SKY −手の届く場所−

「ほんっとにいーの?」
 望さんが最終確認と言わんばかりに訊いて来たのは、なんと望さんちのドアのまん前だった。
「……ここまで来て何言ってんの?」
 あたしはちょっと呆れて訊き返す。いつの間にか完璧タメ口になっちゃってるなあ……。本人何も言わないからいいんだろうけど。
 望さんは、そーだよねぇ今更だよねぇ、と呟きながら、そのドアを開けた。
「ただいまー……」
 声に覇気がないぞ望さん。
「おかえりーっ。今日は早かったねぇ」
 ここから死角になってよく見えない場所から、綺麗なソプラノの声が届いて来た。
「和実、客来てんだけど」
 言いながら望さんは靴を脱ぐ。
「えっ嘘嘘っ」
 部屋の向こうから弾んだ声が聞こえたかと思ったら。ご本人が出て来た。……綺麗な人だーっ。すごーいっ。びっじーんっ。
「はじめましてー、澤田和実ですー。あっあがってあがって」
 早く早く、なんて、望さんそっちのけで和実さんが言う。……なんかやたらハイテンションな人だなあ。
 ふっと望さんを見たら、やっぱりなんか複雑そうな顔をしていた。うーん……。
 とりあえずあたしは、お邪魔します……、と言って中に入って行く。
 部屋の中はキチンと片づいてて、すっきりとした感じだった。家具がモノトーンで統一されていて、だけどその中にアクセントっぽく赤いフレームの写真立てやら銀の一輪挿しやらがあって、もの凄くそれが格好良かった。
「座って座って。何ちゃんって言うの?」
「あ、春日美奈です。突然お邪魔しちゃってすいません」
 あたしは勧められるまま近くにあるソファーの一角に座って、自己紹介する。
「ああ、あなたが美奈ちゃんなの」
 カタイ挨拶なんていいのよ、と言って、和実さんはにこにことあたしを見た。あなたが……っ……なんなんでしょおか?
「美奈ちゃん、紅茶は好き?」
「あ、はい」
「そう、良かった。いいオレンジペコの葉があるのよ。ちょっと待っててね」
 言って和実さんはキッチンに消えて行く。
「……後悔してない?」
 今までずーっと蔑ろにされていた望さんが、ソファーの前にあるガラステーブルの向こう側に座り込んで、ぼそっと言った。
「……凄い人なだあ、と思ってはいる」
 あたしもつられてぼそぼそっと答える。
「でもあたし、こういう人って好きだなあ」
 あたしが付け加えるように言うと。
「和実は俺の」
 と速攻返事が返って来た。……うーん……。
「なあに? カズミがどうかした?」
 カチャカチャとティーカップを鳴らしながら、和実さんがキッチンから出てくる。へええ、和実さんの一人称は『カズミ』なんだ。そう思いながらふと見ると、和実さんの持ってるティーカップは、なにげにウエッジウッド社のピーターラビットだった……。羨ましい……。
「美奈ちゃんが、和実みたいなの好きだってさ」
「そうなんです。そう言ったら望さんに、和実さんは俺の、って言われちゃったんです」
 望さんがすらっと言うもんだから、あたしもお返しにとばかりにすらっと言ってやった。望さんは、そこまで言うか……、とばかりにちらっとあたしを見るけど、もう言っちゃったもんねー。くすくす。
「ありがとう、二人とも」
 だけどやっぱり何て言うか和実さんは強者で、にこにこ笑ったまますらっと言う。
「そうねぇ。カズミは確かに望のものだけど、望だけのものではないから、気にしないでね美奈ちゃん」
 和実さんはほんとーにさらっと言いながら、テーブルの迂遠ティーカップを置いていく。何を気にしろと言うのでしょおか、このあたしに。
 それから和実さんはもう一度キッチンに戻り、暫くしてからガラス製のティーサーバーを持ってきた。うわあっ、もの凄く羨ましい……。これあたしも欲しいんだよなあ。紅茶の綺麗な色が直接見れて、凄くいいんだよなあ……。
「二分蒸らすのは紅茶の基本よね」
 なんて言って、和実さんは時計をちらっと見る。
「和実さんって、本当に紅茶が好きなんですね」
「あら、バレちゃった?」
 バレちゃった……って、ここまで見れば大抵わかると思うんだけど。
「ピーターラビットのティーカップにガラス製のティーサーバー、おまけに本格的なリーフの紅茶とくれば、必然的にそういう結論になりますよ」
 いくつか並べて言ったら、和実さんは、へええ、と感心したように呟いた。
「美奈ちゃんって頭いいのねぇ」
 ……なんか違う気がする……。
「ね、美奈ちゃんはたっくんが好きなのよね?」
 あまりにも突然話を変えられたものだから、はっきりいって全然ついていけなかったんだけど。
 ……たっくんって、もしかして。
「あ、たっくんでわからないかな? 文月拓君のことだけどね」
 うわあああっ。やっぱりっ。望さんのお喋りっ。
「たっくんも、音楽バカなとこがなければいい子なんだけどねええ……」
 音楽バカ……。確かに。
「でもあたし、その音楽バカなところが好きなんで……」
 だからいいんです、と呟いたら、和実さんはますます笑って、美奈ちゃんはいい子ね、と言った。
「……あのー、和実さんっておいくつですか?」
 あたしはなんだかとってももの凄く気になったから、恐る恐る訊くと。
「十九よ?」
 といとも簡単に答えてくれた。
「じゅうきゅうさいっ……」
 あたしは思わず驚いてしまう。
 みっ、見えない……と言うか、あたしよりひとつしか上じゃないなんて思えない……。もう少し上かと思った。
「和実さんって大人っぽいんですねええ……」
「あらあ、いくつだと思った?」
 和実さんは紅茶をカップに注ぎながら訊いてくる。
 う……っ、難しい質問だ。
「に……にじゅうに、くらいだと……」
「三つしか違わないだろ、それでも」
 今まで黙ってた望さんが、ポツリとつっこむと。和実さんは紅茶を注ぐ手は止めずに、望さんをちらっと見た。
「あら、十九と二十二の違いって、もの凄いわよ。二十と二十二は大したことなくても、十九と二十って全然違うのよ?」
 自分がもうハタチだからってねえ、と和実さんはあたしに同意を求めて来る。けど……どう答えろとゆーんだこんなの?
「はあ……そーっすね」
 あたしはただそう答えると、和実さんは勝ち誇ったように、ふふんっ、と笑い、
「ほーらね?」
なんて望さんに言ってる……。望さんは、はいはいもーしわけありませんでした、とおざなりっぽく返事してたけど。
 でもその瞬間、ひとつわかったような気がした。
 つまり……なぜあんなに優しいバラードが書けるのか、ってことが。
 たまに望さんの瞳の中に見た、優しいけど冷たい色は、ここにいる望さんの瞳の中には影すら見えない。幸せなんだなって、自然に思えた。
 あたしはなんだか嬉しくなって、だけど顔がにやけるのを誤魔化すために、和実さんの入れてくれた紅茶を一口飲んだ。
「あ……美味しい」
 あたしが思わずそう呟くと、和実さんはもの凄く嬉しそうな顔をした。
「ありがとう。好きなだけ飲んでくれていいからね?」
 和実さんはそう言ってから望さんを見て、へへーん誉められちゃったー、などと自慢した。何というか、うーん……望さんの彼女だなあ、って気がした。もの凄く頷けるって感じかなあ。これで全くの無関係だなんて絶対に嘘だろ!? っていう感じ。
「美奈ちゃんは、片想いかあ」
 あたしが考え事しながら紅茶を飲んでいると、いきなり和実さんがしみじみと言ってきたもんだから、あたしは折角の紅茶を吹き出すところだった。あああっ、危なかったあっっ……。
「片想いって、辛いけど楽しいわよね」
 和実さんはにっこりと笑って、そんなことを言う。ジェットコースターって怖いけど楽しいよね、って言うのと同じくらいあっさりとした、だけど嬉しそうな口調だった。
「美奈ちゃん、たっくんちに電話かけたりしたこと、ある?」
 とても楽しそうな口調だけど、意図が見えなくて、それでもあたしが、今日初めてかけました、と答えたら、和実さんは更に楽しそうな顔をした。
「実は昨日もかけようとしたでしょ?」
 和実さんが、今日は月曜でしょ、って言うくらい簡単にさらっと言ったものだから、あたしは今度こそ本当に紅茶をこぼしてしまいそうになった。けど、勿体ないから死守した。
「やっぱりねえ。みんなそんなものよねえ」
 和実さんは、うんうん、と頷いてクスクス笑う。
 何て言うか……強者だなあ。
「ドキドキして、いなかったらどうしようとか散々考えて、結局用事を作って『かけなきゃ駄目なんだ』ってしっかり決めて、言い訳できる状況を作ってから、やっとかけ始めるのよね」
 うわあっ……。なんだ。なんだ、なんだ。
 あたしだけじゃないだ。
「でも、男の人なんてあまりそういうの気にしないから、悩むだけ無駄なのよねえ」
「おいおい、男だって気にするぜー?」
「女の子には負けるでしょ?」
 望さんは和実さんの言葉にツッコミ入れるものの、ものの見事にあっさりと和実さんはそれを返した。望さんは、ちぇーっ、と呟きつつ、紅茶を飲んでた。うーん……和実さんと一緒だと、どうも望さんの影が薄い気がする……。
「こと恋愛に関しての楽しみ方は、女の子の方が絶対にうまいよね」
 ねえ、と言って和実さんはあたしを見る……けど。だからあたしにふらないでよお……。
「ああ、そうかもしれませんねえ」
 あたしはとりあえず当たり障りのない答えを返しておく。和実さんはそれでも満足そうに、うんうん、とまた頷いて、それから紅茶を飲む。あたしもこの隙に、とばかりに紅茶に口をつける。もう何言われるかわかんないから、ビクビクして飲まなきゃならないなんてっ。そんなのやだよおっ。
「ねえ、美奈ちゃんは……」
 和実さんが再び話し始めたとき、あたしは来た来たと思いつつ、はい? と返事をしながらティーカップを置く。……つくづく、置いて良かった……、と胸をなで下ろしてしまう。つまり……その次に続く言葉が。
「たっくんの、どこが好き?」
 だったからで……こんな質問をされたときに折角の紅茶を死守できる自信は、はっきり言ってあたしにはない。
 その上、それまで黙って和実さんの隣で紅茶を飲んでいた望さんが、興味津々な目をあたしに向けて来たもんだから、あたしは何だか尋問室にいる気分になった……。
「音が……」
 あたしは、どう答えようか考える前に、自然にそう言いだしていた。
「拓の出す音が好き。ずっと……探してたから……」
 あたしは自分で答えながら、そうだったんだ、と思った。
 もの凄く簡単でわかりきった、だけどずっと気づかなかった答えが、すとんと落ちてきたような感覚だった。
「音、ねえ……わかるわあ」
 和実さんは、うんうんと頷きながら言う。
「カズミも、望の音を聞いて初めて意識したもの」
「そっ、そうなんですかっ!?」
「そうなのよぉ。友達にSKYのライブに連れて行かれてね、そこで初めて聴いたの。そのときなんて今以上に喧嘩っぱやくて、誰も彼も傷つけなきゃいけないってくらいの音で、はっきりきっぱり『俺を見ろ!』って言ってて、だけど少し淋しそうだったの。カズミには、淋しそうに聴こえたの。独りな人が意地はって強がってるように聞こえたの。そのときから、ずっと望が好きよ」
 う……わああっ。ノロケを聞いてしまったああっ……。
「……俺ちょっと煙草買ってくるわ」
 いきなり望さんがそう言って立ち上がる。その顔はなんだか妙に無表情で、何を考えてるのか全然わかんなかったんだけど。
 和実さんがくすっと笑って、言った。
「あなたのそういうところも好きよ、望」
 うわあ……っ、そっかあっ。そうかあ……照れてるんだ、望さん! なあんだ、照れてるんじゃんっ。
 和実さんは何も答えない――答えられない、んだと思う――望さんを、玄関まで送って。
 人の見てる前で、堂々と二人はキスをした。
 なんだかそれは、まるで映画のワンシーンみたいで、凄く綺麗だった。
 望さんが出て行ったあと、和実さんはすぐに戻って来て、何事もなかったようにあたしの目の前に座った。
「ねえ、美奈ちゃん。恋愛って凄く難しいよね。彼が自分ではない以上、自分と一緒にいないときの彼が何してるかわからないもの。もしかしたら、他の女の子と逢ってるのかもしれないしね」
 和実さんが穏やかな笑顔で話していたから、望さんに限ってそんなことは、と言おうと思ったけど、それはやめた。そんなことする人じゃないって言うのは簡単だけど、それが真実かどうかなんて、本人にしかわからないんだ。
「でもね、望は必ずここに戻って来てくれるの。ちゃんとカズミのところに帰って来てくれるの。だから信じてるの、カズミは」
 強い人、なんだなって。そう思った。それで、本当に望さんのこと愛してるんだなって、凄く伝わって来た。
「でも、美奈ちゃんみたいな場合は、それも難しいわよね。たっくんが音楽バカな以上、きっと美奈ちゃんのこと忘れて音楽にのめり込んじゃうこともあると思うの。でも、信じるしかないものね。どうしたって信じることしか出来ないものね。いくら、信じることが難しくてもね」
 和実さんの言葉に、あたしは何か返事をしなきゃとは思いつつも、結局何も言えなくてただ頷いただけだった。だけど、和実さんはそんなあたしの気持ちも見抜いているようで、ただにっこりと笑ってくれた――励ますように。
「望が、美奈ちゃんを連れて来てくれて良かったわあ。望ね、あまり人を連れて来てくれないの。カズミはお客さんが来てくれるのは嬉しいんだけどね。どうしてかしら……」
 なんて、和実さんが本気で考えているから。
「きっと、和実さんのこと独り占めしたいんですよ」
 と、本人が聞いたらまた照れるんじゃないかってことを、くすくす笑いながらあたしは言った。
「あら、いつも独り占めしてるくせにねえ?」
 和実さんもくすくす笑って、そう答えた。


 望さんが近くのコンビニから帰って来たのをきっかけにして、あたしは望さんの家を出た。帰り際に車のドアのとこまで律儀に送ってくれた望さんに一言、愛されてるね、と告げると、望さんはしれっとした顔で、俺だって愛してるもん、と答えた。
 どうして人が赤面するようなことを平気で言うかな、あの二人は……。
 それから車を走らせること五分、ついでに家に戻って寝付くまでの間、あたしはあの二人の幸せ色に染まったまま、とっても暖かい気分でいたのだった。




次ページへ

長編小説コーナーの入り口へ戻る or 案内表示板の元へ戻る