SKY −手の届く場所−

  1.『OPENING』


 初めて彼に逢ったのは、五月に入って間もない頃。あたしのよく行く『たぬきこうじ』のCD屋で、彼は何やら複雑そうな顔をしてCDを見ていた。
「……何を、探しているの?」
 声をかけた理由は、もう忘れてしまったけれど。
「いや……探してるんじゃなくて」
 彼はCDのタイトルを見たまま、答えた。
「ここに、名前がひとつ足りなくてさ」
 そう言ってから彼は、はっとしたようにあたしを見た。そして少し迷ったような空白のあとに、彼は苦笑いを浮かべてあたしに言った。
「つまるところこれは愚痴なんだけどね……」
 彼は、邦楽のサ行の列を指でなぞっていく。
「ここに……」
 その指は、『す』のところで止まった。
「ここに、SKYってのがないのが、不思議でさ」
「スカイ? ……バンド?」
「そう。俺たちの、ね」
 まだまだアマチュアなんだけどね、と彼は続ける。
「だけど、こんなくだらなくて全然かっこよくも何ともない奴らのCDがここにあって、俺たちのがないってうのがね、どうも……」
「でも、同じ場所にいないなら不戦負と同じじゃない」
 あ……やばい。きつかったかな。
「そうだよねえ……負け犬の遠吠え状態だよね」
 だから愚痴なんだけどさ、と言って彼は、人の心配をよそに、乾いた笑いを浮かべる。
「ごめんね、見ず知らずの人にこんな話しちゃって。変な人って思ったでしょ?」
「ううん、そんな……。そんなこと言うなら、あたしも声かけちゃったし。見ず知らずの人に。迷惑だった?」
「いや、そんなことないけど。……もしかして、逆ナンパするつもりだった?」
「まっさか!」
「だよねえ」
 おねーさんはそういう人に見えないからねえ、と彼はなんか勝手に納得している。でも、結果的にはそういう人っぽくなっちゃってるんだけどなあ……。
「あ、おねーさん今度の金曜日の夜お暇? 暇ならライブ見に来ない?」
「ライブ? SKYの?」
「うん、そう。六時からこのビルの五階のホールでやるんだけどさ。ま、ホールって言っても、キャパ百人弱の小さいところなんだけどね」
 彼はちゃっかりと宣伝しまくる。なんか……うまいなあ、この人。
「行けると思う、けど」
「本当? じゃあこれをあげよう」
 そう言って彼はポケットの中の財布から、チケットを取り出す。
「あ、お金は……」
「いいよ、気にしなくて。愚痴聞かせちゃったお詫びです」
「え……」
 愚痴聞かせたお詫び、って……。
「駄目だよ、そんなの。払うよ、あたし」
「だからいいんですってば……」
「駄目だってば!」
「……じゃあ、こうしよう。当日ライブ見て、それに値すると思っただけの金額をいただく、ということで。それでいいでしょ?」
 ……なーんかうまく丸め込まれた気が……。でも、とりあえずあたしは、うん、と返事をしてチケットを受け取った。
「五千円くらい用意して来ないと危ないかもよ?」
 ……大した自信じゃないの。
「一万円くらい持ってっとくよ」
 あたしはくすくす笑ってそう切り返す。彼は少し笑うと、じゃあ俺はこれで、と言って帰ろうとする。
「あ、待って!」
 あたしは思わず呼び止めてしまう。何かを伝えなきゃいけないような、そんな気がして。
「何?」
 彼は行きかけた足を元の場所に戻して、訊く。
「あ……あのね、全部が全部駄作ってわけじゃないよね、このCDたち。本当に凄い曲なら…… 負けを認める?」
 なんとなく、訊いてみた。本当は、勝ち負けなんかじゃないけど。そんなことわかってるんだけど。
「負けないよ、俺たちは」
 空は青いんだよ、とでも言うような、そんなふうに簡単に出て来た言葉みたいだった。
 そうか……当たり前なんだ。この人たちにとっては。きっと、それだけの自信とそれに見合った技術を持ってるから。だから。
「ライブ、期待してるね」
「おお。とりあえず損はさせないから」
 じゃ、と言って今度こそ彼は去ってく。
「しまった……名前訊いとくんだった」
 あたしは彼の背中を見送ったあとで、そう独りごちる。そして、貰ったばかりのチケットに目をやる。本来それは六百円で売られてるようだった。アマチュアなら、妥当なところじゃないのかな、よくわかんないけど。
 あたしはその日買う予定だった、めちゃくちゃかっこいい曲が盛りだくさんのアルバムをやめて、別のビルに行って服を買ったのだった。アルバム欲しかったんだけどなあ。
 仕方ないか。




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