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続 古事記と植芝盛平 ー京の散歩道ー  2014年1月3日更新
師範 樋口隆成
伊勢神宮内宮

 伊勢参宮

 伊勢神宮の創建は六世紀から七世紀と推定される。そこに崇り神としてのアマテラス『天照大御神』の勢いを、即ちエネルギーを制御し、封じるための場所として伊勢神宮が創建された。
 鳥居をくぐればいよいよ内宮「皇大神宮」の神域である。五十鈴川に架かる宇治橋を渡り、まずは五十鈴川の御手洗場(みたらし)で心身を清める。
 石段を登れば御正宮(ごしょうぐう)。本社殿は唯一神明造(ゆいいつしんめいずくり)といわれる様式で、神宮だけに用いられる呼称、全て直線式の檜の素木(しらき)で造られ、屋根は切り妻造りの萱で葺かれ、中央平入形式で、土台は高床式になっている。これは弥生期における稲作文化が発達した頃、稲を収める倉庫の形式から由来しているともいう。
 屋根の頂きは「鰹木」(かつおぎ)といっての棟木の上に横に並べて装飾してあり、千木(ちぎ)が天にそびえる。両隅は千木といって破風の先端が延びてV状に交叉した木で飾ってある。尚、千木は、古代様式の住居では、屋根を支えるための大切な構造材であった。しかし、現在では神社の千木は装飾的な意味合いが強く、千木の先端が水平に切られている場合は「女神」を祀っていることを示し、垂直に切られている場合は「男神」を祀っていることを示していると一般的にいわれている。無論、内宮正殿は女神のアマテラスを祀っている事から、千木の先端は水平に切られている。
 左右に地面から社殿を支える棟持柱(むねもちはしら)が直立している。全体が美的で清楚、簡素にして荘厳な感じがする、日本でも最も古い形式の社殿であるという。
 平成25年に式年遷宮祭が執り行われた。アマテラスは限りなく清浄で清新な建物に坐すことを求められ、二十年に一度の式年遷宮が行われる。

 正殿を中心にして瑞垣(みずがき)、内玉垣、外玉垣、板垣の四重の御垣がめぐらされている。神官の先導に従い玉垣の内へ。玉石を踏みしめる足は自然と慎重になり、ゆっくりゆっくりと進んで、正殿の真正面の白州(白の玉石が敷きつめられる)に立つ。アマテラスの傍近く清新な気が身をつつみ、特別参拝の拍手をうつ。 
 「お参りの作法は二拝ニ拍手一拝です」と神域案内図に記されている。以前は、玉垣御門の前に「二拝四拍手一拝でお参りください」と書かれてあったのだが。
 古く『魏志倭人伝』に、「大人の敬する所を見れば、ただ手を搏(う)って、もって跪拝(きはい)に当てる」と貴人を敬う作法として、拍手を礼とする倭国の風習が書かれている。その後、平安時代になると、貴人に対する柏手の礼法は行われなくなり、もっぱら神拝の作法になったと考えられる。
 明治初期に、国家神道として『神社祭式』が定められ、一般の神社では二拍手、出雲大社は四拍手、伊勢神宮は八拍手に統一された。しかし、出雲大社は古くからの習慣をそのままに残し現在に至っている。伊勢神宮の神職は八拍手である。
 茨城県岩間の合気神社では、植芝盛平翁は二拍手をうたれていたという。ただ当時の岩間の記録映像にみられるように、お祭では四拍手をうたれているのである。現在、合気道の道場で四拍手をうつところが多いのは、戦後、植芝盛平翁が全国を指導にまわられた時に格式のある四拍手でお祭をされたからであろう。拍手は高く明るく厳かにうつことである。拍手のひびきは神人合一の境地という。

 拝礼の作法。目の高さで合掌し、両手を胸の高さに伸ばし合わせ、右手の掌(たなごころ)を少しすりさげ、ほぼ肩の広さに手を開き、うち合わせる。うち終われば、捧げた右手の掌を左手の掌にすりあげ、両手の指先を揃えてもとの姿勢にもどる。拝は90度のお辞儀をする。
 玉串拝礼は、神官より榊を受け取り、神前に進んだあと、榊を持ったまま神垂の根本を目の高さまで捧げ拝礼する。そして、玉串から右手を離すとともに、玉串を右に廻しながら右手で玉串の中ほどを下からとり、左手を添え神垂(しで)の根本を神前に向けて案(あん)の上に奉り置く。玉串を捧げる机を案という。
 玉串の「玉」は「霊」のことで、玉はタマシイの宛字である。神の御霊と、私たちの霊をつなぐ串を「玉串」という。この意味から、玉串拝礼の作法では、玉串を持った手を神のほうに返し、玉串を案の上に置くことが重要とされる。単なる捧げ物ならば、手のついたところを神の方向に返すことは失礼となるのである。神をひとつの大きな樹だと考え、そこから出ている枝葉を私たちだとすると、玉串拝礼は神のもとに還っていく自分の姿、すなわち精神的に神の境地に還る自分の姿をあらわすという。

 神楽殿における大々御神楽(だいだいおかぐら)の儀は、大御前に神饌がお供えされ、祓い清めをうける。神官による八拍手による拝礼があり、祝詞が奏上される。そして雅楽が奏されて巫女による倭舞(やまとまい)と、荘厳な雰囲気のなか執り行われる。内宮の特別参拝でいただいた桐箱に収められている御神札「神宮大麻」は武産道場にお祀りしてある。

 つぎに御正宮の後方にある荒祭宮(あらまつりのみや)を参拝する。闘う女神アマテラスの荒魂を祀るこの荒祭宮には、人と神との境である鳥居がないという。十三世紀、真言僧の通海は通海参詣記に「この宮の参拝は殊に心を致すべし」と記す。ここには鳥居がないので気吹(いぶき)をする。
 荒ぶる神、スサノオ『建速須佐之男命』。青い山々の草木を枯れさせ、河や海の水を干しあがらせる。また、山も川もめりめりと揺らぎ、国土がみしみしと震い動くほどにあらゆる災いを起すスサノオ。そのスサノオを迎え討つアマテラスのいでたちは、髪をといて男髷(おとこまげ)にゆい、両方のびんと両方の腕とに八尺の勾玉(やさかにのまがたま)という立派な玉の飾りをつける。背中には五百本、千本という大層な矢を背負い、右手に弓を取って突き立て、勢いこんで足を踏みながら待ち構える。そのきつい力踏みで、堅い土がまるで粉雪のようにもうもうと飛び散った。武装して闘いに挑む女神アマテラスである。スサノオとアマテラスは天安河(あまのやすかわ)をはさんで対峙し、宇気比をする。そして、宇気比に勝ったスサノオが惹起した穢れに、遂にアマテラスは岩屋ごもりとなる。

 そこから五十鈴川の上流にある猿田彦神社に参拝する。天孫降臨の際に道案内をするサルタヒコ『猿田彦命』は植芝盛平翁が合気の守護神として祀られる筆頭神である。この猿田彦神社には、アマテラスが天岩戸にこもられたときに神楽舞いをしたアメノウズメ『天宇受売命』がともに祀られている。
 合気道開祖植芝盛平は語る。武気を現代の言葉でいうと、智、勇、親、愛となる。つまり魂の動きになってくる。これを形の上でいうと、天、火、水、地となる。これらは地上経綸の姿、一元の神の情動の姿であって、宇宙の営みの実体である。この一元の極智、極ミイズ、極徳、極善の精神の動き、これを天照大御神と称えまつるのである。この植芝の合気は、大猿田彦となって、これから進む道案内であります。地上の禊、祓いです。そして、私のうしろから偉い方々が進んで来るのです。これには天照大御神との間に、何か黙約があるのです。今日、こうしてあるために何かあるのです。私はまず武門をながめた姿から入り、神様に「汝、その役をつとめて進んでゆけ」と命ぜられたのであります。このお役目を果せば、私は天に昇るのであります。これから道案内をします。

 そして、内宮と外宮のほぼ中ほどにあるツキヨミ『月読命』を祀る月読宮(つきよみのみや)に参拝する。御正宮についで重く祀られているというお宮は山中にあって、月読宮、月読荒御魂宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮が並んで建つ。あたりは静寂につつまれ、清らかな気が満ちて、厳かな雰囲気が身をつつむ。

 トヨウケ『豊受大神』を祀る外宮での特別参拝である。トヨウケはアマテラスの召しあがる大御饌(おおみけ)を奉げる守護神。社殿の規模は内宮・外宮ほとんど同じだという、玉垣の内での拍手も清々しく、新たなる気をいただいて特別参拝は滞りなく済ませることができた。




続 古事記と植芝盛平(2) ー京の散歩道ー  2014年3月1日更新
師範 樋口隆成

 出雲 お国帰り

 神門通りの手前の宇迦橋に堂々とそびえる一の大鳥居。神門通りを進むと勢溜にあるのが木造の二の鳥居。松の下り参道を進んで祓橋をわたると鉄製の鳥居がある。そして、参道の最後に四の銅鳥居である。大注連縄の拝殿が見える。

 オオクニヌシ『大国主命』は、「オオアナムジ」「アシハラノシコオ」「ヤチホコ」「ウツシクニタマ」の五つの名前をもつ。それは、それぞれの説話に応じてオオアナムジが幾多の試練を経て、業績を重ねオオクニヌシに成長していく。そして歴史的には、大和王権以前の地方豪族の国津神たちを統合したものと見ることができる。

【古事記】 大国主の神。亦の名は大穴牟遅の神といひ、亦の名は葦原の色許男の神といひ、亦の名は八千矛の神といひ、亦の名は宇都志国玉の神といひ、并せて五つの名あり。

 因幡の白兎の説話の中で、白兎を助けるオオアナムジの行いは医療行為であり、その後、再三にわたってオオアナムジは八十神の兄弟たちの姦計によって殺されるが、その都度蘇生する。わが国、医道の始まりである。
 根の国を訪れたオオアナムジはスサノオに会い、娘のスセリヒメと結婚する。オオアナムジは、ここではアシハラノシコオの名で登場する。「シコオ」は醜男、頑丈な男の意。
 オオクニヌシはスサノオの六代目の子孫であるが、スサノオの娘とも結婚する。神話は時空を超越するのである。

【古事記】 「須佐能男の命の坐す根の堅州国に参向ふべし。必ずその大神議りたまはむ」 かれ、詔命のままに、須佐之男の命の御所に参到れば、その女須勢理毘売出で見、目合ひして相婚して還り入りて、その父に白して言ひしく、「いと麗しき神来ませり」 しかして、その大神出で見て告らしくく、「こは、葦原の色許男の命といふ」

 根の国での試練を経てアシハラノシコオは成長する。ヘビ、ムカデ、ハチの受難。ネズミから授けられる呪文。そして生大刀、生弓矢、天の沼琴を得る。それは王の資格を示す宝器で、皇室の象徴である三種の神器に匹敵する。その異界の宝物とスセリヒメの獲得は地上での新たな王の条件であった。アシハラノシコオの名においてこれを獲得したことに意義があり、葦原の中津国の王となることを物語っている。
 そして、ウツシクニタマは八十神の兄弟たちを倒して出雲国の王となる。偉大なるオオクニヌシの誕生である。

【古事記】 かれしかして、黄泉つひら坂に追ひ至りて、はろはろに望けて呼ばひて、大穴牟遅の神に謂らして曰ひしく、「その、なが持てる生大刀、生弓矢もちて、なが庶兄弟は、坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追い払ひて、おれ、大国主の神となり、また宇都志国玉の神となりて、そのわが女、須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽たかしりて居れ。この奴や」 かれ、その大刀、弓を持ち、その八十神を追ひ避くる時に、坂の御尾ごとに追ひ伏せ、河の瀬ごとに追ひ払ひて、始めて国を作りたまひき。

 ヤチホコの神は他国の女性と関係をもち、その土地の霊力を身につける。
 オオクニヌシは海を照らしてやってくる神霊スクナビコと共に国造りをする。
 高天原のアマテラスは、その地上を自己の御子神の支配する土地と宣言する。アマテラスは、アメノホヒを派遣するがオオクニヌシに寝返る。アメノワカヒコを派遣するもまた寝返る。そしてタケミカヅチとアメノトリフネを派遣することになる。
 オオクニヌシの御子神コトシロヌシとタケミナカタとの闘争があり、オオクニヌシは屈服して国譲りとなる。それは、出雲系の神々を鎮めることで新しい支配が完成することであり、歴史的には大和朝廷以前の勢力との闘争を物語る。
 オオクニヌシは国の支配権の献上を誓い、壮大な宮殿を建てる条件をだす。その結果、アマテラスはオオクニヌシの神殿を建て、第二子のアメノホヒをオオクニヌシに仕えるように命じる。
 古代の出雲大社の本殿の全高は地上48メートル、本殿までの階段の長さは109メートルであったという。平成12年(1999)の発掘調査では、直径135センチの柱を3本、鉄の輪で組み合わせて1本の巨大な柱としていたことが確認された。これは千家(せんげ)家に残る古代の出雲大社を描いた「金輪造営図(かなわのぞうえいず)」という絵図面と合致する。
 この出雲大社宮司が国造(こくそう)と呼ばれる千家家と北島家で、天皇家に次ぐ古い家系である。

【古事記】 しかして、答へ白ししく、「あが子等二はしらの神の白すまにまに、あも違はじ。この葦原の中つ国は、命のまにまにすでに献らむ。ただあが住所のみは、天つ神の御子の天つ日継知らしめすとだる天の御巣のごとくして、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷木たかりして、治めたまはば、あは百足らず八十隈手に隠りて侍らむ。また、あが子等百八十神は、八重事代主の神、神の御尾前となりて仕へまつらば、違ふ神はあらじ」

 御本殿の御神座とされる大国主命は正面ではなく、西の方、稲佐の浜の方角を向いている。それは稲佐の浜が全国から神々が集まる神聖な場所であり、八百万の神々を迎えるためであるという。また御父神であるスサノオに背を向けることが憚られるからだといわれる。
 御本殿近く、拝殿の前にある江戸時代初期に建立された銅製の鳥居には「素盞嗚尊は雲陽大社の神なり」の文字が刻まれる。また南北朝時代の太平記にも「素盞嗚尊は、出雲の大社にて御坐す」と記されている。江戸時代中期の本居宣長や平田篤胤によって古事記や日本書紀の研究がなされるまでは、出雲大社の祭神はスサノオと思われていたのであろうか。
 いま出雲大社御本殿の真後ろにはスサノオの社がある。

 幸魂(さきみたま) 奇魂(くしみたま)
   時に海を照して依り来る神あり。
   吾在るに由りての故に汝その國造りの大業を建つるを得たり。
   吾は汝が幸魂奇魂なり。
   大國主神これ吾が幸魂奇魂なりけりと知りぬ。

【解説】 古事記また日本書紀に述べるところであります。出雲大社の御祭神大國主大神はこの幸魂奇魂の"おかげ"をいただいて神性を養われ「ムスビの大神」となられました。生きとし生けるものすべてが幸福になる「縁」を結ぶ"えんむすびの神"と慕われるゆえんであります。およそ人が人であるということは幸魂奇魂というムスビの"みたま"をわが身にいただいて靈止すなわち人として生かされているからであります。大神からいただいたこの"いのち"を感謝して大切に正しくこれを生かしきりましょう。 出雲大社ではこの御神教にちなんで
   さきみたま くしみたま
   まもりたまひ さきはへたまへ
と唱して御神縁を祈念いたします。この「ムスビの御神像」は大國主大神が有難く「幸魂奇魂」を拝戴される由縁を象徴しております。 (「幸魂奇魂」御神像説明板)

 そして、祖霊社を参拝した。




続 古事記と植芝盛平(3) ー京の散歩道ー  2014年6月1日更新
師範 樋口隆成

【植芝盛平 大本年譜】
 大正9年(1920) 37歳  大本入信、北海道から綾部に移住する。出口王仁三郎聖師の近侍となり、鎮魂帰神の修行につとめる。
 大正10年(1921) 38歳  大本理想農園世話係となり開墾に従事。18畳の植芝塾道場を開設する。
 大正11年(1922) 39歳  「植芝流合気武術」と呼称される。
 大正13年(1924) 41歳  世界経綸の地を求めた出口王仁三郎とともに満蒙へ。
 大正14年(1925) 42歳  神機発動を生じ武道開眼する。


 大本記

 戦争に加担しなかった唯一の宗教が大本である。故に国家から戦時中に二度にわたる過酷な弾圧を受けたが、それに耐えて大戦終結前に治安維持法の無罪の判決を受け、終戦により不敬罪も解消した。その後、国への賠償と補償請求は「政府の賠償金は国民の血税から受け取るのだから」との出口王仁三郎聖師の言葉で辞退する。

 大本とは、綾部市の梅松苑と亀岡市の天恩郷の2大聖地をもち、出口なおを開祖、出口王仁三郎を聖師とする。主祭神はクニノトコタチ「国常立尊大神」である。
 梅松苑は大本発祥の地で、明治25年正月、この地でクニノトコタチが「艮の金神」の名で出口なおに神懸りし、三千世界の立替え立直し、みろく神世の実現を啓示する。本宮山、長生殿が大本の祭祀の中心地である。
 天恩郷は出口王仁三郎ゆかりの地で、明智光秀の亀山城址を出口王仁三郎が買い取り復興した。

 大正6年、開祖出口なおのお筆先「大本神諭」全7巻を出版。大正8年、亀山城址を入手し宣教の中心地に、綾部を祭祀の中心地とする。
 大正10年、出口王仁三郎聖師が高熊山修行の際に見聞した内容を口述した書「霊界物語」全81巻を出版。大正維新のスローガンを掲げ、社会の根本的改革を説く。大正日日新聞を買収して言論界に進出、入信者増える。出口王仁三郎が大本入りしてから教団の強勢が飛躍的に伸び、立替説により国家権力はその影響力を危険視した。
 第一次大本事件。大正10年2月12日、不敬罪と新聞法違反の疑いで出口王仁三郎ほか数人が検挙され、出口王仁三郎は126日間の未決生活ののち保釈された。新聞各社から総攻撃を受ける。事件は大審院で「前審に重大な欠陥あり」として前判決破棄。再審中、大正天皇崩御で免訴となる。
 第二次大本事件。昭和10年12月8日、政府が教団の聖地を没収、亀岡の月宮殿などすべての施設をダイナマイトで破壊する。幹部ら信徒3000人を検挙、拷問で16人が死亡。教団所有地を綾部町、亀岡町に強制売却する。昭和初期には信者数100万人ともいわれた大本教団は、事実上ここで消滅した。

 大本開祖出口なおは、天保7年(1837)、福知山の貧しい大工の家庭に生まれ、19歳の時に綾部の叔母・出口ゆりの養女となり結婚、8人の子育てに苦労する。大工の夫の死後、明治25年、56歳の時に神懸りとなり艮の金神が降りる。「筆を持て」との神のお告げでなおの手が勝手に動き、死去までの27年間に半紙約20万枚の予言、警告を記す。これをお筆先という。

 出口王仁三郎聖師は、本名、上田喜三郎。亀岡の小作農に生まれ、神童、八ツ耳といわれるほどの霊能力をもち、小学校を中退。農業の傍らラムネ製造、牛飼いなどで苦労する。明治31年、霊山高熊山で一週間の修行。霊界の秘奥を究め、高度な霊能力を体得、鎮魂帰神法である。「西北の方角をさして行け」との神示で綾部の出口なおを訪ねる。なおの五女すみこ(後の二代教主)と養子結婚し、開祖と組んで大本の基礎を築く。

 霊界物語は、出口王仁三郎聖師が明治31年に霊山高熊山で修行した際に目撃した過去、現在、未来の現界、幽界、神界の三界を探検して神々の活動を目撃したことを口述し、大正10年に全81巻にまとめて発表したもの。そこには宇宙の成り立ち、神幽現三界の組織、情態、みろくの世の実現への方途、政治、経済、教育、芸術など万般にわたって教示する。天国に入りうるものと、地獄に堕ちるものとの標準。世界が混乱するのは、人生の本義と宇宙の真相の二大根本義が明らかにされていないからとする。
 二大根本義とは、人生の本義と宇宙の真相。人類は現世界にどのような使命を与えられ、何の必要があって生まれてきたのか、そして天地創造の因縁、天地間の活動経綸と人間との関係はどのようなものであるのか。この二つが解明された時、初めて真の宗教、政治、教育が行われ、地上に神の意志にもとづく理想の楽園が実現するとする。

 大正時代に世界へ進出。世界共通語・エスペラントの普及につとめる。ロシアの盲目詩人エロシェンコやバハイ教徒との交流。中国の慈善活動団体・世界紅卍会との連携。大正13年、内蒙古にわたり、新蒙古国を建設して日本の失業問題や食糧問題を一挙に解決しようとする。大正14年、世界宗教連合会を発足、世界人類の平和をめざす人類愛善会を創立する。そしてブラジル、メキシコ、ヨーロッパまで布教師を派遣、出口王仁三郎もアジア各地を訪れる。

 出口王仁三郎が七福神の布袋に扮した写真は、肥満した腹を突き出し、いかにも布袋という風体をしている。また人前に素っ裸で出てきても平気で、暑い時は素っ裸で仰臥し、天井から洗濯ばさみを紐でぶらさげて、脱脂綿をあてた睾丸をはさんでもち上げ、それを信者に団扇であおがせたという。昭和10年の第二次弾圧で裁判にかけられた時は、法廷で珍問答を繰り返し猥談を交えて裁判官を煙に巻いたり、裁判に飽きると足や腹が痛いと大騒ぎして休廷にもち込んだ。また、裁判の一審で無期懲役の判決が下されると後ろを向いて舌を出しアカンベーをしたという。
 出口王仁三郎には吸引力があった。学生、知識人、軍人も入信。明治天皇の皇后である昭憲皇太后の姪の鶴殿ちか子(鶴殿男爵夫人)が入信。岩下子爵、宮中顧問官の山田春三も入信。合気道開祖となる植芝盛平が入信した。

 高橋和巳著『邪宗門』のモデルになったといわれる宗教法人「大本」。物語は、ひのもと救霊会とよばれる架空の新興宗教。明治の中頃、ごく平凡な女性だった行徳まさが開祖となり、その後を継いで行徳姓となった仁二郎が教主となる。そして千葉潔という少年を物語の主人公に、小作農や女工といった社会の底辺層の人々の圧倒的な支持を得て、昭和初期の時点で全国に100万人の信者を持つまでの勢力に成長する教団という設定である。植芝盛平と思われる人物が登場する。

 片山優『竹田訪問記』の記述である。昭和の初期、兵庫県の竹田(兵庫県朝来市和田山町竹田)というところに合気道の道場があり、そこでは植芝盛平が直接指導にあたっていたという。
 大本竹田別院の窪田孝造氏は語る。
 「それは昭和8年から10年までのことです。大本に武道宣揚会というのがありまして、この地にその道場がありました。初代の会長が大本の出口王仁三郎聖師で、その三代目の会長が合気道の植芝盛平というお方でした。
 今の竹田郵便局の前に酒倉があって、それが道場に改造されました。50畳ぐらいだったでしょうか。ところが次第に道場生の数が増えるものだから、その隣りにあった大きな酒倉を改造して、そちらに移りました。こちらのほうは120畳ぐらいだったかなあ。
 道場生が、大先生と呼んでいた植芝先生が指導にあたってましたが、そうでないときには小畑峰吉という方が指導されていました。道場生のほとんどは植芝先生を慕ってはるばるやってきた人たちでしたが、この土地の若者で入門した者もいました。道場生は造り酒屋さんの屋敷に住んで、掃除を手伝ったりしていました。そして、毎日のように竹田城に駆け上がって修行していました。また時には川に入って禊をしたりしていました。」
 同席されていた竹田郵便局の石原局長夫人は、
 「そのお方は凄かったですよ。お弟子の方々が何人かで掛かっていきなさると、エイッと気合をかけなさる。すると、体には触れていないのに、お弟子の方々が皆、倒れてしまいましてなあ。……あれはどうなっているんでしょう。」としきりに首を傾げていた。
 そして、道場だった建物に案内してもらった。その建物は大本竹田別院と棟続きになっていた。
 「この建物が最初につくられたほうの道場です。後に移った大きい道場は、現在、取り壊されて民家になっています。」
 建物の広さは京都公安道場ほどである。酒倉だっただけあって天井が恐ろしく高い。  
 その後、道場生が駆け上がったという天空の城「竹田城跡」に登った。 (合気道武産会『合気道史跡行脚』昭和54年)  

               竹田城跡にて

          天地の氣満ちて伏虎の動かざる    秋水




続 古事記と植芝盛平(4) ー京の散歩道ー  2014年9月1日更新
師範 樋口隆成

 日本の神社の総数は約8万社。一番多い神社は八幡社の7800社。次に伊勢社の4400社。3番目は天神社の3900社。そして、稲荷、出雲、春日、熊野、祇園、諏訪、白山、住吉と続く。
 京都には約2500もの寺社があるといわれる。京都盆地に生活する人々の精神的支柱となってきたのが、祖先神や先祖を祀る神社である。それは賀茂氏の上・下賀茂神社や秦氏の伏見稲荷大社、菅原道真の北野天満宮に代表され、平安京以前にまで遡る歴史を経た神社も多い。
 京の社に合気の神々を訪ねる、ぶらり散歩道。神社という聖的空間には様々な姿がある。社叢ともよばれる境内の成り立ちを考え、開祖植芝盛平翁が祀られた合気神との出会いを肌で感じたいと思う。


 古事記の一番始めに誕生する神がアメノミナカヌシ『天之御中主神』。
 原文は「天地初発之時」とあり「発」は始まるの意。原文「高天原」は高い、天の原の意。自然界の天空ではなく、天津神の住む天上界で、古代の世界観のひとつ。
 三の数は、五、七とともに中国の聖数観念による。生成の霊(むすひ)二神は日本固有の信仰神であったが、それに天の中心(みなか)の主宰神を配して三極構造をとる。

【古事記】 天地初めて発りし時に、高天の原に成りませる神の名は、天之御中主の神。次に、高御座巣日の神。次に、神産巣日の神。この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隱したまひき。

 合気道開祖植芝盛平は、天なく地なく宇宙もなく大虚空宇宙である。その大虚空に、ある時ポチ一つ忽然として現る。このポチこそ宇宙万有の根源なのである。そこで湯気、煙り、霧よりも微細なる神明の気を放射して円形の圏を描き、ポチを包みて、始めてス(〇に ゝ)の言霊が生れた。これが宇宙の最初、霊界の初めである。
 そして武産合気(たけむすあいき)について、一元の神アメノミナカヌシが、二元の神タカミムスビとカミムスビを出し、その二元のむすびが「水火の結び」であって、これが合気であると説いている。

 日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)
 外宮の祭神がアメノミナカヌシで、内宮の祭神がアマテラス。筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建されたと伝えられる。三条街道の石段をのぼり細い道をさらに行ったところに日向大神宮がある。静かな境内も紅葉の季節には参拝客で賑わいを見せる隠れた名所である。むかしは「京の伊勢」として伊勢神宮への代参や、東海道を旅する人たちで賑わったという。天の岩戸があり、くぐり抜けることができる。地下鉄東西線「蹴上(けあげ)」駅下車15分。所在地:京都市山科区日ノ岡一切経谷町

 木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみむすびじんじゃ)
 主祭神はアメノミナカヌシ。蚕ノ社(かいこのやしろ)で知られる。「養蚕神社」の大鳥居から見える杜に神社がある。境内は清々しい。京都三鳥居の一つ、三方から拝むことができる、三角形に組み合わされた石製の三柱鳥居がある。だが竹囲いがされていて間近で拝むことができないのが残念である。京福電鉄嵐山線「蚕ノ社」駅下車すぐ。所在地:京都市右京区太秦森ヶ東町

 因みに、京都三鳥居あとの二つは、京都御所にある厳島神社の、島木とよぶ鳥居の横木が唐破風造の鳥居と、北野天満宮にある伴氏(ともうじ)社の、鳥居両方の柱の下が蓮の華状となっている石製鳥居である。




続 古事記と植芝盛平(5) ー京の散歩道ー  2014年12月1日更新
師範 樋口隆成

 開祖植芝盛平翁の神事

 淡路の穂の狭別の行 (あわじのほのさわけ) 
 天の浮橋に立ちて杖を持った植芝盛平翁の神の舞い。右旋回に舞い昇る天輪の氣と、左旋回に舞い降りる降輪の氣は螺旋にめぐむ禊の杖。
 古事記の最初に出てくる産み出しの言霊「ウ」を示す主「ス」の行。神話でいう天御中主の神の座である。古事記の冒頭にある、天地初めて発けし時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神、云々の文章にこの行の意味が端的に表わされている。

 私は、あらゆる流儀を尋ねあたりましたが、人間の作った流儀のどこにもそれは見当たりませんでした。では、どこにあったのか。すべては自分にあったのです。自分の開眼にあったのです。では、自分を開眼させる為には、どうしたらよいか。それは天の浮橋に立たなければならないのです。 (植芝盛平先生口述『武産合気』高橋英雄編)

          いきいのち廻り栄ゆる世の仕組たまの合氣は天の浮橋

 タカミムスビ『高御産巣日神』は天孫降臨の場面などに登場。カミムスビ『神産巣日神』はオオクニヌシを蘇生させる場面や、スクナヒコの場面に登場する。
 葦原の中つ国はオオクニヌシによって国造りがなされた。ところが、高天原のタカミムスビとアマテラスは突如わが子こそその国の領有支配者であると宣言し、御子アメノオシホミミに天降りさせる。

【古事記】 天照大御神の命もちて、豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国は、あが御子正勝吾勝勝速日天の忍穂耳の命の知らす国ぞ、と言因さしたまひて、天降したまひき。ここに、天の忍穂耳の命、天の浮橋にたたして詔らしく、豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国は、いたくさやぎてありなり」と告らして、さらに還り上りて天照大御神に請ひたまひき。しかして、高御産巣日の神、天照大御神の命もちて、天の安の河の河原に、八百万の神を神集へて、思金の神に思はしめて詔らしく、この葦原の中つ国は、あが御子の知らす国と、言依さしたまへる国ぞ。かれ、この国に道速振る荒振る国つ神等の多にあるとおもほす。これ、いづれの神を使はしてか言趣けむ。

 開祖植芝盛平翁は、天輪の気、降輪の気を説く。高天原とは全大宇宙のことである。宇宙の動きは、タカミムスビ神、カミムスビ神の右に舞い昇り左に舞い降りる御振舞いの摩擦作用の行為により日月星辰の現れがここにまた存し、宇宙全部の生命は整ってくる。そしてすべての緩急が現われているのである。
 そして、アメノミナカヌシの代のタカミムスビ、カミムスビの神様が現われる。即ち火のもと水のもとの神が濃厚に現われた。タカミムスビは霊魂の根源の神。カミムスビは霊の体の根源となってつくられて、祖神と現われた。その代の神は人間の姿ではなくみな気のもとである。
 一の動きから二の動きが出た。それがタカミムスビ神、カミムスビ神である。その動きがついに霊力体を現わして、そして一霊の中心に対して霊魂をつくり、その霊にまた四つの働きを持たしている。各々四つはまた四つの働きを持っている。それを一霊四魂といっている。

 八神社(はちじんじゃ)
 祭神は、タカミムスビ、カミムスビ、イクムスビ、タルムスビ、タマツメムスビ、オオミヤメ、ミケツ、コトシロヌシの八柱の神を祀る。銀閣寺(慈照寺)の参道を通り抜け、大文字山への入口にある。創建年代は不詳だが平安京遷都以前からこの地に鎮座していた産土神(うぶすなかみ)の社という。閑静な境内、重い気はない。所在地:京都市左京区銀閣寺町

 羽束師坐高御産日神社(はずかしにますたかみむすびじんじゃ)
 祭神は、タカミムスビとカミムスビの二柱の神を祀る。京都市内最古の神社のひとつ。桂川右岸、京都府運転免許試験場の北にあり、羽束師の森とよばれる境内に鎮座する。所在地:京都市伏見区羽束師志水町

 與杼神社(よどじんじゃ)
 祭神は、トヨタマヒメ、タカミムスビ、ハヤアキツヒメの三柱の神を祀る。淀城の近くにあって「淀神社」ともよばれ、淀の産土神として鎮座している。所在地:京都市伏見区淀本町




続 古事記と植芝盛平(6) ー京の散歩道ー  2015年3月1日更新
師範 樋口隆成

 開祖植芝盛平翁の神事

 言霊の行 (ことたま)
 天の浮橋に立ちて木剣を持った植芝盛平翁の神の聲。乾、巽、坤、艮と、四方を祓う禊の太刀。
 開祖は「イエィ」と気合を入れる。入身のときに発する気合である。その掛け声は無形の神剣といわれる。気合は相手の心に動揺を与え、一喝の気合をもって相手を一飲みにする。気合によって相手を我れの自由とするのである。そこで、気合によって相手の呼吸に合することを得て、一喝の気合により先々の空の頂点に恵みを与えるのである。気合によって体内に響きを与えて正道なる道を開く、一喝の気合は音感の響きとなり波となって感応し、山彦となってかえり咲くのである。これを「山彦の道」という。

 気合は言霊である。古より、日の本は言霊の幸はう国といわれ、ことばは「言の刃」といって、ことばによって人を活かすこことも殺すこともできる。また自ら発する悪言は天に唾する如く、返す刃で自らを傷つける両刃の剣となるのである。ことばには意思があり魂がある。これを言霊「ことたま」という。
 心身統一するときに発するのが気合である。気合は心と身体と呼吸をむすぶ。むすびは産霊神「ムスヒ」であり、「ムス」は万物の生長の意。また苔がムスや、人が成長するムス子「息子」、ムス女「娘」に同じ。「ヒ」は霊魂であり、霊の力の真心をいう。

 阿吽の「ア」と「ウン」をむすぶ七十五声のもととなる五声が「ア、オ、ウ、エ、イ」である。
 「ア」はものの始まりであり、天の呼吸。
 「オ」は地の呼吸であり、神上げ神降しの聲。
 「ウ」はものの産み出しの呼吸であり、力の根元。
 「エ」は断ち切る呼吸。
 「イ」は中心を気吹く呼吸。

          天地に氣結びなして中に立ち心構へは山彦の道

 クニノトコタチ『国之常立神』からイザナギ、イザナミまでを神世七代(かむよななよ)という。神世七代の神々は、別天津国之常立の神神とは異なって土地に出現する。神名の由来から大和の時代に「神世」と意識されたのは、木や石の呪柱、神像が物語る宗教世界であり、それはまた土地と人間の長い長い歴史であった。

【古事記】 上の件の五柱の神は、別天つ神ぞ。 次に、成りませる神の名は、国之常立の神。次に、豊雲野の神。この二柱の神も、独神と成りまして、身を隠したまひき。

 合気道開祖植芝盛平は、合気のもとは、スの大神様である。この世の一霊四魂三元八力を出された。その八力のもとに立たれた大御親たる、一番根源の大御親である。合気はその大御親の情動の動きであって、国祖の国之常立大神、豊雲野大神、つまり一元から二元を出し、二元のミイヅの現われによって、それが五代(いつよ)七代(ななよ)の神様よりこのみ働きミイヅを受けもって、ご化神として立たれた、ナギ、ナミ、二尊の島生み神生みのもとを忘れてはいけないという。
 そして、八力がアオウエイの姿(言霊)であり、クニノトコタチのみ心の現われである。八力とは、分・合、引・弛、解・凝、静・動 で、八大引力は対照交流し動くと説く。

熊野若王子神社(くまのにゃくおうじじんじゃ)
祭神は、クニノトコタチ、イザナギ、イザナミ、アマテラスを祀る。永歴元年(1160)に後白河法皇が紀州熊野権現を勧進して建立した若王子の鎮守社。花見の名所としても知られ、寛正六年(1465)には足利義政により花見の宴が催されたという。哲学の道が近く、参拝客が多い。境内を右に出ると、滝へと続く鬱蒼とした山中へ向かう一本の道がある。後白河法皇が熊野詣をする際に禊をして出発したといわれる滝である。所在地:京都市左京区若王子町

城南宮(じょうなんぐう)
祭神は、クニノトコタチ、ヤチホコ、オキナガタラシヒメを祀る。名神南インター近く、城南宮がある鳥羽の地は平安京の表玄関に当たる交通の要衝で、王城の南の守護神として創建される。境内は広い。所在地:京都市伏見区中島鳥羽離宮




続 古事記と植芝盛平(7) ー京の散歩道ー  2015年6月1日更新
師範 樋口隆成

 開祖植芝盛平翁の神事
 
 振魂の行 (ふるたま)
 そもそも禊は大にしては治国平天下となり、小にしては修身斎下の基本たり。而して禊には種々の方式伝われり。禊に関する行事の内で、最も主要なる神事は振魂の行なり。
 之には種々の方式あれども、普通の場合には両掌を臍あたりの前方において十字形に組み合せ、渾身の力をこめて神名を称えながら、自己の根本精神を自覚して、盛んに猛烈に数十分及至数時間連続して全身を振い動かす行事なり。 (植芝盛平『武道禊の巻』)

          千早ぶる神の仕組の合氣十八大力の神のさむはら

 天の浮橋に立たされたイザナギとイザナミ『伊耶那岐命、伊耶那美命』は天の沼矛を差し下し海水をころころと掻き回して、引き上げた時に、その矛より垂り落ちた海水のかさなり積ったのがオノゴロ島である。「天の浮橋」は、神が昇降するのに使う天界と下界をつなぐ橋。「天の沼矛」は、高天原の玉飾りのある矛。「オノゴロ島」は、おのずから凝り固まった島の意。この島はイザナギ、イザナミ二神の国土の修理固成の拠点となった聖なる島。
 5月19日、この淡路島(兵庫県南あわじ市)にある石材関連会社の砂山から、弥生時代前期〜中期の青銅祭器「銅鐸」が7個見つかったと、兵庫県教育委員会が発表した。銅鐸の内側に取り付け、打ち鳴らすための「舌(ぜつ)」と呼ばれる青銅製の棒(長さ約13〜8cm)も3本確認され、青銅の舌が銅鐸と同時に見つかったのは珍しいという。舌は摩滅しており、実際に鳴らされたことを裏付けている。また古代中国で占いを示す「王」と見える符号が鋳出された銅鐸もあった。

【古事記】 ここに、天つ神のもろもろの命もちて、伊耶那岐の命、伊耶那美の命の二柱の神に、「このただよへる国を修理固め成せ」と詔らし、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。かれ、二柱の神天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下して画かせば、塩こをろこをろに画き鳴して、引き上げたまふ時に、その矛の末より垂り落つる塩の累り積れる、嶋と成りき。これ淤能碁呂嶋ぞ。

 合気道開祖植芝盛平は、武産合気(たけむすあいき)は気の交流を最も尊重する。ナギナミ二尊の二柱の尊いミイズの気の交流によって、その営みの道によって、この世は固まったといわれている。合気はこのナギナミ二尊の島生み神生みに基礎根源をおいているのであり、これを始めとしていると説く。

 イザナギとイザナミはオノゴロ島に天降り、天の御柱を立てお互いに身体の様子を尋ね合い、愛の唱和をして結婚する。

【古事記】  ここに、妹イザナミの命に問ひて、「なが身はいかにか成れる」と曰らししかば、「あが身は、成り成りて成り合はざる処一処あり」と答へ曰しき。しかして、イザナギの命の詔らししく、「あが身は、成り成りて成り余れる処一処あり」

【日本書紀】  因りて陰神に問ひて曰はく、「汝が身に何の成れるところか有る」とのたまふ。対へて曰はく、「吾が身に一の雌元の処有り」とのたまふ。陽神の曰はく、吾が身にも雄元の処有り」

 古事記は語り口調で書かれ、日本書紀は漢文口調で書かれている。
 「イザナ」は誘うであり、「キ」は男、「ミ」は女である言霊。天の御柱をイザナギは左廻り、イザナミは右廻りにまわって出逢ったところで結婚した。イザナギは男で陽神、イザナミは女で陰神である。古代中国の陰陽思想にもとづく。男が左廻り、女が右廻りというのは、「天左旋、地右動」春秋緯や「雄左行、雌右行」准南子など古代文献に見られる。古事記は、左(男)を右(女)よりも貴しとする思想が一貫している。記紀神話のイザナギとイザナミは陰陽の世界観を体現しているのである。

 熊野神社(くまのじんじゃ)
主祭神はイザナミ、相殿にイザナギを祀る。弘仁2年(811)に紀州熊野大神を勧請したのが始まりと伝わる。後白河法皇の信仰があつかったことでも知られ、新熊野神社、熊野若王子とともに京都熊野三山のひとつに数えられている。京名物「八ッ橋」発祥の地の石碑がある。岡崎の京都市武道センター「旧武徳殿」近く、丸太町通と東大路の交差点にある。所在地:京都市左京区聖護院山王町

 新熊野神社(いまくまのじんじゃ)
祭神は、イザナミ、イザナギ、アマテラス、ハヤタマノヲ、コトサカノヲを祀る。京都熊野三山のひとつ。三十三間堂近く、東大路沿いにある。大きな樟(くすのき)が目印。所在地:京都市東山区今熊野椥ノ森町

 熊野若王子神社(くまのにゃくおうじじんじゃ)
祭神は、クニノトコタチ、イザナギ、イザナミ、アマテラスを祀る。京都熊野三山のひとつ。東山山麓の、銀閣寺橋から若王子橋までの約2kmにわたる疎水べりの哲学の道近く。所在地:京都市左京区若王子町

 愛宕神社(あたごじんじゃ)
祭神は、ワクムスビ、ハニヤマヒメ、イザナミ、アメノクマヒト、トヨウケヒメを祀る。愛宕山上に鎮座する全国愛宕神社の総本宮。愛宕さんといえば「火迺要慎」(ひのようじん)のお札が有名である。所在地:京都市右京区嵯峨愛宕町




続 古事記と植芝盛平(8) ー京の散歩道ー  2015年9月1日更新
師範 樋口隆成

 開祖植芝盛平翁の神事

 天の鳥船の禊 (あめのとりふね)
 之は神々が、天の鳥船に乗り給いて大海原を横ぎり給ひし大雄円をしのびつつ渾身、特に臍の辺りに力をこめ気合と共に櫓を漕ぐままの動作を百千回反復する行にして、運動それ自身にあたいあるのみならず、之に依りて合気の練習も出来不智不識の間に衆心の一和する禊なり。 (植芝盛平伝書『武道禊の巻』)

          氣の御わざ魂の鎮めや禊技導き給へ天地の神

 天皇家の皇祖神アマテラス『天照大御神』。天の石屋戸からのアマテラスの出現によって、天高原は照りかがやくことになる。この天の石屋戸神話は、アマテラスの石屋戸ごもりの動機とその結果。そしてアマテラスの出現を願う祭儀、準備、祈祷、歌舞があり、スサノオの追放、というように起承転結の劇的な構成をなしている。素材論的には、日蝕神話、冬至の鎮魂祭、穀霊の死と復活の祭儀などの要素が考えられる。それは新嘗祭、大嘗祭に通じる。

【古事記】 かれ、天照大御神出でましし時に、高天の原と葦原の中つ国と、おのづからに照り明りき。

 合気道開祖植芝盛平は、武気を現代の言葉でいうと、智、勇、親、愛となる。つまり魂の動きになってくる。これを形の上でいうと、天、火、水、地となる。これらは地上経綸の姿、一元の神の情動の姿であって、宇宙の営みの実体である。この一元の極智、極ミイズ、極徳、極善の精神の動き、これを天照大御神と称えまつるのであると説かれた。
 智勇親愛は一霊四魂三元八力の「四魂」にして、智は奇魂、勇は荒魂、親は幸魂、愛は和魂である。

 天孫降臨に際して、アマテラスは自らの魂を鏡に移し、肉体をもった神から霊神となる。

【古事記】 詔らししく、「これの鏡は、もはらあが御魂として、あが前を拝ふがごとくいつきまつれ」

 三種の神器の、鏡は太陽神の象徴であり農耕祭祀の象徴で、勾玉は穀霊、剣は軍事の象徴で、天皇即位の継承のしるしとなる。
 この聖なる鏡を歴代の天皇が宮殿のなかで祀ることとなる。これを同殿共床という。しかし、第十代の崇神天皇のときに変化があり、宮殿から遷座する。そして、第十一代の垂仁天皇のときに伊勢に遷座、伊勢神宮の成立となる。但し、この伝承は「日本書紀」のみで「古事記」にはない。
 その時代、諸国に疫病が流行り、その原因は神の勢いが強いアマテラスが宮殿内部に祀られるためと判断され、宮殿外に遷座させられた。そして、大和から見る伊勢は古代政権にとって日出る聖なる方位であり、政治的な背景として、伊勢湾を隔てて東国への交通の要所であり、朝廷の東国進出の拠点となった。
 伊勢神宮創建は六世紀から七世紀と推定される。そこに崇り神としてのアマテラスの勢いを、即ちエネルギーを制御し、封じるための場所として伊勢神宮が創建された。

   伊勢神宮史料「太神宮諸雑記」  (注)巽方は都から伊勢の方角
     巽方の太神、不浄のことに依りて崇り

   同史料「宮主秘事口伝」  (注)宮主は天皇専属の占師
     伊勢国に坐す太神宮の崇り給ふや、神宮の崇りは、定事なり

 だからこそ、アマテラスは限りなく清浄で清新な建物に坐すことを求められ、二十年に一度の式年遷宮が行われる。

 神明神社(しんめいじんじゃ)
祭神は、アマテラスを祀る。平安時代後期、「平家物語」巻四に登場する鵺(ぬえ)は、頭は猿、胴は狸、手足は虎、尾は蛇という怪鳥であった。その鵺を退治したのが源頼政(1104〜1180)である。頼政はこの神明神社に祈願をこめて鵺を射止めた。その鏃(やじり)が宝物として伝わるという。京都大丸の南。地下鉄烏丸線「四条」下車5分。所在地:京都市下京区綾小路通東洞院東入る神明町

 鵺池(ぬえいけ) 
源頼政が、内裏に出没する怪鳥、鵺(ぬえ)を射止めた鏃(やじり)を洗ったと伝える池は、二条城の北、NHK京都放送局そばの二条児童公園にある。最近、整備されたので以前の面影はない。所在地:京都市上京区主税町

 高松神明神社(たかまつしんめいじんじゃ)
祭神は、アマテラスを祀る。醍醐天皇の皇子の高松殿旧跡。新風館の西。地下鉄烏丸線「御池」下車5分。所在地:京都市中京区姉小路通釜座東

 朝日神明宮(あさひしんめいぐう)
祭神は、アマテラスを祀る。駒札には、かつては広大な社域を有し「幸神(さいのかみ)の森」と呼ばれたとあるが、小さなお社である。京阪電車「五条」駅下車5分。所在地:京都市下京区麩屋町五条上る

 宇賀神社(うがじんじゃ)
祭神は、ウカノミタマ、アマテラスの二柱の神を祀る。境内に雷が石になったと伝えられる雷石がある。JR京都駅八条口の南。所在地:京都市南区東九条東札ノ辻町

 日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)
内宮の祭神がアマテラスで、外宮の祭神がアメノミナカヌシ。筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建されたと伝えられる。三条街道の石段をのぼり細い道をさらに行ったところに日向大神宮がある。天の岩戸があり、くぐり抜けることができる。地下鉄東西線「蹴上(けあげ)」駅下車15分。所在地:京都市山科区日ノ岡一切経谷町

 斎明神社(さいめいじんじゃ)
祭神は、アマテラスを祀る。通称、神明神社。京福電鉄「鹿王院」下車。所在地:京都市右京区嵯峨柳田町

 野宮神社(ののみやじんじゃ)
祭神は、アマテラスを祀る。天龍寺から小倉山山麓に至る真竹林の小径の中にあり、源氏物語「賢木の巻」の舞台となったことで参拝客が多い。京福電鉄「嵐山」下車。所在地:京都市右京区嵯峨野々宮町

 斎宮神社(さいぐうじんじゃ)
祭神は、アマテラスを祀る。京福電鉄「有栖川」下車。所在地:京都市右京区嵯峨宮ノ元町




続 古事記と植芝盛平(9) ー京の散歩道ー  2016年1月1日更新
師範 樋口隆成

 合気道開祖植芝盛平翁の神事

 雄詰の禊 (おころび)
 雄詰というのは、神我一体となり、禍津見を征服し、これを善導神化する発声なり。雄詰は「イーエツ」といふ声を発するとともに、右足を左足に踏み付ける。同時に脳天に振りかざしたる天之沼矛を斜に空を斬って、一直線に左の腰元に打ち下すや否や、更に「エーイッ」と発声するとともに、右肘を胸側につけたるまま前臂を直立し、然る後、更に天之沼矛を脳天に構え、前後に通じて続けさまに三、四回反復して行ふなり。神我一体となり「イーエッ」と打ち込むは、四囲の悪魔を威圧懲戒するの作法である。これを反対に「エーイッ」と打ち上ぐるは、悪魔を悔悟復活せしむるが為なり。即ち鬼も神と化し、禍も福と化し、これを吸収同化してともに神我一体たらしめむとするが、大祖神の垂示にして、神人の膨脹的大理想なり。 (植芝盛平『武道禊の巻』)


 夕 月

 ある老師のところにひとりの剣客が入門を請いに来た。剣客はなかなかの腕前である。「先生、私が本気で修業をすればどれぐらいで奥義を得られるでしょうか」と聞いた。「まあ、五年ぐらいだろう」と老師は答える。「それでは寝食を忘れて修業すれば」と聞くと、「それなら十年ぐらいだろう」と老師はいう。「では、死ぬ気で修業をすれば」とさらに聞く。すると、「一生かかっても無理じゃな」と老師は答えた。これを聞いて剣客はとうとう怒り出した。しかし、この剣客が何故なのかわかるまでは入門を許さないという。そして、老師は歌を詠んだ

          無明とは誰やの人か夕月のいづるも入るも知る人ぞなし

 迷うものは誰であろうか。夕月が浮かんでいる。誰もその月がいつ出ていつ沈むのかを知らない。無明とは迷いである。夕方出た月は夜にはもう沈んでしまうので薄暗い。
 実は剣客は本当の精進を知らなかった。血のにじむような精進は、精進でなく、単に執着、執念であるということに気づいていない。老師はこれを捨てよと教えているのだ。本当の精進、本当の努力とは、当たり前のことを当たり前に行い。ゆっくりと着実に努力することだ。老師は必死で苦行を重ねた結果、この境地を得られた。人間らしいゆったりした生き方がこれである。


【古事記】 ここに、左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、天照大御神。次に、右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は月読の命。次に御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は建速須佐之男の命。

イザナギの左の目から生まれたアマテラスは高天原の領有支配者になると同時に穀霊としての性格がある。次に、右の目から生まれたツキヨミ『月読命』は夜の国の領有支配を委任される。「月読」の文字から暦をつかさどる神としての性格をもつ。次の、鼻から生まれたスサノオが海原を領有支配するのは嵐の発生源が海原と考えられたためであろう。


 月読神社(つきよみじんじゃ)
祭神は、ツキヨミを祀る。日本書紀によると、487年に阿倍臣事代(あべのおみことしろ)が、朝鮮南部の任那に派遣されていたときに神のお告げを受け、京都に戻り天皇に奏上して、山城国葛野郡の桂川沿いを神領として賜り月読命を祀る神社を創建したのが由来と記す。嵐山の松尾大社の南、近くに苔寺、鈴虫寺がある。所在地:京都市西京区松宝山添町




続 古事記と植芝盛平(10) ー京の散歩道ー  2016年3月1日更新
師範 樋口隆成

 開祖植芝盛平翁の神事

 雄健の禊 (おたけび)
 生魂、足魂、玉留魂と、大国常立之尊の神名を唱えつつ天之沼矛を振りかざして直立不動の姿勢を構うる行なり。即ち、第一に直立して左右の両手を以て帯を堅く握り締め、拇指を帯に差し『生魂』と唱えつつ、力を全身に充足して腹を前方へ突き出し、体を後方に反らせ、第二に『足魂』と唱えつつ、力を全身に充足して両肩を挙げ、然る後、腰、腹、両足とに充分の力を込めて両肩を下し、第三に『玉留魂』と唱えつつ、更に力を両足に充足して両の爪先にて直立し、然る後、強く全身に力を込めて両の踵を下すなり。第四に左足を一歩斜前方に踏み出し、左手はそのまま帯を握り締め、右手は第二、第三指を並立直指し、他の三指はこれを屈し(これを以て天之沼矛に象る)、これを脳天に構える。 (植芝盛平『武道禊の巻』)

          世の初め降し給ひし璽鏡剣国を建てます神の御心

 高天原を二度も追放される荒ぶる神スサノオ『建速須佐之男命』は、出雲では大蛇を退治し、生贄の少女を救う英雄でもあった。そして出雲を支配する神へと変身していく。
 父イザナギの命令を拒んだスサノオは、亡き母イザナミの住む根の堅州国に行きたいと、髭が胸元に伸びる大人になってまで泣きわめいた。泣き声は青々と茂った山を枯らし、川や海の水を干し上がらせる。そこにはスサノオの大人になりきれない無垢で粗暴な姿がみられ、自然を破壊する凄まじさがある。そして「この国に住むべからず」とイザナギに追放されてしまう。

【古事記】 建速須佐之男の命に詔らししく、「なが命は、海原を知らせ」と、事依そしき。 かれ、おのもおのも依さしたまひし命のまにまに知らしめす中に、速須佐之男の命、命さしし国を治めずて、八拳髭、心前に至るまでに啼きいさちき。その泣く状は、青山は枯山なす泣き枯らし、河海はことごと泣き乾しき。ここをもちて、悪しき神の音狹蝿なすみな満ち、万の物の妖ことごと発りき。かれ、伊耶那岐の大御神、速須佐之男の命に詔らししく、「何のゆゑにか、なが事依さしし国を治めずて哭きいさちる」 しかして、答へ白ししく、「あは妣が国根の堅州国に罷らむとおもふゆゑに哭く」 しかして、伊耶那岐の大御神、いたく忿怒りて詔らししく、「しからば、なはこの国に住むべからず」とのらして、すなはち神やらひにやらひたまひき。

 父イザナギに追放されたスサノオは、根の国に行く前に高天原の姉アマテラスに暇乞いに昇天するが、その荒々しい性情のために、アマテラスは男装し武装してスサノオに備え、忠誠心を問いただす。そして宇気比に勝ったスサノオは乱暴の限りを尽くし、アマテラスの岩屋ごもりとなり世界は暗闇となる。
 この岩戸こもりからアマテラスが迎え出されると、スサノオは数多くの贖い物を科せられ、髭や手足の爪を抜かれ、罪を祓い、再び追放される。
 祓いは、罪、穢れを移す神道の根幹である。また食物神の屍体から五穀が生ずるのは、食物は食べられ、殺されて復活するからである。悪から善が生まれ、死から再生する神話の世界が広がる。
 荒ぶる力を発揮し、秩序を破壊し、二度も追放される神スサノオである。

【古事記】 かれ、天照大御神出でましし時に、高天原と葦原の中つ国と、おのずからに照り明りき。 ここに、八百万の神、共に議りて、速須佐之男の命に千位の置戸を負せ、また、髭と手足の爪とを切り、祓へしめて、神やらひやらひき。 また、食物を大気都比売の神に乞ひき。しかして、大気都比売、鼻や口また尻より種々の味物を取り出でて、種々作り具へて進る時に、速須佐之男の命その態を立ち伺ひて、穢汚して奉進ると、すなはちその大宜津比売の神を殺しき。かれ、殺さえし神の身に生れる物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。かれここに、神産巣日の御祖の命、これらを取らしめて種と成したまひき。

 高天原から追放されたスサノオは、出雲の国へ。
 クシナダヒメを囲んで泣き悲しんでいる国つ神の老夫婦アシナヅチとテナヅチに遭遇する。高天原系の神を「天津神」というのに対して、葦原の中つ国系の神を「国津神」という。土着性をもつ神である。
 クシナダヒメはヤマタノオロチという頭と尾が八つある大蛇の生贄だった。ヤマタノオロチ(八俣の大蛇)の「八」は日本の聖なる数であり、多数の意。またオロチは毎年やってくる来訪神であり、クシナダヒメはオロチに仕える巫女だと考えられる。
 スサノオは、アマテラスの弟であり天から降りてきた神だと名乗る。「(私が)お降りになった」という自称敬語の表現は、元来は三人称につけた敬語が尊貴者自身の発言に用いられるようになったもの。のちの尊大語。特殊な例で、名詞表現として残っている。
 クシナダヒメとの結婚を条件に救出を申し出ると、クシナダヒメを櫛に変えて頭に差した。「櫛」は「奇し」であり、神秘的、不思議なという意。スサノオが神聖な櫛を頭に差すことは巫女としてのシンボルを差すことで聖なる婚姻を表す。
 そして純度の高い酒を醸造し、それを八つの器に入れて桟敷の上に置きすえた。やって来たオロチが酒を飲んで酔って寝てしまう。用意される酒は神に捧げられるお神酒である。その隙に、スサノオは自らの十拳剣でオロチをズタズタに切り殺す。

 オロチの尻尾から一振りの剣が出現、スサノオはその剣を高天原のアマテラスに献上する。その剣が、三種の神器のひとつである「草薙の剣」である。
 オロチから出てきた大刀の「都牟羽」は渦の模様のついた刃の意か。旋風(つむじ)などの渦状(つむ)と関係があるだろう。「羽」は刃。「大刀」は刀剣の総称で、ここでは剣。この大刀は、ヤマトタケルがヤマトヒメから賜った「草薙の剣」と同じで賊に火攻めに遭ったとき、草を薙いで危機を逃れたという説話がある。本来は「臭蛇(くさなぎ)」の意。「臭(くさ)」は強いものにつける醜名(しこな)である。

【古事記】 しかして、速須佐之男の命、その御佩かせる十拳劔を抜き、その蛇を切り散りたまひしかば、肥の河、血に変りて流れき。かれ、その中の尾を切りたまひし時に、御刀の刄毀けき。しかして、怪しと思ほし、御刀の前もちて刺し割きて見そこなはせば、都牟羽の大刀あり。かれ、この大刀を取り、異しき物と思ほして、天照大御神に白し上げたまひき。こは草なぎの大刀ぞ。

 合気道開祖植芝盛平は、古事記にスサノオの大神が天上界を追放されたことが書いてあるが、宇宙経綸のため営みの世界を果たすためには汚れが出ることは当然のことで、汚れが出てヤマタノオロチの姿も現われてきたのである。
 スサノオの大神とは、その体はすべての気の神であり気の動きそのものである。暴風雨、天変地変もスサノオの命の気の現れである。ヤマタノオロチは全世界の汚れより生まれた有様で、つまり世界のことである。そこで汚れが満ちてきたので、スサノオの命はオロチの腹を断ち割って、中から神剣をとり出し、浄めて、天照大御神にさし上げたのだと説かれた。

 八坂神社(やさかじんじゃ)
祭神は、スサノオ、クシナダヒメ、ヤハシラノミコを祀る。かつて祗園社、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)などいろいろな名前で称されてきた。古くから疫病除けの神として広く信仰を集め、御霊会(ごりょうえ)、現在の祗園祭を行ったといわれる。所在地:京都市東山区祗園町

 冠者殿社(かんじゃでんしゃ)  
祭神は、スサノオの荒魂を祀る。四条通の八坂神社御旅所の西端横に建つ境外末社。所在地:京都市下京区四条通寺町東 

 御供社(ごくうしゃ)
祭神は、スサノオを祀る。二条城近く神泉苑の南の、三条商店街の中にある八坂神社の御旅所。所在地:京都市中京区三条通猪熊御供町

 元祇園椰神社(もとぎおんなぎじんじゃ)
祭神は、スサノオを祀る。新撰組で知られる壬生寺の北にある。京福電鉄「四条大宮」駅5分。 所在地:京都市中京区壬生梛ノ宮町

 綾戸国中神社(あやとくになかじんじゃ)
祭神は、スサノオを祀る。国中社のスサノオの荒魂と、八坂神社のスサノオの和魂が一体になって一つの神になると古文書に記されているという。所在地:京都市南区久世上久世町

 八大神社(はちだいじんじゃ)
祭神は、スサノオ、イナダヒメ、ハチオウジを祀る。 詩仙堂の東隣に位置する一乗寺の産土神(うぶすなかみ)。吉川英治の小説「宮本武蔵」で、武蔵が吉岡一門との決闘に行く途中で立ち寄り、勝運を祈ろうとしたといわれる神社として参拝客が多い。所在地:京都市左京区一乗寺松原町

 大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)
祭神は、スサノオを祀る。桓武天皇が王城鎮護のために勧請した方除厄除けの神社で、北野天満宮近く一条通の商店街の中に建つ。所在地:京都市上京区一条通御前西入

 須賀神社(すがじんじゃ)
祭神は、スサノオ、クシナダヒメ、クナド、ヤチマタヒコ、ヤチマタヒメを祀る。聖護院近く。所在地:京都市左京区聖護院円頓美町
 
 岡崎神社(おかざきじんじゃ)
祭神は、スサノオ、クシナダヒメとその御子五男三女神を祀る。平安神宮近く丸太町通沿いにある。所在地:京都市左京区岡崎東天王町

 粟田神社(あわたじんじゃ)
所在地:京都市東山区粟田口鍛冶町
祭神は、スサノオ、オオムナチを祀る。平安神宮近く三条通沿いに鳥居が建つ。所在地:京都市東山区粟田口鍛冶町

 大将軍神社(たいしょうぐんじんじゃ)
祭神は、スサノオを祀る。桓武天皇が平安京を造営したとき、王城鎮護のため京の四方に祀られた大将軍神社のうちの東南隅のひとつ。また都に入る京の七口のひとつで、三条口にあたる。所在地:京都市東山区三条通大橋東三丁目

 地主神社(じしゅじんじゃ)
祭神は、オオクニヌシ、スサノオ、クシナダヒメ、アシナヅチ、テナヅチを祀る。清水寺の境内に建つ鎮守社で、縁結びの神として信仰を集めている。所在地:京都市東山区清水一丁目

 藤森神社(ふじのもりじんじゃ)
祭神は、スサノオ、ワケイカヅチ、ヤマトタケル、タケノウチノスクネ、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇を祀る。京阪電車「墨染」駅下車5分。所在地:京都市伏見区深草鳥居崎町

 長尾天満宮(ながおてんまんぐう)
所在地:京都市伏見区醍醐伽藍町
祭神は、スサノオ、オオムナチ、菅原道真を祀る。醍醐寺近くに建つ氏神様。所在地:京都市伏見区醍醐伽藍町




続 古事記と植芝盛平(11) ー京の散歩道ー  2016年6月1日更新
師範 樋口隆成

 合気外伝

 合掌の行
 合掌四十分行は禅家の「隻手音聲」を発する手をつくるものであるという。食事前の1分15秒の合掌により体液は酸塩基の平衡状態となって食物の中毒を防ぐ。5分の合掌を行えば一日の無病息災となり、40分の合掌は疾病を治癒する氣の力の掌を得る。
 靴下を脱いで裸足となり、親指を重ねて正座する。身に付けた指輪、腕時計などの金属類を体から外すこと。
 背筋を伸ばして、顔の前で合掌する。合掌の手の指は、中指は第二関節まで、他の指は第一関節が必ず付着するようにすること。
 一度手の高さを決めたら、その位置から下げてはならない。肘が下がらないように注意すること。上がるのは可。
 その状態を崩さず40分間行う。
 合掌の行にて得た掌をもって疾病を治す触手療法ができるようになる。
 触手療法を行う前に必ず毛管運動を行い、また触手療法をした後には封じ手を行うこと。

【古事記】 ここに日子番能迩迩芸命將、天降りする時、天の八衢に居て、上は高天原を光し、下は葦原中国を光らす神 是れに有り。故ここに天照大御神、高木神の命を以ちて、天の宇受売神に詔りたまわれた。「汝は手弱女人で有ると雖えども、伊牟迦布神と面勝神なり。故 專はら汝往って將に問う、『吾が御子の天降りする道を 誰ぞ此の如くに居る』ととへ。」とのり賜いました。故問い賜いし時、答えて白しました。「僕は国つ神。名は猿田毘古神也。出で居る者所は、天つ神の御子天降り坐すと聞いた故に、仕奉御前に仕え奉てまつろうと、參い向え侍ぶらう」と。

 天孫降臨の道案内をするサルタヒコ『猿田毘古神』は、松江市島根町の加賀の潜戸(くけど)で生まれ、後に伊勢の国の五十鈴川のほとりに鎮座する。岩間の合気神社では合気道の守護神として祀られている。
 合気道開祖植芝盛平は語る。この植芝の合気は、大猿田毘古となって、これから進む道案内であります。地上の禊、祓いです。そして、私のうしろから偉い方々が進んで来るのです。これには天照大御神との間に、何か黙約があるのです。今日、こうしてあるために何かあるのです。私はまず武門をながめた姿から入り、神様に「汝、その役をつとめて進んでゆけ」と命ぜられたのであります。このお役目を果せば、私は天に昇るのであります。これから道案内をします。
 
 出雲路幸神社(いずもじさいのかみのやしろ)
祭神は、サルタヒコを祀る。駒札によると「当社は 延暦十三年 桓武天皇 平安京奠都に当り 都の東北鬼門に当るにより 守護神として御造営のところ 御鎮座地域の古称により 古来 出雲路道祖神として 云々」建立年は不詳とある。由緒あるお社を感じる境内である。同志社大学今出川校の東。地下鉄烏丸線「今出川」下車10分。所在地:京都市上京区寺町通今出川上る幸神町

 猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)
祭神は、サルタヒコとアメノウズメの二柱の神を祀る。相国寺の北、上御霊神社の近くにある。ともすれば見逃してしまいそうな小さなお社だが、掃除が行き届いていて清々しい。地下鉄烏丸線「鞍馬口」下車5分。所在地:京都市上京区上御霊前通烏丸東入る上御霊前町 

 猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)
祭神は、サルタヒコを祀る。通称、山之内庚申(やまのうちこうしん)と呼ばれ、三条通沿いに建つ。庚申(かのえさる)の日には参拝客で賑わうという。地下鉄東西線「太秦天神川」下車5分。所在地:京都市右京区山之内荒木町

 早朝、三条天神川の猿田彦神社に参拝した。三条通りと嵐電の線路にはさまれ、こじんまりと佇む神社である。朝早いので社務所は閉まっていて境内に人影もない。庚申(かのえさる)の日には参拝客で賑わうのであろうか、三条通り沿いには赤い幟が所々に立っていた。庚申の日に祀られるのは、「猿」と「甲」が混同された仏教の影響である。
祭神の猿田彦は迩迩芸命(ににぎのみこと)が降臨のときに先頭に立って道案内をした神である。導きの神、邪を祓う神、また開運や厄除けの神、交通安全の神として祀られる。記紀神話によると、鼻の長さ七咫(あた)と非常に高く赤ら顔で、身長は七尺余りと容貌魁偉で、天狗のモデルともいわれる。
昭和38年、木造平屋建てだった東京新宿若松町の合気会旧本部道場の奥座敷で初めて開祖にお目に掛かった。そして昭和43年には、鉄筋コンクリート3階建ての新築なった本部道場に開祖を訪ねると居間の真新しい神棚の前に開祖は座られていた。合気道のお話を伺ううちに話は神代に及び、お祀りしてある神様の御名を「大猿田彦神をお祀りしている」とお教えいただく。 それから53年が経つ。




続 古事記と植芝盛平(12) ー京の散歩道ー  2016年9月1日更新
師範 樋口隆成

 合気外伝

 無息の呼吸法
 無息の呼吸法は、呼吸をしながら呼吸を超越する呼吸法である。吐く息、吸う息は音を立てずに静かに、静かに呼吸にまかせる。それは、鼻の頭に羽毛がひっついて飛ぶか飛ばないかというほどの呼吸である。
 まず身体の力を抜き、左右揺振して、背筋を伸ばして座る。正座でも椅子に座ってもよい。
 肩の力を抜き、目を軽く瞑り、顔の力を抜く。
 からだと呼吸に意識を向け、その様子を感じるようにする。この時、呼吸の長さをコントロールしてはいけない。
 呼吸を只々感じる。
 やがて様々な雑念が浮かんでくるが、浮かんできた雑念は考えないようにする。
 そして、再びいまの瞬間のからだや呼吸の感覚に意識を戻す。
 吐く息、吸う息の感じを只々感じつづけて見守る。
 からだ全体で呼吸をイメージして、いまの瞬間を見守る。
 最後は、まぶたの裏に注意を向けてそっと目を開く。
 無息の呼吸法は、自分自身のからだを忘れ、呼吸だけの世界に入り、天地と一つに同化して、天地そのものが呼吸しているような気持ちとなるのである。


 葦原の中つ国に使者として派遣されるタケミカヅチ『建御雷神』は雷神、刀剣の神で鹿島神宮に祀られる。およそタケミカヅチが葦原の中つ国のこと むけの最後の使者として成功するのは、武神であったためである。この神は中臣(なかおみ)氏の氏神であるので、中臣氏の伝承が加味されたと思われる。
 タケミカヅチは、足を組んで剣の切先の上に坐り、さらにオオクニヌシのもう一人の子タケミナカタと激しい力競べをする。負けたタケミナカタは信濃国の諏訪湖に逃亡するが、タケミカヅチは追跡して、ついに国譲りを約束させる。
 そして信濃国の諏訪から出雲に帰ったタケミカヅチは、いよいよ最後に、オオクニヌシにその本意を問いただす。オオクニヌシは帰順の意を表し国譲りを受諾する。

【古事記】 「恐し、仕へまつらむ。しかれども、この道には、あが子建御雷の神を遣はすべし」とまをして、すなわち貢進りき。しかして、天の鳥船 の神を建御雷の神に副へて遣はしたまひき。 ここをもちて、この二はしらの神、出雲の国の伊那佐の小浜に降り到りまして、十掬劔を抜き、逆に浪の穂に刺し 立て、その劔の前に趺坐て、その大国主の神に問ひて言らししく、「天照大御神、高木の神の命もちて問ひに使はせり。ながうしはける葦原の中つ国は、あが御 子の知らす国と言依さしたまひき。かれ、なが心いかに」

 合気道開祖植芝盛平は語る。、最初は産屋として茨城県岩間に道場をつくった。小さいが世界にひびく道場である。これは神示によって建てられたの である。小さな社しか建てられなかったが、禊の神のご神示によって天降ったのである。その社には五柱の神を奉祭してある。猿田毘古大神のご指示によって 創ったのであって、私の作ったものでない。私を通してはいるが、私は、大神のままに動いているだけである。

 その合気神社に祀られる五柱の神。
 タケハヤスサノオ『建速須佐之男大神』は、荒ぶる神。八岐大蛇を退治する。
 ハヤタケムス『速武産大神』は、スサノオの天叢雲剣の御魂。天叢雲剣は雲気漂う大蛇の尾から出てきたことから村雲の剣と呼ばれる。また草薙の剣とも呼ばれる。 
 サルタヒコ『猿田彦大神』は、天孫降臨の道案内をする神。
 タケミカヅチ『武甕槌大神』は、軍神。大国主命の国譲りに活躍する。
 フツヌシ『経津主大神』は、タケミカヅチの十掬剣の御魂。

 柳生十兵衛三厳は『月之抄』に「鹿島春日御一体なれば・・・春日明神に祈請して得心」し、手字種利剣、水月、神妙剣の至極を会得したと記す。
 鹿島神宮はタケミカヅチを祭神とする。タケミカヅチが、香取神宮に祀られているフツヌシ『経津主神』とともに武芸の神とされていることから、武術の道場では「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた二軸の掛軸が対になって掲げられることが多い。
 合気道の道場では速武産大神が神棚に祀られ、植芝盛平翁の写真が掲げられる。そして植芝盛平翁の気風を慕う道場では祝詞をあげて稽古に励み、年に一度の合気祭で神事を行って植芝盛平翁の遺徳を偲んでいる。
 
 吉田神社(よしだじんじゃ)
祭神は、タケミカヅチ、、フツヌシ、アメノコヤネ、ヒメの四柱の神を祀る。吉田神道の総家で、日本国中の神々を祀る八角形の大元宮がある。京都大学近くの吉田山に建つ。 所在地:京都市左京区吉田神楽岡町

 春日神社(かすがじんじゃ)
祭神は、タケミカヅチ、フツヌシ、アメノコヤネ、ヒメの四柱の神を祀る。平安時代初期の創建。阪急電車「西院」駅下車5分。所在地:京都市右京区西院春日町

 大原野神社(おおはらのじんじゃ)
祭神は、タケミカヅチ、フツヌシ、アメノコヤネ、ヒメの四柱の神を祀る。京の春日さんと呼ばれる洛西の氏神さまで、源氏物語にも登場する。所在地:京都市西京区大原野南春日町



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