あの夏を忘れない

 誰かが近寄って来る。あたしに、話しかけて来る。
 離しなさい。大丈夫、病院に連れて行くだけだから。
 やめて。無理に連れて行こうとしないで。離れないよ、絶対に。離さないからね。
 病院に連れて行くのだから、離しなさい。その子はもう、心臓が止まっているんだよ。
 嘘だ。それは嘘だ。まだ死んでない。生きてる。真砂は生きてるんだ。死んでるはずがないよ。
 ……だって、こんなに温かいじゃないか。
 まだ、温かいじゃないか……っ!

   ☆   ☆   ☆

 気がつくと、そこはベッドの上だった。
 特有の消毒薬の匂いや、真っ白いシーツなどから察するに、ここが病院の一室だということはわかる。わかるのだが。
 ……だがしかし、である。
 ……いつの間にこんなところに来たというのだろうか。
 紫苑は短く溜め息をつくと、必死に思い出そうとする。
 何故、ここにいるのだろうか。確か自分は、真砂に逢いたくて。待ち合わせに遅れそうだったから、それで急いでて。
 今日は、映画に行く予定だったんだ。
 ……大丈夫。映画にはまだ間に合う。待ち合わせには、遅れたけれど。
 紫苑は迷わずベッドから降りる。
 幸い私服のままだ。着替える必要はない。
 少し服はしわくちゃになってるけれど、今はそんなことを気にしている暇はない。折角真砂に見せるために買った服だけど、今度もっといいのを着て、真砂に褒めてもらうんだ。
 紫苑は病室を抜け出し、そのまま外へ出る。そしてそこが街中にあるものだと確信して、映画館のほうへと駆け出した。紫苑の行動を咎める人は、誰もいはしなかった。
 早く行かなきゃ、と紫苑は思う。
 早く行かなきゃ。もしかしたら、映画館で真砂が待っているかもしれない。大丈夫、この辺りには数回来たことがある。迷うことはないだろう。このまま十数分走って行けば、映画館に着くはずだし。
 紫苑は映画館に着くと、前もって真砂から受け取っていたチケット――待ち合わせで逢えなかったことを想定して、念のためにと真砂が渡したのだ――を受付で渡し、半券をもらって中に入る。そして見える範囲で館内を見回したが、そこに真砂の姿は見つからなかった。真砂の性格からして、こういうときは入口付近にいるはずなのに。
 きっと、少し遅れて来るんだ。
 紫苑はそう思いつく。そしていつ真砂が入って来てもすぐにわかるようにと入口付近に座った。
 予告編が始まったころに駆け込んで来る人を、紫苑は注意深く眺める。が、そこに真砂の姿はなかった。


 その日の映画は、名前も知らない古い映画のリバイバルしたもので、二本立てだった。本当ならあまりリバイバルを見はしないのだが、作品解説でそれがファンタジー系のラブストーリーだと知った紫苑が行きたがったのだ。真砂もその類いの映画は決して嫌いではなく、なにより紫苑の喜ぶ顔が見たいがためにチケットを取った。映画情報誌を見ながら呟いた、いいなあ見たいなあ、という紫苑の言葉を叶えるためだけに。
『逢いたくなるの』
 スクリーンの中の彼女が言う。
『逢いたくて逢いたくてしょうがなくなるの。その人が……彼が幸せになれるなら、きっと何でも出来る。たとえそれが自己犠牲だったとしても、それで彼が幸せになれるのなら喜んで出来るよ』
 そう言って笑った顔が、凄く綺麗だと紫苑は思う。きっとそれは本当の想いだから。
 突如現れた、龍との戦い。彼女は大切なものを守るために、自ら戦いに赴いて。彼と、彼のいるその場所を守るために。
 龍に切りかかろうとした、刹那。彼女は一瞬だけ止まってしまう。……彼をめがけて、龍がその手を振り下ろそうとしていたから。
 彼女は何も考えずに、ただ条件反射で彼と龍の手の間に入る。絶えず張っているシールドと自らの躰により、彼への打撃をくい止めようというのだ。彼女は龍の手によって、数メートル吹き飛ばされる。
『――!!』
 彼が彼女の名を呼ぶ。
『なんでそんな馬鹿なこと……っ』
『ば……かなことじゃないよ』
 彼女は呼吸を正常に戻しつつ、言う。
『馬鹿なことなんかじゃないんだよ。あたしがそうしたかったんだから。だから、意味はあるんだよ』
 そう言って彼女は彼を安心させるかのようににっこりと笑う。
 紫苑は不意にスクリーンから目を離す。何かの風景が重なって。
 ……白昼夢? 幻影? それとも……
 忘レタハズノ、過去?
 紫苑は目をぎゅっと瞑る。これ以上見てはいけない。何も聞いてはいけない。
『大事なものを守るときはね』
 それでも聞こえて来る、彼女の声。
『予想以上に強い力が出せるのよ』
 紫苑は、不意に流れ出た涙を止めることは叶わなかった……。




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