SKY −手の届く場所−

   4.

 初めて入ったライブハウスの一角で、あたしは居心地の悪い思いをしながら座っていた。
 隣はラフな恰好でビシッと決めてる(うわあ……凄く変な言い方……。でもそうとしか言えない……)和実さんが座っていて。
 ……つまり、今日――五月の第二土曜だ――はSKYの定期ライブの日、だったりするわけで。
 昨日いきなり和実さんから電話が来て(これにはマジでびっくりした……)、一緒にライブに行こうと差そられたのだった……。
 そうそう! なんとこのライブハウス、ハードビートカフェって言うんだけど、ここのマスターがさ。
 和実さんのお兄さん、なんだって!
 だから、っていうのもあるのかな。もう和実さんってば『顔パス』って感じで、サービスもしてもらえちゃうんだ!! つまり……ドリンクが安く飲める。はっきり言って貧乏なあたしにとっては、嬉しいですよ。ええ。
 でも、ね。
「遅いわねえ……まだかしら」
 和実さんのこの科白、既に八回目なんですけどっ。
 とは言え、気持ちはわかる。和実さんは五分に一回の割合でこの科白を言っている。つまり……四十分、過ぎているんだ。
「本当に遅いですよね……」
 さすがにあたしも気になって、そう答える。和実さんは、そうよねえ……、と呟いて、考えこんでいた。
 それから、約五秒後。
「美奈ちゃん、楽屋に行ってみよう」
 いきなりそう言ったかと思うと、和実さんはあたしの返事も待たずに歩き始めていた。
「かっ、和実さんっ!?」
 あたしは焦って和実さんのあとについて行く。和実さんは勝手知ったる何とやら、って感じに迷うことなく楽屋に向かっていた。
「だから無茶だって言ってるだろ!?」
 和実さんが楽屋のドアをノックしようとした瞬間、中から宏伸君の声が響いて来た。な……何?
 和実さんは一瞬びくっとして手を止めたけど、またすぐに気を取り直してノックした。
 数秒の沈黙の後、カチャ、といってドアが開く。
「……和実……美奈ちゃんも」
 中から出て来たのは、望さんだった。
「望……どうしたの?」
 和実さんは不安そうに問う。望さんが疲れたような顔をしてたから。
「……中入って。二人とも」
 望さんは和実さんの問いには答えずに、あたしたちを楽屋の中に入れてくれた。
 中には、ばつが悪そうな顔して立ってる宏伸君と、椅子に座って考え事している雅樹さんと、ソファーに寝転がっている……拓の、姿。
「……どうしたの!?」
 あたしはびっくりして拓の側に近寄る。拓は、無理矢理って感じに体を起こした。
「何でもないよ」
「どっこが『何でもない』ってー?」
 拓が答えた言葉に、宏伸君が言い返す。
「美奈ちゃん、そいつ今熱があるの。それでも歌うって言い張ってんの、こいつ」
 宏伸君の言葉に、あたしは思わず拓の額に手を伸ばす。だけど、その途中で拓自身によって止められた。あたしの手首をつかむその掌は、思ったよりも熱い。きっと、三十八度以上出てるはず。
「熱って言っても、大したことないんだ。元から、平熱高いし、ちょっとだけしか熱出てないから……」
「じゃあ、何か? おまえの平熱は三十八度か!?」
「落ち着けよ、宏伸」
 いきり立っている宏伸君を、椅子に座ったままの雅樹さんが声で制する。
「もう、迷っている暇も拓の回復を待っている暇もないはずだ。既に四十分以上押している。……どうする?」
 こんなときでも、雅樹さんは冷静だ。あたしは、ちらっと望さんを見てから、拓を見つめた。
 熱のせいで、潤んだ瞳。こんなんで、歌えるはずがないのに……。
「歌うって言ってるだろ、ずっと。俺は歌いたいんだ」
「へええ、そんなにふらふらでまともに歌えちゃうんだ? そんな朦朧とした頭で、ちゃんと歌えちゃったりするんだ!?」
「それは条件反射で何とかなるよ」
「確信持って言ってんのかよ、てめえは」
「……やってみなきゃわかんないだろ?」
「どおしてこいつは駄目だったときのことを考えないのかねっ!?」
 宏伸君は最大限の溜息と一緒に言うけど。あたしには、何となく拓の気持ちがわかるような気がした。
 だから……何も言えない。歌いなよ、とも……やめてよ、とも。どっちも言うことが出来ない。誰もが何も言えずに、沈黙がその場を支配した。
「……たっくんの音楽バカは、きっと死ななきゃ治らないんでしょうねえ」
 数秒の間の後、溜息混じりに和実さんが言い出した。
「歌わせてあげなさいよ、望」
「なっ……」
 和実さんの一言に、宏伸君が目の色を変える。
「何言ってんの、和実ちゃん!? この状態で歌わせろって言うのっ? 正気!?」
「宏伸君、仕方ないじゃない。本人が歌いたいって言ってるんだし。何より、お客さんが待ってるのよ?」
 和実さんは極々冷静に言って、そして最後にあっさりと付け加えた。
「もう、遅いのよ……中止にするには」
 お客さんが。
 ずっと、SKYを待ってるから。
 だから。
「早く行こう。これ以上待たせたら、折角のファンが減っちゃうよ」
 拓がソファーから降りて、ゆっくりとした足取りで歩き出す。そして、その手にギターを持って。
 既にその顔は、ヴォーカルの顔になっていた。いつもの拓とは大違いの。……真剣な、顔。
「ま、たっくんもステージの上で死ぬなら本望でしょう?」
「……和実さんシビアー」
「そうよぉ。もう四十分も待たされたんだから。気合い入れてライブしてくれなきゃ途中で帰るわよ?」
「それは困ります」
 拓は苦笑してそう答えて、それから。……あたしの方に来て、あたしの頭をクシャッとなでた。
「そんな顔すんなよ。大丈夫だから」
 ……どういう顔をしているんだろう、あたしは。
「拓……途中で倒れたりなんかしたら、ステージの上に乗り込んで行ってやるからね。それで、拓の嫌がりそうなこと、いっぱいやってやるんだからっ」
 だから……だから。
 最後まで……客には悟らせずに。
「大丈夫だって、言ってるでしょーが」
 信用ないのな俺って……、と拓が呟く。だけど、あたしの伝えたいことは、ちゃんとわかってくれたらしい。
「じゃあ、和実と美奈ちゃんは戻って見てて」
 望さんが言った言葉をきっかけにして、みんなが行動を起こした。あたしと和実さんは席へ、SKYはステージへと。
 拓の歩く速さがいつもよりも遅いことには、気づかないふりをして。


 それからライブが終わるまで、拓は本当にちゃんと歌っていた。あれが熱出してる人なのかって、知っていても疑いたくなった。でも、やっぱりきついらしくて……顔がひきつってた。笑みが、固まっていた。見ていて、本当に痛々しかった。だけど、それでも拓はちゃんと最後まで歌った。凄い、と思う。
 ……あたしはあたしで、泣き出すのを必死でこらえていたし。
「お疲れさまー」
 ライブが終わって速攻楽屋に行くと、始まる前と同じスタンスにみんながいた。つまり……拓がソファーに埋もれていたわけで。
「……頑張ったね」
 ああしはソファーの横まで行って、拓にそう話しかけると。拓は、微かに笑った。
「あーあ、今日は打ち上げ出来ないなー」
 宏伸君がさも残念そうに言うけど。安心した、っていうのは、その声を聞けばすぐわかる。心配してたもんね、宏伸君。
 ピピピ、といきなり電子音が鳴って、なんだろうと思ったら、拓が身じろぎをして……体温計を脇から取り出した。拓はそれをちょっと見て、それからあたしをちらっと見た。
「……証拠隠滅しちゃってもいい?」
 小さい声で、拓が苦笑しながら言う。
「駄目に決まってるでしょ」
 あたしがきっぱりと答えると拓は、だよねえ……、と言ってその体温計をあたしによこした。それを見てあたしは……一瞬我が目を疑った。
 三十九度四分。
 これでどうしてまともに歌えたんだ!?
「……和実さん、拓の音楽バカは死んだって治りませんよ、きっと」
 あたしは和実さんにそう告げると、その体温計を宏伸君に渡した。
「ふううん……三十九度四分ね。へええ、大したことない、ね。この大嘘つきが」
 うわああっ、宏伸君怒ってるよ……。
「その辺にしときなさいって。全く若いモンはすぐにあつくなるんだから」
 溜息混じりに、望さんが言うけど。望さんはいつからそんなに歳を取ったんでしょーか。
「とにかく、拓はもう帰りなさい。後は俺らに任せてさ。いいね?」
 望さんは穏やかに言うけど。反論を許さない強さが、そこにはあったから。
「はい……」
 拓も、仕方なしにそう答えた。
「ああ、美奈ちゃん。こいつ送ってやってくれるかな? どうせこいつ車で来てるから」
 ……突然のご指名に、あたしはびっくりしたけど。
「任せてください。とりあえず拓が無理しないように見張ってますから」
 すぐにそう答えると、望さんは任せたとばかりに頷いた。
「後で電話するから……拓んちに」
 つまりはそれまで拓んちにいろと、そういうことなんだろうか。
 でもとりあえずあたしは、わかりました、と答えて拓のギターと鞄とかを持った。
「車まで送ってくよ」
 雅樹さんが椅子から立ち上がって、そう言ってくれる。
「あ、ありがとうございます」
 あたしがそう答えると、雅樹さんは小さく頷いて、拓に肩を貸した。拓はちょっと恥ずかしそうに、だけど素直に肩を借りていた。
「じゃあ、お先に失礼します」
 あたしはペコリと頭を下げて、楽屋を出る。そのとき宏伸君が少し恨めしそうな顔をしてたけど、あたしはそれに気づかないふりをしていた。だって……あたしのせいじゃないぞお……。
「こっちだよ」
 雅樹さんが先導してくれる。あたしはそのあとについて行った。
 裏口からハードビートカフェを出て、そのすぐ近くにとめてある車――路上駐車だ……――に近づく。
「拓、キーは?」
 雅樹さんが拓に声をかけると、拓は何故か少し考え込む。……自分で置いた鍵の在処、覚えてないのか?
「あ……鞄だー」
 拓が、そういえば、って感じで言うけど。その声はかなり朦朧としていた。
「適当に探しちゃうからね?」
 あたしはそう言ってから、鞄のポケットとかを探し始める。車のキーはすぐに見つかった。何故車のキーだとわかったというと。車のキーホルダーがぶらさがった上に、その裏にご丁寧に『まいねーむいずいんてぐらくん』と書いてあるんだ……。誰が書いたんだ、こんなの?
 あたしは苦笑しながら車のドアを開け、助手席のシートを少し後ろにずらし、拓が座りやすいようにした。拓はそのシートに、身を投げ出すようにして座る。
「じゃあ、頼むよ美奈ちゃん」
 雅樹さんが少し心配そうに言うから。
「だあいじょうぶですよ。任せてください」
 あたしは必要以上に明るくそう言った。
「それじゃ、望さんと宏伸君と和実さんによろしく」
 それだけ言うと、雅樹さんが頷くのを見てから、あたしは車を出した。ルームミラーを見ると、まだ雅樹さんはこっちを見てた。あたしは曲がり角で止まったときに、合図みたいにハザートを二回点滅させる。雅樹さんはそれに気づいてか、片手を軽く上げてからハードビートカフェの中に戻って行った。
 あたしはゆっくりとまた車を発進させる。
 はっきり言って、それから拓の家に着くまでの間のことを、あたしは思い出したくない。
 拓のことが心配だったってのは確かにあるけれど……怖いんだよ、はっきり言って!
 インテグラなんて運転したことないから。だから車両感覚つかめなかったし、慣れた車じゃないし隣には拓が乗ってるしっ! ああもう、絶対に嫌だよこんなのは。冷や汗もんのドライブだったわ……。
 そうこうして、なんとか拓の家に着いて。とりあえず拓にパジャマに着替えるように言ってから、すぐに車を車庫に入れて――だから本当にもう怖かったんだよこれはっ……――、それから家捜しよろしく氷枕を見つけだしてそれを拓の頭の下にやって、それで拓がすぐ眠って、やっと一息ついたときには、既に九時半近かった。……氷枕が見つかりにくかったのと、とっても楽しいドライブが原因だよな。きっと。
 あたしはとりあえず床に座り込んだものの、どうも所在がなくて、何かすることないかなー、と思ってキッチンに行ったら、そこには洗い物が溜まってた。らっきー。
 あたしはあまり音がたたないように気を遣いまくりつつ茶碗を洗ってく。だけどそれもものの数分で終わり――当たり前か。拓は独り暮らしなんだから――、またあたしはやることがなくなってしまった。うーん……。
 九時三十五分。拓の様子でも見に行こうかな……。
 そう思った瞬間、だった。
 電話のベルの音が不意に鳴り出して、だけどあたしはその一回目のベルが鳴り終わるよりも早く受話器を上げていた。
「……もしもし」
 拓が起きないことを祈りつつ、声をひそめて電話に出る。
『美奈ちゃん、拓の様子は?』
 自分の名前を名乗りもせずにそう問うて来たのは、ほぼ間違いなく望さんだ。
「今、眠ってます」
『そっかあ……』
 あたしが短く答えた言葉に、望さんはちょっとだけ安心したように言った。
『美奈ちゃん、いい機会だから拓襲っちゃえば?』
 望さんはぜんっぜん関係ないことをいきなり言ってくるから。あたしはすぐには何を言われたのかわからなかったんだけど……わかった途端に、顔が真っ赤になったのがわかった。
「望さん何言ってんですかっ!?」
 あたしは思わず声を荒げて言ってしまって、それからやばいということに気づいて声のボリュームを落として続けた。
「そんなことするわけないじゃないですかッ」
 ちょっと小さめの声で、だけど出来るだけきつめの口調で言うと、望さんはくすくすと笑った。ちくしょお……。
『あんまり声出すと拓が起きちゃうんじゃないの?』
 わかってるよお、そんなことくらいっ。
『じゃ、あまり遅くならないうちに帰るんだよ。じゃあね』
 望さんは言うことだけ言ってすぐに電話を切る。あたしは返事の行方を失って、仕方なく受話器を下ろした。
「……三塚さんから?」
 いきなり思ってもみなかった声がかかって、あたしは思いっきり驚いてその声の出所の方を見た。
「起きたなら起きたって言ってよ頼むからッ」
 ああもうびっくりしたあっ、と言うと、拓はくすくすと笑っていた。ちぇーッ。
「わかった、今度からは『起きた』って言って驚かすことにする」
 ……それじゃあ本末転倒じゃんかよ、馬鹿。
「ところで、三塚さんなんだって?」
 拓はしれっとして話を変える。ここであたし一人ムキになるのも馬鹿らしかったから、自棄になって平然とした顔で
「チャンスだから拓のこと押し倒せって」
と言ってやった(でもこれもムナシイな……)。
 拓は一気に脱力したようで、その場にしゃがみこんで。
「ああもうあの人は何を考えてるんだろう……」
 なんてブツブツと呟く。それから、その場に本格的に座り込み、上目遣いにあたしを見て、真面目な顔をした。いきなり。
「美奈」
 真剣な、声。
 なっ……何なんだいったい。
「俺さあ、俺ね……」
「何?」
 あたしは不覚にもドキドキしてしまう。拓はそのままじーっとあたしを見て。
 突然、横倒れになった。
 ……えええっ!?
「喉が乾いて死にそう」
 …………ドキドキして損したちくしょおっ!
 あたしがわざとぶっきらぼうにキッチンから水の入ったコップを持ってきて拓の目の前――横倒れになったままの、だ――にドンッて置いてやると。拓は一瞬びっくりした顔をして(当たり前か。目の前一センチのとこだもん)、それから吹き出した。
「いやあ、美奈って楽しい奴……」
 言いながら拓は体を起こし、その水を一気に飲み干す。大分喉が乾いていたらしい……ってこれ、脱水症状の一歩手前だったりしないか!?
 あたしは拓の飲み干したコップを持って、またキッチンへ行って水を入れてくる。それを拓に渡してそのまま拓の額に手をやると……熱い。
「拓、さっきより熱あがってるんじゃないの!?」
 あたしはびっくりして言ったけど。
「うーん、自分じゃわからないからなあ……」
 と拓はすんなり返してくる。
 でも、もしかして。ここに座り込んだのも、立ってられないからなんじゃないのっ?
「あのねえ……こんな状態で無理してベッドから出て来るんじゃないのっ! ベッドから声かければちゃんと行くからっ! 拓は独りじゃないんだよ!?」
 もう、なんでこんな状態で無理するんだろうっ。
 あたしは拓の手からコップを取り、ほら立って、と言って拓に手を貸して立たせてベッドに連れてく。それで拓をベッドに寝かせると、何故か拓はにこにこしていた。
 な……何?
「嬉しいもんだね」
 拓はにこにこしたまま、そう言う。
「何が?」
「いや、だからさ。こうして誰かが側にいてくれたり、真剣に怒ってくれたりするのがさ」
 ありがとう、なんて拓が言うから。
 拓が、言ったりするから。
「……ベッドの隣で、ずーっと見張ってるからね」
 あたしはそう返すしか、なかった。




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