あの夏を忘れない

sion 『真砂、お元気ですか? あたしはやっと社会復帰しました。貴方がいなくなって、もうすぐ一年たちます。
 でもあたしの季節は、あのときの夏のまま止まっています……』


 1.『SO LONG LONG AGO』

(ちょっとお、やばいよおっ)
 紫苑は、走りながら腕時計に目を落とす。
 約束の一時には、あと三分ほどしかない。このまま走って行けば一分強でつくはずである。本来なら、待ち合わせには間に合ってはいるのだ。
 だが、いかんせん待ち合わせの相手は、約束の三十分前には来ているというつわものである。早く行くにこしたことはないのだ。
(怒ってるかなあ。大丈夫だよね? とりあえず間に合っているわけだし。ギリギリだけど、さ)
 紫苑は頭の中でいろいろと考えながら、しかし走るスピードを変えはしなかった。
 本来待ち合わせをしたときは、いつもなら相手にあわせて紫苑は早く行くのだが、今日はたまたま夢見が悪く、起きるのが遅かったのである。……否、もっとはっきり言えば、単なる寝坊である。
 待ち合わせまであと二分三十秒。あと四十五秒もあれば待ち合わせ場所の公園に着くはずである。
 紫苑は公園に向かう角をまがる。そのまま少し行くと、車道の向こう側に公園の入口があるのだ。
「真砂ー!」
 紫苑は公園の入口辺りに立っていた真砂を見つけると声をかけ、そのまま車道に飛び出した。真砂に逢える嬉しさと安心感で、今までの不安な気持ちはかき消されていた。
 真砂は声のしたほうを向く。そしてそこに紫苑の姿を見つけると笑いかけ……その刹那、笑いが凍りつく。
「紫苑!!」
 真砂は紫苑の名を叫ぶ。
 その視線は、紫苑とその数百メートル先を行き来する。走って来る紫苑の数百メートル先に見えるのは、白い自動車。ブレーキは……間に合わない!
 真砂はそれを認識すると、迷わず飛び出した……ただ、紫苑のために。
 紫苑は、え? と真砂の視線の先を見、そしてその直後にすべてを悟る。
 ――ヒカレル!?
 頭ではわかっていても、体が言うことを聞かなかった。逃げなきゃ、という思いは、しかし紫苑を動かすことは叶わなかった。
 紫苑は足が凍りついたような感覚に、思わずその場に立ちすくむ。
「紫苑――っ!!」
 その瞬間、どんな音も紫苑の心にまでは届かなかった。
 誰かに突き飛ばされ――その事実でさえも気付くまでに数十秒もの時間が必要だったのだが――、その直後に真砂の声をかき消すかのようなかん高いブレーキ音が、辺りに響いて。
 ドン、という鈍い音と、それに続いて誰かが宙を舞うのが目について。
 そして。
 ……スローモーションのように地面に落ちて、バウンドしながら転がって行く……真砂の、姿。
「……あ、あ……」
 紫苑は無意識のうちに呟く。
 現状が把握出来なくて。
 信じたくなくて。
 視界の片隅には、止まっている白い車と、手近の電話ボックスに駆け込んで行く運転手の姿があって。
 目の前には、車とは対照的に赤い血と……倒れている、真砂の姿があって。
「……ま……」
 あまりのことに、紫苑はうまく声が出せなかった。すべてが自分の思うとおりには動いてくれないから。
「ま……真砂……っ!」
 紫苑は無理やり声を押し出す。それをきっかけにか、凍りついていた足は真砂の方へと向かった。
「真砂……真砂、真砂……!!」
 紫苑はその瞳に涙をためながら真砂を呼ぶ。他にどうすることも出来ないから。それでも呼び続けていないと真砂がどこかに行きそうに思えたから……だから。
「……し……」
 真砂は苦しげに呻きながらも、その口で言葉を紡ぐ。それはかなり小さな声だったけれども……。
「紫……苑……、よか……た、大丈夫……」
「しゃべらないで、真砂……っ。すぐに救急車が来るからね」
「もう……無理……。紫苑が、見えない、から……」
 真砂は力なく微笑う。
 そうしながらも真砂は、試すように少しだけ指先を動かしてみる……紫苑には気づかれないように。
 大丈夫。右手なら、動く。
 かなり無理があるけど……最後だから。
 真砂は重くなっている腕を動かし、紫苑の声がする方へ、ゆっくりとその腕をのばした。
「真砂、真砂っ、ごめんね、あたしのせいで……っ」
 紫苑の声が涙で曇る。のばした真砂の腕に落ちるのは……涙。
 真砂は残った力すべてで、紫苑を抱きしめた。
「紫苑の、せいじゃ、ない……。謝らないで……泣かないで」
 不意に、紫苑の背中に回した真砂の腕から力が抜けて。ゆっくりと静かに真砂の腕がコンクリートの上に、横たわる……。
 そして真砂は、その躰から意識を手放した。
「真砂……?」
 紫苑は恐怖に駆られて、真砂の名を呼ぶ。
 だけど、答える声はもう無くて。
「真砂、真砂……っ!!」
 紫苑は思わず真砂を揺さぶる。
「返事してよ、真砂……っ。目を開けてよぉ……っ!!」
 紫苑は真砂の体を抱きしめる。
 だって、まだ死んじゃいない。そんなことがあるはずない。だって……だって、まだ温かいのに。
 こんなに、温かいのに……!
 紫苑は遠くから響いて来る運転手の呼んだ救急車のサイレンのを、幻のように聞いていた……。




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挿し絵:えん(ありがとう♪)