微かな寝息が聞こえてくる。途中何度かベッドから抜け出そうとしたベッドの主は、それでも漸く眠ってくれたらしい。あたしはそれがタヌキ寝入りじゃないことを確認してから、部屋を出てお風呂場へと向かった。そこから洗面器を持ってきてキッチンへ行き、洗面器の中に氷水を入れる。それからタオルを二枚持って来て――これはさっきの『家捜し』で見つけていた――洗面器と一緒に拓の部屋に持っていく。タオルを水に浸して硬く絞ってから拓の額に乗せると、拓は少し身じろぎをして、だけど起きる気配はなかった。あたしhが少し安心しつつ、もう一枚のタオルを水に浸しておく。
午後十時半。帰ろうかな、とも思ったけど、拓の熱が治まるまで、安心して帰れない。
心配で、帰れないよ。
独り暮らしって、こういうとき嫌だよね。
淋しくても、誰も助けてくれない。
心細くて、辛くて、だけど誰にも頼ることが出来なくて。
(……あ、これって詩に使えるかも)
自己嫌悪に陥るのは、こんな時だ。
どんなときでも、どんなことでも、詩にしてしまうから。
それがどんなに嫌なことでも、どんなに大切なことだったとしても。
結局、ネタのひとつにしかならなくて。
あたしはそんな自分の考えを追い払おうと、頭を軽く左右に振る。
後悔はしたくなかった。
間違えてなんかいないと、そう思いたかった。詩を書くのが好きだから、もうそれは空気と同じくらいにあたしに必要なことだから。だから。
それでいいんだ、と。それでいいんだよと、自分に何度も言い聞かせた。大切なことだから、真実(ほんとう)のことだから、だから書くんだと何度も言い聞かせた。きっと、これからも何度も言い聞かせると思う。
結局、いくら後悔したって書くのはやめないんだ。
……違う。そうじゃない。そうじゃなくて。
やめられないんだ。
「一体何処まで……」
あたしは小さな声で……呟くように、歌い始める。拓を起こさないように、細心の注意を払いながら。
一度だけ聞いた……メンバー以外ではあたししか聞いたことがないはずの、あの曲を。
『MOON』を。
「走ってきただろう
気がつけば 今は独りで」
そういえばこの詩は、凄く淋しい夜に書いたんだっけ。
あたしは不意に思い出して、なんだか笑いがこみあげてくる。
おかしくて、じゃなく――懐かしくて。
本に感化されて、ってみんなに言ったけど。それは確かに嘘ではないけど。だけどそれより前にあった思いは、淋しいって思いだった。気を紛らわすために読んだ本は、実は全然逆効果で、その気持ちを更に強くした。
その結果がこの詞で。
初めて、生まれた詞(こ)。
歌詞なんて、所詮は出来かけのものでしかなくて。……曲がつかないと。誰かが歌ってくれないと。そうじゃないと、完成されないんだ。
人間に例えると、曲がついてやっと出産、てとこだよね。
他の人はどう思うかなんて、あたしは知らない。
だけど、あたしはそう思う。だから、いつももどかしくて。悔しくて。
あたしには、どうすることも出来なかったから。
「ただ 信じることしか出来ないでいた」
そう……それだけしか。
悔しくてもどかしくて、だけどどうしようもなくて……あたしひとりでは。
ひとりではひとり分のことしか出来ないけど、ふたりならふたり分以上のことが出来るんだ。
いつか読んだ本に、そんな言葉が載っていた。そのときは、ふたりならふたり分のことしか出来ないって思ったけど、今ならわかる。
拓の音が、あたしを変える――きっと。
今は絶対に書けないような詩を、いつかあたしは書くだろう。それは予感ではなく、必然だ。あたしひとりだけだった世界に拓が入って来て。何かが変わる。きっと、一番最初にあたしが変わる。
イマジネーション。それは、あたしだけでは手に入れられないはずの、何か。
それを手に入れたいと思うのは、あたしの我が儘だろうか。過ぎた願い、なのだろうか。
だけどあたしはずっと待ってた。ずっとずっと探していた。その答えなら、ここにある。
拓の、曲の中にある。
「それでも走ることはとめられなかった」
ああ……終わっちゃった。終わっちゃった。
あたしは拓の額のタオルを取り替えようとして拓を見、……瞬間石化した。
「聴いちゃった」
なんで起きてるの拓っ!?
拓はパニクりかけてるあたしを見て笑みを浮かべながら、よっ、なんてかけ声かけながら上体を起こす。
「よく憶えてたね、一回しか聴かせてないのに」
「……忘れたくても忘れられないのよ、悪趣味なおにーさん」
あたしはさも恨めしそうに言うと、拓はあっさりした顔で、
「忘れたいの?」
なんて言うから。あたしは思わず、忘れたいわけないでしょっ、と言ってしまった。拓は、くすくす笑ってる。ちくしょお、ハメられた……。
「それより、起きたなら熱計ろう。ついでにさ。体温計、何処にあるの?」
「ない」
「……は?」
間髪入れずに拓が言うもんだから、あたしは一瞬拓が何て言ったのかわからなかった。けど。
「拓……なんで体温計くらい置いてないの?」
「だあって、いらないんだもーん」
「『だあって、いらないんだもーん』って、拓一体いくつよっ!?」
そーかいそーかいそれならこっちにも考えがある、とあたしが言うと。さすがに拓は何かあるって思ったらしく、それを思いっきり顔に出してたけど。
あたしはそれを無視して、行動に出た。つまり――額と額で熱を計るという、そのやり方で。
「――っっ!!」
拓は驚いてか、何も言えなくなっているけど。
「んー、なかなか熱下がらないね」
なんて言いつつ、あたしは額を離す。それで、拓の肩を少し押して、半ば無理矢理に寝かせる。それから、拓がずっと持ってたタオルを受け取って、代わりに今までずっと氷水に浸していたタオルを硬く絞って渡す。
「俺さあ、決めたことがひとつあるんだけど」
拓はタオルを受け取ってそれを額に当てつつ、真面目な顔をして言う。
「何?」
あたしがそう聞き返すと、少しためてからニヤッと笑って、たった一言で拓はそれを告げた。
「極力美奈を怒らせないようにしよう」
……。
「ああその方がいいかもね」
あたしがわざと抑揚をつけたりせずに言うと、やっぱり拓はくすくすと笑った。ああもう、あたしって絶対拓に遊ばれてるわ……。
「そういえばさー、こんな時間なのに帰んないの?」
拓はひとしきり笑ったあとに、そう聞いてくる。
こんな時間……そういえばそうだ……。もうすぐ、十一時だ。
「うん、帰るよ。拓の熱が下がったらね」
「下がったらねって……」
「だって、拓って絶対におとなしく寝てないでしょ? それにこんなの残して帰ったって、心配で眠れないよ。その上、望さんと見張ってるって約束したし、雅樹さんには頼まれてるし」
だから帰れない。……というのは、実は言い訳だ。
本当は、あたしが側にいたいだけ。ただ、それだけ。
「……わかった。それじゃあ、意地でも下げる。だからさ、美奈」
早く帰りなよ、って言われるのかと思った。絶対そうくるんじゃないかなって思ったんだけど。
「明日、みんなでカラオケ行かない?」
っていう話運びは一体なんなんだ拓っ!?
「ほんっとにこの人たちはマイペースな人たちばっかりなんだから……」
あたしは溜息混じりに言うけど、拓はそんなの気にせずに、いいよね? と重ねて聞いてくる。
「熱が下がったらね」
あたしが仕方なしにそう言うと、拓は嬉しそうに笑ってから、それじゃあおやすみ、なんて言って眠った。
すぐに聞こえてくる、拓の寝息。今のはもう夢現だったんじゃないかなって疑ってしまうくらいに、本当にすぐだった。
あたしは静かに立って、もうほとんど溶けてしまっている氷水の氷を取り替えるために、キッチンへ行く。それで、水を取り替えてからついでに一服しようとリビングに座った、その刹那、だった。
電話が鳴りだした瞬間、あたしは手を伸ばして受話器を取っていた。
「もしもし」
今度こそ、拓を起こしてないよね?
『美奈ちゃん? すっげー早くなかった? 今出るの』
電話の向こうで、あっけにとられたような……これは宏伸くんの声、かな?
「うん、今煙草吸おうと思ってちょうど座ったとこだったからね」
とあたしが説明すると、そっかあ、なんて宏伸くんが言う。
『じゃあ気にせず吸っててよ。俺はてきとーに話してるから』
てきとーに……拓の家の電話でー?
「それじゃあ吸わせてもらうけど」
あたしは一応言ってから煙草を取り出して、それから火をつける。宏伸くんはてきとーに話してるから、なんて言いつつも、あたしが一度吸って吐くまでの間、ずっと無言だった。
「で、拓のこと? 聞きたいのは」
仕方なくあたしがそう聞くと、宏伸くんはどこか焦ったように、ああうん、なんて言う。
『そうそう。拓ちゃんの様子どう? 熱下がった?』
「うん……あんまり変わらない、かな。とりあえず、今は寝てるけど」
『そっかあ……。いや、大丈夫ならいいんだけどさ、うん。美奈ちゃんがまだそこにいるから、凄く大変なことになってるのかと思った』
「それはないけどさ。そうそう、拓が『意地でも熱下げるから明日みんなでカラオケ行こう』って言ってたよ」
『はあ? あいつ何言ってんの? こんなにふらふらなステージこなした翌日にカラオケかよ』
「…………そんなん拓に言ってよ」
アタシに言われても困るし、と言うと、宏伸くんはそれもそーだねえ、なんて軽く言う。この変わり身の早さってば……いえいーですけどね。
『じゃあさ、それ俺がみんなに伝えとくから、明日朝一で俺んとこに電話よこせって、拓ちゃんに伝えといてもらえる?』
「うん、わかった」
『よろしく。じゃあ、もう切るね。……っと、そーいえばさ美奈ちゃん』
宏伸くんはいきなり口調を変えて言う。
「何?」
『いや……とっても言いにくいことなんだけどさ……』
本当に口ごもったような言い方。何なんだろう。
……これで早口言葉を言ってほーら言いにくいことでしょ? なんてのがオチだったら、あたしは泣くぞ。
『実はさ……』
「うん?」
『……発熱してるときって発情しやすいって、知ってた?』
美奈ちゃん貞操の危機だよ、なんて宏伸くんが真面目な顔をして言う。……ちくしょお、SKYはみんなしてあたしで遊ぶ気っ!? まだ雅樹さんからは遊ばれてないけどさっ。
『あれ、どーしたの美奈ちゃん? いきなり無言なっちゃって』
宏伸くんがくすくす笑いながら言うから。あたしは半分ほど吸った煙草の火を消しながら、これ以上ないくらい神妙な声で、うん……、と返事をした。
『え……美奈ちゃん? なしたの?』
「だって……宏伸くん、言うのが遅いんだもん……。もっと早く教えてくれれば、あたし……」
極々神妙に、涙ぐんでいるような声で言うのは、それなりに大変だった。実はね。でもまあ、声が震えるのは、これ以上ないくらい自然だったかな? 本当に震えてたもん。別の理由で、だけど。
『えっ、まさか美奈ちゃん……っ』
そうとは知らず、宏伸くんの焦ったような声。
『本当に拓ちゃんにやられ……』
「てないけど?」
宏伸くんの科白を途中から奪ったとたん、あたしはこらえきれずに笑い出してしまった。
ふふんっ、あたしで遊ぶから悪いんだい。くすくす。
『――まあ、とりあえず良かったとでも言っておくかな。ちぇーっ』
「良かったって、何が?」
『先に拓ちゃんにやられちゃってたりしたら俺の楽しみが……あ、いやいや』
……なんなんだかね、この人は。
『ほら、まいすいーとはにー美奈の魅力に拓ちゃんが気づかなくて良かったなあこれでライバルが増える心配しなくてもいいなあ、ってねー』
また、宏伸くんの軽い言葉だ……。悪い癖、なんじゃないのかなあ、これってさ。
「だから誰が『まいすいーとはにー』なんだかねえ、もう。ほら、そろそろ電話切らなきゃ。あまり話してて拓起こしたくないしさ」
『ちぇーっ。美奈ちゃんつれないっ。俺はこんなにこんなに美奈を愛してるのに……』
はいはい。
「じゃあね、宏伸くん。また明日ね。おやすみ」
『おやすみなさーい』
宏伸くんが仕方なさそうに言うのを聞いてから、あたしは受話器を下ろす。そして一息ついてから、洗面器を持って拓の部屋に行った。幸い拓が起きた様子はない。ないんだけど。
(……うなされてるの?)
熱のせいで微かに赤い顔が、苦しげにゆがんで。とりあえずすぐに額のタオルを取り替えたんだけど、熱はさっきよりも少しだけど下がっているようで、だから拓の表情が熱のせいではないことだけはわかった。
(悪い夢を見てるの?)
布団から、両腕を出して。肩が冷えちゃうよ、そんなんじゃ。
あたしはその腕を布団の中に入れようとした。けど、それは途中で一瞬止まってしまう。
拓が、あたしの手をつかんできたんだ。
起こしちゃったかな、と思ったんだけど、それは違った。つまり……夢現なんだ。あたしはその手を離そうとしたけど、拓はますますつかむ手に力を込めてきた。だからあたしは手を離すことをやめて、あたしの片手ごと布団の中に入れた。それからあたしは、もう片方の手をそれに添える。拓が悪夢から抜け出せればいいと……つないだ手の先から想いが伝わればいいと、それだけを祈りながら。
暫くすると拓の手から力が抜けて、次第に穏やかな顔に変わっていった。
これが『ノンレム睡眠』かな、なんて普段は気にもとめないようなことを考える。
睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠があって、夢を見るのはレム睡眠の方で、そのふたつは交互にやってくる。つまり。
これから暫くの間は、拓は夢も見ずに眠っていることだろう。
午後十一時半。
確かレム睡眠とノンレム睡眠は約九十分ごとにくるはずだから、次にレム睡眠になるのは、約一時か……。
それまでは、ちょっと休める、かな。
あたしはとりあえずリビングに行く。いつもならもうそろそろ寝る時間なんだけど、今日は全然眠くない。目がさえてるんだ。
あたしは煙草を取り出して、それに火をつける。少しだけ、心が安まるな……。
こうして煙草を吸うようになったのは、いつだったかな……。確か、一年くらい前だったと思うけど。
きっかけなんか、全然覚えてない。ただ、吸ってみたかったから吸った。それだけのことだ。他に理由も、深い意味なんかもない。
高三の終わり頃に自動車学校に通い始めると、同じクラスの意外な人が煙草吸っててびっくりしたっけ。そしたらその子も同じこと考えてたらしく、春日って煙草吸う人だったんだあ……、とかって妙に感心されちゃったりしてさ。でも、はっきり言って高三なら三分の一以上の人が煙草吸ってるよなあ。まあ、それに気づいたのもつい最近だけどさ。
所詮、煙草なんて嗜好品だからさ。吸いたい人は吸えばいいと思うんだよね、あたしはさ。なのに法律で『煙草は二十歳になってから』って決めつけるから、躍起になって吸う人も出てくるんじゃないのかなあ。大人の真似して吸ってみるってやつ? あれって絶対、校則破るのと同じレベルだと思ってるよね。ま、あたしもそう思ってるけどさ。
(どうしたんだろう、今日のあたしってば何かやたらと考えごとしてるぞ……)
何もすることがないから、なのかもしれない。
拓のことが心配すぎて、その思いから逃げようとしているだけなのかもしれない。
(逃げるのは、嫌だなあ……)
漠然とした思い。もし、今の状態が逃げているんだとしたら、それは嫌だなあ。
あたしは煙草の火をもみ消して、拓の部屋へ戻る。
穏やかな顔をして眠る拓を見て、何故かほっとする。
これは……拓が熱を出してる事実さえ無視しちゃえば、実はもの凄く幸せなことなんじゃないのだろーか。
だってだって、好きな人の寝顔を見つめてられるなんて、滅多にないチャンスじゃないの、もしかして?
(うわあ……今気づいた……)
なあんだ、あたしって幸せモンじゃんっ!
あたしは何だかものすごっく嬉しくなってしまって、それまで考えてたことなんかも全て吹き飛び、何度もタオルと氷水を変えながら、飽きることなく拓の寝顔を見ていたのだった。
……サイテー。
|