっと見てきた顔と同じだった。 違うのは、桜は背中に届くストレートのロングヘアだが、彼は(当然だが)普通に髪が短かった。桜の耳も首筋もきっとこんなだろうと思わせた。 『男』だなんて 「本当にすみません」 「いいよ、女に見られるの慣れてるから」とまたクスッと鼻で笑う。 笑っても、目は笑っていない。大きな瞳は強い光を放つ。 桜の木がざわざわと音をたてた。大空は足がすくんだ。 「 じゃあね。僕にそっくりの彼女にヨロシク」 瓜二つは、薄いコートを風にはためかせて 遠ざかって行った。確かに桜より背は高いし、肩も少年のものだ。 ああ、びっくりした。それにしてもよく似てたよな。 本物の桜は、大空をさらに十分も待たせた。 「キャー、ゴメンゴメン」と屈託なく笑いころげる。 「クラスにさあ、吉本ばななのファンの子がいて話がはずんじゃって。ごめんねー、おこってる?ねえねえ」 顔は似てても、さっきの奴とは全然違うな。 そうだ、瓜二つは『毒』ってやつを持っていた。素直で無邪気な桜とは、正反対のキャラクターだった。 「怒ってはいるけど、四十分も出遅れてんだから、とっとと買い物へ行こう。オレは忙しいんだ」 今日の趣旨は、桜が父親への結婚記念日のお祝いを選ぶのに「大空ちゃん、付き合ってちょうだいな」ということだった。 なんでオレって、桜が惚れてる男へのプレゼントを一緒に買いに来てんだろ。馬鹿らしいよなあ。あーあ、幼なじみなんてやめたいよォ。 「大空ちゃん、美大生だからセンスいいし、桜、若い男の人の好みなんてよくわからないんだもん」 「山野のおっさんのどこが『若い男の人』なんだよ〜」 「ひかりさんは、おっさんじゃないもーん。若くてかっこいいもん」 桜は母親の連れ子だったので、父親の山野ひかりとは血がつながっていない。 ひかりは、当時7歳だった桜の初恋の人だそーだ。母親の緑に取られて失恋して「その初恋は無残にも破れたの」と桜は笑った。当たり前だ。 地味派手なネクタイを1本買って、買い物は無事終了し、二人は喫茶店へ入った。 「あー、疲れた。桜は優柔不断でいけないよ」 大空はソファにどかっと腰を降ろし、アイスコーヒーを二つ注文した。 「だって、いい加減には選びたくないもん」 「 まだ、結婚記念日のプレゼントなんてあげてんだもんな。おばさんが亡くなってからもう5年だろ」 「ひかりさんの中では、まだ生きてるわ。もちろん、桜の中にもね。 ママからひかりさんにネクタイ。ひかりさんからママにはアクセサリー。そして桜からは2人に薔薇の花束と一晩のお留守番のプレゼント。 ・・・楽しかったな。3人で毎日笑って暮らしてた。毎日が遊園地にでも行っているみたいに楽しかったわ。 ママが交通事故で亡くなった時、桜は自分も悲しかったけど、ひかりさんがあまりにも悲しそうで、そっちの方が辛かった。 吉本ばななの『キッチン』を読んだ時、ひとごとじゃなかったわ。ひかりさんがオカマになっちゃわないでくれて、ホントによかったーって思ったもん」 「ばかか、おまえ」 桜の突飛な発言に、最初神妙に聞いていた大空は思わずアイスコーヒーを吹き出しそうになった。 「だってー、ほんとにそう思ったんだもん」と口をとがらして、桜もカランと氷を鳴らしてコーヒーをすすった。 桜はいつも無邪気で明るくて元気だ。歳より少し子供っぽいかもしれない。けっこう綺麗なのに、色気が全然ない。さっきの少年の方がよっぽど色っぽかった。 「大学は、もう慣れたか?」 「とりあえず迷子にはならないようになった」 「授業はどう?」 「んー、まだまともにはやってないもん。教授の自己紹介とか、そんなの。どうせ国文なんて、みんなそんな真剣じゃないって。 同じ高校から来たいずみちゃん以外にも友達できたし。部活の勧誘とか、コンパの誘いとか、色々あって面白いよねー」 「いい男いたか?」 「そんな、まだ迷子にならないように気をつけてるので精一杯だもん。きょろきょろ男の子物色してる暇なんてないよー」 こいつ、ほんとに迷子になったらしいな。 「いつまでもファザコンじゃ、おにーさんは先が心配だよ。早く彼氏作って紹介してくれよな」 「イーだ」 「 そういえば、さっき、桜にそっくりな子を見たぞ。あれだけ似てれば、桜も噂に聞いたことはあるだろ?」 「大空ちゃんも見たの? 二,三人に言われた事があるわ。桜はまだ会ってないけど。 男の子なんでしょ。ほんとにそんなに似てるの?」 「恥ずかしながら、オレが間違えたほど」 「ひどい!男の子と桜を間違えるなんて!何年の付き合いだと思ってるのよ!あんまりだわ!」 桜は大憤慨。ガキである。 男の桜の方がずーっと色っぺえぜ。 「さ、そろそろ行こうか。夕飯の支度があるんだろ」 と大空は伝票を取った。母親のいない山野家では、桜がほとんどの家事をしていた。 喫茶店のガラス越し、街はたそがれの気配を帯び始めている。春の夕暮れは霞がかかって、色が淡くぼやけていた。 < 2 > 「ただいま」 夜の11時をまわっていた。ひかりは自分で鍵をあけて入った。 「なんだ、まだ起きてたのか」 リビングでは、桜がTVを見ていた。 「まだ11時よ。子供扱いしないでよ。 食事は 済んでるわよね。連絡してよね、御飯のいらない時は」 桜は少しむくれながら、台所に立ってヤカンを火にかけた。 「ごめんごめん。急な接待でね。 それに、おまえ、今日は大空とデートだって言ってたから、電話してもいないと思ったんだよ」 ひかりは背広をソファに投げて、ネクタイをゆるめてどかっと座った。 驚いてはいけない。彼が、十八歳の桜の、義父の山野ひかりである。 彼が、七歳の連れ子のいる緑と結婚したのは二十三の時。今もまだ三十四歳、若いのは当然だ。 「はい、お茶」 「サンキュ」 「うわっ、お酒くさい。煙草くさい。げー、だわ」 「仕方ないだろ、酒の席に出てきたんだ。おまえがこうして生活できるのも、おとうさんがつらい思いをして働いているからなんだよっ。 なーんてな、ははは」 ひかりは大きな声で笑った。笑うと目がたれてますます若く見える。 「ひかりさんは、自分が好きでやってる事なのに、人に恩を着せるんだよねえ」 ひかりはコホッとお茶にむせた。 が、負けずに「でも、おまえにもそういうところはある。友達に『お母さんの代わりに家の仕事やって大変よね』とか感心されて喜んでるだろ」と切り返した。 「あーあ、悪いところばかり似ちゃったわ」 「別に家事なんてやらなくていいんだぞ。オレ、食事は外で取ることが多いし、掃除や洗濯はヘルパーさんを頼んでもいいんだ。それくらいの稼ぎはあるつもりだぜ。 桜は、華の女子大生になったんだ。もっと遊びたいだろ」 「ヘルパーさんよりさぁ、ひかりさん、再婚しないのぉ? 桜はもう大人だし、いつ家を出ても平気。邪魔にはならないヨ」 「またその話かあ。桜はよっぽどオレに再婚させたいらしいなあ」 「一人に絞れば、少しは悪行が減るかと思って」 「コイツ!ちくしょう! まあ、そうだなあ、緑より好きな人はもう現れないだろうから、同じくらい好きな人ができたら考えるよ。桜を嫁に出した後にだけどな」 「そんなの何年も先じゃない。ひかりさん、 おじいさんになっちゃうぞ。今でも充分年寄りなんだから」 「おまえ、よくも言ったな。オレはこれでも会社では『若くみえる』って言われてんだぞ。女子社員にだってもてるんだ。きのうだって隣の部の子が 」 ひかりはムキになってまくしたてて、はっと言葉をとめた。 「 隣の部の子が、な〜に?」と桜がネクタイをつかむ。 「べ、別になんでもないよ。たいしたことじゃないってば」 「何でもないなら、なぜ娘に隠すわけ?」 「隠してなんか 。今日で辞めるから、一緒に写真撮ってほしいって。 それだけだってば」 「で、調子に乗ってまた肩に手を回すとかしたんでしょ。」 「実は、別れ際に、額にキスのサービスまでいたしました」 「あきれた〜。このスケベ!」 ひかりは本当にもてるらしい。上司からの再婚の話も何度も断っているようだ。 桜は時々不安になる。 ・・・桜は、邪魔? 「あのね、学校に、桜とそっくりの男の子がいるんだって。大空ちゃんも間違えたくらい似ているんだって」 「へえ。『男の子』でねえ。桜は女っぽくないからな、わかるけど」 「ヒドイー」 そっくりの『男の子』と言われたので、ひかりは全く気づかなかった。思い出さなかった。去年の冬に出会った桜にそっくりの少女のことを。 「じゃあね、おやすみ。ちゃんと顔洗って歯磨いて寝るのよ」 「はいはい、おやすみ」 桜は自分の部屋へ戻った。TVなんて自分の部屋にあるくせに、ここで見ていた。ひかりの帰りを待っていたのだ。ひかりは煙草に火をつけるとTVを消した。 桜とは血はつながっていないし、歳も近いから、下世話な世間の目も確かにうるさい。でも、3人で暮らしたあの幸せな時間。その思い出を大切にしたかった。そしてその時間を共有した桜との、今の時間も決して軽く思ってはいない。 桜が居なかったら、緑が死んだ時後を追っていたかもしれない。桜がいるからやってこれた。それは確固たる事実である。 微妙な関係かもしれない。だが、桜はひかりにとって、とても大切な存在だ。それは変わらない。桜がいくつになっても。こういう事は、当事者同志にしかわからないとひかりは思っている。 桜と初めて会ったのは七歳だったし、緑が死んで二人だけで暮らすようになった時だってまだ十三歳だった。女として意識するかなんて聞かれても、ちゃんちゃらおかしい。 十八歳の今だって、どうひいき目に見てもガキだよなあと冷静に思う。 でも、あの桜に似た少女に会ってからオレの中の桜が狂いだした。 喪服をまとった黒く長い豊かな髪の少女。 着物の袖口から覗く腕は白く細く 。 ・・・オレも不謹慎なオトコだよなあ 緑の前のダンナの葬儀へ行って、桜の双子の姉を見て、オレはあの少女を抱きたいと思ったんだ。 緑は、前の夫の話はほとんどしなかった。まだ知り合って間もない頃、恋人になる前に「画家の春田憩という人」であったこと、子供は二人いたが一人を彼が引き取ったことは聞いたことがあった。 芸術に疎いひかりが、彼が結構有名な画家であることを知ったのは、去年の十二月に彼が病死したことをTVニュースで見た時だった。 桜には父親のことは何も知らされていなかったので、ひかり一人で密かに葬儀に行った。 寒い日だった。春田邸は、鎌倉のはずれにある大きな屋敷だった。 ひかりは、春田の娘を見て驚いた。双子だなんて知らなかったし、しかもここまで似ているなんて。 だが、桜と違うのは、彼女には、不幸の匂いというか、孤独の匂いがした。喪服がそれをさらに強く感じさせた。 彼女はひかりのことを知っていた。 「実は、桜のことが気がかりで、母が再婚した後に何度かこっそり見に行ったんです。ごめんなさいね、覗きみたいな事をして。 母が亡くなったことも知っています。でも桜が幸せそうなので、安心していました」 と伏目がちに静かな声で語った。 彼女はこの広い家で、父と二人で暮らしていた。これからは一人ぼっちだ。 「君は桜の姉なんだし、うちへ来ませんか。その話をするつもりで来たんです」 ここに来る前からそう決めていた。だが、彼女を見てしまった後では、ひかりはヤバイと思っていた。 自分が欲望に対して結構正直なのは自分でも認めるが、ちゃんと理性はある。でも、場合によっては、その理性の鍵がはずれちまうことがある男であるのも、自分で知っていたからだ。 直観的に、『この女と一緒に暮らすのはヤバイ』と感じていた。 彼女は、そんなひかりの気持ちを見透かしたようにクスッと笑うと、 「お気持ちだけありがたく。私は父との思い出の家を守っていきたいんです」 とひかりの申し出を丁重に断った。 ひかりの帰り際、彼女は「 桜は今も幸せでしょうか?」とたずねた。 しんとした、なにか厳粛な感じのする口調だった。 「たぶんそうだと思います」 それを聞いて彼女はかすかに微笑んだ。はかない寂しい笑顔だった。 「ただいま。桜、塩とって」 「はい、おかえりなさい。どなたの葬儀だったの?」 「昔の知り合い」とひかりは嘘をついた。嘘のせいだけでなく、ひかりは桜を見て目をそらした。この日初めてひかりは桜を女として意識したのだ。 < 3 > 桜の木は緑に茂り、キャンパスにはそろそろ初夏の日射し。 校庭の芝生でなごんでいるキャピキャピ一年生。桜たちだ。 「のどかわいたー。何か買ってくるね。 いずみちゃんはウーロンでしょ。かおるは何飲む?」 「果汁百%なら何でも。はい、お金」 桜は小銭を握って小走りで、第一校舎のロビーの自動販売機へたどりついた。 友人の二本分買って、自分の分を買おうとお金を入れる。 カラン。 「あれ?」 カラン。 また落ちた。最後の百円玉がちょっとひしゃげていて、販売機で通らないようだ。 ・・・がーん、これしか持ってきてないのに。 また走って戻れって? 「よかったら、これどうぞ」 差し出された100円玉。 「わーい。じゃあ取り替えてくれます?」 と、コインの主を見上げて 桜の動作はぴったり止まった。 ・・・うそ! 噂の人に出会ってしまった。 彼がそうだと一目でわかった。それほど似ていた。 彼は販売機に自分の百円玉を入れて、「もう一本は何?」と尋ねた。 ソフトで綺麗な声だが、確かに男の人の声だ。 ブルーのポロシャツの袖から伸びた腕は、色白で細いけれど男の人の筋肉だし、肩も華奢だが角ばっていて男の子ぽかった。 自分と同じ顔で、でも男の子。なんだかあまりにも不思議で、桜はぼーっとしてその少年を見ていた。 「ほら、桜は何にするのさ」 少年はもう一度尋ねた。 はっとして、 「あ、ポストウォーター。 なんで私の名を?」 少年は缶を取り出しながら、 「この前、校門の所で、僕を女の子と間違えた奴がそう呼んだんでね。当たってた?」 桜はうなづいて缶を受け取り、歪んだ自分の百円を彼に渡した。 「国文学の一年で山野桜です。あなたの名は?」 「理・の一年の春田梅」 「『梅』ですって? からかってるの?」と桜は少しむっとした。 彼はクスッと笑った。「本名だよ」 桜は背筋が寒くなった。 「あなたは 私の何?」 「知りたけりゃ、おとうさんにでも聞いてみるんだね。じゃあね」 梅と名乗った少年は、取り替えたコインを軽く投げ上げながら、廊下を遠ざかって行った。 おとうさんって 私の本当の父親の方?それともひかりさん? その夜、珍しくひかりが早く帰った。久し振りに二人で夕飯を食べた。 「カレーが食いたいと思ってたんだ。桜に会社からテレパシー送ってたんだよ。心が通じたな」 ビールが入ったせいか、ひかりはいつもより調子のいいヒトしていた。 「スキヤキでもスパゲティでも同じこと言いそうだわ。 ほら、またそうやって、ニンジンよけて食べる」 「はいはい、好き嫌いはしません。 おまえはだんだん緑に似てくるよなあ」 「桜がママに似てきたんじゃなくて、ひかりさんが変わらないから誰にでも同じことを注意されるんでしょ」 「 ・・・。」 ひかりは図星をさされて苦笑した。 「桜もビール飲むかぁ?」 「結構よ。 ・・・ねえ、『春田梅』って知ってる?」 「えっ!!」 いきなりの攻撃にひかりはビールの瓶を取り落とした。 「うわっ。ゾーキン、ゾーキン」 「もう、しょうがないなあ」 桜は床とテーブルを拭きながら「知ってるのね」と決めつけていた。 ひかりはため息をついた。話さねばなるまい。 「桜、座りなさい」 ひかりは緊張して、ネクタイをゆるめた。 桜もかしこまってテーブルについた。 ひかりの重い唇が、ゆっくりと動いた。 「君の、本当のおとうさんは、去年亡くなった画家の春田憩という人です」 「春田、画伯 ?」 「知ってた?」 「名前だけで絵は見たことないけど。・・・そう。普通の人じゃなかったんだ。もう亡くなったんだー。 ふうん」 桜は意外に冷静だった。 「それじゃあ、梅っていうのは 」 「君は双子だった。片方を春田氏が引き取っていた」 「十二月に出かけて行ったお葬式は、春田憩のだったのね。桜にはひかりさんの嘘はすぐわかるのよ」 「 ・・・。」 意味深なセリフだ。ひかりの掌にうっすら汗がにじむ。 「ひかりさんは、葬儀で春田梅と会ってるわけだ。 今日ね、桜も初めて、やっと、学校で会ったの。人から聞いてたからずっと気になってた。ほんとに似てた。驚いたわ。 双子だったなんてね」 「同じ大学だなんてなぁ」 「『梅』と『桜』だから、『梅』が先・・・おにいさんなのね」 「そう、梅が ・・・。えっ?」 「だから、梅がおにいさんなんでしょ?」 ひかりは絶句した。そうだ、確かに以前桜は「よく似た男の子がいる」と言った。 春田梅は 。 梅は、男だったのかーっ!? ひかりは頭をかかえた。 ・・・がーん。オレ、男に『感じた』わけ? 「 どうしたの?」 「オレ、女だと思ってた。喪服着てたし。 あいつが男だって? 信じられないっ」 「よく女性と間違われるみたいよ。大空ちゃんも桜と間違えたんだもん」 「それとこれとは 。いや、いい。なんでもない」 ・・・はあ。オレ、独身が長すぎたかなぁ。 ショック・・・。 「桜が、梅と会ってもヤじゃない?友達になってもヤじゃない?」 「なに馬鹿言ってんだ。二人きりの兄妹じゃないか。もう両親も死んじまって、ほんとに二人きりの 。 会えてよかったな。仲良くなれるといいよな」 「うん」 ・・・仲良くなりたい。 ママが離婚したのは桜が三歳の時。十五年 間も離れて過ごしていた、桜のおにいさん。 今からでも、気持ちは時間を超えれるわよね? 愛されて幸福に育った桜は、気づかない。桜と同じ顔だからこそ、さらに際立つ梅の影に。『毒』に。 < 4 > 次の日の昼休み、桜は校舎中梅を探しまわった。会いたかった。話がしたかった。 学食にも、テラスにも、屋上にもいなかった。 どこでお昼食べてるのかな。今日授業がなくて来てないのかな。 それとも、昨日のことは夢だったのかな。自分とそっくりの男の子がいたなんて。 もう、梅と出会えない迷路に入り込んでしまったような気がした。 探していて、なんだか少し悲しくなった。 走りまわったら、のどがカラカラ。気持ちも滅入ってしまった。 少し休憩しよう。 昨日梅と初めて出会った自販機。 またここへ来てしまった。 「ポスト・ウォーターでいいの?今日はおごるよ」 後ろから白い細い腕が伸びて、コインを入れた。 振り向くと 同じ顔の少年が微笑んでいる。 「誰か探してるの? クラスメートが『春田のそっくりさんが、学内を必死で誰か探してるよ』って教えてくれて。一緒に探してあげるよ」 梅は、ささやくような優しい声でそう言うと、缶を差し出した。 そして、二人は午後の授業をふけて、街へ繰り出した。 「昨日は興奮して眠れなかったわ。 朝が来るのが待ち遠しくて。早く梅に会いたくて」 「僕も昨夜は眠れなかった。桜にやっと会えてうれしくて」 そして二人は顔を見合わせて笑いあった。 喫茶店で向かい合うと、桜はなんだか照れくさかった。まるで鏡をみているようだ。 おまけに梅は、左手でスプーンを持って砂糖を掻き回し、左手でコーヒーカップを握って飲んだ。左ききなのだ。ほんとうにまるで鏡のよう。 「ぎっちょなんだぁ?」 「僕、野球やってて投手だったんだ。ほんとは右ききだけど、おやじに無理に左ききにさせられたんだ。左の方が有利だから」 「へえ。巨人の星みたい。おとうさんって星一徹みたいな人だったの?」 桜がマジにとるので梅は吹き出した。 「うそにきまってるでしょう」 「えーっ。ひどい、梅ったら」 「あははは、ごめん。 春田憩は、芸術家だから、お膳ひっくり返すくらいの気分屋ではあったけどね」 「 梅は桜のことを知っていたのよね。 なんで昨日兄だって言ってくれなかったの? ううん、桜がこの学校にいること気づいてて、なんでもっと早く会いに来てくれなかったの?」 「 だって 。君がどこまで自分の境遇を聞かされているかわからないのに 。 突然、そんな、傷つけるかもしれないのに言えないよ」 「 ・・・梅」 梅は、思慮深く、心の優しい少年だった。桜は梅がいい人でうれしかった。 「ごめんね、昨日まで梅の存在を知らずにいたの。何も聞かされていなかったの。ううん、何も覚えていなかったの。ごめんね」 「三歳だったんだもの、覚えてなくて当たり前さ。それに桜は少しとろかったもんな。今もあまり変わってないようだけど」 「えーっ。ひどいー」 桜はふくれた。 「ははは、冗談だってば。 こんな綺麗な女の子になってて嬉しいな。思ってた以上だ」 「えーっ、ほんと?桜、綺麗なんて言われたの生まれて初めて!」 桜はほんとにうれしそうに両手で頬をおおった。 「初めてが実の兄でゴメンな」と梅はまた笑った。 「ほんとなら、事情を聞いたらもっと、混乱したり戸惑ったりされると思ってた。こんなに素直に喜んでもらえるなんて、夢みたいだよ」 「だって、ほんとに嬉しかったんだもん」 「桜は、いい育ち方をしたんだって分かるよ。愛されて幸せな家庭に育ったって」 そう言った時の梅の瞳に気づいていたら。桜はあんな鏡の迷路に迷い込まずにすんだのだろうか。 「山野さんはとてもいい人みたいだね。おやじの葬式に来てて会ったけど」 「そーう?性格悪いわよ、アイツ。でも、感謝してるわ、育ててもらって」 カンのいい梅には、今のセリフで充分だった。 「桜は もしかして、山野さんに恋してる?」 「えっ? ええっ!? やだ、よしてよ。それでなくても週刊誌的な目で見られる事が多いのに。梅にまでそんなこと言われたくないわ」 「ごめん。けっこういい男だったからさあ」 「もてるみたいよ。時々香水のにおいさせて帰って来るもん。でも、再婚するまでの人は・・・ ママ以上のひとにはまだ会えてないみたいだけど。 そういえば、笑っちゃうのよ。お葬式で会って、ひかりさんはあなたのことずっと女だと思ってたみたい」 「知ってる。あえて否定はしなかったんだ。 無理ないもん。 僕も喪服着てて、髪がこーんなに長かったから。親父のモデルやってたからさあ、家ではずっと女装 ・・・女物の和服着て、髪も長くしてたんだ」 「えーっ。桜より長かったの?着物着て生活してたの?」 「高校へはちゃんと男のかっこで通ってたさ。髪も後ろでしばって。 でも、家を訪れる人は僕を娘だと思ってたな、みんな。来る人は、僕をモデルにした絵を見てる人が多かったしね。 あれは女だよ。親父はきっと、僕の中に違うひとを見てたんだ。それは別れたおふくろかもしれないし、僕と同じ年齢になっているはずの桜かもしれないし、おやじの魂が求めてやまなかった理想の女性かもしれない。 実は僕は男です、なんていちいち説明するの面倒じゃない?女装してるわけとかさ、髪伸ばしてるわけとかさ。それに、説明して理解してもらえるとも思えないし。 そういうの、桜にはわかるでしょう?」 桜はうなづいた。とてもよくわかった。自分とひかりの関係に似ている気がした。 「山野さんさあ、僕があの家で一人ぼっちになったの知ってて『引き取る覚悟で来た』んだ。暖かい人だよね。僕はおやじの家を守りたかったから断っちゃったけど」 「ひかりさんったら、桜にはそんなこと一言も 」 「なんか、すごいひとだと思った。二十三歳の若さで七歳の連れ子のいる年上のおふくろと結婚したのもすごいけど、僕を引き取るつもりで来たのもすごいよ。見ず知らずの他人なわけじゃない、僕なんて。ただ桜の兄妹だってだけでさあ」 桜はかすかに笑った。 「『緑の子供』だからね。ひかりさんにとっては自分の子と同じなのよ。それほどママを愛してたわ」 桜はうっとりした口調になって、しばらく口を開かなかった。三人で過ごした日々を回想しているような目をしていたので、梅も静かに、そんな桜を見ていた。 「今度一緒にうちにおいでよ。おふくろを描いたおやじの絵を見にさ。 アトリエにはまだだいぶ残ってる。画商が早く売ってくれってうるさいから、少しだけ残して処分するんだ。早い方がいいよ。 図書館にもないような画集もあるし。見たことないろ、おやじの絵」 桜はうなづいた。自分にそんな著名な画家の血が流れているのさえ、まだ信じられないくらいだ。 「うちにも遊びに来てよね? いっぱいいっぱい一緒にいましょうよね?十五年間離れていた分。 梅のことを知らなかった分を、早く取り返したいの」 梅は笑った。 「桜はほんとにいい育ち方をしたなあ。ほんとにいい両親だったんだろうなあ。こういう子が妹だなんて、自慢できるよな」 『両親』のうちの一人は自分の母親なのに、他人行儀な言い方だった。だが、桜は気づかなかった。その微妙なニュアンスにも、梅の心の溝にも。 < 5 > 「今日、梅を招待するから、ひかりさんも早く帰って来てね」 忙しい朝の時間に、桜はそう念を押した。 「オレがいる必要あるの?水入らずの方がいいだろ?」 洗面所でひげをそりながらひかりが応える。 「ひかりさんに会いたいって」と玄関の方から桜の声。 「えーっ?聞こえない」 「ひかりさんに会いたいんだってー」と桜は、ひかりの靴を磨きながら大声を出す。 「値踏みされんのかなあ。 ケーキでも買ってこようか」 「いいわよ、セッティングはやるから。ワインあけてもいいよね?」 梅と出会ってから一カ月。桜は、ウキウキ毎日が楽しそうだった。 『まるで恋人でも出来たみたいだな』 と少し寂しく思うひかりだ。こんなことでは本当に恋人が出来た時、いや嫁に行く時はどんなに寂しくなることだろう。 「あーあ。 いってきます」 玄関を出ると、大空とばったり会った。 「早いじゃん、美大生」 「課題の提出が十時まででね。 今日、梅君が来るんだって?」 二人は並んでバス停まで歩き始めた。 「 隣家だと筒抜けだな」 「だって、二,三日前から桜に聞かされてたからね。桜は梅君に夢中でさ。 ひーちゃん、最近桜にかまってもらってないでしょう?」 「大空こそ最近桜を連れ出さないな。いい傾向だけど。 オレはお前との交際だけは絶対反対だからなー」 「桜の事は、ただの幼なじみとしか思ってないってば。七歳から知ってる女の子じゃ立たないでしょうが」 「おまえ、うちの桜に対してなんてえげつないことを!」とひかりは憤慨して大空の襟首をつかんだ。 「もう桜とは口もきかせないからな!」 大空はおかしそうに、 「ひーちゃん、ほんとに『父親』してんだなあ。熱血だね」とからかった。 ひかりは「おまえー。このやろーっ」と赤くなって手を放す。 「桜のことは妹みたいに大事に思ってるよ。 ひーちゃんを兄貴みたいに好きなのとおんなじくらいにさぁ」 「よくもそんなことを、照れずにしゃあしゃあと。だから芸術家は信用できない」 「自分こそ、普段こんな不愛想なくせに、客先じゃニコニコしてコンピューター売ってくんだろ。だから営業マンは信用できないよなあ」 「おまえも働いてみればわかるよ。相手を上機嫌にさせてなんぼ、一回頭さげてなんぼ。 自分の時間を 人生の時間を切り売りしてるんだよな。あーあ」とひかりは軽くため息ついた。 「 オレ、ひーちゃんのそういう少年みたいなところ好きだよ」 「こいつ生意気なことを。十三も歳下のくせして。 だいたい、『ひーちゃん』ってもう呼ぶなって言っただろ」 「だって物ごころついた時からそう呼んでたのに、今更変えれないよー。 あ、ほら、バスが来たよ」 「うわ、走れ走れ」 午後からは雨になった。 「桜が傘を持っててくれて助かったね」 相合い傘で大学を出て、夕飯の買い物を一緒にした。 そっくりの二人がひとつの傘でいると、けっこう振り向かれた。目立つに違いない。 いや、それだけでなく、梅は美しかった。 同じ顔なのに、絶対誰が見ても梅の方が綺麗。悔しいほど綺麗。 どこが違うんだろう。さすがに桜も気づき始めていた。 梅の持つ妖艶な雰囲気。しぐさも優雅で美しい。 視線もとても強い。見つめられるとどぎまぎしてしまうほど、強い光を持っている。 「ケーキ買っていく?」 「僕は甘いのは 。あ、でも桜が食べるなら付き合うよ」 「ううん、雨で荷物になるし、いいや。家はすぐそこよ」 「うん、知ってる。昔見に来たから。桜の様子を見に、こっそりと」 梅はそう言ってくすっと笑った。 桜は少し驚いて、「いつ頃のこと?」 「おふくろが再婚してここへ来たばかりの頃と、亡くなって少ししてから、かな。 ごめんね、覗きみたいなことしてさ」 「ううん、そうやって心配してくれていたのね。ありがとう」 傘の中、梅は「いや 」とくすっと笑った。 「どっちの時も幸せそうだった。うれしかったけど、ちょっと切なかったかな」 「切ない?なんで?」 「僕の双子の妹が 。羽の片割れが、僕の存在を知らずに、僕と暮らさずにこうして幸せに笑っている、って。桜にとって僕はいらない存在なんだなって」 「梅 ・・・」 桜の顔が泣きそうにゆがんだ。梅はあわててフォローした。 「ガキだったからさぁ、自分のことしか考えなくてさ。バカだったよ。 おやじには僕は必要だったし、桜と知り合った今では、桜もこうして僕を好きでいてくれてる。今、僕は幸せなんだよ」 「御飯ができるまで、TVでも見てて。もうすぐひかりさんも帰って来るし。 今夜は梅が来るから、早く帰るって約束してくれたの」 「料理、ちゃんとするんだぁ。何か手伝おうかー?」 ソファに座った梅は、家の中をきょろきょろ見回しながら言った。 「ゆっくりしててよ。 これでもママが亡くなってから5年間も主婦して来たんだから、まかせてて」 「では、お言葉に甘えよう。でもその前に、おふくろに線香あげていいかな」 「あ 。気づかなくてごめんなさい。桜って親不幸だね。 こっちなの、どうぞ。ひかりさんの寝室だけ和室なんで、仏壇置かせてもらってる」 桜が先に立って廊下を案内した。 「いない時に勝手に寝室に入っちゃっていいの?」 「あれで結構綺麗にしてるのよ」とガラリと襖を開ける。 「 じゃあ、失礼して。 おふくろは、この家では随分ボーイッシュだったんだね」 短い髪で満面の笑顔の母の写真は、化粧っけもない。 「僕は、親父の絵の中の妖艶な女性のイメージしかないんだけど」 桜がしんみりしてしまったのを感じて、線香をあげて短い黙祷を済ました梅は、部屋を見回して、 「ふうん、ここが、ひかりさんの寝室かあ。 僕が女の子だったら、ちょっとドキドキしちゃうな」などとおどけて言うのだった。 桜が用意してくれた料理は、グラタン、ベーコンときのこのソテー、グリーンサラダ、オニオンスープ。そしてデザートに苺のババロア。 出来上がりを待つ時間、梅は山野家のアルバムを見ていた。 「ママの顔、覚えてた?」 「絵のイメージだけしか残ってない。でも写真を見て思い出したよ」 家族旅行、桜の入学式と卒業式、運動会、家族の誕生日、クリスマス、そして何でもない日の何気ないスナップ。 三人の時も、二人になってからも、写真の桜は笑顔だった。何の曇りもない、晴れやかな美しい笑顔。 緑の葬儀で泣いている写真さえ、素直で、愛されて育ったのが分かる泣き方だ。 七歳の桜、十二歳の桜、十七歳の 。 幸せを重ねて、桜はどんどん美しくなっていた。 薔薇の頬の色白の少女。丸い黒目がちの瞳、 長いまつげ。そして、まわりの人も思わず微笑ませる、幸せそうな屈託のない笑顔。 「どの桜もみんな可愛いけど、今のが一番いいな。今が一番綺麗だ」 「うまいこと言ってえ。もう料理は増えないわよ。 あ、このひかりさん、笑えるでしょ。小学校の運動会で一緒に走った時。まだ二十六くらいだから、若いよねー」 「桜はちっちゃいなー。これを撮ったのがおふくろか。 山野さんって、若い頃かっこよかったんだね」 「実は桜の初恋のひとなんだー。七歳の時の話だけどね。でもママに先を越されて失恋しちゃったわよ」と桜は嬉しそうに笑った。 ・・・でも、今も好きなんだね? 梅は声を出さずに桜に尋ねた。写真のひかりを追う桜の瞳が答えを語っていた。 < 6 > 「おそいわね、ひかりさん。しょうがないあ、もう」 八時を回っても、ひかりは帰らなかった。もうすぐ、九時も回る。 「先に食べちゃいましょ。もう待ってても無駄よ」 桜の口調には、怒りよりも悲しみの色が濃かった気がした。 「九時過ぎるまでは待ってようよ」 だが梅の申し出も無駄になった。柱時計はやがて虚しく九時を告げた。 「僕、家が遠いから、あまり遅くなると。 悪いけど先にいただきます」 「スープ、温めなおすね。 家は鎌倉だよね。面倒だったら泊まってっていいわよ」 「うん、でも、家を空けるとおやじが寂しがるから。 おかしいだろ、死んだ人なのに。でも、そんな気がしちゃうんだよ。 サラダもらっていい? グラタンもおいしいや。桜も食べなよ」 「うん。ワインも開けていいって言われてたんだ。わーい、飲もう」 梅は、一応ひかりに挨拶をしたいと言って、コーヒーを飲んだりTVを見たりしながら十時半まで待っていたが、さすがに遅くなるので腰をあげた。 「じゃあ僕、そろそろ」 「ごめんね、ひかりさんったら」 「ううん、僕こそ待たないで帰って失礼だけど、ごめん。よろしく言っておいてね。 避けられちゃったかな、僕。妻の前の夫に引き取られてた子供なんて、あんまり会いたい相手じゃないはずだもの」 「そんなこと!ひかりさんはそんな人じゃないわよ。 仕事で急に遅くなるの、よくあるのよ。毎日だいたい遅いしね」 「だいたい、いつも? そうかぁ。桜もかなりひとりぼっちで居たんだな。僕は、おやじが絵の準備でアトリエに籠もるとずっとひとりだったからね」 「梅 」 桜もひとりぼっちだったと知った時、梅がうれしそうに見えたのは、桜の気のせいだったのだろうか。 「じゃあ、お休み。ごちそうさまでした。 遠いけどさ、うちにも今度おいでよね。休日にでも、クルマ出してもらって」 「うん。是非うかがうわ」 「こんなこと聞いたらおこる?桜の彼ってあの美大生?」 「えーっ、違うわよ。彼氏なんてまだいないわ」 「ファーストキスは、じゃあ、まだ?」 「十八で、オクテだって笑ってるでしょ」 「ううん、そんなことないよ。でも、お休みのキスはここだな」 と、梅は呼吸するように自然に桜のひたいにキスをした。 「兄貴との初めては『綺麗』って言ったのくらいにしとこうな」 梅の唇がひたいに触れた時、桜の記憶がはじけた。 「よく、こうしておでこにキスしてくれてたわよね?」 「うちの家族の習慣だったよ。おやじもおふくろもこうしてよくキスしてくれた。 へえ、思い出してくれたの。うれしいな。 うちに来たらもっと色々思い出すかもね。ほんとに遊びに来てよ」 「うん、もちろん行くわ。 じゃあ、気をつけて。お休みなさい」 扉を閉めてしまえば、また昔の静けさ。 桜はキッチンでテーブルの片付けを始めた。 ひかりは、今夜も酒を飲んで帰って来るのだろう。 本当に接待の時もあるし、香水の香りがする時もあるけれど 。 ガチャリ。 玄関の鍵が開いたのは十二時過ぎていた。さすがにこの時間では、玄関に見覚えのない男物の靴はなかった。少しほっとする。 「おかえりー!」 居間から桜の大きな声。まだ電気がついている。TVの音も。 桜は、居間でワインの残りを飲みながらTVを見ていた。 「ただいま。おそくなってごめ おまえ、ずいぶん飲んだのか」 手には空のワインの瓶。 「ううん、梅が帰っら後、残りを」 ちょっとろれっている。 ・・・残りったって、きっと二人で飲んだのは一,二杯だろ。 「この酔っぱらい。ほら、立てるか」 ひかりは背広を脱ぎすてると、桜の腕を取った。 「大丈夫だよー。ひろりで立てるよー」 だがかなり足がもつれていて、その場にへたりこんでしまった。 「しょうがねえな」 「しょうがないのは、ひかりさんれしょーっ!梅は『避けられたかな』なんて言うし。かわいそうっしょ。ひかりさんをずっと待ってたんらから」 「ごめん」 避けたのは本当だった。ひかりは彼に会うのが少し怖かった。 「ほら、瓶どけて」と桜からワインの瓶を取り上げて、「よっ」と抱きあげた。 「きゃあ!」 「相変わらずちいちぇなあ」とひかりは笑った。 「ちょっとー!歩けるってばー!」 「暴れると階段から落ちるぞ」 「 ・・・。」おとなしくなる。 静かにしていると自分の心臓の音がひかりに聞こえてしまいそうだ。 ・・・あ。 今夜は、『香水』の方だ。 静かに桜の中に悲しみが広がっていく。 『慣れてるもん』自分にそう言い聞かせる。 ひかりは桜の寝室のドアを足で上手に開けると、ベッドに投げおとした。 「いたーい。もっと優しくしてよね」 「酔っぱらいにはこんなんで充分。 二日酔いで明日学校さぼったりしたら承知しないぞ」 「 ひかりさん、今夜は『プアゾン』のひと?」 「 なにさ、それ」 「香水の種類だよ。やだな、知らないの?」 「えっ。 」ひかりは何度も細かくまばたきした。うろたえている。 「オレ、ホステスの隣にいたからなあ。匂い、ついちゃったかな」 とシャツの腕をかいでごまかしている。 「 再婚、していいのよ。桜はもう大学生だもん。外に出てアパート借りるわ。梅の家で一緒に住んでもいいし。 ひかりさんの邪魔にはなりたくないよ」 「オレがおまえを邪魔にしたことがあったか?頼むから、そんな悲しいこと言うなよ。 今夜はオレが悪かったから 。梅君にも謝っておいてくれよ」 「うん。 ゴメン、もう言わないね。おやすみなさい」 ひかりはキッチンへ戻って、ウイスキーを持ち出した。飲み直しだ。 桜が、本当はいつも心の底ではビクビクしているのを知っている。自分はひかりにとって邪魔者ではないのかと、いつも自分の中で問いかけている。 ひかりの言葉を、信じても、信じても、沸き上がってくる同じ疑問、同じ不安。でも、それをおもてには絶対出すまいとして、ひかりの前では無邪気をよそおう。 桜の、年齢より子供っぽい雰囲気もしぐさも、無邪気であっけらかんと明るいところも、そういう風に自分を押し込めてコントロールして来たからに違いない。ひかりと暮らしていくには、それが必要だったからだ。 ひかりは今ではそのことに気づいていた。 ・・・まあ、惚れた男の前に出たら、ちゃん と『女の顔』するんだろうな。あんなガキのくせして。 でも、惚れた男の前で『女の顔』をしてはいけない時、少女が、少女の内側でどれほど『女』になっているかは計り知れない。 「2」へ |
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