SKY −手の届く場所−

「ちわーっす。宏伸くんと美奈が来たよーんっ」
 などと軽く言ってチャイムを鳴らさずに拓の家に入って行った宏伸くんの後ろについて、おじゃましまーす、とあたしが言いつつ拓の家に上がり込んだのは、午後七時半を少し回ったくらいの時間だった。
「いらっしゃい」
「……二人一緒なんてあっやしーなあっ」
 などと出迎えてくれたのは、雅樹さんと望さんで……どっちがどっちの科白かなんて、推して知るべし、ってやつだろう、うん。後の科白を雅樹さんが言うはず、ないもんなあ……。
 で、問題の家主さんこと拓は、というと。
 ……探す必要もない。またシンセサイザーに向かっていた。いつものこと、だよなあ……。
「なになに、デートでもしてたの?」
 望さんが興味津々って感じで訊いてくる。あたしは勿論速攻で、違います残念でした、と言おうとしたんだけど。
「そうなのさっ、今まで美奈と二人っきりでデートしてたのさっ。ふふん、いーだろぉ」
 宏伸くんがそれよりも早く、たわけたことを……いやいや、えっと……まあ、そんなことを言ったんだ、うん。望さんは、へぇぇ……、とにやにやしながらあいづちをうって。
「『美奈』ねえ……大した進歩ですこと。若いっていいなあ……」
 などと、なんだか意味深なことを言った。
「進歩って……何が?」
 気になったからそう訊いてみると、宏伸くんがなんだかムキになって
「いーのいーの気にしなくてっ! ぜんっぜん大したことじゃないんだからっ」
と言うもんだから。
 あたしはなんとなく気圧されて、あ……そーなの? としか言えないで、そこでその話は終わってしまった。うーん……でも気になるよぉ……。
「あれ、美奈。いつ来てたの?」
 不意に横からかけられた声は、本当に驚いたように発せられていた。……なんだかなあ。
「つい今さっきだよ。お邪魔してます」
 科白の後半で、あたしはペコリと頭を下げる。それにかぶせるようにして宏伸くんが、拓ちゃーんっ俺もいるんだけどーっ、などと情けない声を出した。
「あれ、美奈その指輪何?」
 拓は思いっきり宏伸くんを無視して、そんな言葉を投げつけて来た。
「ピンキーリングだよ。イヤーカフと一緒に宏伸くんに買ってもらったんだ」
「ほおおお、もう指輪までプレゼントしたのか。ほんっとに大した進歩だよな、宏伸」
 なんだかいきなり望さんがめっちゃくちゃわざとらしくそんなことを言ったんだけど、宏伸くんが思い切りそれを遮るかのように、はいはいわかったわかったから黙ってよーねのぞみちゃんッ、と一気に言ったもんだから、後はもう今のは何だったんだ一体、と思うしか出来なかった。うーん……何だか変だな今日は……。さっさと、帰ろうかな。
「拓、何か曲作ってたんだ?」
 あたしは拓を見て、そう訊く。確認する、ってほうが正しいかな。拓はすぐに答えをくれたけど、それは期待していたものとは、少し違った。
「うんにゃ、作曲はしてない。遊んでただけ」
 なーんだ。ちぇーっ。
「そっかー。ま、それじゃああたし、もう帰るね」
 あたしが、もう用は済んだとばかりにそう言うと、みんなが口々に科白を言い出して。
「あ、そう? んじゃ、気をつけて」
「何、もう帰るって? 本気で言ってんの、それ?」
「もう少しゆっくりしていってもいいと思うけどな」
「えーっ、何でどーしてー? もっと遊ぼーよぉ」
 ……ちなみにこれは、拓・望さん・雅樹さん・宏伸くんの順だ。ここが本来誰の家か、なんて……これっぽっちも考えてないんだろうなきっと。
「今日は、家にいたい気分なんです。なんとなく、ね」
 だから帰ります、と言って玄関に向かおうとしたら。
「送ってく」
 さも嬉しそうに宏伸くんが言って、あたしの横をさっさとすり抜けて行った。……えーっと。
「それじゃ、おジャマしました」
 あたしはペコンと頭を下げて、玄関へと向かう。
「道中気ぃつけてねー」
 ……という望さんの言葉は、当然ムシだ。うん。


「なーんかさ、こんな役得な日も珍しいと思わない?」
 ちょっとだけ遠回りをしようよ、と宏伸くんが大きな通りに出て、そこをなんだか軽快に歩きながら、少しだけ後ろを歩いていたあたしのほうを振り向いて、そう言ったんだけど。……何が、『役得』?
「美奈とお茶できたし、美奈とショッピングもできたし、美奈と帰ることもできたし……。朝イチで逢えたし、ね」
 宏伸くんが、指折り数えて言うから。
「どっかでゴカイされてたりして」
 なんてイジワルっぽく言ってみたのに。
「美奈となら、誤解でもなんでも構いはしないさっ」
 すぐにそう切り返されてしまった……。ちぇー。
「もおっ、そんなことばっかり言ってさっ。宏伸くん、好きな子とかいないの? その子に本当に誤解されたって、知らないよっ?」
 あたしが少しいじけたようにそう言うと。
 ……不意に、宏伸くんの表情が、変わった。
 いつも、ニコニコしてて。今もそれに変わりはないけど。
 だけど……表情の奥にあるものが。
 その色が、変わった。
「いるよ、好きな子」
 真剣な、だけど優しい声。
「好きな子くらい、いるよ」
 キイチャイケナイ。
 不意に、そう思った。
 聞いちゃいけない。聞いたら何かが変わってしまう――きっと。
「知りたい?」
 宏伸くんの瞳の奥にある、強そうでいて脆そうな、そんな光が。
 ダメダダメダダメダ。
 警告。
 聞いてしまえば、何かが壊れる。きっと。
 だけど……だからあたしは、何も言えなくて。
 知りたい、とも。知りたくない、とも。
 逃げることさえもできないその耳元に。宏伸くんの、少し掠れた声が……響いた。
「今俺の目の前にいるよ、その子」
 誰もいない道で。他の子にそれを押しつけることで誤魔化すこともできなくて。
 近くの信号が赤から青に変わるまでの時間、あたしたちはお互いに動けないでいた。
「……冗談、だよね?」
 走り出した車のエンジン音が耳に届いてから、ようやくあたしはそう呟いた。宏伸くんは、ちょっとだけ苦笑した。
「冗談なんかに聞こえちゃうんだ、やっぱり」
 俺はいたって本気なんだけどな、なんて。
 宏伸くんが小さく続ける。……続けちゃったり、するから。
 あたしはどう答えたらいいかわからずに、ただうつむいていた。
「今年になってからさ、地下鉄の中でよく見かける子がいてね。なんか、友達と一緒だとずっとにこやかに話してるくせに、一人だとすっげー淋しそうでさ……。やたら気張ってたりもするんだけど、淋しそうなんだ。顔が……目が、違うんだよ」
 宏伸くんがゆっくりと歩き出しながらそう話し出した。あたしはその隣を歩きながら、だけど何のことかもわからずにただ、うん、と頷いていた。
「それがすっごく気になってたんだ。でも、話しかけるのもなんだし、だからずっと見てたんだ」
 宏伸くんが、穏やかな顔でそう離してくれる。だけど。
 ……何のことを話してるんだろう。誰のことだろう。
 わからない。知らない。違う。そうじゃない。そうじゃなくて。
 ――知ってる。
「そしたらさ。偶然その子がライブに来ててさ。んで、のぞみちゃんが声かけてさ。拓んちで正面切って逢ったときは、嬉しかったよ……。
 それが、美奈だったんだ」
 そう……知ってるはずだ。それは、あたしのことなんだから。
「見られてるとは……思わなかったな。地下鉄の中で」
 独りでいるところを。そんな風に、誰かに見られてるなんて。
「気づかないところで、意外と見られているもんだよ」
 ふふんっ、と宏伸くんは勝ち誇ったように笑う。
「そんでさ、なんか凄く仲良くなれたじゃん、俺たち? だから嬉しかったんだけど……凄く嬉しかったんだけどさ。それて、嬉しかったのと同じくらい嫌でさ……」
 だから告白したのでありました、と宏伸くんが軽く言う。軽く言うけど……真剣なのは、伝わってくる。
 本気なのが、わかってしまう。
「そーんな困った顔すんなよなっ」
 不意に、宏伸くんが少しかがんであたしの顔を覗き込んでくる。
「美奈が拓のこと好きだってことぐらいわかってるよ。別に俺、困らせたくて言ったわけじゃないしさ。今まで通り、『仲間』でいよーぜ。な?」
「うん……うん。ごめんね。でも、気持ちは凄く嬉しかった。ありがとう」
 なんだかあたしはどうしてもそう言わなきゃいけないような気がして、そう言った。宏伸くんは何も言わずに、ただにっこりと笑っていた。……哀しそうな色を、瞳にたたえて。
「これはさ、俺の直感なんだけどさ」
 宏伸くんはまた歩き出しながら、言う。
「拓って不器用な奴だから、表には出さないけど……あいつ、きっと美奈のこと好きだよ。きっと、特別だよ」
 ……そうかなあ。本当にそうだとしたら、嬉しいけども。
 って言わなくても顔にはしっかりと出ていたらしく。
「おにーさんの言うこと、信用しなさい」
 にっ、て笑って宏伸くんが言った。
「宏伸くんって、優しいね」
「そーでしょ? だから拓に飽きたら、いつでも待ってるよ、ハニー」
 最後の方は、いつもの宏伸くんに戻ってた。
 それが少し哀しくて……だけど普通に話しながら、あたしんちに帰って行った。
 アパートの、階段付近で、もう一度宏伸くんに、ありがとう、って言ったら、レディを送るのはジェントルマンの仕事のひとつさ、って返された。
 けど、あたしが言いたかったこと、宏伸くんにはちゃんと伝わってるみたいだった。ただ、答えをはぐらかせただけで。
 やっぱ宏伸くんって、いい人だよ。
 そう言いたかったけど、言ってしまったらそれは体のいいフリ言葉のような気がして、言えなかった。
「じゃあ、おやすみなさい」
 あたしがそう言って今日はここまで、って言外に伝えると。
「また遊ぼーね」
 宏伸くんはそう言ってきびすを返し、少し早足で拓の家へと向かった。
 一度も振り返らなかった宏伸くんの背中が、何だか淋しかった。
 そうだね……あたし、拓じゃなくて宏伸くんを好きになっていたら良かったかもしれないね。……でも、拓の音じゃなきゃ、駄目だから。
 もう、拓の音じゃなきゃ……駄目だから。


 あたしはその夜、凄く泣きたい衝動に駆られて、でも独りだったから泣くのはやめた。
 独りで泣くのはやめた。
 けど、宏伸くんの気持ちを思うと、もっと哀しくなって……胸がぱんぱんになっちゃったから、布団を被って無理矢理眠った……。




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