3.
受話器を上げ、ボタンを押そうとして……だけどやっぱり受話器を元に戻す。電話番号を忘れたわけじゃない。だけど。
「困ったよおおおっ!」
叫んでしまうほどあたしが電話をかけられない場所とはつまり……拓のところしかないわけで。
うやむやのうちにライブのチケット代を渡し忘れたまますでに三日――そう、三日もこんなことやってるんだ! ……馬鹿みたい……――たってるし。一日目は、翌日ってのはいくらなんでも早すぎるよな、で次の日に回して、二日目は明日のがいいんじゃないかなあ、で次に日に回した。今日は……もう回せないだろう。いいかげん、そろそろさ。
覚悟、決めて。
あたしはもう一度受話器を持ち上げて、一度深呼吸する。電話番号は、はっきりいってもう暗記した。暗記出来るほどこんなことを続けてた、ってことなんだけどさ。つくづく、馬鹿みたい。
あたしはゆっくりと電話番号を押す。コールが、鳴り出す。ドキドキする。
コール一回。二回。……三回。
『もしもし文月ですが』
「あっ……」
うわああっ、拓だっ。
「あのっ……」
とだけ言って、そのあとを言えずにいると。
『美奈?』
どおしてこれだけでわかるんだっ!?
『いつ電話くれるかと思ってた』
ああよかった、なんて拓が呟いて。なになに美奈ちゃん? なんて声が受話器の向こうから声が聞こえてきて。誰だろう、と思った瞬間に、その声が出た。
『美奈ちゃん、俺だよーん』
「望さんですかもしかして?」
なんか聞き覚えがあるなあと思ったら、それもそのはずSKYキーボーディストの三塚望氏だった。
『望さんですもしかして。美奈ちゃん暇してんの?』
望さんは変な答え方をして、それから訊いてくる。
「とりあえず暇ですけども……」
『じゃあ、おいでよ』
「は?」
『おいでよ。みんないるからさ。待ってるからね』
「あ、あのっ、望さんっ!?」
呼んだのはいいが時既に遅く、空しくも受話器からは、プーップーッ、という音しか聞こえてこなかった。
それで結局あたしはなんでこんなところにいるんだろう、と考えたのは、午後八時十五分。ちょうどあと二分半ほどで拓の家に着くというところで、つまり場所はあたしの家と拓の家の半分くらいのところだった。
別に考えたところで、ここからUターンして家に帰ろうとするわけではないし、拓ん家に行くのをやめようをするわけでもない。とりあえずあたしが拓ん家に向かっていることは確かだし、だからつまり結局。
あたしが電話した意味というのが、ね。なくなってしまっているような……いいんだけどさ別に。
そうかうやむやって言葉はこういうときに使うのか、と納得しながらとりあえず鞄の中に詩(三日前に書いたやつだ)を突っ込みつつ、瞬時に鏡で自分の格好を点検しつつ、急いで家を出たのが今から既に三分半前。おかしいなあ、つい十分程前までは電話ひとつ出来ないで悩んでたはずなんだけど。そりゃもう、鬱陶しいくらいに。そうかこれがどさくさまぎれってやつなのか、とつい思ってしまう。本っ当にいつの間にかこういう事態になっていたわけで、つまり結局これは全て望さんのおかげだということになる。もう最初からずっと望さんのお世話になりまくってるなあ……。もの凄く、悪い気がする。
そんなことをうだうだ考えつつ歩いてたら、いつの間にか拓の家の前だった。そこであたしは、また悩み込んでしまう。
目の前には、インターホン。いや、押すのはとても簡単なんだ。簡単、なんだけど。
押して、拓がインターホンに出たら何と言えばいいのだろうか。
……いつも、だ。最初の一言で、いつも迷う。どうしようもないほどに。
ええいままよ、とあたしは勢いにまかせてチャイムを鳴らす。その、五秒後。
がちゃ、といってドアが開いた。……えええっ!?
「あ、いらっしゃい。入って」
それが、拓の一言目で。
「あ、ども……」
というのが、あたしの一言目だった。
だからっ! あたしの悩んだ時間はいったい何だったわけ!? ……ちくしょお、もう絶対悩まないぞっ。
「いーらっしゃーい。待ってたよん、マイベイビー」
入って行ったとたん、そう声をかけられた。
「……誰が『マイベイビー』なんでしょおか、宏伸くん」
「おや、マイハニーのが良かった?」
「…………別にいーですけどね、別に」
こう言っちゃなんだが、宏伸くんは軽い。本当に軽い。惜しいなあ、かっこいいのになあ。
「いらっしゃい」
とにっこり笑ってくれたのが、雅樹さんで。
「何か飲む?」
と人が座ってもいないのに訊いてきたのが、拓だ。
あたしは仕方なくその辺に適当に座ってから、何あるの? と訊いた。
「午後の紅茶にオレンジジュース、ビールにワインにただの水」
「……午後の紅茶ください」
あたしはとりあえずそうリクエストする。ただの水って……そりゃどこにでもあるだろうなあ……。
さて、とあたしは落ち着いてから……ふと気づく。いや、今まで忘れ去っていたわけではなくて。ただ、いるもんだと思ってたんだけど。
「望さん、いないの?」
電話であたしを誘った張本人の姿が、見えない。
「三塚さんなら、買い物に行ってるよ」
拓がコップにジュースを注ぎながら教えてくれる。
そうかあ。いないなら、戻って来てから詩を見せよう。二度手間は嫌だし。
「三塚さんに用事だった?」
はい、と言って拓がコップをくれ、ついでのようにそう訊いてくる。
「というわけじゃなくて、みんなにだったんだけど」
あたしは答えつつ、ありがと、と言ってコップを受け取る。
「え、なになに? みんなにって?」
宏伸くんが興味津々って感じで訊いて来たけど、あたしは後でねとだけ言って、それで終わらせた。
「こうやってみんなでよく集まったりするんだ?」
あたしが話題を変えるために話をふると、拓は壁によしかかって座りながら、ちょっとだけムスッとした顔をした。なななんだあ?
「みんなが勝手に家に来るんだよ」
な、なるほど。
「ひっでえ言い草……。拓ちゃん冷たいっ。あーあ、もう俺傷ついた。再起不能。立ち直れなーい。美奈ちゃん慰めてー」
宏伸くんがずりずりとあたしの横にはい寄って来て……膝の上に、頭を乗せた。
ひゃあああっっ。
「何すんのいきなりっ!?」
あたしはびっくりしてそのままの状態で少し後ずさる。あたしの膝に頭を乗っけてた宏伸くんは、それについてこれずにフローリングの床に頭をぶつけた。……ゴン、とかっていってるよ。痛そお。
「うっうっ、美奈ちゃんも冷たい……」
「今のは宏伸が悪いと思う」
「……うっうっうっ、叶さんも冷たい。氷河期みたい……」
いーんだもーんそれでも強く生きてくんだもーん、と宏伸くんは体育座りなんかして小さくなってる。
「宏伸くんファイト」
とりあえずあたしはそう言って宏伸くんの頭を撫でた。いや……年上の人に対して失礼かもって気もするけど、なんかだって可愛くて。
「ありがとお美奈ちゃん。俺もう一生美奈ちゃんの側にいよう……」
……とりあえず宏伸くんも喜んでるらしいし……。
どうも、この人たちとつきあってくのはちょっと難しいらしいぞ。
「たーだいまあ」
不意に玄関の方でガチャッと音がして、それはそのまま望さんの帰りを告げていた。ちょっと節をつけた声。
「やあ美奈ちゃんお久しぶり」
リビングに現れた望さんは、三日ぶりに逢う人にはやや大袈裟な挨拶をして、適当に空いてる壁際の床に座る。
「美奈ちゃんクッキー好き?」
袋をガサゴソやりながら、望さんが訊いて来る。
「好き……ですけども」
あたしはその質問が表す目的がわからずに、でもとりあえず答える。
「よかった。バタークッキー買って来たんだ。二人で食べようね」
……二人で……って。おいおい……。
「酷いっ酷いわっのぞみちゃんまで冷たいなんてっ。ああもう僕はどうやって生きていけばいいのっ!?」
いきなり言い出したうえに泣き伏した(真似をした)宏伸くんを、望さんはチラリと横目で見て、一言。
「何なの、これ?」
…………これと来たか。……うーん……。
と悩んでいたら、実はもっと上手がいた。つまり、拓と雅樹さんが。
「単なる粗大ゴミ」
「歩く騒音」
と、これはペンです、って言うくらい簡単に言った……。さすがに宏伸くんはいじけて、何も言わずに横を向いて壁にもたれかかった。
「え……あのちょっと、いいの?」
あたしは拓たちと宏伸くんを交互に見ながら、訊く。だけど拓たちは慣れたもので、
「大丈夫だよ、いつものことだから」
「どうせ美奈ちゃんに構って欲しくてやってるだけだって」
「腹が空いたら戻って来るだろ」
なんて、言ってたけど。あたしはやっぱり気になって、宏伸くん? と声をかけた。けど、返事がない。どどどうしたんだろ。
「ねえ? 宏伸くん」
あたしは宏伸くんの方に手をかけ、ちょっと揺さぶってみるけど、それでも何の反応もなかった。……何かあったのか、眠ってるだけなのか。
どっちだろう、と思った、その瞬間だった。
いきなり宏伸くんの手が動いたかと思うと、肩にかけてたあたしの手が捕まれ、え? と思った瞬間には、その手の甲に……キスされてた。
「スキあり」
宏伸くんが上目使いににっと笑い、大胆不敵にそう宣った。
次の瞬間、あたしの逆の手が出たことは、言うまでもない。
「そういえばさっき、用事あるって言ってなかったっけ?」
三十秒程笑い転げた上に止まったと思えばまた吹き出すという連続技を三回程ぶちかまし、落ち着くために飲んだビールを一缶空けて二缶目を飲もうとしたときに、思い出したように拓があたしを見て言った。
「……しまった忘れるところだった……」
これを忘れたら、はっきり言って今日来た意味がなくなる。
あたしは鞄の中から三日前に書いた詩を取り出した。
「三日前に、家に帰ってすぐに書いた詩です。本当は拓にだけ見せればいいやつだったりするんだけど、やっぱりみんなに見て欲しくて……」
あたしはそう言ってとりあえず拓に手渡す。他の三人は、それを後ろから覗き込むかのように見た。
う……わああっ、この瞬間って実は結構嫌なんだよな……っ。なんていうか、凄く居心地が悪くて。緊張、してるからかな。見られてるハズカシサと、見てもらってるウレシサと、モットガンバンナキャホントハ、って気持ちと。全部が交ざってて、凄く変な気分だ。
ふうっ、と。一番先に読み終わったらしい拓が、後ろの三人にノートを手渡して思いっきり溜め息をついた。そのすぐあとに三人も読み終わったらしく、ノートをリビングの床に置いた。それから、沈黙。……えええっ!?
(なななんで誰も何も言ってくれないのっ!?)
一瞬だけものすごーっく焦ったんだけど。だけどすぐに三人が拓を見ていることに気づいた。
それから、三秒後。
「……参りました、って言っていい?」
拓がポツリと言う。その意味がわからなくて黙ってると、いきなり拓がその床に転がった。えええええっっ!?
「参ったよなあ。俺がまだ詩に出来ないって言ったの、そのまんま詩に入れて持って来んだもんなあ。悔しいよなあ……」
そのまんまの状態で、拓がポツリポツリと呟く。
「まあ、こいつのごくごく個人的な感想はほっといてさ」
望さんが床に置いたノートをあたしによこしてくれながら、いいと思うよ俺は、と一言言ってくれた。
「美奈ちゃんらしい詩だよね」
宏伸くんが、うんうんと頷きながら、言ってくれる。
「いつか、ライブで使おうか?」
……雅樹さんが言った言葉は、やっぱり少し拓への意地悪も交じってるんだろうか。
とにかく、気に入ってくれたらしい。よかった。
「少し時間かけてもいい? ちゃんと使えるものにするから。絶対」
拓が誰に言うともなく、寝転がったまま言った。
許可、じゃなくて、確認。
あたしはそれを、ノートを鞄にしながら聞いていた。
「いいんじゃないの? 新曲があるから、一週間以上は軽くつなげるし」
望さんは軽く言って、それよりもさ、と続ける。
「こないだの『MOON』、いつ発表しようか? 『約束』発表したばかりだし」
ああ……なんか本格的に話が進んでるらしい。本当にあの詩が世に出るのかあ……うーん……。
「二週連続新曲発表、ってのは駄目?」
宏伸くんが、ポン、と手を叩いて発言する。でも……二週連続は……ファン心理としてはやっぱり……。
「二週連続、かあ? うーん……」
「やめた方がいいんじゃないか、それは」
考え込んでる望さんに、雅樹さんがそう進言する。望さんは、ますます考え込んで。
「美奈ちゃんは、どうしたらいいと思う?」
あたしに話をふって来た。……ええっ!?
「あの……それよりも先に、拓自身はどうしたいのかって……」
あたしが必死に話の方向をずらそうとして出した言葉は。
「ごめん、今頭ん中曲でいっぱい……」
という寝転がったままの拓からの言葉で一気に潰れた……。うー……どうしようね、これは。
「あの……これは多分一般的なファン心理だと思うんですけど」
仕方なくあたしはそう前置きしてから、言うことにした。
「SKYはCD出してるわけじゃないから、新曲を覚える場所ってライブくらいしかないから……それで二週連続で出ると、覚えるのが大変なんじゃないかな……。やっぱり、一緒に唄いたいってみんな想ってるだろうから」
新曲出るのは嬉しいとは思うんですけど、とあたしはポツポツと言う。望さんたちは、なんだか考え込んでるみたいだった。
「今は、ライブの生録って策もあるけどね」
宏伸くんが言うけど。
「歌詞カードがついてるわけじゃないから」
あたしは苦笑しつつ返した。
以前に、結構売れてたユニットが三カ月連続でCDを出したことがあるけど。それはプロだから……CDだから出来ることなんだと、思う。何度も聞けて覚えられるものと、直接しか――確かに生録って策もあるけど――聞けないものとでは、ファンの心境も変わって来る。そういうことだと思う。
「じゃあ、それで行くと……いつ頃が出し頃かなあ」
望さんは、ライブが月四回だからあ、と指折り数え始めた。
……ライブ、月四回? そんなにやってるの? そういえば、さっき二週連続とかって言ってなかった?
あたしがびっくりしてると、それに気づいた雅樹さんが、詳しく説明してくれた。
「毎週土曜に、ライブハウスでやってるんだ。こないだ美奈ちゃんが来た金曜のライブは、ある意味突発でね」
つまり。SKYは毎週土曜ライブハウスでやってて。此間の金曜は、その前の週の土曜にライブハウスでさばいたチケットらしく。要はSKYの固定ファンの中の、更に数人しか来れないライブだった、ということらしい……。ど、どーりで座って聴いてる人がほぼいなかったわけだ。
「そうだっ! ライブのチケット代渡してなかったんだっ」
あたしは不意に思い出して、それと同時に叫んでた。拓が、ビクッとして身を起こす。望さんたちが、びっくりしてあたしを見る。うわあ……っ、馬鹿なことしたっ……。
「ああ、そういえばそうだっけ」
俺も忘れてたよ、と拓はなんだかボーッとして言う。……頭ん中曲でいっぱいとか言っときながら、実は寝てたんじゃないだろうか。
「別にいいよ。どうせ予備のチケットだったし。詩も貰っちゃったし」
拓はそれだけ言うと、また寝転がる。……やっぱり絶対寝てると思うぞ、これは。
「なに、アイツ予備を渡してたの?」
望さんは半ば呆れたように言う。
「なんですか、『予備』って?」
気になってあたしが訊くと、それはね、と望さんが答えてくれた。
「売るときにチケットが破れたり紛失したりして枚数が足りなくなったりしないように、少し多めに用意しとくんだ。それが予備のなんだけど。通常、ソールドアウトしたら捨てるんだけどね」
なんでコイツは持ってたんだか……、と望さんが言う。
確かに、なんで拓はそんなモン持ってたんだか……不思議だ。
「ま、チケット代はさ、そんなことだから要らないよ。ね?」
どーせ六百円程度だしー、と宏伸くんが節をつけて言う。
「ん−……じゃ、遠慮なく」
でも、とあたしは言おうとしたけど、やっぱりやめた。別にケチってるわけじゃないけど、なんだか……ただの『お客さん』になるのが、嫌だった。『特別』になりたいってわけでもないけど、なんかね。
……仲間に、なりたいのかもしれない。あたしは。
「じゃ、もうあたし帰るね」
あたしはそう言って、鞄を持って立ち上がる。
「え、もう?」
宏伸くんがびっくりして訊いて来る。……けど、なんでびっくりするんだ?
「う、うん。もう九時半になるし」
「えーっ、だってまだ九時二十分じゃんっ。もうちょっといようよお」
ねっ? ねっ? と宏伸くんが上目使いに言って来る。なんか……お子様じゃないんだからさあ……。
「でも……」
あたしが困って言うと、横から望さんが助け舟を出してくれた。
「宏伸、あんまり美奈ちゃんを困らせるんじゃないよ。学生は大変なんだから」
望さんの言葉を聞いて、宏伸くんはとりあえず仕方ないって顔をしたけど、やっぱり上目使いにあたしを見たままだった。うーっっ、って、あたしが唸りたいよおっ!
あたしがやっぱり困って望さんを見ると。あたしの視線に気づいて、望さんはにっこりと笑った。……は?
「というわっけで、俺が送ってってあげるね美奈ちゃん」
「ずるいっそれはずるすぎるぞのぞみちゃんっ」
「早い者勝ちってねー。さ、行こうか」
さ、行こうか……って。
こういうことだったのかあの『にっこり』はあっ!
でもあたしは宏伸くんに、ごめんねまたね、と言って、雅樹さんに、それじゃあ、と言ってから望さんのあとについて行った。
玄関に向かって行く途中、リビングのドアのところでちょっと振り向いたとき、拓はまだ寝転がったままで、ピクリともしなかった。
「お邪魔しました」
と試しに言ってみたけど、宏伸くんと雅樹さんが手を振ってくれただけで、拓はちょっとも動いてくれなかった。……ちぇっ。
「行こうか」
望さんが玄関ですでに靴を履いていて。あたしは、はい、と返事をして急いで靴を履いた。
「……拓はいつもあんなだから」
ドアを閉めてから、望さんがそう言い出した。あたしはびっくりして望さんを見上げる。望さんは、金曜のライブのあとエレベーターの中で見せたような表情をしていた。
「気にしない方がいいよ」
うわあっ……。
「もお望さん、気を遣いすぎですよお」
あたしはなんとなく気まずくて、さっさと歩いて行く。望さんはその後ろをただマイペースで歩いて来た。
「別に気を遣ってるわけじゃないけどね」
だってさ、と望さんは続けて。
「美奈ちゃん、拓が好きだろ?」
あたしの隣に来て、望さんがあたしをまっすぐに見て言う。
歩く足が、止まってしまう。間近で、望さんの優しい顔。
……優しくて、だけど冷たい顔。
「や……っぱり、望さんにはバレちゃってんだなあ……」
ははは、とあたしは苦笑する。苦笑することしか、出来ない。
「望さんのカンのいいところってすごいと思うけど、彼女にとっては恐怖かもしれないですよね」
あたしは言いながら歩きだす。今度は、ゆっくりと。
「そうかなあ……案外わからないかもしれないよ」
「恋は盲目、って?」
くすくす、とあたしは笑いながら言う。望さんは肩をすくめた。ああ……そうか。
「望さんって、彼女いるんですね」
自分でさらっと言った言葉に、一瞬あたし自身が気づかなかったけど。
望さんは、否定しなかったんだ。
「ああ、いるよ。……もしかしてカマかけた?」
「ええっ、まさかそんなことはないですけどもっ」
カマかけたって……本人自身がまず気づかなかったんですけどもーッ。
「まあ、とりあえずいるよ。この年でいないってのもイヤなもんだけどね」
あ……やばい今のオフレコ、なんて言って望さんは微苦笑する。
「あのー、今の科白から推測するにあたって、もしかして雅樹さんはフリーですか?」
とあたしが訊くと。一瞬の間の後、あははははー、と望さんが笑い始めた。
「やだなあ、だからオフレコねって言ったのになあ」
「あ、やっぱり否定しないんだ」
「…………や、俺は詳しくは知らないしー」
「今更だって」
そっかあ、雅樹さんはフリーなのかあ。モテると思うんだけどなあ、雅樹さんって。
「あ、じゃあ宏伸くんは?」
「ああ、彼女はいないはずだよ。好きな娘はいるらしいけど」
「片想いかあ……。青春やねえ」
なんぞとあたしが呟くと。
「…………おまえいったい何歳よ?」
望さんが呆れたようにつっこんできた……。ちぇー。
「美奈ちゃん、そんなふうに他人事みたいに言ってていいの? 君だって片想い中だろ?」
「しかも見込みなし、って?」
あたしが冗談っぽく付け加えたんだけど。直後に冗談にならないか、と思って、思わず乾いた笑いなんぞを浮かべてしまった。
「まあ、仕方ないよね。見込みなしなのはわかってたし、今は音楽だけやりたいっていう拓の気持ちもわかるし。あたしがそれを邪魔するわけにはいかないよ。……拓には、好きなことしてて欲しいよ」
「『仕方ない』ねえ……」
望さんは、ふーん……、と呟いて少ししてから。諦め? と訊いて来た。少しだけ、残酷に響く声。
「そうかもしれないし、違うかもしれない。あたしにもよくわからないけど……。認めてるのかもしれない。この状況が当たり前のものなんだって。本当に、まだよくわからないんだけど」
「そうかあ……」
青春やねえ、と望さんが言う。真似なんだか本気なんだかよくわからないんだが。
「望さんって奥深い人ですねえ」
しみじみとあたしが言ったら、望さんは、はあ? と思いっきり訊き返して下さった。うーん……。
「望さんの彼女にこんなとこ見られたら、怒られちゃいますねあたし」
望さんが訊き返してきたのにわざと答えず、にやっと笑って言ったら。……望さんは余裕綽々って感じに、ふっ、と鼻で笑って。
「こんなんでやきもきするほど淋しい思いはさせてないもんでね」
なんぞと、ぬけぬけと……いや、堂々と言ってくださった。
「甘いなあ。さすがの望さんでも女の気持ちをいまいち理解してないんじゃない? どれだけ幸せでも、彼氏が他の女と歩いていたら不安になるモンですよ。あーあ、そんなこともわからないなんて、望さんの彼女ってば可哀想ぉ」
あまりにも望さんがぬけぬけと……いやだから、堂々と言うもんだから、ちょっと意地悪になってやろうと思って言ったのに。
「残念でした。和実はそんなに心の狭い女じゃないんでね」
と、やっぱり全然平気だよーん、なんて口調で返されてしまった。悔しいなあ、もお。
「ふーん、和実さんて言うんだー。美人?」
とりあえずちゃんと聞き逃さなかった彼女の名前を口にすると、三秒程黙ったあとで、すとんと望さんがその場にしゃがみ込んだ。えええっ?
「……なぁんで俺今日こんなに口が軽いんだろう。おっかしいなあ。やっぱりこれは美奈ちゃんと喋ってるせいかな。それしかないよな。うん、美奈ちゃんのせいだ。決まり」
望さんはひとしきりぶつぶつと言ったあげくに、勝手に人のせいに決めると、またすっと立ち上がって歩き出した。……なんだかなーっ。
「望さん望さんあたし和実さん見てみたーいっ」
「はぁ? いつ見る気?」
いきなり言ったあたしの言葉に、さすがに望さんは面食らったようだった。
「今っ」
「おいおい」
「って言いたいけど無理だよね。寝てるかもしれないしー」
いや、まだ起きてるか。たかだか九時半だし。まだ。とか考えてたら。
「いや、まだ起きてると思うよ。いつも俺が帰るの待って……」
言いかけて、望さんははたっと口を閉じる。でもあたしはしっかりと聞いたもんねー。
「ふーん。望さんが帰るのを待ってるんだ。へえ……。つまりは、同棲してるんだあ。望さんてば、おっとななんだからっ」
とあたしが言うと、望さんはまたしゃがみ込んでしまった。
「やっぱりこれは美奈ちゃんのせいだ。ぜーったいに美奈ちゃんのせーだ……」
はいはい。
「望さんちって、ここから何分くらい?」
「……歩いて二十分くらい」
「今日、歩き?」
「そぉだけど」
「歩いて二十分だと、車で五分だよねー」
「……は?」
「あたしんちはあと三十秒以内で着くしー。拓んちにそこからまっすぐ帰るからとか言っちゃえば平気だしー」
「あの、もしもし?」
「うん、グッドアイディーアって感じじゃーん。あたしって頭いー」
「あの、だからね?」
あたしがたたみかけるように言ってたから、望さんは混乱してたみたいで。あたしはその隙にアパートの階段のとこまで行って。にっこり笑って宣言させていただいた。
「望さん、送ってってあげるね」
「宏伸か? 俺だけど」
わけのわからないまま頷いてしまったために自宅へ帰るはめになった望さんは、はめられた……絶対はめられた、とぶつぶつ言いながらも、拓の家に電話をかけた。……のに、どうして宏伸君が出たんだか。不思議だ……。
「今? 美奈ちゃんちだけど。は? 何言ってんのおまえ」
それっておまえの願望だろ俺を一緒にすんなよなー、と望さんが冗談めかして言ってるけど。
当然の如くあたしには会話が見えない。あたしはすることがないから、近くの椅子に座り込んだ。
「うん、これからまっすぐ帰るから。美奈ちゃんが車出してくれるって……え? わかったわかった。伝えとくから」
何を伝えてくれるんだか。
「拓は? ……まだ寝てんの? 客ほっぽっといて何やってんだか……。わかった。耳元で『ダーリン朝よ』って囁いといて。ハートマークつきで」
……そういう趣味があるのか望さんは?
「ん、じゃあ。……え? ああ、わかった。わかったから。おまえらも早く帰れよ。拓寝てんのにいるのも変だろ? ……そりゃそーだけど。じゃあな」
望さんはそう言って受話器を置く。
「宏伸君、何だって?」
あたしは椅子に座ったまま、上目遣いに望さんを見て訊く。
「狡いのぞみちゃんばっかりそんな特典があるならやっぱり俺が送ってくんだったのぞみちゃんまさか美奈ちゃんに変なことしてないだろーね何かしたら俺のぞみちゃん恨むよっ、だってさ」
「……それで、おまえの願望、って?」
うんそう、などと望さんは簡単に言う。……どおっでもいいけどさ。そーんな会話してたのかこのヒトたちは……。
「で、今度は俺が送ってくから絶対送ってくからって伝えといてって。モテるねお姉さん」
「…………とおっても嬉しいわ。今度がいつになるかわからないけど、用心しとこう」
「そのほうがいいかもねえ」
望さんはくすくす笑って。まあ頑張りたまえ、なんて言う。ちぇーっっ。
「じゃっ、行きましょうか望さん」
あたしはいじけたように――いや、『ように』は余計かな?――言って、椅子から立ち上がる。そのとたん、望さんは何とも複雑な顔をした。
「……ほんっとーっに行くの?」
「行くよ? 今更何言ってんの?」
あたしがあっさり返すと、望さんが何か深々と溜息をついた。……な、なぜ?
「うん……来るなら来るでいいんだけどさ。驚かないでね」
「…………は?」
あたしは何がなんだかよくわからなくて訊き返したけど。
望さんはもう一度深々と溜息をついただけだった。な、何だあっ!?
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